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エッセ・クリティク

Esse Critique
Critique 1) critical 2) decisive 3) crucial
工藤龍大

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これは、つれづれに書き溜めたエッセイです。
心が疲れたときに、お読みください。



●海外文学ってなんだ? 1999/09/30


フランス文学者の鹿島茂さんがどこかで嘆いていた。
「今日の日本では、外国文学に対する知的関心が消失してしまった」

専門家がいうのだから、そういうことなのだろう。
だいたい翻訳される海外作家の本じたいは年々少なくなっている。英語の翻訳にたずさわっているので、そのことは身にしみて感じる。市場は縮小傾向になる。
ことはミステリーだけでなく、海外作家が高齢で死滅の危機にあるSFなんかととくにそう。それでも、しぶとく出ているものだと、じつは感心している。
文学系翻訳なんて、滅び行く技能なのかもしれない。需要がないのだから消えるしかない。
それに比べれば、大学の先生など気楽なもので、居眠り学生の耳に眠りを妨げないほどのおしゃべりをしていれば、給料がもらえる羨ましいかぎりだ。
たいていのプロ翻訳家は、そんな不穏なことを考えているのではないか。

でも、やっぱりそれでは空しいと悩むのが、ひとの性(さが)で、鹿島さんも大いに悩んだらしい。
それで、19世紀末フランス人になりきって、時間旅行を楽しむようになった。
てはじめは、洋書希覯本の収集だ。しだいに、19世紀フランス人になりきって、 馬車がほしいとまでおもうようになる。
不思議なもので、そうしたら外国文学をやっている空しさを感じなくなったとか。

いまどきフランス文学を読むなんてひとは、よほどの変物か、仏文科の大学教員になりたい人だけだろう。
フランスの小説は、第一次大戦後からつまらなくなっていて、普通の読者がついていけたのは、サルトルやカミュぐらいだった。
それもおもしろいというよりは、読んでいないとカッコウがつかないというだけだった。
それもいまから20年前くらいで、その前後から一年ぐらいから、サルトルも時代遅れになりつつあった。フランス文学にまじめに知的好奇心をもつひとがいたのは、大江健三郎さんの世代くらいではないか。
それでも一般読者がフランス文学に好奇心を抱いていたのは、渋澤龍彦さんという傑出したコピーライターがサドや奇想文学を持ち出したからで、そのほとんどはとっくにフランス本国では死に絶えていた作家たちだ。
年齢から考えると、鹿島さんの世代はとっくに世間がフランスに興味を失っていた時代に属している。やはり、教員になりたくて、フランス文学をやりたかったのですねと、意地悪く云われても仕方がない。
それでも、鹿島さんがバルザックの翻訳(「役人の生理学」など)をしてくれたり、19世紀フランスの歴史読み物をかいてくれたおかげで、ずいぶん楽しいおもいをさせてもらった。
「泰西文学の輸入仲介業者」という明治以来の学者の仕事は、すでに歴史的役割をおえたわけだけれど、なまの原料を加工して工芸品をつくる加工業者の仕事はやっと端緒についたばかりだ。
この加工業者のことを、文学者というのではないか。

短絡してしまえば、海外文学なんて、あやしいものは要らない。
おもしろい本を書いてくれる文学者がいればいい。
輸入品を単純にありがたがることの愚を卒業して、国産品か輸入品かをとわずに、おもしろいもの、知的価値のあるものをたのしむ時代なのである。
だから、原料が海外であっても、製造場所が国内であって、いっこうにかまわないわけだし、逆もまた真である。原料が海外で、製造場所も海外で、作家が日本人であるという例もりっぱにある。

いまの日本人が傲慢になって、海外文学に知的関心をもたなくなったのではない。
もちろん、アホになったわけでもない。
地球が狭くなっただけのことだ。
繰り返すが、海外文学なんて要らない。
どこの国のだれが書こうと、ほんものの作品しか生き残れない。




●ソクラテスの思い出 1999/09/22


日本では、ソクラテスとふつう呼ばれる人物は、ギリシア語では「ソークラテース」という。この稿では、後者の呼び方でとおしたい。
ソークラテースは、紀元前469年ごろに生まれて、同399年に死んだ。
死因はだれでも知っているように、自殺である。といっても、裁判で死刑を言い渡されて、獄吏から毒をわたされたのだから、厳密にいえば処刑としなければならない。
古代ギリシアでは、よほど民衆から憎まれた犯人でもなければ、死刑といっても毒物をあおって自ら死ぬ決まりだった。世界の刑罰史において珍奇というほかはないが、春秋戦国時代の貴族たちも、罪をうけると、そのようにして死んだ。
東洋と西洋をとわず中世以前の小規模な都市国家では、都市共同体の正規メンバーについては名誉ある自決が求められたのかもしれない。もちろん、アテネ市民であったソクラテスは都市国家のれっきとした構成員であったし、春秋戦国時代の都市貴族もまたそうである。またどちらも場合でも、共同体の構成員とは認められていない都市住民がいることになるが、事実そのとおりで、それが平民、外国人、奴隷であったりする。

ここでは、ソークラテースの死刑について考えることが目的ではない。
ただ古代ギリシアが現代人にとっては、ちょっとなじみ難い異質な社会だということを強調したくて書いた。

ソークラテースが死刑にされた表向きの理由は、「青少年を堕落させた」というものだ。
もちろん、ただの言いがかりで、いまだにアテネの法廷は世界の哲学者から評判が悪い。当時のアテネ市民の弁明の余地があるとすれば、ソークラテースの弟子のなかから悪名高い煽動政治家がでた。なかでも悪名高いのは、アルキビアデスとクリティアースだ。
アルキビアデスは無謀な軍事遠征をくわだて失敗すると、国内の非難をおそれて外国へ逃亡した。しかも、亡命先の外国がアテネを攻撃する手助けをした。
それも、一度や二度ではない。
ゆく先々でトラブルをおこして亡命先を転々とせざるをえなかったが、そのたびに新しい亡命先でアテネを攻撃する野心を民衆や支配層に吹き込んだ。
いっしゅの保身である。アテネと亡命国が不仲であれば、自分の居心地がよかった。あまりにも、身勝手なこの男には一片の同情も感じられない。
クリティアースは仲間と語らって、ペロポネソス戦争に敗れたあとにアテネの占領統治にあたったスパルタ軍と結んで傀儡政権をつくり、むちゃな専制政治をはじめた。ひともずいぶん殺した。
アテネ市民にとっては、このふたりは憎んでも憎みたりない敵だった。
クリティアースたちの独裁政治を反乱で打倒して、スパルタ軍を追い払うことで、アテネは解放された。あとには、粛清つきの恐怖政治におきまりの精神的荒廃だけが残った。
荒廃しきった市民たちの心は、マスヒステリーにおちいった。
ソークラテースを弾劾裁判にかけたのは、自分たちを悲運の落とした時代風潮を断罪して、みそぎをやるつもりであったようにおもう。時代風潮とはもっとも無縁な哲学の祖が、やり玉にあがったのは、世界史的にみて不幸というしかない。

処刑されたソークラテースに鞭うつかのように、ひとりの弁論家(ソフィスト)が非難文書を発表した。

ふたりの若い弟子が、師ソークラテースの名誉のために筆をとった。
ひとりはもちろんプラトーンである。(こちらも、プラトンという通称よりも、原語にそって表記する。)
「ソークラテースの弁明」「クリトーン」「ファイドーン」というプラトーンの初期対話編に語られたソークラテースの最期の姿は、感動とともに現代に伝えられている。

もうひとりの弟子がいる。
名前はクセノフォーンという。西洋哲学の最大の偉人となった相弟子にくらべれば、有名ではない。
だが、軍人・著作家としては有能な男で、プラトーンほどではないが、おびただしい本を書いている。ペルシア王家の反乱に巻き込まれたギリシア人傭兵部隊の敵地からの脱出行を描いた「アナバシス」がいちばん有名だ。

だが、それよりももっと読まれているのが、師を弁明するために書いた「ソークラテースの思い出」だろう。

そのなかで、クセノフォーンは、ソークラテースがどのように弟子とつきあったかを描いている。

ある才知すぐれた美少年が、当時としては高価でもあり入手しがたかった書物をたくさん集めて読破して、自分ほどのものがないと思い込んだ。
大人たちが集まって政治談義をする<アゴラ>という中央広場に入る資格が、未成年の少年にはない。
そこで、人の目にとまるために、<アゴラ>の前にある店先に終日座ることを常とした。鞍屋だというから、ひとが立ち寄ってしげしげと馬具をみるのにつけて、自分の存在をアピールしようとしたのだとおもえばいい。

ソークラテースはそのことを知ると、弟子たちをひきつれて聞こえよがしに少年をあてこすった。それも何日も何日も繰り返した。
少年は知らぬふりをしていたが、やがてじっと話に耳を傾けるようになった。だが、黙っていることで、かえって自分を考え深い人間だと演出しようとしていることを、ソークラテースは見逃さなかった。
「将来、弁論で身を立てようという人間が、師にもつかないず、議論のしかたも学ぼうとしないのは、馬にのらないで乗馬をならうようなものだ」
と、またあてこすった。
少年はソークラテースの仲間の会話に加わるようになった。
すると、ソークラテースは少年がいつも座っている店先にやってきて、徹底的にやりこめる。少年はすっかり高慢の鼻をくじかれて、以後は熱心な弟子となった。

この話を書いたクセノフォーンにも、こんな話が伝わっている。
かれもまた眉目秀麗な美青年だったらしい。
ある細い道で、ソークラテースといきあった。すると、ソークラテースは杖で青年の行く手をさえぎり、哲学問答をしかけた。
買い物帰りのクセノフォーンが手にしていた品物ひとつひとつをついて、それがどこで買えるかと訊いた。ギリシアでは、買い物は男の仕事であって、日常雑貨も男が買ってくることになっている。
クセノフォーンは生真面目な男だったらしい。その問いにひとつひとつ答えていった。
最後にソークラテースは訊いた。
「どこへいったら、人間は善で美しくなれるのか」
答えられずにいる青年に、ソークラテースは、
「それでは、わたしについておいで」
と、声をかけた。
その日から、クセノフォーンはかれの熱烈な弟子となった。

ソークラテースは、当時のギリシア人の例にもれず、同性の美しい青少年が好きだった。
この習癖は、弟子のプラトーンも有名である。
たぶん、こうした傾向がなければ、教育などできないのだと、当時のギリシア人は考えていた節がある。
ただし、ソクラテスに限っていえば、肉体的なその種の関係を結んだことは記録にはない。
現代の同性愛とはよほど違ったものであるとおもわざるをえない。

ただ教育という言葉から今日感じられる「つきはなした」語感とは、ぜんぜん別種の生理的な親和性ともいうべき感情の交流が、ソークラテースとその弟子たちのあいだにはあった。さきのふたつのエピソードは、そのあらわれであろう。
その魂の交流について、古代ギリシア語のボキャブラリーは「恋」または「愛慕」という表現しかあたえなかった。

じつは「友情」という言葉は、ヨーロッパの近代が生み出したもので、それ以外の文明社会では、そうしたたぐいの感情がなかったはずはないのだが、的確に表現する言葉がなかった。英語の”LOVE”という単語に相応する日本語がなく、仏教では決してポジティブな意味をもった表現ではなかった「愛」という言葉をあてざるをえなかったことと似ている。

ともかく、ひとと出会うこと、「魂をはぐくむ」ことは、そうした強烈な感情レベルの共鳴がなければ不可能なことだ。

クセノフォーンは、相弟子のエピソードを借りて、自分の体験を語っていたに違いない。
おそらく、ソークラテースのアプローチは、現在伝わる口碑ほど単純で、突発的なものではなかったはずだ。
クセノフォーンは、理想的なギリシア人と考えられている。
そのかれが終生、敬愛しつづけた師は、後世の評判や影響とはまったく別個に、若い魂をインスパイアさせた「心の友」であった。

若い自分たちに「こころ」を通わせる努力に、いかに老いた「真の友」が心胆を砕いたか。そのことを、クセノフォーンは齢を重ねるほどにいよいよ痛切に感じた。
もしかしたら、この男の著作は「真の友」の努力の継続という意味合いもあったのかもしれない。

人の世を渡るとは、「ひと」と出会うことだ。出会うためには、かなりのエネルギーがいる。疲れたなどといってはおれない。
「生きる」ということの本質は、いまも昔も変わらない。



●千日、峰々を走る 1999/09/18


先日、新聞で千日回峰行を達成した三十一歳の僧侶が紹介されていた。
吉野の金峯山寺では戦後二度目の快挙だという。
終戦から半世紀もたっているから、もっといてもいいとおもうが、どうもそれほど簡単な話ではないらしい。チョモランマを登頂した登山家はもっと大勢いるはずだから、同じ山歩きといっても次元が違う。
千日回峰行ではもっと有名な比叡山であっても、とうぜんのことながら、戦後の達成者の数は一桁であろう。
この行は三年以上かけて真言(マントラ)を唱えながら、山内を駆け回るというもの。不慮の事故や、病気で挫折したら、行者は自栽しなければならない掟だ。だからヒマラヤ登山のほうがよほど気が楽だといえないこともない。
回峰行は、日本固有の山岳信仰と、中国古代道教と、仏教のそれぞれの要素が分かち難く融合してできた行法だ。おそらく日本人の遺伝子に、これほど宗教的な高揚感と厳粛さを沸き上がらせる儀式はないのではないか。

千日回峰行というと、条件反射のように隆慶一郎の「風の呪殺陣」のラストシーンをおもいだす。
織田信長が比叡山を焼き討ちして、伊勢長島につづくジェノサイド作戦を決行したのちの話だ。山内の堂宇がすべて灰燼に帰したのち、ひとりの若い僧が死者の菩提を弔いつつ、千日回峰行をはじめるところで、小説は終っている。
信長を呪殺しようとして、ついに死者たちに憑りつかれて悶死する男が主人公の暗い小説ではあるが、このラストが救いとなっている。
作者隆慶一郎は千日回峰行を達成した大阿闍梨から「仏法が人を殺すか!」と大喝された。隆はこの作品を破棄して新作を書く準備を進めていたという。
「小説家として、たいへんな過ちを犯してしまった」
隆慶一郎には、悔いと自分に対する疑惑が胸の中に巣食っていったに違いない。

金剛峰寺の青年は、十九歳で仏門に入り、二十三歳からこの行にとりくんだという。
世間での暮しに違和感を覚えたことはまちがいない。
その感覚に対する解答が、千日回峰行であった。
少なくとも、今のところ、青年にはそのことに対する迷いはないようだ。
だが、少年といっていい年齢で実社会を離れ、修験道へはいったことが、気にかかる。
もう少し浮世の冷たさを感じたほうがよくはなかったか。いや、世間というものの優しさを――というほうが正確かもしれない。
いや、こんなことは、老人の繰り言めくからやめておこう。


鎌倉時代に書かれた仏教説話集「沙石集」を開いていると、おもしろい記事をみつけた。
「神明道心を貴び給ふ事」
――と、その記事にはある。

滋賀県にある三井寺は、その成立過程からして、比叡山延暦寺とは仲が悪い。
たがいに僧兵という軍人をかかえて、たえず戦闘をくりかえしてきた。琵琶湖水系の水運の中心地、坂本を経済基盤とした比叡山のほうが、武力・財力ともに強大であり、三井寺はしばしば敗北して焼かれた。
この記事の話を、そうした事件の後日談だ。
三井寺は焼け落ち、僧たちは離散した。
そんななか、ただひとりの僧侶が境内の新羅神社に参篭した。
当時は、神仏習合があたりまえだから、仏教だ神道だというしち面倒な区別はない。僧侶にとっては、神も仏も拝むのがあたりまえであった。

僧侶は夢で祭神新羅明神をみた。
驚いたことに、祭神はひどく機嫌がよかった。
なぜと、当然のように、僧侶は訊いた。堂宇が焼け落ち、寺は無人になりはてている。
神仏を悲しませこそすれ、機嫌がいい道理がない。

すると、祭神は答えた。
「おまえのように、道心をもつものがいてくれたことが嬉しい」
道心とは、この場合、宗教者としての覚悟、自覚という意味であろうか。当然だが、そのことには、神仏を熱烈に信仰するという言葉そのものの原義も内包している。
続いて、祭神は云った。
「堂塔や経文は資金ができれば作ればよい」
「菩提心をおこせる人(意訳だが、『ほんとうの宗教者として生きる覚悟のあるひと』)は、千万人の中にもいるかどうか(わからないほどだから、貴いのだ)」


この言葉を、現代風に言い換えるとどうなるだろう。
「集団の本質は、設備やインフラの質や多寡ではなく、人材につきる」
そのような日本的な組織論や経営方法のもっとも根源的な理念を、新羅明神のことばを借りて表現しているとおもいたい。

だが、もちろん、それだけではない。
「神や仏と本気でコンタクトしたいとおもう人間など、じつはほとんど存在しない」という苦い人間洞察が、祭神の言葉にはこめられている。
宗教家がその職業を選ぶに当たって、「聖なる存在とのコンタクト」や「魂の救済」というお題目とは別個の理由が確たる動機としてあることは、鎌倉時代も現代もたいして違いはない。


青年はたぶん「ほとけ」をみた。
そのことは、嘘でもないし、幻覚でもない。
百歩譲って物理的事実ではないとしても、「こころ」の事実であることは確かだ。
ありていにいえば、人間はどんな物質主義者でも物理的リアリティの世界で生きているわけではなく、「こころ」のつくりだす相互主観性のなかでしか存在しえないわけだから、どっちにしても同じことだが。

「ほとけ」をみた青年を、これから世間とつきあっていかなければならない。
それは、とんでもなく難しい道だ。世間は青年に名誉と栄爵をあたえ、その道心を奪い取る作業にとりかかるだろう。
回峰行の行者道よりも難しい、世の中の「けもの道」が青年を待っている。

青年を栄爵の陥穽から護ってくれるのは、「ほとけ」を見たという記憶だけかもしれない。



●本を呼び込む超能力 1999/09/12


世間ではあまり知られいないことだが、本というものは「招き寄せる」ことができる。
もし、ほんとうにある本が読みたいとつよく思うと、絶対に手に入る。わるくても、閲覧して読むことはできる。借りて読んで、欲しさがつのった本はいかに高価であっても必ず買うことができる。
たとえ部数が希少な本であっても、これは可能である。

世間にはそうした超(?)能力をもった人間が結構いる。
かくゆう「わたし」もそうだ。知り合いにもいる。たぶん、物書きさんや本好きにはかなりの確率でいるはずだ。
たぶん蔵書が千冊をこえたあたりで、どうやら徐々に身につく能力らしい。
これは経験則なので、普遍性があるかどうかはわからない。
ただし、この超能力の持ち主は例外なく大変な蔵書家だから、数値には若干誤差があったとしても、妥当な意見とおもってくれるかもしれない。
そうしたことを何故だろうと考えた。
大変な蔵書家でもある一友人の言葉によると、「本が本を呼ぶ」のかもしれない。
金が金を呼ぶというのが、利殖術の第一歩だから、そうした考えもあながちウソではないような気がする。
だから、漠然と本が本を呼んでいるんだなと考えることにした。

ついこのあいだ、TVで司馬遼太郎の紀行エッセイ「街道をゆく」をみた。
あの膨大な紀行を、NHKはシリーズとして丹念に映像化している。いろいろ批判はあるにせよ、こんな体力があるのは、いまのTV界ではNHKだけだろう。
その回では「神田界隈」を取り上げた。古書店の集まる神保町にカメラが入った。
ナレーションで、原作の文章が流れる。

「本というものは、図書館などに蔵書として収まってしまうまでは、
生き物として世間を歩きまわっている」


そうか、本は世間を歩きまわっているのか。
伝説によれば、司馬さんは、新しい長編小説を書くたびに、一トン・トラック一台分の史料を集めたという。その司馬さんの言葉だから、軽々しく聞き流せない重みがある。

本は「生き物」だ。
だから、仲間をもとめて、集まることもあるだろう。
誰かが切に呼びかければ、「おう」と声をかけて、やってきてくれる。
自分を大切にする「友」だとわかれば、馳せ参じても来る。

なるほど、司馬さんはうまいことを云ったものだ。

そういえば、所用で降りた駅の見知らぬ本屋や古本屋になにげなく入ると、長年探していた本にひょっこり出くわすことがある。なにげなく入るといったが、正確ではない。
どうしてだか、入りたくなって、気になってしかたがない。そこで、立ち寄ってしまうわけだ。
「おい、寄ってけ」と、本に呼ばれたとしか考えようがない。

気分が鬱屈して、道を歩いていると、どうしてだか、通りすがりの本屋に入ってしまう。
習慣的に本棚を眺め渡していると、どうしても手にとりたくなる本があって、いったん手にとると、買わずにはいられない。つい買ってしまう。
そのまま家に帰る気もしないで、喫茶店や深夜まで営業しているコーヒーショップに入って買ったばかりの本を読み出すと、驚いたことにその本には気鬱の原因を癒してくれる言葉が必ず入っている。それも、頁をぱらぱらとめくっていると、わずか一行から数行のそうした言葉が目に飛び込んでくる。
まるで、旧友がいきなり目の前に現われて、愚痴をきいてくれ、慰めてくれているような気がする。
それも、押し付けがましいところのいっさいない、含羞にみちたいいやつである。

世間を生きて歩きまわる本は苦労人だ。
重い気持ちで打ちひしがれているやつをみると、優しく声をかけずにはいられない。



●唯脳論にたいする素朴な疑問 1999/09/11


おおげさなタイトルをつけたけれど、じつは『唯脳論』についてはよく知らない。
だから、ここに書くことは、ちまたに流布する俗流的な『唯脳論』についての考えたことだ。ほんとうは違うといわれたら困るので、最初にお断りしておく。

わたしが理解するかぎりでは、通俗的『唯脳論』では、身体は髪の毛から小指の先にいたるまで「脳」であるという。つまりは「脳」が処理する情報であるにすぎないということだ。
さらに進んで、周囲の道具も、「脳」の延長であるから、「脳」の一部だとする。もっとこの考えを推し進めれば、環境も自然もすべて「脳」に含まれる。自然は、人間があるからこそ存在するので、「脳」がなければ無意味だということになる。
じつはすこし哲学史をかじると似たような考えはめずらしいものではなく、唯我論とよばれる立場と同じだとわかる。
たぶん、ほんとうの『唯脳論』を考えているひとは、こんな粗雑な議論はしていないとおもうので、以上はあくまでも個人的な理解にすぎない。

こうした俗流唯脳論に危惧をかんじるのは、近代人特有の思考が色濃く滲んでいるからだ。
それは大きくわけて、二つある。
ひとつはすべてを支配し、コントロールするべき存在が<ものごと>の中枢にあるべきだという考え。
もうひとつは、真実は表面にはあらわれずに、<ものごと>の内部にひっそりと隠されているはずだという考えだ。

最初の考えは、一神教のキリスト教に胚胎して、近代官僚制度が発達した西ヨーロッパで生み出されたものだ。中世キリスト教徒やイスラム教ではそうした思考はじつは異質のものであった。これは近代の発想なのである。もっとも、その近代とはルネサンス以降であるが。
第二の考えは、神秘主義として古代から存在した。
しかし、社会の通念として、この見方が広まったのは、自我意識がめばえる近代からのものである。そのことは、東洋と西洋をとわない同時発生的な事件だった。
身分制社会という桎梏とはべつに、社会的権威とは離れて、個人には自立的な思考をする権利があるとする個人意識がめばえなければ、この種の考えは寄ってたつ基盤を失ってしまう。

このように話をすすめると、なにがいいたいかは、鋭い読者にはおわかりだろう。
つまり、このふたつの考えは、デカルト的な理性主義の落とし子であり、一極集中的な中央官庁統制主義の幻想だということだ。
いままさに破綻しつつある近代そのものの「風刺的な戯画」として、俗流唯脳論をみることができるといいたいわけである。

だが、マルクスがヘーゲルをひっくり返したように、「俗流唯脳論」そのものをひっくりかえしてみると、おもしろいことになる。
孤独な灰色の「脳細胞」が森羅万象をパラノイアックに支配するかわりに、宇宙に存在するありとあらゆるものと共鳴しながら、全体論的で有機的なネットワークを形作る「脳」というものがイメージされる。
もし「こころ」が脳細胞の電気的インバルスにすぎないとしても、それは偶然で末梢的な微細なインパルスではなく、宇宙そのものと等しい超巨大なシンセサイザーのインパルスである。
森羅万象が相互にフイードバックしながら、人間の身体においてはDNAレベルの細部にまでおよぶ<全体性>において調整が図られているメカニズム。(DNAすらも、生体をとりまく電磁波、化学物質との相互干渉を免れない)。
そのなかでは、「脳」の絶対的な主権は否定される。
「脳」だけが人間であるという幻想は破壊される。

人間の価値が「脳細胞」にしかないなら、故石森章太郎氏描くところのハカイダーみたいな孤独な半機械こそが人間の真実の姿だということになる。ハカイダーの頭部にある半透明のボールに入った脳細胞は、機械の身体に囚われた虜囚みたいなものにみえた。

自我の孤独にとらわれた「俗流唯脳論」の疎外されきった脳細胞が、宇宙的ネットワークの結節点のひとつに解消され、人間の身体の尊厳が復権される。
――そんなことを夢想してみた。



●歴史作家、独り言つ 1999/09/10


ものを書いていていやになるのは、手垢がついて穢れ腐食しきった言葉や、マスコミが垂れ流す「世論」に、自分がどんなに染まりきっているか、わかってしまうときだ。
世の中には、あたまのいい人がいっぱいいて、ものごとの一面をみて、便利な言葉を考え出してくれる。
マスコミという便利な仕組みが、それを世の中に広めるスピードをいよいよ早くする。
なんの気なしにテレビをつけっぱなしにしたり、電車の吊革広告を眺める癖が、サブリミナルな刷り込みを助長する。
自分は、なんでも知っている――りっぱな錯覚だけど、それから逃れることは難しい。 でも、なんにも分ってはいない。
せめて、そのことだけは自覚していないとダメだと自戒する。

言いえないものを言葉にするには、忍耐が必要だ。
そのためには、とにかく、キーボートの前でがんばるしかない。
だめだったら、散歩にでもいって、言葉が浮かぶのを待つ。
「忍耐」することは、ガーディニングだけでなく、ものを書くためにもたいせつな作業だ。
第一次産業だけではない。料理もそう。
陶芸からはじまって、宇宙工場衛星で自動制御機械による半導体製造にいたるまで、ものをつくることは「忍耐」がなけなれば出来るものではない。
でも、言葉を書きつらねて「もの」をつくることは、農業や林業のような、あるいは狩猟や漁業のような、第一次産業のほうにずっと似ている。

いわく言い難いものこそ、いちばん「大切なこと」だから、それをなんとか「ひと」に伝えなければしかたがない。なんとか、言葉にしてみよう。

カンタンな、ありきたりで、手垢のついた言葉だけはやめておこう。
それでは、考えることにはならない。感じることにはならない。
自分の考えと、感性を摩滅させるいちばんの近道だ。

考えと感性をなくしてしまったら、残ったものにはなんの値打ちもない。



●荷風の背広 1999/08/24


両国の江戸博物館で開かれた「永井荷風の世界」へゆく。
「夏休みの自由研究にしようとして、こどもたちであふれているのでは」
などと、一抹の不安を抱いたが、そんな殊勝な少年・少女はいるはずもなく、場内はじつにひろびろとしていた。TVカメラをかついだ「業怪人」のおっさんと太りまくった助手が、メモを片手にした若い女性にひきつれられて場内を撮影している。
学芸員らしい人物がかれらになにごとかを説明していた。
ときおり、ひとを押しのけていやに熱心に説明文を読むバアさまたちに邪魔されたほかはのびのびとみてまわれた。


館内ではやたら詳しそうなジイさまは別として、シルバー世代のカップルはバアさまたちが熱心に見ているのにたいして、ジイさまたちはじきに興味をなくして休憩用の椅子に座りたがる傾向があるようだった。日本では男の寿命が女にはるかに及ばないのも無理はない気がする。


それにしても、すごい展示会だった。
荷風の伝記や、研究書でみたことがある遺品がこれでもか、これでもかと出品されている。ないのは、荷風が歩き回った地面と街くらいなものだ。
荷風ファンは狂喜したに違いない。
荷風と歌舞伎役者左団次が共同製作した陶器から、荷風自筆の短冊、掛け軸まで、およそ荷風本愛好者ならなにかの本で必ずみたはずのものがほとんど展示されている。
晩年の自炊生活に愛用した鍋、釜、七輪に米ビツまであった。


終焉をむかえた市川の家にあった机、硯、顔料入れ、髭剃り、文房具のたぐいも展示されていて、おもわずにんまりした。わたしは文房具が好きである。愛好家(マニア)といってもいい。荷風が先をなめなめ書いたという鉛筆まである。
これは第二次大戦中に焼け出されて、旧居「偏奇館」をうしなったあとの時代のものだから、戦時中の名作「墨東綺譚」を書いていた文房具ではないだろう。当時、荷風は毛筆で執筆していた。それでも、日記文学の傑作「断腸亭日乗」や私家版「腕くらべ」などは、この道具で書いたはずだ。
「断腸亭日記」はものの本に書いてあるとおり、きれいに雁皮紙に筆で清書されて、きれいに製本されていた。鉛筆画らしい巧みなスケッチが挿入されている。
荷風はかなり絵心のある人だった。
それにしても、よくもこれほど手間をかけたものだ。マニアックな情熱を感じて、快感である。


荷風が「断腸亭日乗」を朗読するテープもあった。
博物館によくある頑丈かつ超シンプルなボタンつきの音声再生装置がすえられてあって、ボタンをおすと荷風の声が流れ出した。
どこかで聞き覚えのある声だ。
記憶をたぐると、映画「帝都物語」に主演した俳優嶋田久作そっくりだ。朗読があまりにもへたくそなので、まさか俳優が代読しているわけではないだろう。
いがいなとりあわせに感心して、何度もきいてしまった。
そういえば、荷風と嶋田は体型、頭骨、顎のかたちがよく似ている。外国映画の吹き替えをするときも、外国人俳優と顎や顔のつくりが似ている声優を選ぶそうだ。


街を散策するときに愛用したコウモリガサ、買い物篭、下駄、背広も展示されている。三つ揃えの背広には、財布にずっと入っていたという仕立て代金の領収書も添えて展示してあった。
店の名前は、市川の巴里洋服店。
代金は2万3000円。日付は、昭和30年5月21日である。
当時としてはかなりの額だったはずだ。そのころ生きていないので、断言はできないが、大学卒業生の初任給をかるくうわまわっていたのはたしかだ。
そんな高級スーツをきて、荷風は戦後の浅草を歩き回った。あてもなく、ふらふらと歩く。「ほっつきまわった」というやや軽侮をこめた表現がぴったりする。
しかも、足もとは下駄ばきだ。全財産の預金通帳と印鑑をいれたボストンバッグを手にぶらさげていたが、ときにはそれが買い物籠のときもあった。
異様な姿――というほかはない。
荷風は身長が178センチあった。
このごろでは長身とはいえないが、当時では巨人の部類だろう。
かなり「アプない人」にみえたことはまちがいない。
お世辞にも親しみやすい風貌・人柄ではない。
口を結んで、しかつめらしく新聞などを読んでいれば、大会社の重役とも大学教授ともみえる。じっさいに、若いころには慶応大学教授だったのだから、それも当然か。
しかし、口をひらくと、前歯がまとめてかけているので、なんだか間の抜けた印象になってしまう。
どこかチグハグなのである。
荷風というひとは、このアンバランスが魅力なのかもしれない。


背広とならんで、白い夏服に、カンカン帽がある。
これは当時のサラリーマンの夏向き制服みたいなものだった。麦わら帽子みたいなこの帽子と白い夏服は、当時を舞台にした映画では定番である。いまでは着るひともいない。
そのとなりには、襟巻きをかけた厚手のコートがある。荷風は夏物と冬物を交互に質屋にいれていた。金のためではなく、質屋の蔵を箪笥かわりにしていたとのことだ。
学芸員の親切か、質草の出し入れの記録が並べてある。なるほど、そのとおり。
荷風の爺むさい独身者ならではの、合理主義に感服する。しかし、真似はしたくない。


衣類といえば、荷風の愛人「関根 歌」の和服用コートも展示されていた。
きれいなブルーが眼に鮮やかである。
歌は荷風の愛人としては、もっとも長く交流のあったひと。元芸者で、身請けして愛人として囲ってから、昔のラブホテル「待合」を経営させた。
これはかるく飲食して、男女が情をかわす場所である。現代のラブホテルのような装備はないかわりに、それなりの情緒はあった。
荷風は「待合」の装飾品「枕屏風」をせっせとつくらせた。これは低い屏風に、扇子型の色紙に絵と俳句などを描いたものをはりつけたもの。遊郭など、男女が情事を目的とした場所にはかならずおかれた調度品である。
利用客は、文豪自筆の絵や字にはさっぱり気づかなかったにちがいない。

関根 歌は、ひかえめで好ましい人柄だったので、荷風は満足していた。
だが、荷風の日記「断腸亭日乗」では精神病を発病して、やむなく別れたとある。
わたしもそうだとおもっていた。

ところが、先ごろ松本 哉氏の「永井荷風ひとり暮し」という本を読んで、いがいな事実をしった。
関根 歌は精神病ではなかったのである。
歌が発病したとされるのは、荷風の面前でいきなり昏倒して病院に入院してからだ。担当した医師が、歌には不治の精神病の疑いがあると診断した。荷風は面倒をおそれて、歌と手をきることにした。
ところが、松本氏の調べでは関根 歌の失神はけっして精神病などではなかった。歌は酒に酔って気分が悪くなって、倒れたというのである。
主治医の診断は、誤診であった。
もと芸者がなぜそんな悪酔いをしたのか。しかも、なぜそのことを荷風や主治医に言えなかったのか。
察しがいいひとはもう気づいたであろう。
歌には若い愛人がいた。
昼間、その男と密会して、酒をのみ、帰宅したところに、ひょっこり旦那の荷風がやってきた。歌は驚いて、酔いをおし隠して、かいがいしくわがままな旦那の面倒をみた。無理があった。耐えられないほどの緊張に、肉体が反逆した。
芸妓であった歌としては、まったく不覚千万にも酔いを発して倒れてしまった。ほんとうの理由など、いえたものではない。
その後、なんとかよりをもどそうとしたが、相手を病気だときめつけているエゴイストの荷風には通じない。けっきょく、いくばくかの手切れ金をもらって別れた。

だが、その後も関根 歌は荷風の自宅をたずねたり、路上でいきあったりとなにかと荷風と縁があった。老いて孤独となった荷風は、歌の訪問にこころ慰められたらしく、感慨めいたものを日記にしるした。つきあった女たちについては、冷徹な観察者でしかなかった荷風にとってはめずらしい。


関根 歌の青いコートは、荷風の着物をしたてなおして洋装にしたものだ。
年の離れた旦那の着物をしたてなおして身につける。それほどつつましい女が、まさか若い愛人をつくっていたとは、荷風には想像もできなかったに違いない。
写真にのこる関根 歌の容貌はさみしげであるが、荷風が日記で書いているような不器量ではない。おとなしく、優しげで正直そうだ。人間的に好ましいタイプにみえる。
そういう女でも、愛人をつくりたくなるような、やりきれない部分が荷風にあったに違いないことは認めざるをえない。


荷風の背広と、関根 歌のコートをみると、すでに故人とはいえ、なまなましい生きた人間の体温がガラスケースごしに伝わってくるような気がする。
ふたりの男女の肌のぬくもりが、時空をこえて伝わってくるようだ。
その気分はけっして悪いものではない。



●ひと、書物とであう 1999/08/06


こんな話を読んだことがある。
老ビジネスマンがある人の講演を聞いて、フランスの文豪の短編を読むことを思いついた。高名な財界人がその作品を愛読しているという。老ビジネスマンはその財界人を尊敬していたので、興味をおぼえた。少年時代に読んだはずだったが、ふたたび読んでみる気になった。ストーリーも完全に忘れ果てていた。
さっそく書店に注文したが、届いたのがフランス語の原書だったので読むことができない。そこで、むかし商社にいてフランス語が読めるという老人に、知人をとおして翻訳を頼んだ。
すると、元商社マンはさっそく翻訳して、老ビジネスマンのオフィスへ原書と翻訳原稿を持参した。元商社マンは「こんなすばらしい作品だとはしらなかった。よい作品を教えてくれた」と涙をうかべて、感謝したという。

はじめて、この話を読んだとき、素直にいい話だと感動した。
本とは、こうやって読まなければいかんと、怒涛のように感動したのである。
どうも、われながら単純だなぁ。
しかし、ちょっと前から、なにかひっかかる。なにかおかしいような気がしてならない。
そのおもいについて、書く。

さて、問題の作品はプロスペロ・メリメの「マテオ・ファルコーネ」である。
岩波文庫にもはいっている有名な作品だ。意外なのは、こんなありふれた本をなぜ原書でとりよせてしまったのかということだ。
店員もよほどぼけているとしかおもえない。
世界名作文学全集にだって入っている作品だから、わざわざフランス語の原書をとりよせる手間を考えれば、そちらをすすめたらよさそうなものだ。
だいたい世慣れた爺さんが、読めもしない外国語の本を注文するなどということがありえるのか。
だが、あったと仮定して話をすすめよう。
想像をたくましくすれば、こんな可能性がおもいつく。
洋書も和書もとりあつかって、全国のビジネス街に支店を網羅している大手書店。あそこなら、こんなこともおこるかもしれない。しかも、その書店は老舗で、高級輸入文具や高級紳士用品もあつかう。老ビジネスマンはそこの高級文房具店や高級紳士用品部門のお得意だったに違いない。
年齢からいって旧制高校出身のエリートだろう。
すこし酷だが、旧制高校出身者の見栄から原書を注文したと考えられなくもない。
こんなことを勘ぐるのも、げすなことだ。
だが、もう少しだけ我慢しておつきあい願いたい。

この老ビジネスマンが、高級紳士用品も販売する有名洋書店のお得意だったと仮定してみる。この人はパイプとか、輸入ゴルフ用品や高級万年筆なんかを買うので、この店によく出入りしていた。
たまには書店部でビジネス書も買っていたかもしれない。それも「だれにもわかる〜〜」というハウツーものではなく、ハイソなビジネスマンたちが評判にするようなビジネス本だ。
ただし、岩波文庫などを手にすることなどは、大学を出てからたえてなかったに違いない。
この国の偉い老人たちの大多数のように、読書とは無縁な人生を送ってきたことだけは間違いない。本好きなら、こんなまぬけなことは絶対にしないはずだからだ。

それをいえば、フランス語を翻訳した元商社マンも同じだ。メリメの原文を読める読解力がありながら、翻訳書があるはずだと考える常識が欠如している。 このひともたぶんフランスで有能な商社マンとして活躍してきた口だろう。仕事いがいのことは、あんまりしてこなかったにちがいない。定年後はどんな暮しをしているのかだいたい想像はつく。
ひどく人の悪い云いかたをすれば、「どこか惚けた爺さまたちだ」ということになる。 きっと重たい肩書きのついた偉い人たちだったに違いない。

はじめて読んだとき、「いい話だ」とおもった。だが、考えてみれば、企業社会で成功した老人たちが文学などというジャンルとはひどく無縁なところで生きていた事実がかえってわかってしまった。この出来事があったころには、企業社会では文学、芸術に関心をもつことは歓迎されていなかった。
これよりもっと後の時代でさえ、作家黒井千次たちの証言では、学生時代の教養主義を捨てなければ企業社会には融合できなかった。そのころの日本は、経済活動と知性的活動が両立できないときめつける貧困な国であった。豊かな精神文化を育んだ日本は、第二次世界大戦を境として知的生活と人生へのゆとりを、生物学的寿命と社会活動のはざまから徹底的に排除した国になった。とくに男どもの世界では。
元エクゼクティブだった老人たちは、まさにそうした時代に生きていたことを、このささやかなエピソードは暴露している。

そういう見方もあることに気づいて、愕然とした記憶がある。
こころの底にわだかまっていた違和感の正体はこれであった。
「仕事」と「経済活動」という価値観にがんじがらめになった大人が、精神文化を喪失したこと。いまの日本で、人々の暮しが根元から枯渇していることの象徴でもある。
ただし、いいそえると、これは今から二十年近くも前の話である。今日では、どうであろうか。
すこしは事態はよくなっていると思いたい。
だが、それはあくまでも希望的観測であることはわきまえておかなければならない。

だが、この件については、もう少しだけポジティブな側面も考えてみたい。

いい年をした元商社マンが、老ビジネスマンのオフィスにまでわざわざ原稿を持参した。しかも、涙を浮かべて感動をつたえたいという一心で。
このことをおもうとき、やはり心の琴線にふれるなにかがある。

仕事と出世競争いがいにはおよそ無関心で、非生産的な知的活動とはおそらく無縁だったはずの老人に、それほど感動を与えた小説とはなんだろう。
メリメのこの短編は、それほど長いものではない。薄っぺらな文庫本の短編集におさめられるごく短いものだ。短いからこそ、翻訳してしまえと老ビジネスマンは考えたのかもしれない。この人にとっては、秘書に英文メールを翻訳させたり、書かせるのと同じことだったに違いない。
ここは老ビジネスマンのことはいったん忘れて、元商社マンの心を想像してみよう。 得意のフランス語をひさしぶりに駆使する機会がめぐってきた。いそいそと辞書を片手に読み出したろう。もっとも、大意をとるだけなら辞書などいらなかったはずだ。 そのとき、不思議な作用がこの老人の脳裡におきた。
我知らず、単純なストーリーに熱中して、目に涙さえ浮かべている。
読み終った老人はさっそく紙と万年筆をとりだして、翻訳作業にかかる。
おそらく、今度は辞書をしっかりひいていたに違いない。おざなりに翻訳するつもりだったのだが、本気になってしまった。
しまいには、すっかり物語にひきこまれている。「<男の生き方>をおしえられた気がする」と老ビジネスマンに述懐したように。

このことはなにを意味するのか。
しばらく考えてみた。
答えはよくわからない。書かれた事実をありのままに受け取る。それしか、受け止めようがない。そのことだけがたしかなようだ。
以下はわたしなりに推理した老人の心理である。ただの妄想ともいえる。
たぶん、もっとほかの見方もあるかもしれない。だが、わたしにはこうとしかおもえない。だから繰り返すが、妄想であると断っておく。

「マテオ・ファルコーネ」という短編の筋はかんたんだ。
同名の主人公の息子(まだ子ども)が警察に追われる犯人と出会う。子どもは義侠心から怪我をした犯人をかばう。ところが、懐中時計を餌にされて警官に密告する。そのため犯罪者は逮捕される。このことを知ったマテオは、息子を射殺する。
これだけでは子どもがなぜ射殺されたかはわからないだろう。
ただ物語の舞台となったコルシカ島の当時の政治状況からいって、犯人といっても単純な犯罪者ではないことは断っておかなければならない。そして、官憲の圧政に苦しんでいたコルシカ島民にとって相互扶助は「文字にならない掟」であったことも。
とにかく切迫した状況で、少年は男と男として犯人をかばう約束をして、利につられてそれを裏切った。その結果、父親は少年を射殺する。
単純といえば、これほど単純なはなしはない。
それがなぜ元商社マンの心の琴線に触れたのか。
その人の人生がそうしたものであったと思いたい。人と人としての約束というものが、ひどく重たい世界で、この人は生きていた。おそらく生き馬の目を抜くほど、厳しい競争のなかで、マテオの息子のような状況になんども遭遇したはずだ。
そのとき、このひとがどう対処したかはわからない。ただし、一度や二度はマテオの息子のような行動があったはずだ。しかし、この人はそのことを恥じた。結果として、マテオの息子と反対の行動にでた場合も必ずあったはずだ。
このひとは自分の人生をとおして、マテオの物語にであった。
物語を読むとは、つまりはこういうことではないか。

さらによけいなことを考えれば、老ビジネスマンも元商社マンもものごとを安易に片づける人ではなかった。
つまり、書店で翻訳書を探したり、図書館で借りたりはしない。
自分のもつちからで、事態に対処しようとした。
本探しということにかぎっていえば拙劣であるが、本を読むという行為においては、この人たちは最前の選択をした。
いかにすぐれた翻訳書であろうと、外国語の本はその国の言語で読むことにまさるものはない。元商社マンもフランス語で読んで、名文家メリメの文章に酩酊した。よい文章はたとえ外国語であっても、そういう効果はある。
このひとにとっては、はじめての体験だったのではないか。もちろん、フランス語を学ぶ過程でそれなりに本を読んだはずだ。さもなければ、外国語の読み書きはできない。そのうえでたくさんの文書を読み書きしてきた。その蓄積がこの場合おおいにいきた。

ひるがえってエクゼクティブであったろう老ビジネスマンのことをおもうと、この人も結果的にはひどく得をした。元商社マンとの出会いもあり、本のすばらしさを身をもって教えられたからだ。 かんぐれば、老ビジネスマンは仏文学者の翻訳などを、じつは信用していなかったのではないか。
自分と同じ世界に生きるものが解釈したものでなければ、信用はできなかった。だから、自分の人脈をつうじて元商社マンにたどりついた。この人はそうやってビジネスの世界を生きてきた。やはり、この人もおのれの持っているカードを最大限に活用した。

本とであうこと。本を読むということ。
それは人との出会いと同じだ。
自分の人生をとおしてつちかったもので、人は他人と出会わざるをえない。
そして、自分のもてるものをすべて活用しなければ、ほんとうに他者とこころをかよわせることはできない。
単純だけれど重みのある真理が、このささやかな話の根底にある。
そのことだけは間違いない。



●さよなら ノストラダムス 1999/08/01

You are as good as a prophet as Nostradamus.

大意: 「おまえの云うことは、さっぱりわかんねぇよ」

1999年7の月が終った!
火山も噴火しなければ、第三次世界大戦も起らなかった。人類はまだ元気に暮らしている。
当たり前だが、とっても嬉しい。
ノストラダムスに手紙を出したいような気分になったので、ここに架空の手紙を書く。
あくまでも冗談であるから、まじめにとらないように。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

拝啓、ノストラダムスさん。
あなたがお亡くなりになってから、433年の歳月が流れました。
そちらでのお暮しはいかがですか。
お墓から頭骨が盗まれたり、いろいろ大変でしょうが、予言者として不朽の名声を獲得されたあなたのこと、それくらいでへこたれることはないでしょう。

さて、いまは1999年8月です。
幸か不幸か、べつにアンゴルモアの大王らしいものは降臨しておりません。
わたしの住む国のお隣では、核弾頭を積みこめるおんぼろミサイルを試し撃ちするといってがんばっています。田舎ヤクザめいた恫喝好きなお隣さんで困っています。
この国がミサイルを誤射して、第三次世界大戦の引き金になるかとおもいましたが、とりあえずは大丈夫のようです。
中東でイスラエルとまわりの国が戦争したり、インドとパキスタンという極貧困国同士が核戦争をはじめるという「勇ましくも微笑ましい」予想もありましたが、とくに問題はないようです。

こういうことを云うと失礼にあたるかもしれませんが、
ノストラダムスさん、
どうやら、あなたの予言はぜんぜん当たらなかったようです。(笑)

あなたに罪はないけれど、あなたに便乗して商売した人々のおかげで、わたしは13歳くらいから地球は1999年7月に破滅すると思いこんできました。
でも正直に白状すると、わたし自身もそうした人間のひとりだったわけです。
わたしは、ある翻訳家のお手伝いをして、あなたの名前を冠にした「ノストラダムス本」を翻訳したこともあります。それも一度や二度ではありません。某有名オカルト雑誌でゴーストライターをやって、あなたの記事をでっちあげたこともあります。
いま考えれば、よくなかったかなと反省しています。
本を買ってくれた皆さん、某オカルト雑誌の読者の皆さん、ごめんなさい。

個人的にいえば、翻訳した原書のいいかげんな書きっぷりとこじつけとしかおもえない論旨の展開に、「ノストラダムス本」にすっかり嫌気がさしました。
翻訳を手伝ったおかげで、超常現象やUFO、予言本を読まなくなりました。
海外の原著者たちでまともな英語を書ける人がほとんどいないことがよくわかったからです。しかも、歴史的知識の貧困さ(というのは穏やかな言い方で、はっきりいえば無知)には、えらく閉口したものです。
その意味では、日本の「ノストラダムス研究者」のほうが、まだまともではないかと思います。大多数はとんでもないことを書いている人ばかりですけれど、あれは「営業用」なので仕方がないと思います。海外みたいに脳味噌まで腐っている人はいません。
どんなに突飛なことをいっても、したたかな出版人であり生活者です。
有名な人たちと実際にあって、そう感じました。
こんな体験もあって「ノストラダムス本」を手にとる気力もなくなってしまいました。

でも、そうした本からさえ垣間みえる、あなたの生涯には興味を感じました。
歴史の本には、あなたの生涯をまじめに書いているものもありましたので、そちらのほうを読みました。
あなたが優れた医師であり、学識あふれた知識人であること。人道的な治療活動に従事した勇敢な医学者であり、ペストに汚染されたフランスの街に乗り込んでは伝染病の終息に力を尽くしたこと。そうした事実を、わたしは歴史の本から学びました。
どうじに、いわゆる「ノストラダムス本」で印税を稼ぐ人たちと、あなたとは人間性のレベルにおいて比較するのも空しいほど絶望的なひらきがあることも。

あなたが立派な人であったことはわかりましたが、1999年に世界が滅ぶといって、恐怖を煽っていた人たちについてはいい感情をもてません。
いたずらに絶望感を煽って本を売っていたことはどういいつくろっても否定しようがないのですから。
わたしと同じ年代も、中高校生の親になっています。
その子たちは幼児のときから、あなたの絶望的な予言と暮してきたわけです。
あなたの予言が世の中にどれだけ害毒を流すことになったか、はかりしれません。 1999年に世の中が終るというのは、じっさいに90年代に入るまでは、なんとなくこの国の人間みんなの脳細胞にいつもこびりついていたのですから。
あなたの予言をまるで気にしない人がいるとしたら、たぶんよほどのエゴイストではなかったかとおもいます。世の中が壊滅しても、自分だけは生きていけるという凄い利己主義者でないかぎり、あなたの予言は不安をかきたてずにはいなかった。

あなたがこの国の人たちにしられるようになったのは、1960年代後半でした。そのころ環境破壊や地球温暖化を真剣にうるえていたのは、当時のベストセラー作家K・ヴォネガットいうところの「おせっかいで、くそったれなSF作家」だけでした。
立派な文化人は冷戦や核軍縮に熱中していて、大学生がデモなんかもしていましたね。なつかしいことです。
わたしの同年代の友人は、新宿駅で火炎瓶をなげたり、東大や早稲田大学にたてこもりたかったなどと、語っていました。そのころ、小学校高学年だったわたしたちには、そうした「危険な遊び」はまだできなかったのです。もっともその友人は大学に進学して、ほんとうに火炎瓶をなげていた人たちにむかって、子どもの頃の夢を口にしたら、ずいぶん怒られたそうです。
どうも、話が脱線してしまいましたね。すいません。

そのころにはまだドイツの「緑の党」もなかったとおもいます。グリーンピースが鯨をねたに日本人バッシングをはじめたころだったかもしれません。
高度経済成長がまだ続いていて、公害があって、ベトナム戦争があって、東西の冷戦があって、わたしたちの世代ですこしは脳味噌があった少年少女はすっかり将来に絶望していました。
あなたの予言は、そうしたわたしたちの幼い絶望をさらにいやがうえにもかきたててくれたのです。
その後、この国には空前の経済的繁栄とその崩壊があり、いまにいたっているわけです。
世の中はますます悪くなっていますが、反面よくなっている部分もあります。
ベトナムの戦争は終ったし、東西の冷戦は消滅しました。ソビエト連邦が今世紀中に消滅するとは、1960年代におそらくだれひとり考えた人間はいなかったはずです。
公害にいたっては、この国が先端的な技術を開発して、少なくとも表面的にはあまりみえなくなりました。それだから、かえって始末が悪いというひともいますが、不平屋はどこにもいるものです。物事は少しずつ良くなるしかないものだと、時間がわたしたちに教えてくれています。

ノストラダムスさん、やっと1999年がきたとき、わたしはとても嬉しかった。
なにはともあれ、死なずにここまでこれたわけですし。
同世代の友人・知人のなかには、この世とお別れした人々もちらほらでています。
十代で死んだ幼なじみもいれば、将来を嘱望されながら二十代前半で自殺した友人もいます。人生というのは、かなしいものです。
嬉しいというのは、亡くなった人々よりも長生きしたからではありません。
あなたの予言が間違っていることを身をもって知ることができるとおもったからです。
今年の8月1日に世界が崩壊してもかまわないのです。
ただし、7月に世界が壊滅しないことだけを身をもって証明できれば、それでよかった。
つまり、暗い人間の情念や、歪んだ悪意がなした予言が成就することは、すくなくとも人間の善意があるかぎり、ありえるものではないと心の底から確信したかったのです。

そういえば、この七月にある事件がありました。
500人の乗客が乗った航空機を狂人がハイジャックして、あわやこの国の首都に墜落させかけたのです。
その大惨事をふせいだのが、たったひとりの勇気あるパイロットでした。しかも、そのひとはそれで自分の生命を落してしまった。もしも、このパイロットの行動がなければ、旅客機が首都に墜落して500人の乗客だけでなく、もっと大きな被害がでたのは間違いありません。

そういえば、もうひとつの事件を思い出しました。あなたではなく、聖書が予言した大惨事と予言研究家がいう事件です。
それは、ウクライナ地方にある発電所でのできごとです。ここでは、古い機械装置が暴走して大変な惨事がおきました。「死の灰」とよばれる危険な物質がこの星の大気中にばらまかれたのです。16世紀の人であるあなたに、詳細なことを説明しても、無駄でしょうから、とにかく大変な事故だったということだけ、おふくみおきいただきたいとおもいます。
じつは、このときも、もっと大変な惨事がおこるところでした。簡単にいえば、人を致命的な病気にする危険な物質がもっと大量に惑星中にばらまかれるところだったのです。
その被害は、あなたの時代のペストではくらべものになりますまい。
とにかく、もの凄いことになりました。
その惨事をくいとめたのは、ある勇敢なロシア人の消防士でした。そのひとは、副作用で苦しみながら死にました。とても苦しい死に方だったそうです。でも、この人のおかげでおおぜいの人が犠牲とならずにすんだのです。

ノストラダムスさん、おわかりでしょうか。
もしかしたら、これらの大惨事はあなたや他の予言者が予言した事態だったかもしれない。しかし、勇気ある善意の人がかならずそれを阻止してきたのです。

あなたの末流がいくら絶望と恐怖を商売のたねにして、人々のこころを汚染しようとしても、いつも正しい人が現われて最悪の事態を回避してくれるのだと、この十数年の歴史はおしえてくれました。
たぶん、あなたがほんとうに云いたかったことも、このことかもしれませんね。

1999年7月がおわって、わたしはやっとあなたの予言から解放されたような気がします。
人間とはえらいものです。かんたんに絶望なんかしてはいけないものなのですね。
どんな世の中になって、どんなひどい悪人や狂人があらわれて、どれほどひどいことをしようとしても、なんとかなるんじゃないか。そんな気がします。
とりあえず、いまのわたしの気持ちを報告したくてペンをとりました。

そちらの世界でも、お体をたいせつに
敬具
1999年 8月 1日
ミシェル・ド・ノストルダムさま

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●ホラーは苦手 1999/07/14

ホラー仕立てで小説を書いているが、どうもうまくいかない。
ホラーの部分になると、さっぱり筆が進まない。スプラッタなら書けるが、ホラーは駄目みたいだ。
どうもこうした想像力が欠如しているらしい。
もともと娯楽系ホラー小説は大嫌いだ。楽しめないものが書けるはずもない。
怪奇幻想文学は好きなのに。

だが、モダン・ホラーと怪奇幻想文学とは根本が違う。
後者では異界――とくに冥界とのシンパシーと同化がテーマである。
ぎゃくに、ホラーでは異界への拒否と逃亡が主題となる。ホラーの主人公たちは現実世界へは順応しつつ、異界からひたすら逃げようとする。逃げ切ることがゲームの目標だ。
幻想文学は異界を味方にして、現実世界と闘う。だから、主人公成長物語(ビルドゥングス・ロマン)である。現実と対決せざるをえないから、個人を書いても社会が浮かび上がってくる。社会派推理みたいなものだ。十九世紀的な意味での小説の王道といってもいいかもしれない。幻想文学の巨峰は、ゲーテとバルザック、それにゾラだ。

(この文脈でいくと、トーマス・マン、ヘッセはもちろんプルーストやカフカ。ひいては現代のめぼしい日本・海外の文学系作家はほとんどそうではないかと反論が出るだろう。まさにそのとおりで、わたしがこのところ文学系作家をひたすら読んでいるのはこうした理由による。幻想文学は、国書刊行会の叢書やハヤカワ、創元文庫におさまっているものだけでは決してない。)

ホラーとは、差別の文学である。忌避と嫌悪の念が強くなければ、書くことはおろか読みこともできない。知性の死がホラーの快楽だ。
異界に共感をおぼえたら、すくなくとも一般受けするホラーにはならない。
最終的には異界へのシンパシーを暴露する場合でも、一般人の代弁者たる異界を忌避する主人公がいないと一般受けはほぼ不可能だ。

もし異界を描き出したいなら、ホラーは適当ではない。
やっぱり広い意味でのファンタジー(幻想文学)しかないと思う。
この分野でこそ、理性と直感と感情と霊性は共存できる。つまり、人間が描けるのである。



●田舎人になるために 1999/07/03

7月になったが、どうやらまだ梅雨明けにはなっていない。
今年の集中豪雨で西日本では死者が二十人も出た。土砂くずれや、ビル地下街の水没で亡くなる人が続出している。
規模からいうと、それほどとは思えない集中豪雨で、こんなに死者が出たのはなぜだろう。素朴に考えて、どうも人災の要素もからんでいる気がしてならない。実際にデータをみたわけでもないので、なんともいえないが、たぶんそうだろう。
無理な宅地造成や、劣悪な排水設備といった悪条件が、思いがけない自然現象の前に露呈されたのではないか。

温帯モンスーン気候に属するこの国には、それなりの住環境整備が必要であろう。
家を建てることをそろそろ考える年齢になってきたので、どこにどんな風に住んだら良いかしきりと気になる。

理想をいえば田舎に住みたいのだが、いまの日本の田舎はそれほど安全ではない。山林が荒廃したせいで、里山が保水力を喪失して山崩れが起きやすい状態になっている。
これは全国的な傾向だと聞く。
もしも田舎に住むなら、裏山の雑木林の面倒をみることも視野に入れて場所を選ぶ必要がありそうだ。
これからの新田舎人には、それぐらいの覚悟がいる。
家を考えるまえに、もう少し環境とかエコロジーを勉強しておこうと思う。



●インターネットを検索する 1999/05/10

調べものをしようとして、インターネット検索を利用したが、結果は思わしいものではなかった。ほとんどクズ情報に近いもの。わたしからみてさえ、内容が疑わしいものばかりだ。
ひとつだけホームページの長所をあげるとすれば、マスメディアには出ない一般の人々の生の声を素朴な形で知ることができることくらいか。
おそらく、立花隆のような高度な取材能力の持ち主にとってのみ、インターネットは取材活動なみの価値がある。ルポライターの眼をもたない限り、「使える情報」は手に入らない。
このことだけは身にしみてわかった。

もうひとつわかったことは、自前のリンク集は絶対必要だということ。
こんなことは、ネットワーカーには常識だろうが、仕事にインターネットをつかうためにはどうしても避けては通れない。
リンク集は参考文献と同じで、努力して収集して活用しなければならない。
インターネットで仕事をするうえでは、自前のリンク集は何よりもたいせつな情報資産だ。


●インターネットで世界を 1999/04/25
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フランス語や英語でインターネット・ホームページをいくら見たところで、ちっとも偉くなるわけではない。それだけでは遊民みたいなものだ。
ただなんとなく世界がみえているような気がして、やめられない。所詮は馬券を買わない素人予想屋みたいなものだが、面白いことこの上ない。
世界は広い。
知りたいことが溢れるほどある好奇心ばかり多い身には、インターネットの世界はワンダーランドだ。百科事典を読むような、玩具箱をひっくり返したような楽しさだ。
しかも、学生時代からからこつこつと学習を積み重ねてきたおかげで、いまでは英語、フランス語、ドイツ語で読むときには辞書のやっかいにならないですむ。英語のページは、日本語とさして変わらない速度で読める。
人の営みは多様だ。
ネットワークの毒は心えたうえで、しばし遊ぶべし。

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●世界の幻想 1999/04/21

原始、女は神だった――いや、現在でも男よりも神に近い。
ただし、その神はキリスト教的な絶対神・唯一神ではなく、アニミズムの神だが。
男は死すべき人の子――ギリシアのヒッポリュトス、あるいはアキレスの逆説。神は人を羨望する。
女の神性は、若さ・美しさ・叡智。その根源は、人が赤ん坊だったころの若い母の肌の柔らかさと香りにある。
女は不死。
男は死すべきもの。

無力感に打ちのめされたものだけが、猛々しく闘える。
逆説的真実。

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●発想の限界 1999/04/14

発想の根幹に巣食っているのは、どうやらランボーらしい。
奇想の錬金術。意識的な錯乱。
フランス象徴派の呪縛からいまだ自由ではないらしい。

裸の眼でみることは、錯乱の錬金術より遥かに凄い。
そのことだけは、わかっているのだが。

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●鈍牛の歩み 1999/04/14

野ウサギの走りはできないけれど、アテネのフィロパポスの丘をえっちらおっちら歩いていた陸ガメみたいに、あたりをのんびり見回しながら生きていこう。
草をもしゃもしゃ噛みながら、背中に老子を載せて歩くとろとろ歩く鈍牛でもいいな。

このごろ、こんなことを考えている。

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●自分の武器 1999/04/14

「世をわたるには、自分の武器が必要だ。己の武器を磨け」
という言葉は真理ではあるけれども、わたしのようなおっちょこちょいな人間には、ちと毒がきつすぎるようだ。
「武器って、なぁんだ」
と子どもじみた問いを発して、中味をよく考えないととんでもないことになる。
「武器」といえば、英語やコンピュータなどの特技やポジティブ思考、営業スマイルみたいな即戦力的なノウハウだとばかり思ってきたが、
(どうやらそうではない)とこのごろ分かってきた。

武器とは、兵器ではない。
ここがポイントで、「武器とは持ち味」なのである。
だから、「自分の性格を知り、その特質を生かせ」というのが、冒頭の言葉のほんとうの意味するところであって、英語・コンピュータ・資格や、性格改造して身につけるポジティブ思考なんて役には立たないのである。
これは体験的真実である!

人づきあいが下手なのが、営業と人脈造りの天才と張り合えるはずもない。英会話力だけなら、もともと語学的才能がないくせに帰国子女と張り合うのはお門ちがいである。
でも、ほんとうはそんなこと関係ないのである。

友人が少なければ、それを大事にすれば良い。英語だって、日本語がたしかな翻訳は、日本で読み書きを磨いた人間には帰国子女は叶わないのである。帰国子女といわれなくなるほど、日本にいてはじめてその人たちもスタート・ラインにつけるわけだ。

問題は自分がカメなのか、ウサギなのかを、なるべくはやいこと見極めることである。 カメだとわかれば、それなりの戦い方があることは、古代ギリシアの寓話が教えてくれているじゃありませんか。

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●世界を見る眼 1999/04/14

世界は理解することがますます難しくなっている。
なによりも、拠り所となる座標軸がなくなってしまった。そのうえ、さまざまな利害が錯綜して、正邪・善悪も判別もできない。民主主義の仮面をかぶった相対的主義・虚無主義がはびこっている。こうした状況を巧みに泳げるのは、己の欲望に忠実なエゴイストだけであろう。
だが、ひとには自ずと真善美を判別するちからがあると考えたソクラテスのひそみにならえば、教えられなくても自ずと事態の正邪・善悪はわかるものではないか。少なくとも、そう考えたい。さもなければ、すべてのことがらに対して、「判断停止(エポケー)」をしなければならない。
思考の速度で事態が変わる現代では、推論よりも感性しか頼りになるものはない。 ここは戦場である。

こうした考えはニヒリズムにも思えるが、「人間の霊性」というおよそ実体を提出することの困難な判断基準をもって、破綻した「理性」に代替する必要に迫られた現在となっては、もはや他の道は難しいと予感している。


●心の時代とは 1999/04/12

いまは経済よりも深刻な問題がこの国を襲っている。
それは失業よりも、不況よりも深刻だ。経済が良くなれば、解決するというひともいるが、そのような事態はまずない。
経済よりも、深刻な問題――それは、「こころ」だ。

「こころ」の病理が、あらゆる場面にはびこっている。
原因はいちがいにはいえない。
だが、概括化できないからこそ、問題は深いともいえる。おそらく近代文明の病理がここにきて誰にもわかる形で露呈してきている。

これは新しい鉱脈かもしれない。露出した鉱脈が、地下資源のありかを教えるように。 であればこそ、「こころ」の問題をもっとよく見ておく必要がある。


●寸言・雑言 1999/04/09

ひとは不安のただなかで生活していると、なかなか知的活動ができない。
リストラばかりやっている会社に勤めていると、ひとはなかなか新しいことを勉強できないものだ。これは、わたし自身の体験と見聞から真実だとおもう。
こんなんでは駄目だとわかっていても、できないのである。
ひたすら自己啓発をすすめる世のサラリーマン評論家さんたちの云うことには矛盾がある。もっとも、この人たちはほとんどが啓発セミナーや資格取得セミナーを主宰して、商売からみでやっているようだから、乗せられる読者のほうが××なのだろう。

とにかく、二十代後半ともなれば、勉強しようと決意することさえ、古い人生を投げ捨て、新しく生きなおすほどの覚悟がないと、じつはなかなかできるものではない。とくに、自分の収入で家族をささえているひとには。それは男でも、女であっても変わらない。
だから、いくらサラリーマンを叱る評論家さんたちが頭脳優秀であろうとも、ひとの人生を賭けも投機させることはできない。そんなものにひっかるのは、まだ余裕がある暇人だけかもしれない。そんなひとは、この不況では食い物にされるだけだ。
士(サムライ)商法にのせられて、愚にもつかない資格を取得したところで、家族を養うことなどできはしないのである。
勉強熱心で努力家のひとほど、ひっかかりやすい罠だ。
もっと悲惨なのは、やっと資格を手にして、そのことをおもいしること。努力しているあいだは周囲が目に入らない。だから、現実がみえない。
方向を見失った努力は、現実逃避の一手段にすぎない。


受験勉強から解放されて、大学生として家庭教師のアルバイトをはじめたら、あれほどてこずった数学がびっくりするほど簡単に解ける。そんな経験をしたひとも多いだろう。(数学なんて、忘れてしまた人も多いだろうが、この場合ははぶく)
少なくとも、わたしはそうだった。

受験生時代は、あたまが働かないようになっていたとしか思えない。
「窮すれば鈍す」というやつだろう。

そうじて、世のなかはこんなことが多い。
(勉強ができる子というのは、家庭が円満で暮しむきが良い)
この国が貧しかった頃、こんなことが言われたが、この言葉にはいったんの真実がある。生活が不安定で、両親が離婚寸前だったら、おちおち勉強などしていられない。

それでも何事を学ぼうとしたら、ふてぶてしく居直るしからない。さもないと、頭脳は働かない。
この場合、居直るとは必死で、平静な気持ちに自分を置くというほどの意味である。


企業も効率を求めて、リストラにばかり精を出していると、次の発展は難しいと思う。

ビル・ゲーツですら、開発者には最高の労働環境を与えている。
いろいろ問題の多い人物だが、知的生産のツボをこころえているところが、凡百の亜流と決定的に違うところだ。


●面白いエッセイは書かないこと

エッセイを書く自己流の心得。
受けねらいはやめよう――そんなエッセイは本当につまらない。

ほんとうに面白いことを追求しないと、なんにもならない。
独特の視点は、おのずと生まれるもので、ウケを狙う頭からは生まれない。



●いちばん大切なのは:

    何ができるかが問題なのではない。
    何をやろうとしたのか。
    何をやったのかが大切だ。


●英文速読法:

立花隆の速読法を読んで雑誌・新聞での英語速読方法に開眼した。
まずは論理的想像力と事実的想像力をはたらかせて、内容を予想すること。
見出し、写真、コメントが重要なカギとなる。
次に、内容を予測しながら文字を追う。
それも4〜5行単位でアイスパンに入れながら。
集中力がきめてである。
他のことを考えないで、ひたすら集中する。
それだけで、70〜80パーセントは理解できる。
たんなる情報収集では、このレベルの理解で大量の文献を読むことのほうが大切。

はじめて、この方法をためしてみたら、15分で英語版NewsWeekの特集記事8ページを内容を70〜80パーセント理解して読み終えることができた。


●もの書きの心得−立花 隆

    良質の文学・心理学に触れること。

    論理に強くなること。

    数学と論理学初歩。


●メイン・テーマ:

人は泣きながら、この世に生まれる。
あとは懸命に生きるだけ。
眠るように死ねたら良い。
それだけのことだ。


●ドイツ文化は二十世紀を作ったのかもしれない

少なくとも、二十世紀前半の重要な文学はドイツ語文化圏にある。
フランスは二十世紀文学にたいしたものを寄与していない。
この国が達成したものは思想であった。
ぎゃくに、ドイツは新しい文学を作った。絶望の時代の文学を。

二十世紀後半の文学は、アメリカであろうか。
絶望すらできない限界状況の文学だ。
ソルジェニーツィンと、ソローの文学の距離はほんの一歩にすぎない。
南米の魔術的リアリズムですら、アメリカが広めたビジネス文明の悲惨を描きだすのには力不足だ。



●【自我人間の病理】

以下は、精神科医小此木啓吾氏の著書をまとめたものである。

自他の自我分裂を受け入れることこそ、成熟のあかし。
自我の統一幻想は、現代の病である。
自我は統一しえないものであることを認識することが出発点である。

自我分裂を認めずに、「個」を追求すること。
はてしない「個」の追求は、人間を食うか食われるかの「ひとみな狼」の時代に退行させる。

「ほんとうの自分」とは、破壊的な幻想にすぎない。
自分探しの旅こそが、自己破壊への直通路である。

「ほんとうの自分」は、探してみつかるものではない。
自分がやりたいこと、大切だと思うことをしていくうちに自然とみつかるもの。
その他の方法では、絶対にみつからない。たとえ、瞑想であれ、精神世界的なワークであれ。


工藤龍大



量は質に転化する ― カール・マルクス



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Last Renewal Date; 99/06/09