ダイエットが不調だ。 先週、バーに行ってから気がゆるんでしまった。 おかげでなかなか70キロ台前半に戻れないでいる。 今週は仕事が立て込んでいて、昼間の散歩ができない日があった。 体重はたちまち71キロ台。 油断は少しもできない。 それにしても、最近あまり本が読めない。 問題は体力だと痛感。 電車で本を読むと目が疲れて家に着くともうダメ。 家で晩酌(いいのか、ダイエット中の身で?)すると、すぐに眠くなる。 八方ふさがり−−である。 最近、読んでいる本といえば、 角川必携国語辞典。 岩波古語辞典。 そして「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」。 これらは7月14日に物故されたされた大野晋に関連した本だ。 井上ひさしが書いた死亡記事に、大野晋が監修したこの辞書の紹介があった。 岩波古語辞典は日本の古語とモンゴル語や朝鮮語の語義との関連を説く、画期的といえばいえるが、本当かなと素人が心配になる辞書でもある。 使わない方がいいという話をいろいろな方面から聞いて敬遠していた辞書でもある。 アカデミズムに権威を感じていたのか、小心な性格のゆえか、惜しいことをしたものだ。 いま読むと、これほどおもしろい古語辞典は他にない。 全訳の学習古語辞典に物足りなくなっていたので、大野説に読みふける楽しみは言葉では尽くしがたいものがある。 同じことは、角川必携国語辞典にもいえる。 語彙数は五万二千であまり多くはないが、ボキャブラリィが二万から三万程度の高校生を対象とした学習辞書という性格上、納得できる。 ただし、この辞書が説明する言葉の使い分けは他に類をみない。 大人ほど勉強になる。 大野晋ファンを辞任する井上ひさしが両辞書を毎日のように引いているというのは、きっと本当だろう。もちろん小説読者のレベルとは次元が違う書き手の視点であることは言うまでもない。 おそれおおくも「賢い」岩波、角川の辞書を横目に眺めつつ、「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」を読んでいると、いかに自分が無神経に文を書き連ねていたか思い知らされていたたまれない気分になった。 よくもまあへたくそで、手前勝手な文章を書き汚してきたものだ。 ただ、いくら自己嫌悪を積み上げても事態はちっとも変わらない。 この本で紹介されている井上ひさしの日本語関連の本と、丸谷才一の「文章読本」をアマゾンで購入した。 今週末に読み上げるつもりだったが、映画「相棒 劇場版」を見に行ったり、埼玉県近代美術館の丸木スマ展へ出かけたりして時間が足りなかった。 なんとか来週中に読み上げることにしよう。 参照: 企画展「丸木スマ展−樹・花・生きものを謳う−」 しつこいけれど、この展覧会はおすすめ。 子どもがいる人なら、なおけっこう。 会場内においてある安藤栄作のオブジェがほんとうに可愛い。 ほしかったなあ。 |
前日の「相棒 劇場版」観劇の余勢をかって、埼玉県近代美術館の「丸木スマ展」にゆく。 この人については、原爆画家丸木位里・俊夫妻の母というぐらいしか知らなかった。 素人画家とかるくみていたが、新日曜美術館で紹介された展覧会の絵をみてただごとではない気配を感じた。 直感に信じて、出かけてみたが、間違ってはいなかった。 大当たり−−である。 展覧会のはしごをするつもりが、ほぼ半日同美術館ですごす。 館内に詰めている見張り役の職員さんたちからはさぞ暇なヤツと思われたに違いない。 それとも器物損壊しかねないアブナいやつとか? スマさんの絵はまぎれもなくネイティブ アートだが、アカデミックな絵画教育をうけていないこのジャンルのトップ アーティストの例外にもれず、色彩感覚の天才と心象風景を具現化する異才に恵まれている。 こどもの絵のようでありながら、テクニックを超えた画才の産物。 ありきたりだが、天才というほかない。 しかもその人が絵を描き始めたのは、七十歳をこえてから。 グランマ・モーゼスと等しく、これはひとつの奇蹟である。 スマには画家である息子と嫁のほかに、もうひとり画才に恵まれた娘がいた。 大道あやという娘は絵本作家であり、ネイティブ アーティスト。 こちらも六十過ぎから絵筆をとった。 どういう母娘なのだろう。 画壇で活躍した息子夫婦よりも、母娘の絵のほうが私は好きだ。 娘には自伝があり『へくそ花も花盛り―大道あや聞き書き一代記とその絵の世界』という。 へくそ花とはいわゆる「へくそ葛」。蔓性の植物だ。 こんなタイトルをつけるあたり、この娘(というよりばあさまだが)はかなり変わり者だ。 諧謔と人生の哀歓にあふれたこの本は一読の値打ちがある。 ミュージアム・ショップで、企画に合わせて販売していたので、ためらわずに購入した。最近では、本屋で狙った本が手に入ったためしがない。 その場で買わないと、アマゾンの世話になるだけだ。 何日も待つなんて、とっても我慢できるものじゃない。 ところで、丸木スマは理由は分からないが、悲劇的な最期だった。 顔見知りの人間に殺されたのである。 そして、大道あやも息子が事故で知的障害者となり、夫も同じような爆発事故で死んだ。 親子が被爆者であることといい、本人を含めて尋常でない死に巡り合わせている。 運命の不思議さを感じないわけにはいかない。 |
© 工藤龍大