お気楽読書日記:6月

作成 工藤龍大


6月

6月21日

『真言陀羅尼とお経 功徳・ご利益事典』(大森義成編著)を読む。

この本の良いところは、ただの学問的解説ではなく、実際の密教真言や陀羅尼を収録しているところ。おかげで、いろいろな陀羅尼や真言を実際にとなえることができる。

なぜ、陀羅尼と真言なのか。
一言でいえば、活性化−−とでもいおうか。
このごろ精神的なタフネスが枯渇している。
理由は環境だと思う。

自分では変わっていないつもりではいるものの、心と身体は年齢とともに違ってくる。
たとえば、遊びに行く場所。
渋谷なんかはもうぜったいに生きたくない。
どうにも居心地が悪い。
これなどはいちばんわかりやすい変化だ。

ところで、職場に同じ世代がすくなっているため(かなりの原因はリストラ)、話が通じないという違和感も強くなる。このために、うつうつとして「ちから」(=精神力)が湧いてこない−−
自分ではそのように思っている。
いま必要なのは、ユンケルでもなく、バイアグラでもなく、地に足がついた「精神のちから」というべきものだと思う。

こんなとき先人はどうしたのだろう。
明治以前の歴史では、今のわたしの年齢ではとっくに死んでいる人が多い。
考えてみれば、古代や中世の時代に七十歳以上生きた人はそれだけですごいことだと思う。

そうした人のなかで、このところ私淑しているのが法然さん(享年79歳)と親鸞さん(享年89歳)だ。
英雄豪傑への歴女めいた関心がなくなって、精神世界の偉人に興味が移っている。
すると、法然親鸞の師弟が大きく眼前に映じてくるのは避けられない。

没する直前まで旺盛に自分の仕事に邁進してきた師弟の秘密はなんだろう。
使命感ということはあるだろうが、それだけでは早死する。
もっと具体的で、生活にめづいた秘密があるのではないだろう。

ここ十年以上、仏教雑誌の「大法輪」を断続的に購読してきた。
いろいろ記事を読ませてもらったおかげで、長寿をまっとうし、大きな仕事をしてきた高僧たちには共通点があることがわかった。

それは−−お経や真言(念仏のその一種として考える)の音読だ。
声を出して、何かを読む、唱えるという行為には人を健康にして、アンチエイジングのちからを与えるなにかがある。

唱えるといっても、あの時代の人には一日数千回同じ陀羅尼や真言を高唱したのだから、ぶつぶつ念仏をとなえるのは違う。
本当の念仏は、小声でぼそぼそ呟くものではなく、大声で節をつけて繰り返し音読するものだ。

聖なる言葉を大声で繰り返し言う。
こんな単純なことに大きなちからがある。

空海が成就したことで有名な「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるというもの。
これなども音読のパワーを引き出す技法といえるだろう。

オカルト的な興味というより、心身活性化の技法として、陀羅尼と真言に眼をむけてみたい。
目下、実践中の西野式呼吸法や気功とも併用して、ぐったりしている自分を元気にするプロジェクト!というのをやってみたい。


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