フランクルの本を続けて読む。 『それでも人生にイエスと言う』(ヴィクトール・E. フランクル) 『宿命を超えて、自己を超えて』(ヴィクトール・E. フランクル) どちらもすばらしい本だった。 「意味の不毛」が、ひとの生きる気力を奪い去っている現状を今から10年以上も前に見抜いている。 この「意味の不毛・喪失」という病気は、21世紀にはじまったことではなく、20世紀から発症していた。 経済成長に目が眩んで、それから目をそむけていただけにすぎない。 「意味」という言葉をあざ笑うのが、20世紀末期の知的&社会的風土だった。 今まではそれでもよかった。 ただ現在は「意味」を踏みにじっている自分(自我)が復讐されている。 何に? 踏みつけにされ、恥ずかしめられた自分自身(超論理的自己=客観的自己)に。 わたし自身の元気のなさも、不況とか加齢とかではなく、主観に溺れ、客観的自己を失っている現状がほんとうの原因だ。 これまで生きてみて、やっぱり自分は徹底的に「ブッキシュ」な人間だと思う。 「ことば」によらなければ、生きられない。 フランクルの教えでは、「行動」こそが人生の意味なのだという(ただし、低次元な素朴現実主義ではない。現象学的還元をこえた意味の再生こそが「行動」だという立場)。 生きる元気を取り戻すことは、生活の中心に「いちばん自分らしいもの」を据えることに他ならない。 わたし個人にとって、いちばん自分らしいものは「読むこと」と「書くこと」だ。 大江健三郎が若いときに決意したように、「読書を自分の生活に中心に置く」という生き方を真似してみたい。 『燃え上がる緑の木』を書いたとき、大江は自分の書いた作品のストーリーが、実生活の記憶と同等以上のものになり、自分の人生に介入してきたことを経験した。 大江が再三、もう小説は書かないと言いながら、小説創作をやめられないのは、創作が生活と等しいものになってしまったから――らしい。 本を読むという行為がただの暇つぶしではなく、生活と等しく、それ以上のものになる―― そういう風に考えてゆくと、元気を奪うもうひとつの内的秘密、『処罰感情』をも克服できるカギが手に入るだろう。 書評風に読書記録をつづることは今までもやってこなかった。これからも書評や本の紹介はすっぱり諦めて、自分と本との語り合いだけを読書日記としようと考えている。 そうすることが自分とこの読書日記を読んでくれる皆さんにはいちばん幸福な結果になるのではないか? とにかく元気出して生きましょう! |
NHKラジオ講座中国語の10月号テキストを買う。 いつものように、ロシア語講座テキストも買うつもりで手にとって、はっと気づいた。 なんと、10月号テキストの内容は今年の4月からの再放送となっている。 講師の熊野谷葉子先生とニキータさんのおなじみの声が聞けるのは嬉しいが、語学番組としての存続はあぶなくないか? わたし自身のロシア語学習も進んでいなくて、初級止まりではあるが、このままでは中級に進む前に語学講座のラジオ放送が終了――なんてことはないよねぇ? |
どうもやる気がでない。 元気がないせいでもあるが、やたらと疲れて何をするのもおっくうになっている。 考えてみれば、やりたいことが多すぎる。 そして、時間と「能力」がものすごく不足している。 ほんとにどうしようもない。 これが「壁」というやつだ。 「壁」を前にして、へたりこむか、よじ登るかで、大変な違いになる。 そのことが分かっているだけでに、へたばっている自分が情けない。 なぜ、がんばれないんだろう。 年齢というのがいちばん簡単な答えだが、それは思考停止にすぎない。 もっと深い理由があるはずだ。 そうやって、この数か月考え続けた。 行き着いた結論は、「自分を尊ぶ感情」というべきものが、深刻なダメージを受けている―そういう認識だ。 なぜそうなったのかは見当がついている。 他人ならもっと分かるだろう。 だから、あえて文字にはしない。 「自分は大切な人間である」というイメージというか、意思が損なわれている。 これを修正して、立ち上がるには、次のメッセージを自分で受け取る必要がある。 「あなたは要らない人間でもないし、どうでもいい人間でもない」 「人は何度でも生まれ変われる、やり直せる」 このメッセージは、名著のたぐいから見つけたわけではない。 出所は、テレビドラマだ。 前者は「相棒」の科白だし、後者は「鉄道警察官・清村公三郎」の科白。 考えあぐねていたテーマにはぴったりだったので、拝借する。 どうしたら、その感情を自分で育てていくことができるだろうか? 今はこのことがとても大事に思える。 その関連でココロのアンテナにかかる本が読みたいと思う。 だから、その他の本は少しお休みだ。 とはいえ、光学セミナーの補習として、こんな本も読んだ。 『数学が8時間でわかる』(何森仁/小沢健一) 『微分積分を楽しむ本』(今野紀夫) 『面白いほどわかる微分積分』(大上丈彦) おかげで、微分積分の式の変形に、めまいだけはしないですむようになった。 なかなか、すんなりいかないもんだね、人生は。 ところで、池田香代子による新訳版『夜と霧』(ヴィクトール・E. フランクル)を読んだ。 生きるということは、希望を持つことに他ならないと教えられた。 その意味を、いま考え続けている。 疎外と抑圧のなかにあって、希望を持ち続けるということの難しさを。 |
これまで読んだ本は、下記の2冊だけ。 『読書家の新技術』(呉 智英) 『読書術』(エミール・ファゲ) 『読書術』の方は読み切れなかった。 しっかりした本なので、購入して読み切るほうがよいと思った。 日本語の本も読めないのに、”ANTIGONE"(SOPHCLE)というギリシア語・仏語対訳本を読んでいる。 遅々として進まないが、いいです、これも「自尊感情」を育てるため。 なぜ「自尊感情」なんて言葉にこだわるかはそのうち書きます。 『マタギ 矛盾なき労働と食文化』(田中康弘)という本も読んだ。 こちらはマタギの里として有名な秋田県阿仁町に住むマタギの人々の生活を、カメラマンの著者が記録したもの。 さまざまなマタギの伝統を教えてくれたマタギで鍛冶屋の西根正剛師匠の話が泣かせる。 このごろ、こういう泣かせる話に弱くなった。 著者によれば、マタギという伝統はもうすぐ消滅する。 それはマタギがただの猟師ではなく、山村の生活サイクルに根付いた共同体集団だからだ。 山村の生活が現代資本主義に飲み込まれて消滅したのち、マタギという集団は消える。おそらくその末裔たちがなんらかのかたちで伝統を継承するだろうが、それはマタギではない。別の集団、いってみれば、伝統芸能保存会みたいなものになるだろう。 すでに老境に達したマタギの人々は、他に別の職業をもってそちらで生活している。旅館の主人、公務員もいる。 その子供たちは秋田の都会で教員をしていることが多いそうだ。 ただ、マタギたちは自分の寄って立つ場所をしっかり持っている。 マタギの技に、経済価値でははかり知れない「自尊感情」(アイデンティティと呼び変えても言い)をはぐくむものがある。 自分の立っている地面を信じられる「感情」は何にも変えられない。 題名からすると、エコロジーの説教でも聞かされると思ったが、中身は人間の尊厳にかかわる深いものだった。 月輪クマの解体写真が、興味深くもあり、グロテスクでもある本だが、生きるとは、死ぬとは、生命とはといろいろ考えさせられる。 いい本だった。 |
© 工藤龍大