今週読了したのは、 『ハーディー短編集』(河野一郎訳・新潮文庫) 昨今、あまり人気がない古典作家ではある。 しかしながら、英語がきれい。 典雅すぎて(しかもイギリス英語なので)原書を読むのははかどらない。 日本語訳からとりかかったほうが良い。 心理描写や伏線が巧みな作家だから、気をはって読まないと小説の味わいがそっくり抜け落ちる。 読むのが大変な作家ともいえる。 だからこそ、じっくり読んで損はない。 ハーディーの小説は、いろいろ考えさせられる。 あまりにも憂鬱なストーリーは、小説の舞台となるウェセックス地方の風土というよりも、ハーディーが親しんだ哲学者ショーペンハウエルの厭世哲学によるものらしい。 ショーペンハウエルの厭世哲学とは、インドのヴェーダ哲学の誤解によるものだが、東洋人にはなじみやすい。 ちなみに、大乗仏教の哲学者世親はヴェーダ哲学をこのように誤解する道を避ける考え方を説いた。 その思想は大乗仏教に浸透していて、よほど変な人でないかぎり、そちらの厭世哲学には染まらないことになっている。 それはさておき、ハーディーの小説の特色は、人間の営為や努力を打ち砕く運命の悪意だ。 もっと正確に言えば、寛容さを失い、硬直化した階級意識の持ち主が、自分に対する確固たる信念をもてずに世間の目におびえ自分を見失う人を打ち砕き、自分自身も不幸な運命をたどる因果応報の物語だ。 こんな破滅的なストーリーなのに、なぜかハーディーの小説は清々しい。 不思議なカタルシスの仕組みが働いているのだろうか。 女主人公(ヒロイン)たちが悲惨な運命に陥る原因のほとんどは、本人の悪意にある。いってみれば、悪女の因果物語。そこに運命が復讐する爽快感を感じているとしたら、おもしろがって読んでいるわたしも罪が深い。 たとえば、こんな話がある。 愛してもいない男の求婚を受けた娘がいた。これがヒロインだ。 ところが男はかしこくも娘が自分を少しも愛していないことに気づき、そもそも娘に人を愛するやさしい心があるかどうかさえ疑い、足が悪くて婚期を逃しかけている娘の友人を愛するようになる。 友人も男に心を向け始めた。 すると、娘は強引に結婚をはやめ、友人をだしぬく。 ここまではいい。 その後、友人はながいこと独身のままで、子供をもったヒロインは優越感にひたる。ところが友人が金持ちに見初められ結婚し、中流階級の仲間入りしたときからヒロインの不幸がはじまる。 夫のかせぎのなさをなじり、たまりかねた夫は海員となって小金を儲けてくるが、友人の豊かさをねたむヒロインはますます夫をなじるばかり。 夫は成人した息子二人と船乗りとなって一儲けしようと出かけるが、そのまま消息を絶つ。 ヒロインは生計の道をたたれて、友人の邸にお情けですまわせてもらうが、その好意さえ逆恨みの種にしかならない。 結局、ヒロインの更なる不幸を暗示しつつ、物語は終わる。 これだけ悲惨な話なのに、なぜか清々しい読後感がある。 いったいなんなのだろう。 もっとすごい短編もある。 こちらは「萎えた腕」あるいは「魔女の呪い」という題名で訳されている。この短編集では「萎えた腕」を使っている。 この短編のすごさは、ハーディーの短編作品のなかでも一、二を争うだろう。 これは地主と捨てられたその愛人と息子、そして地主が結婚したばかりの若くて美しい新妻の物語。 この四人の関係がむごい地獄絵図となるのだが、そこにどろどろした愛欲はなく、愛の回復を求めるせつない人間関係が悲劇の螺旋をえがいている。 そうか。 愛欲を描きながら、愉悦も快楽もなく、ほとんど禁欲的にひたすら破局につきすすむ破滅衝動が、濾過された汚濁の清浄さというか、近代設備で徹底的に化学処理された汚水の清浄さというか、そのようなものを感じさせるのだろう。 その根底には一種の潔さがある。 かつて大学受験でよく主題された「アリシアの日記」という短編がある。 今回あらためてしっかり読んでみた。受験参考書で断片は読んだが、全体は読んだ記憶がない。 ハーディーの邦訳短編集は学生時代にいくつか通読したはずなのに、まったく記憶にない(もっとも、それは他の作品についても同じだけれど)。 子供には、この話はわからない! やっとストーリーが腑に落ちた。 これは自分が愛を知らないことを知らない女を愛した男の悲劇だ。 世の中には、案外こういう男女がいる。 それでいて、なんとか生きていけるから不思議なものだが、つきつめると「アリシアの日記」になる。 こういうのを純粋表象なんていうんだろうな。 ハーディーははまる人にはおそろしいくらい魅力的な作家だ。 わたしははまってしまった。 今度は長編をじっくり読むつもりだ。 |
今週読み終えられなかった本の報告です。 『キルケゴールの言葉』(大谷愛人・訳編) 『東亜三国的近現代史』(社会科学文献出版社) 『東亜三国的近現代史』は、まだ読書中。 日帝の悪逆ぶりがこれでもかとたたみ込むように書かれている。 この教科書を読んでいたら、日本が太平洋戦争に負けてよかったと思えてくる。正直なところ、この点だけは同感だ。 日本は対外戦争で惨敗して体制が崩壊しない限り、社会の変革ができない。 白村江での惨敗があったからこそ、律令国家ができた。 敗戦のおかげで新しい国作りができたのは、太平洋戦争のときだけに限らない。 なんとか読み終えて、報告したいと思っています。 『キルケゴールの言葉』(大谷愛人・訳編)は、途中までで挫折した。 ゲルマン系の北欧語を直訳した感じで、えらく疲れた。 これはどういう意味か、あたまをひねりながら読む。 先週は忙しかったから、この手の読書をする余裕がなかった。 いずれ再挑戦したい。 |
今週読んだ本の報告。 『ヘブライ語のすすめ』(池田潤) 『イタリア語のABC』(長神悟) 『東亜三国的近現代史』(社会科学文献出版社) 将来勉強したいと思いつつ、後回しになった言葉が二つある。 ヘブライ語とイタリア語がそれ。 前者は字を覚えるのがめんどくさい。しかも、いまの私の職業では特殊言語的な位置づけなので、なかなか手を出す気になれなかった。 イタリア語では逆のことが起きた。 つまり、ラテン語やフランス語・スペイン語をかじったおかげで、かんたんに勉強できるだろうとたかをくくってなかなかやる気になれない。 そんな風にして、人生はすぎていき、やがて脳みそがぼけて習得が難しくなる。。。。。 いきなり無常の風を感じて、両言語の入門書を読んでみた。 感想は―― やっぱりヘブライ語は難しい。 子音文字がいきなり母音文字として使われるくらいは序の口で、動詞に活用があるだけでなく、受動態などはビンヤンという複雑な文型で表現される。 それよりも、ちょっときついなと思うのは、現代ヘブライ語は聖書ヘブライ語の単純なリバイバルではなく、聖書ヘブライ語を読むにはそれなりの別の勉強がいるという事実だ。 イスラエルに住む予定はないので、現代ヘブライ語習得の魅力は、わたし的にはぐっと減ってしまった。 しばらく時間をおいてから再挑戦したほうがよいみたい。 『ヘブライ語のすすめ』は入門書というには、レベルが高すぎる。 本当にやるときは、もっとやさしい本から攻めないと、あっけなく玉砕するなという確信をえた。 それだけでも、この本を読んだ価値はある!? いっぽう、イタリア語は楽そうだと思った。 ただこちらもそうそう簡単ではないから、時間がかかりそう。 今回は入門書を読んだというだけで満足しておこうと思う。 ラテン系の言葉は体質にあうみたいだ。 ゲルマン系は苦手。(汗) 『東亜三国的近現代史』は中国の社会科学文献出版社から出ている。 「中国、日本、韓国三国学者与教師共同編著」とある中国の歴史教科書。 日本の明治維新から、中国韓国に対する帝国主義支配と侵略戦争と、中韓の抵抗運動が記述のほとんどを占める。 中国語で書かれているので、近代史を中国の目線でみながら、中国語のエクササイズができる一粒で二度美味しい読書ができる。 ただいま読書中だが、そのうちまとまった報告ができると思う。 |
今週読んだ本は、『ROMES 06』(五條 瑛)。
正直なところ、あまり書くことがない。 変人の天才が、高性能監視システムROMES 06で「訳あり」のテログループと戦う。 展開はまずまずだが、犯人の動機と襲撃方法がおそまつ。 読み終わってがっかりした。 あまりにも高性能な監視システムなので、犯人グループとの知恵比べが物足りない。 天才、高性能自動監視システム、ときたのでは、あまりストーリーをふくらませる余地がない。 これは期待はずれだった。 そういえば、友人が熱烈に推薦していた『ハゲタカ』をまだ読んでいないことを思い出した。今度会う前にぜひ読んでおこうと、ここで宣言しておきます。 |
今週、読んだ本について書きます。 『ロボットと帝国』(アイザック・アジモフ) 銀河帝国シリーズとロボット三原則で有名なロボットものを融合させた作品だ。 熱心なSF読者だったころは読む気になれなかった。 ともに名作の誉れ高い両シリーズを合体させるのは悪しき商売根性としか思えなかった。 当時はアジモフの創作力の減退も感じられていて、幻滅するのがわかりきっていた。 世紀を超えて、すでにSFに対する思い入れもなく、たまたま手に取ったのがにわかに興味をかきたてられて、つい読んでしまった。 通勤途中には数章くらいずつしか読めなかったが、日曜の3時間で上下二巻のうち、上巻三分の二と、下巻を通読できた。 久しぶりに一気通読の快感を味わった。 苦手な分野(数学とか光学)の本を読むのとは違うな、やっぱり。 『ロボットと帝国』は一言で表現すれば、推理小説だろう。 ただ犯人探しという意味ではなく、広い意味で思弁(スペキュレーション)を楽しむという観点での。 SFのもう一つの貌であるスペキュレーション・ファンタジーでもある。 人間とは何か。 人に危害を加えてはならない原則に縛られる人造人間(ロボット)が、人類を滅ぼそうとする悪意ある人間をどうしたら阻止できるのか。 この問いかけにアジモフはユダヤ人らしい論理の戦いを通じて立ち向かう。 実際、面白かったのは話の筋よりも、アジモフが自ら打ち立てた有名なロボット三原則をこえる倫理を確立しようとする苦闘だった。 解決はきわめて倫理的な方法でなされるのだが、極論をおそれずにいえば、この方法は最善の意味で解釈されるユダヤ教倫理に似ている。 救世主がすべてを解決してくれることを待つのではなく、救世主なき世界で次善の努力を続けながらよき世界を作る努力を続ける。 原理主義に堕落しないユダヤ教の教えはそういうものらしい。 アジモフはユダヤ教徒ではなかったが、倫理の問題に踏み込んだときには、彼の立地点である職業科学者や資本主義アメリカ人の枠をこえて、もう少し人間知にあふれた世界に回帰とまではいかないが、近づいたように思う。 これは個人的な感想なので、実際にアジモフがどう考えていたかはわからないが。 とにかく、頭をつかう読書を堪能できたのがうれしい。 ついでに書くと、小尾芙佐さんの訳が良かった。 海外SF小説を読むときの、いちばん苦労するのはあのジャンルの翻訳家たち独特の訳文だから。 |
山本七平の『小林秀雄の流儀』を読んだ。 正確には何度目かの再読だが、いまさらながら山本七平の鋭さには魅了される。 旧約聖書読みの山本ならではの、「空気(プネウマ)」をキーワードにするドストエフスキー論と小林秀雄の「ドストエフスキーの生活」の対決(山本の読み解く小林秀雄ドストエフスキー論なのだが、ほぼ対決として読める)は、ミステリーよりも面白い。 山本の「空気の研究」が聖書のプネウマ(普通は神の霊と訳される)に由来するのかとあらためて気づいたのも面白かった。 『流儀』の議論については、まだ整理がつかないので、保留しておくが(つまり、読書日記には書けないということ)、書庫の整理をしていて見つけた記事の要約で替わりとしておきたい。 『小林秀雄の流儀』については後日書くことにします。 とりあげるのは、「生誕百年小林秀雄の時代」というタイトルの2001年5月14〜16日付の朝日新聞で連載された記事。 要約するよりも、引用を並べたほうがわかりやすいと思う。 「わかりきった思想や観念なんかの中には、文化はない」(小林秀雄) 「手っ取り早く、苦労せずにわかりたいというのは現代の病気だよ。分かるっていうことは苦労するとということとおんなじだよ」(小林秀雄) こういう小林秀雄の考えは、戦後文学の流れとしてある時期までは本流だった。 坂口安吾のような無頼派にも通じる立場だった。 「人間は何をやりだすか分からんから、文学があるのじゃないか。歴史の必然などという、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪えたりできるものなら、文学など必要はないのだ」(坂口安吾) ただ、そういう考えは一九七〇年代で消滅した。 その後は「七〇年代を最後に、時代は『青春の終焉』を迎え、いまの作家たちは、終わってしまった青春を描いている。」(文芸評論家三浦雅士)というように、このタイプの思考は廃れてしまった。 その代わりに現れたのが、「今の読者は、自分で考えず、答えをすぐに求め、教養≠ニなるお徳用の本を求めたがる」(文芸評論家福田和也)という世界。 「分かるとは苦労することと同じ」という小林秀雄の「こうした精神から、今の時代ははるかに遠く離れてしまった。」(朝日新聞鵜飼哲夫記者:当時) こうなってしまった世界で生きるには、「コピーが氾濫する世界で、いかに価値のある生活ができるか、小林の根源的なものの考え方は、その方向を指し示している。」(ジュネーブ大学教授二宮正之:当時)ということになる。 記事は、朝日新聞山内則史記者(当時)によって、「「信」を失い、自ら考える働きを眠らせてしまったように見える現代。小林秀雄を読むことは、世界を、そして未来を開く可能性を考えることにほかならない」とまとめられている。 いっそう知の劣化が甚だしい2009年の今。 「世界を開く可能性」「未来を開く可能性」どころか、頭をつかわない習慣のせいで死にかけている可哀相なわたしたちの脳のために、小林秀雄や山本七平を読むのは、絶対的に必要なリハビリ治療だと思う。 |
© 工藤龍大