『東大講義 人間の現在@脳を鍛える』(立花隆)を読む。 最近の立花隆は学生とつきあいすぎて、切れをなくしているようだ。 理科系と文化系の溝とか、現代の大学生の知的向上心のなさを嘆いて、後輩の東大生に指導する内容なので、老人の思い出話や自慢話の加齢臭がする。 立花隆といえども、年齢にはかてないのか。 仏文出身という経歴が光っていたのは、小林秀雄とポール・ヴァレリーを論じた章だ。 小林秀雄は語学レベルでも、思想的にもヴァレリーを分かっていなかったと立花は断言する。 文学部系の人間に、かつて神様あつかいされた小林秀雄を、死人に口なしでけなしているわけではない。 ヴァレリーのような科学的素養を持っていない小林には、このフランス思想家の語っている内容を理解することは不可能だったと冷静に指摘するだけのことだ。 このあたりの説明は往年の立花隆の独擅場で、ついついヴァレリーの「テスト氏」を再読することになった。 ヴァレリーの「知的クーデター体験」というのが面白かった。 優秀な文学者や哲学者(もっといえば、知的な人間はみんなそうらしいが)は、こうした経験をするらしい。 デカルトが『方法序説』で描いている有名なひらめき体験は、30年戦争当時にドイツの領邦国家パヴァリアの軍隊に志願兵として参加しているとき、暖炉の前で居眠りしたときにみた夢から生まれたというのは周知の事実ではあるが、ああした体験をとにかく優秀な人はするそうだ。 立花隆もしかり、ヴァレリーもしかり。 ヴァレリーの場合は、「正確という烈しい病」というものがそれで、おかげで著作ができなくなったらしい。中年以降にふたたび論壇に登場することになるが、若いときから再デビューの時期まで、ひたすら文化系と理科系の優秀な知性とつきあい、草稿を書き続けた。 結果的に、ヴァレリーは理科系と文化系の両方にまたがる「知の巨人」となったわけで、自他共に「知の巨人」を任じる立花隆としては大いに共感を覚えることになる。 この「正確という烈しい病」がどういうものかは、『ムッシュー・テスト』を読むと分かるが、人の説明するのはとても難しい。 再読を終えてから、トライしてみようと思う。 理科系と文化系の常識の乖離の例として、「エントロピー増大の法則」と「パリティ非保存の実験」について、立花は詳しく解説している。 どちらも理系の教育では、常識中の常識らしいが、文系にはあまりピンとはこない。 そこに問題があると立花は指摘するが、文化系と理科系の分離が問題視された20世紀前半よりも、「ゆとり教育」後の日本のほうがもっと事態は深刻かもしれない。 この本の最後では、理科系と文化系の理想的な統合として、生物学者のジュリアン・ハクスリー、作家オルダス・ハクスリー、生物物理学者アンドリュー・フィールディング・ハクスリーのハクスリー3兄弟の業績を紹介している。 東大生ですらオルダス・ハクスリーの作品を読まなくなったそうだ。 生物学者ジュリアンや生物物理学者アンドリューの名前を知る学生も少ないらしい。 時代は情報社会から「知識社会」へ移っている。 日本の教育システムは、現代の社会変革に対応できないでいるようだ。 |
『偽書「東日流外三郡誌」事件』(斉藤光政)は、あの「東日流外三郡誌」が偽書と判明する顛末を描いたノン・フィクションだ。 「東日流外三郡誌」を「つがるそとさんぐんし」と読めるのは、かなりのオカルト・ファンか古代史マニアだ。 「東日流外三郡誌」は村役場の村史として発表されたこと、その奇想天外な超古代史ぶりのおかげで、東北ルネサンス(?)の心情的シンパたちに熱く支持された。 これは篤実な地方紙(東奥日報)記者である著者が長年にわたって、偽書であることを追求しつづけた貴重な記録でもある。 偽史としての「東日流外三郡誌」をあばく検証は、読んでいてつらい。 小学生でもわかるずさんな作業を詳細に調べ上げてゆく努力には頭がさがるが、偽作者のずさんな仕事ぶりには呆れるを通り越して、うんざりする。 なぜ、こんな文書をネタに本を書く作家たちがいたのか。 歴史業界にとっては、「東日流外三郡誌」は金のなる木だったという斉藤氏の述懐がすべてをいいあてている。 本当かどうかということより面白ければいいというのは、娯楽としての歴史にはありだと思うが、「トンデモ本」にもなれないずさんさはアウトだと思う。 「三郡誌」の作者、和田喜八郎という人は、古文書や骨董の偽作をしたり、神社にまつわる架空の祭典を仕切ったりするなどして、生計をたてていた。 『「三郡誌」事件』の後半は、和田氏の超古代史ビジネスの検証にあてられている。 古代のロマンをはぎ取られて、冷徹な事実関係の照明で暴かれた和田喜八郎氏の生涯はいたましい。 生計を得る手だてをもたず、偽りの歴史をあたかも真実のようにして地方の自治体や住民を巻き込んだビジネス(ほとんど詐欺に近い)を繰り返す。 不思議なのは、そのような和田氏の信奉者が一方にいて、斉藤氏と論戦を続けたことだ。 アカデミズムの歴史学者や中央紙の記者は、「東日流外三郡誌」を偽書と考えながらも、斉藤氏やその同志たちのように批判の論陣には加わらない(ごく一部の例外はいるが)。 一方で、歴史アカデミズムと関係ない読書人たちのあいだに「東日流外三郡誌」の偽史が疫病のようにひろまっていった。 斉藤氏は「第十二章背景」でその理由を分析している。 カウンターカルチャーとしてのオカルト・ブーム。 読んだ本を盲信するインテリ勉強家。 (インテリの傲慢さと無知への鈍感さと、別の人の表現を斉藤氏は引用している。) 正直にいえば、わたし自身も傲慢で馬鹿な読書人だった。 この章の斉藤氏の指摘には、穴があったら入りたい。 古史古伝や古神道の伝承をついついおもしろがってしまう。 本音をいえば、それが間違いであることを知っているくせに、楽しむためにその手の本を読み、トンデモ本として笑いながらも、どこか一部だけにでも真実があるのではとぼんやり考えている。 じつは、この手の「インテリ」がいちばん質が悪い。 知的責任においても、知的な誠実さ、いや人間的な誠実さにおいても、最低の無責任なゴミだ! いま反省をこめて、そう思う。 本を読むと言うこと、考えるということはもっと誠実なものであるはずだ。 立花隆の「脳を鍛える」という本を読み、ポール・ヴァレリーの「テスト氏との一夜」をいま読み返している。 立花隆は小林秀雄訳で読んだが、わたしは清水徹訳の岩波文庫版(ムッシュー・テスト) を読んでいる。 以前読んだときは、この本の内容がさっぱり分からなかった。 いまは、訳文をあたかもフランス語原文の訳読をするつもりで読まなければダメなことに気づいている。 辞書を引きながら原文を読んだところで、この方法以上に理解できるとは思えない。 それだけてごわい本だが、ヴァレリーには知的な誠実さがあふれている。 もう糞尿をもてあそぶ幼児のような知性の使い方は止めようと真剣に考えている。 そういうあり方は、人間としてとても恥ずかしいことだと分かったから。 |
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