『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方』の続きを書く予定だったが、のびのびになり、すでに11月も半ば。 今週は本の紹介ではなく、このごろ思っていることを書きます。 今年も忙しかった。 多忙を理由にしてはいけないが、新しい分野や技術をマスターする必要があった。 翻訳や作業だけでなく、勉強にも時間が要った。 そのあいまに、いくつか外国語にもチャレンジした。 たとえば、フィンランド語とタイ語。 フィンランド語は入門書を終わるだけで、3カ月かかる。 時間と疲労度との戦いだ。 体力が潤沢にあるわけではない現実をすなおに認めなければならない。 それでも、やりたいという自分の気持ちを大事にしたいと思う。 タイ語は大人のお習字となっている。 とにかくタイ文字をマスターせねば。 海外にもいかずに、外国語を勉強するその態度はどうなのよという疑問をぶつけられることも多々ある。 ぽろりと外国語学習について漏らすと、きまってこの逆襲をくらう。 「なんの役にも立たないことに時間をつかうバカ」といいたいのはよくわかる。 顔に大きくそう書いてある。 でも、いいの。 好きなことはやったほうがいい。 「己の欲することを行え」 ラブレーのテレームの僧院の掟みたいだが、モチベーション向上と生命力補完計画のためには、これしかない。 ブログでも再三書いてきたが、やる気と生命力(=体力)の減退が大きな課題になっている。 十年前なら平気でできた徹夜、睡眠不足の回復ができない。 できない前提で仕事をしているが、体力の回復は以前よりも難しくなっている。 これは、場当たり的なやりすごしでは難しい。 ビジネス書や自己啓発本でも、このあたりは精神論的なアプローチが多くて、とっても使えない。 いまやスキルではなく、「生き方」が大きな「壁」になっている。 まだ自殺者は身の回りにはいないが、突然死した知人は増えている。 パワーで力押しする「生き方」と決別する時期がきていると悟った。 いま自分にとって大事なことは、よくよく自分の「こころ」と「からだ」、「生き方」を吟味することだ。 分析というと、「あたま」でっかちで、いまの気分にはそぐわない。 「あり方」を味わうというところまで、いかないと自分の本音が出てこない。 はっきりいえば、世間とつきあううちにがちがちに固められた「世間向けの自分」にとりこまれて、身動きできなくなっていないだろうか。 わたしは、自分がギブスのような「とりつくろう鎧」でかためられて窒息しかけているのも感じる。 なによりも大事なことは、「わたしは何が好きなのか」「何をしたいんだ」という問いかけをしぶとく自分に投げかけることだ。 そういう方法はいくらもある。 おいおいブログの方で、テクニックについては書いてゆくつもりだけど、ここではその哲学、原則について考えてみたい。 |
© 工藤龍大