長い中断にも、そろそろけりをつけようと思います。
あれからネットで検索してみたが、松沢秀章牧師の件は警察の捜査で事故とされたことがわかった。 不倫も、覚醒剤使用もなかった。 事態は次のようなものと説明されている。 回心以前の不節制と以後の献身的労働による過労で、松沢秀章牧師C型肝炎を発症し体力を失った。 そこで、若き日の薬物中毒が原因で、妄想と幻覚を引き起こすフラッシュバック現象を起こした。 幻覚に襲われた牧師が狂乱状態に陥っているところを、付き添いの主婦が止めようとした。 ふたりがもみあううちに、ホテルの窓から誤って転落した。 ネットでは誹謗中傷が山のようにあふれているが、事実関係はこのようなかたちで落ち着いたようだ。 事件性は否定された。 ただこの稿を書こうとしたのは、もちろん牧師の扇情的事件を追及するためではない。 二つの大きな問題を突き付けられた残された者たちこそが問題だった。 回心して「悪の道」から立ち直ったはずの人間を襲った運命。 親友に対する信頼にあまりにも厳しい問いかけ。 この問いに「彼ら」はどう答えたか? 「彼ら」と呼んだ残された者たち。 そもそも、それが誰なのか。 誰かを同定することは、とうてい私の手にあまった。 ただ実名をさらして援護するバイク仲間兼信仰仲間がいた。 とても美しいことだと思った。 アーサー・ホーランド牧師自身の言葉は、見つからなかった。 ネットで見つけた言葉はあまりにも抽象的でリアリティを感じられなかった。 ホーランド牧師の言葉を探し続けたことも、この稿を書けなかった理由でもある。 結局、ホーランド牧師の言葉で解決をさぐる方向は諦めた。 文献もなく、資料となる材料もない。 疑問だけが残り、焦燥とともに課題はますます大きなものとなった。 なぜ縁もない人々の魂の問題を考え続けなければならないのか。 経済的効率からいえば、まったくの無駄。 非効率の極み。 無駄の最たるものだ。 ただ、考え続けるのをやめるのは、創作家をこころざすものとして「死」に等しい放棄ではないかとおそれた。 もしも、残された者たちの思いに、橋をかけることができないようでは、「書く」という行為になんの意味があるのか。 結論は出ないまま、時間だけが流れた。 身すぎ世すぎの稼業が忙しいことを良いことに、真剣に考えることから逃避していたのではないかと思う自分と、「そうではない」、いいかげんな妥協で満足するなと叱咤する自分がいた。 無為に過ごした時間にもいろいろなことがあった。 過剰なストレスと体調の不良。 ストレスの原因が、生き方そのものにあると考え、テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想を学び、仏教カウンセリングを学んだ。 難解な大乗仏教の理論を離れて、初期仏教の原点に近いテーラワーダ仏教や、それに影響された仏教カウンセリングは実践してみると、驚くほど簡単だった。 自分の「ココロ」を見つめること。 それだけで、必要十二分だった。 ココロを見つめ続けて、感情という幻惑(マーヤー)から少しずつ離れることができるようになった。 そうしているうちに、闇がはれてきた。 「神の劫罰」「運命の罰」というおそれ。 松沢牧師の運命に、超越者の怒りと罰を想像して、おびえていた自分。 わたしが、松沢牧師を考え続けていたのは、人がいくら努力しても、真っ向から立ちふさがり、覆いかぶり、破滅と苦難を浴びせ続ける「超越者」の影におびえていたせいだった。 「怒りの神」 「裁く神」 それは、ひとに「祟る神」そのものだった。 「超越者」という神は、愛するもの、優しいものではないのか。 ひとは忍び寄る神の「祟り」に待ち伏せされて滅びるだけでしかないのか。 自我という迷いから生まれた「ココロ」は、そうしておびえ続けている。 これが「無明」という本当の無知の正体だった。 松沢牧師の運命ではなく、わたしはおのれの「無明」という愚かさに惑っていた。 「無明」から抜けて、牧師の人生をみると、もう考える必要はなくなっていた。 よくがんばったね、松沢さん。 わたしはあなたを心から尊敬する。 結果はどうでもいい。 何かをやろうとした。 それだけで十分。 他のことはどうだって良い。 たぶん、のこされた者たちは同じ気持ちになったのではないかと想像している。 人を信じるということはそういうことだ。 友人だということはそういうことだ。 こうして、わたしの長い彷徨は終わった。 |
© 工藤龍大