お気楽読書日記:9月

作成 工藤龍大

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9月

9月30日

仕事のつごうで、こむずかしい本で調べものをした。
それで、本を読むのがいやになって、逃避に走る。

そんなときに頁を開くのが、俳句の歳時記である。
新潮文庫の『新改訂版 俳諧歳時記 夏』を読む。
これを眺めていると、高度成長時代に突入する前の日本にタイムスリップした気分になる。
物質的には貧しかったのだろうが、生活そのものに水気がたっぷりあって、ささくれだった神経が癒される。
これが、現代俳句となると、いやがうえにも神経が逆なでされる感じで、あまり好きではない。

俳句については、ど素人なので、歳時記に掲載されている俳人たちのほとんどは知らない人々だ。
かえって、そのほうが<時代の証言>の気分が濃厚で、神経休養という<療し>を目的にするには都合がいい。

「蟇(がま)がいて石のまわりの夜の色」(加藤 秋邨)
「夏蛙なすべきことをなおざりに」(園田 二郎)

どうもくたびれているようだ。
プロ野球中継で、巨人の負け試合と、中日の逆転勝利をみる。
巨人ファンの虚脱した表情を楽しむ。
ナゴヤドームと神宮の中日ファンの熱狂をみて、すっかり元気になって寝る。

「ナイター観る吾が身もいつか負けがこむ」(滝 春一)

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9月29日

岩波文庫で復刊を待っていた『列子』上下二巻をみつけた。やっと買えた。
すこし驚いたのは、下巻に注釈者小林勝人氏の論文がついていて、カントと老荘哲学の比較を論じていた。こういう形式はあまりみたことがない。
そういえば、校注の部分も、岩波文庫のなかにあってさえこれほど詳しいものは例がなく、解説は岩波書店の雑誌「思想」の論文なみの内容と分量をそなえている。

昔の本を読む楽しみとして、欠かせないのは訳注や注釈である。
こんにちでは読者が喜ばないという編集者の意向で、訳注は好まれないが、反面かえって舞台背景がわからないという難点がある。
どこの国の、どの時代を描いても、登場人物の人種、民族がなんであれ、みんな現代の日本人か、せいぜい時代劇の登場人物みたいでないと、日本の読者はうけつけないという妄想が支配的であるので、やむをえない。

でも、ほんとうの舞台背景を知っておく楽しみは、ストーリーを追う受動的愉悦よりも大きいことは間違いない。
できる本の読み手は、たいていそうやって本を読む。本文よりも、きちんとした学者の訳注が読みたいから、翻訳書をかう物好きを何人か知っている。
しかし、しょせんは、顧客としては無視してかまわない少数派なので、出版社からは相手にされていないに違いない。

というわけで、はなはだ回りくどい表現だけど、岩波文庫版『列子』は気に入った。
最初から通読するという愚は避けて、あいかわらずぱらぱらと拾い読みする。
古典はこうして気ままに読むに限る。一度だけ、こうしてあらかた読むと、いつか一気に通読するパワーが生まれるのだから不思議だ。

ところで、『列子』は禅問答みたいな話がやたらに多い。
説符編二十節はこんな話だ。追いはぎに襲われた大儒学者が手向かいもせずに身包み脱いで渡した。ところが、いったんは命だけは救った追いはぎは急に思い直して大儒学者を殺した。この話を漏れ聞いた男が、今度は自分が追いはぎに襲われると、大儒学者と同じ失敗はするまいとして、いちおう抵抗しておいて、最期には身包みそっくり渡した。ところが、それでも、やはり殺されてしまう。
同二十節も、不条理な殺人劇だ。大富豪の家の前をとおりかかったヤクザ者に、腐った鼠の死体がぶつけられた。じつは、トンビが餌の鼠を誤って落としただけのことなのだが、ヤクザ者は大富豪に馬鹿にされたとおもいこみ怒って、仲間をあつめて大富豪の家を襲い、皆殺しにする。
なぜ、こんなことになるのかと、しばらく頭をひねった。
ヒントは、同じ説符編の十九節にあった。

「人に三つの怨みあり」
「爵高き者は世人これを妬み、官大なるものは主君これを悪(にく)み、禄厚き者は怨みこれにある」

どうやら、このことを実証する例として、二十節と二十一節が書かれている。
利口さと儒教的な教養を鼻にかけた大儒学者は、かえって無用の恐怖心を、追いはぎにおこさせて殺された。愚かな男が殺されたのは、愚かさのためだ。
大富豪は豊かであるがゆえに、常日ごろ貧しいヤクザ者の反感を買っていてから、身におぼえのない復讐の犠牲になったのである。

人間性をしりぬいていなければ、こんなことは思いつかない。
列子がその系譜に属する老荘哲学の体得者は、徹底したリアリストであるらしい。

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9月28日

『歴史の舞台』(司馬遼太郎)を読む。
司馬さんのモンゴル、イリ紀行。
中国周辺の遊牧民族の歴史がコンパクトにまとまっているので、興味はあるけれど、ごちゃごちゃしてわからなかったと悩んでいた人(もし、そんな物好きがわたしの他にいれば……のはなしだけれど)には、お勧めである。

司馬さんは、イリのホテルで遊牧民族カザフ人の可愛い女の子に会った。
この子はとびきりの笑顔の持ち主で、司馬さんがかんたんな用事を頼んでも、空に抜けるほど明るく美しい笑顔を浮かべて、うけあってくれる。
ただし、絶対に用事をはたしてはくれない。コップ一杯の水を頼んでも駄目である。
云い忘れたが、この女の子の職業はホテルのメイドさんである。

この女の子には悪意はまったくないのだが、サービス業という仕事そのものがさっぱりわからないらしい。
遊牧民族好きの司馬さんは、そうした態度をおもしろいと興がり、好ましくおもっている。いさぎよくて、気持ちがよいということだ。
別の宿では、けんめいに気働き、心配りしてくれる若いメイドさんに会う。
こちらは、元の時代にイスラム教に改宗した漢民族の末裔<回族>である。

ふたりの対照的な態度は、どうやら遊牧民族と農耕民族の文化の違いにある。
第二次産業の工業も、第三次産業の商業・サービス業も、けっきょくは農耕民族という共通の根から派生したものらしいから、遊牧民族にはてんで理解できないものらしい。
カルチャー・ギャップの極みというべきであろう。

唐突だが、遊牧民族というものを想像してみると、「恐れもなく夢もなく」というルネッサンスの女傑の座右銘が思い浮かぶ。
女傑とは、塩野七生の『ルネサンスの女たち』にでてくるイザベッラ・デステだ。
塩野さんも、この座右の銘が好きらしい。
そういえば、あの人の書く主人公たちはそういうリアリストばかりだ。
どこか、砂漠のテントのなかで、宝飾品を愛でつつ、血脂のういたナイフをちらつかせる遊牧民のイメージが浮かぶ。
なんとなく殺伐としているが、したたかでタフそうだ。あたまは切れる。

司馬さんの主人公たちも、けっしてウェットではない。
国民作家ではあるけれど、描かれた国民はしたたかで、タフで、抜け目なく、ときとして「これが日本人だろうか」という疑いがある。
むしろどこか外国の人々ではないかという気がする。ただし、その国はもちろんヨーロッパの国々ではない。

塩野さんは「醒めたリアリスト」であり、そうした歴史上の人物に惚れこむ自分を、戦後という時代が生んだものだと分析しているが、そうだろうか。
大正生まれの司馬さんと、昭和12年生まれの塩野さんを同列に並べるのは、気の毒だけれど、このひとたちは種族としては同じ部類に属している。

その種族をあえて規定すれば、「遊牧人種」といえるのでないか。
もちろん、この場合の遊牧人種はたぶんに気分的なもので、万物がながれ去ることを知っているペシミストであり、なおかつ行動人を好むという特長をさしている。

よほどあたまがきれて、なおかつ自分自身と世界に絶望していなければ、「おそれもなく夢もなく」生きることは不可能だろう。

司馬さんと塩野さんほど、日本の歴史小説において独創性は発揮したひとはいない。月並みな言葉でいえば、天才というほかはない。
その歴史小説の根底にある無常感、というかペシミズムの正体について、わたしはまだつかみかねている。
なんとなく分っているような気分なのだが、おぼつかない認識は、ぞろりとウナギのように把握から逃げ出してゆく。

そもそも、いったい夢とはなんなのだろう。

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9月27日

『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス)を再読する。
翻訳ミステリーを読むのはひさしぶりだ。翻訳は、日本作家の文章にくらべて疲れる。
なんとなく文体がぎごちなくていけない。
間接話法のニュアンスも伝わっていないし、ところどころ意味が分らないところは直訳しているようだ。判じ物のようにしばらく考えてから、原文ではこう言いたかったのだろうと想像する。とても、主人公に感情移入するどころではない。

映画の映像イメージがあるから、なんとか読みこなせたけれど、それがなかったら途中で放り出していたかもしれない。なんとなく細部があたまに残りにくい文体である。
原作者がこった文体の使い手だとおうおうにして、こうしたことがおこる。
シンプルな読み捨て文体の作家ばかりだった昔と違って、現代ではミステリー作家も文学的教養が高いから、ミステリー・ファンだというだけで翻訳ができる時代ではない。
400字詰めで1000枚近い大作を、生硬な翻訳調でやられてはかなわない。
作家が数年を要して執筆した書き上げた作品には、それなりに時間をかけて翻訳してほしいとおもう。
この翻訳では、映画をみたほうがずっとよい。

サイコな魔人、レスター博士を真似して日本のTVドラマや漫画でもずいぶん亜流がでたけれど、書き手の不勉強がわざわいして、狂った精神科医の怖さがでてこない。

小説とは、かけた時間と労力がすなおに出来映えに反映する製品なのだとおもいしる。

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9月26日

親戚がやっている長唄の会にでかける。半日、長唄のおさらい会につきあう。
親戚は長唄の師匠なので、その道の偉い人たちが応援として出演していた。
笛と太鼓をきいていると、日本人としての<軽薄な血>がさわぐ。
会は大盛況であった。
この一点で、家人がやっているお琴の世界とはずいぶん違う。
お琴と尺八の会は退屈で、動員できる人数もわずか。お稽古事としてみると、唄と三味線、日本舞踊は「分割販売可のセット商品」になっている。その強みがいかんなく発揮されているようだ。
お琴も母娘づれが多いけれど、長唄の母娘のほうが年齢層はもっと若い。
そもそも競技(?)人口が若いのだろう。

帰宅して『孤高の鬼たち―素顔の作家たち』(文芸春秋編)を読む。
ジュン文学系作家たちの思い出を、作家や近親者たちが書いたもの。なかなか読ませる。
執筆者の作家たちも、いまではほとんど物故したひとばかり。時代を感じる。

戦後の二年間ほど隣人だった川端康成と山口瞳一家の交流が泣かせる。川端はほんとうにいいひとだった。金銭の面で、山口の親族が大いに迷惑をかけても、少しも気にかけず、泣いて詫びる若い山口を優しく慰めるだけだ。偏屈なイメージが強かっただけに、意外だった。

対照的なのは、今東光が描いた若き谷崎潤一郎。
若いときの文豪は、ほとんど病気にちかいキョーアクな性格であった。だが、頭脳と文才は超一流。東大の同期生たちを絶望のどん底に突き落として、文学を捨てさせて、政治や学問の世界へ走らせた。その人々が後年、各界の第一人者になったのだから、おそろしい男である。

病気といえば、夏目漱石はかんぜんにうつ病だった。
家族はひとりのこらず、狂人だとおもっていたらしい。だが、娘の回顧談をよめば、奥さんも負けず劣らず「すごい」ひとだった。こんな夫婦のあいでに育った子どもが、犯罪者にもならずにすんだのは奇跡であろう。
「親があっても、子は育つ」といういい見本だろうか。

三鷹市下連雀に住んだ瀬戸内寂聴が「太宰治」について書いた随筆は、個人的興味もあっておもしろかった。
むかし三鷹市上連雀というところに住んでいたことがある。
太宰と森鴎外のお墓がある禅林寺というのは、ごく近くにあって、散歩のときにはよく通りかかった。それほど大きなお寺ではない。
恐れ多いような気がして、両文豪の墓にはながいこと詣でたことはない。
引越しがきまって、一度だけ出かけた。
広からぬ墓地に、ちんまりと太宰の墓はあった。
カップ酒や花が備えられて、どういうものか文庫本まであったような記憶がある。
おりしも雨あがりだったので、みなずぶぬれだった。
あれは、どういうことだったのだろう。

瀬戸内寂聴は太宰とは直接の面識がない。太宰が情死して数年後に、三鷹市に移り住んだ。その当時に、興味をもって太宰の足跡を調べたのが、この随筆である。
太宰が仕事部屋にした飲み屋や、いきつけの酒場は、わたしが住んだころにはもうなかったとおもう。熱心な太宰ファンでもないから、気がつかなかったのかもしれない。
古本屋でも、とくに太宰の本を集めているところはなかったと記憶している。
ただし、そのことも保証の限りではない。

わたしごとになるが、心中の場所となった玉川上水は、よく散歩していたから、現場らしい場所には何度も通りかかった。
いまの玉川上水は天然の水源があるわけではなく、下水処理した水を小金井市のはるか先から流しているということなので、水量はごくわずかで浅い。周囲に草がおいしげり、小川というしかない。
荒れ川で、よく人を呑んだという口碑が嘘のようだ。

そういえば、戦後、JR三鷹駅ふきんでは三鷹事件をはじめとして、奇怪な事件や鉄道の大事故がおおくあった。
そんな事故があった日付には、深夜線路わきをとおると無気味な人声がすると、古くから三鷹に住んでいたひとが真顔で云った。
冗談好きなひとだったから、なにもしらないこちらをからかっただけかもしれない。
真偽のほどはさだかではない。

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9月25日

ひさしぶりにひどい風邪をひく。
寝込んでしまって本も読めない。夏風邪はつらい。
しかたがないので、休養日にする。

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9月24日

『黄金伝説』(荒俣宏)を読む。
このごろ、すっかり荒俣の本とはごぶさただ。ひさしぶりに取り出して読む。
内容をすっかり忘れていて驚いた。

「見ると聞くとは大違い」
「百聞は一見にしかず」
「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」

むかしのひとは、いいことをいった。

筑豊に伊藤伝衛門という石炭王がいた。
華族出身で、著名な歌人でもある美女を妻にした。
ところが、妻は年下の書生と「純粋な」恋愛をして、家を出奔した。愛に生きた妻は、後世の人々から絶賛され、石炭王は無教養で、金で華族出の美女をしばったエロ爺ということになって、さんざんに馬鹿にされた。

ところが、荒俣の調べでは、巷間に流布するこの美談は、ちとおかしいらしい。
むしろ、華族出の歌人をもちあげる偏向した見方というべきだ。
貧困の中から身を起こした伊藤伝衛門は、無学である。無教養だ。
華族での奥さんをもらったのは、出戻り娘を金持ちに押し付けたい実家の欲に、世話焼きの三井財閥有力者のおせっかいのためであった。美貌にほれて、強引に金で買ったわけではないらしい。
結婚後には、妻には潤沢な金をあたえて歌集を出版したり、歌会をもよおすなど、好き勝手なことをやらせた。
カルチャー・センターにかよう有閑主婦にみついだといいかえてもいい。
妻が虚栄心を満足させるために女学校をつくろうとしたり、芸術愛好者の妻にこびるように大劇場や壮麗な屋敷をたてた。ただし、すべては無駄だった。
そのあいだに、妻は若い男と不倫して、その子を身ごもった。それは、出奔後に出産した子どもの親権をめぐる裁判で医学的に明らかになった。
妻が家出すると同時に、伊藤伝衛門を嘲弄するような侮蔑的な手紙を、妻の愛人は妻にかかせて送りつけた。

伝衛門は殺気立つ炭坑の若い衆をなだめ、穏やかな返信を書いて離婚を認めた。
当時は、姦通罪という罪状があり、夫である伝衛門がその気になれば、いい気になった恋人たちは刑務所で懲役刑に服さなければならなかったのだから、そのこと一事をみても、寛大な人物とみてあげなければならない。
荒俣が読んだという伝衛門の返信からは、豪気で寛大な男の姿が浮かんでくる。
この結婚生活をのぞけば、伝衛門は立志伝中の人物であり、忍耐のすえ大炭坑を開発し、地域の発展に貢献した偉いひとであった。
ひとことでいえば、古臭い和歌であたまがいっぱいだった妻には、わからない<漢(おとこ)>という人種であった。

荒俣は妻のためにつくった屋敷や劇場をみて、伊藤伝衛門という野人のこころにひそむ高貴な魂を感じとった。
立派な「歌人」には、そんなものはわかりはしなかったのだろう。

伝衛門としてみれば、妻が去ってくれたおかげで、どうしようもなく愚かで身勝手なカルチャー女と縁がきれたわけだから、結果的にはよかったとみずからを納得させたに違いない。
むかしもいまも、ばかにつける薬はない。

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9月23日

『草原の記』(司馬遼太郎)を読む。
司馬遼太郎の遊牧世界への思いを結晶化させたエッセイとも小説ともつかない作品。
この本を書き上げたとき、司馬さんは、
「モンゴルへのおもいは、これで果たした」
と、云ったとか、云わなかったとか。

小説の部分としては、「ツェベクマ」さんという知性すぐれたモンゴル女性の一生が核となるのだが、司馬さんにはめずらしく舞台となるのは、日中戦争から文革、そして現代だ。ツェベクマさんは、司馬さんが以前モンゴルを訪問したときの通訳者だった。

日中戦争時代の思い出を聞くともなしにたずねたとき、ツェベクマさんは、ひとりの日本婦人の名前をあげた。
「高塚シゲ子」という老女性教師である。

そのひとは、満州に自宅を改造して小さな塾をつくった。
そこで満州に住むモンゴル民族の女の子たちに女子教育をほどこした。
ツェベクマさんは、満州で生まれ育った。人種的には、ブリヤード族というモンゴル民族の一部族に属する。
満州国という幻のような国家が存在した中国東北部には、清帝国をつくりあげた満州族のほかに、ほんらいは同じモンゴル民族であるはずのブリヤード族その他の少数民族がいた。
かれらの仲は、概してきわめて悪かった。

どうやら、高塚シゲ子先生は理想家だったらしい。仲の悪いモンゴル民族の他部族に所属する女子を集めて、民族融和の理想を教えようとした。
もちろん、日本風の教育をほどこした。残念ながら、高塚先生には、モンゴル民族特有の文化を教える知識はなかった。
だが、できるならば、それを教えたかったとおもわせる「気韻」は、司馬さんの文章だけからでもにじんでくる。
高塚シゲ子先生は、口癖のように幼い生徒たちに云っていた。
「日本人になってはいけない。モンゴル人になりなさい。モンゴル人のために働くひととなりなさい」

ツェベクマさんたちは、そういう老先生をこの上なく尊敬した。
すでに老年にさしかかる年齢にいたっても、幼年期に受けた教育を徳とした。

高塚シゲ子さんの私塾は、長年の苦労のかいあって、正式の女学校として認可される。
だが、その三ヶ月後に、ソ連軍の侵攻がおきた。山中へ逃げ込んだ高塚さんは、ソ連兵の流れ弾で死んだ。

司馬さんは、日本で「高塚シゲ子」さんの足跡を探したが、結局は「シゲ子」という名にどんな字をあてればよいかもわからなかった。
ただ知り得たことは、その最期の様子だった。教えてくれたのは、当時学校にいた女性教師だ。そのひとは遺品の櫛を遺族にわたしたが、住所も名前も忘れ果てていた。

あの侵略戦争の時代にも、そうした篤志家の日本人がいた。その努力は当時の世間からみれば、「物好き」でしかない。

えらい人がいたものだ。

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9月22日

『精神の危機』(平井富雄)を読む。
ストレスによって現代人のこころがいかに蝕まれているかを、精神科のお医者さんが懇切丁寧に解説してくれた本だ。昭和五十年に出版されているが、いまなら新聞の健康欄でももっと突っ込んだことが書いてある。
それだけの本である。

ひとつだけ気になることがあって、どうにもわりきれない。
それは、著者がとんでもないことを書いているからだ。

十九世紀末ごろ、当時パリで評判だった<動物磁気>治療者メスメルの治療方法を調査することを、当時のフランス王立学士院がサルペトリエール病院院長ジャン・シャルコー教授に依頼した。シャルコー教授は弟子のフロイトとベルネームを加えた調査団を組織して、さっそく調査にあたった。
――という主旨の文章が数ページにわたってえんえんと描かれている。

じつは、これがとんでもない間違いなのである。

メスメルは1815年に死んでいる。
シャルコーは1825年に生まれて、サルペトリエール病院院長になったのは、1862年である。
だから、こんなことがあるはずがない。
ちなみに、メスメルが活躍したのは仏王ルイ十六世のころだ。王立科学学士院と王立医学学士院のメンバーで審査委員会をつくり、王立協会会員から調査委員会をつくって、メスメルの治療を調査するように命じたのは、他ならぬルイ十六世だった。
しかも、それは十八世紀半ばのことだ。

また余計なことだが、フランスは普仏戦争に敗北した1870年以降、共和制に移行している。
十九世紀末に、王立学士院などがあるわけがない。

もっと大事なことは、ベルネームはシャルコーとは学問では不倶戴天の敵だった。
ベルネームがシャルコーの弟子であったことは一度もない。

フロイトはシャルコーの弟子だが、ベルネームからも催眠治療を学んだ。
三人の人間関係をフロイトの目から見ると、師匠のシャルコー、同学の士であり年長のベルネームということになる。したがって、この記述はいいかげんな精神分析の概説書を、そのまま受け入れてしまった事実誤認とみなすべきだろう。

この架空の調査に参加したことで、「ノイローゼ」という病気が発見されて、フロイトやベルネームが精神療法を創始するきっかけを掴んだと、著者はのべているが、以上のことを考えれば、まったくの妄言というしかない。
この記述と考察に、180ページ弱の新書版のうち、7ページほどをついやしてしまっている。

これぐらいのことは、簡単な人名辞典や百科事典でチェックすればすむことだ。
べつの箇所で「フリードリッヒ・アントン・メスメルは、ドイツのどこからかパリにやってきて」とあるところをみると、メスメルのファースト・ネームが「フランツ」であることを知らず、しかもメスメルが「ウィーン」の出身であるという有名な事実も知らなかったようだ。
ここからみる限り、メスメルの死後にその論文集を出版したヴォールフェルトという医師がファーストネームを「フリードリッヒ」としてしまった間違いを踏襲している。
この間違いをそのまま受け入れたいいかげんな本をタネ本にしてしまったために、おかしな記述をしてしまったのではないか。

どうやら、その元凶はフロイトの精神分析に対する侮蔑にあるらしい。
医学部出身の精神医学者は、フロイトの流れをくむ「精神分析」や「分析心理学」(厳密には、ユング派)には冷ややかである。
フロイトの無意識説が「トートロジー」(無意味な同語反復)であり、後の世代の心理療法が「反論の入る余地のない詭弁を弄しはじめた」と認識するのであれば、その開祖のことをまじめに調べる気にもならなかった。
たぶん、そんなところだろう。

おもいこみとは恐ろしい。

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9月21日

『続・心療内科』(池見酉治郎)を読む。

心療内科とは、「こころ」が身体にはたらきかけておこる病気をいやすことを目的とした医療だ。代表的な病気としては、過敏性大腸症とかパニック障害があげられる。こうした心因性ストレスでおきる病気を治療する。

じつは、こうした病気は内科や外科にいってもなおらない。
薬をくれるけれど、それは気休めにしかならない。原因が「こころ」の負担にあるからだ。内科医や外科医の領分ではない。 「それは、精神的な問題だ」 というのが、決まり文句であるけれど、患者にとってこれほど意味のない言葉もない。
精神なら、どうにでもなるという「傲慢さ」が、その言葉には潜んでいる。
言外に、
「忙しいから、来るな。そんなもの、たいしたことはない」
という冷たさが透けてみえる。

わたし自身も、医者からそのように「あしらわれた」体験がある。患者にとっては口惜しいことだが、いいかげんに「あしらわれた」としかおもえないのである。

この本は、「交流分析」という手法や、自己催眠にほかならない「自律訓練法」を紹介している。
フロイト派とユング派の「精神分析」療法や、ロジャーズの「クライアント中心療法」については以前にかなり本を読み込んだ。
そのとき、最近では「交流分析」というのが、流行らしいことをおぼろげに知った。
「交流分析」について、なるほど、そういうものかという輪郭がつかめた気がする。
心理療法士になろうという気はないから、それで充分だとおもう。
こころのなかに、「親」と「こども」と「おとな」が共存していて、ひとは幼児期に両親に刷り込まれた人生にたいする構え(「脚本」とよぶ)をもって、人生を生きていく。
これが「交流分析」の枠組みだ。
なるほど、さいきんの「こころジー」は、みごとなまでにこのエピゴーネンだ。
この場合、マスコミに登場する素人心理学を勝手に「こころジー」と呼んでいる。
タレント学者さんたちがかみ砕いて教えてくれる「素人心理学」は、雑談か世間話くらいな値打ちしかないと、由緒正しい「ど素人」のわたしはおもっている。
すくなくとも、フロイトやユングその他の心理療法家、精神医学者たちの伝記を読む限り、そうおもえる。人間は一般論的な「こころジー」で説明できるほど、単純にはできていない。

著者の池見さんは、すくなくとも、気楽に世を渡るタレント学者さんとは違っているようだ。
生きることに、とっても苦労している感じがある。
そして、一生懸命書いていることが文面から滲み出ている。

こういうお医者さんや、精神医学者は信用していい。 フロイトなどの心理療法家たちの伝記を読破していくことで、そのことだけはわかった。

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9月20日

『よみがえるロシア』(五木寛之対談集)を読み終る。

五木寛之が「うた」に関心の深い作家であることは、『涙の河をふりかえれ』などの演歌ものを読んで知ってはいた。
どうやら、そのことには、「風の民」ともいうべき「遊牧民」やジプシーのような「漂泊民」への思い入れが根底にある。
ロシア国内のジプシーたちについて、五木はなみなみでない関心をもっている。
もっといえば、ロシアというかつて大農業国であった国と、その民がその背骨に抱え込んでいる「漂泊への意志」が、五木を無類のロシア好きにしている。
ロシアというと大地に根ざした農民文化をイメージしてしまうが、歴史的にみると、どうもロシアの農民はくらしに困ると、うろうろと新天地をもとめてさまよいだす癖があるらしい。
文字の記録がない農民たちは、口承文芸で<記憶>をつたえる。
口承文芸とは、つまりは詩であり、かんたんにいえば、<うた>である。

中世人のように、漂泊を「聖なる業」とかんがえている五木には、そうしたロシア農民の心性がただごととはおもえない。

すべては、消え去る。それでいいではないか。
人生は山登りみたいなものだけど、下山することも山登りのうち。
永遠に若いつもりで、ばりばりと<作る>ことばかりにかまけていずに、自分はいつか舞台から退場するのだという冷徹な事実をわきまえて、人生を味わいながら生きたらどうか。

五木の「風の記憶」とは、「人生は漂泊だ」とする中世人の人生観にかなり近似している。

ウクライナの大平原を遊牧するタタール人や、インドから西方へ旅をし続けるジプシーに思いを寄せる。そのことは、地球的な規模での「漂泊の意志」を、理屈でなく、感じたいという希望のあらわれである。

還暦をすぎた五木が、どうにも若々しくみえて仕方がないのは、精神の体質において、いつまでも「荒野をめざす」青年だからかもしれない。

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9月19日

『よみがえるロシア』(五木寛之対談集)を読む。
ロシア史が専門の歴史学者山内昌之との対談で、五木はおもしろいことをいっている。
「商業」、「農業」といったおよそ産業というべきものは、本質的に「業」(ごう)だというのである。
この場合の「業」とは、もちろん仏教的な意味で、五木は「原罪」にも似たマイナス・イメージとして使っている。

「農業」は大地と自然からの不自然な収奪であり、「商業」はものを生産することなく利潤を生んでいる反自然的な行為ではないか。
よりたくさんの収穫を得るために、大地を痛めつけ絞り取る。より多くの利益をあげるために、純粋に自然法則的に考えれば無駄であるはずの余剰をゼロから送出する。ひどいときには、欲望を人工的につくりあげて、消費をあおる。どんな昔であっても、商業の本質が欲望の創出にあったことは間違いない。

このことについて、後ろめたいような、「危うさ」を感じる心性が、ほんとうは必要なのではないかと、五木は考える。
余剰をいかに蕩尽するか。経済人類学者のいうポトラッチのような祝祭は、考えていないようだ。
僧侶、学者、芸術家といった本来の生産物をなにもつくらない「無用の存在」に、喜捨することが、「業」を消す手段としてずっととられてきた――というのが、五木の考えだ。
「業」はキリスト教の「原罪」と違って、ひとがものを無償で提供することによって、消すこともできる。
そこが、西洋社会が生み出した救われない倫理哲学に、アジア文明が陥らずにすんだ秘密だ。

だが、五木はもう一歩すすめて、生産の余剰を「無用者」に施すやり方とは違う別の道がありそうだと考えている。
それは、地上から消え去ることを根幹の価値にすえた「非定住者の文化」らしい。
ユーラシア大陸の遊牧民や日本の非定住民族(山人族)に、その祖形的イメージをもとめる「風の民の記憶」がそれだ。

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9月18日

午後に再放送している教育TVの「ロシア語講座」をたまたまみる。
ロシア語はむかし齧ったことがある。入門書を読了して、ラジオの「ロシア語講座」初級編を五、六年きいた。いまでは、おぼろげにしか覚えていない。だが、どこか懐かしくて、たまにTVの語学講座をみる。
ロシアの作家が登場して、民主化以後のロシア共和国の混乱と、独裁制の復活を待望する声がたかまりつつあることを語っていた。

ふいに以前から気になっていた本がどうして読みたくなり、近所の本屋に出かける。
五木寛之の『よみがえるロシア』という対談集だ。
国政の頂点にたつ人間まで汚職にまみれたあの国と、これからどうつきあっていけるのだろう。
いっぽうでは解体されつつある軍隊から放逐された旧軍人家族15万世帯が、宿舎を追われ住む家もなく、冬をむかえようとしている。
「民主制は最悪の政治形態だ」
というのは、ロシアで見捨てられた人々の正直な本音だろう。

読み出したばかりなので、いつものようには書けない。
対談者として登場するのは、ロシア文学者、歴史家、ジプシー歌手、ノンフィクション作家と多彩な人々で、五木はこの人たちに自分の思いを投げかけ、その反応で切り結ぼうとしている。

なかみが濃いので、薄い本ながら、なかなか読み進めない。
自分の抱いている常識が、養鶏場の白色レグホンの卵殻や明け方の夢でもあるかのように、おぼつかなく、弱々しくおもえて何度も立ち止まり、自問する。

五木の本は一九九二年に出版された。だが、そこで語られている問題は、いまでも少しも古びていない。それどころか、ますます先鋭にその姿を顕わにしている。

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9月17日

雨が降っていたので、読書意欲がわかない。
こんな日に読めるのは、辞書か古本だけだ。
『江戸名所図会』をとりだして眺める。ちくま書房が文庫で復刊してくれたおかげで、オリジナル挿し絵つきの名著がよめる。

絵をみるだけで楽しい江戸の案内図だ。なにも考えずに挿し絵を眺める。
あたまは、どうにも働かない。
こんな日もあるさ。
あしたは、へたの横好きの絵でも描くか。

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9月16日

『古往今来』(司馬遼太郎)を読む。
司馬さんの友人、故・須田剋太氏はすてきな画家だ。
どこか童子のような、ひたむきで浮世離れした「人外の精霊」のおもむきがある。
司馬さんの作品に出てくる主人公たちと「風韻」をおなじくする。
司馬作品が好む「人間の傑作」のひとりであることは間違いない。
氏の作品は紀行シリーズ『街道をゆく』におさめられている。だが、小さな挿し絵にすぎない。
現物をみた。もちろん、展示会でだが。
凄い。蒼白とした寂しさが漂う日本の洋画家の作品ではない。たくましい。荒ぶる魂を秘めた優しさがある。


寝床で『ラプラタの博物学者』の第一章を読む。生涯の愛読書である。
著者ハドソンの自然を観る目はすてきだ。
しかし、この書物にひとつ難があるとすれば、やたら「げっ歯類」の記述が多いこと。ねずみの仲間は大嫌いだ。

ついでに『世界文学をどう読むか』(ヘルマン・ヘッセ)の独語原書をレクラム文庫で読む。
なんだか、ドイツ語っていいなとおもう。

おまけに『明恵上人集』の「夢記」を読む。
十ページほど読んだだけで寝てしまったが、夜中に坊さんと仏さんが出てくる夢をみてめざめる。
そのまままた寝たら、翌朝には夢を忘れてしまった。
もったいない話だと、反省する。
生涯にわたって夢日記をかきつづけた明恵上人は偉いひとだ。

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9月15日

「死出の雪」(隆慶一郎)を読む。講談社文庫『柳生刺客状』に入っている短編。
ある仇討ちを描いたものだが、冒頭の一文が気にかかる。

「すべて女が悪い」

事件のあらましは、こうだ。
思い上がった若侍が剣士に卑怯な真剣勝負をしかけて返り討ちになる。
剣士は逐電して、藩庁はことをおさめた。だが、若侍の実母はおさまらない。後妻で入った家の侍の腹違いの兄たちを責めぬいて仇討ちを決行させる。弟の仇討ちなど、江戸期の法律では許されないから、兄たちは違法を承知で脱藩する。
たとえ敵討ちに成功しても、藩に帰参することはできない。つまり、実母は腹を痛めたわが子かわいさに、継子の家を継いだ長男と別家を継いだ次男の家をとりつぶさせたわけである。

これが悲劇の始まりだ。兄弟は返り討ちにあって死ぬ。
悲劇はもうひとつある。
心ならずも仇となった剣士は、大坂である女とめぐりあい、所帯をもつ。
兄弟は後を追って大坂へ出てきた。兄弟へ手紙をもってゆく使いに行った女は、兄弟が侍たちにとりかこまれているのをみて、助っ人がおおぜいいると勘違いする。
そこで、夫に無断で夫の弟や友人たちに助太刀を頼む。夫は怒ったが、かつて若侍がおおぜいの助っ人をひきつれて決闘にのぞんだことから、助太刀をうけいれる。女に愛着の念を捨て切れず、なんとしても生きたいと願ったからだ。

だが、立ち会いの場には兄弟ふたりしかいない。
じつは兄弟たちのとりかこんでいた侍たちは、無駄な仇討ちをやめさせるために大坂藩邸から説得におもむいていたものたちだった。
兄弟は助っ人たちに切り刻まれて死ぬ。
剣士は恥じて兄弟たちの墓前で切腹してはてる。

「女がわるい」―― とは、
手前勝手な若侍の母だけだろうか。

考えてみれば、憑き物がついたように、兄弟を責め立て、ついには藩の重役の家々までおしかけて仇討ちを願った継母さえ黙らせればすんだことだ。
ひどい話だが、座敷牢でもつくって継母を閉じ込めておけば、兄弟は家を捨てることはなかった。
だが、この兄弟は甘ったれた母子をおもいやって、末弟が自分たちの家を相続できるようにわざと妻帯しなかった。あくまでも親孝行なのである。末弟を斬り殺した剣士の父が謝罪にきても、恐縮するほどできた男たちだった。
心理学的には、この「いい子すぎた」兄弟は昨今話題の「母子関係の罠」にすっかりからみとられて、精神的に自立できていなかったといえる。
だから、母を座敷牢に閉じ込めることも、なんの役にもたたない仇討ちなどやめてしまう智慧もわかなかった。

立ち会いの日、兄弟は酒をつめた角樽をたずさえて出かけた。
なんのために、そんなことをしたのだろう。
勝負に勝って、ふたりだけで祝杯をあげるつもりだったのだろうか。

すこしうがちすぎた考えかもしれないが、こんなふうに感じている。
ふたりはやっと「いい子」を止められたのだ。それが嬉しくてならなかった。
やっと母の呪縛から離れて、「大人」になれたのだ。
仇討ちは、「自立した一個の人格 ―― 大人」への旅立ちだった。
その先が生であろうと、死であろうと、兄弟にとってはどうでもいいことだったにちがいない。

ひるがえって、兄弟の墓前で切腹した剣士はどうか。
ことの是非はともかくとして、
「女の浅知恵にしたがったばかりに、士道をあやまった」 という無念が剣士には残った。
むしろ田舎者の兄弟に、同士愛のようなものを感じた。そのとき、女との今後の生活は、あきらかに眼中になかった。

やはり「すべて女が悪い」?

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9月14日

『最後の伊賀者』(司馬遼太郎)を再読する。
忍者という異能人種は、このごろの時代小説では影が薄い。しかし、おもしろい時代小説には、この種の異能者が必要不可欠だ。

異能者をどのように設定して、肉付けできるかが時代小説家の腕のみせどころ。
司馬遼太郎は忍者を薄っぺらい講談本から解放して、現代日本にもいそうな闇社会の住人としてとらえなおした。
組織を否定して技能だけを頼りにいきる現代日本人のあるタイプに、忍者の心性を重ねあわせる。それは司馬さんの達見だろうか。それとも、高度成長時代の雰囲気がそうさせたのか。

ところで、司馬さんはもともと怪奇譚や幻想文学の名手だ。それは長編『妖怪』や短編「牛黄加持」という室町、平安時代を描いた小説をみればわかる。この人ほど超自然をリアルにかけた小説家は、この人の出現以前にはいなかったとおもう。
その技量のうえに、膨大な史料を参照したわけだから、とんでもない傑作ができないはずがない。

それにしても、『伊賀者』や『最後の伊賀者』に描かれた忍者たちの陰惨な風貌はなんとしたことだろう。
心を化外のものに売り渡したかれらの子孫は、いまもわたしたちの隣にいる。

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9月13日

うだうだと『砂払』を読む。
巻頭から通読するかわりに、ぱらぱらとページをめくって読む。

「家猪(ぶた)も白魚も食った客」
いろんな体験をして、物知りになった遊女屋の客のこと。なっとく。

「州崎へ上がった鯨のやうに目ばかり細くして」
江戸時代は、品川に鯨が打ち上げられたこともあるらしい。寛政十年5月(1799)とか。

「先づ当時食はぬものは、四つ足で籠舁きと炬燵やぐらなり」
洒落らしいが、「四つ足で食わないのは、机だけ」という中国の諺に似ていておもしろい。

ヲランダ語の童謡。
AWANO
MOTIMO
IYAIYA
ZOBAKIRI
ZOMEN
KOEITAI
NA
ヒダリヨリ ヨムベシ
これは、洒落本に、いまでいうローマ字の形式で書かれたいた童謡。
「粟のもちもいやいや。蕎麦きりそうめんくいたいな」
という意味だ。
「you might Oh Moedomo」と同じたぐいの洒落か。

江戸の人は、おっちょこちょいなくらい好奇心旺盛だ。知りもしないオランダ語を、生半可に使うあたり、原語の意味と違う「じゃぱんぐりっしゅ」を会話になだれのようにぶちまける「ジャパニーズ びじねすまん」の先祖のことだけはある。

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9月12日

『砂払』(山中共古)が岩波文庫で重刊したのを発見。さっそく買う。
もと幕臣だった著者が江戸時代の洒落本を読破しまくって、エッセンスをダイジェクトにした本である。世態風俗はもちろん、悪態から、芸者・遊女の口説まで書いてある恐るべき江戸雑学の百科事典だ。
校訂者は「江戸小百科」と副題をつけた。なるほど。

ところで、この本が書かれたのは大正時代はじめだった。
しかも、山中共古はクリスチャンであり、宣教師。19歳で維新後に静岡でつくられた英学校の教授となったというから、洋学をそうとう勉強した人物らしい。
創成期の日本民俗学にも大いに貢献して、柳田国男との交換書簡が柳田の名著『石神問答』に公開されているとか。

江戸期の日本文化が、いかに基礎体力に恵まれていたか。
山中共古のような人物は、そのことのいい証拠だ。

ところで、まだ『平家物語』は続く。
『火燧合戦』(ひうちかっせん)、『倶利伽羅落』(くりからおとし)と、押し寄せる平家の大軍を迎え打つ木曽義仲の戦術的天才がひかる。
加賀国篠原の合戦では、古武士斉藤実盛の最後が物語られる。
老武士斉藤が白髪を染めて、戦場に出たという例のエピソードだ。
斉藤実盛はもと越前の住人だったが、平家に仕えて武蔵国長井の荘園を管理することになる。ほんらいは源氏派だった。
頼朝の兄(=悪源太義平)が木曽義仲の父を勢力争いで殺したとき、ついでに殺されかけた幼い義仲の生命を救ったのは実盛だった。
『平家物語』の渋い脇役である。

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9月11日

『時代小説の愉しみ』(隆慶一郎)を再読する。
身辺雑記あり、歴史を熱く語るエッセイありで、なかみが濃い。

いつも、この本を読むたびに、この人にあと十年ほどの余命があれば、どれほどの豊かな仕事ができたかをおもう。
隆氏が描きだす武田信玄や北条氏康は、手垢にまみれたイメージを吹き飛ばす<哀しく美しいいくさ人>だ。そんな信玄や氏康をぜひ読んでみたかった。
「戦争芸術家」上杉謙信も、あたらしい魅力をもって蘇ったことだろう。

「どうして時代小説ばかり書くんですか」
そう訊かれた隆慶一郎は、こう答える。
「死人のほうが生きている人間よりも確かだからでしょうね」

まったくのところ、死者たちの決然とした風貌の見事さはどうだ。
―― 隆慶一郎

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9月10日

『十二世紀のアニメーション――国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの――』(高畑勲)を読む。

『信貴山縁起絵巻』と『伴大納言絵詞』をメインにして、絵巻物が世界史でも類をみない高度な時間表現をなしとげたかを、高畑勲監督がアニメーション・映画の技法にもつづいて解析した。
この本は、勉強好きな高畑監督の労作であると同時に、演出家高畑勲の仕事ぶりを教えてくれる。ぎゃくにいえば、天才演出家高畑勲だからこそ、「絵巻物」に秘められていた時間表現の秘密を発見できたといえる。

ところで、オリジナリティあふれた二つの作品が同じ時期に作られて、しかも後の時代にはその発想が継承されていないことに、高畑監督は注目する。
そこには、ひじょうにすぐれたプロデューサーが存在していたはずだ。
高畑監督は、クライアントであり、ついでにプロデューサーでありえた人物として後白河法皇を考える。たぶん、その推理は正しいだろう。

それを考えると、後白河法皇とは政治的には有能ではなかったが、日本文化の発展には大変な貢献をした人だといえる。
「日本一の大天狗」といって頼朝が法皇を恐れたとするのは史料の誤読であり、ほんとうは法皇の側近の貴族を手紙でそうののしっただけだと、最近の史学ではなっているらしい。

後白河法皇は、将軍足利義政とならんで、日本文化史上の隠れた巨人だった。
為政者としての態度には、ふたりともずいぶん疑問があることも共通している。歴史のおもしろさは、こんなところにある。

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9月 9日

『平家物語』にすっかりはまる。
気分はすっかり12世紀。このままでいくと、日常会話も古文になってしまいそう。この日記をそんなふうに書き出したら、かなりアブナい。

巻六まで読み終わる。
清盛は熱病で死に、前後するが、富士川で平家の大軍は水鳥の羽音に驚いて潰走する。
昨日の日記に、ひとつ誤解を招きそうな表現があったので訂正する。
文覚のことを読み返すと、法皇の宴席に殴り込んだことはいちど天皇の生母(美福門院)が亡くなったときの大赦で許されていた。
伊豆に流刑になったのは、大赦されてもなお、おおぜいの貴族の邸宅におしかけては寄進をせがむので上級貴族たちがほとほと閉口したからであった。

文覚は頼朝と会うと、懐から髑髏をとりだした。
それは頼朝の父、義朝の首だという。斬首されて、獄舎のまえにうち捨てられて転がっていたのを、自分が拾ってきて、二十年いじょうも弔ってきた。ついては、父の髑髏のまえで反乱を決意せよというわけだ。
どうも、やることがウソっぽい坊主だ。

今日読んだあたりには、奈良焼き討ちあり、美女「小督」と高倉天皇の悲恋あり、木曽義仲の蜂起ありとなかなかみどころがおおい。
死んだ平清盛がじつは白河上皇の隠し子だったという事実が明かされるのも、ここだ。
たいていの日本史家は『平家物語』の記述には不正確なところがあるといいつつも、清盛が上皇の隠し子だったことは認めている。

ただし、このころは天皇や上皇の隠し子であることは、あんまりメリットはない。
零落して遊女になった子孫もいるし、ひどい場合には暗殺される。政争に巻き込まれたら、まず助かるみちはない。いま考えるほど、めぐまれた地位ではない。
一般論でいえば、裕福な庶人の子女だったほうが幸せだったのは間違いない。

日本の浄土教や念仏宗に興味ある人であれば、平清盛が慈恵大師の生まれかわりと明かされていることに注目したい。
慈恵大師とは名前を良源といい、京都では「角(つの)大師」とか「元三大師」といったほうが通りがよい。
恵心僧都源信の師匠であり、日本に念仏宗を開花させる土台つくりをした人である。

その人の生まれかわりであることは、有徳な僧の夢見によって、京都じゅうの人間が知っていたそうだ。

『平家物語』の作者は、平清盛を「悪業も善根も共に功を積んで、世の為人の為に、自他の利益をなすとみえたり」と表現する。
「くだんの入道はただ人にはあらず」という言葉ともあいまって、歴史変革の旗手だった清盛の偉さは、源氏の世の中になっても、わかる人にはわかっていたんだなとおもう。

『宇宙消失』(グレッグ・イーガン)を読み出す。
わるい癖でよけいなことをうだうだ考え出してしまった。それは読了してから、書くことにする。

『12世紀のアニメーション』(高畑勲)を購入。
国宝の絵巻物の秘密を、日本アニメ界の巨匠高畑勲がよみといた!
なんだか凄い。とっても凄い迫力がびりびりとつたわってくる。じっくり読むことにしよう。

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9月 8日

ふたたび『平家物語』を読む。
いよいよ頼朝の反乱にさしかかり、いっきに物語は佳境に入る。

ここで「文覚」という怪僧が登場する。
『平家物語』では詳しくは語られていないが、この男はもともとは武士だった。同僚の妻に横恋慕して、言い寄ったあげくに女を斬り殺した過去がある。これは夫を殺して、自分と一緒になれと迫る相手を、人妻が欺いて夫のかわりに我が身を殺させて、夫を救ったという事件だ。
その行為にうたれて、出家したわけだが、もともと逆上型の性格だったので危険な修行ばかりした。厳冬に滝に打たれて失神して、すんでのことで溺れ死にそうになったこともたびたびだ。とおりがかった人が気の毒におもって救うと、余計なことをするなと逆恨みする。つくづくイヤな性格だ。

このとんでもない坊主が、伊豆で田舎娘と楽しく恋愛生活をおくっていた頼朝をけしかけて、平家への反乱をそそのかす。

それも、動機はほとんど私怨といっていい。
自分がある寺を再興しようとしたので、ついては寺へ経営基盤となる荘園を寄進せよ。
勝手にそう思いこみ、後白河法皇の宴席に殴りこみ同然に乗り込んだ。結果は、伊豆への流刑である。
それを恨みにおもって、同じ伊豆にいた頼朝に反乱をけしかけたのである。
こんな自分勝手な悪人と出会ったのが、運の始めだから、人生はわからない。

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9月 7日

『アルベマス』を読んでからというもの、ディックがなつかしくなった。
そこで『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を再読する。

『アルベマス』を読んだときも感じたが、ディックの小説は道具(ガジェット)こそSFだが、その世界はもはやノベルティだけを追求するジャンル小説のものではない。
『電気羊』を最初に読んだ20数年前はもちろん名作だとおもったが、10年近く前に再読したときには、SFの臭みが鼻についてきた。これを原作にした映画『ブレードランナー』の世界観のほうが気に入っていて、原作小説が古ぼけてみえたせいだ。
原作のアンドロイドが「レプリカント」、賞金稼ぎが「ブレードランナー」。酸性雨に濡れそぼるレトロフューチャーな未来都市や、ワカモトの無気味な電子看板や、ウドンと寿司をごっちゃにして売る屋台の日本人、無国籍な言葉をしゃべるヒスパニックな風貌の刑事とか、サイバーパンクな(時期からいえば、映画のほうが先だけど)人々はたしかに美しくてかっこよかった。

それに比べると、原作はどうにもいかさないうえに、主人公に感情移入ができなかった。
ひとことでいえば、なんにもわかっちゃいなかった! ――と、激しく反省する。

でも、いま読んでみると、ここに描かれているのは「今どきの日本人だな」とおもう。
感情移入能力が擬似人間、合成有機ロボット「アンドロイド:ネクサス6型」と人間を識別する鍵――というわけで、賞金稼ぎデッカードは感情移入能力の有無を検査して、外惑星から不法に地球へ逃亡したアンドロイドを処理(=射殺)してゆくのだけれど、こんな検査がもしあったら、いまどきの日本人はだいじょうぶかいな。
神戸の少年や、和歌山の中年女性、長崎の○○母は、かなりあぶないのではないか。
ひるがえって考えてみれば、こうした報道に接して、「社会に問題がある」という知った風なマスコミのワイドショー的放言に、裁判官か検事にでもなった気でうなづくわたしたち自身のほうも、そうとうアヤしい。自分が「アンドロイド」か人間かわからなくなるデッカードや同僚の不安は、わたしたちには親しいものとなってしまった。

小説では地球は核戦争後の放射能灰で覆われているけれど、いまの地球も環境ホルモンやダイオキシンですっかり汚染されている。オゾンホールにも穴をあけてしまった。
いまでは南極だけでなく、北極にもチベット上空にも穴があいている。
ああ、穴があったら、入りたい。――なんのこっちゃ、閑話休題。

機械製の電気動物しか買えない貧乏人のデッカードよりも、日本人はたいへんだ。
都会の住宅事情では生き物なんて飼えないから、電動式ペットを飼いはじめた。それでも居住スペースの慢性的な不足から、PCのメールソフトやスクリーンセイバーのなかで電子動物を飼っている。まさか、そんな気の毒な民族が地球上にほんとうに出現するとは、ディックでさえ想像できなかったのではないか。

優しく善人そうにみえる女性「アンドロイド」でさえ、なんの感情もなく生き物を殺してゆくシーンがある。知的障害のある登場人物が涙を流しながら、生き物を救おうとする。もちろん、この登場人物は人間だ。
知能や運動能力にかぎっていえば、「アンドロイド」のほうがこの登場人物よりもはるかに上等だ。前に読んだとき見過ごした細部が、みょうに腑に落ちた。

放射能灰で汚染されつくした地球や、そこを脱出して外惑星に移住した人間たちが、<共感ボックス>という一種の擬似体験マシンを使ってアクセスするマーサ教という宗教が登場する。マーサという、ひとりの老人がえんえんと岩だらけの荒野の坂道をのぼる体験を追体験する。しかも、石がとんできて、ぶつかると、マシンをつかって仮想現実にアクセスしているユーザーも怪我をする。それが魂の救済のドラマとして、困難をきわめる未来社会に生きる人間の心のささえになっている。

ところが、人間を憎むアンドロイドたちは、マーサが三文ハリウッド映画の大部屋役者であることを暴露する。だが、知能障害の登場人物もデッカードも、<共感ボックス>をつうじてマーサにアクセスすることをやめない。
マーサとは、十字架にかけられた救世主のディック流の再生イメージだ。

ディックという作家は「ひとが救われることとはどういうことか」と、生涯にわたって問い続けていたんだとやっとわかった。

『平家物語』は『朝敵揃』(ちょうてきそろえ)から『かん陽宮』に進む。
相模の武士、大庭景親が伊豆で源頼朝が反乱したのを制圧したことを報告する。
『かん陽宮』では秦の始皇帝暗殺を謀った燕国の太子丹の故事が語られる。
壮士・荊軻が活躍する暗殺計画である。
頼朝も太子丹みたいに失敗すると追従したひとがいたとして、このストーリーを挿入したように書いている。だが、平家物語には作者の学識を自慢するような故事来歴がいっぱい入っているから、そうしたもののひとつと考えるべきだろう。
もちろん、橋本治氏が云うように、東アジア史のダイナミズムを平家物語が包含しているという見方には大賛成だ。

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9月 6日

平家物語巻第五『物怪』(もっけ)を読む。
源頼政と以仁王の反乱を平定し、反乱にくわわった三井寺を焼き討ちした平家が福原へ遷都したあたり。
清盛の身の上におこった怪事が語られる。
清盛の寝室に怪しい巨漢が顔をのぞかせて、すぅーっと消える。
邸宅の庭で巨木が倒れる音がして、なにごとかと人々が外をのぞくと、からからと大勢が哄笑する声がする。魔除けの鏑矢を放つと、嘲笑うような天狗の哄笑がする。

圧巻は清盛が寝室の引き戸をあけて、怪異にあった事件である。
清盛が庭をみると、無数の髑髏がころがっている。それもくるくると地面を転がりながら、ぶつかってはうつろな響きをたてている。
髑髏はやがて合体して、ひとつの巨大な髑髏になる。その巨大な眼窩から、無数の眼球があふれてこぼれだす。

こうした怪奇現象を清盛のノイローゼ症状と解釈する学者もいるが、むしろ平家の衰運を描き出す『平家物語』作者の演出であろう。

これに比べれば、貴族につかえる侍が夢で見た神々の劇は蛇足だ。
武士の守護神「八幡大菩薩」が平家の守護神「厳島明神」を会議の席から追い払い、権力のシンボルである宝剣をとりあげて、源頼朝へあたえることを決議する。
そして、藤原氏の氏神「春日明神」は、頼朝のあとに自分の氏子に宝剣を譲るように懇願する。
もちろん、これは源氏三代が滅びてのちに、北条氏の陰謀で藤原摂関家から鎌倉幕府将軍をむかえた史実をふまえた創作だ。

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9月 5日

所用があり、他家を訪問。
電車のなかでニューズウィーク英語版を読んだ。ずっと積読しておいた号の、読み残した記事を眺める。
ジョン・F・ケネディJr の追悼記事と、外惑星の生命をさぐる科学記事がおもしろかった。
翻訳されて書店で安く買えるニュース雑誌をなんで英語で読むのだろうとわれながら不思議だが、本音は英語が好きだからというところ。
日本語で読むよりも、英語で読んだほうが味わいがあるし、翻訳で失われるニュアンスも感じとれる。翻訳はよほどの実力翻訳家でないかぎり、英語の<匂い>が揮発してしまって味気ないことおびただしい。ことに最近の翻訳は事務的だから、とくにそう感じる。
解剖学者養老孟司さんは海外ミステリー、ホラー小説ファンとしても有名だが「ホラーとミステリーは英語で読む」と宣言されている。このごろの翻訳では原作の<香気>がふっとんでしまうからだという。

これからは活字を読めるほどの人であれば、英語は翻訳などではなく、原文をそのまま読んでほしいとおもう。
それは、学習のやり方さえ間違えなければ、学歴・職種をとわず、そんなに難しいことではない。

などと偉そうなことを書いたが、いまのわたしはドイツ語の本を読むのが楽しい。
英語ほどのスピードでは読めないので、たどたどしく読む。それがまたよい。

初歩を脱したばかりの外国語で楽しいのは、単語や熟語のひとつひとつをそれこそ嘗めるようにして文章を読むことだ。
能率が悪いことはなはだしいが、昆虫採集でもしているように、単語や熟語をコレクションする気分で文字の森を散策するのは、本を読む最大の楽しみだとおもう。
英語では、効率を追求するあまり、その楽しみが減っているのを感じる。

本日も寝床で、このあいだ買ったトーマの『悪童物語』を再読した。くたびれたので、次にフロイトの『夢判断』の原書を眺める。
難しさからいえば逆さまだが、フロイトの『夢判断』独語版はいまや愛読書だ。
この本は人間の深層心理を知るための王道だとおもう。

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9月 4日

平家物語巻第四『鵺』(ぬえ)に入る。
源三位頼政の有名な妖怪退治の段である。
頼政は兵庫県に本拠をおく摂津源氏の頭領。清和天皇の子孫であるいわゆる清和源氏は、それぞれ土着とした地域によって甲斐源氏、木曽源氏などのように呼ばれた。
甲斐源氏はのちに戦国大名武田氏となる。つまり、武田信玄の先祖である。木曽源氏は木曽義仲が有名だが、義仲ののちは力を失ってしまう。
ともあれ、頼政である。
当時の天皇は藤原一族とのあいだで繰り返された近親結婚のせいか、ノイローゼや精神病になったひとびとがおおい。
平家物語『鵺』の段では、化け物が登場して頼政が射殺すことになっているが、その他にも夜鳥を射殺して褒美をもらっている。じつは、「鵺」とはその夜鳥のことであって、日本妖怪史上に名高い怪物のことではない。
頼政の先祖、八幡太郎義家も御所のうえにかかった黒雲に弓を鳴らして(古代の悪霊払いの作法)、名乗りをあげて一喝したことで、天皇から褒美をもらっている。
どうやら、天皇一族のノイローゼ体質をパフォーマンスで癒すシャーマンみたいなことも、武士の仕事と考えられていたようだ。

怪物は有名なのにもかかわらず、名前はついていない。泣き声が鵺に似ていたので、後にそれが通り名となった。
頭がサルで、胴体がタヌキ、しっぽはヘビで、手足はトラと描写されている。
いまのわたしたちには、サルとタヌキとヘビのキメラ(合成獣)など、かわいいとしか思えないが、たぶん当時の人にとっては、山神の霊威をそなえた神獣サルと、もとカミであり人の亡魂の象徴でもあった神聖生物ヘビ、日本人ではだれもみたことがなく中国で妖異と神秘と荒ぶる力の神霊とされたトラを合成したことで、怪物の霊威を強調しようとしたのだろう。
トラは中国の神仙譚では恐るべき山神や人の死をつかさどる死神とされる。トラの妖怪譚・怪奇譚もおおいから、平家物語が成立したころにはそうした中国妖怪話が日本に入ってきていたに違いない。

ここでタヌキが登場するのがひとしおマヌケな感じがするが、平家物語が成立した鎌倉時代は日本妖怪史ではタヌキの躍進時代である。
この時代は、タヌキが人にばけて、殺人・食人にふけった。タヌキ史上、タヌキがこの時代ほどグレたことはない。妖怪タヌキの悪党話が量産された時代である。
かわいいタヌキ像は、江戸時代に醸成されたものであって、この時代には霊威をそなえた凶獣とされていた。
だからこそ、悪しき怪物に「タヌキ」のイメージが混交されたのである。
妖怪獣として、地歩をかためつつあったタヌキには、ささやかな一歩ではあったが、意義有る活動として、日本妖怪史上に特筆すべき事件であろう。

ところで、怪物の屍体は「うつぼ舟」にのせて川に流されたという。
古代において怪しいもの、危険なものは大木をくりぬいて作った舟にのせて流してしまうことになっていた。奇形児や無気味な小動物はいうにおよばず、伝染病も紙でつくった人形である「形代」(かたしろ)に封じ込めて流してしまう。
川と海は万能の浄化槽であり、ゴミ箱だった。いい時代だったなぁとおもう。

ちなみに、故渋澤龍彦さんは「うつぼ舟」が大好きであったらしい。
いまならUFOではないかとおもえる異国の「うつぼ舟」に乗って、わが国に漂着した異相の美女の物語を知ったのは、渋澤さんの本からだった。

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9月 3日

『日本外史』を読む。ずっと前から読み出している『平家物語』とシンクロするかたちになっている。
『平家物語』はちょうど以仁王が挙兵して敗れるあたりにさしかかる。
『日本外史』で読みすすんだのは、清盛が病死するまで。
この時代に、やっと武士が歴史の表舞台に踊りでてくる。おもしろいのは、僧兵や武士というのが同じ社会階層であり、群小の武士や下人たちがなんとか人がましくなろうとして、必死の活躍をするダイナミズムは、室町・戦国時代とならんで、日本の歴史の「華」だとおもう。
国のエネルギーがふつふつと沸き上がっている。
12世紀というのは、大きな歴史の変換点だった。
現代がそうであるように。

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9月 2日

ひさしぶりに映画館へでかけて、『ホーホケキョとなりの山田くん』を観る。
これは高畑勲監督の最高傑作だ。
ちょっと泣けて、どっさり笑える究極のお勧めの映画。アニメだから、あの絵がどうもといって敬遠するなら、それはまちがいだ。

売店でバンフレットと、キネマ旬報のムック『山田くん特集号』を買う。
帰りの電車で両方を読む。

『となりのやまだ君』は、アニメーションの革命だ。
この作品にはいっさいセル画がつかわれていない。アニメーターが手で描いた絵をスキャナーでとりこんで、彩色・動画・撮影はデジタル処理された。
凝り性の高畑監督のチェック攻勢で、おおはばに作業が遅れたにもかかわらず、今夏公開にこぎつけたのはデジタル処理のおかげだ。『もののけ姫』で超進化したジブリCG部の本領発揮というところ。
それだけではない。
あの余白が多くて一見お手軽な絵には、センスと巧妙な技法が濃縮されている。
「アニメーションに対する感性」というものは、あんまり認められていないけれど、確かに存在するとおもう。アニメの画像をみただけで、作り手の「凄さ」度をピピッとわかってしまう能力(ちから)だと、勝手に定義している。
そういう感性のあるひとが、『山田くん』をみたら、たちまちビリビリと感電してしまう。

高畑さんは静かに革命を実行する仕事師タイプの英雄だ。

くそ真面目で、現実と折り合いのつかないファンタジー好き人間たちに、もっと肩のちからを抜いてみたら、というのが制作意図だと、高畑監督はパンフレットに書いている。
自分もどちらかといえば、そっちに近いかなとおもっているので、映画をみる前には「なにをいってんのかいな」という気がした。観たら、監督がなにを云いたかったのか、わかった気がする。しかし、まだ感動が熱く残っているので、言葉にならない。
「適当に」というのが監督の云いたいころかもしれないけれど、とても「適当に」はみていられない。
正直にいって、理屈っぽくてなんでも講釈をたれるのが好きな自分が、いったい映画のどこに感動したのか、さっぱりわからないでいる。
勝手な言い草だけど、これもすごい話だとおもう。

とにかく、大変なものを観てしまった!

読書は英語版 NewsWeek 今週号を読んだのみ。

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9月 1日

『埼玉県の歴史』(山川出版社)を買う。
これはただの県史ではない。縄文時代から明治時代にかけて、この地域には豊かな地方文化が栄えていた。この地域の歴史を知ることは、とりもなおさず日本の歴史を知ることに他ならない。
埼玉県には縄文遺跡や古墳がおびただしく存在する。吉見百穴、稲荷山古墳、丸墓山古墳(なんと、これは日本最大の円形古墳だという)など有名なものだけでなく、埼玉(さきたま、と読む)古墳群は考古学界の注目をあびて久しい。
それだけでなく、旧石器時代の遺跡も県内に500箇所を数える。
埼玉県は、歴史時代に入ってから地盤沈下したといえるかもしれない。

日本の中世の歴史、いいかえれば「武士の世」に興味があれば、関東一円はとてつもなくおもしろい観光スポットになる。
群小の地主たちが必死に領地を守った埼玉県あたりは、神奈川県・栃木県・茨城県に本拠をもった大豪族や戦国大名たちの草刈り場であったが、それだけにいじましいほどの努力をしておのれを守ったわけである。
そんなかれらが、ささやかに作り上げた文化がある。
「板碑」という石造の建造物だ。「板石塔婆」という別名がしめすように、石でつくられた卒塔婆だとおもえばよい。
「版碑は中世にはじまり中世に終る」という言葉があるように、中世武士がつくりあげた文化財である。そのふるさとが、埼玉県である。

江戸時代にはいってから、この地域をになったのは農民である。旗本知行地と幕府領(天領)が面積のほとんどをしめたおかげで、農村が繁栄して大農民が豊かな文化を育んだ。俳句や剣術がさかんであったのは、その一端である。
豊かな江戸の生活は、武蔵国をはじめとする後背地のバックアップがあったればこそのものだ。

この本はじっくりと精読してみたい。

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