『宗教なんてこわくない』(橋本治)を読む。
地下鉄サリン事件と、いまどきの日本のお寒い<こころ>模様をするどく突いた本だ。 ただ、キリスト教や原始仏教の歴史をもちだして、<宗教とはなにか>を論じたあたりには、違和感がある。このひとは、どちらかといえば、<理性のひと>で、<感性のひと>ではない。 <感性で生きている>ようにみせて、じじつはしぶとく粘り強く、ものごとを考えていくタイプだ。 ただし、どんな既成の「教祖」も看板として持ち出さないから、そうはみえない。 どことなくひ弱で、大きいものや権威あるものの後についていくのが大好きな日本知識層とは、かなり違ったタイプだ。 ぜんぜん話は違うが、橋本の本を読んでいて、坂本竜馬をおもいだした。 竜馬は、秀才タイプがおおいこの国ではまったく異質だ。 不良や、ドロップアウターでさえ、お手本を忠実になぞっていきるこの国に、なぜ竜馬のような人間が生まれたのだろう。 竜馬はいがいなことに老荘思想が好きだった。 たぶん、耳学問の達人だったから、本を愛読したというよりも、思想の気分を人から聞いて、わがものとしたのかもしれない。 だが、そんなことはどうでもいい。 既成概念が嫌いなひとは、どこか異質で、老荘思想の実践家である仙人に似た風貌がある。 橋本治は、竜馬とおなじような仙人の風韻をもっている。 ためしに、この本のカバーについている橋本の顔をみてみる。 頭を白髪にして、皺を増やしたら、水墨画に登場する仙人のような古怪ないい貌になるはずだ。 |
『「勝者」の組織革命』(堺屋太一)を続いて読む。
昨日の日記では、書名を間違えていたので、修正しておきました。(#^.^#)
<凡庸な二代目>というのが、よくいる。 創業者のあとを継いだ二代目は、たいていそういうことになる。 考えてみれば気の毒な話で、創業者の業績を維持すれば凡庸で、それを少しでも減らせば無能といわれてしまう。 バブル時代でもなければ、創業者を越えて大発展することはほぼ無理だから、かなり上出来であっても二代目は凡庸ということになる。 徳川秀忠などは、そういう立場に置かれている。実際には、創業者がやった急成長のつけをはらい、事業の整理と土台固めをしていたにもかかわらず……である。 ところが、ここに創業者の業績を大幅に減らし、組織の威信さえ、地に落とした二代目がいる。 とうぜん、後世の人々は、その二代目を「無能」と評した。 それが、上杉謙信の養子、上杉景勝だ。 謙信は越後を統一しただけでなく、越中、上野、信濃、加賀にまで大領土を広げた。 本願寺門徒衆と、武田信玄という当時の最強軍団に阻まれなかったら、たちどころに京都まで制覇したほどの勢いがあった。 謙信が率いる越後の地侍衆の戦闘力は、その当時では第一級のものだった。 おそらく、謙信が世にあるうちに激突していたら、信長の軍団などひとたまりもなかっただろう。 ところが、謙信が卒中で死亡してから、深刻な家督争いが起こり、義兄弟を殺して、景勝が二代目となった。 そのすきに、信長の勢力が強大化した。やがて、織田軍団が旧領土を侵食する。本能寺で信長が死ななければ、景勝も武田勝頼の二の舞になったのは間違いない。 秀吉が天下をとると、いち早くその臣下となった。 故郷、越後は取り上げられて、陸奥と出羽で百二十万石をもらった。 本来の領地を失ったのは、あまり面目のたつはなしではない。他の外様の大大名である毛利、島津、伊達が本拠地をそのまま保ち得たのだから、なおさらだ。 さらに、関ヶ原では石田三成に味方して、敗戦後には旧領地の一部である米沢に三十万石をもらった。 これだけのことを考えると、「無能な二代目」という評判もあたっていないこともない。 堺屋太一の史眼が光るのは、ここからだ。 上杉景勝の行動は組織論のうえからは、すぐれた選択だと云うのである。 それは、なぜか。 もともと越後というのは、政治的におさまりにくい国だった。天才謙信の時代でさえ、裏切りと隣国の諜略による家臣団の動揺がたえなかった。 謙信は<義>というイデオロギーを旗印に、神政政治めいた独裁をつらぬいて、動揺きわまりない組織を維持しつづけた。 景勝はそれを真似た。そうするより他に、越後の地侍たちを家臣団としてまとめてゆく方法がなかったのである。独立性がつよいうえに、貨幣経済が浸透していないこの地域の武装農民であるかれらに、金銭的利益で誘って支配下にくみこむ戦略は通用しなかった。 それだからこそ、関ヶ原でも徳川につくことはできなかった。かつて領地問題で紛糾したときに世話になった石田三成を捨て去るようなことをすれば、深刻な家臣団の分裂を招くことになる。 げんに、その裏切りで東軍に大勝利をもたらした小早川秀秋の家ではそれがおきた。 小早川家が取り潰された本当の理由は、家臣団の内部抗争だ。関ヶ原の前から、家康に味方する派と大阪に味方する派が深刻な争いを演じていた。戦後、家康派が有利になったが、反対派の抵抗もまた激化した。 景勝が小早川と同じ行動に出たら、同じような運命が待っていた可能性が高い。 敗戦によって、領土が縮小したことも結果的にはよかったと、堺屋はみる。 関ヶ原の功績で身代が増えた福島正則をはじめとする大名たちが、その後は幕府の策謀で次々と取り潰されたからだ。 そうでないところは、将軍家や御三家と婚姻関係を結んだり、小大名に率先して屈従の姿勢をみせ続けた。 上杉でさえも、大阪夏の陣・冬の陣では、将軍家のために身を粉にして働いた。 ともかくも、信長と同時代に天下争奪戦にのりだした戦国の大々名で生き延びたのは、上杉だけだろう。毛利はもともと天下を狙う気はなかったし、島津や伊達がその勢力を伸ばした頃にはすでに織田政権の中央制覇は終っていた。 上杉景勝は、無能な二代目どころか嵐の時代をきりぬけた優れた指導者であった。 ところで、景勝の血筋はやがて絶え、女系の血縁関係から吉良上野介の息子が家を継ぐ。その家系が明治まで続く。 途中、ひとり外部から養子を迎えるが、その養子は潰れかけていた米沢藩を生涯かけて建て直したのち、もとの家系に家督を譲る。 それが、上杉鷹山だった。 いったんは潰れかけた米沢藩上杉家は、自己抑制の権化ともいうべき名君、鷹山の手で蘇った。 このことは偶然ではなく、謙信がきずいた家風というべきものが、鷹山のバックボーンとなり、その哲学として結晶化した成果であるとも考えられる。 謙信と景勝の二代にわたる努力が、すこやかな遺風として、米沢の地で生き続けたのだろう。 ひとは生物学的な遺伝子だけを相続するものではなく、<こころざし>という眼にみえないものを継承しながら生きていく生物らしい。 |
「『勝者』の組織革命」(堺屋太一)を読む。
堺屋太一は、歴史の分析者としては凄いとおもう。 豊臣秀吉のサクセス・ストーリーには、豊臣秀長という弟が大変な役割をはたしていることを喝破したのは、小説家としては、このひとが始めてではないか。 日本の歴史において、二度とあらわれなかった<補佐役>秀長がいたからこそ、秀吉は天下人にまでなった。 秀長は自分自身を表舞台から消し去る情熱をもった男だった。 秀吉の出世のターニング・ポイントになる局面で、大きな働きをしたが、その功績はすべて他人に譲った。そうすることによって、秀吉の周辺にはいくたの英雄伝説が生まれた。冷静に考えれば、秀長の一見めだたない作戦が、盤石のように局面を支配していたのであるが、同時代人はそのことに気づかなかった。 秀吉の<補佐役>に徹したことで、自分の功績を言い立てる必要がなかったから、自分の功績を言いふらすことが大きな仕事である同時代の人々にとっては、目立たない存在だった。 秀長の偉大さは、皮肉にも豊臣政権の瓦解であらわになった。 偉大な<補佐役>を失った秀吉は、人がかわったように、親類を殺し、部下を粛清するようになる。 この冷酷さこそが、秀吉の本質であったろう。あくまでも、苛烈な<いくさ人>だったのである。 「慈愛ある暖かい人柄」は、たしかに秀吉の性格の一部であったろうが、どうじに路傍の雑草でしかない秀吉が生き延びるために身につけた仮面でもある。 仮面を磨き立てたのは、秀長であったろう。 その秀長が死んでからは、秀吉は仮面を捨てて、猜疑心に満ちた素顔をあらわしてゆく。 自分を無名の存在に陥れることで、新陳代謝の激しい組織の調和をたもっていた大黒柱がなくなったので、組織のなかには激しい対立が湧き起こり、けっきょく外部の勢力に利用されてしまう。 秀長のみごとさは、ほんとうは秀吉の同父・同腹の弟だったにもかかわらず、自分を異父兄弟だと称したことだ。 資料的にいえば、秀長が同父・同母の弟であったことは実証されていると、堺屋太一はいう。 だとすれば、実兄とは一歩も二歩も離れた場所に身をおいて、兄と部下のあいだにはいって調停役についていたということになる。 その身の処し方は、みごというほかはない。 |
『ドイツ帝国の興亡』をつづいて読む。
政権をとったヒトラーは、それまでのヴァイマル共和国の政治家がだれもなしえかなった外交上の勝利と、再軍備を達成した。 失業問題も解決して、完全雇用も達成した。 こと、ドイツ人にかぎっていえば、第三帝国は理想的な国家におもえた。 第三帝国の特徴は、あれほど組織好きのドイツ人にしては考えられないことだが、まともなシステムが存在しないことにある。 すべてが流動的で、かつ弾力的に運用された。アイデアはすぐに実行された。 官僚主義的な遅滞は許されなかった。 道徳がふたたび強化されて、きわめて清潔志向の文化が誕生した。 ファシスト国家というのは、旧弊な道徳家には居心地がよいものだ。 わかものを軍隊で教育すべしという世論は、若い青少年の世代にも浸透した。 擬似軍隊組織で、身体を鍛えて、精神力を磨くことを、少年たちは自ら進んで選択した。 社会の表舞台で演じられているいろいろな活動をみるかぎり、青少年はたくましく、利口であり、大人は優秀そのものにみえた。 じつは、性道徳の頽廃が青少年たちのあいだで、大人の知らないうちに進行していたり、あまりにも恣意的で流動的な政治・官僚組織のおかげで、前時代とさえ比較にならない汚職と腐敗が起きていることは、けっして報じられることはなかった。 ユダヤ人の強制連行と虐殺がおきた「水晶の夜」という悲劇的な事件でさえも、「総統が知っておられさえしたら、あんな事件はおきなかった」と、国民は信じていた。 嫌われものの突撃隊が暴走しただけだと、思っていた。 もちろん、指令を出した人物は、総統本人だったが、ドイツ国民はそんなことを信じたくはなかった。 「地獄への道は善意で舗装されている」 という諺があるそうだ。 |
関東地方は、すごい風雨だった。
東京タワーに落雷があった。 『ドイツ帝国の興亡』(セバスティアン・ハフナー)を読む。 <ビスマルクからヒトラーへ>という副題があるように、小国に分裂したドイツを統一したプロシアのドイツ第二帝国から、ヒトラーの第三帝国の崩壊までを描いたドイツ人作家による通史だ。 (ちなみに第一帝国とは、約八五〇年ほどの歴史を持ちながら、事実上は有名無実な存在になりはてた神聖ローマ帝国である。) なかみはへたな学者のものよりも具体的で実証的であり、ついでにはるかに面白い。 まだ全部を読み終わっていないが、ある事実を知って驚いた。 政治家は恐ろしいとおもう。 というのは、第一次世界大戦後のドイツの話だ。 ご存じのように、一九二七年に世界恐慌が起きてから、ドイツでは恐ろしいインフレが起きた。 パンひとつ買うにも、天文学的な現金が必要となり、給料をもらっても支払の一時間後には貨幣価値は実質的にはゼロになった。 銀行預金も価値はゼロ。なにせ、生涯営々とためた貯金では、パン一個すら買えないからだ。 この波はオーストリアにも波及して、医療クリニックを営んでいたフロイトなども、若いころから貯めていた貯金の価値がゼロとなって大打撃をうけた。 おまけに、精神分析協会を立ち上げようとした矢先だったから、いろいろなところから集めた寄付も価値がゼロになってしまった。 よほどの大金持でないかぎり、すべての人間の生活が根底から破壊されてしまったのである。 長い間、この歴史的事実は経済不況のせいだとばかりおもっていた。それに、フランスが非道にもドイツの工業地帯を軍事占領して、ベルサイユ条約の賠償金を脅し取ろうとしたことに端を発する一連のゼネストが、事態をいっそう悪くしたものだとばかりおもっていた。 というよりは、高校の世界史では、そういうことになっていたのである。 しかし、事実は違っていたらしい。 ハインリヒ・ブリューニングという当時の首相が、この恐ろしい事態を故意に引き起こしていた。 それは、なぜか。 ベルサイユ条約の賠償金は、ドイツにとってはとてつもない負担になった。 第一次大戦で疲弊したドイツ経済には、とうてい返却できる額ではなかった。 賠償金は、ドイツ経済を復興するためには、どうしようもない足かせとなった。 そこで、ブリューニング政権は、賠償金の支払義務をなんとか逃げ出そうとした。 そのために、ドイツ経済をわざと混乱に陥れて、超インフレーションを引き起こした。 ドイツの金利は無効となり、銀行預金は価値がゼロになった。 ところが、この事態で困ったのは、小金をもった中流階級だけだった。 労働者にとっては、超インフレーションのおかげで「完全雇用」が可能となり、失業問題がなくなったのである。 たとえ、パン一個を買うのに、天文学的な金が必要であっても、給料もまた天文学的な金額であればよい。 この時点では、意外なことに、ブリューニングの政策は産業界上層部と、貯金とは無縁の労働者に歓迎された。 問題は、賠償金が未払いなことに焦りをいだいたフランスがドイツ領土のルール地方を奪い取ろうとして、軍事占領したことである。 名目は、ベルサイユ条約の賠償金の支払であったが、本音は占領合併である。 軍備を奪われていたドイツ人は、働かないという形の闘争、ゼネストで対抗した。 その結果、ドイツでは貨幣経済が事実上麻痺してしまった。 事態はいっそう深刻となった。 給料が価値をもたなくなった。 給料が支払われてから、一時間後には、その金額では次の給料日まで生活することなど不可能になった。 おかげで、ドイツ経済はみるも無残に疲弊した。 ところが、これは首相にとっては嬉しい誤算だった。これほど早く、そして壊滅的な事態がくるとはおもっていなかったのである。 かれらにとっては、ドイツ経済が破綻したほうが良かったのである。 たとえ、国民がどれほど苦しんだとしても。当初の目的さえ実現できれば。 その日はやがて来た。 フランス、イギリスを初めとして、すべての賠償金の債権国は債権を放棄した。 ただし、そのときには、ブリューニング本人は、自ら独裁者になろうとして、密かにクーデターを計画したことがきっかけとなって、すでに失脚していたが。 ブリューニングの政策で、疲弊しきったドイツ国民は、救い主を求めた。 かれらが選んだ救世主の名前を知らないひとはいない。 賠償金問題を自殺にも等しいネガティブな形で解決することなく、もっと時間がかかっただろうが、政治的交渉と、ドイツ経済の立て直しというポジティブな形で解決することもできないわけではなかった。 当時のドイツの経済学者たちも、アメリカのニューディール政策のように、公共事業に政府の資金を投入するという方法を提唱していた。赤字国債の発行という借金の前倒しみたいなことになったろうが、経済の全面的な壊滅にはいたらなかった可能性が強い。 ブリューニングはナチス時代はアメリカに亡命して教職についた。 戦後の一九五二年にドイツへ帰国した。 戦火にやけただれた国土を、他人ごとのように、被害者のまなざしで見たのだろうか。 |
翻訳家の山岸真さんから、グレッグ・イーガンの『順列都市』(上・下)を頂戴した。
イーガンは、最近めずらしいSFスピリットを感じさせてくれる作家だ。 前作の『宇宙消失』も、とても面白かった。 根っこの部分に、海外SFファンといういまどきもっとも流行らないものをかかえている人間には、嬉しい本であった。 きっちりした感想をまとめようとおもって、のびのびになっている。 そのうち、書き上げてホームページにアップしてみようとおもう。 今度の作品も期待して読ませていただくことにする。 ところで、さらにつづいて、『木曜島の夜会』である。 新しい本の話題ではないので、たいへん申し訳ない。 「木曜島」というのは、オーストラリアの一小島にすぎない。 ところが、戦前には和歌山県の熊野あたりからたくさんのダイヴァーが出かけて、貝をとった。食用のためではない。では、真珠かというと、それも違う。 服のボタンの材料となる白蝶貝・黒蝶貝というものをとった。当時は、欧米でも服のボタンをつくるには、こうした貝を利用した。たいへん高級なボタン材料であったらしい。 戦後、プラスチックが安く大量生産できるようになって、貝の採取は企業として立ち行かなくなり、やがて廃れた。 ともあれ、貝とりが盛んだったころの話である。 潜水夫はいまでも残る海女のような素潜りではない。大仰なヘルメットと、宇宙服じみた潜水服をつけて、海底にもぐる。泳ぐことなどできないから、海底を歩くわけである。 海底は深度をませば暗くなる。気候で海が荒れれば、海水が濁る。 ライトなどはないから、貝をさがすのは、勘がたよりだ。 日本人ダイヴァーは、そうした貝採りに異能を発揮した。 オーストリアの白人よりも、現地人よりも、そうした貝採りには大変な才能をしめした。 十一トン、十二トンもひとりの潜水夫が一日で貝を水揚げしたという。そのためには、ほとんど一日中、暗い海底で過ごさなければならない。 そんな仕事ができるのは、日本人だけだった。 ところが、かれらは経営者ではない。船にはのらずに、船を手配したり、貝を売りさばく経営者を<親方>という。日本人のダイヴァーはかれらに雇われていた。 ほとんどの<親方>は、日本人ではない。 英国人やドイツ人のような欧米人だった。 それは、なぜか。 ダイヴァーたちは高給取りで、十九歳で当時の高級内務官僚であった県知事なみの月給をとっていた。海底で長時間の過酷な労働に耐え、きわめて特殊な技能をみがきあげたから、ダイヴァーたちが能力がないということはあたらない。 司馬さんが聞いたところでは、ダイヴァーたちがその特殊な技能を磨き上げることに情熱をそそぐあまり、商売の方面の働きを好まなかったというのが、最大の理由だ。 <親方>のたいせつな仕事である金の算段が、どうしても仕事とおもえなかった。 銀行から資金を借りる交渉をしたり、貝が買い叩かれないようにその最大の市場である欧州の相場につねに目配りしなければならない。 より良い買い手をみつける努力もいる。 いってみれば、商才というべき活動が好きでなく、価値も見出せなかったらしい。 「どうも、これは日本人の性(さが)におもえる」 と、ダイヴァーだった老人は語った。 司馬さんによれば、室町中期・戦国時代の倭寇も、構成員のほとんどは日本人だが、頭目は中国人であることが多かった。 倭寇の本質は、原初的な段階の貿易商であったから、頭目には商人としての才覚が要る。 どうやら、勇猛果敢で戦闘と航海術に長けていた日本人は、そうした商業的活動を苦手とした。自分たちの集団に利をもたらすためには、頭目を中国人にするほうがよいと考えた結果であった。 日本人は職人かたぎの技術職が大好きで、そこにこそ生きがいを感じる習癖がある。 たぶん、それはいまも変わらないだろう。 こういう日本人が、<親方>タイプの人間がうようよいるグローバル資本主義のなかで生き抜くには、どうしたらいいのだろう。 もしかしたら、非日本人の優秀な<親方>タイプを雇って、その部門をまかせるしかないかもしれない。 不毛な日本人論は忘れて、もっと現実的かつ戦略的に対応したほうがよいのではないかと、柄にもなく考えてしまった。 |
『木曜島の夜会』を読む。
あいかわらず司馬さんの本である。 むかし読んだ本と、まだ読んでいない本をとりまとめて、しばらく読んでいこうとおもう。 この本は、たしか昔読んだと思う。 歴史短編「有隣は悪形にて」「大楽源太郎の生死」「小室某覚書」は読んだ記憶がある。 司馬さんの維新ものは、『新選組血風録』をのぞいて全部読んだので、最初の二編の主人公、富永有隣と大楽源太郎については記憶が鮮明だ。 『新選組血風録』は、『燃えよ剣』を読んだから、まあいいやと思って読まずにいた。 子母沢寛氏の『新選組』三部作を読んで、あの殺人集団がすっかりいやになったことも一因だ。 反省して、後日読むことにする。 ところで、上にあげた短編は、明治維新という激動で人生を大きく変えた三人の人間を描いたものだ。 異常者といっていい富永有隣は別として、大楽源太郎や小室信夫は維新という時代に遭遇しなければ、ごく平凡な一生を終えたに違いない。 大楽源太郎は漢詩の詩人だった。幕末の尊王攘夷運動に早くから参加していたが、人間的に少しの重みもなく、その政治的言動のあまりの軽薄さに長州人の同志から嫌悪と軽蔑を買って、田舎に引っ込んだ。 尊攘派の浪士に、暗殺をそそのかして、天誅騒動の黒幕といった役回りになったことも、その印象を暗くしている。 私生活での、あまりの身勝手さについては、書くのも嫌なので書かずにおく。 のちに私塾を開いて、弟子からは狂人のような暗殺者が出た。 最後は、奇兵隊の反乱事件に参加して、ことが失敗したあとに逃亡。北九州の久留米藩に匿われているときに、政府の意向を恐れた藩士に暗殺された。 少なくとも、人間としてみた場合、すこしの共感ももてない人物だ。 とはいえ、保守的な作風ではあったが、漢詩や和歌は、それでも一応のレベルには達する詩人だった。 平和な時代に生まれていれば、そこそこの文士として生きられたかもしれない。 ところが、この人物を徳とする歴史上の人物もいる。 日露戦争のとき陸軍大臣だった寺内正毅である。 寺内は大楽の故郷に記念碑をたてて、その命日にはみずから祭壇をつくって、祭儀をおこなった。 寺内は大楽の私塾の弟子だったのである。 寺内は戊辰戦争に従軍してから軍人としての道を歩んだ。 大正時代に総理大臣となり、卑劣なシベリア出兵をおこない、米騒動で辞職した。 どこか、精神の質が、大楽と似ていたのだろうか。 小室信夫(しのぶ)という男は、もとは京都のちりめん屋の番頭であったらしい。 幕末、志士と交際して、つまらない事件をおこした。 足利将軍三代の木像の首を三条河原にさらしものにした事件である。 小室は首謀者でなく、十八人いた容疑者のひとりである。 小室はのちに貴族院議員となり、叙勲もされた。 維新後、明治政府の官員となり、のちに実業界へはいって成功した。当時の貴族院の議員は、多額納税者になる資格があったから、勅撰という形式で選ばれた。 小室が出世する糸口は、木像梟首事件の逃亡中に徳島藩に自首したことである。 徳島藩とは商売のことで、関係があった。町奉行へ出頭しなかったところが、巧みである。また、小室の生涯にとっての幸運だった。 維新後まで、徳島藩で幽閉されてはいたが、幕府が滅亡すると、徳島藩では新政府に少しでもコネのある人物を<徴士>として政府に送らねばならない。 尊王攘夷運動家であった小室は、町人で元罪人であったものが、にわかに徳島藩士という士族として政府に仕え、やがて官員となった。 運がよい男もいたものである。 そうとうに頭脳が優秀な男でもあったようだ。 自首の一件もそうだが、自由民権運動にもすこし関わったことがあり、おもしろいエピソードを残している。 政争に敗れて、在野のひととなった板垣退助が愛国公党という日本初の政党をつくった。 いよいよ自由民権運動をやって、政府に一矢むくいてやろうとおもうのだが、かんじんの板垣にさえ自由民権とはなんのことかわからない。 もともと理念があるわけでもなく、権力闘争に敗れて、仕方なく始めようとしたのだから無理もない。 後藤象二郎から紹介されて、小室は英語の原書をたずさえて、板垣のもとを訪ねて、自由民権なるものについて説明した。 小室は旧徳島藩主に随行して、欧米に外遊してきたのである。 とてつもなく、智慧のまわる男だったようだ。 |
昨日につづいて『十六の話』(司馬遼太郎)を読む。
珠玉のような……といいたい内容の濃いエッセイ集である。 「山片蟠桃」という哲学者が、江戸時代に大阪にいた。 蟠桃と書いて「ばんとう」という。升屋という商家の番頭さんだった。 それをもじって、つけた号である。 おそろしく合理主義が勝った哲学を、江戸時代に打ち立てたひとで、神仏をまったく認めない無神論者だった。当時のオランダからとりいれた自然科学の成果をとりいれて、地動説もしっており、独特の唯物哲学をつくりあげた。 おもしろいのは、それでいてじつに律義な番頭さんだった。当主が幼い子を残して死ぬと、その子を盛り立てて商家を発展させた。 生涯独立もしなかったし、もちろん主家をのっとることもしない。 ひたすら幼い当主を養育し、商人としての教育をほどこして、店を大きくした。 それでいて、学者としての名声もたかく、藩財政の困窮に苦しむ大藩から師父の礼をとって招かれたこともある。 だが、封建的な権威を打ち壊す社会変革思想は決してもたず、ぎりぎりのところで、神仏否定の無神論を展開した。 司馬さんによれば、それは「かれの思想の“限界”などとという書生論で論ずべき」ものではなく、そうしないことこそ山片の思想そのものだった。 いいかえれば、空理空論には眼をむけず、ひたすら現実と格闘するタイプの仕事師だった。一介の町人の身分では、強固な幕藩体制をどうすることもできない。その限界をなげかずに、最善の道を模索したら、唯物哲学にたどりついたということらしい。 こういう思想は、観念的なイデオロギー全盛のころには、あまり買われないものだけれど、現代のような昏迷した時代にはたのもしい。 大阪府では、この山片蟠桃を記念して、「山片蟠桃賞」という学術賞を制定している。
蟠桃のすばらしさは、本来思想家に生まれていた
はずの人間が、浮世を相手に実務家になったことである。 司馬遼太郎 |
ちょっと仕事が忙しいので、『日本人を考える』(対談集)と『十六の話』(エッセイ集)という司馬さんの本を読み返している。
「いいことをいっているなぁ」 と、読み直すたびにおもう。 あたりまえといえば、あたりまえの話だけれど。 『日本人を考える』を読むたびごとに、いろいろ考えることがあるのだけれど、今回は、陳舜臣さんと故貝塚茂樹氏との対話が面白い。 ともに、中国とはなにかを考えている。 陳さんは日本人と中国人の違いは、義侠という行動に現われるという。 中国では、友情と信頼にもとづく横の関係が、生きていく上で、どうしても必要だった。国家と政治がまったく頼りにならないからだ。 中国の歴史では、庶民たちは国家に泣かされ通しだった。 その下にある小権力も、庶民にとっては恐ろしい敵だった。だから、対等のレベルの仲間同士の連帯がなければ生きていけない。 ところが、日本は地方の小権力がごく親切であり、緻密に組み合わさっているうえに、国家権力がのっかるというかたちをとった。 だから、なまじっか横で連帯されると、複雑に組み合わさった小権力にとっては具合が悪いことになる。 日本では、義侠はひどく都合が悪いことだった。 しかし……、日本の歴史でも、横の連帯がとても大事だったときはあるのではないか。 たとえば、幕末。志士たちの行動は、従来のタテ社会を打ち破るものだった。 とはいえ、それでさえも最初の時点だけだ。寺田屋事件くらいまでだろう。 討幕運動が最終局面にいたると、やはり西国雄藩の上下関係が全面にでてきた。友情という新しい観念にもとづく行動は、タテ社会優先の風潮で息をとめられた。 振り返れば、楠木正成みたいな中世期の悪党たちの横のネットワークも、戦国時代がおわるとともに、各地の商業集団が地方の小権力に組み込まれて、全体としてのパワーを失ってしまう。 やっぱり、横の連帯なんて、歴史の動乱時代でなければ、日本人には無理なのだろうか。 ネットワーク社会がやってきても、この法則は変わらないのか。 そうではない――とおもう。 いまいちど考え直してみれば、地球規模の大変動はあと一、二百年では終らないだろう。少なくとも、自分たちが生きている間は動乱の時代が続く。 たとえ日本人がそうした傾向を持っているといえ、まだ安定した小権力ができる時代ではない。おおいに助けあうことが、どうしたって必要だ。 <侠を発する>という中国人の精神は、やはりおおいに学ばなければならない。 |
『ハプスブルク宮廷の恋人たち』(加瀬俊一)を読む。
タイトルに期待して、ハプスブルク家の王侯貴族とその宮廷を描いているかとおもうと、すこし当てが外れる。 なぜなら、収められている五つの短編小説のうち、二編はハプスブルク家とは縁もゆかりもないオスマン・トルコ帝国の妃と、ロシア皇帝の愛人だからだ。 さらにもうひとつの短編の主人公は英国詩人バイロンだから、なぜか騙されたような気がする。そんなことをいってはいけないのかもしれないが…… 残り二編にハプスブルク家の人々が登場する。 どちらも、舞台は最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ2世の時代だ。 読んでいると、時代錯誤のメロドラマ美文調で気恥ずかしくなるが、著者が明治生まれであるから仕方がない。 ところで、オスマン・トルコの王妃というのは、塩野七生さんも描いたことがあるフランス人王妃エイメである。 ナポレオンと結婚したジョゼフィーヌの従姉妹で、同じく太平洋のマルチニック島に生まれた。 エイメは当時の慣習としてフランスの修道院で教育をうけた。 教育が終ったので、海路でマルチニック島へ帰るところをトルコの海賊に襲われて、サルタンに献上された。 そして、オスマン皇帝の母となる波乱万丈の一生を送るのだが、同じ読むなら塩野さんの作品のほうが深みがあってよい。 ただ、題名が思い出せない。短編なのだが、なにに載っていたのだろう。 フランツ・ヨーゼフ皇帝の皇后で、美貌をうたわれれたエリザベートと、パヴァリアの狂王ルドヴィッヒの悲恋を描いた短編はいちばん短く通りいっぺんのおざなりのものにすぎない。 読むだけ時間の無駄であった。 フランツ・ヨーゼフ皇帝の弟マクシミリアン大公の一生はおもしろい。 このひとは、動乱に揺れ動くメキシコの皇帝になろうとして、新大陸におもむき、反乱軍に逮捕されて、銃殺されてしまう。 ところが、この人の出生には、奇怪な噂がある。それは、ナポレオンにまつわるものだ。 よく知られているように、フランス皇帝ナポレオン一世は、ジョゼフィーヌと離婚して、ハプスブルク家の公女と結婚した。 その息子は、ハブスブルク家で養育されて<ライヒシュタット大公>となった。 どうやら、この息子とフランツ・ヨーゼフ皇帝の母ソフィア大公妃が不義を働いたという噂がある。 その結果、生まれたのが、マクシミリアン大公だったと云うのである。 真偽のほどは定かではないが、フランツ・ヨーゼフ皇帝と弟のあいだには、政策の違いもあって冷たいものがあったらしい。 ライヒシュタット大公は、二十一歳で病没した。 そのとき、ソフィア妃は二十七歳。夫フランツ・カール大公はライヒシュタット大公の実の叔父にあたる。 もし、噂が事実なら、メキシコで銃殺されたマクシミリアン大公はナポレオンの直系の孫となる。 まことに曖昧なかたちではあるけれども、ナポレオンの影は19世紀末まで尾を引いていた。 |
新人物往来社から出ている『司馬遼太郎全作品大事典』を読む。
よくも書いたものだ。 長編小説が三十八冊。しかも戦国時代、幕末や明治をあつかう作品には、大長編がぞろぞろある。 短編小説が四十冊。エッセイ集が二十二冊。そのなかには、『街道をゆく』全43巻のシリーズもある。 対談集、座談会は二十九冊。 超人という言葉が、この人ほどふさわしいひとはいない。 いったい、どれほどのエネルギーがあまり丈夫そうにみえない司馬さんに渦巻いていたのだろう。 だが、司馬ファンがもっと驚くのは、そのほとんどを読んでしまっていることだ。 わたしひとりに限らず、歴史小説が好きなひとなら、ほとんど例外なく司馬さんの小説世界は読破してしまっているに違いない。 この本をまとめあげた編集部の熱意にも、あたまが下がるが、それいじょうに、なぜこれほどの作品群を生み出せたのか、考えるといよいよ胸が熱くなる。 この本にはストーリーのダイジェストも載っている。 むかし読んだ長編・短編ばかりでなく、対談集やエッセイを思い出しながら、頁をめくると時がたつのも忘れてしまう。 それにしても、エッセイや対談集ではまだ読んでいないものがあることがわかったので、さっそく捜して読みはじめることにしよう。 |
昨日につづいて『ザ・聊斎志異』(柴田天馬)を読む。
この本は中国の清時代に書かれた。 当時の中国は、実質的には大地主層が政治・経済の中心だったが、国家というものが恐るべき収奪機構としてのみ存在していた。 その害毒の恐ろしさは、昨今のアジア諸国の比ではない。 中央・地方の官吏そのものがほしいままに非官僚である人々の財産を奪い取ることが、法的および慣習的に黙認されていた。 この国家という恐るべき害毒から身を守るために、自分たちの味方を国家機構の内部に送り込まなければならない。 身内を官僚にすることによってのみ、国家という猛獣の牙から、少なくともわが一族の財産と生命を守ることができる。 そのために、一族の頭脳優秀な青年を猛勉強させて、科挙という試験制度に合格させる必要がある。 さいわいなことに、科挙という試験に優秀な成績で合格さえすれば、一族の生命・財産をまもる程度の責任ある地位につくことができた。 地主階層にしてみれば、身内が官僚になれるかどうかは死活問題だった。 だが、一族の希望と期待を一身にになって勉強する青年たちも楽ではない。 それこそ、遊びも異性関係もすべてを振り捨てて、勉学しなければならない。 当時の学問は、膨大な書籍を暗記して、大昔の学者の作品をふまえた詩文をつくることであった。法律なども学問としてはあったが、上級官僚試験には無関係だった。 じつにばかげたことであるが、すでに官僚になりおおせた人々の作品を参考にして、それを真似た作品を猿まねでなく、いちおうのレベルで書きあげることも求められた。 いってみれば、毎年新しい芥川賞作家が誕生するたびに、その作風を真似て小論文を書かなければ、国家公務員上級試験に合格しないのである。 これほど、不毛でばかげた試験があるだろうか。 ところが、清時代の中国人青年はひたすらそうした学習を要求された。 その結果、ノイローゼにおちいるもの、発狂するものが続出した。 不運にして、試験に合格することができなければ、世間的なことはなにひとつできない。よくて、金持ちの家の子どもの家庭教師。わるくすれば、ただの廃れ者として世をわたることになる。 聊斎志異の著者、蒲松齢もそうした科挙落第生である。 ここに集められた怪異譚には、科挙受験生が狐精の助けをえて、試験に合格したり、狐精が恋人となって恋愛関係を満喫しながら、しゅびよく試験に合格するものが多い。 あるいは、狐精や竜女、仙女、精霊などの異界の住人に愛せられて、科挙受験を放棄して幸せな余生をおくった男たちの物語も数多い。 こんな夢物語ばかりを集めて書きつづるとは。 科挙落第生として生を終えた蒲松齢は、よほどつらかったに違いない。 |
『ザ・聊斎志異』(柴田天馬)を読む。
これは角川文庫で絶版になった『聊斎志異』の翻訳を一巻本にしたもの。 第三書舘という出版社が、作家の廉価版一巻本全集を出しているうちのひとつ。 『聊斎志異』は平凡社、岩波文庫で新しい翻訳がでている。だが、柴田天馬の訳には独特のあじわいがあって、ひそかな人気を集めている。 その特徴をひとことでいえば、清王朝時代の中国語にルビをふって、翻訳文にいかしていること。 咸陽の世家(きうか)の韋公子は放縦好色(いろごのみ)だったので、見たところ読みにくい感じがするが、この世界にはまると、中華世界にどっぷり浸ったような気分になって心地よい。 絶版になった角川文庫版を探すよりも、こちらを購入するほうがおすすめである。 |
『役行者伝記集成』(銭谷武平)を読む。
修験道に興味がある。このところ、わけあって平安末期の仏教を調べているのだが、日本固有の山岳信仰である修験道はこの時代におおいに発展した。 修験道は大別して、真言宗系(当山派)と天台宗系(本山派)にわかれる。 どちらも役行者をその祖としている。 ただし、それぞれの流派において中興の祖とされる理源大師聖宝と増誉が実質的な開祖なのだが、ともかくも開祖は役行者ということになっている。 10月17日まで池袋の東武美術館で『役行者と修験道の世界』という展覧会が開かれていた。この本はついでに購入してきたものである。 平成十二年が役行者の没後1300年にあたるということで、企画された展覧会だ。 日本全国の修験道の霊山から集められた品々が展示されて壮観だった。 藤原道長が手ずから埋めたとされる金属製の経筒というものまで展示されていたから、平安朝フリークという人がいるとしたら、目が飛び出そうになったろう。 (じつは、わたしがそうだった。) 修験道はいまや真言宗系の「真言宗醍醐派」「金峯山修験本宗」と天台宗系の「本山修験宗」にわかれている。 この展覧会では、その三宗が協賛しているのだから、出展される品々は凄いものだった。 圧巻だったのは、全国から集められた役行者と蔵王権現の神像・仏像だ。 これほどの役行者像や蔵王権現像の名品を一堂にあつめた例はめったにないのではないだろうか。 役行者は伝奇ファンタジーや歴史アクション・ホラー小説でも人気もので、いろんなかたちで大活躍する。 むかしはそういうのも楽しめたが、実際に山岳仏教を調べると、小説のアナクロニズムが気になって全然読めなくなった。 「嘘のかわ」というのは、パワーがない。 役行者とはあまり関係ないが、陰陽道もそう。新しいものでは、志村有弘や藤巻一保という作家が書いた作品をのぞけば、最近のホラー伝奇小説に登場する安倍晴明は空虚な紙フーセンみたいに、リアリティを喪失している。 おとぎ話を楽しむことと、歴史を楽しむことは、精神の別の領域に属するという司馬遼太郎さんの名言もあるから、目くじらをたてるのはよそう。 しかし銭谷さんの本は、数ある役行者の伝記をあつめて現代語にしてくれた労作だ。 こういう本はいい。すがすがしい感じがする。 ところで、修験道と陰陽道にはいがいな関係がある。 安倍晴明のライバルとしてかならず登場するのが、播磨国の法師陰陽師道摩だ。 じつは、この法師陰陽師というのは、陰陽師でありながら、有髪・妻帯の法師でもある。 かれらは朝廷とは無縁の民間呪法師だった。 じつは、この法師陰陽師こそ、山伏の原形に他ならない。 宗教学者、小松和彦氏が研究した<いざなぎ流>のように、陰陽道がそのまま現代まで続いている流れがあるが、それはあくまでもカモノハシみたいな生きている化石だ。 民間信仰レベルの陰陽道は、じつは山伏の修験道のなかでみゃくみゃくと生き続けているのである。 |
『毒薬の手帖』(渋澤龍彦)を再読する。
いばらくご無沙汰していた本だが、あいかわらずおもしろい。 それにしても、どうしてヨーロッパ人は毒殺がこんなに好きなんだろう。 古代ギリシア人では罪人の死刑には、毒物が使われていた。毒人参という沼地にいくらもはえている草から抽出された成分は麻痺性で効き目が穏やかだという理由で、死刑囚に用いられた。盃から罪人が自分で飲むわけである。 ソクラテスもそうして死んだ。 殺し方としては、人道的なやりかたといえる。のちのローマ時代や、中世の残酷きわまりない処刑方法にくらべてギリシアは優雅である。 この時代には、牛の血を毒物につかった例もある。 ペルシア戦争でギリシア海軍を指揮した英雄テミストクレスは、同国人の嫉妬のために国を追われたあげく、そうして死んだ。 血が腐敗すると、成分の一部がプトマイシン(屍毒)に変化するということなので、テミストクレスが自殺に使ったのは、そうした血なのだろう。 渋澤さんが情熱をこめて次々と繰り出すのは、イタリア・ルネサンス時代から流行した毒殺犯の列伝だ。ルネサンスとは、ヨーロッパが毒殺を再発見した時代でもあった。 毒による暗殺を政治の手段としたのが、チャザーレ・ボルジアとその父アレクサンデル6世だった。 もちろん、このふたりだけでなく、おおくのイタリアの君主たちは毒殺をおおいに利用して、競争者だけでなく、教皇までも毒牙にかけた。 イタリアで大発展した毒薬は、フィレンツェのメディチ家の娘カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王家に嫁入りするともなって、フランス宮廷にもはびこった。 それから、100年たった17世紀は、毒殺の黄金時代だった。 とくに太陽王ルイ14世の宮廷では毒殺事件が大流行した。 国王の愛人たちが、寵愛を独占しようとして、競争者を毒殺していたのである。 この時代には、ゆうめいな毒殺犯人がおおぜい出現した。 時代がら、悪女がおおい。 ブランヴィリエ侯爵夫人、ラ・ヴォアザンという渋澤さん好みの狂気の毒薬使いの女たちだ。かの女たちは凶悪で確信犯的な犯罪者だったから、貴族のブランヴィリエ夫人は逮捕後に首をきられて、遺体は火に投じられて、遺体の灰は風に吹き飛ばされるままにされた。 ラ・ヴォアザンは平民の老婆だったから、火あぶりにされて、その灰はおなじく風に吹き散らされた。これは、キリスト教徒としては、亡魂の霊的救いさえ絶対に不可能になるようにという呪術的な意味がこめられている。 「宇宙から永劫に消えて亡くなれ!」 というメッセージがこめられているわけである。 毒殺の黄金時代は、さらに19世紀にまた訪れた。 この時代、毒はもっぱら砒素が使われた。 殺鼠剤にもなる砒素が買えないほど貧しいプロレタリア層でさえ、マッチの粉をスープにいれて毒殺する事件が頻発した。 このころのマッチに使われていたのは、毒性のある黄燐だったから、こんなこともできた。 ところで、渋澤さんは熱狂的に毒殺事件をしらべていくうちに、砒素が人体にも自然にも普遍的に存在するという事実を知って、懐疑をいだいた。 科学的に砒素が遺体に存在することを証明したからといって、必ずしも毒殺だとは限らないということを判例から知ったわけである。 もともと真理とか、絶対というものが大嫌いな渋澤さん一流のアイロニーに満ちた考察がそこから生まれるわけだが、そのことについては触れないでおく。 ただ、渋澤さんが晩年まで熱心な死刑反対論者だったことと、渋澤さんの毒薬研究が関係していたのかなと、ふとおもった。 |
『歴史好き』(池島信平)を読む。
池島氏はすでに故人だが、文芸春秋の名編集長だった。 戦後、文芸春秋の社長だった菊池寛が公職追放で退社を余儀なくされたとき、新社長の佐々木茂索といっしょに文芸春秋をたてなおした人だ。 肩書きはどうでもよいことだが、この本は歴史好きのひとにはこたえられない良い話が詰まっている。 上杉謙信を描いた海音寺潮五郎の名作『天と地と』をめぐって書いた随筆は、たっぷりと読み応えがある。 宗教的狂信者で、時代遅れの化石みたいな理想主義者の謙信は、信長や秀吉とちがって、いまではもてはやされることはなくなったが、人間としてみた場合には戦国武将でこれほど魅力ある人物は少ない。 歴史を勉強してビジネスに強くなるという「ビジネス指南用の歴史本」では、あんまり人気がないけれど、かえって謙信のためには良いことだ。 それにしても、この本がすがすがしいのは、戦前の東大卒でありながら、著者に独善的なエリート意識がなく、健全な市民感覚とのびやかな自由主義にあふれていることだ。 街のケーキ屋さんが海外旅行をしたらしく、「主人が洋行中はご迷惑をおかけしました」と張り紙がしてあった。まだ戦後で外貨制限があって、自由に海外旅行ができなかった時代である。その話をきいて、有名大学卒のおエライさんは、外国語のできないケーキ屋ふぜいが海外へいってなんになると冷笑した。 池島氏はそうはおもわない。 戦前・戦後のエリートが海外へゆくには、会社の金や税金を使う。 ところが、ケーキ屋さんは自分で働いた金で、身銭をきってお菓子つくりを勉強しようとしてでかけた。 これがほんとうの市民感覚だと、池島氏は感動する。 国民をみくだしたエリートが支配する国ではなく、町角の人たちがおのれの好きな道で発展してゆく。そういう市民の国に日本がなりつつあることを素直に喜んだ。 いまでは、あたりまえの考えだが、戦後をひきずったほんの少し前までの日本では、そうではなかった。 そうした池島氏も、フランスにでかけたときにはベレー帽をたくさん買ってきて、お土産にしたり、自分でかぶったりもしていた。 むかしのフランスかぶれは、いいあわせたように、みんなベレー帽をかぶっていた。薄くなりつつある頭を隠す効用もあったのかもしれない。 とにかく文化人はベレー帽をかぶっていないとおさまりきれないらしく、戦後最大の暴行殺人犯大久保清もベレー帽愛好者だった。 ところが、みてわかるとおり、ベレー帽は顔の長い人にしか似合わない。丸顔ではダメなのである。ダンゴにダンゴを重ねて、重ね餅になってしまう。 池島さんは丸顔であった。 顔の長い作家、今日出海氏をうらやましがることしきりである。 |
雑誌『こころの科学86号 精神医学の100年』を読む。
フロイトに興味を持ったことがきっかけで、心理療法の本をこのごろ読んでいる。 ただし、それは精神科の器質的な病理への興味からではなく、あくまでも「生きる力」を考えるというのが主眼だから、病院の精神医学には関心がなかった。 ところが、心理療法の本を読んでいくと、うつ病や精神分裂病の患者にたいしては向精神薬の処方が必要だという。 心理療法をおこなうひとは、こうした病気をもっている患者を見抜いて、自分でかかえこむのではなく、クスリを処方する資格のある医学部卒の医師に後の処置をまかせるようにということが、精神科医の書いた心理療法の本にはかならず書いてある。 医者の閉鎖的なギルド制度というべきかもしれないが、ことは人命にかかわるから、クスリの処方に資格制限をつけるのは当然かもしれない。 見習い美容師のみなし営業を法律が許さないのも、人体を損傷する可能性があるからだという。 心理学の専門家でもないのに、この雑誌を買ったのは、その向精神薬とはどういうものか知りたかったからである。 アメリカの有名な精神科医が二十世紀最大の発見は、向精神薬だと発言していたこともいっそう興味をかきたてた。 じつはフロイトの患者はけっこう自殺している。 精神分析では、うつ病や精神分裂病はなおらない。 このことは、フロイト自身が認めている。 『こころの科学』はその点についてはじつに読みでがあった。 どういう薬が開発されて、どのように使用されているかが書かれているので、素人にもよくわかる。 最近ではSSRIという抗うつ病薬が使用されていることも知った。 神経細胞の末端ではセロトニンという物質が放出される。この物質が大量に放出されると、うつ症状や強迫症状が出るらしい。SSRIは<選択的セロトニン再取込み阻害剤>という意味で、このセロトニンが神経細胞にふたたび取込まれるのを邪魔してうつ症状をおさえる。 つまらない好奇心ではあるが、このストレス&長寿時代では人間いつどうなるかわからないから、知っておいて損はない。 ところで、精神医学ではコンピュータを応用したCTスキャン技術の発達により、 脳画像診断学というものが誕生した。 PETとか、f−MRIという患者の脳そのものを画像としてみる画像解析技術が近年いちじるしく発達している。 こちらのほうを高く評価するのは、器質論にたつ精神医学者たちだ。 もしフロイトがこんにち生きていたら、たぶん後者の仲間に飛び込むだろう。 若い頃のフロイトは、ガチガチの物質主義者だった。 |
エイリアンが精神世界の産物だというコリン・ウイルソンの意見に影響されたわけでもないが、本棚から『ギリシア正教』(高橋正保)を引っ張り出してよむ。
いまどきロシアなどというと笑われそうだが、現代の精神世界においてロシアがはたした役割は大変なものがある。 ブラヴァツキィー夫人、グルジエフをぬきに現代の精神世界は語れないが、かれらはもちろんロシア人であった。 かれらがいなければ、ルドルフ・シュタイナーの思想もない。 いまの精神世界の本は、かれらの原液を水割りにしたものといっても言い過ぎではない。 トルストイの人道主義や、ドストエフスキーの「長老ゾシマの物語」を古臭いといって笑うのは勝手だが、近代西欧に絶望したかれらの声に耳を傾けるのは疲れはてた精神に栄養をあたえるためには良いことだ。 チャネリングや、コンタクティーがいっていることは、ほぼこうした作品ですでに書かれている。 それもそのはず、世紀末から二十世紀はじめにかけて、ロシアでは汎世界的な宇宙精神を考察する独特のオカルト的精神哲学が発達したのである。 その親玉はソロヴィエフというのだが、かれの思想はトルストイの「人生論」にさえ反映されている。 前置きは長くなったが、そうしたロシア宇宙哲学派も、トルストイやドストエフスキーも根っこにかかえているのが、「ギリシア正教」だ。 ロシア人がやっているから「ロシア正教」だとおもっている人もおおいが、ロシア人たちはギリシア正教だといっている。 この本を読むと、西欧近代の不幸はローマ・カトリックが誕生した瞬間から始まったのでないかという気がする。 すくなくとも、ギリシア正教の世界はアジア人であるわたしにはカトリックよりよほど親しみやすい。 中近東のただようアジアの匂いを切り捨てることで、キリスト教はヨーロッパ大陸内部へ浸透することができた。 東洋人からいえば、かなりわかりやすいし、親しみがもてる中世異端のワルド派、カタリ派や、いちじは異端審問にかけられそうだったアッシジの聖フランチェスコが、地中海世界で生まれたことは偶然ではない。 北ヨーロッパの陰鬱な森林地帯で生まれたマルチン・ルターの本などを読むと、すっかり暗くなって生きているのがいやになる。 ギリシア正教の思想を語る章では、著者の語りの情熱に涙がでる。 なんとか日本の読者にこの教えを知らせようとする著者の熱いおもいが伝わってくる。 |
『エイリアンの夜明け』(コリン・ウイルソン)を読む。
あのコリン・ウイルソンがUFOと宇宙人の謎に挑んだ意欲作だ。 客観的なUFO神話の通史としても読めるから、便利だ。 UFOや宇宙人のドキュメンタリーが大好きだったひとは、じぶんの知識を整理できる。 この本を一口でいうなら、ウイルソンが124冊ほど読破したUFO本を手際よくまとめあげて、相互間の矛盾点をじぶんなりに整理したものだ。 結論を乱暴にまとめると、人間には未知のサイキック能力があって、宇宙人というのはそういう能力に察知された異次元の霊的生き物であるというウイルソン独特の宇宙哲学にいきつく。 この思想は処女作『アウトサイダー』から一貫してかわらない。 マジェクティック12文書、EBE(=グレイ)遺体解剖事件、グレイの地下基地、家畜解体虐殺事件とグレイの人類遺伝子操作実験、米政府とグレイの秘密取引、エリア51の謎。 これを全部しっているひとはかなりのUFO通だが、問題がひとつある。 この事件はすべてでっち上げだった! まじめなUFO研究者のあいだでは証明ずみの定説だ。 ウイルソンはこのことを詳しく書いているので、まだそんなことを云っているUFO好きの目を覚まさせるには、よいクスリである。 UFOは現代の神話だ。 その周辺には、カルト宗教をおこして信者もろともの自殺した教祖もいれば、予言者をきどってテロ集団を結成して、政府転覆をもくろんだイサカマ師もおおい。 ウイルソンは宇宙人というか、人類とは異なる知的存在としてのエイリアンは否定していないのだが、「ボルトとナットでできた宇宙船」に乗ってやってくる「グレイ」「ブロンド(北欧美人タイプ宇宙人)」「昆虫人類型宇宙人」「雪男型宇宙人」というものはないと断言している。 こうしたウイルソンの見解をもっと楽しく知りたいときは、『賢者の石』とか『ロイガーの復活』『精神寄生体』といったかれのSFがおすすめである。 |
"How to write Science Fiction" ( ed. by Analog & Isaac Asimov's Science Fiction )を読む。
ハインライン、アシモフなど物故した巨匠や、コニー・ウイリスやジェームズ・パトリック・ケリーのような文学派SFの書き手がSFの書き方をレクチャーしてくれる。 SFということを離れても、小説の書き方を学ぶ上では、作家修行中のじぶんには役にたつ。 ただし書いてあることが実行できるかどうかは、やってみないとわからない。 滅び行く伝統芸能の匂いがするSFというジャンルだが、この本が出たころはまだ勢いがあった。 たぶん、この本は翻訳されたとおもう。 翻訳書を読んだ記憶がある。 それにしても、SFという言葉は死語に近くなったような…… |
『魔道書ネクロノミコン』(ジョージ・ヘイ編)を再読する。
この本は、ラブクラフト・ファンにはめっぽう面白い。 書き手はコリン・ウイルソンがメインで、名著『賢者の石』『迷宮の神』なんかでみせてくれたオカルト偽書つくりの衒学的冴えをとことんまで楽しませてくれる。 推理小説でいえば、ヴァン・ダインや小栗虫太郎やウンベルト・エーコのそれをおもわせる嘘情報の楽しさだ。 ラブクラフトがおもしろくないひとは、こうした知的遊戯の Hoaxな衒学趣味に拒絶反応があるからだろう。 ついでにいえば、そうしたひとはまずクトゥルー神話にのめりこむこともないから、ラブクラフトがへぼな作家にしかみえない。 娯楽作家的な力量とか、読みやすさだけを基準にしてみると、たしかにヘボな作家にしかみえないが、それをおぎなってあまりあるのが設定の構想力と創造性だ。 想像力ある読者は、ラブクラフトの世界で永遠に遊ぶことができる。いろんな読み方が楽しめるワンダーランドだ。 この本もそうしたワンダーランドの遊戯装置である。 ラブクラフト・ファンなら、いちどは夢想した<魔道書ネクロノミコン>を忠実に再現(!)したすぐれものだ。 もちろん、<ネクロノミコン>はラブクラフトが作り出した偽書だから、これは知的なお遊びである。 でも、こういう本はこたえられない。 追記: ラブクラフトの小説を読むなら、創元推理文庫のラブクラフト全集1〜6 がお勧め。 値段が安いからではなく、翻訳・解説にあたった大滝啓裕さんの仕事がいいからだ。 某国書刊行会からでている全集は、訳者たちがラブクラフトを理解していないし、翻訳にも愛情が感じられない。使えるのは、評伝の部分だけだ。 |
本日、インド哲学者中村元氏がなくなった。
年齢は新聞で知ったが、八十六歳であった。とすると、大正二年生まれということになる。 中村元という人の名前をはじめて知ったのは、大学の図書館だった。哲学のコーナーにいくと、大部な全集があって、いやでも目に入る。中村さんの本を読まなくても、哲学書のあるあたりをうろついていれば嫌でも名前をおぼえてしまう。 そのころ、西洋哲学に凝っていたので、フッサールやサルトルなんかをよく読んでいた。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』は愛読書だったし、サルトルの『自由への道』とか『嘔吐』がなぜか哲学のコーナーにあったので全集を読破した。 いまから二十年くらい前は、「日本はダメ」「ヨーロッパは偉い」と、自分がちょっとばかり利口だとおもっていたひとは決めつけていた。 だから、日本の歴史は好きだったが、日本思想やアジアの思想には目もくれようともしなかった。 そんなひまがあったら、ドイツ語を勉強したり、英語を勉強しようとおもっていた。 アジア人であることや、日本人であることにちっとも自信がもてなかったのである。 今から考えると、それが二十数年前の現実であることが信じられない。 司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』をちょうど書いていたころで、すこしずつ「日本人もやるじゃないか」という気分が生まれ出していた。 しかし、司馬さんの『空海の風景』もまだ出ていなかったから、少なくとも思想の分野で世界に通用する日本人なんていないだろうと、だれしもが思い込んでいた。たぶん、それと違う意見を持っていたのは、京都大学出身の学者グループだけだったろう。 前置きは長くなったが、哲学のコーナーの本も読み尽くしたので、つれづれに東洋哲学の本に手をのばした。他意はない。手を伸ばして、触った本をとりあげただけのことである。たいくつすると、こんなことをやって本を選ぶことを習慣にしていただけだ。 そうして手に取ったのが、中村元さんの本だった。たくさんあっただけに、偶然手に触れやすかっただけであろう。 その本は、『東洋人の思惟方法』というもので、めっぽう面白かった。 インドや中国の老荘哲学が、ひょっとしたら西洋の近代哲学よりも優れているのではないかという気にしてくれた。 かなり厚い本が三冊くらいもあったろうか。 読み終わったら、なんだかアジア人は偉いぞという気になった。 インドの仏教哲学に興味がわいて、ついには大学の講座で身の程しらずにもサンスクリット語を受講した。お情けで<優>はもらったけれど、これは他の人間が勉強しなさすぎただけで、さっぱり読めるようにはならなかった。 できたのは、古文の品詞分解みたいに、サンクスリット語の文を品詞ごとに分析することだけだ。これもやってみるとたいへんなことで、サンスクリット語は一文がきれめなく書かれて長大な単語にしかみえない。それを名詞、動詞、形容詞に分類するのである。もちろんインド・ヨーロッパ語の大元締めだから、単語が複雑怪奇に変化する。 これに比べたら、ギリシア語とラテン語のほうが、めちゃくちゃに楽であった。 いまでも、ギリシア語とラテン語がすこしできるのは、悲惨なサンスクリット文法と格闘したおかげだとおもっている。 中村さんはそのサンクスリットの達人であり、その他にもシャカ本人が話していたというパーリー語や、後期仏典を大量に翻訳したチベット語の達人でもある。 そのほかに、英独仏語や中国語なども理解したし、わたしの知る限りでは英独仏語で論文も書いている。 頭脳によほど余力があったとおもうしかない。 さらに、インドや中国の経典を読みこなして、独自の東洋哲学を打ち立てた。その構想力や分析力はヘーゲルやハイデッガーにも優るとも劣らない。 このひとは、何百年にひとりでるかどうかの大天才ではないかと、おもっていた。 読売新聞で、インド哲学の泰斗、東大名誉教授前田専学氏が「百年に一度の天才」とその死を悼む言葉でいっていた。 中村さんの凄さは、専門家であればいよいよ身にしみるタイプのものである。 中村元さんは、若い頃のわたしにとってまぎれもないヒーローだった。 個人的には一面識もない。ただ、訃報をきいて、涙がこぼれた。 追記: 中村元さんが翻訳・注解した仕事は、岩波文庫に収録されている仏典で手軽に読める。 『ブッダのことば』『ブッダ 真理のことば・感興のことば』 『般若心経・金剛般若経』 『浄土三部経』 『ブッダ 最後の旅』 『仏弟子の告白』『神々との対話』『悪魔との対話』 |
すこし仕事が押しつまってきたので、本を読む時間がとれない。
やれやれ、こんなときは英語の本でも読もう。 Everyman's Library の "Blake" 詩集を開く。 それにしても、大江健三郎さんの『新しい人よ、めざめよ』というのは、 ブレークのどの詩からとったのだろう。 それらしいのが、みつからない。 |
『魔女と聖女』(池上俊一)を読む。
フランス中世史が専門の池上の本は面白い。 というより、中世史という分野そのものが面白いのかもしれない。 ヨーロッパ中世史の書物を開いておもうのは、<近代>とは人類にとって災厄ではなかったかという疑いである。 魔女狩りが盛んになったのは、中世ではない。 ルネサンスや、その後に起った宗教改革の時代のほうが、その害は著しかった。 かりに<魔女狩りの世紀>というべきものがあるとすれば、それは17世紀だ。 デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ガリレオ・ガリレイが活躍した時代である。日本では、江戸幕府が開かれてから、元禄時代前半ぐらいにあたる。 生産力の向上と、それにともなう貧富の差で農村共同体が崩壊した。同時に、ヨーロッパを寒冷気候が直撃して、深刻な食糧危機がみまった。 その時代を背景として、キリスト教世界はカトリックとプロテスタントにわかれて合い争い、危機を覚えた支配層が社会的な弱者である貧しい農婦たちをスケープゴートにして、社会的不安をそらそうとした。 この図式は、新大陸のアメリカでも盛んであり、ニューイングランドの移民社会では、プロテスタント派が神政政治をおこなって魔女騒ぎをひきおこした。 つまるところ、近代の女性よりも中世ころの女たちのほうが、たくましくかつ自由に生活していたようである。 あの十字軍の時代でさえ、遠征へでかけた亭主を貞操帯をつけた女房がおとなしく郷里で待つなどということは全然なく、女も亭主といっしょに鎖かたびらをつけて、剣をふりまわしたりしながら、はるばるエルサレムめざして旅した。 これは、現代発見されている当時の記録をみれば、ほとんどそうらしい。 やっぱり、中世の人間はすごい! |
『霊界日記』に触発されて、本棚から久しぶりに妙な本を引っ張り出す。
『QA別冊チャネリング』(平凡社)というムックである。 発行は1991年。 「チャネリング」という今では死語の世界に突入している現象を、当時としてはよくまとめてある。 表と裏の両表紙裏に某オウムのX原の空中浮揚本や説教本の広告が入っているのがご愛敬だ。 あのころは悪い宗教=「幸福の科学」、真面目な修行集団=「オウム」というトンデモナい分類を某東京大学の若手宗教学者さんたちがTVで云いまくってたものだ。 TVのワイドショーや討論番組で江川紹子さんが孤独にオウムを告発していたのを、せせら笑っていた宗教学者さんだ。 学のあるひとは怖い! ところで、こってりしたスウェーデンボルグの世界にくらべると、チャネリングはポップだ。 <明るくて、軽くて、ちょっとさみしい。> この感じが、まだバブル真っ盛りのあの頃には、よかったのだろう。 雑談になるが、ひさしぶりにTVを観た。20世紀になって出た音楽アルバム・レコード、CDを販売実績で紹介する歌番組だった。さすがに、ブロックバスター・マーケティングが発達してから発売された昨今の歌ばかりが上位を独占している。もちろん一位は「うただひかる」という女の子である。 女性歌手たちの歌い方をぼんやり眺めて気づいたのだが、昨今のものほど絶叫調の歌唱とダンス主体になっている。そんなことは、普通のひとには常識だろうが、その手の歌には興味がなかったので気づかなかった。我ながら、ほんとにオオボケである。 このあいだ解散を宣言した少女グループも、メンバーのひとりはデビュー時には11歳だった。コギャルの教祖だった子も、沖縄。彼女たちも沖縄。そして、鍛えぬかれたダンスと歌。 南国生まれで南国育ちの女の子たちが、その情熱を芸能的なスキルに磨き上げて、マージナルな文化地帯から<中央>へ殴り込む。 ただ無関心な目でみると、ブラック・ミュージックの上手なパクリでしかない。 でも、ほんとうはそれだけのものではなかった。もっと切実ななにかが、あったのではないか。 それはなんだろう。そのことと、チャネリングをはじめとするポップ・オカルティズムの衰退が、どこかで結びついているようにおもえてならない。 強引な結論だが、こう考えた。 十代歌手の歌は、<悲鳴>だ! バブル時代の歌手たちの<明るい・軽い・ちょっとさみしい>どころではない。 薄ら笑いをうかべて、包丁をふりまわしながら、無差別殺人のために駅へ躍り込む人間に、一歩まちがえたらなりかねない屈折したエネルギーが渦巻いている。 いまどきの人間のペシミズムと、それに負けないためのヒステリックな自己主張が、メガヒットの根底にはあるような気がする。 たぶんチャネリングのような穏やかな自己啓発的な<癒し>のメッセージは、いまでは生ぬるくなって、物足りなくなってしまった。 もっと強烈ななにかが欲しい。そんな叫びが聞こえそうだ。 |
『霊界日記』を読み続ける。
スウェーデンボルグによれば、<最後の審判>はすでに終っている。 それは、1757年であった。 その年に、魔界の巨大都市とバベルの塔が崩壊して、邪悪なるものはさらなる地獄へ放逐され、善なる霊たちは新生なった新しい天界に迎え入れられた。 この魔界都市と邪悪なバベルの塔というのが、おもしろい。 アレゴリーなのだが、テクノロジー信仰と科学技術信仰、硬直化した官僚主義、腐敗した汚職システムといった現代文明に特徴的なものどもの綜合として描かれている。 これは、むしろ産業革命後の資本主義社会の誕生をつげているのではないか。そして、誕生の宣言とともに、その危機と死滅を予言していると読めないこともない。 スウェーデンボルグの面白いのは、当時ほとんど知られていないアフリカに注目して、アフリカ人の霊性の高さをおおいに評価していることだ。 アフリカ大陸をいくつかの部分に分けて、「悪い者」「賢明でないもの」「最良のもの」が棲む場所とした。 「霊界日記」に地図でみると、「悪い者」が住むのはアフリカの地中海沿岸と、希望峰のあたり。 「賢明でないもの」が住むのは、ウガンダ、ケニヤ、エティオピア、スーダンあたり。 霊性の高い「最良のもの」が住むのは、チャド・中央アフリカ・ザイールだとか。 「悪い物」「賢明でないもの」がいる場所とは、民族紛争の激しい国々や、テロリストに悩む国々ではないか。 偶然かもしれないが、おもしろい。 このあいだ<怒りっぽいアフリカ人>ゾマホンの本を読んだが、競争主義が欠如して、ひとと争うこともなく、おひとよしな田舎者ばかりの小国である祖国の霊性を、ひどく誇りにしていることを知った。 TVはあまり見ないので、ゾマホンがどういう人かはしらない。「ここがヘンだよ、日本人」という番組をたまにみたかぎりでは、ヘンな外国人としかみえない。だが、素朴に自分の国の人間は、お人好しの善人ばかりだと自慢できることは羨ましい。 ヨーロッパの歴史に首をつっこんでいると、ときどきイヤになる。 あれは、イヤな人間ばかりがはぶりを利かしている社会である。わたしの知る限り、ロシア、ポーランド、ドイツ、フランスと、ヨーロッパ文明の中心地へゆくにつれて、人間の質が悪くなる。 もっとも、これは海外旅行でドイツ人とフランス人にイヤな目にあわされた個人的な怨みがまじっているので、信憑性はあまりない。 ともかく、残念ながら、そんな国々のほうに、現代日本は親しみがある。 おひと好しの住むアジアやアフリカの小国を馬鹿にして、ワルが大手を振ってのさばる国になろうと、海外で<就学・就労>してきたエラいひとたちはおっしゃっている。 そんなひとたちのご立派な意見を拝聴するよりも、古臭いスウェーデンボルグを読んだほうが、21世紀にはよっぽど役にたつとおもう。 |
『霊界日記』(エマニュエル・スウェーデンボルグ)を再読する。
スウェーデンボルグは、近代ヨーロッパ最大の心霊家である。 この本は、研究者高橋和夫が膨大なスウェーデンボルグの日記を抄訳したもの。 だいたい近代日本のオカルト心霊学のほとんどは、ヨーロッパの翻案である。 戦後の新興宗教から、新々宗教にいたるまで、教義のそこここには、ヨーロッパ心霊学の巨人が見え隠れする。 名前をあげれば、神智学協会を設立したブラヴァツキー夫人であり、神智学協会に育てられのちにインドの聖者となったラーマクリシュナであり、そしてスウェーデンボルグである。 すでに明治に出現した霊術師たちも、かれらの末流である英国心霊協会をもとネタにしている。 だから、戦後の新興宗教や、新々宗教のどれかの教義をしっていれば、『霊界日記』に描かれていることはあまり目新しくはない。そもそもの源流は、こっちなのだから。 そのことはひとまず置くとして、霊の棲む霊界について面白いことが描かれていた。 スウェーデンボルグによると、霊界とは巨大な人体のかたちをしているらしい。<Maximus Homo>(巨大人)と、スェーデンボルグは呼んでいる。 霊とは、人体を構成する細胞みたいなものらしい。 地獄にいる凶霊や、天国にすむ善霊は、人体における排泄物と生体細胞の役割をになっているとか。 面白いものだ。 |
『ドイツ参謀本部』を読み終る。
なんだか空しさを感じた。 優秀なスタッフをかかえていたところで、リーダーが愚かであれば、なんにもならない。 しかも、軍人はどうやらリーダーには徹底的に不向きらしい。 渡部史観(!)では、ドイツ参謀本部がその力を発揮できたのは、最高のリーダー、政治家ビスマルクと軍事的天才モルトケがコンビを組んだときだけだった。 ふたりの活躍で、ドイツが国内を統一したのち、軍部は優秀な士官教育で参謀将校を大量に育成した。 ところが、その優秀なスタッフが中心になって遂行した第一次世界大戦は、ドイツの敗北に終った。 敵軍に断固としてドイツ国内を踏ませなかったにもかかわらず。 おかげで、ドイツ国民と、なかんずくドイツ軍人はすこしも負けた気がしなかった。 指導者であった皇帝ヴィルヘルム二世を初めとして、ろくな政治的リーダーがいなかったのが敗因だ。だれもがそう考えた。 強いリーダーさえいれば、今度は負けない。 その期待を背負って登場したのが、ヒトラーである。 結果は、ご承知のとおり。ヒトラーは軍事情報の分析を無視して、独断と偏見で軍を動かし、ついにはとりかえしのつかない戦略的失敗を繰り返して敗北を招いた。 占領地域での政治的配慮にも欠けていたので、ドイツ軍が進んだあとから続々と抵抗運動が発生した。 第二次大戦の敗戦とドイツの悲劇は、リーダー不在によると、渡部は考えているようだが、どうだろうか。 ビスマルクのような人間が、おいそれと世の中に転がっているものだろうか。 「ウンコは浮くものだ」という名言があるように、出世するひとはあんまりエラくなかったりするのが世の常だ。 ドイツ統一という千年に一度という緊急事態だったからこそ、ビスマルクのような人間が活躍できたわけで、そうでなければ不遇に一生を過ごしたかもしれない。ドイツの歴史をみると、ああいうタイプは内外から脚を引っ張られて、悲劇的な死に方をしている。 けっきょく、優れたリーダーというのは、教育して生まれるものではない。 知能や外交能力なんて、どの時代でもたいして変わらない。 幕末や戦国時代だけに、政治的天才が生まれたわけではない。どんな時代にも、同じような能力の持ち主はいる。 社会が必要とする人材が、たまたまその場にいあわせるという幸運がある。それだけのことだ。 ビスマルクですら、対オーストリア戦争で大勝した軍部をおさえることはできなかった。のちにフランスとの戦争を予期していたので、オーストリアとの講和条件をひどく緩やかなものにするという意見は、勝ちにおごった軍部のとるところではなかった。 絶望したビスマルクは自殺さえ考えた。 その意見がとおったのは、当時の皇太子が味方になってくれたからだ。 ビスマルクの戦略の正しさが証明されたのは、普仏戦争でフランスに大勝利したときだった。 日露戦争のことを考えてみる。 あの戦争に勝ったというかたちになれたのは、引き際を考えていた伊藤博文の存在が大きかったのではないか。 東郷平八郎と天才秋山真之のおかげで勝ったと、誤解したことに日本の悲劇があった。 ほんとうは小村寿太郎と伊藤博文の外交戦略が、あれ以上戦えば負けた戦いを「勝ち」にしたのである。 ただし、小村や伊藤を偉いといって尊敬するひとはあまりいない。一般には、才覚をきかせて出世した凡人の印象が強い。 「自分が凡人であることを知っている凡人」だけが、リーダーである資格がある。 渡部の本を読んで感じたのは、そんな単純で凄みのある事実だ。 |
『ドイツ参謀本部』(渡部昇一)を読みはじめる。
渡部はさきには国際政治評論家、いまでは人生評論家になってしまった観がある。だが、本職は英語文法の研究者だ。その渡部がドイツ軍参謀本部の研究をはじめたのは、ドイツ留学中のことだった。 なんでも、英語文法の研究はイギリス本国よりも、北欧やドイツのほうがかえって盛んらしい。そこで英語学者の渡部もドイツへ留学した。 そこで、買い集めた本をもとにして書き上げたのが、この本である。 渡部は日本で自分ほどこの種の参考文献をもっているひとはいないと自負している。 ところで、まだわずか四分の一も読みすすんでいないところで、しばし呆然とした。 あまりにも基本的な疑問に、はじめて気がついたからだ。 その疑問とは、ばかばかしいほど初歩的なものだった。 「強い軍隊とは、なんだろう」 答えは簡単だ。 負けない軍隊である。 負けないとは、どういうことか。負けても負けても、軍隊を編成して戦いを挑んでくることである。やがて、どんな相手も根負けしてしまう。 戦争において究極的勝利とは、相手を根負けさせることだ。 本題のドイツ参謀本部の誕生を語るまえに、ルネサンス以後のヨーロッパの戦争について書いてある。そのころの戦争は、本質的にはゲームであった。 軍事力を誇示しながら、実際の戦闘は極力避ける。 なぜなら、戦争の費用は王侯貴族のポケットマネーなので、戦闘して兵器や兵士が消耗してしまうとやってられないからだ。貯金をはたいて戦争して、資金がきれたら、戦争をやめるというのんびりしたものだった。 この時代、戦争の悲惨は、<戦争が戦争を養う>という言葉とおり、兵士の掠奪と耕地の破壊につきる。兵士は敵も味方もなくて、農民や都市民を掠奪、襲撃する。これがいちばん怖い。 王侯貴族のほうは優雅なもので、じっさいの戦闘は金の浪費になるから、ひたすら戦闘をさけてゲームのように対峙する。 このゲームの要諦は、相手の補給路をたつことで、いったん補給路を断たれたら、チェスではないが、「投了」してしまえばいい。 こういう戦争が終ったのは、ナポレオンの登場による。 フランス革命の最大の遺産である徴兵制度によって、ナポレオンはいくらでも兵士を募集することができた。しかも、軍事資金は革命政府がつくりだした徴税制度のおかげでヨーロッパのどの国の君主よりも潤沢にしぼりとれる。 だから、ナポレオンはひとと金をふんだんにつかって戦争ができた。 用兵の天才をいうまえに、ここを考えないと、本質を見失ってしまう。 ただし、他ならぬこの方法を他のヨーロッパ諸国が採用したとき、ナポレオンの戦術的天才をもってしても勝利は得られなかった。戦術的には勝っていても、ついには退却せざるをえない。 ひるがえって日本を考えてみると、用兵の天才としての戦術家はいても、こういう本質をみることは好まれない。 たぶん、それがわかっていた人間をひとりだけ挙げるとしたら、織田信長しかいない。 源義経といえども、大局的な戦略はできなかった。 信長は弱将だった。戦術はへただった。尾張は優秀な兵士の産地ではない。 信長は、情報の収集と撹乱を得意とした。日本史では、ほとんど稀な戦略家だった。 信長はほんとうに日本人だったのだろうか。 昨今の政財界の動向や、戦争シミュレーション小説の流行をみると、相変わらず戦術志向ばかりで、未来の展望ということはない。 きっと、みんな、だれか頭の良いひとが自分のかわりに考えてくれることを期待しているんだろう。アメリカ人が考えてくれるからいい――とか。 そんなもんかねぇ……。 |
ドイツ・オペラを聞きにゆく。
演目はウェーバーの『魔弾の射手』。 バーデン市立劇場の劇団とオーケストラが出演した。国際的な超一流どころではないのかもしれないが、オーストリアの人たちが身近にみているオペラがなまに見られたので、オーストリアにはまっている身としては、かえって嬉しい。 この日のために、一ヶ月前まえからドイツ語の全歌詞と訳詞がついたCDを買って、予習にはげんだ。音楽が苦手なので、いきなり聞くと、良さがさっぱりわからない。 視覚型人間の弱点だ。 なまのオーケストラで、堂々とした声量の歌手をきけて、やっぱりよかった。 まんぞく、まんぞく――である。 しかし、ひとつ気になるのは、入場のときもらった解説書と、舞台脇の電光掲示板に出る訳詞である。 ドイツ語をきいてわかるほどリスニング力はないけれど、ときどきわけのわからない科白がある。 「ワインの木には葡萄の実はならない」 という科白があって、なんだろうと考え込んだ。 原文をみたら、なるほど<葡萄の木に葡萄の房はならない>と直訳できる。 しかし、<ワインの木>なんて、言葉があるだろうか? 原語はStockという単語で、これはどちらかといえば、植物学的な葡萄ではなく、葡萄畑にあるブドウの木を意味するわけだから、ドイツ語の語感にひっぱられて、こんな単語を発明(?)したのだろう。 もうひとつ、わかったのは、科白を翻訳したひとがどうやら日本語が不自由らしくて、歴史上の用語や、宗教上の用語をじぶんなりの日本語に訳しているらしく、聞いたこともない単語が頻発している。 あとで、聞き覚えた単語を、CD版の歌詞でドイツ語の辞書をひきながらチェックしてみて、なるほどとわかった。 翻訳したひとは、ウィーン在住三十年の音楽家なので、ドイツ語はそうとうにできる。 ドイツ語のニュアンスは、正確に読み取っている。 ただし、日本語はだめだ。 外国語はわかっても、それを日本語に表現するちからはなくなっている。 でもなぁ、こんな一般聴衆にはどうでもいいことを、なんで自分はこんなにこだわるのだろう。 <いまどきの読者に、きちんとした日本語を提供する必要があるのか> と広言した翻訳者がいた。 その言葉とおりの、お仕事をしている。 だが、いまでも、それなりに仕事しているらしい。 そんなご時世で、<重箱のすみをつつく>ようなことを云っていて、いいんだろうか。 ふと、反省する。 というわけで、オペラにいったので、他の読書はお休み。 |
LINUXでメール・サーバーとWEBサーバーをつくる方法が詳しく書いた本がないかと探していたら、インプレスの『できるLINUX インターネットサーバー編』をみつけた。
買ってきて読んだら、すぐにもできそうな気がする。 NT 3.51 、NT 4.0、NetWare でファイル・サーバーを何度も立ち上げたことがあるけれど、それに比べて難しいことはないとおもう。 ただし、実際にネットワーク・カードを差したりすると、けっこうトラブるから、時間があまっているときでないとやる気にはなれない。 根がとことん不器用なので、つい臆病になってしまう。 ただし、問題がひとつある。常時接続だ。 OCNで月に4万円もするらしい。 なんかあほらしい。もっと安くなったら、導入を検討しようとおもう。 インプレスの「できる」シリーズでは、ファイルサーバー編もあったから、そのうち買ってみよう。 こんな本まで出回るようになったなんて、時代を感じるなぁ。 カール・セーガンの『コンタクト』を買う。 ジュディ・フォスター主演の映画はよかった。SFを読むのが、おっくうになっているけれど、決死の覚悟で読みはじめる。 これが、昔のハードSFファンのなれの果てか!(笑)(笑)……(T T) (; _ ;) |
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