お気楽読書日記:12月

作成 工藤龍大

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12月

12月31日

あと1時間で、1999年も終りです。

なんとか、部屋と本棚の整理もできました。よかった。(笑)
ついでに、お酒を飲みながら、『聖書の起源』(山形孝夫)と『魔女の一ダース』(米原万里)を読みました。
しかし、さすがに日記を書くだけの元気はない。
もうよろよろです。

本日は、二回のアップをめざしましたが、これで打ち止め。
めんぼくない…… m(_ _)m

明日は日記はお休みです。
夜中に、神社さんへいくつもりです。
たぶん、明日は今日の労働のつけが……

というところで、皆さん、よいお年を。
プロバイダとうちのPCが無事だったら、2日から更新します。
Y2Kは、どうなるだろう?

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12月30日

『外遊日記』(三島由紀夫)を読む。

ほとんどが三十三歳ころのエッセイで、ほんすこし三十六歳と四十歳のものがまじる。
三島は昭和三十三年に、二度めの渡米をする。
ニューヨークでかれの戯曲『近代能楽集』が上演されることになったので、当初予定していた三ヶ月の滞在をのばして半年もいた。
そのあいだに、メキシコへいったり、カリブ海のハイチやプエルトリコなんかをまわって、ブードゥー教の儀式を見物しようとしたりもする。
残念ながら、ブードゥー教のほうは観光客向きの見世物しかみることができなかった。

いがいなことに、三島はずいぶんアメリカが気に入ったらしい。
ハリウッドのショービジネスに、たあいもなく喜んでいるあたり、さすがに三島も若かったとおもわず笑える。
このひとは、たぶんにおっちょこちょいな気分があって、本来は楽しいひとだったのかもしれない。
あの特殊な家庭環境で育つことさえなければ、有能な官僚や法律家として一生を終えられたにちがいない。
三島のような家庭環境で育てば、どんな人間でも精神病理学的な境界例にならざるをえないだろう。
しかし、三島が幸福な官僚として生きたならば、天才三島も存在しなかった。本人には気の毒だが、三島作品を読むかぎり、このひとがいなければ日本の文化はずいぶんとつまらなくなったとおもわざるをえない。

話はそれたが、三島にしては純朴なアメリカ滞在記はじつはそれほど面白くない。

その三年後の昭和三十六年ころには、三島は「世界一周をすでに三回もしてしまった」と豪語するまでになっている。
当時は、外貨を自由に持ち出すこともできず、当然日本人が勝手に国外へ出ることもできなかった。
三島の経験は、当時としてはひどく希有なものだった。
こんなことができたのは、三島が文壇で華々しい活躍をして、国際的にも認められた作家だったからだ。
この時代になると、三島のいっぷう変わった絢爛豪華な天邪鬼な美学が花開いていて面白い。
ヴェネツィアへいっては、海水に腐食しつつある都市を、「立ったまま腐乱してゆく老娼婦の屍体」にたとえたり、香港にあったタイガーバーム・ガーデンの俗悪さに感動する。
「老娼婦の屍体」も、俗悪も、けっして否定しているわけではない。
三島にとっては、美しい風景よりも、そうした美のほうに心そそられているだけだ。

ぼろぼろに虫食いだらけになったレースやイブニング・ドレスをまとって立ち腐れる老娼婦――そういわれてしまえば、「自分を凡人と知っている凡人はもう只の凡人ではない」という英才たちが、活躍した「海の都」ヴェネツィアもかたなしだ。
『海の都の物語』の作者の上流婦人然としたイメージが、糜爛する老娼婦のそれにかさなってみえて、思わず笑ってしまった。
……われながら、すこし人が悪いかもしれない。

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12月29日

『深い河』(遠藤周作)にちょっと補足する。
ご存じのように、インドにはカースト制度というものがあり、さらにその下には<アウトカースト>と呼ばれる「不可触賎民」の階層がある。
インドが独立したときに、ガンジーはかれらを<ハリジャン>(神の子)と呼んで地位向上をはかったが、もちろんその善意の意図は達成されなかった。
けっきょく、アウトカースト(不可触賎民)とカースト内部の人々の対立は、インドの歴史にいまも暗いかげを落としている。

カースト内部の人間は、おおむねヒンズー教徒だから、殺生を嫌がる。
したがって、ねずみが増えすぎても放置する。殺生すると、来世が不幸になるとされているためだ。
しかしインドだって、穀物はできるから、倉庫に貯蔵しなければならない。すると、とうぜんねずみが出る。
こんなとき便利なのが、ねずみを「狩猟」する特権を許された「アウトカースト」だ。
かれらは他の職業につくことは禁じられているが、ねずみをとって食べることだけは許されている。

<アウトカースト>にも、いろいろあって、変な言い方だが、全員がすべて平等に同じ「賎民」というわけでもない。
<アウトカースト>内部ですら、いろいろの「特権」がきびしく決められていて、一種の棲み分けをおこなっている。
それを厳守しないことには、かれら自身の世間が許さない。
現代日本人の眼からみると、懲罰や拷問に近いような気もするが、インドのカースト制度内部の人間からみれば、りっぱな「権利」である。

『深い河』を読んで知ったのだが、インドに公称 300万人いるとされる仏教徒は、ほとんどが<アウトカースト>だという。
カースト制度のなかで、耐え難い苦しみを仏教によって耐えている。

インドには、むかしイスラム教徒がいた。(たぶん今も少しはいるんだろうが)
かれらは、カースト制度に反対する人々だ。
多くの<アウトカースト>がイスラム教へ走っただけでなく、カースト制度の矛盾に疑問をいだく人々もイスラム教徒になった。
もちろん、16世紀にイスラムを国教とするムガール帝国が誕生したから、帝国の支配者層がイスラム教徒なったことはいうまでもない。
いまの中央アジア、イラン、アフガニスタン、パキスタンあたりは、8世紀にはすでにイスラム勢力圏に組み込まれていた。
そのあたりからやってきたムガール帝国の始祖がイスラム教徒であったことは当然だ。
イスラム教徒とヒンズー教徒は、帝国が存続したあいだばかりか、インドがイギリスに統治された時代であっても、武器をとって闘争していた。
互いの世界観は、とうてい共存できるものではないと、双方がおもいこんでいた。
インド独立のさいに、パキスタンが独立分離した背景には、こんなところにもあった。

ところが、どうやらカースト制度に反対する一宗教がもうふたつインドにはあるらしい。
ひとつは、シャカの同時代人がつくったジャイナ教。
もうひとつが、16世紀にできたシーク教である。
インド人といえば、あたまにターバンを巻いているものと思い込んでいたが、あれはシーク教徒だけの衣装で、ヒンズー教徒はやらないそうだ。
とにかく、シーク教徒とヒンズー教徒は仲が悪い。
シーク教徒は、イスラム教の影響をうけて、偶像崇拝とカースト制度を否定しているが、自分たちこそが正しいインド本来の信仰をもっていると考えている。
改革派の眼からみれば、旧弊を墨守する保守派は我慢ならない。
おまけに、改革派は近代経済をたくみに消化して、インドの経済界を手中にしている。
ますます旧態以前の保守派、とくに特権層はいらだつ。
少数派でありながら、経済力をもつシーク教徒は、あたまが悪い上に、無知で貧困な(と、かれらが考える)ヒンズー教徒の国からなんとかして逃れたいと活発に政治活動している。

『深い河』の舞台となったインドには、そうした根深い対立が地下水脈のように張り巡らされている。
いつ、爆発してもおかしくはない。
遠藤周作は、現地を訪問することで、そうした圧力装置に気づいたのだろう。
小説の背景に、インディラ・ガンジー首相暗殺事件がとりこまれたのは、たぶん遠藤周作の作家的観察力のなせるわざだったに違いない。

それにしても、『深い河』はひさしぶりにハードな作品だった。
正直いって、くたびれた。
どういうわけか、むしょうにフランス語の本がよみたくなった。
そこで、”Pensee”と”Montaigne”(Francis Jeanson)を取り出す。
パンセは辞書を引きながら、ていねいに読む。
レトリックが込み入っているので、丁寧によまないと何がなんだかわからなくなる。

”Montaigne”(Francis Jeanson)は、フランスの思想家モンテーニュの伝記本だ。
ときどきモンテーニュの『随想録』の原文を引用しているので、読本みたいにもよめる。
いい大人が辞書を引きながら外国語の本を読むなど、渡部昇一氏によれば、時間の無駄いがいの何ものでもないそうだが、酒を飲んだり、TVドラマで時間をつぶすことが好きなわたしにしてみれば、たいした違いはない。
こんなことを3、40分ほどしていると、すこしだけ気分が軽くなった。
不思議な話だが――

その後で、『外遊日記』(三島由紀夫)を読む。
三島がまだ30代のころに、世界各地を旅行した旅行記をまとめたものだ。
まだ読み終わっていないが、じつに爽快な気分をあじわった。
後年には硬質というよりは、死後硬直めいたタナトスの匂いが濃密なエッセイを書いた三島が、これほど元気はつらつとしていたとは。
あんまり面白いので、この話はまた明日。

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12月28日

『深い河』(遠藤周作)を読む。
狐狸庵せんせいの最後の小説である。

いっきに読み上げてしまった。解説で、小説として難癖をつけていたが、こんなものは気にする必要はない。
小説としてのパワーが、あっというまに読ませてしまう。
なかなか疲れる読書だった。パワーに圧倒されたからだろうか。

表面的にとらえると、<深い河>とは小説の舞台となるインドのガンジス河だ。もちろん、それ以上の意味がこの言葉にはある。
<深い河>とは、自分自身の人生の重荷をかかえて人々が生きていくこの世そのものだろう。
死者の屍や、小犬の死体がぷかぷか浮かびながら流れていくガンジス河。その茶褐色に濁った河水を聖なるものとして、あがめて沐浴する人々。
死者も生者も、ひとしなみに流れていく生命の流れそのものが、<深い河>だ。

この小説には、けっして悪人ではないけれど、どこか人間として欠損している現代日本人が出てくる。
小説の舞台のほとんどが、日本ではなく、インドであることに、なにか意味があるような気がしないでもない。
遠藤にとっては、現代日本人はあまりにも浅薄すぎて、物語の屋台骨とはなりえなかった――勝手な思い込みだが、そうおもえてならない。
遠藤の分身である落ちこぼれ神父、大津の運命にかかわる場所は、フランスであり、インドだ。
日本では、作者の分身・大津が対決するべきなにものも見つからなかったのではないか。

聖地ガンジス河で、登場人物たちがしていることは、じつに日本人的な行為だ。
亡き妻の転生を探したり、太平洋戦争の戦友を弔うために回向の経をあげたり――べつにインドでなくても、よさそうなものだという気がしないでもない。
補足すると、登場人物が太平洋戦争で戦った場所は、ビルマだった。
撮影禁止の場所で、写真をとって、現地の日本人をトラブルに巻き込んでも恥じない半プロのカメラマンなんかが、かえって日本人らしい。最後に、その現地の日本人が死んでしまうあたり、無責任という現代日本人の基本的性格をよくあらわしているのではないか。

頑迷なカトリック神学校のフランス人教師たちや、カースト制度を弁解する偽善的なインド人インテリは、小説的には敵役だけど、現代日本人ではこの敵役にさえならないのではないか。

遠藤の日本人に対する絶望を読み取ってしまったのは、小説を深読みしすぎたせいだろうか。
傑作だとおもうだけに、こんなところがみょうに気になる。

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12月27日

『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦)を読み終わる。

本を読んで、これほど感情が激したことはあまりない。
体中の血管が沸騰しつつ逆流した。
おそらく、血圧はかなり上がっただろう。もし少し年配だったら、ぽっくりいっていたかもしれない。
とにかく、それほど血沸き肉躍る。
網野さんというひとは、ただの大学の先生ではない。
おそらく、日本歴史の見方を根底から変えている流れの中心だ。
もはや、網野史観をもちこんでいない日本中世の歴史は読む気がしない。
具体的にいえば、それは平安時代末期からはじまって、鎌倉・南北朝・戦国・織豊時代そして江戸時代前期におよぶ時代だ。
そういえば、ほとんどの歴史小説はこうした時代を描いている。すると、ほとんどの小説が読めなくなるわけか……。

歴史の見方がかわるパラダイム・シフトが進行しているのだから、それを無視してしまえば、地動説が証明されたあとでせっせと天動説にしたがって天球図をつくっていた近代初期の天文学者たちと同じことになる。
たぶん、いま歴史小説の分野でおこっていることはそれだ。
大多数の歴史小説の書き手や読者は、もはや<草葉の陰>の世界に近いとおもう。
もっと若い世代が歴史小説に眼をむけるようになれば、いまの流れは替わる。
たぶん、いまの40代くらいからがターニング・ポイントだろう。
これは半分冗談で、はんぶん本音だ。

網野史観のなにが凄いかといえば、天皇中心史観をぶち壊していることだ。
日本の政治的中心が京都だけだったわけではない。
東北には、蝦夷たちの王国である安倍氏、藤原氏、安東氏の王国があった。
東国は古代の上毛野王国があり、鹿島神宮あたりの出身の藤原鎌足が中央政界に進出し、短命に終ったとはいえ、日本史上でただ一つ天皇政と並立した神聖王権をつくろうとした平将門の帝国、さらに平忠常の上総王国といった坂東武者たちの王国も短命ながら存在した。
東国の独立国家思想は、鎌倉幕府によって、いちおうの完成をみた。だが、南北朝・室町時代の動乱で混乱のさなかにあった関東を平定して独立政権をきずいたのが、小田原の北条氏だ。関東ユートピア思想をはじめて体現できたのは、北条氏だった。
その政治を受け継いだ徳川家康がはじめて東国政権によって、日本全国を支配する。

このダイナミックな歴史だけでも足りないかのように、網野氏は西国の通商帝国構想を指摘する。
もちろん、この思想をはじめてもったのは、藤原純友であり、いっそう勧めたのが、平清盛だった。
どちらも、京都朝廷を空洞化させるようなかたちで、中国・朝鮮との交易でなりたつ通商国家を夢想した。

東北、東国、西国をただの<地方>とするのではなく、独自の言語・文化をそなえた独立王国としてみる。すると、日本歴史は、長大な時間を舞台にした<三国志>になってしまう。
これほどエキサイティングな見方があるだろうか。
手垢のついた日本歴史の英雄たちが、独自の文化をそなえた独立王国の主宰者として甦る。
古臭い人物論みたいな歴史ではなく、異なる価値観をもつ異邦人どうしの存亡をかけた戦い――こうなると、日本歴史はかぎりなく、ダイナミックな<異形の歴史>と変貌する。

このなかで、九州はつねに東北の王権と連動するかたちで、アクションをおこしてきた。
室町・戦国時代の九州大名の動きは、東北の争乱とかなり連動しているらしい。
それだけでなく、西日本の守護大名・戦国大名の動きは、中国とそれいじょうに朝鮮半島の政治とはげしく連動していた。
西国とくに山陰地方の地方権力は、京都の王権(天皇)だけでなく、朝鮮の王権も視野にいれて、行動していたことを証拠だてる文書が多数残っている。

どうです。
なんだか、わくわくする日本歴史がみえてきませんか。

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12月26日

『中世都市鎌倉を歩く』(松尾剛次)を読む。

この本を読んで知ったのだが、鎌倉は北条氏が滅亡したあとにすぐ衰退したわけではない。
その後の鎌倉について、あまり書かれたものを読んだことがないせいでもある。
鎌倉に足利尊氏のこども成氏が入って、鎌倉公方になったことは知っていたものの、鎌倉公方と足利将軍はつねにトラブルをおこしていたので、鎌倉はいつも戦場になっていたと思い込んでいた。
足利尊氏の弟、直義も鎌倉を支配していたが、けっきょくは鎌倉で毒殺されている。
歴史として知っている室町時代の鎌倉が、あまりにも血生臭いので、そう思っていたのだろう。
しかし、これは一般の歴史学者さんたちもそうだったようだ。
近年進んだ中世考古学のおかげで、室町時代の鎌倉が北条氏全盛期のころと変わらない政治・経済都市だったということがわかってきた。
むしろ、経済都市としては発展しているとさえいえる。

いまにのこる鎌倉の神社・仏閣は江戸時代に、町民たちの資金と尽力で再建されたものがほとんどだ。
現代の鎌倉でみる神社・仏閣の規模は、鎌倉・室町時代とは比較にならないほど小さいものだ。
歴史学では、いまに伝わる建築図面や、文献の記述が現存する寺社の規模と違いすぎるので、ついこのあいだまで文献資料はおおげさな誇張だとして、わりびいて検討すべきだという意見が根強かった。
いっぽうで、文献資料をたんねんに調べる人々もいた。批判派は、文献派をみくだしているところがあったようにもみえる。
ところが、考古学のおかげで、文献資料の正しさが実証された。
鎌倉の建築物は、いまの規模では考えられないほど広大なものだった。

じっさいに、鎌倉を歩くと、建長寺や円覚寺のような大きな寺院ですら、京都の寺院にくらべるとさほど大きくは感じない。
嵯峨野にある天龍寺と比較すると、あんがい小さいのに驚く。
鎌倉時代の支配者、北条氏が質素・倹約をむねとしていたから、そんなものだろうと現物をみたひとほどすんなり納得してしまったのだろう。
歴史のこわさは、こんなところにもある。
歴史をしるには、徹底的に懐疑的な検察官のような眼をもたないと、自分の感覚にさえ騙される。
いや、現場の刑事や鑑識係のようなカンがたいせつだと言い換えたほうがよい。
現場には通説とはちがうなにかの雰囲気がただよっているものだ。

ところで、鎌倉が衰退するのは、応仁の乱にさきだつこと13年前におきた「永亨の乱」で、鎌倉にいた関東公方がいまの茨城県にある古河へ待避してからだ。
これは足利将軍家の分家筋の「関東公方」と、「関東公方」の家来筋にあたる「関東管領」上杉氏の内紛だ。
古河に、足利氏はミニ鎌倉を建設しようとして、かなりの数の鎌倉の町衆をつれていった。町衆とは、商人や職人といった経済・工業の担い手だ。
その後、関東では乱世が続く。
鎌倉は1516年には、戦国大名のはしりである北条早雲の支配するところとなった。
この前後から、鎌倉の町衆は北条氏をはじめとする関東の戦国大名の各城下町に流れていった。
鎌倉が本格的に衰微するのは、戦国時代からだった。

ところで、鶴岡八幡宮は関東制覇をねらう戦国大名たちから、じつにたいせつにしてもらった。
北条早雲の息子、氏綱は、長年の戦乱で傷んでいた鶴岡八幡宮をほとんど解体修理に近いほど、ていねいに徹底的に補修した。
それというのも、鶴岡八幡宮は関東武士の精神的中心になっていたからだ。
あの上杉謙信ですら、旧関東管領上杉憲政から役職と家名を受け継いだ就任の儀式を、鶴岡八幡宮でおこなっている。
謙信には室町将軍の名代として、関東の保護者となる野心があった。
いってみれば、関東地方における<警察官>の役割をかってでたわけだ。
そのおかげで、毎年出兵しては小田原の後北条氏や、武田信玄と死闘を繰り返すことになる。

鶴岡八幡宮が、武士たちの精神的聖地であり続けたことは、もうひとつの事実でもわかる。
いまでも有名な鶴岡八幡宮の<流鏑馬>は、室町時代以降は廃止されていた。
それを復活させたのが、没落しつつあった武士たちに蘇生剤を投与して、徳川幕藩体制を立て直そうとした八代将軍吉宗だった。

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12月25日

『中世都市鎌倉を歩く』(松尾剛次)を読む。

このごろ、鎌倉時代に凝っている。
正確にいうと、院政時代から鎌倉幕府滅亡のころまでが、気になっている。
日本の歴史の大転換点だった――と、おもうからだ。

鎌倉にはいちど行ったことがある。
北鎌倉から鶴岡八幡宮までいろいろ見物した。
みどころは意外なほどあった。
故渋澤龍彦さんの墓所がある寺も見物した。

それにしても、鎌倉幕府は血に塗れた政権だった。
政治的暗殺によって、頼朝が挙兵したときの功臣たちや、その一族が次々と滅亡している。
頼朝の死因でさえ、落馬ということになっているが、暗殺の噂もある。
現代の歴史学者は否定しているが、暗殺事件や陰謀事件が呆れるほど続いたのでは、同時代人がかんぐらないほうがどうかしている。
息子頼家、実朝はそれぞれ北条時政・義時親子と、三浦義村の陰謀で暗殺された。
それだけでは、娘婿たちも次々と陰謀にかかって殺された。
頼朝と政子の直系子孫は、死に絶えたのである。

そういう歴史をしっているせいか、文化人が住む鎌倉がけっしてあかるく見えなかった。
むしろ、怨霊がいまもさまよっている印象さえした。
頼朝の墓があるあたりには、「白旗神社」という神社がある。
頼朝の墓は神社のわきをあがった山の中腹にあるのだが、神社は頼朝を祭っている。
ところで、この神社は幕府の有力御家人三浦一族がたてこもって、火をかけて自害した場所でもある。
神社は、三浦一族の怨霊をふせぐためではないかという気もする。
さらにいえば、山のふもとあたりは「大倉御所」といって、頼朝と政子が生きていたころに、幕府がおかれた場所でもある。
三浦一族の自害は、政子の死後22年後のことだった。

じつは、このころ幕府は移転されていて、若宮大路の二の鳥居のすぐわきの小路を入ったところにあった。
これを「宇都宮辻子御所」という。
鎌倉にいったとき、ここをはじめて知った。不勉強でそれまで、ぜんぜん知らなかった。(自慢にはならないが……)
いまでは、小さな稲荷神社があって、そのわきに「宇都宮辻子御所跡」というプレートがある。

ところが、プレートにはその御所は10数年間しか使用されずに、また移転したとある。
どこへ移転したのだろう。
ガイドブックをいくら開いても書いていない。
そのことがずっと気になっていた。

ところが、この本を読んで、問題の新しい幕府の場所がわかった。
宇都宮辻子御所のすぐ北に、若宮大路沿いに建てられていた。
新御所の北となりには、後に北条時頼の舘ができる。
そのころの将軍は、摂関家出身の藤原頼経だった。
以後、新幕府は、「若宮大路御所」として、北条氏滅亡まで続くことになる。

気になっていた疑問が解決して、すっきりした。

ところで、面白い記述をみつけた。
鎌倉の民衆がなにを食べていたか――である。

けっこう、肉を食べていたらしい。念仏僧でさえ、鳥や獣肉を食べていた。
肉は、鹿やイノシシがおもで、イヌも食べていた。
中国や朝鮮半島みたいに、風邪をひいたときの<クスリ>として食べたのだろうか。
鎌倉時代の日本人が現代人と同じように、平均身長が170センチくらいだった理由がこれでわかった。
激動の時代には、穀物食だけではやっていけない。
幕末や明治になると、それまでおおっぴらには肉をたべなかった日本人もやたら牛肉や豚肉を食べるようになった。
野菜と穀物だけのローカロリーな食事をやっていけるのは平和な時代だけなのかもしれない。

ところで、鎌倉の民衆は<アカニシ>という巻き貝を好んだらしい。
これは、いまでは日本近海では取れなくなった。理由は、古代と中世の日本人があまりにも好んで乱獲したせいだ。
おもしろいことに、韓国ではいまだに豊富にとれて、美味として珍重されているとか。
日本人が東アジアに共通する古層文化の基盤にあることを、なんとなく直感させるはなしだ。

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12月24日

年末も近づくと、おちおち本が読めない。
自分が悪いのだけど。
昨日は、ワイン一本を空けて、バーボンを飲んで寝てしまった。

ま、いいか。一年に一回のクリスマス・イブだ。
ケーキ作りを手伝って、時間がとられた。
生クリームを泡立てて、クリームを塗り付けただけだったけれど、けっこう時間がかかる。
卵の白身をあわだてて、クリームを作るのは面白い。だが、どうもかき回しすぎて、クリームがごわごわになってしまった。
加減がよくわからなかった――むねん!
来年は雪辱を期そうと決意する。

そうそう、イチゴをきって、盛りつけたり、ついでに汚れたボールや泡立て器なんかのケーキ作り道具一式を洗ったりもした。
独身生活が長かったので、洗いものは苦にならないのが、数少ないとりえだ。
どうやら、家人はすっかりお菓子作りに味をしめたらしく、来年はクッキーとケーキをいっしょに作るといっている。

とにかく、しこたま飲んで、しこたま食べた。
クリーム・チーズを2種類を食べて、赤ワインを一本というのは、カロリー的にかなりあぶないものを感じる。
うだうだしているうちに、眠くなって、そのまま眠り込む。
かろうじて、寝酒かわりの時代小説(もちろん作者は池波正太郎!!)を眺めつつ、眠りの世界へどぼん!

じつにしあわせな気分だったけれど、ほんとにこれで、読書日記なんだろうか。

遅れましたが、この日記を読んでくださっている皆さん、
メリー・クリスマス!

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12月23日

読み残したニューズウィーク英語版を読む。
少しおっくうになっているので、こころをいれかえよう。

メインの記事をよんだら、あとはいい加減に眺めることが多い。
せっかく年間購読しているのだから、もうすこしきちんと読んだほうがいいとはおもうが、ニューズウィークだからといって日本の週刊誌よりいいことを云っているかというと、そうでもないことがわかってきた。精読するのは時間がもったいないようにも感じる。
こんなものは流し読みでいい――と、どこかで呟く自分がいる。
とにかく、この雑誌を読むのは「いきのいい英語を読みたい」という純粋な娯楽でしかない。だから、どうしても優先順位がさがってしまう。
お仕事じゃないと、後ろめたさを感じるオールド日本人なんだな――つくづく自分が古臭い日本人であることを感じる。
もっと気楽になれないかなぁ。

いまさら、という気もするが、12月13日版を読む。
おもしろい記事をみつけた。

イギリスにエドワード・フーパーという作家がいる。
このひとが「川: HIVとエイズの源流」という本を書いて、論争を呼んでいる。
それによれば、エイズ・ウイルスのいちばん古いタイプ<HIV−1>は、小児麻痺用経口ワクチンでサルから人に伝染した。

HIVウイルスがもともとアフリカのチンパンジーに発生した病気だったことは、世界の学者も認めている。
定説では、ハンターがチンパンジーを食べたことで、HIVに感染して、それから人から人へ伝染していったと考えられていた。
ところが、フーパーは、HIVの最初に発生した地域が、アフリカで小児麻痺用の経口ワクチンが接種された場所と一致することに気づいた。
1957年から1960年にかけて、コンゴ、ルワンダ、ブルンディの地域で、実験的に経口ワクチンが投与されたことがわかっている。
しかも、1959年に同じ地域で採取・保存されていた血液サンプルに<HIV−1>ウイルスが含まれていたことも確認されていた。
フーパーが疑惑をいだいたのは、この実験的ワクチンを製造した研究所に、チンパンジーの細胞組織が持ち込まれていたという話があったからだ。
小児麻痺用のワクチンでは、ワクチン製造の過程でウイルスを培養するためにサルの細胞組織をつかう。
そこに、もしHIVウイルスに感染したチンパンジーの細胞組織が使われたとしたら――
残念ながら、アメリカのフィラデルフィアにあるウィンスター研究所という研究機関には、当時の記録は残っていない。
フーパーの指摘は重大な疑問を提出したにとどまっている。確証はない。
<HIV−1>ウイルスの起源が、ワクチン投与の数十年前であることを確認する実験の結果が来月でる予定らしい。
だとすれば、フーパーのセンセーショナルな問題提起は意味をうしなう。
ワクチンを開発したウィンスター研究所に保管されていたオリジナル・ワクチンも、ちかぢか検査される。結論はそのとき出るだろう。
とはいえ、人と動物のあいだで、ウイルスが移動する手段に、最先端医療がかかわっていた可能性があることは、とんでもなくショッキングだ。

メーリング・リストで知ったのだが、母校の姉妹校に在職していた外人教師(修道士さん)さんが心臓病を患って、ブタの心臓の弁を体内に移植して生活している。
元気に日常生活を送っているとのことだ。
動物の身体を、体内にパーツとして組み込むことに宗教関係者でも違和感がないのか!
いまはカナダで暮している修道士さんは、日本のひともどんどんこうした手術を受けたほうがよいですよと、語っているそうだ。

ところで、話は変わるが、精子が少ない男性のために、生きたネズミの精巣で人間の精子を培養して、人間の女性の卵子に受精させる実験がおこなわれたことを、同じニューズウィークで読んだ。
ギリシア人の科学者がやったそうだが、日本でもたしか鳥取大学でやろうとした。
だが、厚生省がとめたおかげで、日本ではその実験は行なわれずにすんだ。
これを男性不妊症の画期的な治療が邪魔されたとなげくべきか。
それとも、ネズミ人間の誕生を阻止できたと喜ぶべきか。
わたしは、ぜったいに、後者である。
ネズミの精巣で培養された精子でうまれたって、それはやっぱり<ねずみ人間>だとおもう。
こんなことを考える人間がいるだけでおぞましい。
医療研究の現場にいるひとは、人間もねずみも等しなみの生き物だと考えている立派な方たちなのだろう。 ネズミと性交することだって、新しい愛の形だとおもっているのかもしれない。
――そういうことは、自分の家族だけでやってほしいとおもう。

毎年、日本をおそうインフルエンザは、シベリアで毎年、新種が発生して、渡り鳥に感染して、香港へやってくる。
そのあとで、ブタに感染して、それを食べた人間から、どんどん人間界へ広まってくる。

ウイルスとか、分子生物学のレベルでは、ひとと動物にはあんまり障壁がなくて、どんどん種を越境して、DNAが移動してくる。
それをさらに、人間がいっそう加速している現実がある。
しかも、それが最先端医療であり、医学ビジネスという本来、人命を救うべき業種がやっている。
あんまりすごすぎる話ではないか。

とおもっていたら、ネズミの卵子にチンパンジーの受精胚を組み込む実験が成功したというニュースがFENから流れてきた。
生物学者って、そんなにネズミが好きなのだろうか?
勘弁してください。おねがいしますよ。
わたしは、ねずみだけは大嫌いだ。

日本史のはなしは、また明日。
(連ドラの『あすか』じゃないぞ!) > 反省します。すいません。

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12月22日

このところ、歴史小説を読んでいないので、ひさしぶりに本を買って読んでみた。
名前はあげないが、年配の作家でもとは企業小説を書いている人である。
なぜ名前をあげないかはおいおいわかるとおもう。
少し読んでから、流し読みした。
それだけの価値しかないことがわかったからだ。
つまらないことだが、鎌倉時代の主人公が自分を「それがし」と自称するところが気に入らない。
それも「会話文」で。
この時代には、「それがし」とは「だれそれ」「某(なにがし)」というぐあいに、具体的名称をぼかすような意味で使われていた。
鎌倉時代の「宇治拾遺物語」では、自分をあらわすのは、「われ」という代名詞である。

それだけでなく、頼朝が生きていた時代に、「槍」が出てきたりする。
これは現代人からみればどうでもいいことだが、よく考えれば、織田信長がリヴォルヴァー式連発拳銃をもっているほどには、時代錯誤なことである。
(最近の読者は、織田信長がM16式自動小銃をもっているのでなければ、コルト・ピースメーカーをもっていても気にしない――という考えのひともいるかもしれないから、こんなことをもちだすのも余計なお世話といわれれば仕方がない。)

もっと呆れたことには、参考文献は中公文庫の『日本歴史』と小学館の『日本の歴史』という通史の該当時代を扱った巻のほかは、鎌倉のガイドブックと京都府の歴史、それに日本史辞典だけ。
これでまともな歴史小説になるはずがない。
予想にたがわず、それだけの本だった。

しばし呆然としたまま、本を読み終える。
これがいまどきの歴史小説か――。
暗然としてしまった。

『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦)で、平将門と藤原純友の時代にまでさしかかっていたが、別の本にとりかかる。

海音寺潮五郎の『悪人列伝』(一)(二)である。
このひとは、日本の歴史小説を変えたひとだ。
司馬遼太郎が文壇に登場できるように、ずいぶんちからを尽くした。
もし、このひとが某雑誌の新人賞を司馬さんにとらせなかったら、たぶん作家司馬遼太郎はこの世に誕生しなかっただろう。
司馬さんが直木賞をとるにあたっても、選考委員としてひとり強力に応援した。
あの吉川英治でさえ、司馬さんの受賞に難色をしめしたそうだ。

司馬さんは海音寺さんを終生、恩人とした。
有名な話だが、海音寺さんがなくなったとき、葬儀委員長は司馬さんだった。

こう書くと、ひどく古いひとのように思えるが、わたしはこの人を尊敬している。
司馬さんの歴史小説も、海音寺さんの歴史小説がなければ、あれほどのレベルには達しなかったはずだ。
大衆歴史小説家として記憶されているが、従来の作家にはなかった偉大な歴史眼をそなえた作家だった。
古臭いはずの『悪人列伝』で、某作家と同じ時代を描いた「梶原景時」と「北条政子」の列伝を読む。
レベルがぜんぜん違う。
こちらのほうが、新しい感じさえする。
伝説の大横綱の風格と実力をひさしぶりにまのあたりにして爽快だった。
某作家の最新の歴史小説のことは忘れよう。

ところで、『悪人列伝』(一)には、『平将門』や『藤原純友』の列伝がある。
藤原純友は、将門の同時代に瀬戸内海で政府転覆の反乱をおこした。
海音寺さんは、純友の勢力は、朝鮮半島で交易・掠奪をおこなっていた瀬戸内海から北九州にいたる海賊たちだとみぬいた。
純友が乱を起こす二十数年ほど前まで、朝鮮半島は北は泰封国、中央の新羅、南の後百済の三国に別れて抗争していた。
この争乱の乗じて、日本の瀬戸内海の海賊たちが朝鮮半島沿岸を稼ぎ場所としていた。
やがて、泰封国の王建が国王を追い出して、国をのっとり、「高麗」を建国する。
高麗が新羅、そして後百済を滅ばして、朝鮮半島を統一したのが、ちょうど平将門が地方で叔父国香を倒した935年だった。
東アジア世界の激動が、日本史にも直接的な影響を及ばしていた。
朝鮮半島に、統一王権ができたことで、仕事がしづらくなった日本海賊たちが、北九州や瀬戸内海にもどってきた事実が、純友の反乱のバックボーンだった。
朝鮮半島の新羅人や、後百済人などと、日本の海賊が密接な関係があったことはもちろん、朝廷側にたった地方官人たちでさえ、朝鮮の三王朝と交易・情報交換をおこなっている。
「西国」は文化だけでなく、政治史のうえにおいても、朝鮮半島とぬきさしならない関係にあった。
朝鮮半島を民族の意識外においやったのは、どうやら明治以降のナショナリズムだったらしい。
いまから三十数年前であっても、海音寺さんはちゃんとそうしたことを認識していた。
こういう人の視野のひろさが、いまの歴史小説にほしい。

たぶん、塩野七生さんが出たぐらいだから、自分が知らないだけで、たぶん他にもいるんだろうけれど。

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12月21日

急に歯の詰め物がとれるというアクシデントがあったおかげで、日記がアップできなかった。
なんとか、歯医者さんに駆け込んで、治療してもらった。
歯は怖いなぁ。

待合室で本を読んでいたが、気が散ってあまり読書ができなかった。
歯がおかしいとてきめんに集中力がなくなる。

今日のところは、とりあえず、こんなところで。
明日にでも、出直します。
また、こんどよろしく。

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12月20日

まだ本棚の整理をしているので、読書も進まない。
それでも、近所の古本屋で長年さがしていた本をみつけたので、買ってしまった。
ときどき書棚がもつだろうかと、さすがに不安になってきた。
紙の本も数が多いとなかなか大変な重量となる。
何度も、本を棚から降ろしたり、あげたりしていると、いい加減腰が痛くなる。
たぶん年のせいではなく、ほんとうに重労働なんだとおもう。
あまり考えないことにしよう。
避けられない現実からは、目をそらすしかない。

ところで、網野善彦氏の『東と西の語る日本の歴史』はすごい本だ。
「日本人単一民族説」が徹底的に打ちのめされている。
そもそも、日本列島の東と西の住民は、人種さえ違っていたのではないか。
卑近な例としては、日本を中部地方の西端から西を「西日本」として、それ以東を「東日本」と定義した場合、東日本出身の男女は同じ東日本出身同士で婚姻する率が90パーセント以上だったというデータがある。
いまでは人種の違いなど問題外だが、文化の面でそうとうな拒否反応があることは確からしい。
北海道出身のわたしには想像もできなかったが、中部地方から西では正月の餅は真ん丸で、祝いに食べる魚はブリだそうだ。東北から北では、正月の祝いに食べる魚はサケと決まっている。
もちろん、鏡餅を別にすれば、雑煮にいれる餅は四角い。

東西日本の文化の差は、考古学によれば、二万年前の縄文時代にすでに存在していたらしい。
そのころ、日本の総人口は26万人。そのうち、西日本の人口は、二万人にすぎない。
豊富な東日本の人口を支えたのは、落葉広葉樹林帯である。
西日本の照葉樹林帯は森としては貧しく、多くの人口を養うことができなかった。
その貧弱な土地が発展するのは、中国江南地方と朝鮮半島南部からやってきた人々が稲作を始めてからだ。
その稲作文化には、鉄器製造技術がセットとして組み込まれていた。
以後、大和朝廷としてしられる西日本の中央政治勢力が日本全土を支配に組み込もうとする民族的な運動がはじまった。
これをもって、日本の歴史とされたために、東日本はつねに後進地帯とされてしまい、文化の違いさえも後進性とみなされた。
民族学的には、東日本は<イエ>を第一とする文化圏であり、西日本は<ムラ>を中心とする文化圏だ。
いままでは、東日本は後進地帯だから、<イエ>のちからがつよく、りっぱに「進歩」したあかつきには、西日本型の<ムラ>社会となるとされていた。
どうやら、これはただの暴論であるらしい。

ほんの少し読んだだけで、威勢のいい議論が続くので、そこらをむやみに跳ね回りたいほど、こころ躍るものがある。
もちろん、わたし自身がまぎれもない東日本の人間だからに他ならない。
東国出身で、日本歴史に興味をもつものとしては、いままで異様に低められていた東国・東北をおおいにもちあげてくれる歴史家さんには、大いにがんばってほしいと、こころから願う。

奈良や、京都だけが、日本じゃない!

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12月19日

『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦)を読みはじめる。

網野さんは、日本史の、とくに中世史を革命的に読み替えた震源地だ。
故・隆慶一郎さんの作品は、網野さんの歴史書と出会わなければ、誕生しなかった。
人類学的にいうところの<マージナル・マン(=周縁人)>を主人公にすえた隆慶一郎さんの作品は、司馬遼太郎さんの後にはじめてでた革新的なものだった。
前田慶次郎、松平忠輝、後水尾天皇、世良田四郎二郎、柳生一族、水野成貞――
隆さんの世界を彩る男たちは、<異形の中世>から生まれた!

風魔、傀儡子という使い旧された異人集団も、新しい生命をもって蘇った。

それだけではなく、島左近、後藤又兵衛といった豪傑たちも、死の淵から立ち現われて暴れまわる。

中世は、じつに面白い。
隆慶一郎さんは、中世の世界観と近代の合理主義がまっこうからぶつかる織豊時代から、江戸初期を舞台にした。
歴史の活断層であるこの時代のパワーが、隆慶一郎さんの作品そのもののエネルギー源ともなっている。

とうぶん、網野史観にはまりそうだ。

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12月18日

18日は年賀状書き、19日(日記を書いている当日)は大掃除というわけで、
読書は遅々としてはかどらず。

年賀状書きなんて、たいした量もない癖に、やけに時間をとられてしまう。
そのうえ、NHKドラマ舘で、『クジラを見た日』(このタイトルでよかったかな?)を観たり、ETVで『街道をゆく』を観てしまったから、読書まで手が回らなかった。――と、反省する。
ところで、ドラマは主演は真田広之だが、むしろ助演の床嶋佳子と高島政宏がよかった。
高島はやっとフツウの人を好演できるようになった感じがする。

ところで、19日の大掃除では書斎の本棚を三分の一ほど片づけただけで、半日が終る。
また時間をみてやるしかない。
七年ぶりに片づけて、埃を化学ゾーキンで拭き取ったら、たちまち真っ黒になってしまう。
これだけで、四枚も真っ黒になって捨ててしまった。
七年ぶりの埃だから、無理もない。

掃除したおかげで、おもわぬ得をした。
ながいこと行方不明だった本を何冊も発見できた。
ずっと捜索していた ”Oxford dictionary of Quotation”が本棚の奥から見つかった。
17X20 センチの大きな本がどうして見つからなかったんだろう。
神隠しとしかおもえない。
――もちろん、冗談である。

H.G.ウェルズの未訳の伝記本を発掘できたのは嬉しかった。
書名も忘れていたから、再注文もできない。これは、ウェルズの息子が書いたものだったので、どうしても読みたかった。
時間をみて、チャレンジしようとおもう。

さらに、カール・ポランニーの『人間の経済 上・下』が見つかる。
経済学者玉野井芳郎さんが訳した本だ。これが出た頃、経済人類学などという言葉がさっそうと登場した。
その旗手が玉野井さんと、いまは半身不随で政界から引退するらしいクリシンこと、栗本慎一郎。
あのころの、クリシンはさっそうとしていたなぁ。
いまさらながら、時の流れを感じますね。

Penguin Books の”Metamorphoes by Ovid”も発見できた。
これは、大昔の愛読書。
オウィディウスの『メタモルフォシス(変身物語)』の英訳。
岩波文庫にギリシア語からの翻訳があるけれど、なつかしい――とにかく、よかった、よかった。

さらに嬉しいのは、東京大学出版会から出た『イスラム― 歴史と思想』(中村廣治郎)が見つかったこと。
この本はしるひとぞ知る名著だ。
イスラムの歴史を知りたいひとに、あますところなく展望を与えてくれる。
現代イスラムを考えるにしても、この本の内容ぐらいはおさえていないと話にならない。
フツウのひとがイスラムを勉強しようとおもったら、この本だけでけっこう「イスラム通」になれる。
中央アジアの歴史を大学院で研究していたK君と、この本の素晴らしさを語りあったっけ。
いまは遠い昔だが……
K君はどっかの大学に教官としてもぐりこめたかな?

まだ三分の一で、これだけの成果があった。
ことしの大掃除は、がんばってみようとおもう。

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12月17日

『神仏習合』(義江彰夫)に、ちょっと補足。
浄土教系仏教が拝む「阿弥陀仏」は、もちろんインドで生まれた仏だ。
しかし、阿弥陀仏が登場する「浄土三部経」の編纂された地域は、西インドであり、編纂時期は紀元後4世紀ころ。
紀元後1〜2世紀に、キリスト経のメシア思想と、ゾロアスター教の教義を摂取して、成立した大乗仏教の一派がその教義を発展させていったのが「浄土経」だ。

前日の日記で、日本史を東アジア文化圏の枠組みで考えるということをいったけれど、それだけでも足りない。
天台宗や、日蓮宗が根本経典とした「法華経」も紀元前後に西インドで成立したが、これにも初期キリスト教のメシア思想の影響があるという。
最澄、日蓮がいない日本の思想史いや、政治・経済史すらは考えられない。

日本を考える場合には、古代や中世であっても地中海世界や、中近東、インド文化圏まで、目配りだけはしておかないと――。
<もう、一国の政治事件の歴史だけで、歴史を理解できる時代ではない。>
と、つくづくおもう。

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12月16日

ひさびさに固い本を読みました。
岩波新書の『神仏習合』(義江彰夫)が、それ。

日本の神社に興味をもつと、だれでも必ず持つ疑問がある。
歴史物知り雑学関係の本をよめば、答えはすぐわかるのだけれど、ちょっと考えたら、そんな答えで満足できるはずもない。
一般ビジネスマンをターゲットにした歴史本や、物知り雑学系の本がつまらないのは、底の浅い通りいっぺんのことしか書いていないからだ。
手垢のついた通説・俗説がほとんどだから、どうしようもない。
いまでは、情報公開が進んでいるから、そうした本に書いてあるぐらいのことは、ちょっと詳しい人間なら耳タコ状態である。ところが、いまや日本史は革命的なパラダイム・シフトを迎えつつある。
通説・俗説のたぐいは、脳味噌の水垢・赤錆として、もう捨てるしかない。

たとえば、そうした疑問のひとつとして、あげられるのが、「なぜ武士は『南無八幡大菩薩神』と唱えて合戦をするのか」というもの。
歴史にちょっと自信があれば、「それはね」とたちどころに教えを垂れたくなるほど簡単な問題だ。
蛇足として、答えをあげれば、源氏の先祖「源頼義」が前九年の役に出陣するにあたって、京都の石清水八幡宮を勧請して、鎌倉に八幡宮をつくって源氏の氏神とした。そして、頼義の嫡男、源義家が石清水八幡宮で元服して「八幡太郎」と名乗り、その武勇もあって、いよいよ八幡神に対する武士の信仰が厚くなった。

しかし、これはあくまでも歴史クイズみたいなしょーもない「物知り博士」のための解答にすぎない。
だいたい、なぜ源頼義が八幡神を信仰したのか、さっぱりわからないではないか。

ところが、『神仏習合』を読むと、八幡神がなぜ武神となったのか、その理由がほのかに見えてくる。
八幡神とは、もともと九州の宇佐地方のただの地方神にすぎない。
ところが、そこへ大和の三輪神社の祭主一族「大神氏」がシャーマンとして入り込んだ。
かれらは、記紀で九州で生まれたことになっている応神天皇と、地方神の信仰を融合させた。
さらに、「大神氏」は中国から冶金技術・道教・密教を学んで、そのノウハウを東大寺の大仏造営にいかして、大和地方へ勢力をのばした。
てはじめは、東大寺の守護神となり、空海・最澄が密教を導入すると、八幡神は「諸国霊験威力神道大菩薩」として、ホトケとなる。
奈良仏教との接触から、大安寺の僧「行教」によって、山城国の男山に勧請されて、「石清水八幡宮」ができる。
石清水八幡宮は、「伊勢神宮」とならんで、皇室の第二の宗廟となった。
清和源氏の源頼信(頼義の父)がこれを源氏の氏神とした。
というのも、源頼信は陽成天皇の子で臣籍降下した経基王の孫にあたる。
清和源氏というけれど、ほんとうは陽成天皇の子孫だということは、現在では日本史の常識である。
下級貴族にはすぎないが、清和源氏も貴族として氏神をもたなければならない。しかし、地方豪族から出た藤原氏などとは違って、土着の神とは縁がない。
そこで、皇室とおなじ神社を氏神とするわけだが、伊勢神宮では畏れ多いので、第二の宗廟として格下の「石清水八幡宮」を選んだ。
さらにいえば、「石清水八幡宮」が強大な霊力を誇り、弓削道鏡の国家乗っ取りを阻止した皇室の守護神であることも、選択の理由に数えられるだろう。

清和源氏は、他の天皇の子孫である村上源氏や嵯峨源氏とちがって、中央政界でのしあがるチャンスがなかった。
そこで、下級宮廷貴族として国司になる道とともに、軍事専門技術者として生き残る道をとらざるをえなかった。
経基王の子、源満仲が選んだコースはまさにそれで、清和源氏は摂関家の暴力装置となって生きることになる。
さらに、関東に土着した桓武平氏が、頼義・義家父子の努力で、源氏を頭目と仰ぐようになったせいで、源氏の氏神「八幡神」は武士階級そのものの守護神へと拡大解釈された。
その結果、関東地方と関東武士が武力で進出した東北地方において、武士の神様「八幡神社」がぞくぞくと建立されることになる。
八幡神が仏教神へと変貌した「八幡大菩薩」になったために、武士たちは「南無八幡大菩薩」と神の加護を祈ったわけだ。

ここまで書いたことは、説明のために他の本の内容も紹介している。
『神仏習合』の素晴らしいところは、日本社会の成長と発展(おもに土地開発と所有形態の変遷とも言い換えられる)にもとづいて、日本人の宗教観がどのように変化してきたかを、みごとに解き明かしてくれるところだ。
古代村落共同体と律令国家の軋轢が、神がホトケになるという「神身離脱」思想を生み、さらに深刻化した闘争を解決する手段として、真言密教と天台密教の神仏習合が登場する。
律令国家が破綻した後に、宇多天皇・醍醐天皇の手で「王朝国家」が形成されると、私営田開発領主と王朝国家がはてしない相克関係に陥る。その圧力を背景として、「怨霊信仰」が歴史の舞台に登場する。
という具合に、明快にきりはらっていくストーリーは、爽快で興奮にみちている。
こういう知的興奮は、あまり例がない。
いい本を読んだとおもう。

ついでにいえば、この本をみてもわかるように、もはや日本史を日本列島の枠組みだけで考えることはできない。
東アジア文化圏ともいうべき、朝鮮・中国はもちろん北はシベリア、西はモンゴル、南はメコン・デルタまでふくめた文化圏に、日本があるということをつねにあたまに入れておかないと、日本のほんとうの姿は理解できなくなっている。

ところで、井上靖の『後白河院』を読み出す。
はたして、どんなもんだろう。こう、ご期待。

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12月15日

今年もあと半月を残すだけとなった。

思い返してみると、本年は平安時代の古典を読もうとチャレンジしてみた。
以下に、その戦歴を列挙してみる。

『竹取物語』『伊勢物語』『枕草子』『大鏡』は読了できた。
「鏡」ものは、ほかにも『水鏡』と『増鏡』(これは鎌倉時代だが)を読む。
日記では、『紫式部日記』と『更級日記』を読了した。

時代は違うけれど、『古事記』『日本書紀』は読み終わった。

『今昔物語』は『本朝世俗部』と『本朝仏教部』を読了。『震旦部』『天竺部』はまだである。
『栄華物語』は挫折しつつ、今日にいたっている。
『堤中納言物語』は有名な「虫愛でる姫君」だけ。
詩では『王朝漢詩集』と『王朝秀歌選』でお茶をにごす。
『梁塵秘抄』は読了。

大物で、手つかずなのは、『源氏物語』。
これはすぐには読む気にはならない。
他のものにくらべてずばぬけて、長いということもあるが、他にもいくつか理由がある。
なんといっても最大の理由は、固有名詞が同定できないことと、文の主語がとれないことだ。
同じ人間でさえ、官位が替わるたびに呼び方が替わる。これはきつい。
それに、日本語のくせで主語・述語が明確にわからない。
もっと短い『栄華物語』でさえ、同じ面倒があるおかげで、苦戦している。いちいち、注釈を見ない限り、だれが何をしているのか、わからない。
この問題に比べれば、古語を覚える苦労など、なんでもない。
いったい、むかしのひととか国文学者さんたちは、どうやって読んでいるのだろう。
よほど読み込んで、全体を把握しているから、理解できるのかもしれない。
勇気を出して、現代語訳からチャレンジしてみようとおもう。

あとは『古今和歌集』『新古今和歌集』と『土佐日記』。
『万葉集』というのも、残っている。
あと少しだ――とおもって、読んでいこう。

ところで、かんじんの読書があんまりできない。
考えてみれば、小説も読んでいない。
というわけで、今日はこんなところでお茶をにごさせていただきました。

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12月14日

ちくま学芸文庫から出ている『江戸切絵図集』『江戸名所図会事典』を買う。
これで、同文庫の『新訂 江戸名所図会』は全巻そろった。
ながいあいだ、気になっていたが、ともかくこれで手元に一式あるので、安心だ。


杉浦日向子さんのように、江戸時代をユートピアだとおもえるノーテンキな感性にはめぐまれていないので、この時代はあまり好きではない。
しかし、わたしたちにとって心地よい日本的な文化は、まさにこの時代に作られたのだから、うち捨ててかえりみないということも不本意だ。
江戸文化とは、わたし個人のなかでは、そうしたきわどい境界にある。

浮世絵は嫌いだが、歌舞伎は面白い。
浄瑠璃、義太夫は嫌いだが、俳句は好き。
とりあわせがヘンだけれど、これは視覚的な面と、聴覚的な面をこうして表現してみた。
ビジュアルとしてみると、歌舞伎は美しいが、浮世絵はどうも――と、おもう。
浄瑠璃・義太夫のうめき声みたいなセンチメンタリズムよりも、俳句のちょっと鋭い世間話みたいな乾いた感性が好きだ。
聴覚というよりも、もっと根源的なことかもしれない。

満足しきって、『江戸名所図会』全6巻と別巻2冊を本棚に並べて眺めた。
なかなかいいものだ――と、吐息がでる。

そうするうちに、買っただけで読んでもいない中味をみてみようとおもいたち、このあたりのことでもないかとページを繰ってみた。

すると、近所の「野火留」(=野火止用水)とか、「金鳳山平林寺」が四巻目にのっていた。
この巻には、新宿・豊島・板橋・練馬・中野・杉並の各区と、武蔵野・田無・保谷・東久留米・清瀬の全市と、三鷹・小平・東村山の各市の一部、そして、埼玉県が収められている。
歴史散歩が好きなので、こういうガイドブックは有り難い。

ところで、このごろ神社に興味がある。
武蔵野あたりの神社は、中世以降の地域の開発の歴史と深く結びついているので、いつごろ出来たかを調べてみるだけでも、当時のありさまがおおよそ見当がつく。
たいていは、平安時代以前からあった古い神社から分社として、室町・戦国時代に作られたか、江戸時代に武蔵野で新田開発したときに建てられたものがほとんどだ。
この二つの時代が、武蔵野の大開拓時代なのだから、当然だろう。

神社は勧請というかたちで、支店みたいのがどんどん増える仕組みになっている。
たとえば、氷川神社というのは、大宮にある氷川神社から勧請されたものだ。
大宮の氷川神社というのは、古い話だが、出雲の国造と同族だった武蔵の国造が故郷・出雲の「斐の川」にちなんで勧請してつくったもの。
だから、祭神は大国主命である「オオナムチ」と、その義父母「素戔嗚尊」と「櫛稲田姫」である。
出雲族は朝鮮半島と縁が深く、「素戔嗚尊」は「韓神」ともよばれる。

いっぽうで、いまの埼玉県・東京都・神奈川県にあたる武蔵国は、古代朝鮮から動乱のさなかにあった新羅から、多数の亡命者が入植した地でもある。
だから、このあたりの古い神社には、古代の歴史のロマンもそこはかとなく漂っている。
歴史好きとしては、つい足が向いてしまうのである。

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12月13日

『宮沢賢治の宝石箱』(板谷栄城)をまだ読んでいる。


紙で編まれた博物館とでもいえそうなこの本は、「賢治宝石箱」「賢治植物園」「賢治実験室」の三つの部屋から出来ている。
いちばん面白そうな「実験室」を拝見する。
賢治というひとがじつに優秀で楽しい理科の先生だったことがわかる。
よく作品に登場する「過冷却」という現象は実在して、再結晶法という実験でかんたんにみることができる。
硫酸ナトリウムという結晶状の薬品を10粒ほど水といっしょに試験管に入れて、弱火であたためると透明な液体になる。この状態を「過冷却」という。
つぎに、けし粒ほどの硫酸ナトリウム結晶をその液体に入れると、たちまち「過冷却」は破れて、結晶化がはじまる。
入れてやった結晶のまわりに羽根状の結晶がつぎつぎと出現して、ものの二分とかからないうちに「ダイヤモンドのお城」ができあがるとか。

板谷さんによれば、
「過冷却という状態の中に目に見えない歪んだ大きな力といったものが内在していて、わずかなきっかけでそれがほとばしり出てくるという、いわば一触即発といった気配が感じられる」
とのこと。

「過透明」という言葉も、賢治は好きだが、これはもちろん「過冷却」から生み出した賢治の造語だ。
わたしはこんな過透明な気色のなかに
(「風景とオルゴール」宮沢賢治)
という言葉も、そういわれてみると、エネルギーが充満した虚空ともいえそうな青空と山野が眼前にありありと見えてくるような気がする。

ところで、賢治の理科実験はなにも実験室だけにはとどまらない。
野原の水たまりや沼なんかにドロッとした赤いものが沈殿していることがある。
だれかが鉄屑でも捨てたんだろうと、素朴に怒っていたが、じつはこれは自然現象だと教わった。
水酸化鉄のゲル状のコロイドだそうである。鉄ゲルというらしい。
鉄ゲルの淀む水には、石油みたいなものが浮かんでいるが、じつはこれも産業廃棄物ではなく、鉄ゲルの光干渉という作用だとか。
――自然は奥が深い……
これを賢治は Fluoressence(蛍光)現象と呼んで、傑作「小岩井農場 パート二」に記している。
また鉄ゲルの Fluoressence
(宮沢賢治)
世の中には、知らんことがいっぱいあるもんだなとつくづく思う。

さて、この水酸化鉄が沈殿すると、酸化鉄になる。これはつまりはただの赤サビ。
ところが、この赤サビが昔は貴重な顔料となった。ベンガラ格子なんていうので有名なベンガラという良質な酸化鉄の顔料は、インドのベンガル地方から輸入したとか。もちろん、ベンガルがなまってベンガラとなった。漢字では、紅殻とも弁柄とも書く。

傑作なのは、水酸化鉄が沈殿したのが、アシなどの水生植物の根元だと、黄褐色のマカロニ状の鉱物となるらしい。
これを「高師小僧」という。
京極夏彦の小説にでてくる妖怪だといっても、通じそうな名前だ。
おもわず嬉しくなった。

とにかく、眼でそうした実験をみないことには、賢治ワールドをほんとうに楽しむのはむずかしい。
「実際に見ないことには話になりません。現象を見ないで賢治を論ずることは、絵に描いた料理の味を批評するのと同じくらい滑稽なことです。」
(板谷栄城)
そのとおりです……
申し訳ありません。(; ;)

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12月12日

昨日は、一日じゅう外出していたので、日記はお休みしました。
NHK大河ドラマと特集『イスラム潮流 最終回』をみたら、疲れて寝てしまった。
本日(13日)から気をとりなおして、また書くことにします。

『元禄繚乱』が終ったけれど、いまさら忠臣蔵なんて、という気持ちは正直ぬぐえない。
たしかに、いい俳優がぽろぽろでているけれど、どうにも新鮮な感動がない。
昔はそうではなかったのだが。

忠臣蔵は、子どもの頃から古い時代劇映画とTVドラマでいやというほど見て(バブル時代の前には毎年十二月になると、TVで放映していたせいで)、ストーリーがあたまに焼き付いていて、このごろではすっかり興味をなくしていた。
池宮彰一郎の『四十七人の刺客』が映画化されたときは、主演が高倉健さんだから、見てしまった。
これは、娯楽編としてはじつに面白かった。
たぶん、健さんの大石が、従来のイメージを切り崩す斬新なものだったせいと、故西村晃さんの吉良上野介がじつに知性的で貴族的なものだったからだろう。
市川昆監督の映像美もよかった。

しかし、忠臣蔵そのものについては、物語として興味はわかない。

ROMとして参加しているメーリングリストで、忠臣蔵に詳しいひとがいて、新しい忠臣蔵関係の本を紹介していた。
読もうかどうか迷っている。
史実としては、あまり興味がないからだ。
岩波新書の『忠臣蔵』(松島栄一)をとりだす。
この本をみると、事件そのものの史料としては、
『寺坂吉右衛門筆記』『寺坂信行私記』
『金銀請払帳』
『浅野内匠頭家来口上書』
『堀内伝衛門覚書』
『江赤見聞録』
『不忍叢書』
『赤穂義人録』
『上杉年賦』
『徳川実記』
大石内蔵助・原惣右衛門・小野寺十内の書簡
というところしかないらしい。

あとは、作家が想像力をふくらませる余地がいくらもある。

むしろ、忠臣蔵そのものは、江戸時代以後の「陰湿ないじめ社会」のカタルシスとして作用しつづけた健胃剤とみるしかない。

討ち入りに入らなかった旧赤穂浪士のその後をしめす史料はない。
ただひとり、討ち入り後に徒党をぬけて、生き延びた寺坂吉右衛門は1747年に八十三歳で死んだ。
『寺坂吉右衛門筆記』『寺坂信行私記』は、寺坂の孫がまとめた事件の顛末記である。
寺坂本人は、上司だった吉田忠左衛門の婿の世話になって生涯を終えた。

関係者のその後の消息は、
赤穂浪士切腹の年(1703年)に小野寺十内の妻が食をたって自殺。
同年、米沢藩主上杉綱憲は隠居。翌年、42歳で病死。
その三年後(1706年)、吉良の養子、吉良義央も幽閉先で病死。
1709年、将軍綱吉が病死して、六代将軍家宣の世になると、大赦があって、流刑になっていた浪士の遺児4人は赦免。
浅野大学長広も赦免となって、翌年(1710年)に石高500石で、旗本寄合衆に戻った。大学は1734年に没する。
大石の遺児では僧侶になった次男が早世して、1713年に三男が1500石で広島の浅野本家に仕官する。母りくと、三男大三郎の墓は広島市の国泰寺にあるという。
浅野内匠頭の妻、瑤泉院は1714年に没した。

忠臣蔵は大坂の人形浄瑠璃としてはじまった。
1706年に、大坂竹本座で演じられた『碁盤太平記』がそのはじめだ。
作者はもちろん近松門左衛門。
その後、別の作者たちが
浅野内匠頭の七周忌(1708年)、浅野大学の赦免、浅野内匠頭の十三回忌(1713年)、浅野内匠頭の三十三回忌(1732年)というように、
タイミングをみはからって歌舞伎にしたてた。どれも大入りだったという。
1735年以降は、ほぼ毎年上演されるようになった。
そして、その集大成として登場するのが、三世竹田出雲が他の二人の作者と合作した人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』(1748年)である。
将軍吉宗が引退しつつも大御所として、将軍家重の背後で実権をふるう息のつまりそうなご時世だった。
「忠臣蔵」の芝居としてのパターンは、おおむねこの作品で固定化して、あとは歌舞伎に踏襲されていったのは、ご存知の通り。

とにかく、江戸期後半の長いくだり坂の時代に、民衆の憤懣のガス抜きとして存在しつづけた忠臣蔵だ。また、同じ時代に完成した日本型組織・社会においても、明治・大正・昭和と時代が下っても、同じ効用を発揮しつづけたことはむしろ悲劇といえる。
これを「日本人の魂の美しさ」と美化する感性は、どうかとおもう。

それは責任の所在をうやむやにしたまま、悪いことはなんでも「総ざんげ」しようという無責任感覚と一脈つうじる。
薬害エイズの張本人である初老の元厚生省課長が、「日本的な組織のありようが薬害エイズという悲劇を生んだ。だれにもどうしようもないことだったんだよ」と時事評論家みたいな口調で、こともあろうに血清でエイズ感染した若者に諭していたドキュメント番組をみたことがある。
忠臣蔵を好む精神とは、こうした感覚の持ち主なのではないか。
少なくとも、自分自身をふりかえって反省したい。

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12月10日

『宮沢賢治の宝石箱』(板谷栄城)を読む。

この本は、「賢治博物誌」という名前で「れんが書房新社」という出版社から出た本を文庫として増補・改訂したもの。
『賢治博物誌』は、宮沢賢治ファンのあいだでは必読の名著だ。
読みたかったが、本屋に注文しても手に入らなかった。
古本屋で捜したが、みつからない。
いい本はすぐに消える。この国の悲しい宿命である。
でも、つまらない本も店頭からすぐに消える。それはそれで、いいことかもしれない。

この文庫は、古本屋でみつけた。朝日文庫だから、その気になれば、かんたんに入手できるはずだ。ありがたい。編集者さんと出版元に感謝、感謝――である。 朝日新聞社の「及川敬二郎」という人が、編集者さんだ。
一冊の良書を出すには、書き手はむろんだが、編集者さんの力量がものをいう。
あんまり有名ではない出版社(れんが書房新社さん、ごめんなさい)から出た良書を、ふたたび世に出してくれたことに、しつこいようだけれど、感謝、感謝。

このHPでへんてこなエッセイを連載しているように、わたしは植物が好きだ。
ついでに、鉱物と雲も好きだ。

宮沢賢治の本は、植物や鉱物が重要なキャラクターとして登場する。
もちろん、わたしにはそのすべてがわかるわけではないから、だれか親切な案内人がいてくれたほうが、賢治ワールドを探検するには便利にきまっている。

板谷栄城さんは、賢治ワールドの最良の案内人だ。
ついでにいえば、もうひとりのベスト・ガイドは、賢治の実弟・宮沢清六さんであることは、賢治ファンの「定説」である。

板谷さんは、東京生まれのくせに、賢治の母校「盛岡高等農林」で学び、東北大で化学を専攻した理科の先生だ。もう、とっくに定年退職しているだろう。なにせ、昭和3年生まれなのだから。
子どもを集めて、オーケストラをつくって、指揮者もやっている。
経歴からみるかぎり、賢治がおとなしく学校の先生をやっていたら、歩いたであろう人生行路を生きた。(もちろん、先生を勤め上げることなど賢治にできるはずがないことは、板谷さんがいちばんよく知っている。)
板谷さんの本では、ほかに「素顔の宮沢賢治」を読んだ。
これを読むと、あんまり偉すぎるか、超カルト作家であるか、という偏狭な賢治像にとらわれずに、岩手県に生まれて山野の空気を吸い、ふつうにご飯を食べて、せっかちに足早に歩いた愛すべきひとりの心優しい青年と出会うことができる。
この青年は、あなたもご存知のように、もちろん、日本でいちばん素敵なやつである。

賢治の実弟、宮沢清六さんが兄の思い出を書いた『兄のトランク』は、いまではちくま文庫に入っていてかんたんに手にはいる。
賢治が好きなひとには、これも必読。
教育評論家やエコロジー派がダシにしているのではない、ほんとうの賢治に出会うことができる。

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12月 9日

昨日に続いて、『歴史と旅 増刊』を読む。
安倍晴明の表の顔は、租税の歳入・歳出や予算・決算を担当する官僚だった。
さらに天文博士という役目にもついていたが、これは税金関係の官僚にくらべれば報酬も少なく、位階もずっと下の下級役人だ。
あまりメリットのある仕事ではない。

さらに、安倍晴明は国司にも任命されている。
しかも、国司として任命されたのは、播磨国という大国だ。
これは官位としては、従五位上でなければならない。これほどランクの高い地方長官に任命されたのは、晴明が道長のおぼえめでたく出世したご褒美であろう。
たぶん、その働きは陰陽寮とは関係ない「民間陰陽師」としてのものだったろう。
このころは、国司が任命される地方行政単位としての「国」は、大国、上国、中国、下国というようにランク分けされている。ランクは、実入りの善さである。
播磨の国に任じられたことで、播磨の国に多かった民間陰陽師と交渉をかんがえるひとも多い。
だが、どうだろう。それほどの意味合いはなかったかもしれない。

鎌倉時代には、貧乏な宮廷絵師がやっと嘆願して播磨国の国司になったということがある。
このころでも、国司という制度はあった。
ただし、このころは武士の世の中で国司になっても、税金の取立ては武力の裏打ちがなければ、できなかった。
とはいえ、どうやら、政府高官や皇室に貢献した役人に、ご褒美として京都に近い大国の国司へ任命するということは慣例としてあったらしい。
播磨国の国司となったということは、そういう眼でみたほうがよいようにおもう。

全国の散らばる晴明の生誕場所や、ゆかりの場所は、じつは室町や戦国期に作られたという高原豊明氏の調査も興味深い。
この時代は、日本全土で耕地が拡大し、里山と田畑を有機的に統合させた日本式農業がいよいよ始まる農業技術の大発展時代だった。
しかも、土地開拓、城郭建築、道路整備と、各地の領主たちが土木工事を地方公共事業としてどしどし実行した時代でもある。
じつは、土木工事の企画立案、測量、工事の監督に、活躍したのが、陰陽師だった。
古代から中世の日本においては、建設・建築の分野は、実地作業にあたる職人だけでなく、陰陽師の立案・測量・工事監査の能力が必要だった。
室町・戦国時代に活躍した陰陽師の商標みたいなものとして、安倍晴明ゆかりの場所はつくられたわけである。
さらにいえば、山伏という陰陽師と仏教呪術をかねそなえた存在も、安倍晴明を看板かわりに使用した。
山伏の修験道霊場として有名な熊野の那智で、安倍晴明が呪法を修行したという説話が誕生するのは、室町時代のことだった。

安倍晴明という虚構の巨人をつうじて、歴史の表面には出てこない普通の人たちの暮しがかいまみえる。
ながい間、この国の歴史では、武士・農民・商人・職人のうち、武士と農民、商人たちだけが普通の人とされてきた。
「貴族・武士・農民・商人」という分類に当てはまらないひとや、職人たちの暮しに、あんまり解明されていない。
いまとなっては伝説の晴明には、なんの興味もないが、虚構に仮託された「人々の足音」はぜひ聞き取りたいとおもう。

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12月 8日

『歴史と旅 増刊』を買う。
「完全攻略 安倍晴明」という特集に惹かれて――である。

この読書日記を読んでくれた人はご存知だろうが、わたしはオカルトと精神世界がやたらと好きだ。
マニアがこうじて、勉強不足な書き手たちであれば書いている内容のモトネタがほぼわかる。作者の創作であっても、あれとあれを組み合わせただけだと、すぐにわかってしまう。オカルト、ファンタジー、ホラー系の書き手は、発想と想像力については、作家という種族においてもっとも貧困な部類に属するから、これぐらいのことはすぐわかってしまうということもある。
それだからこそ、モトネタがわからないほど研究しているひとは尊敬する。

雑誌『歴史と旅』増刊号を買ったのは、そういう理由からだ。
筆者として、名前があがっている人たちをみれば、これは買わないわけにはいかない。
日本陰陽道の第一人者、村山修一氏。
日本最古の医書『医心方』の全訳・注釈をやってのけた槙佐知子氏。
いまどきの陰陽道の本は、ほぼ村山氏の本の受け売りか、受け売りの受け売りか、「孫引き」ならぬ「ひ孫引き」だと思えばよい。
陰陽道とも関係が深い『医心方』は、医学者だけでなく、日本オカルト史に興味があるものにとっても重要な本だ。

あとは、国文学者の志村有弘、日本宗教に造詣が深い作家・藤巻一保、豊嶋泰国の三氏がいい。
この人たちは、文献批判の手続きを踏みながら、とにかく元史料をしっかり読み込んでいる。
ノー味噌がただれたような、孫引きの羅列で作品を書く人ではないから、好感がもてる。

しかし、いっぱん受けするのは、ヒョータン+ナスビのような顔をした人気作家だろうが、わたしはこの人本人よりもこの人の小説をマンガ化した女流漫画家のほうをはるかに高く評価している。
雑誌の営業方針として、ベストセラー作家のこのひとのインタビューを巻頭にもってきているが、なんとなく目障りである。
ただ、面白いのは、このひとが安倍晴明を描いた講釈本みたいのが、明治・大正時代の講談本のぱくりだと書いてあったこと。
あんまり自慢にならないことを、はっきり自分で認めているから、度量は大きいと褒めなければいけない。
物語作者としての能力に自信があるからだろう。
娯楽として楽しむのであれば、なんの問題もない。どうぞ、どうぞと云うだけだ。それで、本が売れて、読者も喜ぶ、作家も喜ぶなら、これほど目出度い話はない。
だが、やはり、それだけのひとであるという感をいっそう強くした。

なぜか、こういう人の作品は読む気がしないのである。
小説がうまいという評判だし、じっさいに売れてもいるけれど……
人間として、まったく興味がもてない。

ところで、志村氏と豊嶋氏がいいのは、晴明伝説が後代の創作だとはっきりと書いていることだ。
この雑誌の記事でも、このお二人は晴明のオカルト話の出典をいちいち書いてくれている。
たとえば、いちばん有名なオカルト話があるのは、『今昔物語』。
これは、晴明が死んでから、100年後にできたものだ。
晴明というひとは、よほど低い身分だったので、生年がわからない。だが、没年は1005年であることだけは、史書で確認できる。
たしからしい話でさえ、これほどのタイムラグがある。
あとは鎌倉時代、室町時代、江戸時代というぐあいに、それぞれのエピソードが初出した書物の執筆年代を追っていくことができる。
とくに江戸時代は、晴明伝説が大増殖した時代で、いろんな陰陽師の逸話が晴明にいよいよ集中されて、読み物として、ますます膨らんだ。
現代のわたしたちが知っている晴明のイメージは、これを根幹としている。

志村、豊嶋の両氏は具体的な出典を書くことによって、晴明伝説がおとぎばなしであることを教えてくれているような気がする。
「こどもたちの楽しみを邪魔するのは可哀相だけれど、大人はわかってね」
と、片目をつぶりながら、苦微笑しているような……
こういう大人の作家はいいなと、おもう。

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12月 7日

『選択本願念仏集』を読む。

「選択」という言葉に、法然は二つの意味を持たせている。
ひとつは、信仰者の主体的な問題として、仏教徒の修行方法のなかから、ひたすら念仏をとなえる「口称念仏」のみを選択するということ。
ありていにいえば、他の修行方法は余計なものだと捨ててしまうことになる。

またもうひとつは、「阿弥陀仏」という超越者側の行為として、二百一十億あるという仏国土のうちから、最上のものを選び取って、それを信仰者のために提供するという誓いである。
その仏国土に生まれれば、人としても苦しみも、罪を犯して輪廻転生の苦しみを受けることもなくなる。
ありとあらゆる仏国土のなかから、その最善の部分だけを集めて仏国土となして、そこに信仰者を招くという誓いである。
ぎゃくにいえば、二百億をこえるいろいろな理想郷、仏国土のなかから、劣った部分や具合のよくない部分は捨てて、よい部分だけを選択して、これ以上はないという理想世界を作るという誓いだ。
その意味で、超越者にとっては、「選択とは取捨することなり」という結果になる。

仏教においては、超越者はひとつではなく、いろいろな「ホトケ」という形で過去・現在・未来においておびただしく存在することになっている。
その「ホトケ」たちは、自分の造った理想世界「仏国土(=浄土)」に信仰者を招くにあたって、条件を設定する。
たとえば、それが「戒律を守ること」「仏寺や仏塔を建設すること」「布施をすること」「高度な修行をすること」などであり、そのうちのすべてを行なわなければ、招待しないという厳しいホトケもあれば、そのうちの一個だけを守ればよいと条件の緩やかなホトケもある。
「阿弥陀仏」というホトケは、「念仏」という行為のみで、自ら建設した理想世界へ信仰者を招待してくれる。

仏教にあっては、ホトケはいきなり誕生することにはならない。
釈迦如来ですら、ながい前世の輪廻をへてホトケになった。
いまだに、天上界のどこかで修行していて、56億7000万年後にホトケになる予定の弥勒仏というのもいる。
空海は、高野山金剛峰寺の奥院で弥勒仏の下生をじっと待っているそうである。

阿弥陀仏は、法蔵比丘という名前で<世自在王如来>というホトケのもとで修行しているときに、このような仏国土を建設するという発願をおこした。
すでに五劫という修行期間をおえて、仏国土は建設されている。
「劫」というのは、四十里四方の城郭都市に芥子粒を満たして、三年に一度天人が芥子粒一個を取り去って、そのすべてが亡くなったときともいうし、四十里四方の岩石に三年に一度天人がその衣でさらりと触って、ついに巨岩があとかたもなく消滅する期間ともいう。
ところで、ホトケは比丘や、菩薩という修行時代に自分がどのような理想郷を作るかというプランを師匠に提出しなければならない。
それがホトケ界(そんなものがあるのか、どうかはしらないが)の決まりらしい。

法然がはじめた浄土宗の一派は、修行者としては、他の修行を「取捨」して、念仏だけを業として「選択」する。
そのことを通じて、超越者「阿弥陀仏」の「選択」した招待方法にしたがって、「阿弥陀仏」が全理想世界から最良の部分を「取捨」・「選択」して創造した最高の理想世界へ赴き、そこで生きることを「選択」する。

こうやってみると、実存主義でいう「投企」がなければ、他力本願も始まらない。
人頼みの代名詞みたいな、「他力本願」という言葉には、逆説的にたいへんな勇気と決断が必須だったのである。

そのことを考えてみると、法然にあっては「選択」という言葉はひどく重いものだった。

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12月 6日

『選択本願念仏集』を読む。

知っているひとも多いだろうが、「選択」は「せんじゃく」とよむ。
法然の思想は、「選択」という単語につきる。

法然は「一切経」を五度ほど通読した。
「一切経」とは、当時入手できた漢訳仏典すべてを指す。「大蔵経」「三蔵聖経」ともいう。
735年(天平7年)に、留学僧・玄ムが唐から持ち帰った仏典5048巻が、この国にはじめてもたらされた「一切経」である。
これは、当時の「開元釈経録」という論文で認められた経典である。
その後にも、中国からもたらされた仏典を補充して、「一切経」は増えていった。
空海、最澄や、その弟子たちも入唐して、新しい経典をもってきたから、どのくらいになっているんだろう。
ともかく、莫大なものであるのは間違いない。図書館で、活字版の「一切経」をみたことがあるが、ひとの背丈よりも高い本棚をまるまる幾つも占領していた。
とにかく、背表紙をみただけで圧倒された。
開いてみると、漢文の羅列である。
しかも、サンスクリット語やパーリ語を直訳したらしい単語も多くて、あっさりと読むのを諦めてページを閉じた。

法然は、とにかくも、これを読んだ。しかも、五度も繰り返して。
昭和に亡くなった仏典研究の大御所某氏は、サンスクリット語やパーリ語のインド現地語を知らない人間には、読んでも意味がとれない部分が多かったはずだと決めつけ、法然の思想をあたまから否定していた。
つまり、インド現地語をしらない無知な僧侶が経典を誤読したあげくに、シャカムニとは縁もゆかりもない浄土宗をひりだしたというわけである。
このひとは、原始仏教いがいの仏教をいっさい認めない極端な「学的良心」にこりかたまった人だったから、思想的な問題についていえば、その云うところをまともにとりあう気持はない。
だが、言語学的にいえば、その議論は間違ってはいない。
原典とつきあわせない限り、意味不明なところは数多くあったに違いない。
しかし、その部分が思想・宗教としての究極のポイントであったかどうか。
たとえば、イエス・キリストが死ぬ間際に叫んだという謎の言葉「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」は、イエスが日常使っていたアラム語という古代言語である。しかし、そのことが分からなかったからといって、キリスト教が理解できないということもない。

一字一句を精密に理解することは大切だが、大意さえわかれば、言語の役目はことたりる。
翻訳はじっさいには意訳でしかありえず、しょせんは意味の伝達を優先する「不実な美女」と、元のテキスト言語の形態を優先する「忠実な醜女」のどちらかしかない。
どちらが望ましいかといえば、「不実な美女」だが、こと思想や技術についていえば、論理的思考力や分析力のある人なら、テキスト全体の構成や論旨の展開から、誤訳の部分になんとなく気がつくものだ。ひどく苦労することは間違いないが、じっくり考えれば、なにを云いたいのか、分析することだってできないわけではない。
もちろん、もとの外国語の知識がなければ、どうしてもわからないこともある。
頭脳が人並みすぐれた法然のことだから、そうしたところは諦めて読み飛ばしたに違いない。

いまは故人である大御所氏に云えることがあるとすれば、
「あなたは学問的良心で誠実に読んだかもしれませんが、法然は<生きるための救い>を求めて必死に読んだのですよ」
ということだけだ。

ひとことでいえば、気合が違う。

テキスト研究が進んだ現代とは比べ物にならないほど、情報量はすくなかった。
仏典のテキスト学は、19世紀から今世紀にあたって、飛躍的に発展した。
だからといって、社会の大変動期に<ひとの生きる道>を探し求めたエネルギーそのものを否定できるはずもない。

平安末期は、それから1000年にわたって、この国を支配する政治・経済のあり方を模索した大変動の時代だった。
世の中の根太が抜けたような、大崩壊期であったはずである。

たぶん、その危機感は戦争を経験した昭和のひとよりも、平成に生きるわたしたちのほうが大きいだろう。
そこで、法然はある生き方を「選択」した。
その選択については、あとでもう少し考えてみようとおもう。
法然の選択に対する反発も含めて。

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12月 5日

NHKで『イスラム潮流』の第三回をみる。

湾岸戦争後も、アメリカは莫大な移民を中近東から受け入れている。
ニューヨークのタクシー・ドライバーは、八割が中近東からの移民らしい。
移民たちは、どしどし子どもを生む。学校教育のあとで、私塾のかたちで子どもたちはアラビア語とコーランを学ぶ。

アメリカという国の、太っ腹というか、無頓着さには驚くほかはない。
移民によって国が変質してしまうことに、少しも畏れを抱かないこの国では、『戦争論』や『国民の歴史』のような論争はまずおきないだろう。

ニューヨークには、クウェートが資金の三分の二を提供してイスラム文化センターが建設されている。そこから、全米へイスラム布教運動が展開されている。
いま、アメリカではたいへんな勢いでイスラムが勢力を増しつつある。

アメリカは、宗教改革の産物である清教徒の国家として出発した。
ある意味では、18世紀に誕生した宗教国家といっていい。
この観点からみると、ドイツの領邦国家にいくつもあったルター派の小君主国家とたいして違わない。
アメリカには、建国後もぞくぞくとプロテスタント諸派が移住してくる。
フレンド会(いわゆるクウェーカー)、アマン派(アーミッシュ)などヨーロッパで迫害されたグループが、新大陸に逃げ込んできた。
またアメリカで生まれたモルモン教(末日聖徒イエスキリスト教会)も、プロテスタントの一派と考えていいだろう。

ところが、そうしたキリスト教は、いまでは白人層のものとなっていて、黒人たちからは見放されつつあるらしい。
さらいえば、<ラティーノ>という中南米出身のスペイン語使用者がぞくぞく増え続けることによって、キリスト教そのものもかつての国教ともいうべき<プロテスタント>が力をうしなって、<ローマン・カトリック>が主流になりつつある。

どうやら、キリスト教会はアメリカ社会の発展とともに、コミュニティとしての力を失ってしまったと断定するべき事態にいたったようだ。

アメリカの好景気の恩恵を受けられない黒人たちは、もともと無宗教なひとが多いから、救いを求めてイスラムへ改宗していく。
敬謙なキリスト教徒であった黒人たちでさえ、既存の教会を捨てて、イスラムは改宗する。

その原因にあるのは、アメリカの競争社会の厳しさが人間として世の中をなしがたいほど過酷なものになってしまったことにある。

かつてソ連がイスラム化する日がくると、ソ連学者のあいだで深刻に議論されたことがあった。
ソビエト連邦はなくなったが、かつて領土だった中央アジアでは、人口比率において、ロシア人は少数派に転落した。
これと同じことが、やがてアメリカでもおこるのではないか。

白人層でもわずかながら、イスラムへ改宗する人々も出始めている。
少年が銃撃事件を起こして自殺したり、自殺志願のヒステリックな大量殺人者が出現するアメリカ社会は、ひとという生き物にとって砂漠だ。
「砂漠の宗教」イスラムが、似合っているのかもしれない。

おもわず、TVを見たので、本日は読書日記はお休み。
鈴木大拙『日本的霊性』と並行しながら、『選択本願念仏集』を読む。
いっきに通読というわけにはいかない。 気が遠くなりそうだ――
なんとか、自分を励まして読み続けることにする。

くたびれたので、ドイツ語版聖書『ヨハネ福音書』をぱらぱらと読む。
日本語の本を読んで疲れたときに、外国語の本を読むのはいい気休めになる。
なぜだろう。

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12月 4日

『選択本願念仏集』を読む。

法然が九歳にして父を喪ったのは、武士同士のいさかいが原因だ。

この時代の武士は、自分が開拓した田畑を中央政府の横暴から守るために、苦心惨澹していた。
その方法としてもっとも望ましいのは、国府の官吏となって、実質的な地方行政官である「郡司」や「郷司」に任命されることだ。だが、これは古くから地方に根を下ろした貴族くずれの名族・豪族でなければできない。
平安時代末期ににわかに地から湧き出たような、中小の武士にはこの方法は無理だった。

ぎゃくにいえば、かつての国司をつとめた下級貴族層である受領階級が力を失ったにもかかわらず、中央の上級貴族が贅沢な生活を楽しめたのは、軍事力をそなえた地方武士たちが実質的な徴税吏となったおかげでもある。
したっぱの中小武士は、横暴で貪欲だが地方事情には暗い国司ではなく、現地の地方ボスたちから税金を取りたてられるはめになった。
そこで、逃げ道に考えられたのが、聖俗の上級貴族に直接、田畑を「庄薗(=荘園)」として寄進して、名目上の所有権を放棄したうえで、実質的な支配権を維持して、減税にもあずかろうと図った。
そうした武士たちは、「庄司」とか「下司」、「荘園預所職」とか称した。

さらに、もうひとつの便法として、地方の警察権を握る「横領使」という役職に任命される方法があった。
在庁官人である「介」「目代」「大掾」「郡司」などといった役職よりは、不安定であるし、荘園管理人である「庄司」「荘園預所職」よりも減税効果は弱いが、これでもないよりははるかに良い。

桓武平氏や清和源氏の傍流である大豪族たちは別格として、農民から成り上がったばかりの中小武士たちは「荘園管理人」と「地方警察官」のどちらかになろうとして厳しい争いを繰り広げた。
とくに、力関係が互角で、利益が直接ぶつかりあうから、いさかいが絶えない。
相手の下にたてば、してやられるので、意地の張り合いでも負けられない。

法然の父、「横領使」漆間時国が「稲岡荘 預所職」明石定明に闇討ちをうけ、重傷を追った背景には、そうした平安末期の構造改革がある。
この矛盾を解決するべき存在として、「鎌倉殿」源頼朝の政権が登場したのは、法然が晩年のころだ。

ただ、武士としては珍しいことに、父漆間時国は、わが子勢至丸に復讐を禁じた。
それよりは、仏道に入って、菩提をとむらうことを命じた。
その子、勢至丸こそ、法然の幼名だった。

ふりかえってみると、鎌倉時代の念仏宗の大物は、法然、親鸞、一遍だが、そのうち同時代に大きな影響力をあたえた法然、一遍は西国の武士出身だった。
余談だが、親鸞の直接的影響力はこの時代にあっては、ごくごくうちわの小集団に及んだにすぎない。法然没後数十年間は、親鸞の門徒数は浄土教一派にあってさえ、少数派だ。
法然は美作(岡山)、一遍は伊予(愛媛)の出身だ。
中部地方以東の「東国」と違って、名族・豪族が大武士団を作れなかった西国では、政治・経済の構造改革がいっそう進み、負け組がいよいよ多くなっていったのではないか。
そのひとびとが、念仏仏教に救いを求めたと考えてみると、納得がいく。

このことは、『平家物語』で東国武士斉藤実盛がけなした西国武士の仏教化した習俗を考え合わせると興味深い。
念仏をただひとつの信仰のよすがとした浄土宗系の宗教は、発生期においては「西日本」のものだったといえるのではないか。

それが中部地方から東の地域へ伝播するにあたっては、なにかもうひとつ大切な要素があるのかもしれない。

あるいは、むしろ「東日本」のための仏教が生まれるのは、法然の没後に生まれたもうひとりの宗教的天才によるところが大きいような気がする。

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12月 3日

本日(12月4日)新聞で知ったのだが、SF作家光瀬龍さんが本年7月に亡くなっていた。
某SF雑誌を読まなくなって久しいので、さっぱり知らなかった。

筒井康隆の『SF入門』で、短編集『墓碑銘2007年』を知ったのが、光瀬作品との出会いだった。
以後、『たそがれに還る』『カナン5100年』『喪われた都市の記録』といった宇宙史シリーズにはまる。
『東キャナル文書』『宇宙塵版 派遣軍還る』『無の障壁』を続けざまに読んだのが、最後だったかとおもう。
火星の東キャナル・シティー、金星のビーナス・クリークという名前は、光瀬ワールドを知らないひとにはなんの意味もないけれど、たぶんわたしと同世代の光瀬ファンには、無限に郷愁を感じさせるに違いない。

萩尾望都がマンガ化した『百億の昼と千億の夜』はあまり好きではない。
このころから、光瀬作品は読まなくなった。
タイム・トラベルもののSF時代小説もだめだった。
ゆいいつ好きだったのは、『ロン先生の虫眼鏡』だ。

そういうわけで、最近の動向はさっぱり知らない。
「本の検索サービス」で見る限り、96年以後は小説の新作はなかったようだ。
98年に青春出版から新書版できわものめいたものが出たときは、本屋で見つけた。
こんなことをいうのは失礼な話だが、光瀬さんほどのひとがこんなものを書くのかと、ひどく悲しくおもった。


ちなみに、今年の日本SF大賞は新井素子さんの『チグリスとユーフラテス』。
おもえば、この人が出現したころから、日本SFからはどんどん縁遠くなっていった。
素晴らしい才能をひっさげて登場した人々が、いつしかありきたりの流行作家になる例が多すぎた。
ぼつぼつと海外SFだけを読むようになり、最近では海外SF雑誌を講読したり、好きな海外作家の新作を英語で読むだけだ。
もう、わたしのような人は、SFファンとは呼べないだろう。

ところで、『選択本願念仏集』を読み続けているが、まだ考えがまとまらない。
もう少し読んでから、書くことにする。

そこで、息抜きに司馬遼太郎さんと井上靖さんの対談『西域をゆく』を読んでいる。
司馬さんの本で、読み残した対談集やエッセイを来年3月くらいまでには完全制覇しようとおもう。
もちろん、そのなかには『街道をゆく』全43巻も含まれている。こっちは、まだ4冊くらいしかないから、まだまだ先がある。
「ぼちぼちやったろうや、ないけ」と
まがいものの河内弁で言い聞かせる。司馬さんのおうちは、河内にあるとか。
もちろん、奈良の竹内街道のあたりで、生まれた司馬さんは、河内弁など生涯使わなかったに違いないが。

司馬さんが直木賞を取った年に書いた「朱盗」という不思議な小説がある。
そこには、百済人「扶余の穴蛙(あなかわづ)」という人物が登場する。
「扶余」とは、古代朝鮮南部にあった群小村落国家群の名称だ。
古代にあっては、地名は種族名に由来することが多い。だから、「扶余」という地名が南朝鮮には数多く残されている。
「朱盗」という作品は幻想小説といっていいような、えらく不思議なストーリーだったので、記憶に残っている。

この話には関係ないので、詳しくは紹介しない。興味があれば、「果心居士の幻術」(新潮文庫)にはいっているので、そちらを見てください。)

ところで、この「扶余」という地名が、西域の「草原の道(スキタイ・ロード)」をとおって、西方から満州をへて、朝鮮南部へやってきた「扶余族」に由来することを、司馬さんと井上さんが語っていた。

この南朝鮮にひろく住んだ「扶余族」は、やがて日本や移住して、先住の豪族たちを支配下において、統一国家を造ったとか。
その論法でいくと、「扶余族」の末裔は、この国で唯一名字のない名家にいきつく。
偏狭なナショナリストには、逆上ものの仮説だが、地球的規模でいくと、ロマンがあっていい。

わたしは、日本人とはいまのアメリカが将来そうなるであるように、ユーラシア大陸全体や、太平洋を囲む広大なパン・パシフィック世界から、ありとあらゆる人種が文化をひっさげて、融合してつくりあげたハイ・ブリッド民族だと思っている。

そのことは、昨今の考古学的な証拠がますます実証してくれているような気がする。
あんまり、民族、国境をこせこせ考えるよりも、もっとおおらかに見てみたいものですね。

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12月 2日

『選択本願念仏集』(法然)を読む。
内容は要するに、念仏さえ唱えていれば、他の仏道修行は不要だということ。
ただし、それだけで「はい、そうですか」とわかった気になっても、仕方がない。

井上ひさし氏によれば、世界の文学、思想書のたぐいはただの二行ですむという。
書き出しの一行は、例えばこんなもの。

「あるところにひとりの男(または女)がいた」

歴史小説であろうが、現代小説であろうが、書き出しはこれでまず間違いない。
ただし、これだけだと読む人はいないだろうから、読ませたいなら「芸」が要る。
しかし、末尾の一文には、最高の決め文句がある。
たとえ、どんな国のどんな名作であっても、これさえつければ見事にしめくくれる。
その名文句とは、

「ひとは、さまざまである」

というもの。
小説であれば、ラストはこれでどんぴしゃりにはまる。
暇があったら、やってみてはいかが。

とにかく、宗教関係の本は、教義をはっきりぶちあげる前の「ごたく」が面白いのだから、結論を急がないようにしよう。
あせらず、いそがず、ゆるゆると読んでいこう。と、自分に言い聞かせる。

古典は自分で読んでみるものだ――と、おもう。
例えば、教科書や通俗的思想本なんかには、
「衆生、仏を憶念すれば、仏、衆生を憶念す」
という名文句が法然の言葉として、引用されている。

しかし、『選択本願念仏集』という法然が口述筆記させた本を実際に読むと、
この部分は唐の時代の名僧「善導」の『観無量寿経疏』の引用だとわかる。
つまらない話だけれど、世間のひとの云うことなんか、あんまり当てにならないことが、よくわかる。

騙されまいぞ、騙されまいぞ。
と、念仏がわりにときどき唱えたほうがいいな――と、自分を振り返る。
さもなければ、「野村サッチーは大悪人」とか、「お受験は許せん」というTVワイドショーの「正義」に惑わされることになるだろう。
お人よしで、マスコミの正義に誑かされがちな自分だから、よくよく用心しなければ。

さすがに当時の最高学府、比叡山延暦寺で、智慧第一の法然房と異名をとった法然だけあって、この本には引用が多いと感心する。

中国の後魏の僧「曇鸞」の著書からの引用した一文には、おもわず感心してしまった。
末世に正しい「悟り」を得るのが難しい理由を、曇鸞は説明している。
それがあんまり見事なので、ここに引用する。

「一は外道の相善、菩薩の法を乱る。
二は声聞の自利、大慈悲を障(さ)ふ。
三は無顧の悪人、他の勝徳を破す。
四は顛倒(てんどう)の善の果、よく梵業を壊(やぶ)る」

一番めは、いっけん善さげで、あとは全然駄目とわかる「自己啓発セミナー」みたいなものに誑かされること。
二番めは、トラブルを恐れて、正論をはらない人たちのことなかれ主義。
三番めは、自分さえ善ければいいというエゴイストや、過剰な競争主義追求派が、インターネット・バブルで儲けているのをみて、まじめな製造業者が自分のやり方に疑問をもってリストラ・財テクに走って、あげくに元も子もなくしてしまう。
四番めは、擬似宗教に洗脳されて、家庭も財産もぼろぼろにされる。

という具合に、いまの世相そのものだと感心してしまった。
これが書かれたのは、いまから1500年前だ。
人間のやってることは、かわらない。
歴史を趣味としていると、嫌でも痛感することだけれど、
今度もきびしく思い知った。

とはいえ、法然でさえ今から700年くらい前の人だ。
法然もそんなふうにおもったから、この文章を引用したのだろう――
と、考えるのは思い過ごしかな。
とにかく、人間という生き物は、おもしろい。

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12月 1日

『私の聖書物語』(椎名麟三)を読む。

もはや蒼古たる風韻を帯びた太古の純文学作家のキリスト教論である。
椎名は戦前に共産党員となり、転向して、作家になった。
その後、四十歳くらいに、受洗して、キリスト教に入信した。
これは、そうした椎名のキリストへの思いをつづった本だ。

椎名の『聖書物語』は、今となっては、奥歯にものの挟まったような云いかたが歯がゆい。
こんにゃく問答のような、曖昧なもの云いに、おかしみがないわけではない。
だが、ひどく回りくどい論旨には、すこし飽きる。
椎名は、遠藤周作ほど、じぶんにとっての<キリスト>を言語をつうじて造型していない。

この本が雑誌に連載されていたときには、キリスト教信者からおびただしい非難の手紙が来たそうだが、なんだかよくわからない話だ。
この程度の口調でキリストを語っただけで、なぜ信者が怒ったのかはよくわからない。
日本人特有のヒステリーだと考えておくほうがいいだろう。

日本のキリスト教関係の方々は、おのれ一人を善しとする癖があるようだ。
『代表的日本人』『後世への最大遺物』といった名著を読んで、内村鑑三をひそかに尊敬していたが、小原信氏の書いた評伝を読むと、内村のような人でさえ家族や身近な人々とはずいぶん軋轢を引き起こしたらしい。

日本人にとって、キリスト教へ入信することは、本来ひどく戦闘的な人間でなければ、なしがたいことなのかもしれない。

そのことはおくとして、椎名にとって、<キリスト>の救いとは何だったんだろう。

考えてみると、やはり時の流れを感じないわけにはいかない。
椎名が、キリスト教に興味を抱いたのは、ニーチェとドストエフスキーからだった。
ニーチェの大衆侮蔑は、共産党から転向するための理論武装だった。そして、理想を見失った椎名のこころの拠り所となったのは、ドストエフスキーだ。
無神論者の椎名にとって、意外なことに、このふたりほどキリスト教にこだわった芸術家・思想家はいない。

ドストエフスキーの『悪霊』に、こんな科白があるらしい。昔、読んだけれど、手元にテキストがないので、孫引用する。
『悪霊』の重要な登場人物、キリーロフとスタヴローギンという二人の男の会話だ。前後の背景は、興味があるひとに読んでもらうことにして、ここでははぶく。

「人間はすべて許されている」(キリーロフ)
「それでは、子どもの脳味噌を叩き割り、少女を凌辱しても許されるのか」(スタヴローギン)
「それも許されている」(キリーロフ)
問題なのは、ここからで、 「ただ、すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そんなことをしないだろう」(キリーロフ)

椎名がキリスト教へ傾斜するきっかけとなったのは、キリーロフの最後の科白だ。
ここには、大きな論理の飛躍があり、それを論証することは近代的論理をもってしては不可能だ。
この<実存の深淵>こそ、椎名がキリスト教へ飛び込んだスプリングボードだ。

椎名にとって、人間は深刻である。
「なぜならこの人生においてそれだけはほんとうだと思われるものは、大抵理由もなく存在していて決定的な力を持っていたからである」(椎名麟三)

さらにいえば、「愛」と「自由」という人間らしさの根幹をなすものでさえ、理由はつけられない。
「愛の行動を……(略)……もっともらしい理由のせいだとすると、私は愛する気力を失ってしまう」(椎名麟三)
たとえば、「愛する理由を三つあげよ」と云われて、
「顔がいいから、仕事ができるから、他の男が貴女を褒めているから」
と、云われて喜ぶ女のひとは一人もいないのではないか。
むしろ、相手が自分を愛していないことを確信するだろう。 と、椎名は考える。
「人間の真剣なことがらというものは、とどのつまりは理由なく存在しているのである」
「それはどんなにたずねても答えのないものなのである」
という、苦い認識があるだけだ。

椎名にとって、キリストとともに生きられない人生は、
「『自分がそうあるのは、自分がそうでないというあり方に於いてしかない』」という罠」
としか見えない。

椎名が戦後捜し求めたものは、「ほんとう」というものだった。
「ほんとうということ」
「ほんとうに生きるということ」
「ほんとうに愛すること」
この三つを追求してしまったら、キリストに到達したということである。
出会いがしらの交通事故みたいな遭遇といっていい。
しかし、ただのアクシデントがときとして運命的なものでもあるように、遭遇は椎名の人生を決定的に変えた。

だから、
椎名にとって、自分がキリスト者であることは、
「ホントウのホントウのホントウです」
というぐあいに表現するしかない。
こころの真実とは、そういうものだろう。

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© 工藤龍大