植物探偵の冒険

人類がこの惑星に誕生する前からいたもっとも生き物― 植物。

しかし、その生き物はいまもなお進化し続けている。日々新たに新種を生み出し、変貌しつづける驚異的な生命体である。

これは、植物の驚異の世界に敬意を払いつつ、神秘と謎にみちたその生活に鋭く踏み込み真実を追究するひとりの植物人間―いや植物探偵の物語である。


●植物探偵 登場

もう十年くらい前のことだが、「博物学」がブームになっていたころ、リプリントされた洋書の博物学図鑑を買いあさっていた。
そのころ、興味があったのはもっぱら鳥類だった。

図鑑ばかりではなく、たまには近所の井之頭公園へ出かけて水鳥をバードウォッチングしていた。外国の鳥の図像もいいが、やはり生きている鳥がいちばんである。
日本野鳥の会の探鳥会にもでてみたが、そちらは多摩霊園であわただしく小鳥を眺めるので面倒になって止めてしまった。
その点からいうと、水鳥はのんびり眺めていられるので、図鑑さえあれば素人でも識別は簡単だ。そもそも素人がわからないほど難しい鳥はいなかった。たとえいたとしても、こちらにはぜんぜんわからなかったのだから同じことだが。

さて、多士済々の冬の水鳥シーズンが終ると、あとは年中いるカルガモしかいない。
雀やハトと並んで、鳥見人にとっては、気のおけない大切なお仲間ではあるが、いささか飽きてくることは否めない。
そのうち、ぶらぶらと公園内を歩きまわるほうが面白くなった。
すると、「グリーンアドベンチャー」という札があちこちに立っている。どうやら、植物名を当てるものだとわかって試みてみたが、さっぱりわからない。ほんとうに驚くほど、わからない。
それがかえって、面白くなって、売店の近くにおいてあった植物名の正解集をたよりに、番号札をぶらさげた樹木を探して名前を突き合わせてみた。
はじめてのことだから、樹木の特徴もわからないので、ひたすら番号と名称をつきあわせて感心するばかりである―これほど、植物について無知だったとは。

その後、街路樹や公園をみかけるたびに、どんな樹木が植えているのか必ずチェックする癖がついた。ありがたいことに、人工的なこうした環境では植物図鑑にのっていない樹木は絶対にありえない。おかげで、かなりの数の樹木の名称をおぼえた。
このとき、頼りになったのが、「東京樹木探検」(上下)という河出書房新社から出ている本だ。おかげで、この本に記載されている都心部の並木道へは実際に出かけて、自分の目で植物を確認して楽しめた。

この頃に、結婚したこともあって、狭いアパート暮しから脱出して、広さだけはあるマンションに引越した。古いマンションではあるが、ベランダもあったので、念願の鉢植えをはじめた。
ずいぶん、枯らしたものである―エニシダ、ブライダルベール、ポーチュラカ。クチナシに、スズラン。なにせ初めてのことなので、犠牲者の数はおびただしいものに上った。 画期的だったのは、いちど死にかけたペンタスとパラディ・セフィラムが蘇ったことだった。
その後は、あまり殺さずにすんでいる。ありがたいことだ。
アパート暮しの頃には、頑丈なサボテンまでもミイラにしてしまったことを思うと、隔世の感がする。
いまの住まいに引っ越したのち、結婚した友人からサボテンをもらった。このサポテンは、株分けするまでに大きくなった。

そういえば、オリヅルランやペンタスも株分けに成功した。もっとも、これは偶然とケガの功名に近いのだが……。

こうした自分史をふりかえるうちに、あつかましくも、こんなことを考えた。
「もしかして、わたしは植物とつきあう達人への道を歩んでいるのではないか」

しかし、現実に身近にいる名人たち(ほとんどは主婦の人々)と比べると、実力は格段に落ちることだけは認めざるをえない。
そこで、こうした厚かましい主張は胸の奥底に秘めて、あいかわらず公園や街路樹、人さまの庭先を観察しながら街を散策するだけにとどめている。

とはいえ、人さまのお庭を拝見するうちに、その花々の名称が少しずつわかってきたのも事実である。
そこで、こう考えた。
「少なくとも、植物に関しては、わたしは『探偵』と称しても文句はでないのではないか」

たしかに、「植物博士」と自称するだけの実力はない。だが、調べる情熱だけは有り余っている―生業にさしさわるほどに。
ハードボイルド小説に登場する、足で調べるタイプの探偵なら、つとまるかもしれない。

そうして、わたしは植物相手の私立探偵 (detective) 、「植物探偵」になることに決めた。植物の血縁調査、素行調査、財産調査、浮気の調査までしてしまおうという仕事である。
思考明晰なアームチェア型の探偵ではなく、犯人に騙されながらも真実を追い求める脳細胞貧弱症候群に悩む私立探偵である。

こうして、わたしの探偵物語(Detective Story)は始まった。


●ゆきやなぎ

三月から四月にかけて、家や公園の生け垣に白い小さな花が咲いている。いや、咲いているというより、白雪が雪崩のように緑の若葉を背景にして落ちかかっているとでもいえそうな、勢いがある。まだ他の樹木が裸であるだけに、その小さな集合花の白さは鮮烈だ。
木としては小さい。落葉低木というやつだ。りゅうと伸びたしなやかな枝全体に白い小さな花がたわわに咲いている。

さっそく図鑑で調べてみた。これは写真をみたらすぐわかった。
写真をみても、判別がつかないことが多い素人探偵でも、すぐわかる。こういうわかりやすい花は好きだ。いっきに親しみが湧いてしまう。例外なく、好きな花の仲間入りしてしまうから不思議だ。「愛することは、理解すること」という先賢の言葉を実感する。

余談が長くなったが、この花は「ゆきやなぎ」という。
そういわれてみれば、なるほど柳の木にあくまでも清らかな白雪が降り積もった風情である。
古人はうまいことを云ったものだと、あらためて感心する。
探偵はまだ参拾代が終ったばかりだが、すでに心境は古希をこえている。だから、古人にやたら感心する癖がある。
閑話休題。

残念ながら、桜が咲く頃には「ゆきやなぎ」の花はひっそりと消えている。はらはらといさぎよく散って、後にはきれいな若葉があるばかりだ。
白い花がしおれて、無残な姿をみせることもない。
一瞬の輝きをはなって散る見事さは、「さくら」に匹敵する。
ますます、この花が好きになった。
これからは、「ゆきやなぎ」との再会を楽しみに毎年の春を待つことになるだろう。


●植物探偵のトレーニング

植物探偵は、警視庁の刑事のようにトレーニングをおこたらない。少なくとも、ニュー・ハードボイルド小説の探偵程度には、トレーニング好きである。

植物探偵のトレーニングは大別してふたつある。
ひとつはひたすら観察すること。もちろん、公園、街路樹、人さまのお庭・鉢植え・ベランダ―そのすべてが観察対象となる。
ただし、これだけでは絶対に名前はおぼえない。
親切に立て札で植物名を教えてくれる場合は、皆無だからである。
そこで、次なるトレーニングが必要である。
それはなにか。
ひたすら、植物図鑑を眺めることである。
花の特徴・葉や幹の姿・実のなりかた―これをすべて脳に焼き付ける作業だ。
警視庁の刑事がひたすら犯人の顔写真をおぼえるように、植物探偵は植物の姿形を脳味噌に叩きこむ。

しかし、刑事と同じように、経験がものをいう仕事である。なかなか実力養成には時間がかかる。
五月になってから、植物探偵はある樹木の正体をつきとめるべく苦闘していた。
それは「ゆきやなぎ」のような小さな白い花をいっぱいつけた低木である。冬のあいだも、その木は葉をつけていたような記憶がある。
ふだんから観察していると、名前はわからなくても、その行動だけは覚えているものだ。
図鑑をひっくり返してみると、花のかたちは「ゆきやなぎ」に酷似している。花だけなら「こてまり」にも似ているが、「こてまり」と違って白い鞠そのものの密集花という特徴はない。
いったい、これはなんだろうと植物探偵は悩んだ。
いたるところで見かける木である。特別な珍しいものであるはずがない。
それにしても……

解決は意外なところからきた。
葉のかたちである。
ある植物図鑑で、謎の植物とまったく同じ葉の付き方、葉の形をした植物をみつけた。
ただ残念なことに、その植物図鑑にはその樹木の花の形や色は記載されていない。
植物探偵のような素人には不可解なことだが、植物図鑑にはいがいとそうした不備な点がある。どこの図鑑でも、肝腎のことが抜けていたりする。不思議なものだ。
確認のために、別の植物図鑑(これを植物図鑑Bとする)を調べてみると、花の写真があったが、どうも謎の植物の花とは違うような気がする。
そこで、しばらくまた探偵を続けることにした。
五月に強い雨が関東平野に降り注いだ。
雨があがった日、植物探偵はひさしぶりに植物散策にでかけた。
謎の植物のところにでかけてみると、花がかなり落ちていた。
はたと、植物探偵は手を打った。
その花の姿は、植物図鑑Bの写真そのものだった。
やっと、探偵は植物名をつきとめた。
次の瞬間、探偵は思い出した。謎の植物が冬のあいだに真っ赤な実をたわわにつけていたことを。探偵はきれいな花に気をとられて、その記憶を失念していたらしい。
すると、謎の植物が植えてある他の場所も、冬のあいだ、美しい実で目を楽しめませてくれていたことを次々と思い出した。
探偵は自分の愚かさに肚をたてた。
なぞの植物 ― それはピラカンサ(タチバナモドキ)だった。


●白い大きな花

これもまた植物探偵の失敗談である。
植物探偵がテリトリーとする散歩道には、枇杷の木がそこここに植えられている。
枇杷の木は冬でも葉が落ちないから、独特の楕円型の大きな葉はめだつ。
植物については、あくまでも素人である探偵でも識別するのは、ごくごく簡単だ。
あんまり簡単なので、人に蘊蓄を垂れることさえできないありふれた木である。
とはいえ、ものすごく生命力が強い樹木なので、庭を広げるときに切り倒してもしぶとく根が残って大変らしい。
知り合いの老人が路地に植えられた枇杷を取り除こうとして、幹を切り倒したのはいいけれど、根を掘り起こそうとして、どうしたはずみか根に足をとられ、固いコンクリートの私道にしたたかに顔面を打ちつけて歯を折った。
「枇杷のタタリかもしれない」と老人はしきりに周囲に云っていた。
これは本題とは関係ない余談にすぎないが、それほどありふれた樹木であるということを云いたいだけである。許されよ。

さて、お馴染の散歩道に四階建てのビルがある。
それは自宅兼用の建築事務所らしいのだが、ビルと並んで一本の巨木がある。
ずいぶんと大きな木だが、その葉の形は枇杷のものだった。
大きな枇杷があるものだと、植物探偵はずいぶんと感心していた。

ところが……
五月も半ばをすぎた頃、その大きな木は白い大きな花をつけた。
あれっと、うかつな植物探偵は驚いた。
(枇杷にこんな花が咲いたっけ)
なにやら、ひどく香しい芳香さえ漂ってくるではないか。
植物探偵は愛用の図鑑を開いてみた。
大きな楕円形の葉をしていて、例の巨木の花にそっくりなのが載っていた。
タイセンボクという帰化植物である。
(あっ)と探偵は驚いた。
この植物について、なにかの雑誌で読んだ記憶があったからだ。
このタイセンボクは、やたら根が強く、下水道でもあれば、コンクリートの隙間から侵入して根を伸ばして、やがては下水道を詰まらせる困り者である。
少なくとも、原産地のアメリカではそうしたトラブルメーカーとして悪名を轟かせている剛の者だ。
どうやら、探偵はまた枇杷とタイセンボクを取り違えていた。
ただ探偵の名誉のために付け加えると、巨木は散歩道からちょっと離れていて、葉についてもじっくりと観察していない。枇杷だと思ったので、ろくに注意もしなかった。
敗因は、これだ。
今度は負けないぞと、探偵は唇を噛んだ。

そろそろタイセンボクの花も終ろうとしている。
いっぽうで、枇杷にはたわわにビワの実がついている。
そろそろ本格的な夏がくるのかなと、暑さに弱い植物探偵は汗をふきふき散歩する。


●ヘリアンサスという花

植物初心者を泣かせるのは、名前である。
5月の半ば頃から、まるでヒマワリを小さくしたような花がいっぱいに咲き乱れていた。
茎の部分をみると、ヒマワリとはぜんぜん違う。
どんな初心者でも、一瞥すればキク科の植物だとすぐわかる。
どうやら帰化植物らしく手持ちの図鑑には載っていない。
園芸図鑑をみると、「ヘリアンサス」というらしい。
植物探偵はまたボキャブラリを増やしたことを得意に思った。

ところが、購読している某新聞の社説にどうも同じものらしい植物のことが書いてあった。記者氏はこの植物をオオキンケイギクと呼んでいた。明治くらいに日本へ帰化した植物だという。
探偵はあわてて図書館へ出かけてチェックしてみた。
たしかにオオキンケイギクは実在した。
どうやら、正式な和名はオオキンケイギクで、ヘリアンサスとは花屋さんがつけた名称らしい。“Helianthus"とは、ヒマワリ属全般をさす学名だった。

6月も半ばを過ぎて、そろそろ盛りは過ぎたようだ。
ところが、今度はオオキンケイギクに似ているが、少し変わった花が咲き出した。
こちらは、手持ちの植物図鑑にも載っていた。
「ハルシャギク」という名前だ。「ジャノメソウ」ともいう。
オオキンケイギクを解説した図書館の図鑑にも、ハルシャギクは載っていた。
この二つの花はよく似ているが、ハルシャギクには花芯をかこむようにして、花弁にぐるりと模様があるからすぐに識別できる。
乱暴にいうと、パンジーの花弁の色模様を逆転したようなものだ。まわりが黄色で、中心部がエンジ色という構成になっている。
なるほど、蛇の目傘ににていないわけでもないと、勝手に感心する。
とにかく、これで新しい植物と2種類も知り合いになれたわけで、探偵は嬉しい。


●花が咲いた!

嬉しいことに、自宅の「オリヅルラン」が花をつけた。
白い、清楚で可憐な花だ。
すぐにしぼんでしまうので、飽かずに眺めた。
これは株分けしたものから、初めて咲いた花だ。こういう嬉しさは、鉢植えする人間にしかわからないものだろう。猫好きの「うちのネコちゃん」話にたいていの人間がうんざりするするのと同じだ。ただし、わかっていても止められない。
親バカ、猫バカは度し難い。露骨な溺愛を臆面もなくさらけ出さないところが、ガーディニング好き人間の良いところだと、密かに反省する。

ところで、いまは6月だが、桜とツツジが周囲を圧倒する季節が終って、初夏の花が出そろう楽しい季節だ。
チョー美人はいないが、かわいいアイドル系がいっぱいいて、それはそれでいいという昨今の芸能界のような季節でもある。
散歩道で眼につくのは、キョウチクトウだ。
赤い花をつける木、白い花をつける木が、きっぱりとわかれているのが気持ちよい。ことに白いキョウチクトウには晴れた青空を背景にしていることもあって、「青春」というイメージがある。
ただし、この「青春」は、国会議員になった某青春俳優が学生ズボンと白いワイシャツ姿で、竹刀を片手に、なぜか海岸を走って、「バカヤロー」と叫ぶあれでなければならない。わかります?

キョウチクトウがいわゆるアイドル・タレントであるとすれば、女子アナ、アシスタント、お天気お姉さんともいうべき花々もいる。もちろん、この範疇にはひたすらおバカで恥ずかしいだけのタレント・アナは含まない。
ゼニアオイという花は、そうしたひっそりと注目されるたぐいの植物である。
白い地に紫の筋がはいった花は、万人向けとはいいがたい。
だが、やがて登場する人気タレントの前座にふさわしい可愛さと清楚さがあるような気がする。つつましやかで可愛い。そして、人気タレントと間違われることもある。
ゼニアオイの出番は少ない。本格的な夏の到来とともに盛りが終って、人気タレントが登場してくるからだ。
ささやかなアシスタントの栄光を奪うのが、タチアオイである。
真紅やピンクの大輪の花を咲かせて、ゼニアオイよりも遥かに長身のこの花は、夏の女王ともいうべきヒマワリが現われるまで、花の世界の女王のようにふるまう。
ビッグ・スターが登場すれば、あっさりとかすんでしまうチンピラ・タレントみたいなものだ。
ヒマワリが咲き誇るまでのわずかな栄光。しかも、こちらのビッグ・スターは不死鳥である。加齢と病気で消え去りはしない。
タチアオイの立場は弱い。

そうかと思えば、日陰の演歌歌手みたいに華やかに装いつつ、あんまり人が見てくれない気の毒な花がある。
五月半ばころから咲いているが、その頃は残り桜があり、あまりにも華麗なツツジがあるので、ちょっとくらいでは目立たない。しかも、六月ともなれば、梅雨時の主役アジサイがあらわれる。
実力はあるのに、なかなかヒットが出ない「耐える難波女」という気がする。
花は黄金色。ヤマブキよりも鮮やかである。
これもヤマブキと同じで、品よく形良い緑の葉をよく映えて、じつに美しい。
もったいをつけすぎたが、この花は「ビョウヤナギ」という。
おしべが糸のように長くて、花びらよりも目立つ。
中国原産らしいが、そういわれればチャイニーズ系美人だなと思う。
ところが、「ビョウヤナギ」もまた「マニア好みアイドル」の悲哀を免れない。
じつは、「ビョウヤナギ」にそっくりで、もっと庶民的なやつがいる。
もっと小ぶりなそいつは、マンションの入り口付近の植え込みなんかによく植えられているから、メディアへの露出がだんぜん多い。
名前は「キンシバイ」。漢字では「金糸梅」と書く。
チャンネルを回すと、どこのバラエティ番組にもでているバラドルみたいなものだ。
でも、ほんとは「キンシバイ」も気品があるのだが、日照がきついところに植えられているから息も絶え絶えという感じになっているので、品が下がってみえるところがかわいそうだ。
「生まれた時代が悪かった」とアイドルになり損ねたバラドルみたいに、呟いたりするんだろうか。


●青い空と白い花、紅い花

すっかり梅雨もあけて、夏になった。
今年の梅雨時は集中豪雨や河川の氾濫でおおぜいの人が亡くなった。
とくに痛ましいのは、ビルや倉庫の地下室で溺死した人たちだ。これなどは、自然の怖さをなめきった建築屋のしわざといっていいかもしれない。

そんなことを忘れて、空をみあげる。空の色はあくまでも青い。埼玉県でも、こんなに空が青いのか!
植物探偵は健康のために、早朝散歩をはじめた。
青い空に映える花々が、すがすがしく咲いている。
この季節は「百日紅」と「木槿」がいい。
「百日紅」と書いて「さるすべり」と読むのは、この花がかなり長期間にわたって咲きつづけるからだ。ピンクに近い紅色の花は夏の象徴だとおもう。
淡いピンクや、白い花もある。
ちょうど梅雨時まえの主役「夾竹桃(キョウチクトウ)」の開花時期が終るころでもあるので、主役交代の感がある。こちらも同じピンクがかった赤い花と白い花なので、いっそうその感がつよい。
でも、夏にもっとふさわしいのが、「木槿(むくげ)」だ。
ブーゲンビリアみたいに、花芯をつきだした白い花があくまでも青い空を背にして、咲いているのは、いかにも夏らしい。
似ているのも道理で、両者は同じアオイ科フヨウ属に属する。
そういえば、今では死語の世界に入ってしまったが、美人の形容詞にもなった「芙蓉(フヨウ)」も美しい花を咲かせている。これはピンクの花弁が華やかだ。清楚な(これも死語?)白い花もある。

百日紅も「むくげ」も「フヨウ」も夏の暑さには強いらしく、どれほど日差しが強くても、けっしてへこたれた様子をみせないのが美しい。
他の草木はどれもくたびれきった姿でうなだれているのに、夏の三美人はあくまでも華やかに艶やかに咲き誇っている。

朝っぱらから、汗をだらだら流しながら、散歩する植物探偵はうらやましくその姿をみている。

暑くなってからぐんぐん背丈をのばし、茎をヒマワリも、大きな頭をたれて、うなだれている。
その首をみると、角川春樹の名句をおもいだす。

「向日葵や信長の首斬り落とす」

斬り落してもらったほうがいっそ楽だと、ヒマワリもいなおりたい気分だろう。


●キク族の氾濫 1999/09/01

まだまだ暑いので、とてもそうとはおもえないが、いよいよ夏も終りだ。
植物たちも、そろそろ夏ものから秋の新作へシフトしつつある。
夾竹桃(キョウチクトウ)の花はほとんど姿を消して、百日紅(サルスベリ)も元気がない。
紅色のサルスベリが精彩をうしなってきたとき、鞠型の白い花をつけた樹木が目についてきた。もっと正確にいえば、白い小さな花が球形に集まっているついている。春に咲くコテマリ(小手毬)みたいな感じだ。
これはなんだろうと図鑑を調べてみたが、とくにそんな花はないようだ。しかし、この樹はやたらと目につく。
そこで近寄って調べてみた。葉のかたちと幹のかたちにどこか見覚えがある。
そうだ。葉のかたち、枝のかたち、幹の皮をみれば、サルスベリそのものではないか。
念のために、また小さな花をひとつ頂戴して、紅色のサルスベリのそれと比べてみた。なるほど、これは同じだ。
というわけで、いとも簡単に<謎の植物>の正体は判明。なんのことはない。白いサルスベリであった。しかし、同じ種類の木でありながら、花の色が違うだけで開花時期や、花のつきかた(もっと正確にいえば見え方)に、そんなに違いがあるものだろうか。
この謎は胸に秘めておいて、いつの日か解明を待つことにしよう。


植物探偵は、東久留米市から保谷市と新座市を流れる黒目川の川沿いをなわばりとして植物散策しているが、このごろ歩いているとくしゃみが出てこまる。
どうやら花粉をとばしている草があるようで、春先ほどひどくはないが、花粉症みたいな感じだ。もちろん、これは花粉をとばす植物が悪いのではなく、大気を汚染した人間が悪いのであるから、いちおう人類に属する植物探偵はじっと耐えるだけである。
諫早湾では愚にもつかない農地拡大のために、干潟を干拓して、ムツゴロウくんたちを殺してしまった。小学生の女の子が抗議の紙芝居をつくったところ、それが本になった。
読んでみようというひとがいたからである。環境問題をバカにして偉くなった気分にひたるワルモノ都会人にはならないように心がけようとおもう。
とにかく、そういう奇特な女の子もいるのだから、植物も自然も人類を見放さないでほしい―これは、勝手なお願いである。


植物散策をするうちに、草叢や木陰にたたずむ植物くんたちとだいぶ親しくなった。少なくとも、顔みしりになった。名前もおぼえた。
派手さはないが、なかなか味のある「ひとびと」である。
個々の付き合いについては、そのうちじっくりと書くことにして、ここでは名前を挙げることにとどめる。
ヤイトバナ、ヤブガラシ、ヤブラン……。
ぼうぼうの草叢からぬっと枝をつけだす繊細なミヤギノハギも忘れないように、書いておこう。


こういう控えめな一群を圧して、目立つ赤い穂をつけた植物がある。
穂といっても道端にはえるイヌタデそっくりで、こういっては悪いが雑草の親玉キャラのおもむきがある。イヌタデは高させいぜい20センチぐらいで大きくなれば50センチにはなるが、たいていはそこまでいかずに引っこ抜かれる運命にある。アカマンマともいうらしい。だれでもみれば、すぐわかる雑草である。植物探偵としては、「雑草」と連呼することには抵抗があるが、サボテンに話しかける「アブナイやつ」と誤解されることもたびたびなので、いちおう普通のひとと共通のボキャブラリを使用することにした。 とにかく、この雑草の親分はでかい。1メートルから2メートルは優にある。穂先もけっこう大きい。
草叢にでんとそびえているのは、なかなか風格がある。
しかも、その淡紅色の穂先はなかなか美しい。野趣にあふれた男性美というところだ。 よくみれば、イヌタデの穂先も美しいのだが、道端にめだたなく生えているので、どうにも不利だ。
親玉の名前はすぐにわかった。オオケタデという。タデの仲間で、大きくて毛があるからというものすごく安直なネーミングである。
驚いたことに、これはもともとは輸入植物だった。日本に入ってきたのは、江戸時代だった。感賞用に輸入されたのだという。
江戸時代のひともやるものだ。
いまでは荒れ地や道端で野性化している。そういわれてみれば、なんとなく気品がありげだ。雑草の親分というのは、ひどすぎた。
貴子流離譚なんだ、つまり―と勝手に納得する。
河原者に零落してその日の食い物にも困っていながら、天下の名器を手放さずに、茶の湯をたしなんだ戦国武将後藤又兵衛。そんなイメージが連想される。
古武士の風格をもち、風狂にいきる「傾きもの」のたたずまいだ。
いまはひそかに時節を待っているけれど、やるときがきたらやるぞという迫力がひしひしと感じられる。
オオケタデは大物である。


秋はごぞんじのとおり、キクの季節である。
ところが、キク一族の尖兵はすでに夏に活躍している。植物探偵の無知さが知れようというものだが、「ヒマワリ」はキクの仲間であった!
小ぶりなヒマワリといった姿の「ヒメヒマワリ」もそうだ。これは決して、発育不全のヒマワリではない。違った種類の植物だ。
前にも紹介したヒマワリに似た「オオキンケイギク」もその名のとおり、キク科である。同じ稿で書いた「ハルシャギク」もそう。
このふたつはヒマワリの前に盛りをむかえるが、そろそろヒマワリの絶頂期もすぎたころに、またヒマワリに似た感じの花が咲く。
これは花の中心部が茶色のダンゴみたいに盛り上がり、まわりを細長な黄色い花弁がとりまいている。茎の高さは2メートル近くになるものもある。
ヒマワリよりはキクらしい姿形をしているこの花は、「オオハンゴンソウ」という。 この名のもとになった「ハンゴンソウ」という花もあるのだが、図鑑でみるかぎりはあまり似ているようにはみえない。
文章力のない植物探偵のせいで、ごたいそうな植物のようにみえたら、それはお気の毒さまである。これは荒れ地や河原にやたら生えている帰化植物だ。だれでも、写真をみれば「なんだ、あれか」とすぐわかる。
ヒマワリに似ているのは、中央部が茶色で盛り上がっていて、黄色の花弁にとりまかれているからであって、花としての印象がにているというのは言い過ぎかもしれない。 よほどの間抜けなひとでなければ、「オオハンゴウソウ」がキクの仲間であることは一目瞭然だ。
ところで、ボンボリというか、チアガールが手にもつ毛玉みたいな道具そっくりの、黄色いボール状の花をつけた背の高い植物がある。これもよく庭先などに植えられているから、写真をみればあれかとすぐわかるであろう。植物探偵は貧乏なので、デジカメをもっていないのが残念だ。
ないものを嘆いても仕方がないので、先を続ける。
これは、「オオハンゴウソウ」の変種で「ヤエノオオハンゴウソウ」という。「ハンゴンソウ」の八重咲という意味だ。あまりにも分かりやすすぎるネーミングだとおもうが、ほんとうだから仕様がない。
というわけで気づいてみれば、そこらじゅう黄色のヒマワリ系の背の高い植物にのさばられているわけである。それも、似たような花ばかりである。
キク族が世間を制しているなと、明敏な読者は危機意識をつのらせるに違いない。 だが、まだまだ敵は進撃の手をゆるめない。
秋風が吹くまえに、今度は「オオハンゴウソウ」によく似たノッポのキク族がのさばりだしてくる。その名前は「キクイモ」。
その姿は荒れ地や原っぱにいけば、いくらもみえるノッポな黄色のキクである。
名前の由来は根塊が発達して「イモ」みたいだからで、イモのあるキクというわけだ。あまりといえば、あまりにも安易なネーミングだが、これは根塊から糖をとろうとして輸入したものが野性化した。もともと砂糖をとるための代用品だったから、ネーミングも安直だったのもやむをえない。
これも、だれもが見慣れたありふれた花である。

ところで、図鑑をしらべてわかったのだが、これらの植物はみな北アメリカ原産の帰化植物であった。
キクは日本のシンボルであった。だが、明治いらい日本の野原は北アメリカ産のキク族に制覇されている。
しかも、そいつらはみんな背が高いノッポである。日本産のキクがいくら菊人形に形をかえてもおいつかない。
かれらの勢力は圧倒的である。
だが、いまどきの日本の風景を考えれば、「オオハンゴウソウ」や「キクイモ」のない晩夏は想像することが難しい。「ヒマワリ」のない夏を想像することは、いっそう難しい。
異国からわたってきた植物が、風景の一部となって、違和感なく溶け込むにはじつはそれほど時間はかからない。「セイタカアワダチソウ」という外来植物も、いまでは日本の野原に欠かせない脇役である。

それにしても、なんで菊の仲間ばかりが、こんなにものさばるのか。
勝手な想像だけれど、もともと外来のキク科植物を輸入したのは、輸入業者が好んだからだし、消費者にも売れるとみこしたからに違いない。
やっぱり、日本人のキク好きということがあって、キク科植物をもってきた。
いまやキクといえば、お盆や仏事にしか使われない花ではあるけれど、野趣にみちたその姿は日本人にとっての花のアーキタイプなのだろう。
桜が狂気にも似た軽薄さと涼やかさをもった「お調子もの」という日本人の一面をあらわすとすれば、菊は「佗び寂び」という「大人の日本人」だ。
野に咲く北アメリカからの客人たちをみれば、まことにおおぶりであって、野趣にみちたまぎれもないキクである。
「高貴なる野蛮人」というイメージさえある。
やっぱり日本人の生得的なナチュラル志向や、キク好きにささえられて、野性系キク族の今日の氾濫はあったのか。


●たんころりん 1999/11/15

しばらくうかうかと過ごしているうちに、すっかり秋も終り、もう冬だ。

彼岸ころになると、土中から出現するマンジュシャゲ(=ヒガンバナ)のことを書こうと、おもっているうちに、すっかり花の季節が終ってしまった。
「曼珠沙華」という難しい漢名をもつヒガンバナは、よくよくみると変な花だ。
緑色のストロー状の茎に、細工物めいた花が咲いている。葉はない。
花が終ってから、葉を出すのだが、そのころには茎も枯れはてて、ちょっと目には他の野草と区別できない。
形状といい、ある時期にぱっと現われて、いつのまにか消えている生態といい、いつみても不思議な感じがする。
名前といい、生活といい、こいつは「怪しい」と、植物探偵の勘にびしびし響くものがある。 どうにも気になるから、いつか書いてやろうと思う。

他にも、面白い植物はいっぱいあったが、うかつだった。
ここしばらく植物探偵の仕事を忘れていたので、思い付きをメモにすることさえさぽっていた。
仕方がない。そのうち、おもいだすだろうと、自分を慰める。
記憶力がわるくなったのかな。

ところで、いまは11月だが、この時期の見頃は「チャ」と木の実だ。
「チャ」とは、もちろん「お茶」の木である。
そろそろ枯れる時期でもあるけれど、白い花弁に黄色い雄蕊と雌蕊のコントラストが奇麗な花だ。
植物探偵の家の前には、小さな茶畑があった。それが気に入って、家を選んだのだけれど、近所にスーパーができて、茶畑はそこの駐車場になってしまった。
つい一ヶ月前までは、一本だけ残されたチャの木が奇麗な花をつけていたけれど、それも切り倒されてしまった。
なんとなく、寂しい。
ただ、救いは、茶畑こそは少ないが、茶の木そのものは生け垣や、植え込みにけっこうある。散歩して、可憐な花をつけているチャの木はみるのは楽しい。
「がんばれよ」
と、よけいな声援のひとつもかけたくなる。

花が少ないこの時期に、目に嬉しいのが、木の実だ。
地面に落ちているドングリは、もちろん可愛い。
公園なんかで、幼い子どもが母親といっしょに夢中でドングリを拾っているのは、いい光景だ。
ドングリ拾いは、縄文時代からあった日本の原風景だ。いまでは、食べることはないけれど。

細長い銃弾型をしたシイの実は、厳密にいえば、ドングリとは違うのだろうが、食べられるという。
「あんまり旨くはない」 という、戦中派熟年世代の教えに従って、植物探偵はまだ食したことがない。

でも、鑑賞用の木の実という一派も捨て難い。
その代表がハナミズキだろう。
ハナミズキの赤い実は、なかなか絵になる。枝についているだけでなく、地面に落ちていても細工物めいた気品がある。
朱塗りの京風細工物という感じか。
街路樹だから怒られないだろうとたかをくくって、枝から実をとって掌にのせてみる。
かわいい置物みたいで、捨て難く、こっそりポケットに入れてしまいこむことになる。

鑑賞用といえば、以前に大恥をかいたビラカンサ(=タチバナモドキ)も奇麗な赤い実をつけている。黄色い実もあるはずだが、なかなか見あたらない。
「謎の白い花」があったあたりには、ビラカンサの実がたわわになっている。(本稿の「植物探偵のトレーニング」を参照)

とはいえ、実用よりも鑑賞用の部類にはいってしまった大物がいる。
「柿」である。
熟しきって腐りかけた実の重さに枝をしならせた柿の木が、そこここにいっぱいある。
持ち主は食べる気もないのだろうが、なんとかならないものだろうか。
柿も品種改良が進んで、古い品種だと、甘みは少ないし、感触がゴリゴリしていて、食欲がわかない。
それに庭に植えてある柿の木は渋柿であることも多い。
あれは酒に漬けたり、干し柿にしなければ、食えたものではない。
こちらのひとには常識だろうが、北海道で生まれ育った植物探偵は「カキ」文化圏にはうとい。
干し柿さえも、大人になって、酒を覚えるまでは食えなかった。

(余談だが、酒を飲んだあとには、干し柿や柿がやたらとうまい。スコッチ・ウイスキーといっしょに干し柿を食うのも、ひどく楽しいことである。しかし、こんな話題ばかりをしていると、植物探偵という主旨からどんどんはずれていくから、このへんで止めておこう。)

それでも、渋柿のタンニンの恐怖は、子供時代に貴い犠牲を払って教訓をえた人たちからよく聞かされた。
このごろのカラスや、スズメでさえ、柿などには見向きもしない。生ゴミのほうが旨いのかもしれない。
とはいえ、なんだか柿の木が気の毒だ。

柿の実を収穫しないでほっておくと、「タンコロリン」という妖怪になる――ということを、ものの本で読んだ。
「タンコロリン」は、真っ赤な顔をした大入道の妖怪。
ふらふらと街をぶらつきながら、袂からぼとぼとと柿の実をばらまいてゆく。
無気味というより、なんだか可哀相な妖怪である。
江戸時代にこの妖怪をみたひとがいて、名を尋ねると、
「タンコロリン」
と、名乗った。
「柿の実をとらずにいると、柿が化けてタンコロリンになる」
と、説教とも愚痴ともつかないことを云って、消えたとか。
物静かな「大人」の妖怪だなと、この話を読んで感心してしまった。
とはいえ、
これでは、あんまりかわいそうだ――。

「タンコロリン」という妖怪よりも、怠け者の家主をこらしめるなら、うってつけの妖怪がいる。
「釣瓶落とし」という、生首だけの妖怪が、それだ。
どしんと樹木の上から落ちてきて、人間を驚かす。
巨大な赤ら顔の生首が、げらげら笑いながら、ひとを恐怖に叩き込む。
いかにも、「もう我慢の限界じゃ」「わし、ぶち切れるかんね!」という感じ。
(すいません、すいません) と、ひたすら謝りまくって、
(そんなに怒ったら、お身体に毒ですよ。おさえて、おさえて)
と、慰めなければ、この場はおさまらない。
コレストロールだらけで血管ボロボロの、超高血圧体質。触れなば、ドバッと血管がぶちきれる。脳溢血か、動脈硬化で、ぽっくり逝く日も遠くない。
まさに、怒りと悲しみの「柿の実」にぴったりの妖怪ではないか。


食べる人もなく、空しく果実を朽ち果てさせる柿の木の無念は、想像してもあまりある。

それにしても、家の持ち主のところへ、妖怪「タンコロリン」が苦情を云いにいってもいいじゃないか。

柿は数少ない日本原産の果物という学説もある。
この説が正しければ、柿は日本人よりも昔からこの国に「棲んでいた」ことになる。
そうなると、「タンコロリン」は、本当の意味の日本原住民だ。
がんばれ、柿の木。
ここは、きみたちの故郷だ!
(家主さんたちも、柿の実を大事にしてほしい)
と、植物探偵はおもう。


●狐顔の…… 1999/12/02

冬である。
北海道では、すでに十月に初雪が降ったという。
埼玉でも、朝には冷え込むようになった。
植物探偵がこよなく愛する散歩には、向かない季節だ。
これから、ますますそうなる。
気分が重い。

だが、この季節は紅葉がじつにきれいだ。
欅(ケヤキ)という関東地方ではありふれた樹が、とても美しい。
ケヤキは、葉をすっかり落とした頃がいちばん好きだと、ながい間思い込んでいた。
まるで空間をとじこめたオブジェみたいな、ケヤキの枝ぶりは、乾いた冬の大気のなかでこそ、いよいよ冴えた美しさを発揮する。
それにちらほらと若葉がつきはじめる頃もいい。
しかし、黄色に染まった葉もなかなかいいじゃないかと、見直している。
植物探偵は、節操がない。

ところで、以前から書こうと思っていた不思議な植物がある。
もう、そろそろ季節は終っているのだろうが、まだ花壇にしぶとく残っているので、思い切って書いておこう。

その植物は、じつに妙なかたちをしている。
枝ぶりではない。
草なのか、低木なのかは、よくわからない。
葉は少ない。それを補うように、すずなりに実をつけている。

面白いのは、この実のかたちだ。
色はレモン・イエロー。見ようによっては、オレンジ色が強いような気もする。
形は、どう表現したものだろう。
プラスチック製のオブジェとでもいうほかはない。
いや、そんなにいいものか。
子どものプラスチック玩具といったほうが良い。
楕円形の胴体から、ぴょこぴょこと乳頭状突起がでていて、なんとも愛らしい。
乳幼児用の玩具に、これとそっくりのやつをみたような記憶がある。

このかたちが、アニメおたくだった植物探偵の心をいたくくすぐる。
<ポケモン>系のアニメ・キャラに採用したいような、可愛いボディなのである。

とにかく、そんな面白い実がたくさんなっている。
名前は見覚えがあったから、すぐにわかった。
これも、植物探偵としての日ごろのトレーニングの賜物だ。
「フォックス・フェイス」という。

みょうな乳頭突起があるところと、黄色いボディ・カラーが「狐顔」の名前の由来らしい。
実物を見ると、あんまり納得できるネーミングではないが、植物探偵が文句をつけたところで仕方がない。

図鑑で調べると、「狐顔」くんは、なかなか食わせ者らしい。
この実には、毒があるという。
ためしに齧ってみようと思っていたが、実行する前に知っておいてよかった。
なんでも体当たりで体験することばかりが良いというわけではない。

「フォックス・フェイス」は生け花として使うために栽培されている園芸植物だということだ。
あくまでも食用ではない。
畑になっているからといって、食べられるとは限らない。
いい勉強になった――
というのは、もちろん冗談である。
家庭菜園で丹精こめて作られている作物を、どうこうしようというほど、植物探偵もワルではない。

「狐顔」くんたちも、ほとんど収穫されたらしく、畑には残っていない。
低木にみえたが、図鑑で調べると、これは一年草らしい。
どうりで、数が減っていったわけだ。あれは、立ち枯れて倒れたのか。

こんな寒い季節に風に吹かれていた「狐顔」くんたちも、いまでは床の間の生け花にちんまり収まっているのだろうか。

鎌倉あたりの気の利いたお菓子屋さんやレストランでは、野草やカラスウリを生け花に取り入れているのが目につく。
むなしく、立ち枯れするよりも、このような使われかたをするほうが、野草なんかもいいのかなと、ふと考える。
いやいや、それは人間の勝手な思い込みかもしれない。

この寂しい季節に、風に吹かれているものといえば、「照柿」。
野鳥のために、わざと柿の木に残しておく柿だ。
こういう柿は風情がある。

しかし、前回のエッセイに書いたように、引越しかなんかで、住人がいなくなって、むなしく重い実をぶらさげながら、つらそうに立っている柿の木もある。
木の葉はすっかり落ちて、実だけが残っているのはわびしいものだ。

ところで、大気が冷たくなったいまの季節に、菊の花の色はいよいよ冴えわたっている。
「狐」の次は、「菊」にしようとおもう。
べつに、なんの脈絡があるわけでもないのだが。


●あれは椿か山茶花か 1999/12/11

北海道育ちの植物探偵に不思議でならないのが、ツバキだ。
冬のさなかに、あんなに真っ赤な花が咲くのが信じられない。
油を塗ったような艶やかな葉が青々と茂っているのも妙な感じだ。

けっして、嫌なのではなく、たとえば雪の降った日などに、緑濃い葉に真紅の花弁が、純白の雪気色を背景にして、ひときわ鮮やかなコントラストをしめしている構図は、たとえいくら言い古されていることとはいえ、たしかにこれほど美しいものはない。
竹の垣根から、ツバキの花がのぞいているのは、いかにも佗び・寂びという感じがあっていい。

ところで、11月くらいからツバキが咲くものだとおもっていた。
植物探偵がブラキストン線から南のフローラ(植物相)に弱いことは、このことからもわかる。
周辺にも、ツバキ科植物に思い入れをもつ人々がいないので、
「あのツバキはきれいだ」
と、知っている人からみれば、腹をかかえて笑われそうなことを云いながら、生け垣のわきを眺めながら歩いていたりする。

あるとき、新聞の園芸記事を読んでいた。
植物探偵は、某教育TVの「園芸入門」の熱心な視聴者である。ついでに、雑誌・新聞の生活欄の園芸記事もむさぼるように愛読する。
情報からはいる現代人の欠点を、みごとなまでに体現している。あたまでっかちである。体型まで、典型的なオールド・ジャパニーズに属する。そんなことはどうでもいいが。

その記事には、ツバキとサザンカの違いということが説明してあった。
じつは、ツバキとサザンカはおんなじ種類の植物なのであった。
ツバキ科というグループに属するという意味ではない。
この科には、神社で使う「サカキ」「チャ」、日本で云う「沙羅双樹」(シャカがその根元で死んだインドの植物ではない)まで入っている。
お茶の花は、よく見れば、サザンカそっくりなので、同じツバキ科であることはすんなりと納得できる。
しかし、「サカキ」までツバキ科だったとは。
神前の瓶子にさしてあるサカキなんて、あんまり身近な植物とはいえないが、そうきくとなんとなく親しみがわく。

悪い癖で余談がながくなったけれど、乱暴にいえば、ツバキはサザンカの一変種である。
ツバキは「ヤブツバキ」という野性種と、それの雪国適応バージョン「ユキツバキ」の二種類が基本で、これをかけあわせることで、いろいろな園芸品種が生まれた。
よくいう「ヤマツバキ」とは「ヤブツバキ」の別名だ。別の植物ではない。
「ユキツバキ」については、ヤブツバキが降雪地帯の低山に進出してために、形態に変化が生じた亜種だということが証明されているそうだ。
数多くのツバキは、じつはたった一種類のヤブツバキから誕生したことになる。

(――と思っていたら、ツバキはサザンカと違って、中国大陸が原産地だと後でわかった。
この中国産ツバキとヤブツバキ、ユキツバキが三者いりまじって、たくさんの園芸品種ができた。
ちなみに、ツバキの原種はいがいなことに「黄色」の花だった。
サザンカのほうは、間違いなく、日本原産だそうである。)

サザンカとヤブツバキの違いは、大きくわけて、開花時期と花の散り方にある。
サザンカの開花時期は、10月から12月。ツバキは2月から4月だ。
ただし、いまは異常気象が続いているから、あんまり目安にならないというのが、素人の植物探偵の実感だ。
いちばん、はっきりしているのが、花の散り方。
サザンカは、ぱらぱらと花弁を撒き散らすように散る。ツバキは、ごぞんじのように、ぼたりと花ごと落ちる。

「赤い椿 白い椿と落ちにけり」(河東碧梧桐)
という句は、やはりツバキでなければさまにならない。
首を討ち取られる姿を連想して、武士からは嫌われたという故事も、やはりこうした散り際をみると、なるほどとおもう。
ぼたぼたと、ツバキの花が地面に散乱しているのは、血が滴っているようでもあり、無残に打ち落とされた生首とみえないこともない。
ただし、リスク管理能力がかぎりなくゼロに近い現代において、そんなことを感じるのは、ものすごく異常な気もしないわけではない。
ここは、きれいだなと、感心するだけにしておくのが、健康でいい。

河東碧梧桐の漢字をたしかめるために、歳時記を開いてみたら、「ツバキの実」も季語になっている。
ツバキの季語は「春」だが、「実」のほうは「秋」だ。
そういえば、夏のまっさかりぐらいに、ツバキの木に丸い緑色の実がついていたことを思い出す。
しぶい茶色の斑点ができて、だんだん黒ずんでゆく。
まだ見たことはないが、秋になると、球状の実が自然に裂けて種子が三個ほど飛び出すとか。
その確認は、来年の宿題にしたい。

ところで、「茶の木」にも実はなる。やはり、同じツバキ科だからか、小ぶりだがツバキの実とそっくりだ。
図鑑でみると、「サザンカ」も同じような実を結ぶ。
親戚のよしみで、実がさけて、三個の種子が飛び出すところまで同じだ。

うんちくついでに書いておくと、「椿」という漢字は日本でつくられた国字。
中国名は「山茶」(しゃんちゃ)という。
ところが、日本原産のサザンカには漢名などない。
「山茶花」というのは、音にあわせて漢字をあてただけとか。
ほんとうは、「茶梅」とかくのが、正式ということになっている。
どっちにしても、「茶」の花に似ているところから、漢字があてられたのだろう。
サザンカは「姫椿」「小椿」ともいうが、こっちはツバキのほうが人気が高くなったから、かえってこんなふうに呼ばれてしまったため。
サザンカのほうが、花が小ぶりだから、小さくて可愛いという接頭辞「ひめ」「こ」がついたのだろう。

さらによけいなことをいえば、日本の寺院に植えられている「沙羅双樹」は、「ナツツバキ」というツバキ科の植物である。
これは、サザンカとツバキとは違う別の植物である。
ツバキ科ツバキ属ではなく、ナツツバキ属というグループに属する。ツバキ科ツバキ属の「茶」よりも、親戚関係は薄いとみなければならない。

寒い風に吹かれながら植物散歩を続ける植物探偵だが、サザンカのきれいな花を見るのは楽しい。
ほんとうにいろいろな種類があるものだと感心する。
冬も植物散歩にはいい季節だ。
風邪をひかないようにして、植物さんたちに会いにいこうとおもう。


(前回、キクについて書くと予告していたけれど、どうもキクは奥が深くてむずかしい。
もうすこし調べてから、書かせてもらいます。)


●植物探偵の帰還! 2000/06/18

 ずいぶん長いこと、植物探偵をお休みしていた。
 最後に登場したのが、昨年の年末。それから、半年近くも潜伏していた。
 その間も植物探偵をやっていなかった訳ではないのだが、冬ということもあり、なかなかネタがない――という構造的な弱点があった。

 そうこうするうちに、春が来て、いまや梅雨入り。
 ついに書かないでしまった樹や草花のことが、ずいぶんたまってしまった。
 純白のユキヤナギ(エッセイ「ゆきやなぎ」参照)が咲いたとき、そろそろ書こうかなと思ったのだが、いつのまにか盛りが過ぎて花見に突入していた。
 桜というのは、植物探偵にとってはじつに難しいしろもので、ビールや日本酒などを飲んでその下をふらふら歩いていると、自己完結してしまう。エッセイのネタにはなりぬくい難物だ。

 桜が咲くとあっというまにツツジの季節も終わって、いまはアジサイの真っ盛り。
 すでにタイセンボク(エッセイ「白い大きな花」参照)の白い花 まで咲いている。
 ビワまでオレンジ色の実をつけている。
 いったい植物探偵は何をしていたのかと、自己反省することしきり……である。

 しかし、植物探偵も無駄に歳月を費やしていたわけではない!
 そのことは、この際力強く主張しておきたいと思う。さもないと、もともとない信用がいっそうガタ落ちになるのではないかと心配だ。いや、ほんと。

 街頭ウォッチングで植物が見つからないあいだ、もっぱら植物図鑑に親しんでいた。
 二、三ヶ月はみっちり読み込んでいたように思う。
 そのせいか、ずいぶん植物の名前を覚えたような気がする。酒を飲むと、植物の名前の由来をとくとくと披露していた。
 酒のお誘いがずいぶん減ったのは、そのせいかもしれない。

 春になって草木に緑が戻ってくると、いままでわからなかった植物の名前がすぐ出てくるようになった。その場でわからなくても、図鑑のどこに似た写真があるなということはぼんやりと思い出せる。
 われながら、ずいぶん実力がついたと自己満足にひたっていた。
 趣味の世界はちょっと分かった頃がいちばん楽しい。

 あるとき植物ウォッチングしていると、見慣れない植物をみた。
 どこかで見たような気もするが、名前はわからない。
 いつだったかは、正確に覚えていないが、公園ではエゴノキの花が咲いていた。  エゴノキというのは、東京や埼玉の公園にはやたら植えてある樹木で、真っ白な小さな花がいっぱいつく。花はフサザクラみたいに垂れ下がっているので、すぐにそれとわかる。
 ツツジが終わる頃に、若葉といっしょに白い花がたわわにつくので、みていて気持ちがいい。
六月ころになると、青い実がなる。昔、この実をすりおろして、川に流して魚をとったらしい。実にわずかに毒性があるので、魚がしびれて浮いてくるのだそうだ。
 とにかくエゴノキが咲いていたところをみると、五月中旬以降のことだとおもう。

 その花には五弁の白い花びらがあって近寄ると、とても良い香りがした。
 名前も知らないくせに、なんだかありふれた樹木のような木がして、図鑑もみなかった。そのうち、調べようと怠けてしまったのである。

 そんなことをしていると、花はあっというまに終わって、後で調べるのに苦労することはわかっているのだが、どうも二の次、三の次になって、やっぱり花の時期が終わってしまった。

 怠け者はこうなると慌てて図鑑を引っ張り出した。
 この半年のあいだに、古本屋で手に入れてずっと眺めていた「学生版 原色牧野日本植物図鑑」である。
 在来の植物で、これにのっていない植物はないはずだ。
 自信たっぷりに探したのだが……

 これが――ない!
 例の植物はどこにも載っていない!
 どうなっているんだ!
 ふらち者め。日本が生んだ大植物学者・牧野富太郎先生の御本なるぞ!
「者ども出会え、出会え」と叫んでみても仕方がない。
 本当に載っていないのである。

 花の佇まいはどうみても、純和風で、海の向こうから来た園芸植物の華やかさはない。

「なぜだ、なぜだ」と、植物探偵は頭を抱えてしまった。天狗になりかけて、そろそろと伸びてきた鼻は、いっぺんにへし折れたのである。

 他に写真のはいっている図鑑もいくつか開いてみたのだが、載っていない。
 こういうときは、図書館にでも行くしかないのだが、珍しく本業が立てこんでいたので、そうもならず、悶々としていた。

 あるとき自室の本棚を整理していたら、本棚の奥から小学館学習百科図鑑「植物の図鑑」というのを掘り出した。
 もしかしたらと思って、座り込んでこの図鑑を眺めてみた。
 名前のとおり、押しも押されぬ子供向け図鑑なのだが、素人植物探偵にはけっこう強い味方なのである。
 図鑑は彩色画しかないので、このごろの写真入りの図鑑に比べて見劣りする。だが、素人には、写真よりも図のほうがかえって特徴を捉えやすいのである。
 これのおかげで、ずいぶん名前のわかった植物もある。

 この図鑑の嬉しいところは、植物の開花時期を春夏秋冬にわけているうえに、生えている場所も庭・街路樹・森林・乾いた野原・湿った野原と分類されているので、なかなかバカにならない。
 世間が「雑草」とみなす野草のたぐいには、ばつぐんに強い図鑑でもある。

 夏のあたりを調べてみると、例の植物はすぐにみつかった。
 名前もすぐわかった。
「テイカカズラ」または「マサキノカズラ」というツル植物らしい。
 あれ、ツル植物だったっけ。低木のようだったと思うが、花のかたちがそっくりだ。

「ツルの部分は黒っぽい」とも書いてあるが、本当にそうなのか自信がない。
 なんだ、全然観察眼がないじゃないか。
 植物探偵の崩れかけていた自信は、完全に粉砕された。

 後日、おそるおそる問題の植物がある場所にいった。
 そこは歩いて10分くらいの、ごくありふれた住宅である。
 みると、低木だと思っていたが、鉄製のフェンスにからみついていた。ざっと見ただけだったから、下の部分はフェンスに隠れていると思い込んでしまったのである。
 よくみると、ツタ状の茎がフェンスにしっかりとからみついている。
 上だけの部分だけをみて、低木と思い込むなんて、探偵失格である。
 あとの特徴は、ぴったりと一致していた。
 やれやれ、これで探偵と言えるだろうか。

 家に帰って、もうひとつ気になったことがある。
 名前である。「テイカ」と「カズラ」(=蔓)。なんかピンとくるものがあったので、「広辞苑」を開いてみた。

 やはり。ありましたね、「テイカカズラ」。漢字では「定家蔓」と書く。
 「定家」とは古文に苦しむ全国の現役(/旧)受験生のあいだで知らぬもののない歌人・藤原定家のこと。
 広辞苑の記述は、例の植物にぴったりだった。「広辞苑」というのも、植物好きにはなかなら侮れない味方であったりする。
 ただし、名前を知らないとどうにもならないのが、最大の弱点だ。

 もっと驚いたことに、定家という人は後白河法皇の娘・式子内親王と激しい恋に落ちたという伝説があり、悲恋に泣いた二人を哀れんで死後に両人の墓を並べて建てたところ、定家の墓からニョロニョロと「カズラ」が伸びて、式子内親王の墓にまつわりついた。
 それがこの「テイカカズラ」だという。
二人の恋物語を脚色して「定家蔓」という能さえあるのだそうだ。

 植物探偵は思わず唸った。
 こんな凄い由来のある植物が近所の家に生えておったのか!

 その家のたたずまいから見る限り、居住者はどうもそんな情念とは数百光年もかけ離れているようなのだが……

 いや、山川草木というものは、決して侮れない。
 少しいい気になっていたが、反省していよいよ戦いの日々に備えなければならない――と思う植物探偵であった。
(この辺、かつてのTV版仮面ライダー・シリーズを意識しております!)v(^^)v

それにしても、いよいよ「小学館学習百科図鑑」はあなどれない。
 自室の本棚から引っ張り出して、茶の間の置いておくことにしました。
 今後の植物探偵の活動に、乞うご期待。



© Tatsuhiro Kudo 2000