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■    ■                                      No.023  01/09/30    
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■        ■      ドラゴニア通信                                  
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■      ■          歴史と読書を楽しむサイト「ドラゴニア」更新情報
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==== Index ===================================================

01: 先週のお薦め読書日記
02: エッセイ「論語を読む」(第七 述而編)
03: 編集後記

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◆ 先週のお薦め読書日記

  ずい分長いことご無沙汰していました。
  その後、お変わりありませんか?

  夏からこのかた体力が消耗して、サイトの更新もできなければ、メル
マガも書けない日々が続きました。
  雑談日記はそれでもほぼ毎日更新していますが、今週は掲示板日記に
逆戻りしてしまいました。ホーメページを始めて2年と9ヶ月が経ちま
したが、どうもこのくらいの時期がいちばん危ういようです。
  見ていると、ホームページを始めて2年目から3年目あたりに閉鎖す
る人が多いみたいです。

  このあたりが長くやる人と、「昔ホームページやってたよ」という人
の境目だと思います。うちも気をひきしめてやらないと、「もうダメだ
あ」なんてギブアップしちゃいかねない。

  気合をいれて、ゆっくりやっていくつもりです。


【今週の読書日記】

   「ジパングへ還る」
    http://www32.ocn.ne.jp/~thkudo/page/dy/d27b.htm#28

  こういうものを書いててちゃいけないんでしょうが……(苦笑)
  ただ今の自分をなんとか言葉にしていかないと、次に進めない。
  書くことが仕事になっている人間の習性みたいなものです。
  言葉に関わる仕事をしていると、どうしてもそうなってしまうんです。

   「ボーダーレス時代の尊厳」
    http://www32.ocn.ne.jp/~thkudo/page/dy/d27b.htm#29

  宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を遅まきながら観てきました。
  子供たちにも、ぜひ観せてあげたい映画です。
  大人はいよいよしっかりしなくちゃいけないと思います。(汗)


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◆ エッセイ「論語を読む」(第七 述而編)

  論語を読み考えるエッセイを書いていましたが、昨年から丸一年近く
更新していません。
  この『第七 述而編』に入ったあたりからです。
  論語のこの部分は、一つ一つ含蓄のある名言ばかりなので却ってどう
にも手がつけられない感があります。

  ここは自分なりに解釈して、読んでいく他はないと腹をくくりました。
  手始めに、復活後の第一弾をこのメルマガから始めたいと思います。

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<第七 述而編>第一章」

【第二章】:読み下し文
「子曰く、黙してこれを識(しる)し、学びて厭わず、人を誨(おし)
えて倦まず。我に於いて何事かあらん」

「先生がいわれた。『黙って覚え、学んであきず、他人に教えていやに
ならない。こんなことは自分にとって何でもないことだ』」
                                        (貝塚茂樹・訳)

  貝塚先生の注によると、「識(しる)」という言葉は、『注意を集中
してこれを記憶するまで頭にたたきこむこと』とある。
  孔子という人は「萬世師表」と呼ばれるだけあって、学者・教育者と
しては超一流。だから、この言葉には重みがある。

  学者といっても、記憶と学習は好きだけど、学生に教えるのがひどく
苦手な人もいる。頭はいいけれど、人の成長を待つ忍耐力がないからだ。
孔子は「自分にとって何でもないことだ」と言うが、これを出来る人は
本当に少ない。こういう教師にめぐり合うことは奇蹟といっていい。

  しかも「誨(おし)える」という言葉は、漢字の原義に照らすと「教
える」という一般的な概念ではなく、一つ一つの事柄を懇切丁寧に実地
に指導する具体的な行為をさしている。つまり個別指導に心を砕くこと
を、「何でもないことだ」と言っているわけである。

  これがどれほど大変かということは、人にものを教えた経験があれば
骨身にしみてわかる。そのつらさに耐えられなくなって、職業的教師は
手抜きを覚えるのだから。

「我に於いて何事かあらん」という言葉は、そう考えると、ただの述懐
ではない。
  むしろ己の生き方の覚悟を宣言するマニフェストだ。

  この文章を、孔子が自分の人生をさりげなく語ったという解釈もある。
そのような解釈も可能だが、この「我に於いて何事かあらん」という語
気の激しさはどうだろう。
  孔子は穏やかな相貌の下に激情家を隠している。
  世捨て人じみた学者ではない。優しいだけの教師でもない。
  やはり、この言葉は孔子の覚悟のほどを吐き出した真情だと思う。

 すると、次の第三章の理解が決まってくる。

【第三章】:読み下し文
「子曰く、徳のおさまらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙(うつ)る
能(あた)わざる、不善改ため能わざる、これ吾が憂いなり」

  この解釈には異説がある。
  孔子本人を対象にしたもの。世間の人々や弟子の至らなさを心配した
ものとする二説である。
  貝塚先生の注では、前の第二章と矛盾するから、これは弟子たちの至
らなさを心配したものだとある。

「道徳の修養ができない、学問の勉強が足りない、忠告を受けてしたが
うことができず、過ちを知りながら改めることができない、それがわた
しの心配ごとである」
                                        (貝塚茂樹・訳)

  前の文を「宣言」と読めば、第三章はひたすらな自戒の言葉と考えざ
るをえない。「学びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず」という人で
なければ、こんな科白が口から出るはずがない。

「論語」を繰り返して通読したみると、この書物が漫然と孔子の発言を
集めたものとはどうしても考えられなくなる。
  誰かは分らないけれど、編集した人のある意思を感じないわけにはい
かない。だから、一つの「編」には有機的な関連があり、それぞれの
「章」は前後の章の文と切り離すことができない構造にある。
  第二章と第三章が、孔子という人間の生き方そのものの現れと解釈せ
ざるえない理由はそこにもある。

  ところで、「論語」の編纂者の巧みさは、次の第四章でも発揮される。

【第四章】:読み下し文
「子の燕居(えんきょ)、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭(ようよ
う)如たり」

  これの意味はこうである。
「先生がくつろいでおられるときは、のびのびとまたにこやかであられる」
                                        (貝塚茂樹・訳)

  第二章と第三章をみる限り、孔子はすさまじい努力の人である。
  決死の眼差しで教育と研究に励む一流の学者・教育者だ。
  そういう人を考えるとき、一徹な孤高の人を連想しないわけにはいか
ない。学者には、そういう人が多いのも事実だ。

  しかし、編纂者は「燕居」(えんきょ)の時の孔子の姿は全く別であ
ったと伝えている。
  「燕居」とは訳文では「くつろいでおられるとき」とあるが、貝塚先
生の注を読むと、「役所から自宅に帰りくつろいでいるとき」という
のが本当の意味である。

  だが、これは魯国の官僚であった時代に、孔子は役所では謹厳、自宅
では「のびのびとしてにこやかだった」という意味ではない。
  魯国を捨て、諸国を放浪したのち、故国に帰って無位無官の教育者と
して生涯を終わった孔子には、役所は無縁だった。
  自宅を私塾として、弟子たちの僅かな授業料で生活していた。
  だから、むしろこの言葉は私塾や自宅での孔子の姿を現している。

  弟子たちの前では、いつでも「のびのびとまたにこやか」だったので
ある。おそらく、放浪時代の孔子を知らない若い世代の弟子たちは、そ
のような孔子しか見たことがなかったに違いない。

  教え子たちのために常に心胆を砕き、自戒の言葉を胸に刻みながら、
孔子は「のびのび」と「にこやかに」弟子たちと接していた。

  第四章には、論語編纂者が孔子に寄せた敬愛と賛嘆が詰まっている。
「これほど、自分たちを愛してくれた人がいるだろうか」
  この言葉を書きとめた人の眼には、きっと涙がにじんでいたに違いな
いと、わたしは勝手に想像している。

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◆ 編集後記:

  「今週のお薦め読書日記」でも書きましたが、まるまる一ヶ月も発行
してませんでした。

  たかがメルマガとはいえ、自分としては胸に期するものがあって書い
ています。もう飽きたから止める――なんてことは絶対にありません。
  これからは毎週発行するつもりです。

  とにかくエラくしんどい世の中になりつつあることは間違いありません。
  今日新聞を読んでいたら、東京オリンピックの柔道金メダリストの猪
熊巧という方が自殺と報じられていました。
  経営していた建設会社の業績不振が原因だったとか。

  昨日の新聞では藤村新一氏が関わった全ての遺跡に捏造したと認めた
と報道されていた。これで日本考古学がこの二十年間に蓄積してきた旧
石器時代の研究成果は無と化した。

  どちらも同じ世代の人たちの事件だったということが、暗示的ですね。
  高度経済成長時代の幕開けのヒーローの自殺と、日本人が自国文化の
尊厳に目覚めた時代の旗手の「犯罪」。
  いったい日本とは何だったのか。
  改めて問い直されている。

  それを立て直す役目は、大変だろうけれど、三・四十代の肩にかかっ
ている。倒れた偶像には回向の念を篭めて合掌する他はない。それより
も、当代の責任世代として義務と尽くす方が大切です。

"All for One, One for All" という言葉が今ほど重い時期はありません。
おちゃらけて、洒落で生きられる時ではないんです。
腹の底から笑える世の中を目指して、出発しないとね。

            工藤龍大

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