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■    ■                                      No.029  03/04/27    
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==== Index ===================================================

01: 復刊のご挨拶
02: エッセイ「人の生くるや直し」
03: 編集後記

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◆ 復刊のご挨拶

  昨年九月に発行してから、八ヶ月ぶりの発行です。
  このあいだ、発行元のパブジンから督促が来て、驚きました。

  そろそろ新しいメルマガを出さないと登録抹消されるとのことでした。
これだけ放っておいたのに、親切に教えてもらえるとはありがたい。

  時間と体力のせめぎあいで、ホームページの更新も滞りがちではあり
ますが、低空飛行ながら細々と続けるつもりです。

  これからもメルマガの購読とホームページをよろしくお願いします。

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◆ エッセイ「人の生くるや直し」
                                 ----「論語を読む」最新版

「子曰く、人の生(い)くるや直(なお)し
これ罔(な)くして生くるや幸(さいわ)いにして免(まぬが)る」

  『論語』第六雍也編十九章のことばである。

  貝塚茂樹先生によると、後漢の馬融の註釈では、「人間が生命を全うで
きるのは正直の徳による。正直によらず、自他をあざむいて生きながらえ
ることもできるが、それはまぐれあたりで助かっているだけだ」とされる。

  朱子の註釈では、「人間の本性は正直であるから、これにしたがって生
きてゆけばよい」とされているそうである。

  貝塚先生の読みは少し違う。
  人間は自己の真実の欲望にしたがって行動すればよい。これを曲げるの
が邪念であり、邪念にしたがって自己の真実の欲望を抑えるとろくなこと
がない−−と解釈されている。

  この三つの解釈はほぼ同じ事をいっているように、みえる。
  もし差異をみるとるすれば、馬融の素朴な「正直」、朱子のおめでたい
性善説というわずかな匂いの違いであろう。
  貝塚先生の考えは、馬融や朱子の甘い部分を捨てて、リアリティに迫っ
たと解釈できる。

  文字からいえば、三つの読みはどれも正解であろう。だれが間違ってい
るとはいえない。

  こういう文言に接するときが、古典を読む楽しみでもある。偉い学者で
さえ判然としないのだから、素人がいくらでも想像の翼を広げる余地がある。

  久しぶりに『論語』を手にして、このくだりをみたとき、わたしはまった
く別のことを連想した。

  孔子は魯国で権力者に仕官しようとしたことがある。
  五十代で魯国の主、定公に召し出される前のことで、孔子が四十代のこ
ろの話だ。

  その権力者とは、陽虎(ようこ)と公山弗擾(こうざんふつじょう)と
いい、下克上でなりあがった陪臣と、反乱の指導者だった。二人は友人同
士でもある。

  春秋時代も終わりに近づいた当時、周の封建国家の君主・王族は新興の
貴族階級の下克上に悩んでいた。ところが、貴族階級もまたその下の「士」
という下級貴族の台頭に苦しんでいた。

  魯国の実権は、三家系の大夫に握られていて、なかでも最も有力な家系
が季氏(きし)だった。
  陽虎は季氏の家老にすぎないのだが、季氏の勢力を横領して独裁者とし
てふるまっていた。
  のちに陽虎が失脚すると、仲間の公山弗擾が「費」という都市を占領し
て魯国に反乱した。

  この二人がそれぞれの権力の絶頂にいたとき、孔子に仕官しないかと申
し出た。
  意外なことに、孔子はこの申し出に大いに乗り気だった。

  孔子は三十代後半を魯国ではなく、斉で過ごした。
  当時の超大国、斉での仕官を狙っていたからだ。ところが、孔子の野心
は、斉の大臣晏子(あんし)に阻まれた。
  晏子は当時最大の賢者といわれた名臣である。斉の主、景公は「孔子な
ど有害無益」という晏子の言葉にしたがって、孔子を仕官させることを断
念した。

  四十代から五十代初めのころ、孔子は自分の学問を実践する場所を見つ
けられずに焦っていた。
  本来なら、権力の簒奪者や反乱分子は、孔子自身の思想からみれば、存
在そのものを悪とすべきものであるが、孔子はかれらに組して政治改革す
るつもりだった。

  もしも、孔子が陽虎や公山弗擾に協力していたら、その後の歴史の流れ
はずいぶん違ったものになっただろう。
  少なくとも、漢帝国は国教として儒教を採用することはなかったのでは
ないか。また歴代王朝が帝権輔弼の柱として、儒教をつかう可能性はすく
なかっただろう。

  実際には、孔子は陽虎にも公山弗擾にも協力しなかった。
  陽虎は不安的な僭主から大夫の身分に下克上しようとして軍を挙げ、失
敗。失脚して晋へ亡命する。手違いから一足遅く陽虎の反乱に呼応した公
山弗擾も、正規軍に敗れ、亡命した。公山弗擾からの招かれたときには、
弟子の子路が師をいさめた言葉が残っている。

  その後、孔子は魯の定公から政治改革を託されるのだが、それに失敗し、
仕官を求めて中華世界を放浪することになる。
  旅の途中にあるとき、晋国では深刻な内乱が起きた。これは春秋時代の
超大国晋が韓魏趙の三国に分裂する流れで起きた争乱の一つなのだが、そ
のことはひとまず置いておく。
  この内乱で、謀反を起こした勢力から、孔子は招かれた。
  孔子自身はまた大いに乗り気だった。
  しかし、今度も子路が師をとめた。

  現実的な政治家としての勘は、孔子よりも子路の方が優れていたらしい。
子路には公山弗擾や晋国の反乱分子の行く末がはっきりみえていた。
  孔子がいくら政治理想を実現しようとしても、場所が悪すぎる。
  さらにいえば、もしもこの反乱に組していたら、孔子の立場はいっそう
悪くなっただろう。
  へたをすると、中華世界で身の置き所をなくしたかもしれない。

  孔子の思想が、兵家のような軍事学や、縦横家のような外交戦略コンサ
ルタント、法家のような政治技術官僚なら、反乱者に協力したところで別
に問題はない。
  しかし、周の秩序を理想とする学説を広めようとしている以上、反乱へ
の共感は、人格と学説に対する重大な疑義をひきおこす。

  ありていにいえば、儒教そのものに存在する値打ちがなくなる。


「人の生くるや直し
これ罔くして生くるや幸いにして免る」

  孔子の人生にあった三度の重大な岐路を思うとき、上のことばに文言の
みを斟酌するのではない−−別の色合いを感じないわけにはいかない。

  仕官を焦った孔子は、自分の生き方の根本に反する道を選ぼうとした。
「人の生くるや直し」とは、「人はまっすぐに生きて行く」という意味で
ある。ところが、岐路に立ったとき、孔子はまっすぐどころか、自分の根
本的な立場とまったく逆の方向へ走ろうとした。
  孔子の人生は、ひょっとしたら破滅の一歩手前にあったといえるかもし
れない。

  現実には、孔子は破滅への道を歩まずにすんだ。
  それは僥倖でしかない。
  子路の諌止もあったが、孔子の動きよりも早く反乱者たちが亡んだから
だ。

「幸いにして免る」という言葉に、孔子の苦い反省がうかがえるのではな
いか。

  この章の前後に、歴史的文脈はない。したがって、わたしの考えは妄説と
いっていい。とはいうものの、この考えは頭から離れない。
  それでいいと思う。
  古典には決まった読みなどないのだから。
  自分の生き方をぶつけて、なんとなく分ったことだけが、値打ちとなる。


  春秋戦国時代の歴史を知るにつけて、論語はいよいよありがたいだけの聖
典ではなくなる。
  論語は人の世を生きる生々しい息遣いを教えてくれる。


                                                 (終)


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◆ 編集後記:

  昨年は十月以降、ウィークデイは深夜に帰宅する毎日でした。
  今年になっても事情はあまり変わっていません。
平日、本を読めるのは電車にのっているときだけ。休日は本を読んでい
たら、ホームページを更新する時間がなくなる。
  考えてみれば、四十代になればこれが当たり前かもしれない。

  だからといって、本を読まないわけにはいかない。ホームページを止
めるのもつまらない。
  時間を捻出しつつ、読んだり書いたりするのも楽しいものです。

  ところで、このところ古代中国関連の本ばかり読んでいます。
  唐宋時代くらいまでの中国を知らないと、日本史はわかりませんね。
歴史時代の日本人は、中国の士大夫の美意識を手本としてきました。

  現代の人権思想、フェミニズム、ジェンダー論者がどう批判しようが、
それは否定できない事実です。
  この当たり前すぎる事実を忘れたのが、どうやら一九七〇年代以降ら
しい。

  中国史を探ることは、日本という国のかたちを問うことでもある。
この国の文化は、お隣からの輸入品とわたしたちの先祖の感性の緊張状
態から生まれた−−その当たり前すぎる事実を、中国古典や日本の古典
を読みながら追体験し、溜め息をもらす。
  考えてみれば、わたしはいま幸運のまっただなかにいるのかもしれま
せん。

                                          (終)

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