お気楽読書日記:10月

作成 工藤龍大

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10月

10月29日

このあいだから読んでいたのは、『聖書の常識聖書の真実』(山本七平)という本でした。
新約聖書はすでに何度も通読していますが、旧約聖書の方はあんまりよく分りません。
モーゼの五書とか詩篇・箴言・雅歌・伝道の書・ヨブ記・ルツ記などはけっこう熱心に読んでいますが、他のはどうも……。
退屈な歴史と、何がなんだかわからない(UFO話とさえ思える)預言なんてのは駄目ですね。飽きて放り出してしまう。

そういうわたしでも、山本七平さんが解説してくれると、旧約聖書がわかったような気になります。断片的な知識はかなり溜め込んでいるのですが、それをつなげて意味を見出すことは山本さんのような人の手を借りない限り無理なんでしょう。

ただ今日の読書日記は、旧約聖書の話ではありません。
この本の中で、山本さんが書いているある言葉について書こうと思います。

「わたしは徳川時代の『妙好人伝』のようなものを信じられれば人間はいちばん幸せだろうと思う。」(山本七平)

この『妙好人伝』というのは、浄土真宗の優れた宗教者の伝記を集めた本です。
「妙好人」(みょうこうにん)とはだいたい江戸中期くらいから明治・大正・昭和の頃まで浄土真宗で賞賛された篤信者で、無学な農民・職人ばかりという特徴があります。

鈴木大拙が日本的霊性の代表として世界に紹介し、思想家・柳宗悦が心酔した人々でもある。

どんなことをやったかというと、一日中念仏を唱えて生活しているだけなのですが、この言動から滲み出る深い宗教性で周囲の人々の尊敬を集め、感化してゆくのです。
一休禅師を心優しくして、良寛さんのユーモアをもち、ただし禅宗の傑物のような孤高さや悲壮は全然ない。
そんな人たちなのです。

その一人は、日頃の言動を憎らしく思う坊さんから畑の草取りをしているところを思いっきり蹴飛ばされる。しかし、手向かいもせず、起き直って黙々と草取りを続ける。
坊さんの方はますます憎らしくなって、もう一度尻を蹴飛ばす。妙好人はつんのめって地べたをころがるけれど、また何もいわずに草取りに戻る。

こんなことを繰り返して、坊さんの方がたまりかねて怒鳴ったそうです。
「おまえはなぜ手向かいもせず、蹴られているんじゃ」

すると、妙好人は答える。
「前世の借りがこれで返せる。まだあるかもしれないから、もっとやってくれ」と。

山本さんにいわれると、前世という虚構を信じられるなら、この世に矛盾があっても平気でいられる。前世・来世で善行・悪行がちゃんとソロバン勘定があうと思うなら、善人が不幸になり、悪人が栄える現実の矛盾にも眼をつぶっていられる。
なんと羨ましいオメデタサだというわけです。

ただまあ、おそらく山本さんもそんなことではないのは百も承知でそんなことを書いているような気がします。

前世・来世のツジツマ合わせということでは、妙好人の心の世界は解き明かせない。

本物のキリスト者だった三浦綾子さんが、講演でこんなことを言っていました。(実際に講演に行ったわけではなく、三浦綾子文学館でビデオで見たのです。)
「神様から頂戴するものはすべて有り難い。病気や貧乏や苦難もそうなんだ」と。

旧約聖書の『ヨブ記』に書いてあるのは、こういう思想なんでしょう。

わたしが思うに、この境地にあってこそ、理不尽な暴力をまったく意に介さない人間ができあがる。
浄土真宗の熱烈かつ純粋な信仰者は、じつは前世・来世の損得勘定は気にしないようです。
なにせ死んだら、西方極楽浄土で仏様になることに決まっているので、輪廻転生などしなくなるからです。

「前世の借りを返す」という妙好人たちの特徴的な言葉は、ひるがってみれば、信仰を損得勘定でしか考えられない(坊さんを含めた)一般ピープルに対する過激なアイロニーですね、きっと。

つまるところ、日本人というのは、三浦綾子さんのような優れたキリスト者であれ、無学文盲の江戸時代(なかには昭和初期まで生きた人もいますが)の妙好人であれ、信仰を極めればおんなじような境地に入ってしまうようです。

妙好人たちなら、『ヨブ記』の理不尽とさえ見える物語もすんなり肚に入ってしまうでしょう。

そんなことを考え合わせると、昨日書いたことは間違いだったと反省しました。
オリエント発の宗教と、森の文明(=縄文文化)から誕生した日本的霊性が対話できないなどとは出鱈目にもほどがある。
深いところでは、同じものなんだと改めて思い直しました。

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10月28日

このところ山本七平氏や、旧約聖書に凝ってその関係の本ばかり読んでいます。
少し前まで念仏宗系統の本ばかり読んでいた反動かもしれません。

旧約聖書を根本経典する世界宗教はご存知の通り、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三つです。
大雑把に言えば、旧約聖書のあとに付け加えた聖典によって、三つの宗教が生まれたわけです。
旧約聖書という幹から、生え出た三つの枝がこれ。

ただし実際はもっと複雑で、キリスト教にしてからが、カトリックとプロテスタントでさえ聖書の構成は違う。
このあたりを詳しくいうと、泥沼にはまりますね。
ただわたしたち日本人が慣れ親しんだ聖書の構成はプロテスタント聖書です。そもそも明治期の日本へ入ったキリスト教はアメリカ経由のプロテスタントだったからです。

ところで、世界四大宗教の三つに共通するのは、激しい暴力志向です。
愛の宗教といわれるキリスト教でさえ西洋史を少し齧れば、どのくらい血塗られた歴史を持っているかはすぐわかる。わたしはキリスト教徒ではありませんが、もしキリスト教に入信するとしてもカトリックだけは嫌ですね。
プロテスタントも相当なことをしてきているのですが、古代・中世の澱んだ滓をためたカトリックに比べるとまだ納得できる。
プロテスタントはまぎれもなく近代の産物なので、共感できる部分が多い。
とはいえ、こと魂という次元を問題にすると、近代プロテスタンチズムはどうも浅薄な感は否めない。

「コーランか剣か」という言葉でイスラム教を暴力的な宗教と考えている人が多いでしょう。でも旧約聖書を読む限り、ユダヤ教のほうがもっと凶悪です。
ローマ帝国の国境となって以降のキリスト教は、当時の人から見ればイスラム原理主義者みたいにみえたのです。無教養で凶暴な野蛮人の宗教と、当時の知識人は考えていました。

後世のアラブ人は、十字軍という野獣どもの襲来でそのことを身をもって味わったのです。

なぜ旧約聖書はあれほど殺伐としているのか。
人と人が助け合う姿が美しい話はほとんどなくて、他人同士が殺しあうだけではなく、兄が弟を殺し、弟が兄を騙し、父が子を呪う。すさまじい世界です。

暗澹とした気分になりながら、旧約聖書の世界にひたっていると、日本とはまったく異質な異次元の宇宙に吸い込まれてゆきます。
この国の常識は、どうやらあの世界の常識ではない。そもそも対話などできるのだろうかという気さえする。

ここで話を土曜日に行ってきた「日本人はるかな旅展」に戻すと、なんと平和な社会だろうと呆然としてしまう。
「創世記」にあるエデンの園とは、まさにこの国のことじゃないかとさえ思えてくる。

マンモスを追って、陸続きだったシベリア・サハリンを通って北海道へ、氷結した津軽海峡をわたって本州に来た旧石器人たち。
東南アジアにあった亜大陸スンダランドが地球温暖化で水没した後、丸木船に乗って、沖縄・九州南端から日本全国へ広まった南方系旧石器人たち。
わたしたち日本人の祖先・縄文人は彼らの混血の産物でした。

旧石器人や縄文人たちは、西アジアやヨーロッパの殺伐とした歴史とは無縁な平和な社会に生きていた。
そこが日本人の根幹にある限り、エデンの園を追われたトラウマを抱えている旧約聖書の民とは理解不能の壁があるんでしょうね。

展示会では、縄文人・弥生人・古墳時代日本人の男女の顔をイラスト入りで復元していましたが、イラストレーターさんは学者の説に従って忠実に仕事しているようです。
縄文時代の顔は間違いなくアイヌの人の顔です。北海道人なら観光地でアイヌの人の顔を見知っているからすぐわかります。
骨格から復元したというだけでなく、イラストにする過程でアイヌの人の顔をモデルにしたのでしょう。

同じ事は、弥生人にもいえる。
あれは朝鮮民族の顔です。こっちは説明不要なそのものずばり。

縄文人と弥生人が混血してできた古墳時代の日本人の顔はいまのわたしたちの顔でして、これが江戸時代・現代の若者と変化してくるイラストがありました。

たしかに日本も縄文末期から、卑弥呼の前の時代の「倭国大乱」の時代とか、平和ではない時代もありました。
しかし、ユダヤ民族やキリスト教みたいなジェノサイドはやったことがない。
ジェノサイドとはただの大量殺戮ではなく、一民族・一国家を皆殺しにすることです。これはアッシリアのような古代メソポタミア文明の専制帝国から、旧約聖書の民が受け継いだ負の遺産といえるかもしれません。

陸の道や黒潮の道をたどって、日本へやってきた人々は、森と共生する文化を作り上げて今日まで生きてきた。
自然と共に生きるということが、わたしたち日本人の根底です。

しかし、地球の表面でほんのちょっとだけ遠いお隣には、「共生」という思想とは無縁なまま4000年以上続いた文明がある。

目下その文明から派生した二つの国家群が戦争していますね。
プロテスタント・キリスト教が生んだ国であるアメリカ・イギリスと、イスラム教の鬼ッ子・イスラム原理主義のタリバンが支配するアフガンとが。

縄文人も弥生人も、同時代のオリエントなんかに比べると、金銀の華麗な装飾品は作らなかったし、壮大なジグラット(バベルの塔のモデル)やピラミッドも作らなかった。

でも、繊細で精巧な石器や、丁寧な作りの土器を作って平和に暮らしていた。
大帝国は作らなかったけれど、自分を神さまだと思い込んで人民の手足をちょんぎり、鼻を殺ぎ落とし、煮えたぎるアスファルトを眼の中に流し込む専制君主もいなかった。

世界でいちばんお金持ちだった20年前から10年前くらいまでを除けば、考古学時代や歴史時代のほとんどを通じて概ね貧乏で質素な暮らしでしたが、そのぶん悲惨の度合いも少なかった。

日本史をみて、悲惨だと思うのは、世界を知らなさ過ぎる。
中国・朝鮮の歴史を少ししれば、この国がどれほどのんびりと平和だったかよくわかります。日本があちらを侵略した側だったからではありません。あちらの住民の本当の敵は、自分たちの為政者だったのです。

「日本人」というものを調べるごとに、「うーん、たいしたもんだ」と思いますね。
たしかに身の回りにいる日本人をみれば、そうは思えない毎日ですけれど、「顔を見てるとむかつく」なんて子供じみた感情をちょっと忘れて、まわりを見回して見れば、シベリアや黒潮の向こうから、えっさえっさやってきた顔がいっぱいあるじゃありませんか。
対馬海峡をこえてきた扁平な顔もありますけれど。

どっちにせよ、凍った大平原を越え、危険な海原を渡って、この国へやってきた冒険者たちの子孫だ。
少しぐらいむかついても、許してやろうぜ、勇敢なご先祖に免じてさ。
――なんて、大きな気分になるのも、マンモスを追っかけたり、丸木舟で大海を押し渡ったご先祖様の功徳かもしれません。

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10月27日

「聖徳太子展」と「日本人はるかな旅展」に行ってきました。
東京都美術館の「聖徳太子展」は思ったより混んでいません。
すんなり入れて、たっぷり観てくることができました。
会場には、中宮寺の半跏思惟像も出品されていました。
展示の目玉だったのですが、中宮寺で祀られていた御姿を拝見していると、冷たい展示室にはそぐわない感じです。
畳敷きの中宮寺の仏殿では生き身の高貴な女性そのものの御姿が、展示室では生気のない像としか見えません。

仏像とは、本来信仰あってこそのもので、ただの美術品として観ると、その魅力がまるでなくなると痛感しました。
中宮寺のご本尊は、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女をモデルにしたという伝承があり、日本一美しい御仏だと思います。(仏像とか、仏様じゃなくて、御仏といわずにはいられない高貴な美人なのです。)
いや、この像に限っていえば、世界一といっても言いですね。

たぶん、中宮寺の仏殿のお姿を見たことがなければ、十分美しく見えるはずです。
なにせ、あちらに祀られていると、昭和の学生さんが思わず抱きついてキスしたそうですから。これは中宮寺のパンフレットに書いてありましたが、目の前で観ていると、なるほどそれも無理はないような気がします。

聖徳太子の像は日本では仏像の一ジャンルとなっています。
それも、三タイプあって、「童子像」「孝養像」「摂政像」となる。それぞれ、赤ん坊・少年・壮年の姿です。

山岸涼子の「日出処の天子」は、少年姿の「孝養像」をモデルにしていますね。
なるほど、あれとこれを組み合わせれば、絶世の美少年・厩戸皇子の出来上がりだなと、納得してしまいました。

聖徳太子は14歳で父・用明天皇と死に別れるのですが、父天皇の看病をする少年の姿が「孝養像」のモチーフです。
いろんな「孝養像」を観ていると、鎌倉・室町時代の日本の美少年とはこんな感じだったんだなとしみじみ見惚れてしまった。
なかには、彩色が綺麗に残っていて、生身の少年のように見えるもののありました。
聖徳太子信仰は、妻帯を認めた浄土真宗が主流なので、「孝養図」も真宗のお寺のものが多い。
だから、少年を稚児にして性愛の対象にする習慣はないはずですが、その聖徳太子像はどうも色っぽすぎる。邪推でしょうが、どうも気になって仕方ない。

妻帯はできるし、愛人だっているのに、さらに少年まで……いやいや、そんな疑惑は闇に葬っておきましょう。

会場には、掛け軸みたいな聖徳太子の絵伝がたくさん陳列されていました。
大きさは「たたみ」一畳から、二畳くらいですがびっしりとストーリーが書き込んである。
親切に解説パネルがついているので、素人でも絵の中のストーリーがわかるようになっています。
会場を一周する頃には、図像的なストーリーが頭の中に刻みこまれますね。

日本の聖徳太子信仰は、本家本元の法隆寺・四天王寺はもちろん鑑真和上の唐招提寺、さらには長野の善光寺、親鸞が開いた浄土真宗といったあたりが中心です。

仏教界の大恩人ということになっているので、真言・天台宗も含めて、太子は崇拝されています。ただし、非僧非俗という理想を掲げた親鸞は大いなる先駆者として、聖徳太子を崇拝しました。おかげで、浄土真宗は法然と並んで聖徳太子を崇めるようになりました。

面白いことに、弘法大師空海は聖徳太子の生まれ変わりという伝承もあり、聖徳太子が描かれた図像には空海がいっしょに描かれることも多いのです。
唐招提寺は、もともと律宗ですが、鎌倉時代に真言宗と律宗をミックスさせた真言律を取り入れたので、聖徳太子=空海という形で、開祖・鑑真和上とともに、信仰の対象になりました。

細かい歴史的詮索はともかく、聖徳太子・鑑真和上・空海・親鸞といった人々は、日本人の宗教感覚の源泉ですね。
いまの日本人はどうか知らないけれど、昭和初期までのまともな日本人の常識でした。
さすがに四人すべてを含んだ図像はないけれど、浄土真宗の阿弥陀名号の御本尊には、法然と親鸞、そして親鸞の兄弟子にあたる信空・聖覚といった人々の肖像とともに、聖徳太子が入っています。

このごろ念仏宗関係の本ばかり読んでいるせいか、そういう図像を眺めているとじーんときますね。
思わず合掌してしまったので、ヘンな奴だと見えるでしょう、きっと。(苦笑)

でも、会場には数珠を繰りながら、真宗のご本尊を熱心に見ている老婦人がいた。
老婦人という言葉はこういう人にこそ、ふさわしい。
老いが美に変わるのは、文化のちからで、それがなくて加齢してゆくと、老婆(or a hag)としか呼べなくなる。

さて、展示のしめくくりは、『日本書紀』の聖徳太子伝だの、『聖徳太子伝暦』だのの古文書です。
行書じゃないんで、読むのは楽でした。
『日本書紀』の部分は、「十七条憲法」のくだりです。
これは、「四天王寺縁起」でも出ていたし、後代の作られた版木もありました。
なまで見るのは、やっぱり感動ものです。

親鸞の曾孫・覚如の直筆の文書もありました。
先だって覚如の「執持鈔」「口伝鈔」「改邪鈔」を読んだばかりなので、嬉しかったですね。

見終わったら、かなり疲れたのですが、気力をふりしぼって、科学博物館の「日本人はるかな旅展」へ行きました。
それについては、明日書くことにします。

追記:
先日親鸞直筆の文書があると描きましたが、あれは勘違いでした。
出品リストを眺めていたら、親鸞直筆の文書は10月27日ではまだ展示されていません。
目録をみて、他のものと勘違いしていたことが分りました。

親鸞の直筆は、11月3日から展示されます。

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10月21日

先週いっぱいかけて読んでいた本をやっと読み終わりました。
その本とは、『小林秀雄の流儀』(山本七平)です。

隆慶一郎さんをカリスマ的に敬愛するファンなら、小林秀雄という名前に無関心ではいられない。その小林を山本七平氏が書く。これで、面白くないわけがない!

本筋としては、小林の最後の大作『本居宣長』についてもっともページを割いているから、そのことを書くのが定石なのでしょう。

ただ、わたし自身は『本居宣長』も読んでいないし、御本尊の本居宣長にも興味がない。せっかくの山本氏の考察も消化不良気味なんでパスします。

それよりも面白かったのは、小林の『ドストエフスキイの生活』を、評論家(小林秀雄)と作家(ドストエフスキイ)を聖書読みの達人同志として、両達人の真剣勝負に読み替えたあたりでした。
『悪霊』というドストエフスキイの作品については、内容を知らん人はいないでしょう。
帝政ロシアに実際に起きたテロリストの、リンチ事件をモデルにしています。

この作品は、文芸作品としては評判はよろしくないようです。物語のストーリーがごちゃごちゃしている上に、人物が登場しすぎて収拾がつかないから――ということらしい。
もっとも、ロシア文学のなかでは、ストーリーが単純で、人があんまり登場しないなんてのは、あんまりないような気もしますが……。

山本七平さんは、お得意の聖書学の薀蓄だけでなく、日本語訳されたロシア正教の聖書まで引っ張り出して、ドストエフスキイの聖書的鬼神学(=デモノロジー。これは、わたしの造語です。字面とおりの意味だと思ってください)を分析している。
ご存知の通り、山本さんはギリシア語とヘブライ語で聖書が読めた。
こういう人が聖書を語ると、あの本がどんなミステリーよりも凄い迷宮となるから面白い。

『罪と罰』のラスコリーニコフだの、『悪霊』のスタブローギンだのの犯罪が、形而上学的な謎に昇華してゆくあたり、小林秀雄の評論よりも面白いことは確かです。

(いや、そもそも悪というものが、実在ではなく、形而上学的な問題だから、そうなるのは当然でしょう。)

こうやって書くと、らちもないカタログ的な書評と同じで退屈至極なんですが、少なくとも読んでいたわたしにしてみれば、ハリーポッターよりも面白かったのは事実。

このあたりののりにのっている思考の動きが、山本七平さんの掴んだ小林秀雄流「ものごとの分りかた」の実践編となっているわけです。

ただ小林秀雄の独断的なもの言いの代わりに、山本さんの博学な聖書学的知識で語られるだけに、もっと分りやすくて説得力がある。
教祖さまのご託宣じゃなく、あくまでもミステリーの謎解きなんですね。

このミステリーの紹介は、いずれ何かの機会に書くつもりです。
聖書の世界やドストエフスキイの世界がどれほどデーモン的な魅力にあふれているか紹介できたらいいなと思います。悪魔(デーモン)に興味がない人には、聖書もドストエフスキイも、じつはあんまり面白いもんじゃないんです。逆説的に聞こえるかもしれないけれど。
真実はいつも逆説の仮面をつけていますから。

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10月20日

ほぼ一週間ぶりの読書日記です。
仕事も一段落したので、ほっとしています。

昼風呂に入って、読書三昧の一日でした。
ソファーに寝転んで、こっくりこっくりしながら、楽しく過ごしました!
本が読めるのって、やあっぱりサイコーだ!

さて、読んだ本はひたすら趣味に走っています。
”Anabasis” Xenophon.
これはギリシア語原典。まだ読み終わっていないのです。
さっさと岩波文庫でも読めばすむ話なんですが、ギリシア語で読むのが眼目だから仕方ないですね。

『ギリシア語文法』(高津春繁)。
こちらも、つい読みふけってしまった。
この文法書は日本語で読めるものでは最高峰だと思います。
文法書が楽しく読める例外的な本――つまり名著なんですね。

『アイヌ語絵入り辞典』(知里高央・横山孝雄)。
この本は1965年になくなった知里高央氏の原稿を元にして、漫画家赤塚不二夫のプレーンだった横山孝雄氏が本としてまとめたもののようです。
あいまいな書き方になったのは出版の経緯が書いていないからでして、知里氏の娘さん・知里むつみさんの後書きからそのような判断したのです。

この本は古本屋で見つけたのですが、なんと著者サイン本(横山氏)であり、蔵書印まで押してある。掘り出し物というべきでしょう。(笑)

知里高央はアイヌの方で、名前から連想するように姉に知里幸恵さん、弟に知里真志保さんがいます。
知里姉弟の伯母には、アイヌ語伝承者として有名な金成マツという人もいます。

著者略歴をみると、高央氏は、1907年、北海道登別生まれ。室蘭商業学校、小樽高等商業学校を卒業。
北海道出身者からみると、知里氏が当時としてはかなりの高学歴だったことがわかります。秀才だったことは間違いない。

戦後から幌別中学校、室蘭商高、江差高校で英語の先生をされていたそうです。

また世界で唯一のアイヌ語英語辞書を作成した宣教師ジョン・バチェラー博士の自宅で家庭教師をしていたとか。

こうしてみてゆくと、アイヌ語の伝承保存と言語学的探求について、知里一族がはたした貢献の大きさがよくわかりますね。
もちろん、知里一族のように中央の学者と関係していないアイヌの方々の地道な努力で、この言葉が日本政府の同化政策という名の絶滅計画から守られてきたことは確かですけれど。

本そのものは横山氏の可愛いイラストのおかげで、辞書というより絵本みたいな感覚で楽しく読めました。
しかし、なにぶん読んだのがわたしなんでくだらないことしか覚えていない。
たとえば、クラゲというのは「アトゥイ・エタル」というのですが、これは「アトゥイ」=「海」、「エタル」=「鼻汁」という合成語。つまり、「海の鼻汁」。
なるほど、言われてみれば――。(笑)

ホタルは、「トムトムキキル」。これは、「トム」=「光る」、「キキル」=「虫」という単語から出来ている。これは「光る光る虫」というわけ。
うーむ、そのものずばり。
この造語の妙には、おもわずにっこりしてしまいます。

そういえば「ヘビ」を「タンネ・カムイ」と云います。
これは「タンネ(長い)」+「神(カムイ)」となる。「長い神」ですね。
ルナールの『博物誌』に、「ヘビ。長すぎる」という絶妙の定義がありますが、思わずそれを連想してしまった。(笑)

日本語でも、古語ではヘビを「長物」といいますね。

アイヌ語の「カムイ」というのは、「神」と訳せるのですが、その意味は現代日本人がキリスト教と神道をまぜこぜにして作り上げた「神」の概念とはだいぶ違います。
むしろ『古事記』『万葉集』ぐらいの時代の日本人の「神」「祇」(どっちもカミと呼ぶ)の観念に近い。
人間に脅威をもたらす動物も、天候現象を掌る存在も、人倫を規定する超越的存在も、はたまた悪魔・悪霊のたぐいも「カムイ」となるのです。
よく知られているように、クマも「カムイ」です。

日本の古語では、「物」(もの)という言葉がこれと同じです。仏教の導入によって、「物」が神格の意味を失い、「妖怪」という意味に変わったのです。
いまでも使われる「物のけ」とは、本来「物怪」という怪奇現象ではなく、具体的形象イメージをもたない精霊的神格(deity)を意味していました。

あれこれ考え合わせると、アイヌ語こそは言語学的発想において、日本語にもっとも近い異言語だといえます。
(外国語と言わないのは、この言語の現存する使用者が、日本国にしかいないからです。戦前はサハリンや千島列島にもアイヌ民族はいたのですが、ロシア語以外の言語を認めなかったスターリン時代をへた今日、残っているのでしょうか?)

文法的には、朝鮮語の方が構造は日本語にずっと似ています。ただどういうものか、骨組みの構造が似ているだけで、個々の単語はまったく似ていない。
単語の発想についていえば、朝鮮語は、日本語とかけ離れています。

こんなことを考えて行くと、縄文とアイヌだの、日本人はどこから来ただの、いろんな深みにはまってしまう。(笑)
日本のことにひきつけて、あれこれ取りざたするよりも、まずは異言語の世界に浸ろう!
――と思っています。

なによりもアイヌ語を学んでいると、故郷北海道の大自然を連想し、ついでにいろんな町の名前に思い至る。
北海道の地名は、ほとんどアイヌ語地名なんです。

滝川という地名がありまして、土地の人は「たきかわ」と発音しています。
世の中には博学な大学教授がいらして、これは関西にある「滝川」(たきがわ)という地名が本当であり、誤りであるとのたまったことがある。
じつはここの地名は同じ漢字を使用する関西の地名とはまるで関係がなく、「滝のある川」という意味のアイヌ語を日本語訳したものです。

この手の傲慢さは、誰にもないとは言い切れない。
まずは、学ぶことが先ですね。

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10月14日

ざっと読書日記をば、書きます。

13日と14日に読んだ本です。
『御ふみ』(蓮如)
『イスラム教』(マシュー.S.ゴードン)

ゴードンの『イスラム教』は、青土社から出ていて、コンパクトにイスラム教の歴史が概観できます。
この本を読んでいると、「なるほどそうだった」とイスラム教の復習になって便利です。
いままでイスラム教に関心のなかった人には、お薦めです。

イスラム教徒の日常生活が書いてあるところも手柄で、ひとつわかったことがありました。
「ビスミッラー・アル・ラフマン・アル・ラヒーム」というコーランの章句(アラビア語)があって、これをイスラム教徒は子供の頃から教え込まれる。
「情ふかく慈しみあつい神の名において」という意味だそうです。

これを食事の前、部屋に入るとき、バスに乗るとき、モスクに入るとき等、生活のいろんな場面で呪(まじな)いみたいに唱えるのです。

以前ワールド・ミュージックが流行って、イスラム圏のポップ・ミュージックが紹介されたことがありましたね。
そのとき、この「ビスミッラー」という言葉をやたら聞きました。
アラビア語も、ペルシア語もわからないので、気にもしなかったのですが、耳について離れない程度には覚えていました。
そういえば、トルコやイランの映画を見ていたときにも何度か聞いたような気もします。

謎の言葉「ビスミッラー」の正体がやっと分りました。(笑)

「アッラーフ・アクバル」と並んで、アラビア語の語彙がもうひとつ増えましたね。
あのアラブ語の殺し文句「貴女は月のように美しい」(エンティ・ガミーラ・ザイイ・アマル)も覚えたことだし、女テロリストと遭遇するときがあったら、この三つを叫ぶことにします。

余談ですが、この殺し文句はちょっと怖いところがある。
「アマル」(月)をうっかり、「ガマル」と間違えそうです。
「ガマル」というのは、「ラクダ」のこと。
ラクダはイスラム圏では「どブス」を意味します。

『三日で覚えるアラビア語』の著者・国会議員小池百合子女史は、くれぐれも間違えないようにわざわざ書いているのですが、そのおかげでかえって間違いますね。
ダメということほどよく覚えるのは、人間の悲しい性(さが)です。

この文章を書くために、同書を取り出して確認したら、わたしは「ガマル」と間違って記憶していたことが分りました。
うっかり、そんなことを口走ったら、マシンガンで蜂の巣になるところでした。
「生兵法は大怪我のもと」ということを、肝に銘じておいた方が良さそうです。

さて、もう一冊はあの蓮如が信者のために書いた書簡を集めた『御ふみ』。
正式には、『五帖御文』といいます。
東洋文庫で註釈つきの原文ですが、書かれたのが戦国時代であるせいか、とっても読みやすい。
不思議なほどつるつる読めてしまう。

法然さんや親鸞さんの書簡の手強さに比べれば、ウソみたいです。
まだ全部読んだわけではありませんが、蓮如が本願寺を教団として組織できた理由がすとんと分りました。

文章がとかく平易で分りやすい。しかも、内容は高度。これを読んでいるうちに、信者は蓮如の考えに知らず知らずに染まって行く。
この芸当は、法然さんや親鸞さんのように大学者・大思想家の偉さが滲み出ている文章ではできませんね。
法然さんや親鸞さんから、手紙をもらった信者は嬉しかったとは思いますが、断定的でガイダンスじみた臭みが少しあることは感じたでしょうね。
こうなると、神棚にまつりあげるしかない。

それに比べて、蓮如の手紙は本人の肉声をその場で聞いているような趣がある。

ぼつぼつと読んでいって、蓮如という人と知り合いになりたいと思います。

そういえば今日は、古書店で買った『三教指帰・性霊集』をざっと読みました。
ひとつは弘法大師空海の若いときの著作であり、もうひとつは詩文集です。
漢詩人としては、空海はかなりのものだったのでしょうね。
『性霊集』を読んでいると、西域・天竺を連想させるエキゾチックな語彙が並んでいるので、国際色豊かな盛唐時代の漢詩の雰囲気があります。

詩想においては、もう一人の日本最高の漢詩人・菅原道真のような湿ったところがない。
空海とは奇蹟みたいな人だったのかもしれないと改めて思いました。

とりとめない読書記録になってしまいました。
本日はここまで。

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10月13日

本の整理をしました。
近所の古本屋に、手下げ袋ひとつ分を持っていって引き取ってもらいました。

古いコンピュータ関係の本は処置に困りますね。
ああいうものは、読んだらすぐ手放さないとなんにもなりません。
いま死蔵している古い本は、古紙回収に出した方がいいみたいです。
旧バージョンのアプリケーション関係の本なんて、なんの役にも立ちませんから。

わかってはいるんですが、本が寸断されてどろどろに溶かされて、トイレットペーパーに再生するのを想像するのに忍びなかったのです。
でも、これも宿命だから仕方ない。
電脳関係の本がこの世に存在できる時間はごく短いとあらためて思い知りました。
だったら、自分で捨てるべきだなあと、やっと覚悟がさだまりました。

昔から「本は友だち」だと思っているので、本に本としての死を宣告するのはどうにも嫌なんです。
本は世にある限り、古書店を通じて欲しい人の手に渡るべきだと信じていたのですが、このごろではそれも怪しいようです。

「素人は古本屋の仕事は本を保管することだと思っているけれど、実は違う」と、古書店の店主で直木賞作家の出久根達郎氏がエッセイで書いていました。
古本屋の仕事は、本を潰すことなんだそうです。
つまり古紙として処分する手配をするのが、お金になる。

そういうことを頭の片隅でわかっていながら、古本屋に本を持ってゆく。 考えてみれば、わたしも卑怯な男です。

本を売ると、どうにも気分がすぐれないので、本日はここまでとさせていただきます。

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10月 7日(その2)

読書日記です。
本日は仏教関係の本を二冊ほど。

『上代の浄土教』(大野達之助)
『八宗綱要』(凝念大徳)

『八宗綱要(はっしゅうこうよう)』の著者・凝念(ぎょうねん)は十三世紀の人。
華厳宗のお坊さんです。
八宗とは、当時主流だった奈良・平安仏教のことで、倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳・真言の各宗派をさします。

書かれたのが、十三世紀であるとはいえ、コンパクトに日本の仏教宗派を知るのに、これほど便利な本はない。
講談社学術文庫に入れてくれたおかげで、簡単に読めるのはありがたいですね。

禅宗や浄土宗の各派が入っていないのは、当時まだ禅宗や浄土宗は仏教界のエスタブリッシュメントになっていなかったからです。
保守的な旧仏教の指導者であったから、そのような新興仏教はあまり視野に入れていなかった――というより、同じ華厳宗の明恵上人などは浄土宗を敵視していたから無理もありません。

凝念は鎌倉幕府滅亡のほぼ十年前に八十二歳でなくなっているので、当時の浄土宗(この時代は浄土真宗ではなく、時宗や浄土宗が多数派)や、禅宗(とくに臨済宗)の発展を目にしていないわけはありません。
だから、この本の「付章」に中国における浄土宗・禅宗についてごくごく手短に書いてあります。ただし鎌倉新仏教の祖師たちの名前はひとりも出てきません。

そのような本ではありますが、浄土宗系や禅宗についての本は、山のようにある。
むしろ一般人にはよくわからない、倶舎・成実・律・法相・三論といった奈良仏教各派の概要があるところが値打ちです。

『上代の浄土教』(大野達之助)も、インド・中国の浄土教思想から説き起こして、法然出現の直前まで日本の浄土思想を追ってくれたのが良い。
そうして眺めて行くと、日本の浄土思想が中国からの輸入物であるよりは、むしろ日本のオリジナルだと思わざるをえない。
陰陽師・賀茂家出身で、文人となった慶滋保胤もそうした流れにある人でした。
この人が出家して寂心となのったことは、以前この読書日記で書いたことがあります。
仏教教学上の質問事項をしたためて、弟子・寂昭の手でそれを中国の天台山の四明知礼という人に送った。本場中国の名僧の回答が、寂心やその仲間の僧たちには、相手にならないほどレベルが下だったということも。

すでに、この時点で教学の面において、天台宗などの中国旧仏教は日本の学僧たちのレベルより劣っていたのです。

以後の日本仏教界は、禅宗の輸入をのぞけば、あまり中国仏教のお世話にはなっていない。
それでさえ宗教というより、文化という名のファッションでした。

梵字を研究する悉曇(しったん)学という学問がありますが、これはその後の日本でしかやっていない。
古代インドのグプタ文字を研究する物好きは、日本にしかいなくなったのです。

話がそれているようにみえるかもしれませんが、言いたいことはごく単純。
日本の法然・親鸞・一遍の浄土系仏教も、中国仏教の輸入にみえてそうではないということ。
あれは、日本の天台宗や真言宗、それに加えて旧仏教といわれる奈良仏教のなかから自発的に芽生えてきたものだったのです。

そうじゃないかとはうすうす考えていたのですが、大野達之助のこの本のおかげで、真言宗の覚鑁(新義真言宗の祖)や三論宗の永観(京都の永観堂第六代住職)が日本的な浄土宗を誕生するにあたって、どのような働きをしたのか具体的にわかりました。

いままでもやもやしていた謎が解けた感じです。

こんなことばかり書いていると、ただの物好きと思われるでしょうね。
そう思ってくれて全然かまわないけれど、わたしが日本仏教の歴史を面白いと思うのは、危機にあって強く生き抜く姿勢です。

歴史の魅力は、勇気ある人々の生の記録を知ることなんです。

だから、歴史からビジネス戦略を学べると思っている人をみると、なんだか気の毒になってしまいます。
信長や秀吉がいくらエライか知りませんが、あの人たちが考えたこと・やったことを現代風にアレンジして何になるというんでしょう。
十六世紀には通用したことが、二十一世紀で通用するわけがない。
世界の状況や時代の要請はつねに変わっているのです。

むしろ信長や秀吉に負けた人々の方にこそ、眼をむけて、新しい可能性を観るべきでしょう。
でも、そんなことは、勝者の記録でしかない歴史史料を素朴にみるだけじゃ絶対にわからない。

歴史を知るということは、過去の事跡を知るのではなく、自分がどんな未来を目指すのかはっきりさせることなんです。
幸せな未来を築く意思がなければ、歴史なんてなんにもならないものです。

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10月 7日

『劇場版仮面ライダーアギト Project G4』を観てきました。
幼児番組の劇場版『ガオレンジャー』と併映なので、子供連れじゃないのが行ってもどうかなと思いましたが、別に怪しまれた様子もありません。
男だけで見に来ている連中もいましたし……。

映画の出来はかなり良かったです。
わずか1時間の作品なのに、見ごたえがありました。
脚本がしっかりしているからです。
このあいだのスペシャル版TVとはまるで出来が違う。
あれを観ていたので、映画はやめておこうかとも思ったのですが、今日も朝早くから起き出して本編を見てしまったので、勢いで映画にも行ってしまいました。

ハリウッド映画なんかよりずっと上等に思えましたね。
昨日、ビデオでディレクターズ・カット版のSF映画『デューン』を観たので、久しぶりに映画館へも行ってみたくなった。
良い映像は、最高の魅力です。

藤岡弘が特別出演で、ほんのちょっとだけ出てきました。
仮面ライダーじゃ全然なくて、小沢澄子(G3プロジェクト主任)の上司でした。
津上翔一(アギト)の肩を抱きながら、「いまのオレにできないことをやってくれ」と言い、にっこりと笑いながら黙って氷川誠(G3−X)の肩を優しく叩く。
一号ライダーの時代からファンのおっさん世代は、涙腺がうるうるです。

ダンディーな藤岡氏にしては警察官僚の制服がだぼだぼしていたのが印象的ですね。
勝手な想像ですが、撮影現場に遊びにいった藤岡氏に飛び入り出演させたんじゃないでしょうか。まったく前後の脈絡がないシーンでしたから。

それに、あの小沢澄子がみょうに緊張していた。
なぜなら、セリフがいつもより、もっと激しく棒読みだった!(笑)

まあ、初代ライダーへの敬意じゃないでしょうか。津上翔一も氷川誠も、いつもよりさらに演技が硬かったし……。

しかし、このシーンは良かった。
いちおうメインのアギト=津上翔一を立てたセリフではありますが、懸命に努力しても力及ばない氷川誠に何がいえるのか。
「がんばれ」というのもしらじらしい。
もう彼は限界をこえて、戦っている。
アンノウンを倒す力がなくても、勇気だけで立ち向かう氷川誠。

そういう彼こそが、ライダー世界にはふさわしい。
えむなんとか星雲からやってきた宇宙公務員と、ライダー世界のヒーローはそのあたりが決定的に違うのです。(笑)

そうした若者に、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて、黙って肩を叩いて去って行く。
熱い魂がなければ、そんなことをしても嫌味なだけです。
せこい中高年がそれをやると、若いモンから舐められます、絶対に。

藤岡氏はああいうシーンが似合う人なんだよなあ。
実生活でもほんとに良い人らしいし、熱心にボランティア活動もしている。
こういう人が初代だから、仮面ライダーは不滅なんだな、きっと。

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10月 6日(その二)

気を取り直して、二度目の日記です。
今度は読書日記です。

『蒙古来る』(海音寺潮五郎)を読みました。
海音寺さんはいつ読んでも凄いですね。

この人は、ものすごい量の文献にあたり、研究論文を調べ、史料さえ読みこなしている。

最近の歴史作家みたいに、概説書を資料・参考文献にしているのとは訳が違う。
史料と言うのは、専門学者の研究書ではなく、手書きの古文書(こもんじょ)であり、文書館に収納されているものです。

この頃の歴史作家は、専門学者の研究書を右から左へ書き写すのが上等な部類。入門書や概説書を学習マンガもどきに書き換えるのがほとんど。
そうでない人たちもいます。そういう人の作品じゃないと、読むのは時間の無駄でしかない。

海音寺さんは、研究書を読みこなし自分の頭で理解して、さらに史料にあたって独自の考えを展開している。
こういう歴史小説を書いたのは、この国では海音寺潮五郎氏が初めてです。
それまでの人たちの歴史作品を、わたしもかなり読んだのですが、レベルの低さには唖然とします。ジャンルそのものが稚かったのと、読者層がそれだけの一般知識を持っていなかったので、あまり難しい話もできなかったという事情があります。

後書きで海音寺氏が触れていましたが、この作品さえ歴史設定がおかしいと非難されたそうです。
えてして評論家や、専門家・研究家をきどった歴史小説家には、ものをしらない不勉強な人が多く、折角の海音寺さんの苦心もかえって邪道だとしか見えなかったようです。

この小説には、ホラズムからの亡命者が、ネストリウス派のキリスト教信者として登場したり、登場人物同士の中国語会話があったりと国際色豊かなのですが、昔かたぎの人たちにはそれが気に食わなかったようです。

磯貝勝太郎氏の文庫解説では、海音寺さんを批判した歴史作家はもう忘れられた作家で、海音寺さんの親友だったとか。
ふたりはこの論争がもとで決別したそうです。

海音寺潮五郎という人には、世界的な規模で日本人やその歴史を考えようという志があったのですが、当時の同業者にそんな人はいなかったのです。

この話には後日談があり、『蒙古来る』が発表されて、世間から批判を浴びている頃、三十歳くらいの新人作家が現れました。
その新人はペルシャやインドの古代を舞台にして、幻想小説めいた作品を書いていました。

海音寺さんは自分が選考委員だった賞に応募してきたその新人の作品をいたく気に入って、入選させました。
やがて、その小説家は直木賞候補となり、当時選考委員だった海音寺さんは嫌がる他の委員を説得して、その無名の新人に賞をあたえた。

――とまあ、ここまで書けば、その無名の新人が誰かはもうお分かりでしょう。
本名・福田定一という、その新人のペンネームを知らない人はいない。
そう、司馬遼太郎。

受賞作『梟の城』を書いていた頃の司馬遼太郎が、後年あれほど大化けするとは、他の委員には想像もつかなかったでしょうね。
吉川英治でさえ、司馬遼太郎の受賞には難色をしめしていたくらいですから。
その吉川英治に、「あの男はあなたと同じ天才です」とまで言って、海音寺さんはつよく押したそうです。

地球的な規模で、日本と日本人を考える。
同じ思いを持つ同志を、海音寺さんははるかに年下の新人に見ていたのです。

こうした事情を知ると、司馬遼太郎の長編の最後が清朝成立時代の冒険譚『韃靼疾風録』だったことが因縁めいて思えてくる。

現代では、海音寺さんのやっていることはむしろ当たり前。
でも、そういうビジョンを受け入れる読者層や、書き手を準備してくれたのは、司馬作品だったことは間違いない。

作品の内容以上に、海音寺潮五郎と司馬遼太郎という二人の巨人の出会いが胸を熱くしてくれました。

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10月 6日

早いもので、前回の更新からもう一週間がたちました。
あいかわらず更新ペースが落ち捲くりですね。(笑)

雑談日記はなんとか更新していますが……。
またまた掲示板を日記代わりにしている。
ふつう、こういうのはコンテンツとはいわないのだけど、背に腹は変えられない。
ない袖は触れない。

江戸時代の小話にこんなのがあります。
さっぱり客がつかない女郎と陰間(江戸時代の男娼。「野郎=やろう」ともいう)が、願をかけると人気が出て上客がつくという神社にお参りした。
女郎の方はそれからどしどし良い客がついて、大流行。
しかし、陰間の方はあいかわらず売れない。
そこで恨んだ陰間は、神社に出かけて、文句をいう。
「なぜ、わちきだけ売れないの」と。

すると、神社の祠の扉がぱたりと開いて、神さまが頭を掻き掻き現れた。
「すまん、すまん。なにせ背に腹は変えられんのでな」

……つまらん話でした。

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