久しぶりに本の整理をしています。 積み上げた既読・未読の本を並べ替え、パソコンのデータに書名などを打ち込んでいます。 これをやらないと、困ったことが起きる。 同じ本を何度も買う羽目になるのです。 ほぼ半年ぶりなので、思わず時間がかかってしまいました。 例によって、堆積の中に埋没してしまっていた本を再発見して、読みふけったりと、作業効率が悪いこと甚だしい。 それでも、どうにか仕上げることができました。 ところで先週はほとんど読書日記の更新はなしでした。 その間、北朝鮮からの亡命者たちのインタビューや、故・安能務氏の『韓非子』『始皇帝』などを読んでいました。 そうそう、遠藤周作氏の『切支丹の里』というのもありました。 読書日記が書けなかったのは、仕事が忙しかっただけでなく、先週読んでいた本たちが消化不良気味だったからでもあります。 なんとなく釈然としないのですね。 後味がどれもこれもひどく悪い。 理由はわかっています。 先週読んだ本の共通点はただひとつ――人間のエゴイズムというもの。 結局、どの本の根本テーマは、エゴイズムを許せるかどうかということに尽きる。 ただし、天真爛漫なエゴイズムの肯定というわけにはいかない。 北朝鮮に残した家族を結果的には見捨てた亡命者たちの顔は本の写真でみるかぎり、虚無に食い荒らされた仮面にしかみえない。 ころび切支丹を描いた遠藤周作は、彼らの苦悩をきわめて主観的に受け止めつつも、知的・感情的に理解できたと自負している遠藤自身が本音では納得できているわけではない。 その苦痛が行間から毒針のように滲み出ている。 中国人の冷酷なリアリズムを噛み砕く安能務氏はみごとな分析だけれど、どこか寒々としたものを感じないわけにはいかない。 つまりは、人に語るべき何ものをも、わたしは見出すことができなかったのです。 これはあくまでも読書日記であって、書評でもなければ、本の紹介を目的にしたものでもないので、こうなると手をつくねて、何事かがみえてくるのを待つしかないのです。 先週読んだ書物と、それをもとに考えたことについては、もう少し整理してから書くことにします。 |
『封神演義』(八木原一恵・編訳)を読みました。 今ではマンガ化されて知らない人のいない『封神演義』ですが、安能務氏の翻案が出るまでかなりの読書人でもこの中国明時代の小説については、存在すら知らなかった。 安能氏の本を読んで、仙人大戦といいたくなるファンタジー世界にたちまち引き込まれました。 たぶんアニメ界やゲーム界がほっておかないだろうと思っていたら、だれの考えも同じらしくて、いまのようになりました。 三国志と同じで、マイナーなキャラクターはきっと子どもの方が詳しいはず。 登場したとたんに殺されるキャラクターにいれこむのは、暇があって空想力豊かな子どもの特権です。 八木原さんの『封神演義』は、原書を文庫一冊に抄訳したものだそうです。 原書では文庫本十巻分くらいになるとか。 だから、この『封神演義』はあらすじと仙術合戦のダイジェストになっている。 素直な翻訳ぶりで、安能氏よりも日本くさくない乾いたストーリー展開になっています。いきなり怒り出し、どつきあいをはじめるという乾ききった人間関係が、いかにも中国人的です。 「お前が悪いんだから、おれを恨むなよ」といって弟子を殺す師匠や、「何をぬかすか、このおいぼれ」と師匠に襲いかかる弟子。 ただし、弟子は師匠の秘術にたちまち殺される。この事大主義が「長いものには巻かれろ」という明代の時代精神でしょう。 強いものにはへつらい、弱いものはあっさりと殺す。 基本原則として、復讐は倍返し。 ずる賢いやつしか生き残れない。 これぞ、チャイニーズ・フィロソフィー。 儒教で縛らないと、あちらの人間関係はえらいことになります。 あまりにも単純明快な思考と、空想力豊かな仙術大戦のおかげで、山田風太郎の忍法帖よりも面白く読めました。 雑誌連載されたポップなマンガよりも、こっちの方が昭和三十〜五十年代劇画風ですね。 横山光輝の往年の名作『伊賀の影丸』の雰囲気がたまらない。 いや、貸し本時代の水木しげる画伯の感じもある。なにせ妖怪がいっぱいですから。 しかも、こいつらが俗っぽくて、色気よりも食い気が旺盛なあたり……。 文字とおり人間をばりばり喰うのです。 とにかくよけいなことは考えず、最後まで読むほかない。 安能氏の『封神演義』では魅力的な申公豹がただの性格ワルのおバカであったり、太公望がデクノボウ以下という点が残念ですが、たぶん原作がそうなんでしょう。 『西遊記』の三蔵法師がそうであるように。 ほめているんだか、けなしているんだか分らないかもしれませんが、わたしはこういうドライな話がけっこう好きです。 実生活じゃたまりませんが、ウェットな話よりも、清潔な感じがして――。 ただし、こんなことを考えるくらいだから、わたしはそれなりにシアワセに暮らしているんでしょう。 ほんとうに暗い生活をしていると、この手の本は読めない。 乾いた人間関係を面白がれるのは、自分自身の幸福度のバロメーターかもしれませんね。 ただし、この幸福度はとっても主観的なものだから、いつウツ状態に転げ落ちるかわからない。 浮き世を捨てた仙人ですら、殺し合い(殺戒)をしなければならないという『封神演義』の世界観は、殺伐とした21世紀日本にふさわしい。 前言を翻すようですが、もっと明るい本を読んだほうがいいような気がしてきました。 |
16日は更新なしでした。 所用をかねて、京都へ行ってきました。 朝4時半に起きて、始発の電車で東京駅へ。 そして――「のぞみ」で京都へ。 だから朝が早いので、金曜日も読書日記を書く時間がとれませんでした。 今回の目的地は、石清水八幡宮。 そして、泉涌寺・東福寺。 さらに、北野天満宮。 かなりハードな歴史散歩でした。 ――石清水八幡宮は、目下執筆中の作品のための取材でして、他の二つは趣味かな。 しかし、日本史に詳しい人なら、この三つの場所の関連性が分るはず。 それは後日のお楽しみということで。(笑) 新幹線で寝てきたとはいえ、ハードに歩き回ったのでぐったりです。 今夜は早く寝ることにします。 ところで、帰りの電車で、ほほえましい情景をみました。 子どもたちがクイズを出し合っていたのですが、それが日本史クイズ。 「万葉集を作ったのは誰だ?」 「大宝律令ができたのはいつ?」 小学校5、6年生くらいの子どもたちが、わいわい言いながらやっている。 なかなか正解は出ないけれど、やっと大伴家持と答えが出た。 大宝律令のほうは、792年と自信まんまんで答えた子がいるけれど、もちろんそれは間違い。 いろいろと言い合っているうちに、さっきとは別の子が701年と正解をあてた。 こどもたちが歴史を勉強しているのをみると、ほっとします。 歴史とは何かといえば、自分のことなんです。 ちょっと前に流行った「ほんとの自分」なんて、瞑想や修行じゃあ絶対に見つかりません。自我がインフレーションを起こして、誇大妄想狂になるのがおち。 「ほんとの自分」とは、自分の親や先祖が生きてきた人生と、他でもない自分自身が生れ落ちてから今日この日まで生きてきたすべての行為と思念の積み重ねです。 地球を放浪したからといって、「ほんとの自分」がチベットの僧院に転がっているのを見つけるわけにはいかない。 その自分というものは、だから歴史という過程をへて出来上がっている。 歴史を考えることによって、自分がわかり、そこからどう生きたらいいのか未来の設計図を描くことができる。 世の中がどう変わろうと、自分自身の未来の設計図をかけないと、生きて行くのは難しい。過去のようにエスカレーター式の人生計画ができなくなっただけに、自分の道は自分で用意しないといけない。 もちろん、この場合、歴史というのは、「歴史が年号という数字の記憶だから、数字に強い人間が向いている」という予備校教師が教えるものじゃありません。 ほんとの歴史というのは、受験勉強ではなく、自由な創作といえる部分がある。言い方はヘンだけど、歴史を理解するのは、自分を理解するのと同じで、かなり個性的なものだといいたいわけです。 この子たちが、いつや網野善彦氏や故・石井進氏の本を読むようになればいいなと思いながら、日本史クイズを聞いていました。 われながら――お節介なおやじだなあ。 |
本日のお題は、『月刊しにか』三月号の「特集☆真説・陰陽道」。 この雑誌の特徴であるわずかな校数の小特集とはいえ、歴史学や民俗学の研究者と、かの小松和彦先生が執筆しているから見逃せない。 ただ岡野玲子女史とひょうたん顔の人気SF作家が大好きな人には、面白くないでしょう。 歴史学と民俗学がイメージする陰陽道は、マンガの世界とはまるで違う。 だいいち、安倍晴明の肖像だって、マンガみたいな美青年じゃない。ほんとは大黒さまか恵比寿さまそっくりなんだから。 それに源博雅と晴明じゃあ友だちになるには身分が違いすぎる。 もっとも岡野女史はそんなことは百も承知で書いているし、読み手もアホでない限りはそのくらいとっくに納得すみ。 だから、そのことをつべこべいっても仕方ない。 でも歴史学からいうと、陰陽道は暦作りがいちばん大切な仕事。妖怪バスターであるよりは、せいぜいが邪気対策の結界(バリアー)を張るくらい。 (妖怪退治をするのは、密教僧、それも山岳で修行した山伏みたいな験者のお仕事なんです)。 だから、安倍晴明も天文博士にはなっているけれど陰陽頭にはなっていない。 この時代の天文は厳密に言えば、暦作りとは違うけれど、お空を眺めて国家と天皇の吉兆を判断するという、ちょっと数学と科学の香がするお仕事です。 それだけじゃなく、安倍晴明は「大膳大夫」という役職にもついている。 これはまあ天皇家の家計をやりくりするミニ大蔵省みたいなお役所です。 天文をやって、経済をやりくりする。 共通点があるでしょう――それは算数です。 古臭くいえば、算盤ですね。もっとも、このころはソロバンじゃなく、算木という道具を使って計算していました。 ロマンをぶちこわして悪いけれど、安倍晴明という人は本質的には主計官みたいな資質の持ち主なんです。 ただ当時の人間には、算数を使いこなす人間が妖術使いにみえたのも事実。 この算木という道具を使って、妖術を使う「算」(さん)という魔法の話が今昔物語にものっている。 「月刊しにか」のは、そういう陰陽道の話ばかりなのです。 フィクションの楽しさを追求する人には興ざめですね。 でも、事実を知りたい人には面白い。 安倍晴明伝説のルーツはたしかに今昔物語に出ているけれど、それが大衆化するのは江戸時代の話。しかも、あの晴明神社が盛んになるのもそのくらい。 皮肉なことに、陰陽道が公的機関から見下され、民間においても力を失いつつあるときに晴明伝説はいよいよ輝きだした。 もともと陰陽道は国家が疫病や自然災害から自己を防衛する目的で、誕生したものです。本来的には、国家という公のものだったけれど、京都の朝廷が衰えるにつれどんどん地位が低下してしまった。そして民間に流出。以後ますますランクが落ちて行く。 ついには農村の賤民、都市の下層民・非差別民が担い手になるという哀しい技芸です。 そんなことを知っても、つまらないだけかもしれません。 ただ、陰陽道そのものは、民間宗教との習合をへて、幕末・明治期の宗教ルネサンスの源泉でもあったし、日本人のものの考えの基本にもなっている。 超能力とは呪いにはあまり意味がないけれど、日本人のイジメとか排除を考えるさいには大事なヒントをいっぱい抱えている。 そうした意味で、やはり注目すべきものだといえる。 頭を使って、自分のことを見直そうとする人は、陰陽道が気がかりになるのも当然です。 そういう本はこれからももっと出て欲しいと思います。 ところで、わたしが長いこと愛読していた「月刊しにか」は来月からリニューアルするそうです。 このところ、リニューアルして再出発した雑誌は、いい合わせたように潰れている。 「月刊しにか」がそうならないように、わたしは祈っています。 |
本日のお題は、『京都魔界案内』(小松和彦)。 小松和彦氏といえば、妖怪が好きな人ならみんな知っているその道の権威。 いま流行りの陰陽道を、現代に知らしめた先覚者でもある。 もちろん、そんなことは好きものならとっくに知っている。 妖怪好きなら、小松氏の本は大概読んでしまっているはず。 もしも、あなたが筋金入りの「妖怪もの」なら、この本はあまり面白くないでしょう、きっと。 すでに妖怪学(?)の権威・小松先生の著書で書かれていることを、脳細胞に叩き込んだ「妖怪もの」にはとっくにお馴染みのことばかり。 目新しいものは、なにもない。 ここに書いてあることぐらいは、「妖怪もの」としてはすでに初歩中の初歩です。 後書きで京極夏彦氏が「学問の厳しさ云々」と柄にもない演説をしていますが、それほどの内容じゃない。 小松妖怪学(笑)の幼児向け入門書です。 これで、小松先生の学問を語るとは――「許せん!」。(笑) しかし、筋金入りの妖怪ものであっても、この本は手元に置きたくなる。 そこが小松先生の人徳です。 「妖怪研究家」という人々には、どうも根っこにひどく俗物的なところがあって、少々鼻につくところがあります。 A氏もそうだし、K氏もそうだし、M氏もそう。覆面座談会みたいだけど、だれかは分るでしょう。(笑) 「それがあるから、人間くさくて好きだ」という人の方が多いことは確かだけれど、なんとなく無理をしているなあと思いますね。 「だめーんず」に惚れる女の子と一緒で、ほんとは幸せを求めているくせに、不幸を背負い込んでいるような……。 わたしはどっちかというと、人間くさくないほうが好きです。 本人がとっくに妖怪化しているからでしょうか。 小松先生の世界は、「呪い」とか「魔界」とかいう言葉が溢れているけれど、みょうに清々しい。 「祟り」さえも、この人をフィルターにして濾過されているような感じがある。 これは、相当な知力の持ち主にしかできない芸当です。 そして、何よりも自由で強い心の「主」(あるじ)でなければ。 ココロの世界に踏み込む人は、えてして「狂気」と「呪詛」の情念に飲み込まれやすい。流行のクリエイターさんたちには、みんなそういう精神の「汚穢」がある。 だからこそ、病んだ現代人には魅力的にみえる。 けれど、そうでない人が稀にいる。 「妖怪」とか「闇」という言葉にわたしたちが本当に求めるものは、「安らぎ」と生存競争をこえた「慈愛」なんだと教えてくれる人が。 グルメ情報や観光寺の巡回コースを提供するに過ぎない「京都なんとか案内」の類いとは、比べ物にならない「安らぎ」が、この本にはあります。 たとえてみれば、「妖怪の絵をみると、優しい気持ちになれる!」とでもいうような。 もちろん、そんなことは、巨匠水木しげる画伯のファンには常識ですけどね。 |
『ザビエルの見た日本』(ピーター・ミルワード)を読みました。 これは、あのフランシスコ・ザビエルの書簡をミルワード氏がダイジェストしたもの。 原典が読みたいところですが、岩波文庫のザビエル書簡集は品切れだから、仕方ありませんね。 そのうち復刊してくれるのを待つだけです。 ザビエルは日本人を高く評価していたけれど、知的な面では中国人の方が上だといっています。 中国布教に出かけようとしたのも、日本人が中国人の後追いをしていることを見抜いていて、中国人を改宗できたら、日本人が草木が風になびくようにキリスト教へ入信するはずだという希望的観測だったようです。 もちろん、そうならなかったのは歴史が証明している。 残念ながら、ザビエルはすこしわたしたちのご先祖をなめていたのかもしれない。 それというのも、ザビエルは大事なことに気づいていなかったからです。 書簡のなかで、ザビエルは日本人をキリスト教信仰に導くときに他のアジアの国々では遭遇しなかった困難があると書いています。 それは、自分たちの先祖や死んだ親兄弟の魂は、キリスト教に触れることがないので地獄に落ちているとザビエルに言われたときの、怒りでした。 ザビエルは、そうした魂を救うすべはないのだともいい、ますます日本人を怒りと悲しみに巻き込んだ。 なぜ日本人がキリスト教を死者の魂を救えない不完全な宗教だと怒るのか、ザビエルにはどうしても分らなかった。 たぶん、これがキリスト教があれだけ爆発的に広まっても、最終的に日本では受け入れられなかった最大の理由でしょう。 「自分さえ救われるなら、先祖のことなぞ何故気にするのだ」 ザビエルにはそう思えてならなかった。 自分が救われることを感謝するべきで、先祖なぞ知ったことではないと思っている。 これがヨーロッパ社会の個人主義の源流です。 つまり、霊魂とか精霊とか、そう呼びたければ妖怪でもいいけれど、そういうアニムズム的な「霊の世界」があることを信じない。 それどころか、物質だけではない「霊の世界」を感じ取る感性が欠如している。 もちろんザビエルも、盟友イグナチウス・ロヨラが開発した「霊操」なる瞑想方法を体得しているから、キリストの霊を実体験している。少なくとも、キリストの霊や聖書の精霊は認めている。 しかし、草木の葉にも、虫にも宿る「たましい」は認めない。 死者の魂が生きているものと交流していることを感じられない。 ルネサンス盛期の哲学者ピコ・デラ・ミランドーラはそうした「たましい」が分っていたけれど、ルネサンス・マニエリスム・バロックとヨーロッパ人の考えが進むうちに、その感性はなくなっていった。 その病理の最たるものが、デカルトの機械的動物観ですね。 生き物を肉と血でできた機械とみるというもの。 ルネサンスの最大の成果は、火薬や羅針盤の発見ではないと思います。 ギリシア語とヘブライ語を語学的に研究できるようになったことがいちばん大きい。 そんなのヘンじゃないかと思われるでしょうが、これで聖書解釈に疑問を持つことができるようになった。 カトリックが普遍であり絶対であった世界を破壊することができるようなったのです。 その結果、欲望にブレーキをかけるという東洋からカトリックが引き継いだ思想をも、捨て去ることができた。 宗教改革はルネサンスよりも重大な意味があるように思います。 あれは、コスモスという調和に満ちた宇宙観を破壊して、人間の主観に世界を委ねる。 これから病理的なエゴイズムと、環境破壊を志向する文化が誕生する。 イタリアの群小君主の陰謀癖がルネサンスを通じて各国に広まってのではない。 欲望にブレーキをかけないという発想が、宗教改革と反宗教改革を通じて、ヨーロッパ世界に浸透していったのですね。 イエズス会の総帥ロヨラも宗教戦争の参加者であり、ザビエルもロヨラとともに反宗教改革の旗手だった。 反宗教改革とは、カトリック側の巻き返しです。皮肉なことに教義は別として、やっていることは新教側とほとんど同じ。 単純化しすぎていることは承知の上で書きましたが、ギリシア・ローマ世界とルネサンス以後の西欧の最大の違いを、わたしはこんな風に考えています。 ギリシアやローマなんて、考え方の根本はヨーロッパ人よりも同時代の中近東人のほうによっぽど近い。 ローマ帝国の後継であるビザンツ帝国の人間には、ローマ教会よりもオスマン・トルコの方がわかりやすかったはず。 コスモスというのは、「風の谷のナウシカ」の世界ですね。 すべてが依存しあって共生している。 これは古代的なものの考えでもあります。 だから、キリスト教にも14世紀ルネサンス以前には、そういう考えはあった。 ザビエルはそっちの考えを異端だと思っていたんですね。 精霊と死者の魂が生きている人間と交流するという世界。これが、苛烈な生を生きるバスク人の一人であるザビエルにはどうしてもわからなかった。 20世紀にこの国に来たギリシア生まれでアイルランド育ちのハーンには、それが理解できたのですが。 ザビエルの手紙を読んで、この国の不思議さに改めて厳粛な気持ちになります。 こんなことを書いているけれど、わたしにはザビエルのいうこともわかる。 いや、そもそもわたしはザビエルが好きなんです。 あの怪しげなロヨラも。 でも、それでいて、なんだかこの人たちが戦国時代の日本人に負けているような気がする。 ザビエルを日本に導いたアンジローという日本人など、とっても敵わない―― 優しくて強くて、どこか悲しみの陰のある男―これは男として、人間として極上の部類です。 わたしは外国語の本を読んだり、外国の歴史を調べるのがすきなんですが、いつも結局思うのです。 この国の男や女ほど、魅力的な人間はいないなと。 |
『ロード・オブ・ザ・リング―『指輪物語』完全読本』(リン・カーター/荒俣宏訳)を読みました。 正確には、二十年数年ぶりに再読です。 この本はもともと『トールキンの世界』として晶文社からハードカバーで出ていました。 わたしが大学時代に読んだのは、こちらの方。 同じ訳者の荒俣さんは、序文を書き換え、内容を一部入れ替えたそうです。 ただし、中身は旧訳と同じように思いました。 『指輪物語』は、わたしが始めて読んだ本格的な洋書です。 三巻読むのに、ほぼ二年はかかった。 一巻目に一年半で、二巻は三ヶ月ちょっとで、三巻目は二〜三ヶ月くらい。 それだけかけた読んだのに、ストーリーはうろ覚え。 いまさら翻訳を読み返す気になれないので、この本でさわりを復習しました。 おかげで、記憶がかなりよみがえってきました。 だれでも知っていることだけど、『指輪物語』は剣と魔法のしょうもないロールプレイング・ゲームの源流です。 ついでに、これまた「しょうむない」ファンタジー小説の源流でもある。剣と魔法のローテク社会なのに、登場人物のキャラや行動パターンが現代人であるというあれですね。 『指輪物語』のような魂の物語、サイキックなプシュケーのドラマからどうしてしょうむないファンタジーが誕生してしまったのか、不思議だったけれど、「ココロ」を商品化する商業主義があのころから始まっていたと今ならわかります。 どうやら、カウンセリングという「ココロ」を商品化することを可能にする技法が発達していた頃と、ファンタジー小説の流行は同期していたようです。 そんなこともわからなかった愚かなわたしは、『トールキンの世界』と荒俣宏さんに導かれるまま、この本に紹介された伝説・古典・ファンタジーを読み捲くった。 もともとギリシア神話と北欧神話は好きだったから、他のジャンルに手をのばすのは簡単。てもなく幻想文学ブームに巻き込まれた。 あの頃は、自分が利口だと思い込んでいた若い衆にとって、トールキン、幻想文学はおはこでした。 しかし――あれから二十数年。 もう四十過ぎのわたしには、『指輪物語』を読み返す気力はありません。 あれが始まりであり、そこからずいぶん遠くまで旅してきたような気がします。 世界にも「サウロンの指輪」の毒よりもきつい毒が染みとおってきたようです。 冷戦は終わったけれど、世界終末の不安はますます強まっている。 『指輪物語』で終わった戦いは、いまも目の前にある。 トールキンが描いた魂のドラマは、いま現実の問題として目の前にある。 カーターの本であらすじを復習したら、主人公フロドと同じように自分も指輪を捨てる旅に出発していたことを改めて思わないわけにはいかない。 21世紀を生きる人間には、「サウロンの指輪」ほどではないけれど、自分なりの「悪の指輪」が強制的にはめられている。いや、正確にいえば、生きて行く過程で自分で見つけてはめたのですが……。 『指輪物語』の材料を推理するリン・カーターの調査を、むかしは夢中になって読んだけれど、今ではそう面白くもない。 というより、そこで紹介されている原典(翻訳だけど)を探し出して読んでいくうちに、本の知識そのものが自分の骨肉になっていたからです。 わたしの世界は、こいつで出来ていたのかと、思わず溜め息がでてしまった。 それと同時に分ったのは、自分で読み解いた『指輪物語』のサイコドラマが、わたし自身のフィロソフィーにもなっていること。 『指輪物語』を読むことに費やした歳月は、まるで密教の行のようにわたしを変えていた――そういうことだと思います。 読書なんて、ただの時間つぶし。 本を読んでばかりいても仕方ない――とは、よくいいますね。 でも、実はそうではないのです。 本をある種の読み方で読むと、魂を成長させる「行」になるそうです。 人間の精神には狂気とカオスが支配するディオニュソス的側面と、智と宇宙感覚が掌るアポロン的な側面がある。 現代にいたるまで、ココロの問題はディオニュソス的側面ばかりがクローズアップされている。 しかし、そちらの道は狂気へ通じかねない。 また最後は暴力による自他の浄化にいたってしまう。 そうならないためには、「アポロンの行」が必要だと。 これをいったのは、ルドルフ・シュタイナーという思想家ですが、わたしはなんとなくそれが正しいように思います。 これはただのカルト宗教の信仰というわけではなく、魂の成長をまじめに考えるとどうしてもそう思わざるをえない。 とにかく『指輪物語』ではじまったわたしの旅は、まだ終わっていない。 それを改めて思い出した―― 結局、書きたかったのはこのことでした。 |
また三浦綾子さんの『新約聖書入門』の続きを少しばかり。 正直に白状すると、わたしはナザレのイエスという人が好きです。 キリスト教徒ではないのですが、とにかくイエスという人に惚れこんでいる。 新約聖書の福音書を読んでいると、自分がペテロみたいなアホな弟子になったような気持ちになっている。 どういうわけか、わからないけれど。 「親分はイエス様」という映画にもなったドキュメンタリーがありますね。 書評しか読んだことがないので詳しいことは、わかりませんが、極道の人たちがクリスチャンになって更生した話らしい。 タイトルをみたとき、なんかいいなと思いました。 わたしなんぞは、「訳あって親分乾分の杯を頂戴いたしませず、渡世の儀を送らせていただいております」って、ところでしょうか。(笑) ところで、イエスの親分について、この国の偉い方たちがたくさん本を書いています。 これは――嫌いです。 「あの親分ってこんな人だったけ?」と、首を傾げたくなることがいっぱい書いてある。 この国の読書人・知識人の皆々様が大変お好きな国際的な偉い大作家さんがお書きになったご本など、「これ、親分のこと?」といいたくなる。 こんな親分なら、嫌だなあ。 ――森の石松ぐらいに、アタマがわるいので、そんな風にしか思えません。(笑) ところが、三浦綾子さんと御主人の光世さんの本は違いますね。 「やっぱり、親分はこんな人だったんだ!」と嬉しくなる。 ちなみに、1500年くらい前の外国の方にも、親分の素敵なところを書いてくれる人がいました。いや、4、500年くらい前にもいるかな。 皮肉っぽく書きましたが、三浦さんご夫妻が教えてくれるイエス様のお話は信用できる。 他の方々はダメですね。わたしには受け付けられない。 もちろん、三浦さんが小説という形で存在を教えてくれた本物のキリスト者の方々は違いますね。でも、やはり三浦さんというフィルターがなければ、それを知ることもなかった。 三浦さんにかかると、イエスという人がひどく男っぽい。 いさぎよくて、強く優しい。 他のキリスト教信者の言葉だと、クラゲとナマコの合いの子か、陰険な毒ヘビみたいな偏執狂の復讐マニア、またはハンサムな冷血動物に思えてくる。 わたしの観る目がおかしいのは重々承知していますが、まあこれが本音ですね。 だから聖書は好きだけど、日本人キリスト教信者の本なんて嫌いだったのです。 しかし三浦さんの本は違う。 なによりも、このイエスさまは人間くさくて、暖かい。 先ごろパレスチナ人の顔のデータをコンピュータで数値化して総合し、本当のナザレのイエスの顔を復元するという研究が発表されました。 その顔は現代のパレスチナ地方に住むユダヤ人(東欧系のイスラエル人ではありません!あれは――遺伝子的にはもうカナンの地にいた先祖(?)とかけはなれているのです)から復元しただけあって、北欧系の金髪碧眼ではなく、中東のおっさん風でした。 ルネサンスの名画とは全然違うけれど、わたしにはこっちの方がなんだか親しみがもてた。 真実だから――でしょうか。 どうも金髪碧眼のキリストなんて、うそ臭い。 紀元前後に、スカンジナビア人が中東にいたのでしょうか。民族大移動だって起きていないのに。(いや、これは冗談です。) 三浦さんが語るイエスの物語には、真実のもつ強さがある。 だから信じられる。 読んで元気になるイエスさまのお話なんて、三浦のほかに誰が書けるのか。 「わたしもまた願う。 <主イエスよ、きたりませ>と。」 という言葉で結ばれたこの『新約聖書入門』は、そんな気分が良い本なんです。 信仰とか、スピリチュアルなことの本にとって、気分がよいということは大事なことです。 そうじゃない本は、どんな立派な言葉が書いてあっても、読む価値がない。 いや、それどころか、読んじゃいけない。 役に立たないどころか、進行性の神経毒が入っていますから。 |
三浦綾子さんの『新約聖書入門』を読んでいます。 入門とはいうけれど、なかなかそんなもんじゃない。 深いですよ。これは。 冒頭にあるイエスの系図の話。 新約聖書をはじめて読む人が、必ず閉口するのがマタイ伝の最初。 あの「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」というあれです。 はじめて神と契約した人・アブラハムから延々と続き、ユダヤの王ダビデとその子ソロモンを経て、マリヤの夫ヨセフまで続く系図です。 一見したところ、聖祖アブラハムや、大王ダビデ、賢者ソロモン王までいる豪華絢爛な系図です。 しかし、三浦さんによると、この系図にはとんでもない仕掛けがある。 息子の嫁と義父のあいだに出来た子どもや、娼婦の子ども、異教徒の女の子どもが紛れ込んでいる。というより、旧約聖書を読めば、それがちゃんとわかるようになっている。 (この系図は、旧約聖書の有名人ばかりを意図的に集めているんじゃないか――という疑いが浮かんできて仕方ない。) しかも、きわめつけはソロモン王。ご存知でしょうが、ソロモンはダビデ王が忠実な部下ウリヤを殺して奪ったその妻に産ませた娘。不倫と裏切りと殺人の産物。 そういわれてみれば、そうだった。 この系図には、栄光と同時に悪徳が紛れ込んでいる。それと同時にユダヤ人に差別された遊女や異教徒も。 正直なところ、そう思って系図を見たことはありませんでした。 このへんが信者ではない人間の限界でしょう。 三浦さんは、この系図が汚辱にまみれた罪深い人間の世の現れであるという。 なるほど、そうなんでしょうね。 罪にうちひしがれた世に、光であるキリストが降臨した――。 そのキリストは、しかしこの系図の最後の人ヨセフの子ではない。 処女マリアが精霊によって孕んで生んだ子とマタイ伝にはある。 あれっ。 そうなると、この系図は、イエスとまるで関係がなくなる。 いったい、これはどういうことなんだろう。 三浦さんも、これには頭をひねっています。 卵子にショックを与えれば、精子がなくても細胞分裂を始めるという新聞記事をもちだしてきたりしている。 これを奇跡として受け入れて、とにかく先へ進もうとして、三浦さんはいきなり山上の垂訓の方へ話を振っている。 処女懐胎とマタイ伝の系図を受け入れることが、キリスト教徒になる大きな試練ということらしい。 ただ、ここでつまづいても仕方がないような気もするのです。 わたしが思うに、キリストを信じるかどうかはマリアが処女生殖したかどうかという問題ではなく、復活があったかどうかということではないかと思います。 復活を信じるかどうか。そこがキリストとともに生きるかどうかの境目です。 精霊による懐胎というのは、復活を理由づける伏線だったのかもしれません。 ただの人間が復活するのは、信じられないけれど、もともと精霊だったなら、そんなこともできるのではないか。 古代人なりの合理化ではないかと思うのです。 ただ、ここにキリスト教が現代において力を持ち得ない理由もあるような気がします。 ムハンマドがただの人間から生まれて、娘を作って死んだということがわかっても、イスラムは信者を増やしている。 別にイエスが処女懐胎したという神話があるからこそ、距離が遠くなっている――と非キリスト教徒しては思わざるをえません。 人から生まれたイエスが復活したということになっていたら、キリスト教は西洋世界には広まらなかったでしょう。 ただし、アジアには案外受け入れやすかったんじゃないでしょうか。 いや、そんなことは歴史がとっくに証明している。 キリストが人間であるというモナルキア派や、キリストは神の被造物だったとするアリウス派などの異端は、アジアで勢力をもった。 ローマ・カトリックや、反抗したとはいえその系統につらなるプロテスタントは、キリストが神と同一素材であるとする正統派アタナシウス派の教義にしたがっている。 つまり、アジア人に理解しやすいキリスト=人間説は、中世・近世ヨーロッパでは火あぶり間違いなしの異端なのです。 スピリチュアルな精神世界に親和性をもつ現代人にとって、伝統的なキリスト教がなじみにくいのは、その古代的な合理化のせいです。 むしろ異端とされたキリスト教諸派のほうが分り易い。 ただの人の子イエスがキリストとして復活した! わたしは、こちらの方がかえって信じられるように思います。 話がとびすぎましたが、わたしの云いたいことはただひとつ。 キリストの系図は、やはり三浦さんのいうとおり、人間の世の救われなさの象徴であると読むべきだということ。 そして、処女懐胎も人間のほんとうの魂の無垢の象徴と理解すべきだということなのです。 地球が球体であることを認めない原理主義者のように字義とおりに読んだのでは、聖書はなんにもならない。 魂の秘密を解き明かす書物として読むべき本であり、そうして読めば別に教会で洗礼をうけたことなどない人間にとっても偉大な知恵に満ちている。 ――たぶん三浦さんの本意ではないでしょうが、わたしはそうやって、聖書とつきあっています。 これからも、そうやって付き合ってゆくつもりです。 |
本日はざっと軽く。 というのも、まだ本を読みはじめたばかりで読み終わっていないから。 本を読むスピードだけは速いのだが、時としてどうしても遅く読みたい本に出会う。 「走るように読んではいけない」 という直感がはたらくからだ。 いま読んでいる本がそうだ。 『新約聖書入門』(三浦綾子)が、その本である。 三浦さんの『旧約聖書入門』のほうはすらすら読めた。 そっちのほうは、わたし自身が古代オリエント史・古代オリエント宗教史とからめて勝手に勉強してきたジャンルでもあるので、失礼ながら知識的としてはあまり感銘をうけなかった。 不遜な言い方をさらに続ければ、三浦さんの意見にはまるで違和感がなかったので、抵抗なく読めたわけである。 ただし、何度も書いてきたけれど、わたしはクリスチャンではない。 おそらく普通のキリスト教信者の方と同じ回数ほどは聖書は読んだと思うが、それでも受洗などは考えたこともない。 それでいて、三浦さんのいっていることにはほとんど諸手をあげて賛成だから、逆説的なようだが、わたしは生涯キリスト教徒にはならないと思う。 ところで、三浦さんの『新約聖書入門』の方はすごい。 聖書を読み始めた人間が最初にこけるイエス・キリストの系図について、じつに深いことをいっている。 なるほど、そうかと目からウロコが落ちました。 それについては、また今度書くことにします。 |
マンガ版『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)と、『プラトーノフ作品集』(岩波文庫)の一見、奇妙でありながら、どこか通低している世界にひたっていました。 これについては、「雑談日記:白昼の虹」でちょっと書きました。 あれから、まだ考えが進んでいないので、これについて本日書くのはやめておきます。 考えれば考えるほど、ここからいろんなことが見えてくる。 もう少し整理してから、書こうと思います。 さて、本日はマンガで『銀河鉄道の夜』を読みました。 もちろん原作は宮沢賢治。 マンガ化したのは、ネコのキャラクターが売りの「ますむろひろし」。 かつて「ますむら」キャラで、りんたろう監督の「銀河鉄道の夜」というアニメがありましたね。 これは、あれの原作みたいなものです。いや正確にいうと、キャラクターがネコである以外は、賢治の作品を忠実にマンガ化・アニメ化しているわけだから、そうともいえない。ごちゃごちゃしてきたのですが、とにかくアニメの元はこちらということ。 ところで賢治ファンには常識ですが、『銀河鉄道の夜』にはいろんなバージョンがある。賢治が死ぬまで推敲をやめなかったせいです。 しかし、いちおう世間ではアニメが採用したように第四次原稿を最終形態している。 ますむらの他にも、児童書としてリライトする場合でも最終形態、つまり第四次原稿を使います。 ところが、今回読んだ「ますむら版」では第四次原稿バージョンのほかに、第三次原稿バージョンまでマンガ化してある。 これは画期的なことだと思います。 なぜなら、作品としては混乱している第三次原稿のほうが、思想性・宗教性においても、リアリティとファンタジーの豊穣さにおいても、いわゆる最終形態よりも優っているからです。 だから、これを映像化するのは相当困難だったはず。 ますむらは、これをみごとにやり遂げました。 じっさい、読んでみると、マンガでは第三次原稿バージョンの方が長くて、密度が濃い。これに比べると、第四次バージョンはとおり一遍の、上っ面を撫でたような感じがしないでもない。 最大の違いは、ネコ少年ジョヴァンニの顔でしょうね。 この顔には見覚えがある。 不安でたまらない子どもの顔。寂しい子どもの顔。 だれもが、夢の中でまざまざとみる自分自身の心の顔なのです。 おそらく、どんな人の心の底にも、こんな寂しく優しいネコ少年ジョヴァンニがいる。 だからこそ、ひとは前世紀の初めに死んだ青年の魂といまでも共感できるんでしょうね。 |
花粉症がひどくなったので耳鼻科に行きました。 雑談日記で書いたように、待合室で三時間もいたおかげで、かえって悪くなってしまった。 しかし、おかげで本だけはしっかり読めました。 そのとき読んだのが、『ローザ・ルクセンブルク 獄中からの手紙』(岩波文庫)。 マルクス主義経済学者で、ドイツ共産党の女性闘士だったローザ・ルクセンブルクなんて、もう知っている人はほとんどいないでしょう。 わたしが大学生だった20年前でもすでに地質学時代といって云いくらいの感じだった。 三島の自決や、あさま山荘事件をTVを通してリアルタイムで体験してしまったわたしらの世代には、マルクス主義だの、革命だの、とてもじゃないが付き合いきれなかった。 上の世代は「シラケの世代」と呼んだけれど、本当は何も信じない・信じたくないやつばかりだった。 だから、あんまり出世も金儲けも熱心じゃなくて、同期はさっぱり出世しませんね。 お金も地位も社会も、ついでに人間も……つまりは、なんにも信じていないので、入れ込めないんでしょうね。 いつかは、すべてぽしゃる。 太平洋戦争の戦中〜戦後世代に育てられているので、その無常観に染まっているし、物心ついた頃には高度経済成長は一段落して、オイルショック。 「いつまであると思うな親とカネ」という無常観が骨身にしみている。 だからってわけじゃないんでしょうが、ニッポンジンのなかでは稀に見る優しい世代ではないかとも思います。 熱く熱く燃えた革命世代の偶像(アイドル)、ローザ女史を考えると、ついわが身をふりかえって世代論に走ってしまう。 だから、わしらの世代はなめられるんだよなあ。(苦笑) そんな冷めているくせに、なぜローザ女史の本なんか読んだのだろう。 意外なことに、『獄中からの手紙』には革命の闘士の面影はまるでないんです。 むしろ鳥や昆虫や花や木々についての、こまやかな愛情ある目をそそぐ「自然愛好家」が、親しい女友達に送った手紙といったほうがいい。 ローザ・ルクセンブルクという名前を知らなかったら、どこかの心優しい女性ナチュラリストかと思ってしまう。 じつをいえば、彼女がいう自然とは刑務所の運動用の庭でしかないのです。 塀のなかの住人として、第一次世界大戦中を過ごしたローザ女史が、運動として許されたわずかな散歩のあいまに見た「世界」が、昆虫と草木だけだった。 遠くにみえる鳥の影。獄窓から聞こえるナイチンゲールの鳴き声。 道に転がっているコガネムシ。 散歩道に突き出た木の枝。 それが彼女に許された外界のすべてでした。 そして人間は――ローザ女史には悲しすぎた。 なにせ彼女は思想犯だけど、他の女囚は窃盗犯たちがほとんど。 古典絵画のようなほれぼれするような若くて美しい女囚がいても、ひとたび口を開けば、ローザ女史には耐え難い。 下卑たものの考えという穏やかな表現ではありますが、ローザは苦々しさを吐き出さずにはいられない。 でも、彼女にはわかっている。なにが女たちをそうしてしまったかを。 そのことに対する義憤が、どこか行間に漂っています。 雌ライオンのようなこの女闘士には、どこかロマンチックなところがある。 ローザ女史は第一次大戦が終わった翌年に、反動政府の一員になったかつての同志たちの部下に襲われて虐殺されました。 彼女が身を投じた政治闘争の世界は、昆虫や草木に心を通わせるような精神性をもつ人が生きてはいけない場所だった。 それは――本質的には現代も変わっていないのでしょうね。 哀しいことですが……。 |
© 工藤龍大