本日は本の整理。 ついでに、土曜日に買った本を再読しました。 これは、岩波書店の日本思想体系8『古代政治社会思想』です。 「将門記」「陸奥話記」をはじめ、藤原明衡の「新猿楽記」、大江匡房の「遊女記」「傀儡子記」「狐媚記」まで入っているというスグレモノです。 以前読んだこれらを再読し、新たに三善清行の「藤原保則伝」と延慶法師の「武智麻呂伝」を読みました。 藤原保則は歴史的には有名ではありませんが、菅原道真と同時代人の有能な国司です。「良三千石」と呼ばれた優秀な行政官でした。 この時代、国司が苛斂誅求につとめた結果、律令政治は破綻し、各地で反乱が起きた。 藤原保則はそうした地域に赴任しては民政を改め、反乱を平定してきた人です。 だれもとりあげる作家がいないので、損をしているけれど、「男の魅力」が横溢した英雄です。 ところで、「武智麻呂伝」の主人公は、この藤原保則の先祖で、藤原南家の祖・藤原武智麻呂です。 藤原不比等の長子であり、歴史的には皇族政治を排除して、藤原氏専制への道を開いたのでありますが、その果実は弟の房前の藤原北家が手に入れます。 もっとも、北家の優勢が確定するのは平安時代になって冬嗣・良房・基経の親子三代の頃だから、それまでは他の藤原氏にもわずかながら政権奪取の目はあった。 奈良時代には南家の方がはぶりが良かったのだから、簡単に諦めるわけにはいかない。 冬嗣らの時代に、北家と競り合おうとした藤原南家の人々には、参議・菅根と大納言・元方の親子がいます。 もう勝負がついた院政時代にも、藤原信西が現れて、巻き返しを図った例もあります。 ただし、ほとんどの藤原南家の人々は国司階級となって、武士化します。 名古屋にある熱田神宮の大宮司は、神職でありながら武士化して武士団を形成します。じつは、これが藤原南家で、その娘が源頼朝の母なのです。 先の大納言・元方の孫娘も、頼朝の先祖の源満仲の正室となるから、母系で頼朝たちは藤原南家と関係があるといえます。 藤原南家というぱっとしない家柄をもちあげるのには、ちょっと訳があります。(笑) 武智麻呂の息子・参議乙麿、その子・小納言是公の系譜をたどってゆくと、「狩野」「二階堂」という姓が分かれてくる。さらにここから工藤、伊東、曽我なんて姓が出てくる。 もうばればれですね。(苦笑) DNA的にはなんの意味もありませんが、狩野、二階堂、工藤、伊東、曽我という姓は武智麻呂を祖とする藤原南家の末裔なのです。 「工藤」氏は、鎌倉幕府創成期の勢力争いに敗れて、御家人ではなく「得宗被官」という北条家の家来になりさがって、東北地方に広まったのです。 そのせいか、あまりぱっとした人はいませんね、歴史的に工藤さんは。 なにせ、曽我兄弟に殺された人がいちばん有名なくらいだから。 しかし、「武智麻呂伝」を読むと、あまりあこぎな真似をしない長者の風格があるので、工藤さんががっついて偉くなれないのも当たり前かなという気がします。 もちろん全国の工藤さんのなかには、押しの強い性格の人もいるはずですが。(笑) あてにならないご先祖に思いをいたしながら、全国の工藤さんの性格について想像した一日でした。 |
その日は家人がお友だちたちと会いにいったので、自堕落な独身生活に逆戻り。 アイガモのバター炒めで、白ワインを一本あけたあとは、ワイルドターキーのオンザロックをがぶ飲みしつつTVをつける。 読書家の面影はありません。 TVをつけると、偶然韓国映画の「シュリ」をやっていた。 酒が入っていたので、映画なんてかったるい。 茶目っ気を出して、二ヶ国語放送の副音声の方だけで観ていました。 もちろん、さっぱりわからない。 しかも途中で、雑誌などを眺めているから、ますますわからない。 ただ韓国語の響きが日本語と似ているなあと、ぼんやり考えながら観ていました。 酒が入っているのと、観る気がしないせいか、話がさっぱりみえてこない。 そもそも「シュリ」がどんな話なのか、すっかり忘れていた。 そのうち撃ちあいが始まったので、やっとスパイスリラーだと気づいたくらいです。 見当がつくと、主音声に切り換えて日本語吹き替えにしたくなります。 ただ、そうしてしまうともったいないような気もしてきました。 韓国語の「言霊」が日本語にしてしまうと蒸発してしまうのではないか。 さっぱり分らない言語で映画を見るなんて、とてつもなく貴重な体験をしているように思えてならない。 たしかにビデオ屋にいけば、いつでも借りられるけれど、それには字幕がついている。しかも、忙しい毎日だから、いつまたビデオを観る時間が作れるかわかったもんじゃない。 時間を大切にしたいと思うからこそ、かえってこのまま意味不明の韓国語で観つづけようと考えたのです。 散漫に観ていたシーンがやっと意味をもったつながりになってきたころには、もう山場ですね。 狙撃銃をかまえた主演女優が、主人公らしい男と銃口を向け対峙している。 男はどうやら韓国の公安部員らしい。女の周囲は、韓国保安部隊の自動小銃に取り囲まれている。 この緊迫した場面で、女優の表情がすごく美しいものに見えました。 いままでさほど綺麗とも、魅力的ともみえなかった女優がいきなり輝いてきました。 眼をみているだけで、なにもわからないのに、涙が出てきました。 どうしようもなく泣けてきたのです。 この後、主演女優がどんな行動をとるかは、書かないでおきます。 ろくに画面もみていない。 オンザロックのお代わりを作るために、CM中でもないのにキッチンにいったりとでたらめの限りをつくしていたのに、なぜ涙が出たのか。 ラスト・シーンだけは日本語吹き替えにしてみましたが、この部分は蛇足でした。 説明的すぎるようです。 銃を構えて、画面から観客を凝視する女優の表情が、すべてを語り尽くしていたのです。 「愛の深さ」と「愛の重さ」。 このシーンには、女優の科白はありません。 言葉を使わずに、女優は「愛」そのものをぶつけてきた。 女とは、これほど美しいものだったかと、心臓を貫かれたような気がしました。 ものすごいものを観たと思います。 吹き替えや字幕がなかったおかげで、かえって「本物」に出会えた。 なんとも贅沢で、豊穣な時間の使い方をしたものだと、たまらなく嬉しい。 さらに意外なことに、綺麗にも魅力的にも思えなかった主演女優の顔がいまも目に焼き付いている。 女という美しい生き物を見た! しばらく、この感動は続きそうです。 |
前日の疲れで脳細胞が死にました。 朝から、『吾妻鏡』を読むだけ。もう他の本を読む気力もない。 ところが、わたしは物好きなんですね。 急行で駅一つ離れた石神井公園で「照姫祭り」というのがあると、一月前から駅のポスターにかいてあった。 その当日、この27日。 午後になって、気力を振り絞って出かけました。 しかし――石神井公園についてみると、広場や野外劇場にあった仮設テントが次々と撤去中。来る途中のポスターで気づいていたのですが、どうやら祭りは3時半までだったらしい。 「照姫祭り」の実体は、照姫ご一行の時代装束パレードでした。 石神井公園には、石神井城址という遺跡があり、豊嶋氏という豪族がいた。東京都豊島区の名前はこの豪族の名前に由来します。 ここが太田道灌に攻められて落城。そのとき、照姫というお姫様が入水自殺したという伝説があります。そのお姫様をヒロインにして、15年前くらいからイベントをしていたとか。 祭りはみられなかったけれど、石神井公園の奥にある三宝寺池まで散歩しました。 弁天堂がみえるあたりで、ベンチに座って静かな水面を眺めながら、ほっこりしていました。 このところ忙しかったなあなんて思いながら、きれいな新緑で眼を和ませる。最近、眼が疲れて仕方ない。 ミズキの枝がひな壇のように張り出して、鮮やかな新緑の上に白い花を横一列に並べている。花というのは、神経をなごめてくれます。 もう少しすると、エゴノキが白い花を鈴なりに咲かせるはず。 そのときに、また来てみたいなと、ぼんやり考えていました。 その目の前を人が走る。 三宝寺池の廻りは、木の桟道で囲んであります。そこをウォークマンをつけた外人の若くもない女性が走っていたりします。 横幅のあるお尻と、逞しい太腿のお肉がぶるぶる震えながら、目の前を過ぎて行く。 この人はどうやらこの池の周りをぐるぐる走り回っているらしい。 何分いたのかわからないけれど、二回くらい目の前をとおりました。 かなりのハイペースなんですね。 腰をあげて、駅まで向かうあいだに二、三回くらいすれ違いました。すごい勢いで池の周りを走り回っているようです。もう命がけという感じ。この女の人が走る姿をみていると、彼我の生命力の差に圧倒されます。 国際結婚するのに必要なのは、英語力ではなく、体力だとつくづく思ったのでした。 家に帰ってから、アイガモの肉を焼いて、イタリアの白ワインを飲みました。 途中の古本屋で買った本をめくりながら、なにげなくTVをつけてみたら―― 長くなったので、次の日記にします。 |
休日出勤で、普段より30分遅れて出社するも、帰宅は12時近く。 くたびれたので、ワイルドターキーを三杯飲んで寝てしまいました。 こみいった仕事だったのですが、息抜きに『中国全省を読む地図』(莫 邦富)を眺め読みしました。 台湾・マカオまで含めて、中国全土の現在・過去をざっと概説してあります。 おかげで、春秋戦国から三国志はもちろん、魏晋南北朝、隋唐、北宋南宋、元、明清、民国・中共、現代台湾までの歴史地図がやっと有機的につながりました。 中国というと、それぞれの時代の名所はなんとなくわかっているのですが、時代が異なると分らなくなる。時代ごとに輪切りにした共時的な地図はイメージとして入っていても、時系列的になるとアウトなんです。 西洋史であれば、ギリシア・ローマ時代の有名な都市がみんな廃墟になっているようなイメージがありますね。 アテネはもちろんスパルタも今も同じ場所に存在している。 こっちがよく知らないだけの話です。 こういうのを理解して行くのは、ちょっとジグソーパズルに似ています。 −−しかし、仕事のあいまにパズルをしてるのでは草臥れるのは当たり前かな? |
先週からの忙しさは、シリアル・キラーなみでした。 意味がわからないかもしれないけれど、しつこさと緊張感と次々と襲いかかる恐怖――という感じでした。 通勤途中でも、資料を整理したりしていたので、電車読書もできなかった。 AFNだけが楽しみという極限状態(!)でした。 20日の土曜日は、朝から寝たきりのつもりだったけれど、そうもいかない。 じつは、先々週に思い切って『全訳吾妻鏡』(全五巻+別巻)を注文しました。 それが19日に入荷したので、書店から引き取ってきました。 自宅に運んでもらえば良さそうなものだけど、そんな気にはなれなかったのです。 というのも、この画期的な本が(どれほど値打ちがあるかは、専門家が実証済み!)二巻ほど版元品切れの状態になっていることが、インターネット検索で判明したからです。 手に入るかどうか気が気がじゃない。 ネット検索しても、この全セットを売っている古書店は一店舗しかみつからなかった。 そこで、三万円なりをはたいて購入することにしました。 案の定、問題の二巻がなかなか入荷しない。 入荷案内のEメールが届くまで、スリリングな一週間でした。 おかげで、土曜日は一日じゅう愛撫するように、全6巻の「吾妻鏡」を読んでいました。 ついでに、夕食に中華味の「とり鍋」を堪能。 お酒は、青梅の地酒・澤乃井の「大辛口」。 これは、あまり知られていないけれど、極上のお酒です。 辛口党にはこたえられない。 独特のタレをつかう「とり鍋」をむさぼりながら、「大辛口」をぐびぐび。 じつに幸せな一日でした。 あんまりハッピーだったので、読書日記どころじゃない。 ――というのは冗談で、へたばっていたから、キーボードに向かう気になれなかったのです。 メールマガジンに載せた『論語を読む』をホームページにして、目次を作りかけていたのですが、根気が続かないのでやめました。 やっと、本日完成しました。 今日は、どういうわけかNHKで感動的な番組をみてしまいました。 「アジア人間街道」という番組では、いまも生きる象形文字トンパ文字の伝統を守ろうとする中国雲南省の青年が登場。 少数民族ナシ族の伝統を伝えるために、孤独な戦いを続ける青年の姿に涙がでました。 こんなところに、男がいたとは! ケンシロウの科白じゃないけれど。 もうひとつは、「アジア古都物語」のネパール、カトマンズの物語。 女神の寺院を守り続けるマハルジャン一族の若き当主ラメシュさん(33歳)にもじんときました。 女神に仕える一族だけど、この人も「おとこ」でした! 「いまやらねばいつできる。 わしがやらねばたれがやる」 これは、彫刻家・平櫛田中(ひらくし でんちゅう:一八七二〜一九七九)の言葉です。 男というものは、英雄豪傑やビリオネアではなくて、こういう生き方をする人をいう。 しかし、ナシ族の青年も、ラメシュさんもそれだけじゃない。 電脳世界とは縁もゆかりもない世界のど田舎で、野良仕事と神さまごとをしながら、この地球に住むすべての人の幸せを願っている。 21世紀の男は、自分の欲望をみたすことしか考えない「共食いサル」であってはならないのだと、この二人の青年に教えてもらったような気がします。 |
昨日(13日)は久しぶりにメールマガジンに載せる『論語を読む』を書いていたら、一日が終わってしまいました。 これは本日(14日)に発行する予定です。 かなり長文になると思いますが、どうぞお楽しみに。 もともとメールマガジンは、最初はホームページ更新告知だけを目的にしたものでした。ところが、欲を出して連載エッセイを書き始めてから、更新ペースが週刊から月刊、いまでは二ヶ月おきになりました。 理由は、仕込みと醗酵期間が長くなったのと、執筆時間がとれないため。 これからも、なんとか発行は続けるつもりです。 せめて、月刊に戻したい――というのが、今の希望です。 さて一週間あいだをおきましたが、『史記の風景』(宮城谷昌光)について書きます。 『論語』のエッセイといい、中国ばかりですね。 この読書日記は、「日本人とはなにか」「日本人はこれからどう生きてゆけば良いのか」という司馬遼太郎さんのテーマに共感しているせいで、日本史関係の本を取り上げることが多い。 ただ日本の歴史を調べて行くと、宮城谷さんや海音寺潮五郎さんなどの偉大な歴史作家が指摘されているように、中国の歴史に通じていないと、日本史はわからないというのが実感です。 史上に名をとどめる日本人は、たいてい中国の歴史・文学に馴染んでいる。 無筆とされる戦国乱世の戦国武将ですら、現代の平均的日本人よりはずっと中国の歴史を知っている。 加藤清正が大名たちを集めて、論語の勉強会をやっていたのは有名な話です。 読書好き・勉強好きな徳川家康は、別格の存在だとしても、守護大名の系統を引く武田・大内なども中国古典には詳しい。 日本の権力者たちは、中国古典を人間学・戦略学・経営学・政治学のテキストとして使ってきました。戦後の昭和においても、自民党の首相たちは、漢文など読めないにもかかわらず、戦前の革新派官僚・統制派軍人たち(太平洋戦争の戦犯たち)のブレーンだった漢学者に教えを乞うのが常だった。(このケースは、漢学者が自己演出した「総裁レースの黒幕」という神話のせいでもあります)。 政治の世界だけでなく、ポストの出処進退を含めて、中国の歴史は歴史時代の日本人のバックボーンでした。 三河出身の宮城谷さんによれば、信長についても同じことがいえるらしい。 例えば、若き信長の「うつけ」ぶり。 これは信長の創造的天才をあらわす最高の舞台衣装として、歴史関係の創作物(ドラマ、マンガも含めて)には欠かすことができない。 しかし、「信長は中国古典の知恵にならったのではないか」 と宮城谷さんは考えています。 『史記』の一編に、斉という当時の大国の国王が、九年間政治をほったらかしにして、「うつけ」を決め込んだという記事があるそうです。 そして、重臣たちに賄賂を贈った佞臣と職務に忠実な家臣を調べ上げ、あるとき佞臣と収賄した重臣を処刑し、忠臣を昇進させた。 信長関係の基礎資料として有名な太田牛一(ぎゅういち)の『信長公記』には、信長が十七、八歳までは不良少年じみたところのない大人しい少年だったと書いてあるそうです。 ご承知のように、信長はこの頃に父親をなくして家督を継いでいる。 つまり、少年の身で織田家当主となったときから、信長の奇行は始まっている。 太田牛一は、もとは柴田勝家の足軽でした。 信長の若い頃、柴田勝家は信長の弟をかついで敵対していた。勝家は信長の清洲城も攻めている。太田牛一はその合戦に出陣している。 信長の評判はよく知っていただろうから、この記述はまちがいない。 聡明な信長は、中国の故事から君主学を習得したらしい。 よく考えてみると、信長の経済政策は楽市楽座という当時の経済発展に沿ったものを除けば、度量衡の統一や税収調査など「統一国家建設」という原理原則にかなったものが多い。 日本史では、こういう国づくりを個人が計画立案した例はありません。 あえていえば、中国の国家体制を丸ごとコピーしようとした奈良の律令国家が近い。しかし、あれは唐の国体を真似るという周辺の発展途上国の流行でした。 個人の功績に還元するのは無理でしょう。 信長は、単独の君主が国家体制を立案するという日本史上空前の事業をやろうとした。 これはゼロから宇宙を作り出す「創造」という、超越者にしかできないやり方では不可能です。 やはり、データを集め、その上で自由な発想をするほかはない。データなしに時代を切り開く発想などできるわけがない。 宮城谷さんの考えを勝手に代弁すれば、信長は当時の現実的なデータの収集に熱心であったのはもちろん、経済や国家の原理・原則は何かという普遍的な問題についてもしつこく研究していた。 信長という人がこの国において異常であるとすれば、現象の背後に貫徹する「普遍」を探り当てようとする執念の強さです。 この「普遍」は机上の空論ではなく、人間という生き物の本質に根ざしている。国家という「法人格」は、生物学的な人間ではなく、文化人類学的な人間を細胞とする「生き物」です。信長の事蹟が現代にも通じる普遍性を持つのは、「社会」という生き物の真実を土台にしているからに他ならない。 情報至上主義のデータ分析者・信長は、「国家」「社会」という生き物を動かす原則を探すデータとして、中国の古典を活用したに違いない。 日本人離れした信長の冷酷さも、中国の史書から学んだ支配技術(安能務さんのいう官僚制御術=方術)と考えれば納得できる。 宮城谷さんは『史記』は人知の宝庫だと書いていますが、日本史に興味を持つ人間にはこの言葉は聞き捨てできない。 歴史上の人間の行為に、どれほど『史記』の故事にならったものがあるか。 また史料に残る何気ない一文に、『史記』をふまえた深い含意がどれほどあるか。 それを考えると、『史記』を読むことは、昔の日本人を知ることでもあると考えざるをえません。 『史記の風景』についは、もう少し続けます。 |
『八股と馬虎』(安能務)をやっと読み終わりました。 雑談日記でも書いたけれど、難しいタイトルです。 「八股」と書いて「ぱくー」。 「馬虎」とかいて「まーふー」。 本屋でこの本を引き取るときに、タイトルをうっかり忘れて思い出せなかったのは本当です。 いや、かりに言ったところで「パクーとマフー」という本をくださいといわれて、漢字だらけのこの講談社文庫を店員さんが探し当てたかどうか。 「八なんとかと馬なんとか」の方が、まだ理解しやすいはず。 実際、わたしはそう言ったのです。 タイトルだけでなく、中身もじつに難しかった。 西洋哲学は高校生の頃から読んでいるので、カントでもヘーゲルでも読んでいて苦痛を覚えたことはないのですが、この本にはひどく疲れた。 なぜか頭がきりきりと痛む。 眼が剥がれ落ちそうなくらい、読むのがつらかった。 やっと読み終えたので、本を置いて、しばらくそのつらさを考えてみました。 理由は読んでいるうちにぼんやりと分っていました。 それは、安能氏の語る中国人の精神世界と社会世界には「ひとは高速道路の真中を歩かない」「自動車は歩道を走らない」「家の廊下をバイクで走り回らない」「電車の座席で脱糞しない」という当たり前以前の常識が通用しないからなのです。 こんな馬鹿な例を安能氏が書いているわけではありません。 しかし、安能氏が分析する中華世界には、公衆道徳とひとくくりにできる「倫理」のある部分が欠損している。 社会性がないというわけではありません。 上にあげたことを全部やっても、立派に社会生活は送れるのです。ただし、街の顔役に礼儀にのっとって金をつかませれば――の話ですが。 中国社会とは本質的にそういう混沌の上に成り立っている。 そういう社会で、三千年も生きてきたのが、中国人。 そこをすばりと書いているのが、すさまじい。 というより、こういう公衆道徳や公徳心という概念で自分を縛っている人間は圧殺されて、「公」というフィクションを捨てた人間だけがのしあがる。 それが中国という世界らしい。 そもそも「私」と「公」という漢字の出来かたが公私の根本的な対立をあらわしているそうです。 「私」は、もとは「ム」という形で、これは自分の財産を囲い込む○印が変化したもの。 逆に、「公」は私有財産である「ム」を切り取り、おさえつけるために「ハ」の字形がかぶせられている。 「公」とは、<わたし>に対する災難そのものだったというわけです。 ただ翻って考えれば、「公」がないことには社会は営めない。 そこで、「公」の世界を曲がりなりにも維持しようとすると、中国人はごりごりの正論主義者となる。この例が儒教の形式主義。 とはいえ、もともといちばん大切なのは、「ム=<わたし>」なので、わたし至上主義者としては、融通無碍の発想と交渉力を誇る老荘思想の持ち主となる。 儒教的正論主義が日本との外交交渉で顕著な「怒りの仮面」だとすれば、老荘思想は収賄の手口に辣腕をはっきする貪欲で妖怪じみた「軟体動物」です。 安能氏の描く中国人の傑物とは、鋼鉄のヨロイをまとったタコやイカのような軟体動物。しかも、ウツボなみの鋭い牙もある。 その磨きがかった知性はひたすら欲望にのみ使用され、獲物と仲間を食い殺して、おのれが成長することにしか興味がない。 どうも、人間というより、ギーガーの「エイリアン」そっくりな感じです。 そんな怪物たちの世界でも、それなりの理想がある。 だからこそ、かえって暗黒小説じみた救われない世界です。 現実には、こんなのばかりじゃないから、もっと倫理的な世界を求める中国人もいます。日本人よりも真面目なクリスチャンもいる。 ただ、全体的な傾向としては、安能氏の分析に頷かざるをえない。 これは中国人が自己分析する中国人にですね。 こんな世界に(他の本を含めて)三週間もつきあってきたのか。 これを書いているうちに、ひどくへこたれてきました。 でも、これがわたしたちの隣人の世界観であることは間違いない。 ひとくちにアジアというけれど、すぐ隣の中国ともこんなに違いがある。 世界とは面白いものだと思いました。 |
昨日の日記で、宮城谷昌光さんの『春秋の色』について書いたので、本来なら『史記の風景』を書くところですが、また長くなりそうなので、これは後日書くことにします。 ところで、作家の自伝に興味をもったわけではありませんが、『文壇放浪』(水上勉)という本を読みました。 これについては、何も書くことはありません。 下積み時代の水上の思いも、作家になってからの切所(せっしょ)もまるで読み取れないからです。 「文壇」という水上にとってのステータスでの楽しい思い出話というべきでしょう。 下積み時代も、自分を可愛がってくれた「文壇」のスターたちの思い出話になっている。いったい、だれがこれを楽しく読めるのでしょうか。 七十八歳の水上勉を責めるのは、酷かもしれません。 この人の最良の部分は、過去の作品にある。それを評価するべきでしょう。 空振りしたところで、もう一冊読んだ本について書きます。 『始皇帝』(安能務)です。 『韓非子』という安能氏の著者を読んでから、この読書日記の更新がストップしてしまいました。 理由は仕事の忙しさばかりではなく、書くよりも考える方に時間を取られたからです。 語るべきものがないと以前書いたのは、安能氏の著作が無内容だからではなく、消化するのに手間取ったからでした。 じつは今でも手間取っています。 本日の読書日記も、その手探りにすぎません。 『韓非子』と『始皇帝』について、安能氏はセットとして読んでほしいと書いてあります。 たしかに、この両書(厳密にはそれぞれ、文庫上下二冊と一冊)は内容的に並行関係にあります。 やはり両方を読むべきでしょう。 この本の厄介なところは、わたしたち日本人には異質な中国的な思考方法にあります。 『三国志演義』やそれを基にした日本作家の三国志は、舞台と衣裳こそ中国ですが、なかみは日本人です。 いや、むしろ三国志くらいまでの中国人の英雄的行動を日本人はお手本にしてきた。 だから、あながちすべてウソというわけでもありません。 史記や三国志は歴史時代を通じて日本の男にとって人生のバイブルだったわけですから、自分の生き方を投影するのは当然なのです。 しかし、平安時代以後、日本という国のかたちが出来てくると、中国文化の直輸入は流行らなくなります。 遣唐使廃止が原因というわけではありません。月面着陸にも似た国家的プロジェクトである遣唐使をやっている時代よりも、廃止後のほうが貿易や文物の交流はむしろ盛んなのです。 その証拠が平安朝の印象を暗いものにしている疫病の流行です。 あれは中国の南方地方で発生したインフルエンザや天然痘が民間貿易によって九州に上陸して、人と物の移動を通じて京都に到達するようになったからです。 ウイルスの知識がない古代人にとって、きまって西からやってくる疫病は神秘的ですらありました。 そこに目に見えない疫神を仮想したからこそ、霊的防衛を担当する陰陽師が大活躍する舞台ができたわけです。 話を戻すと、直輸入が流行らなくなったせいで、宋元時代や明清時代の中国とその国民性について、専門家いがいの人はあまり知ることがありません。 安能氏の経歴はよくわかりませんが、とにかく中国人のパワーポリテクスについて、異様に詳しい。 だから、古代の幻想であくまでも日本人好みに創造された中国ではなく、えぐい本場物の中華料理みたいに味覚がついていかない。 いくら美味いといわれても、日本人なら絶対に食えない臭豆腐(豆腐を醗酵させた食品)みたいなものです。 とはいえ、中国を理解するには、三国志ではいけません。 食いにくい中華料理でも味わう舌と胃袋と、ついでに度胸も要ります。 安能氏は、直感で本質をつかむタイプです。そして、持続的に考えるちからがある。直感タイプの多くは思考が淡白になりがちだから、これは稀有な才能です。 わたしは本質的に知性的な執筆者が好きなので、こうした人をみつけるとどうしても熱中してしまう。 安能氏は2000年に物故されているから、もう新作はない。 できれば近日中にこの人が残した作品を読み尽くしたいと目下鋭意読書中です。 不思議なもので、在日の華僑である陳舜臣さんには、安能氏のような中国くささが感じられない。きっと日本人の舌に合うように絶妙に料理しているからなんでしょうね。 その値打ちを低めるつもりはないのですが、特異な異能をみつけた嬉しさをひとに伝えたい。陳さんの中国歴史読み物に再トライアルできるのは、安能氏を読み尽くした後になるでしょう。 『始皇帝』の主人公は文字とおり秦の始皇帝です。 始皇帝の天才と凄みは、いくら書いても書ききれるものではありません。 「皇帝」という言葉は、この人が作り出したもの。 有能なブレーンや宰相がいたとはいえ、この人でなければ、中国大陸という国際社会をひとつの国にまとめあげることは不可能だった。 その意味では、中国史では始皇帝に匹敵する大政治家は他に一人しかいないと安能氏はいう。 残りの一人とは、毛沢東です。 皇帝による中央集権システムを作った男と、その仕組みを破壊して一党独裁という新しい政治システムを作った男というわけです。 安能氏の凄みは、始皇帝の成功に現代中国まで通じる中国史の本質が隠されているを看破したことです。 それは、官僚という絶対的に腐敗する存在と、官僚をコントロールする絶対君主とが構成する「取引市場」(=官場)こそが、中国政治体制だということ。 官僚と皇帝の取引をうまく成功させた王朝は存続し、それに失敗すると滅びる。 これが観念ではなく、倫理でもなく、ひたすら財の交換であったと理解すると、複雑な中国史の動きが理解できると安能氏はいう。 これは卓見だと思います。 儒教の倫理という杓子定規な大義名分と、道教の融通無碍な発想を応用した収賄の手口。これが並存するのが、中国人の分りにくさです。 「自分の利益にならないことには、脛毛一本抜けるほどの働きもしたくない」という中国人の本音は、市場の論理を通じて儒教の倫理とみごとに融合するのです。 この説明ではまだ分りにくいでしょうね、きっと。 道教と儒教、収賄と大義名分の組み合わせは、日本人のいう本音と建前というものでもないらしいのです。 なんとなく、わかった気はしますが、まだ言葉として表現できるほどには消化できていません。 このことがわかるまで、しばらく安能務氏につきあっていくつもりです。 |
この一週間、ついに読書日記は更新なしでした。 仕事のスケジュールがきつくて、帰宅時間が遅いやら、くたびれているやらで、読書日記にまで手が回らなかったのです。 忙しいときは不思議と本が読めるもので、本だけは読んでいました。 ジャンルはほぼ一貫して、中国もの。 というより、安能務氏の本がほとんどですね。さもなければ、宮城谷昌光さん。 春秋戦国時代にひたって暮らしていました。 やっと日曜になって時間がとれたので、読んだ本の総括をすることにします。 先週読んだ本の中に、宮城谷昌光さんの『春秋の色』『史記の風景』があります。 宮城谷さんは現代作家として稀有なことに、「人としての香気」をもちあわせています。 最近話題の作家さんたちには、「香気」というものが感じられない。 「人としての香気」は、作家の場合、文体そのものが、それを表現する。 「香気」とは、別の意味では「高貴な志」です。 「志」は、もちろん表現者なら、だれでも持っています。 作家として世に立つ人は、どんな作品を書いていても「志」はあるのです。 それがなければ、「思い」を結晶化させることはできない。 たとえ、女体の女性器官の収縮のみに執着した作品であれ、それが作家としてみた人生の真実だという「志」が切実でなければ、他人がお金を払って読む小説とはならないのです。 ただし、「志」にも上下はある。 香気を感じない「志」には、表現の自由と熱意に敬意を払いつつも、あえて近づくことはない。 作品を読む幸せは、「香気」をまとう優れた人の魂に触れること。 宮城谷さんは、そういうタイプの作家です。 この人の風格は、すでにして「古典」の域に達している。 その作品を作者の同時代人として読む幸福は、言葉にするのがむずかしい。 『春秋の色』は、古代中国を題材にする宮城谷作品の舞台裏と、世に出るまでの若き日の苦闘をしのばせる随筆集です。 それぞれの随筆にこめられた思いの深さと、文章の香気について語るのは、文字とおり「贅言を費やす」ことに他ならない。 あえて書くとすれば、宮城谷作品の本質にかかわる一編を紹介したいと思います。 それは、「願うということ」という随筆です。 分量は非常に短い。 四百字詰め原稿用紙で二枚余り。 小説家をめざした宮城谷青年が、自分の小説の手本として仰いだ川端康成に会いたいと願った。 しかし、つてもなければ、川端邸に押しかける厚顔さもない。 そうした内気な青年が、国立博物館の入り口で、川端康成とすれ違った。 内容は、それだけにすぎない。 ただこの遭遇は、青年にとって大きな事件となった。 気弱な宮城谷青年は、「人の願いとは、かならずかなうものだと思った」という信仰をもつにいたったからです。 この偶然が、ただの偶然であったとは、わたしには思えません。 ひとからみれば偶然にすぎない現象が、宮城谷さんにとっては必然となった。 「ひとの願いは必ずかなう」という信念が、四十代で世に出るまで雌伏の時代を送った宮城谷さんをささえたに違いない。 四十代といえば、若くして華々しくデビューした作家が行き詰まりを感じて、方向転換する時期です。 作家として、いったん若い日の自分を殺して、再生するときなのです。 こうした時期に世に出ることはなみ大抵ではない。 出版業界にいた宮城谷さんはこうしたことを誰よりも知っていた。 そのような人が売れるあてもない1500枚もの大長編を書いている。しかもジャンルは当時まるで認知度のない中国古代もの。 執筆中の宮城谷さんの不安と重圧は、およそ物書きをしている人間なら誰にでも予想はつく。ちょっとでも、弱気になれば、とても続けられない。 宮城谷さんの作家としての凄みは、だれも読んでくれるあてのない大長編を粛々と書きつづけた勇気です。 幸運なデビューをはたした作家には、こんな真似はできません。 「ひとの願いは必ずかなう」という信念があれば、こその大事業です。 ひとにさだまった運命があるとすれば、川端康成との遭遇はただの偶然ではなく、宮城谷さんに天命をはたさせるために、「何ものか」が用意した贈り物というべきでしょう。 その「何ものか」は、宮城谷さんのすべての作品に、隠れキャラとして出没しています。 文章では、絶対に触れられることのないその「何ものか」が、見事な生涯を演じる登場人物たちを支えている。 宮城谷作品の魅力の秘密は、この「何ものか」への信頼なのです。 運命と呼ぶのでは軽すぎる。ゴッドでは見当違い。 「天」という儒教的な観念では冷たすぎる。 このどれにもあてはまらない、それでいて日本人ならだれでもなじみのあるもの。 それが、その「何ものか」です。 これについては、みんな知っているけれど、まだ名前がないのです。 少なくともヨーロッパ文化の輸入からはじまった近代・現代文学には、それをあらわす語彙がありません。 題材が古代であるだけに古くみえるけれど、宮城谷さんの作品は現代文学の範疇をこえています。 ここにかかれていることは、おそらく世界でも類例が少ない。たぶん、これからいろんな国にも似たような作品をあらわれるでしょうが。 まったく新しい創造の場に居合わせている――。 宮城谷さんの作品が新鮮であり、生命にあふれているのは、この感動があるからなのでしょうね。 ところで、『春秋の色』には、嬉しいおまけがあります。 無名時代に宮城谷さんが同人誌に発表したエッセーが数編載っています。 瀕死の床にあった小説家立原正秋への思いをのべた「無言花」。 立原は若き宮城谷さんを見出した恩人です。 あとは、立原の小説の書評、マラルメの本の書評。 これを読むと、中国歴史小説と出会う前の宮城谷さんの苦闘がよくわかります。 実験的作風と言うほかはない。 しかし、いまの宮城谷作品の文体はここから生まれたという事実は、一読すればわかる。 そうしたことも含めて、『春秋の色』は、宮城谷昌光という人を知るための必読書なのです。 |
© 工藤龍大