今月七日は、鉄腕アトムの誕生日。 小学館の廉価版まんがシリーズ、"My first BIG" で『鉄腕アトム』を読みました。 「アトム誕生」編にひかれて買ったのですが、それは昭和五十年代に書かれたダイジェスト版でした。 アトムの初出は、昭和二十六年だそうです。 ところで、昭和二十六年の予想では、ロボット誕生はこうなる。 一九七四年に原子力(!)超小型電子計算機が発明される。 一九七八年、アパッチ族出身のC・ワークッチャア博士が電子脳を発明。 一九八二年、日本の猿間根博士が、人間型ロボットに改良型電子脳を搭載。 このころ、ジェームズ・ダルトン博士がプラスチックから人造皮膚を発明。 一九八七年には、ロボットは人のような人造皮膚を持つようになる。 こうした技術革新で、アトムは特殊プラスチックの皮膚とそれでコーティングされた部品から出来ている。 現実の歴史では、LSI 電卓が出来たのが、一九七〇年のシャープ製品。 放射性物質をひしゃくで汲んで、東海村臨界事故が起きたのが、一九九九年。 現実はだいぶ遅れていますね。 この本には、「ロボイド」編と「冷凍人間」編も入っています。 ロボイドは異星でロボットから進化した生物。子どもを生む機能があるくらい進化している。 それがお決まりの地球侵略をはじめるという話です。 それはいいとして、気になるのが絵のタッチ。 どうも脇役たちのキャラクターとペンのタッチが手塚治虫ではない。 この事件でアトムと協力する各国のロボット秘密調査員たちは、どうみても初期の石森章太郎のタッチです。 「サイボーグ009」の最初のころにそっくり。 この作品は、いまはなき「少年」に一九六五年の一月〜五月に連載されたとか。 その頃なら、石森章太郎はプロになっているから、アシスタントなんてしているはずはないし...... 気にはなるが、宿題としておくことにします。 ところで「冷凍人間」編は、まんがファンには気になる作品のひとつ。 アトムがだまされて、墓泥棒の手伝いをして、墓を守るロボットと戦うというストーリーです。 ここに登場するスフィンクスというロボットが、みょうに色っぽい。 シッポに如雨露みたいな破壊光線銃をつけているのも十分にヘンですが、アトムを襲ってのしかかる姿もますますいろっぽい−−いやヘンです。 シッポの破壊光線銃をアトムがむしりとるのもヘンなら、それを胸の機械扉をあけて原子力エンジンにつなげて使うアトムもヘンです。 しかも自分でうちまくったくせに、アトムには 「い いけない、それをわたしにむけるのは、やめて......」 というあたり、いよいよあぶない。 手塚の隠れたリピドーが「爆発!」という一編です。 それにしても、スフィンクスが守護していた科学者は、二十世紀から冷凍睡眠に入っているのはいいとしても、マヤ文明のピラミッドを勝手に自分の冬眠実験室にしているあたり、悪役の墓泥棒とやっていることはたいして違わないような気もします。 ところで、アトムは意外と策士です。 断末魔の危機に、敵に誘拐された妹ウランの行方をきく。 勝ち誇った敵が教えると、それが墓穴を掘ることになる。 アトムはすかさず失神している妹のからだをみつけて、妹の身体から原子力エンジンを取り外す。使い物にならなくなった自分のと交換するのが狙いでした。 アトムは可愛い顔に似合わず、冷徹な計算のもとに行動する。敵の方が優しいせいか、自己犠牲したり簡単に騙される。これが、全編を通じての特徴です。 そういえば、心優しい脇役や敵役が子どものわがままや、勝手な行動で破滅するシチュエーションも多い。 子どもは悪人にだまされて言いなりになっているから、責任はないという理屈でしょうが、大人はそのことで子どもを決して責めたり叱ったりしない。 子どもが真剣に反省する様子もない。 手塚ワールドは、子どものパラダイスです。 |
ひさしぶりに、メルマガを発行しました。 ずいぶん出していなかったと、あらためて感心します。 メルマガどころか、ホームページの更新もあやうい一年でした。 とにかくホームページがまだ続いていることに、われながら感心しています。 ホームページどころか、会社を辞めた人間が続出する状況だったのです。 すさまじくも、ハードな十ヶ月を乗り切ったことで、ふてぶてしくなったかもしれない。 ぼちぼちでも、物事をなんとか続けるコツみたいなものが身に付いた気がします。 ところで、本日とりあげる本は『周公旦』(酒見賢一)です。 殷、西周、春秋戦国時代については、宮城谷昌光さんの名作のおかげで、ずいぶん蒙が啓けた気がします。 故事成語の由来となったエピソードでのみ知る人々の、顔や姿が具象化してきました。 肖像画が残っているわけではないので、たとえば坂本竜馬や西郷隆盛のようにイメージすることはないにせよ、人としての気分はずいぶん分かるようになった気がします。 孟嘗君や楽毅といった主役だけではなく、趙の武霊王、秦の宰相魏冉(ぎぜん)などの仇役も鮮やかにイメージできます。 これは宮城谷文学のなせる魔法なのですが、理解するとは感情の色がつくということでもあります。歴史を理解するには、文学の味付けがどうしても必要です。 ところで、周の守成をなしとげた周公旦については、宮城谷作品ではあの『太公望』でもかげが薄い。 孔子が敬愛した周公旦とはどんな人なのか。宮城谷さんの文学的造形を楽しみにしていたのですが、作品では周公旦よりも太公望のほうが重くなっている。 この二人は両雄並び立たずというところがあり、どちらかを選べば他方とは疎遠にならざるをえない。英雄というのは難しいものです。 裏孔子伝とでもいうべき大作『陋巷に在り』の筆者であり、第一回日本ファンタジーノベル大賞受賞者の酒見賢一が、周公旦をどう造形するか、大いに興味をもって読みました。 読んでいるうちに気づいたのは、周公のエピソードのほとんどが「書経」や「詩経」の文章に基づいていることでした。 酒見賢一の創作ではなく、書・詩経からの引用と思われる箇所が多いのに、意外な感がしました。 史料の少ない周初のころだから、かなり奔放な空想があるかと思ったのに、手堅くまとめている。歴史小説としては王道でしょうが、少々物足りない気もしました。 すくなくとも『墨攻』の著者には、もう少し遊んでもらいたかった。 佳作ではありますが、酒見版・周公旦では、孔子が敬愛し追慕した巨人の夢や苦悩はあまり伝わってこない。 周公旦という人の謎はかえって深まるばかりです。 それを自分の眼でみきわめるには、「書経」と「詩経」、さらには「礼記」を自分自身で精読してみるほかない。 遅まきながら、やっとふんぎりがつきました。 今年こそはなんとしても、四書五経を読破しようと思います。 |
土曜日はほとんど一日寝ていました。 金曜日に遅く帰ってから、疲れやすめに軽くいっぱいのつもりが、「いいちこ」の中瓶を半分ほど呑んでしまって...... 朝はちゃんと起きたけれど、軽く昼寝したつもりが午後六時くらいまで寝ていました。 もうなんにもできないのに、あきれはて、それでも軽く散歩などしてから夕食。 明日図書館に返すつもりの『書経』をばらばらとめくっただけ。 えらく非生産的な一日でした。 |
「西本願寺展」の次に、小雨のぱらつくなか少し離れた国立科学博物館の「マヤ展」へ行きました。 謎の文字といわれたマヤ文字も、すでに80%は解読すみだそうです。 ただの絵にしかみえない文字も、ある程度は音や意味が解読されています。 マヤ文字には二種類あって、人や怪獣の顔にしかみえない「顔文字体」とその簡略タイプ「幾何学体」があります。 さらにややこやしいのが、「全身体」という絵とほとんど判別できないタイプもごくまれにある。 それだけでも大変なのに、マヤ文字に似せた模様にすぎない「擬似文字」というのまであるから油断はできない。 しかしマヤ学者の研究で、たとえばコパンという都市国家については十六代の王がいたころや、歴代の王の詳しい事績までわかっています。 マヤ文字の表記システムは少し変わっていて、上下二行を一対として、上から下へと読んでゆくそうです。 文字の要素もアルファベットやハングルのように、いくつかの要素をくみあわせてあります。ただし、アルファベットは例としてふさわしくないかもしれません。 漢字のかんむり、へん、つくりのそれぞれに、音や意味があると考えてもらった方がいいでしょう。 四角い顔型の文字がひとつあるだけで、たとえばカ・カ・オという風に読めるらしい。カカオという単語がマヤ語にあるわけではありませんが、ただのたとえとして理解してください。 マヤ文明の最盛期は、日本でいえば、聖徳太子が摂政になった西暦五九三年から平将門の乱があった西暦九三九〜九四一年くらい。ちょうど西暦六〇〇年から九五〇年くらいです。 この時代に、マヤ文明は石器時代でした。 のちのアステカや南米大陸のインカみたいに金銀製品を作ることもなかったのです。 マヤ文明の文化的中心地だった都市国家コパンの王家は、黒曜石の交易と加工を一手に取り仕切っていたらしい。 日本でいえば、縄文時代のようなものです。 いっぽうで、人身供儀を行い、呪術的で複雑な文字を操り、高度な暦法を発明し都市文明を作ったところは、中国の殷王朝を連想させます。(殷王朝は紀元前一五〇〇年くらいに始まりました)。 旧大陸のメソポタミアでは、紀元前三千年くらいに青銅器時代になったから、古代アメリカ文明の孤立ぶりを実感しないわけにはいきません。 ただし、石器文化とはいえ、その美的センスは素晴らしい。 美や文化には、利便性ではかれないものがあります。 石器でことたりたのは、主食のトウモロコシやトウガラシに、イネやムギほどに余剰人口を養う生産力がなかったからでしょう。 中米半島内陸部にあるマヤの各都市国家の住民は、太平洋岸にはえるカカオが大好物でした。 カカオをすりつぶして、トウガラシをまぜた飲料を神にそなえ、自分たちの楽しんだ。 コロンブスのアメリカ到着以後、随分いろんなものがアジア、ヨーロッパ大陸へ来たものだと改めて思います。 ところで、古代マヤの都市国家は放棄されたけれど、マヤ人は中米のジャングルに散在して暮らすようになりました。 もちろん、いまでもそう。キシュ族とよばれる人々は、マヤ語をいまも伝えています。 マヤ文明はなくなったけれど、そのデザインを含めた文化は死滅したわけではない。 しかし、西暦10世紀にユカタン半島で人口増加と集中で、耕地が回復不能なほど疲弊したため、栄養不良、疫病が起こり、社会不安で都市国家を維持できなくなった−−という事実は厳然としてある。 それを考えると、石器文化のマヤ文明で起きたことは決して、過去の追想でもなければ、他人事でもありません。 もしかすると、それは未来の地球の姿でさえあるかもしれない。 科学博物館のバーチャル・リアリティー劇場で、いまは観光公園になった古代マヤの遺跡をCG画像でみましたが、どうにも漠然とした不安をぬぐいされませんでした。 |
「西本願寺展」(国立博物館)と「マヤ展」(国立科学博物館)に行ってきました。 いつもながら、はしごはきつい。 その分たっぷり楽しめましたが。 「西本願寺」では親鸞の研究のあとがうかがえる自筆の写経とその注釈をみて、心打たれるものがありました。 巻紙に裏表びっしり書き込んでありました。 観無量寿教と阿弥陀経の本分の上下左右に、こまかい字で漢文がぎっしりと書き込まれています。 「愚禿親鸞」という言葉や「歎異抄」の文で、親鸞がひたすら信心ひとつで、学問を捨てたような印象がありますが、間違いだったとわかりました。 ひたすら一つのことをやりぬいたところに、親鸞の信仰の「決定」(けつじょう)はあったのです。 もうひとつの収穫は、親鸞の妻・恵信尼の手紙です。 親鸞が六角堂にこもり、夢告をうけたこと。法然上人に出会って「浄土宗」に入門したことをつづった文面を直筆で読むことができました。 といっても、草書なのでところどころ判読できただけですが。 老いた妻が亡き夫の人生を娘に語る手紙は、親鸞の実人生をしる唯一の史料です。 これを書いているときの恵信尼のこころを思うと、まぶたが湿ってきます。 「あま けいしん」とある署名をみていると、名画「初恋の来た道」を思い出しました。 田舎で児童教育に一生をささげた無名の男に、生涯愛しぬいた女性の物語に通じる感動があります。 今回の展示では、画像や絵巻物よりも、書を面白くかんじました。 というのも、阿弥陀如来図、光明如来図、親鸞上人絵伝、慕帰図などは以前にたっぷり見たことがあるので、あまり新鮮味を感じなかったのです。 そのかわり蓮如の書いた「南無阿弥陀仏」という名号に惹かれるものがありました。 このひとは宗教家でもあるけれど、「王者」の風格があります。 同じフロアにあった歴代天皇の名筆と比べてみても、気品と迫力がちがう。そして、あくまでも庶民ですね。実務に長け、粘性の精神をそなえた行動の人−− それにくらべて親鸞の書いた名号からは、爽快に天空をかけぬける鳳凰の品韻を感じます。 親鸞の名号は素人のわたしには決して上手いとは思えないのですが、なんとなく侵しがたいものを感じます。 蓮如の名号は禅僧の書に似ているのに対して、親鸞のは良寛の書ににているような気もします。いっぽうは力強さを感じ、他方は精神の寛さ、爽快さ、志の清浄を感じる。 これに比べてみると、他の寺宝の印象はかるい。 今回の目玉は、白河院のために作られたとされる「三十六人家集」です。 応仁の乱以後、食い詰めた天皇家を経済的に面倒みたおかげで頂戴した「三十六人家集」。その平安王朝文化の粋を集めた美麗な料紙と名筆も、それほど面白く感じませんでした。 料紙のデザインと草書の美は、他の機会でみたなら、きっと面白かったに違いないはずですが。 ところで中世の天皇の書となるとかならず出てくる後柏原天皇、後奈良天皇の書が今回もありました。 それもそのはず、この父子がミカドだった時代、天皇家は荘園を失い、扶持する大名もいなかった。能書家であった両天皇はとにかく字を書き、それを売って暮らしていたようなものです。もっとあとになると、上杉謙信や織田信長が出てきて、経済的に息をつけるようになるのですが...... 天皇家の困窮は、後柏原天皇が即位後二十一年、後奈良天皇が即位後十年にやっと即位の儀式を行ったという事実がしめしています。 本願寺が後奈良天皇から三十六歌仙の歌を集めた「三十六人家集」を拝領したのも、天皇の即位儀式の費用を負担したお礼です。 京都の大谷廟の近くに門跡寺院「青蓮院」がありますが、ここの門跡だった尊鎮(そんちん)法親王は、後奈良天皇の弟。 平安、鎌倉時代は『愚管抄』の著者で、天台座主を重任した慈円が住持だったこともあるほど、羽振りのよかったこのお寺も、当時はすっかり衰微して、本願寺の経済的援助でなんとか息をついていました。 天台座主にもなった尊鎮法親王も父や兄と同じく能書家として知られています。 その書が本願寺にたくさん残されているのも、理由は同じ。 芸術家の資質がない天皇、皇族は食いはぐれる。きびしい時代でした。 本願寺の歴史とは、日本が中世から近世に生まれ変わる激動の時代と重なっています。 この国のかたちに興味をおぼえると、どうしてもいきあたってしまう存在−−それが本願寺です。 |
新しい本を読むことにくたびれて、漢和辞典にひたっています。 同好の士をのぞけば、話題になりそうもない知識がどしどし増えました。 実利的な効用はゼロにみえるけれど、いいんです。 実利ばかりをおいかける人生なんて、さびしすぎる。 ところで、家人が読みたいという本を探して、本の山をひっくりかしているうちに、懐かしい本をみつけました。 日本人ユダヤ人同祖説をとなえたラビ・トケイヤーの著書『ユダヤ処世術』(M.トケイヤー)です。 「5000年の苦難を生き抜いた英知」という副題がついたこの本は、ユダヤ教の聖典タルムードの教えを説きながら、エコノミック・アニマルだった80年代の日本人にタフなユダヤ人の秘密を伝授しようとするもの。 日本に長く住み、大の日本びいきだったユダヤ教のラビから、日本人への贈り物といっていいでしょう。 仕事がら欧米人とコンタクトすることが多いので、少々くたびれることがあります。 ラビ・トケイヤーの本は、そんな日々に勇気を与えてくれました。 「日本人にはタフなところがない」と、ラビは心配している。 今から二十年前に、国際社会で生き抜くための、タフネスと知恵をみにつけてもらいたいと、ラビは親切に、熱意をこめて語ってくれています。 この根幹は、ニヒリズムとの戦いにあります。 「石鹸七個、釘一本、マッチ二千本」 この数字の羅列は、じつの人間の定義です。 ナチス・ドイツが台頭する直前、ドイツでは人間の値打ちについて、こんな意見が常識となっていました。 つまり、一人の人間からは石鹸七個分の脂肪、釘一本分の鉄、マッチ2千本のリンがとれる−−極端にいってしまえば、人間とはそれだけのものでしかない。 このニヒリズムを冗談ではなく、現実にしたのが、アウシュビッツ強制収容所です。 このニヒリズムの対極にあるのが、極端な精神主義、禁欲主義。 ラビ・トケイヤーは中庸こそがこころのタフネスの源だと教えています。 お金や財産を粗略にせず、心の問題もおろそかにしない。 それができるのは、絶対を人間に認めないからです。 他人にも絶対的な善を期待しないし、自分にもそれを望まない。 お互いに傷つけあわなければ生きていけないのが人間だとわきまえて、唯一の絶対者に許しを乞い、友人・家族・仕事仲間同士で互いを許しあうヨム・キプール(贖罪の日)の儀礼で、一年間の「罪」をちゃらにする。 「罪」とは、生きていくうえで仕方なくやってしまった行為です。犯罪行為はまあ刑法で問われるでしょうが、それ以外のことですね。おそらくは暴かれなかった違法行為から、人の心を傷つけたことまで含まれるのでしょう。 ユダヤ人のタフネスの陰には、こうしたガス抜き装置がある。 そして、もう一つの武器はユーモア。 ヘブライ語では、ジョークと英知は「ホフマ」という言葉で表現される。 たしかに悲観的ないまどきの日本人には、ガス抜きとユーモアが欠けていますね。 ラビ・トケイヤーによると、ユダヤ人のタフネスの秘密は、一日の始まりが日没であり、終わりが夜明けとする考え方にあるそうです。 その意味は、暗いところから始まって、明るいところで終わる。終わりよければ、すべて良し−−の思想だそうです。 ひさしぶりに再読してみて、なぜか元気がでてきました。 |
仕事を忘れて読書する土曜日。 読んでいるのは、なんと漢和辞典! 学研の『漢字源』(藤堂明保他編)がそれです。 これは、故・藤堂明保博士の『学研漢和大辞典』の縮小版で、博士のお弟子さんたちが作ったもの。 藤堂明保博士といえば、小学生向きの漢字学習書の熱い序文で、おもわず筆者(わたし)の涙腺をしぼらせた方です。 予想にたがわず、漢和辞典本文の漢字のなりたちは面白いものでした。 「血」という漢字が、生け贄の血を捧げ持つ人の象形から成り立つということを、じっくり説明してあるので、一度読んだらわすれない。 これは四十すぎの人間にとっては、画期的なことです。(笑) 「則」という字が「鼎(かなえ)」のとなりに肉と刀をおいてある象形からできたという説明を読むと、「則」の字が隠していたいぶし銀の凄みを感じないわけにはいかない。 『漢字源』を読んでいると、なんだか宮城谷昌光さんの小説を読んでいる気分になります。 殷・周時代のにおいがする−−といっても言い過ぎではないようです。 それ以上に面白いのが、付録の部分。 「中国の文字とことば」の章では、漢文と現代中国語のなりたちがすっきりと説明されていたので、雑然としていた中国語の歴史をきれいな形で俯瞰できるようになりました。 漢文という歴史的な中国語は、上古漢語(周秦漢)、中古漢語(隋唐)、中世漢語(宋元明)、近世漢語(清)に分かれる。 これなんか、そういえばといまさらながら感心してしまう。 たしかに、漢文を読んでいても上古と中古はかなり違う。 ここまでは、中学・高校で習うけれど、宋以後の漢文は以前とは全然違う。 明清の通俗小説だの、禅僧の書いたものをのぞいたことがありますが、学校で習った漢文とは随分違います。 そんなことは常識かもしれませんが、わたしは独学で、明清代の白話小説だの、禅僧の語録に挑戦して、みごと玉砕したので、実体験で悟りました。 思えば、ひどくむなしい営為ではありますが、こんなことをしているのが楽しいのだから仕方ない。 漢民族と中国語の成り立ちも面白い。 太公望が出た民族、羌人(きょうじん)は、山西省台地で羊を飼う遊牧生活を送っていた。この羌人が今日のチベット系諸族の祖先です。 これと通婚関係を結んでいたのが、陜西省盆地にいた周人。 周人は麦作とブタの飼育をはじめて農耕民族となった。 いっぽう、中国ではじめて文字(甲骨文字)を作った殷人は、黄河デルタ地帯から華中に盤居し、タイ諸族と祖先と同じくする一派でした。 タイ系諸族の祖先らしい、沿海地区から華中の低地の「灰陶文化」の人々と、系統がよくわからない陜西省西安(ハンパ遺跡)と河南省(ヤンシャオ遺跡)の「彩陶文化」が融合して生まれたのが殷人です。 かれらが作った国が、「商」と自称した殷王朝です。 羌人と結んだ周人が殷を滅ぼして作ったのが、周王朝。 周人が殷文化を吸収してできあがったのが、「漢民族」というわけです。 整理すると、漢語は次の図式で出来上がったことになる。 タイ系(殷)+チベット系(羌)+周=漢語 言語学的には、中国語、タイ語、チベット語は親戚で、シナ・チベット語族といい、シナ・タイ語派(漢語系、タイ語系、ミャオ・ヤオ語系)とチベット・ビルマ語派(チベット語系、ビルマ語系)の二大グループに分かれます。 言語学で三言語が親戚なのは知っていたけれど、歴史的に周、殷、羌という実例を出されるとうーんと感心してしまいました。 これもまた宮城谷作品の世界! とはいえ、中古漢語、中世漢語となってくると、他のチベット系民族やチュルク(=トルコ系)民族、モンゴル民族、満州族が中華世界に混交してくるし、南方では長江流域の異民族、越人(福建語の先祖)、呉人(広東語の祖先)を吸収して、いよいよ言語学的な系統上の雑種交配がすすむ。 こうやって出来上がった中国大陸の共通語が、いわゆる「中国語」です。 ラテン語と違い、いまも生きているリンガ・フランカというところがすごい。 とはいえ、方言の数も多い。もとは異民族の言語だから、本来ならドイツ語、ノルウェー語、オランダ語、英語のくらいの差はある。フランス語と英語くらいの差は、同じ方言グループの内部でも存在するらしい。 考えてみれば、北京語、上海語、福建語、アモイ語、広東語を話せる中国人というのは、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語を話せるヨーロッパ人と同じことかもしれません。 というのも、中国の方言は多く分けて五つ。 標準語でもある「官話系方言」(北京語など)、呉方言(蘇州語、上海語など)、福建方言(台湾語、温州語、福州語、アモイ語など)、香港映画でおなじみの広東方言(広州語など)、客家(ハッカ)方言という内訳ですが、上海語・福建語・広東語なんてのは、春秋戦国時代であればれっきとした異民族だった人たちの言葉です。 南方で漢民族への同化を嫌った越人や南蛮人(日本の戦国時代にあらわれたヨーロッパ人ではありません)が、今日では「苗(ミャオ)族」「ヤオ族」「チュアン族」という少数民族となったというのも、あらためて納得です。 「苗(ミャオ)族」などは、日本人と顔立ちが似ているのと、万葉の昔にあった歌垣の風習をいまにとどめているので、日本人のルーツ探しには必ず登場します。 どうやら、日本人は古代の「越人」と深い関係があるようです。 漢和辞典をひもときながら、アジアの歴史と日本人のルーツまで夢をはせてしまいました。 これだから−−辞書を読むのは辞められない。 |
データベース関連について、泥縄式に勉強する日々を送っています。 SQLとか、リレーショナル・データベースの仕組みについて、参考書を読んでいるせいで、文学、歴史の読書はなかなか進みません。 データベースだけは避けて通りたかったのですが、いきがかりでしかたがない。 バッファーの少ないメモリで、辛抱しながら学習しています。(笑) ところで、以前にちらりと書いた『フロイト先生のウソ』(ロルフ・デーゲン)を読了しました。 この本は、ドイツの科学ジャーナリストが書いたもので、いわゆる心理学の「常識」を片っ端から否定しているのが面白い。 「心理療法には患者をなおす能力はない」 「右脳型、左脳型というタイプ分けには科学的根拠がない」 「スーパーラーニングなどという能力開発法に自称するほどの効果はない」 「無意識が人間のすべての行為を記憶しているというのは間違い」 「自己を認識することは不可能である」 「低い自尊意識と犯罪行為や学習不能にはなんの因果関係もない」 「ガンになりやすい性格などない」 「瞑想には有害な副作用がある」 「人間の脳が10パーセントしか使用されていない−−というのは根拠がない」 −−という具合に、いまや常識となっている心理学の事実が次々と論破されています。 精神を病む患者が犯罪を起こしたら、カウンセリングしろ、セラピーを受けさせろとしたり顔に言う人々がTVに登場するけれど、デーゲン説によるとどうも無駄らしい。 そういえば、まじめそうな精神医学者は向精神薬の投与しか口にしませんね。 あれは、本職ゆえに心理療法の限界をわきまえているのでしょう。 瞑想も場合によってはウツ状態になって自殺する危険があることは、公然の秘密。 わずかながら聞きかじった知識で、デーゲンの本を読むと、マスコミで常識となっている心理学の常識が足元から崩れてゆくような気がします。 いわれてみれば、どこのだれかは知らないけれど、権威のある人がいったからとマスコミがいったおかげで、心理学の常識はすりこまれる。 デーゲンの説にも反論の余地はあるけれど、よく考えたらなぜ人間に右脳型(芸術家)と、左脳型(理屈屋)があるのかという説明の方もあやふやです。 だれか偉い学者がいったからというわけで、盲信しているだけだから、デーゲンに論破された心理学説なんて、科学じゃない。 つまりは、実証できないから、信仰告白みたいなものですね。 カルトにはまりたいなら仕方ないけれど、医学という側面でいのちを預けられるか、能力開発という名目でレッスン料や教材費を払えるかを考えてみると、「やめた」と思わざるをえない。 心理学というものに対して、もっと懐疑的な目を向けるのは健全な行為だという気がします。 心理学は、「哲学」から独立して「科学」になったと豪語していますが、世間一般に流布する「心理学的事実」なるものについては、徹底的に「哲学」する必要があるなと改めて思いました。 |
しばらく更新できないうちに読んだ本ばかりたまりました。 三月に読んだのは、ひとまず置いておいて、今月に入ってから読んだのは−− 『コラムは誘う』(小林信彦) 『チェーンスモーキング』(沢木耕太郎):再読? 『孟夏の太陽』(宮城谷昌光) 『長城のかげ』(宮城谷昌光) 『天空の舟』(宮城谷昌光) 『夏姫春秋』(宮城谷昌光) まだ五日だから、こんなものかな。 なんだかウィークデイは忙しくて、せわしない。 休みの日はなんやかんやとすることがある。 花見とか......(笑) 読書日記に書くのは、まだ先になりそうです。 |
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