お気楽読書日記: 5月

作成 工藤龍大

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5月

5月31日

『使ってはいけない英語』(デビッド・A・セイン&長尾和夫)を読みました。

この本には笑えた。
もちろん内容が陳腐だから−−というわけではありません。
教科書や辞書の定番の表現が、ネイティブにはどれほど珍奇に聞こえるかという例がいい。
この手の本はよくあるけれど、著者があまり日本人英語(とその特徴)に詳しくないので、日本人には面白くない。

”Please sit down.” なんて、文法的に正しいうえに、英会話のテキストには必ず出てくる言葉でさえ、「使わない方がいい」といわれるとドキッとします。

その理由は、慣習というか言語外情報だから、現地で暮らした人じゃないとわからない。

結局、外国語を習得するというのは、教科書や辞書でカバーできないこの手の言語外情報を蓄積することなのです。
だから、ネイティブなみにわからなくても、いいんじゃないかと思うこともあります。

階層化されたアメリカ社会でキャリアを重ねるなら必要でしょうが、アジア、アフリカ、ヨーロッパで国際語となっている英語はネイティブ・ランゲージではありません。

むしろ、この本でダメといわれているのが使われているケースもある。

ところで、英語といっても、アメリカ英語とイギリス英語があって、その違いはプロ・レベルではけっこう深刻です。

だから、日本人が仕事で使うなら、アメリカ英語ですね。イギリス英語は、いってはなんですが、方言のバリエーションだくらいに割り切るべきでしょう。一人の人間が、両国の言葉に習熟する時間は特殊な環境にないかぎり、ないでしょう。

それにしても、こんなフレーズがネイティブにヘンな印象を与えることが、わかっているのは、そうとう英語が出来る人でしょうね。

Would you mind getteing out of the way?
(申し訳ありませんが、道をお空けになってくださいませんでしょうかね)

Are you interested or not?
(君、興味があるの、それともないの、どっちなの)

You'd better not tell anyone about this.
(このことは他人に漏らさないほうが身のためだぞ)

Don't you know how to write a report?
(あんたは、レポートの書き方もしらないの?)

英語翻訳を職業としているわたしは、ときには英語例文に爆笑したり、過去の失敗を思い出して青くなったり、はらはらどきどきで楽しめました。

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5月29日

『ほんまにオレはアホやろか』(水木しげる)。

ハードなお仕事をしています。
おかげで、頭が完全にうにとなってしまい、難しい本は絶望的です。

そこで、ついつい水木巨匠のご本に手を出してしまった。

水木巨匠の自伝的エッセイや、足立訓行氏のノンフィクションで、巨匠の実人生はかなり知っているつもりでしたが、あまり触れられていない隙間がありました。

それは、「のんのんばあ」と過した幸福な少年時代が終わったのち、太平洋戦争に出征する前のハイティーン時代と二十代のころ。そして、ラバウルから引き上げて、紙芝居作者になるまで。

この本は、空隙を埋めるジズソーパズルのピースみたいなものです。

たっぷりと水木ワールドに浸りながら、ふと思うのは、やはり妖怪というか、霊はいるなということ。
いや、それはもう確信ですね。わたしの場合。

社会生活不適応者の理想的なサンプルだった武良茂(むらしげる)青少年が、このあいだもマンガ賞を受賞したばかりの巨匠・水木しげるになるとは、当時の大人はだれも想像できなかったにちがいない。

あの厳しい時代にこういう人が生きられたのは、妖怪、霊の守護があったのではと、つい想像してしまいます。

とはいえ、この少年、人が良いのんびり屋では全然ない。
古い墓をみつけると、小便をひっかけて、霊のうめきを聞くのを楽しみにしていたというから、いたずらとアナーキーな反骨精神は、まじめに不良をやるような通過儀礼的なやわなものではない。

リンチと制裁で有名な陸軍での超マイペースな生活ぶりといい、この人のまわりにいる人は、宇宙人というか、妖怪というか、そんな眼でみていたはず。
この人こそが「妖怪」なのじゃないかと、毎度のこと、だれもが思うような結論に立ち至ってしまいました。
いくら月並みと馬鹿にされても、こればかりはどうしようもない。

吸血鬼を殺せるのが、吸血鬼と人間の混血児だけという話もあります。
妖怪を捕らえられるのは、やはり妖怪だけなのです。

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5月25日

今週は忙しかった。
昨日の休日出勤で、よれよれです。

読書日記も、この二、三日に読んだ本をざっと流すだけにします。

最初の本は、『謎解き宮本武蔵』(久保三千男)。
あまり武蔵が好きとは思えない著者が、武蔵をめぐる逸話、疑惑を紹介しています。
養子たちとの衆道(同性愛)だの、戦場でのぶざまな失敗など、歴史ファンにはおなじみの話にくわえて、あまり信用のおけない資料で、吉原で最下層の女郎に金をみつがせて出陣の支度を整えた逸話をもちだしてくるあたり、武蔵ファンには納得できない。(笑)

吉川「武蔵」の精神主義よりも、リアリズムの権化として武蔵を描くなら、もう少し書き方があるように思います。

それにしても−−NHK大河の「武蔵」はどうにかならないものでしょうか。

『妖精画談』(水木しげる)。
やっとこの本を蔵書に加えることができました。
買おうと思っているうちに、なぜか本屋でみかけなくなった。たぶんあるところにはあるのでしょうが。

英国の妖精に、ロシア、ドイツ、フランスの妖怪(?)が水木巨匠の手で生命を持った楽しい文画集です。

ところで、水木巨匠は別の本で書いていましたが、妖怪(=妖精)は世界の民族ごとにいるけれど、その数は同じだそうです。
わたしの記憶ではあてになりませんが、解説の妖精学博士井村君江さんはちゃんと覚えていました。
水木巨匠の仮説では、だいたい千くらいだそうです。

となると、ここにあげられている百を少し超えるくらいの妖精人口(正確な数は面倒なので、数えていません)は、全然たりない。(笑)

島国の英国は、ユナイテッド・キングダムと称するだけあって、実態は北アイルランド、イングランド、ウェールズ、スコットランドの連合王国です。
ということは、民族が四種類いるから、あの狭い島に4×1000=4000の「妖精」がひしめいていることになる。

水木巨匠がますます長生きして、英国の妖精の造形化にはげんでほしいなあと、無責任にも思うファン心理は−−いかんですね。(笑)

ところで、水木巨匠の不朽の名作『ゲゲゲの鬼太郎』で、妖怪オンモラキ(漢字がわからないので、カタカタにしました)を鬼太郎が退治した手口を覚えていますか?

相手に質問して、答えるたびに紙に点を打つ。最後に点と点を線で結んで、妖怪の本体を描きだし、その魂を図像にして紙に封じ込めてしまうという霊術でした。

水木巨匠の仕事は、なんだかそれと似ていると思います。
いや、そもそも巨匠の作品を中毒患者のごとく読み漁るファンなんてのは、再生紙の漫画雑誌の紙に魂を抜かれた犠牲者なのかもしれない。

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5月10日(その二)

神田明神は、じつは湯島聖堂の真後ろにあります。
そのことを忘れて、遠回りしてしまったのが悔しい。
土地勘はいまいちですね。困ったものです。

わたしは人の話はよく聞くタイプだと思いますが、地図を読むのがだめです。
地図の読めないヲトコです。話は聞けるけれど......
あのベストセラーはなんかヘンだと思います。
それとも、地図が読めないアホな男じつは「ヲンナ」だとでもいいたいんですかね。

閑話休題(あだしごとはさておきつ)

それほど広からぬ神田明神は、今日に限って人がいっぱい。
ただし、境内だけで完結している気配がありますね。
神輿がでていないせいでしょうか。
去年は欠席したけれど、一昨年はもう少し込んでいたような気もします。

ご本殿の祭神のお参りしたあと、三宮の将門公にもおまいりしましたが、このごろの人はいい年こいた老人もわかっちゃいない。
歴史散歩か歴史番組の復習のつもりか、神像に手をあわせる人がいない。他人の迷惑をかえりみず、神像の前に陣取って、歴史の講釈をする爺さん。神前わきの説明文に老眼+近眼をくっつけて、のぞきこんでいる一見カルチャーおばさん風。

団塊世代の残骸にとりかこまれている将門公がすこし気の毒に思えました。
わずかばかりのお賽銭を放りこんで、大きく拍手をうったわたしは意地の悪い中年であります。

ここの本当のご祭神は、もちろん将門公です。
大国主命と少彦名命を主・副祭神にしたのは、明治政府の陰謀でした。
それでも昭和五十年代に、氏子のみなさんのがんばりで、将門公が祭神に復活したのは快挙だと思います。

将門公は、日本国民のヒーローなのです。
神田明神は、政府や文部省(あるいは旧内務省)がどういおうと、偉大な革命家を祀る場所でなければならない。
だから−−すくなくとも、神田明神で「まさかどは〜〜」なんてことをいっちゃいけない。
観光客気分で神前にむらがるジジ・ババどもは将門公の革命をつぶした裏切り者か、朝廷にへつらう上方者の子孫にちがいない。

−−などと理不尽な怒りをおぼえつつ、手をあわせているうちに、自分の非を悟りました。
この人は、利のためにやがて自分を裏切ることがわかりきっている人々のために立ち上がり、予想とおり敗北した。

最後の戦いでは、この人の呼びかけに応じるものはほんのわずかだった。
その圧倒的に少ない兵力で、朝廷の威を借りる群馬県の豪族連合に立ち向かい、不運にも流れ矢で戦死した。
だからといって、恨み言をのべた記した記録はない。
人間がどういうものか。人の哀しみをわかりすぎるくらいわかっていたんですね。この人は。

だから、観光客気分で見物されたぐらいで怒るはずがない。

恥ずかしいまねをしたのは、わたしのほうでした。

われながら、もうしわけなさでいっぱいです。

今回、はじめて知ったのですが、ここの神社には付属の宝物館(博物館?)があります。

ビルの二・三階が小さな展示室になっていて、江戸時代と現代の神田祭りのジオラマがあったり、歴史文書があったりなかなか楽しいものでした。

三階にある展示室には、NHK大河「風と雲と虹と」で将門に扮した俳優・加藤剛が着用した鎧が陳列されていました。
ネットで調べてみたら放映されたのは、昭和五十一年。
この年生まれた人がもう二十代後半か......
三十代だって、覚えている人はいないでしょうね。
すばらしいドラマだったのですが。
月日がたつのは早いものです。

同じ階に、将門公手彫りの「妙見様」が陳列されていました。
以前に、この読書日記で書いたように、妙見様は関東八平氏が信仰した神仏習合の神様です。安房から勢力を伸張した千葉氏や、千葉氏と関係のある秩父氏、畠山氏なども信仰しています。

江戸大名として生き残った相馬氏は、将門の末裔を自称する家系です。
こちらの家から、寄贈された仏像です。

関東の守護神、将門公の霊に非礼をわびつつ、「妙見様」に手をあわさせていただきました。

将門公のご利益でしょうか。
帰る道すがら、思いがけなく嬉しいことがありました。

また長年探していた本にゆきあたったり......

きっと将門公は、不肖なわたしを許してくれたのだと思います。

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5月10日

土曜日に、神田祭りに行ってきました。

神輿は日曜日の方がにぎやかですが、スケジュールの都合(笑)で土曜決行となりました。

神田明神に行く前に、途中の湯島聖堂に立ち寄りました。
ここは何度来てもいい。
中国風と和風がほどよく折衷しているあたりが気持ちよい。入り口の仰高門を抜けると、すぐ巨大な孔子像が迎えてくれます。

この聖堂の庭には、かいのき(楷と書く)という樹木が多い。
これは、孔子の本来の廟がある中国の曲阜(きょくふ)に植えられている樹木で、中国では孔子廟のわきには必ず植樹されているそうです。

ここの「かいのき」の歴史はそれほど古くはないそうです。
大正時代に、植物学者某博士が曲阜から苗をもってきて植樹したものから、孫苗を増やしたとか。
(上は、立て札の文句の受け売りです。植物博士の実名も書いてあったのですが、字がかすれて読めなかったのです。)

ここの孔子像も、昭和五十年に建立されたと近くの碑に書いてありました。

意外に新しいのだったんだなと、すこし驚きました。同じ碑文をなんども見たはずなのに、覚えていないものだとわれながら呆れもしました。
こんな微細な知識なんて、けっきょく不要なものだから、仕方ないことなんだと自分を慰めつつ、孔子像にお辞儀をしました。

しかし、みていると、孔子像の台座によじのぼって写真をとる「ふらち」な観光客もいれば、手を合わせる中年婦人もいる。ちょっぴり眼をうるませる学生風の青年もいる。

人はさまざまですが、値打ちがわかるとわからないとでは、やっぱりわかった方が幸せだと思います。

孔子廟は中国風で石造り。「大成殿」という額がかかっています。
真ん中に仏壇みたいな「せきてん」という儒教の祭壇があり、ちいさな孔子像がおさめられています。
善男善女の方々は、列をつくって、お賽銭をあげてお参りしていました。
わたしも、お仲間入りしてお参りしました。

何を祈っていいのかわからないけれど、とりあえずは天下泰平学問成就というところでしょうか。

神皇や孔子の絵馬も売っていましたが、願いごとは学業成就ですね、やはり。
近くの湯島天神(菅原道真公)とご利益が同一視されているらしい。

祭壇の両脇には、四配というものがあって、東座・西座にわかれた仏壇みたいなものに、それぞれ顔子・子思、孟子・曾子が祭られていました。
顔子は顔回、曾子は曾参という弟子。子思は孔子の孫です。
孟子が亜聖というのは知っていたけれど、顔回が復聖、子思が述聖、曾参が宗聖と呼ばれているのは知らなかった。
いわれてみれば、なるほどと思うネーミングではあります。

孔子廟のみやげ物売り場で、おもしろいものを買いました。
「袖珍論語」という大正時代の隠れた大ベストセラーです。

奥付には、大正十五年四月十八日発行とあり、価格は六拾銭とありました。
もちろん、昭和六十年の復刻であるとさらなる奥付に説明がありました。
手のひらにすっぽり収まるミニサイズのビニール装手帳に、訓点入りの論語本文が書かれている。
論語の本文は、こんな量だったのかと改めて驚きましたね。
この数年、論語を繰り返し読んできたおかげで、読み仮名なしの白文でもけっこう読めてしまうことに、われながら感心しました。

独学者はこうやって自分をほめないとやっていけない生き物でもあります。

湯島聖堂であんまり感心しているうちに、神田祭がどこかへいってしまった。
そちらについては、稿をあらためて書くことにします。

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5月 5日

『史記を語る』(宮崎市定)と『赤光』(斎藤茂吉)を並行して読んでいます。

史記はいつか漢文で通読したいと思っています。
いまのところ、岩波文庫の列伝と世家をぼつぼつと読んでいるところです。

とはいえ、なかなか中身があって、一気に読むわけにはいかない。
司馬遷の筆ですら、印象的なエピソードの点描みたいなところがあって、まだ時系列や空間軸がさだまらないからです。

史記を源流にして、多くの歴史小説があるけれど、だいたいは司馬遷の手のひらで踊っているにすぎない。
それほどドラマとしてすぐれている。

いや、むしろ優れすぎているがゆえに、かえって事件がよくわからない。
できすぎの話というか、事後予言というか、そういう要素が多すぎる。

宮崎市定氏の『史記を語る』はまだ読了していませんが、はっとする卓見がありました。

史記の列伝や世家に登場する名場面は、ほんらい演劇だったというのです。

つまり、前漢の王宮で宴席に上演された役者たちのドラマが、司馬遷の史料だった。
秦代の焚書などのおかげで、漢の時代の史官たちは史料不足に悩んでいた。
司馬遷もその例外ではない。司馬遷が口碑、伝説、俚諺を取り入れて史記を書いたことは常識ですが、宮中の演劇を採用した可能性は盲点でした。

そういわれてみれば、登場人物のドラマチックな行動になるほど合点がゆく。
秦の二世皇帝に馬を鹿だと、いいくるめた悪人宰相・趙高の話(これが「馬鹿」の語源)や、刺客・荊軻が秦始皇帝を追いかける場面も、宮崎氏によると宮中劇の一場面だった可能性がある。

司馬遷の卓越した空想力や臨場感には、ため息をつくしかないにせよ、ドラマや語り物が材料だったとすれば司馬遷がぐっと身近に感じられる。

呉越の抗争で名をはせた呉の名将・伍子胥の生涯も当時流布した語り物だったらしい。
あまりにも鮮やかかな伍子胥の栄光と悲劇は、事実の羅列から再構成されたというよりは詩情たっぷりの文学でなければならない。

ひるがえってみれば、荊軻にしろ、伍子胥にせよ、それほど愛されたヒーローだったともいえる。

宮崎氏の名著のおかげで、史記の世界がいっそう具象的、感覚的にとらえられそうです。

斎藤茂吉の『赤光』は、渦をまくエネルギーを重苦しくわだかまらせながら、ひとをどんどん魅了してゆく不思議な本です。
母の死をいたむ有名な歌もありますが、茂吉の正業だった精神科医の仕事をかかわる歌も多く、自殺する狂人、精神鑑定を依頼された殺人犯をうたう歌もある。
どちらかといえば、職業人としての苦悩をうたうそちらの方面が面白く読めます。

『赤光』も『史記を語る』も、このさきまだ色々と書きたいことが出てきそうです。本日の講釈は、ここまでさせていただきます。

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5月 4日

『民族世界地図』(浅井信彦)と『宗教世界地図』(石川純一)を読みました。

民族世界地図は、最近の国際情勢の復習のつもりで読みました。
まさに、そういう読み方しかできない本でもあります。
受験直前に読むダイジェスト版、国際政治のまとめというおもむきですね。
報道番組でよくみる著者なので、なおさらそんな感じがしたのかもしれません。

いっぽう、『宗教世界地図』は新鮮に読めた。
いまや世界を語るキーワードは、宗教ですね。
浅井氏の「民族」は、世界を解釈するキーワードとしてはどんどん弱くなっています。
それは著者・浅井氏も認めている。

世界観が、国境よりも深く地球の人類を隔てているのではないか。
それに比べると、極論すれば、「民族」は十九世紀、二十世紀だけに通用する虚構とさえいえる。

イスラム教、キリスト教といっても、分派によっては天と地ほど違いがある。
以前は、少数派を多数派がちからでねじふせることが正義でした。
そのやり方は、旧ソ連みたいな社会主義国だけでなく、資本主義陣営でさえ踏襲していた。
しかし、いまや少数派は闘争にめざめてしまった。
これからは、「数の力学」はもう通用しない。

『宗教世界地図』を読みながら、これからの多難さをあらためて実感しました。

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5月 3日

『仲蔵狂乱』(松井今朝子)を読みました。

以前、TVスペシャル・ドラマになりましたが、記憶にあるストーリーとは違うようです。

歌舞伎は面白い。
波乱万丈どころか、歴史はおかまいなし。時間も空間も無視するパワーはすさまじい。
荒唐無稽という形容さえ、はばかれる。

板の上で演じられるストーリーでは、超人、スーパーヒーローが大暴れするけれど、現実の役者、作者、裏方の人々の暮らしは、実に人間くさいどろどろとしたものらしい。

そこが面白くて、梨園の恋愛騒動や家庭不和は、いまでも庶民の楽しみとなっている。大名跡を継ぐ役者たちには迷惑なはなしだろうけれど。

有名税という酷な言葉が、あれほど似合う世界もない。

いまよりも人間関係の縛りがきつい江戸時代の歌舞伎界ともなれば、どれだけドラマが隠れているかわからない。
時代小説の格好の題材です。

しかし−−残念ながら、あまり面白い作品にはあたらない分野でもあります。

理由は、役者の生理や、芝居関係の裏方さんたちの実生活の匂いをうつせる作家さんが少ないからです。
あたまで理解しても表現するとなると別物ということはあります。
「これを知るものは、これを好むものにしかず」
論語の比喩をかりると、芝居という虚構の世界で生きる人々のリアリティは、芝居好きというだけでは描ききれません。
その世界になんらかのつながりがないと難しい。
それも、役者や歌舞伎作者であるよりも、もっと裏方の仕事をしている人のほうがよいかもしれない。裏方を支える人たちを実際に知っていればこそ、虚構を生活の糧にしている役者たちの深みを描き出せる。

『仲蔵狂乱』の作者、松井今朝子氏は、生家が京都南座ちかくの商店で、幼い頃から南座に出入りしていたそうです。(解説の萩尾望都氏による)

どうりで−−と思いました。
ここに描かれている江戸時代の歌舞伎役者、中村仲蔵のおいたち、生涯は「芝居者」にしかわからない哀しみと歓びにあふれている。

たとえば、少年仲蔵を愛する念者(ねんじゃ)・中村百蔵という役者がいる。
念者とは、同性愛の男役です。役者同士の愛欲は、江戸時代のように同性愛がオープンだった時代にはごく普通の生活の一部でした。もしかしたら、現代でもそうかもしれないけれど、さすがにおおっぴらにするにははばかれる。

少年仲蔵をめぐる男たちを活写するのは、女性作家ならではジュネ的発想かもしれないけれど、かえって真実をついているなと思います。
全体からみると、ささやかなエピソードにすぎないこんな挿話にさえ神経が行き届いている。
『仲蔵狂乱』の世界は、歴史の豊穣を実感させてくれます。

仲蔵という下積みからのしあがった役者を主人公に選んでくれたおかげで、当時の歌舞伎の世界が上から下までよくみえる。こんなことができたのも、子どもの頃から歌舞伎に親しんだ作者の蓄積あってこそでしょう。

脇役ではあるけれど、もう一人おもしろい人物がいます。
色子(いろこ)といって、端役で舞台に出るとともに、客の求めに応じて男色を売る職業がありました。これは明治になって禁止されますが、江戸時代までは普通の役者にはあたり前の仕事でした。

色子はだいたい二十歳ぐらいで引退して、物売りになったり、病死したり、不幸な生涯を終えるものが多い。
若くして病死するものが多いのは、不衛生な環境で、不自然な行為に従事するためです。それに、現役時代は魚・なまものを食べることさえ禁止されていました。

不幸な色子から名代の役者になったものは、長い歌舞伎の歴史でもそれほど多くありません。
その偉大な例外のひとりが、瀬川錦次という役者。
四代目市川団十郎の弟子だった錦次は、出世するにつれ、いろいろ名前を変える。
その名前のうちに、市川染五郎、四代松本幸四郎がある。

最後は、四代松本幸四郎で終わったのですが、いまもある名跡が出てくると、はっとしてしまいます。

染五郎、幸四郎、中村勘三郎、市川団十郎。
こうした名前を、わたしたちのご先祖さまたちは当代のだれそれという形で、記憶にとどめてきたのだなと思うと、ちょっと感動しますね。

染五郎が幸四郎になって、その子が染五郎の名をつぐ。
海老蔵が団十郎になって、おそらく新之助が父の旧名をつぐでしょう。
そして、勘三郎の名は、その子の勘九郎がじきにつぐ。

血縁的には縁もゆかりも無い歌舞伎役者たちの名は、いっぽうでわたしたち庶民の記憶につらなっている。

そうした意味でも、歌舞伎は面白いだけでなく、なつかしいといえます。

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