ひさしぶりに痛快な本を読みました。 それが、『英語達人列伝−あっぱれ、日本人の英語』(斉藤兆史)。 明治、大正、昭和の英語達人をずらりと並べたこの本には、著者の昨今の浅薄な英語教育論、幼児英語教育、実用英語偏重に対する憤懣がマグマのように噴出しています。 新渡戸稲造、岡倉天心、鈴木大拙といったネイティブにも読まれる古典を書いた神さまたちだけでなく、幣原喜重郎、鈴木博という外交官、野口英世まで登場すると説得力があります。 なるほど、この人たちはほんものの国際人だった。 ただ、斉藤秀三郎、岩崎民平という英語教育の神さまたちが出てくると、少し引いてしまいます。 斉藤秀三郎の「熟語本位英和中辞典」はまともな英語学者の必須本(辞書として使うのではなく通読するのです!)であり、「斉藤和英大辞典」は良心的な翻訳者にとって現在でもとっておきの隠しだまです。 岩崎民平は研究社の「新英和大辞典」「新英和中辞典」「現代英和辞典」などなど、英語学習者やプロ翻訳家が使う辞書をつくったご本尊。 斉藤秀三郎や岩崎民平の辞書に噛み付くには、勇気が要ります。批判するにしても、これをしっかり咀嚼したうえでないと、自爆する。 つまりは、プロにとっての神様なんです。 上記の問答無用の神々のほかには、詩人で慶応大学教授だった西脇順三郎、そして白洲次郎(!)が登場します。 西脇は英語の詩集を出版したことでも知られ、ラテン語で卒論を書いた秀才です。 ただ、わたしはこの人の詩にはあまり惹かれないので、どうでもいいような…… とはいえ、驚くべき事実があります。 西脇は慶応大学は経済学部で卒業したので、卒論の題名は「純粋経済学」というもの でした。どうやって、近代経済学をラテン語で書いたのか。 恩師・小泉信三をして「天才」といわしめた西脇の論文だから、凡人の想像をこえているのは当たり前かもしれません。 とはいえ、なんとなく経済学を経世済民の学とは考えていない、客気満々の青年が想像されて、いい感じがしません。 興味深かったのは、天才イスラム学者井筒俊彦氏の英語の師匠が、西脇だったこと。 故・井筒氏は主著『意識と本質』を英語であらわした、現代の国際的大知識人です。 こういう人を育てたことは、教師としての西脇の業績ですね。 白洲次郎はもっか、注目の人。 白洲正子の旦那さんから、日本一かっこいい漢(おとこ)に看板がかわってしまった。 白洲正子、青柳恵介、馬場啓一を読んでいれば、なにも付け加えることのない張りぼてではありますが、21世紀をいきる日本人のお手本として、登場させたことに意味がある。 総じて見ると、アカデミズムや官界の神様たちにご登場ねがって、実用英語をかかげた人たちを無視するあたりに著者の本音がかいまみえるようです。 早期幼児英語教育の弊害を、津田梅子のように生涯まともに日本語を使いこなせなかった英語達人の逸話で訴え、天心、大拙、稲造の知的業績の土台を日本語と漢学のバックボーンだったと明らかにすることで、著者は日本語習得と母語による知的能力育成の重要性を強調しています。 ただし、オックスフォードで教育をうけた白洲を含めて、全員に共通するのは、英語達人であるより先に、超人的な日本語、英語の読書家であったことです。 これがあるから、かれらは国際的に活躍できた−−著者の主張は、現在まともな日本人英語使用者の共通認識です。 数十冊程度の英語読書では、外国人と対等にお仕事をすることはむずかしいでしょう。 いや、それどころかそのレベルでは日本人相手に英語を教えるくらいのがせいぜいでしょう。 時代は進んでいるのです。 ただし、ここに登場する人たちはみな先天的に語学の耳をもった「天才」ばかりです。 天心の弟・岡倉由三郎も有名な英語学者ですが、英語では兄にとおく及ばない。 天才たちが才能をみがきぬいた結果の「英語達人」なので、凡才は鵜の真似をするカラスの愚をおかさないように、地味な努力を積み重ねるしかないと思い知りました。 いくら努力しようが、本書の神様たちの域には絶対とどかない。 それがわかっていても、歩きつづけるのが凡人の生きる道なんですね。 横山光輝の復刻版を最後に紹介します。 横山光輝SF傑作選(3)、(4)と銘打たれた『クィーン フェニックス』の上下二巻。 同傑作選(1)、(2)の『地球ナンバーV7』と『昆虫惑星』はすでに入手済みでした。 今回の『クィーン フェニックス』は、ハガートの「洞窟の女王」ですね。 活劇をかかせたら、現代の若手などおよびもつかない横山光輝巨匠の作なので、早い段階でネタばれしても最後まで楽しめます。 品格喪失したいまどきの少女漫画に馴れていると、古めかしく感じそうですが、そう思う方が気の毒。 古きよきマンガ文化を堪能させてくれる本作は、1975年(昭和50年)に週刊少女コミックに連載されていました。 現代ではすでに伝説となった少女漫画の黄金時代です。 こういう作品を掲載できるほど、少女漫画の才能たちがいっせいに開花していた時代−− 歴史ですねぇ。 |
『神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』(日本古典文学大系 小学館)。 日本語はおもしろい。 とくに、古語の世界に踏み込むと、伝統の連続性に驚く。 −−この本の面白さを煎じ詰めると、こうなります。 神楽歌、催馬楽は神宴や貴族の宴会で歌われた歌謡です。 意外に似た歌詞が多い。 それというのも、古代の宴会は神と人が交歓する場でもあるから、宴会といっても神事の雰囲気がそこはなかとなく漂っています。 おもしろいのは、神宴でうたわれた神楽歌にも、男女の恋愛、情事をうたったものがあること。この国では、神は恋愛に寛容で、人は神に女を勧めることさえある。神にさえ恋愛しろ、情事をしろと囃したてる。 こういうのが「神国」というもので、アミニズムの優しさ、楽しさです。 「神国」という意味をとりちがえた政治家の発言にも困ったものだけれど、日本人古来の宗教観をもっと世界にアピールしたほうが良いかもしれません。 キリスト教に自信があったころなら、西欧社会には聞く耳がなかっただろうけれど、同性結婚という、はっきりと聖書に禁じられていることさえ合法化されつつある現代なら、雰囲気はずいぶん違うだろうと思いますね。 催馬楽はもっとすごい。 おびただしい猥褻語、性的比喩に、詠われているのが和姦、強姦、少年愛。 強姦といっても、なかばは和姦で悲壮感はまるでなし。 女性器の名称を連呼している歌もある。 エロスは神の嘉したまうところという日本宗教の面目躍如です。 この国には猥褻が邪気をはらうという信仰が古くからあり、織豊時代でも具足の下に男女の情交図を魔よけとして忍ばせる風習が存続していました。 繰り返しますが、これが「神国」ということなのです。世界で同じような文化を共有しているのは、南洋のポリネシア諸民族でしょうか。 『詩経 上』(新釈漢文体系 明治書院)。 新釈漢文体系の『詩経』三分冊にとりかかっています。 ふだん読めないので、時間がかかる。 それにカバンにいれて電車で読むのもしんどい。 宮城谷さんの小説を読んでいると、『詩経』の句が出てきて、おもわずにんまりすることがあります。 この嬉しさはファンでないとわからない。 「あそこをひいてきたな」とますます作品世界に親しみがわく。 『詩経』は宮城谷作品の想像力の源泉となっているらしく、随所に言葉が引かれているようです。 今年は、四書五経をなんとか片付けたいと考えています。 『詩経』については、全巻を通読してから書こうと思います。 『英語発達小史』(H・ブラッドリ)。 『ことばのロマンス−英語の語源』(ウィークリー)。 かんたんに読める英語の語源関係と思いきや、しっかりと英語学の本でした。 あまりにも濃い内容を略述するのも面倒なので、「勉強になった!」とつぶやくに留めましょう。 ただ一言つけくわえれば、こういう本を読みこなしていない英語使いはたとえTOEIC900点以上でもわたしは信用しない。 ついでに書くと、TOEICは日本と韓国でしか通用しない英語資格です。 これを作ったのは、日本人であり、本来文法にとらわれず国際社会で日本人が活躍するために、英語学習のめやすを示すためだそうです。 だから、韓国をのぞけば、外国人受験者は微々たる数しかいない。 おそろしいことに、TOEIC満点だからといって、翻訳が必ずしも上手とは限らないのです。 英語教育業界に、いいカモにされてますね、中高年のわたしたちは。 さて続きは別稿で。 |
健康診断で要注意となり、病院で精密検査してもらうなど、あわただしい月でした。 狭心症と診断されたので、一時はどうなることかと心配したものの、こちらは精密検査の結果は問題なし。 とはいえ、別の三大成人病からは免れなかった。 おかげで、これからは持病持ちとなり、病院で診察をうけるときには必ず報告しなければなりません。 この病気は一度、診断されると生涯その烙印が消えない。 あまりにもおぞましいため、その病名の記載は控えますが、経験者ならすぐわかる……(涙) 島帰りの刺青者の心境です。 おかげで、食事制限をこのさきずっと続けることになりました。 飲んで、食べて、という生活とはお別れです。 これからは、本と音楽鑑賞(クラシック、ジャズ、ボサノバ、ハワイアン)で「飲み食い」の快楽を代替するつもりです。 あとは運動もしないと…… 今月、読んだ本について、ざっと寸評を書きます。 週末はきっちり運動しないと、いけないので、いよいよ時間がきびしいのです。 『晏子』(宮城谷昌光)。 晏子は戦国時代の斉の宰相。本名を晏嬰(あんえい)といい、晏平仲(あんへいちゅう)と諡された大政治家です。 この作品では、同じく晏子とよばれた晏嬰の父、晏弱から筆を起こしています。 事情は無理からぬところがあり、晏嬰という人は主君をいさめたことと、孔子の就職運動を妨害したことで有名ですが、派手な戦争を興したわけでもなく、権謀術数をふるい権力闘争を勝ち抜いたわけでもない。 表面的にみれば、何をしたのかよくわからない。 したがって、父である晏弱の政争と軍事から筆をとらないかぎり、物語がすすまない。 しかし晏嬰は斉の内外の民から敬愛され、かれが宰相になってからは大国間での大規模な軍事衝突は起こらなかった。 この人が宰相だった時代、各国内の政争やクーデターは別として、中華世界の国々は平和を保ったのです。晏子の死後、時代は激動の渦に巻き込まれます。 晏嬰にとっての幸運は、同時代に鄭の子産という中国史上屈指の大政治家がいたことです。子産も平和政策を勧めていたので、晏子と子産という二大政治家が小康状態をもたらしたといえないこともありません。 歴史小説では戦争を行う武将や政治家を描くのは簡単ですが、平穏な世界を実現した人物を描くことは難しい。 英雄が出現するのは時代が絶望的な場合だから、英雄的指導者はいないほうがよい。 晏嬰は史上の英雄と対極にある現実的平和主義者だから、事蹟でことほぐのはまことに難しい。宮城谷さんは「魂の位の高さ」というかたちで、晏子を描きましたが、これは一つの解答です。いま、こういう描き方で晏子の志を述べる人が他にいるでしょうか。 国際平和というものは、大国の指導者に卓越した見識・人格がなければ達成できない。こんな当たり前のことを、描ききった『晏子』は現代においてとても価値ある作品です。 『イギリス ナショナル・トラストを旅する』(横川節子)。 最近夢中になっているイギリスについて、また一冊読みあげました。 歴史的知識でいえば、ヨーロッパの主要国のなかでイギリスは古代(アングロサクソン)から現代にいたるまで、結構詳しくわきまえています。 そういう国は、他にはオーストリアとドイツぐらいです。 ギリシアは先史時代から古代、ビザンツまでは自信があるけれど、あとは飛んで独立後の政治史しかわかりません。 そうやってみると、どうやらもともとイギリスに興味があったのかもしれない。 ただし、知りすぎていると、あまりファンになれないのも事実で、紅茶やガーデニングだけのイギリス好きには辟易してしまう。 ダークサイドを知りすぎるのも、困りものです。 ただし、みならうべき点が多いことも事実です。 とくに環境保護や環境美化運動については。 ナショナル・トラストはもちろん、「ブルームズ・イン・ブリテン」という環境美化運動が、イギリスの街を観光客のあこがれにするだけでなく、都市の治安向上に役立っている現実は参考にするところが大きいと思います。 長くなったので、続きは別稿で。 |
台風の暴風雨圏に入った東京から、北海道の千歳空港へ飛んだのがほぼ一週間前。 飛行機は予定より大幅に遅れただけでなく、滑走路で二時間も待機することになりました。 なんとか千歳空港についたときにはほっとしました。 待ちくたびれて機内では寝てばかりいました。 おかげで読書タイムはなし。 最初からけちがついたせいか、先週はろくに本が読めませんでした。 墓参りは雨にもあわずにできたから、それで帰省した本来の目的は無事はたせたと満足すべきかもしれません。 読書時間があまりとれなかったせいで、かえってよかったこともありました。 ふだんなかなか読みこなせない専門的な本が読めたからです。 その本の名は『日本中世の村落』(清水三男)です。 清水三男は太平洋戦争当時、日本中世史のパイオニアでした。 『日本中世の村落』は清水が三十三歳の著作で、五年後の一九四七年にはシベリア抑留中に死亡しています。 清水は一九三八年に治安維持法で逮捕され、以後警察の保護観察下におかれた経歴の持ち主でもあります。 生涯の悲劇性にくわえ、戦後の日本史学の流れを方向つけた業績のために、『日本中世の村落』の歴史学の名著に数えられています。 ただいくらひいき目にみても読みやすい本ではない。 同じく歴史学の名著に数えられる『中世的世界の形成』(石母田正)の読みやすさにくらべると、書き方がいかにも戦前の学者っぽいのが難点です。 これまでは拾い読みがせいぜいでした。 ぽつりぽつりと閑にまかせて、今回やっとよみあげることができました。 やはりこの本は名著でした。 大化の改新から奈良時代の律令政治をへて、荘園制度、国衙領、地侍の台頭、守護大名の権力伸長までじつに詳細かつ的確に説明してくれている。 さすがに爾後の研究成果から批判がある部分もありますが、それは校注者のコメントが入っているので安心してよめます。 わたしたちがイメージする「村」というのは、兵農分離がなされたあとの江戸時代の村であり、しかもそれには商用作物の生産という近代的要素が含まれています。 時代劇「水戸黄門」にでてくる村ですね。 清水が解き明かす中世の「村」は、水戸黄門にでてくる文化的後進地帯ではありません。 商業が勃興し、わたしたちがなじんでいる「日本的なるもの」を生みはぐくんだ母胎なのです。 永田町の「ムラ」文化や、日本人の「ムラ社会」という言葉で揶揄されるような、低劣なものではなく、世界に通じるこの国の精神文化の源泉そのものでした。 ひとことでいえば、「室町文化が日本文化のみなもとだった」ということに尽きるのですが、こんな言葉でわかった気になるのはばかげたことです。 そこにどれだけの人々の営為があったことに思い至らなければ、無知のままであることとさしたる違いはない。 三十代そこそこの清水がちからわざで描きぬいた日本の中世村落は、人々のたしかな足跡をわたしたちに教えてくれています。 こうした業績を残した清水が、終戦後捕虜となりシベリアに抑留され、四十歳を迎えることなく捕虜収容所で死んだ。 フランスのすぐれた中世史家マルク・ブロックも、ナチス・ドイツの収容所で殺された。 ブロックの業績はフランス中世史の大きな流れを形作った。 奇しくも似たような運命をたどった東洋と西洋の歴史家をおもうとき、戦争とはなんなのかという空しさを感じないわけにはいきません。 |
「アングロサクソンはいかん!」ということを言っておきながら、最近イギリスものにはまっています。 『イギリスの優雅な生活』(出口保夫) 『美しき英国 旅と暮らしと紅茶と』(出口保夫) 『イギリス田園生活』(監修小林章夫) 英国紅茶の広報マンの出口保夫氏と、英国観光局の回し者めいた小林章夫氏の著書についてどうこういうのは愚かな話です。 皿に山盛りのクッキーに、ミルクたっぷりの紅茶で幸せになれるなら、人生それにこしたことはない。 英国のパブやコーヒー店で、至福の時間を過すなら、それもいいでしょう。 他人が口をはさむ問題じゃない。 ついでに、本に鼻をつっこんで他人の幸福のお余りを頂戴する阿呆がいても、それも仕方がない! 出口氏の英国礼賛ぶりに辟易したら、『イギリス田園生活』の堅実な書き手の皆さんにシビアな英国暮らしぶりを教わってバランスをとる。 それが正しい英国観光案内の読み方というものでしょう。 ところで、話は変わりますが、このごろ商売道具の英語がやたら可愛い。 不気味な表現ではありますが、現にそうなのだから仕方ありません。(笑) 『英語ではこういう!日本語の決まり文句』(小池直己)を読みながら、英語のイディオムの楽しさにひたっています。 眼の中にリンゴがあったり、髪の毛を下ろしたり、冷たい足を持ったり...... 英語の言い回しは面白い。 腹のなかにチョウチョがいたり、パンツのなかにアリがいたりする不思議が、英語のイディオムの面白さです。 しばらくこの種の本から離れられそうにありません。 やっぱり、アングロサクソンはいかんですね。(笑) |
本日の読書は、『アングロサクソンは人間を不幸にする』(ビル・トッテン)。 日本のソフトウェア会社「アシスト」の社長であるトッテン氏は、米国人にもかかわらず北米植民地人のじゃぱにぃーず・びじねすまんや霞ヶ関の政治屋よりもよっぽど「やまと魂」があります。 トッテン氏は以前から、米国流の資本主義が決して人間に幸せをもたらさないと力説していました。どうも昨今の世界情勢をみるかぎり、トッテン氏の先見の明はくつがえりそうにない。 トッテン氏のいうアングロサクソンとは、英国で誕生して米国で大成長をとげた勝者総取りの資本主義のこと。 バイキングの子孫を自認するトッテン氏は、まぎれもないアングロサクソンですが、自分の先祖たちがウェールズ、アイルランド、スコットランドを征服し、イングランドの農民を都市貧民におとしめて成長した歴史に暗然としています。 貴族やブルジョアでなければ、幸せになれない社会が英国だとすれば、その悪しきDNAをもっとも過激なかたちで継承してしまったのがアメリカ合衆国。 アメリカの世紀は1970年代で終わりをつげていたことを、トッテン氏は具体的な数字をあげながら解き明かしてくれます。 アメリカはごく少数の家族が富の過半数を独占する第三世界そのものなのです。 中産階級の豊かさは「アメリカン・ドリーム」の終焉とともに消滅し、借金で家計をまわす逓減的傾向はこの先好転する見込みもない。 こうなったのは、イギリスで誕生した資本主義そのものに病根があるのではないか。 トッテン氏はアダム・スミス以降の経済学書を読み返して、ますますその意を強くした。 人が幸せに生きる知恵は、やらずぶったくりのアングロサクソン流資本主義ではなく、共存共栄の思想にあるというトッテン氏の言葉はなんだかとても懐かしく思えました。 後ろ向きな民族主義にもみえる発想ですが、アングロサクソンのご当人がいうから重みがある。ビジネスやMBAなんて言葉に幻惑されないで、眼を覚まさないと、あぶない時代です。 |
病院で眼を検査してもらいました。 さいわい異常なしです。 瞳孔が広がる薬で読書どころか、外出もままならずの一日でした。 でも、眼に異常がないとわかって安心しました。 |
© 工藤龍大