いよいよ2003年も終わり。 あと数時間で2004年です。 みなさまの来年がよいお年でありますように。 来年もよろしくお願いいたします。 |
いろいろあって更新できなかった間に、読んでいた本の記録をご披露します。 たとえインターネットで公開していようとも、読書日記は自分のための記録だ。 鹿島茂さんが喝破した事実は、読書日記作者の本音ですね。 『イスラム世界がよくわかる本』(岡倉徹志)。 イスラムの歴史を知っている人にはスナック程度の本ですが、現代史の記述は役に立つ。もっとも、そんな人は本書で紹介されている古典的な邦語参考文献はとっくに読了しているだろうから、あえてこの本を買い求める必要もないような気がします。 『俺の考え』(本田宗一郎)。 本田宗一郎は「おとこ」であった。 「漢(おとこ)」と書くと、過激なロマン主義者というか、大晦日にびんたをもらいにくる信者がいる人というか、市谷で腹切りしたひとを連想するけれど、この種の人は爽快なイメージがない。 どろどろとしたものをパフォーマンスで演じる大衆演劇の泥臭さや薄暗さが臭いたつ。 ほんとの「おとこ」はもっと爽快で愉快な生き物だ。 あきれるほど合理主義者である本田宗一郎こそ、ほんとの「おとこ」です。 こういう人を描いた文学作品が世に出てほしい。 『ディスニーランド流心理学−「人とお金が集まる」からくり』(山田眞)。 ディズニーランドが経営の見本であるという、よくあるビジネス本のひとつ。 男女をとわず大人に潜むおたく心理をそそり、高齢化社会に対応し、従業員のコーチングに徹し、マーケティング戦略を効果的な展開すれば、お客は集まる−−というご託宣はなぜ世界各地にディズニーランドが建設されているかという謎を解いてはいない。 偶然、オリエンタルランドという日本のディズニーランドを運営している会社のリーダーだった人のお話をうかがったことがあります。 ディズニー・ビジネスの最大の秘密は、ウォルト・ディズニーの哲学、理念にあるのだそうです。それに惹かれて世界の最上級の才能が結集している。 ディズニーの強さの秘密は「夢」にある。 この程度の分析でわかった気になるのはあぶない、あぶない。 『薬草毒草300プラス20』(朝日新聞社編)。 カラー文庫で紹介されている植物は、園芸に興味がある人ならどれもなじみのものばかり。 驚くのは、どこにもあるありふれた植物がじつは毒草だったという事実。 それにしても−−アサガオやアスパラガスが毒草だなんて。 ”Bible”(Revised Standard Version) クリスマスになると、いきなり聖書が読みたくなるのが、わたしの習性。 英訳聖書は、KJV(King James Version)、American Standard Version とすでに二冊持っていますが、また買ってしまった。 この調子でいくといまに NRVやNIV、TEVとNJVも買うことになるだろうなあ。(こんな略語の意味はしらなくてよいです。) たぶんルター版独訳聖書とユング愛読の独訳チューリッヒ版聖書は間違いなく買い込む気配がする。 『50歳からの仏教入門』(ひろさちや)。 さらりと流し読みした仏教入門書。50歳でこれくらいの宗教知識もないのでは悲惨じゃないかという意地悪は飲み込んでおきましょう。 しかしひろさちや先生も元大学人だけあって、大乗非仏説にこだわっているあたりが面白い。 印哲を出たお坊さんがかならずのたまうのが、大乗仏教は「お釈迦様」のいったことではないという事実。 どんな大乗経典もお釈迦様の死後200年以上たってから出来ている。お釈迦様が幽霊となって出没しない限り、それは当たり前。 ただし、大乗仏教派は自分たちの説こそがお釈迦様のほんとにいいたいことだったという立場にいる。 こういう立場を否定してしまえば、仏教どころか、キリスト教もイスラム教も存在できない。世界の三大宗教は教祖が死んでからできたものばかりですから。さもなければ、原始キリスト教、原始イスラム教なんて用語があるはずがない。 華厳宗も禅宗もほんとは中国でできた中国仏教。浄土宗も浄土真宗もじつは日本でできた日本仏教。 それでいいじゃないか。どこが悪いんだ−−と想います。 『如何なる星の下に』(高見順)。 女優高見恭子のお父さんで、永井荷風の従兄弟が高見順。 この本はべらぼうに面白い。 荷風と同じく浅草の踊り子を描くその視点と、文章の味わいは荷風に似ている。 荷風の天才から、かび臭い江戸趣味と生活者に対する無関心と女性侮蔑を抜いた感がある高見の文体は、日本語の美の極点のひとつです。 高見順という作家は、戦時中という不幸な時期に、だれも模倣できない一時代を画する才能を発揮したという。 今年は、わたしにとって太宰治を再発見した歳でしたが、年末にあたってもうひとりすばらしい作家を掘り当てました。 『それでも古書を買いました』(鹿島茂)。 フランス文学者にして古書通の鹿島茂先生の本です。さすがに荒俣宏氏の破天荒と比べるとやや大人なしめ。 総じてフランス好みの人は、イギリス系愛書家に比べると狂気がたりないようにも思える。 読めない外国語の挿絵本は買わないという鹿島先生の流儀はふところが狭すぎる。 洋古書の世界の主役(購買者)が大学の先生からアマチュアの一般人に変わったのは必然です。 『成功する読書日記』(鹿島茂)。 なぜこの読書日記が人気がないのかよくわかりました。 書名、筆者名、出版社名、星取り表の評価、簡単な引用。 成功する読書日記には、こんな要素が必要らしい。 それにしても、著者献本で書評兼(雑誌連載の)読書日記を書くのはなんとなくさもしいような気がします。 大体フランス文学の先生なのに、フランス語の本を紹介しないで、読むのは最近出た日本語の本ばかりという姿勢はいかんと思います。 澁澤龍彦師のようなマニアックなフランス文学者はもう出ないのでしょうか。 Shibusawa' Children の一人としては寂しいかぎりです。 『カインの末裔・小さき者へ』(有島武郎)。 なんど読んでも感動する有島武郎。 「生まれ出ずる悩み」や「小さき者へ」はいつ読んでも心がきりりとします。 それにしても「宣言一つ」の視野の狭さ、絶望はどうだろう。 「第四階級」という労働者を絶対化する視点からは何も生まれはしない。そして、歴史を変えたのは労働者階級ではなく、プロレタリアに同情したプチ・ブルだったという皮肉をわたしたちは知っている。 「カインの末裔」のペシミズムに酔いしれるのではなく、「生れ出ずる悩み」の希望の強さを信じることができたなら....... 有島武郎は自分が創造した北海道の開拓農民広岡二右衛門(「カインの末裔」)の本能的生活に魅力を感じる一方で、それが小作農場という社会には通用しない現実を知っている。 本能的生活の原始的生命力を、武者小路実篤のような積極的な自己肯定と意識的に混同して、自分の生き方の矛盾を乗り越えようとした気配だが、その試みは簡単にペシミズムに飲み込まれてしまう。 「生れ出ずる悩み」のアマチュア画家木本を自殺させようとしたのは、創作とはいえ有島の破綻の予兆です。 弟の里見敦にいわせれば、有島は思いつめた謹厳居士だったらしい。 誠実とはなんだろう。 誠実とは、自他を幸福にするものでなければならないとすると、自分を破滅に追い込む誠実はむしろ擬態であり悪徳とさえいえる。 有島ほど誠実な人はいないけれど、有島が描いた運命はかえって誠実とは正反対のものになってしまった。 成熟には時間が要る。そして成熟した実をつけるには忍耐がいる。 −−などということをとりとめもなく考えてしまいました。 『暢気眼鏡・まぼろしの記』(尾崎一雄)。 この人も年末に再発見したひとり。 とにかく身につまされていながら笑える。 世の中のそこをはいずる中年諸氏には、この人の文学の香気は救いです。 そして、長屋のお内儀さんたちが吉本喜劇の人情喜劇に笑った心情で、中年はこの人のたくまざるユーモアに笑うのです。 青春文学という言葉があるなら、「中年文学」という大看板があってもいいんじゃないでしょうか。 もちろん筆頭はこの人です。 『ベーオウルフ』(厨川文夫訳)。 年末の忙しいときに、酒によっぱらった頭で文語訳のアングロ・サクソン叙事詩を読むのは快感です。 ほんとです。 うそではありません。 「忙中閑あり」というやつでしょうか。 結局、暇人なんですね。 −−というところで、本年の読書日記はおしまいです。 |
久しぶりになつかしい本を読んでいます。 『家族・私有財産・国家の起源』(エンゲルス)。 世界観という言葉は、生活の実感としてはなじみないものです。 自分が生きているのがどういう世界なのか。 その世界はどうして出来たのか。 今となってはどうでもいいことかもしれない。 しかし−−独裁国家や宗教原理主義国家では、「世界観」を幼児期から叩き込む。幼児番組で「敵を殺す方法」(いいかえれば殺人術)を教えるのも世界観です。 歴史とは世界観のことです。 歴史教育とは単純に過去の事実を伝達することではなく、ある世界観を教え込むことに他なりません。 マルクス主義が自分たちの運動のために、自前の世界観を構築しようとしたのが、マルクスの『資本論』であり、エンゲルスのこの本です。 19世紀や20世紀では、世界観を学んで自分が帰属する世界に適応しようとする努力が当たり前だった。 それは「暮らし」の世界においても同じこと。職人や主婦もそれぞれの世界に所属するために涙ぐましくがんばっていた。 こうした努力は世紀末からすたれていたようだけど、自己研修や企業研修で復活している。 それは豊かになるための方法論として、具体的なハウツーに落とし込まれている。 生き方が問題なのだというポジティブな思考方法というのもその一種。 願望を理想化する現実的なテクニックとして、それは今後も盛んになってゆくでしょう。 しかし、教科書的な歴史は無駄なのだろうか。 わたしにはどうもそうは思えない。 目の前のことしか見ようとしない生き方、考え方で、世界観に染め上げられた人間と同じ「暮らし」を共に過すことができるだろうか。 世界がもう少し広かった時代なら、それもできた。 でも、もうそんなことは許されない。 アメリカ・インディアン、古代ギリシア人、古代ローマ人、ケルト人、ゲルマン人の古代社会を詳述しながら、六十三歳のエンゲルスが何を夢見ていたのか。 いまのわたしにはそれがわかる。 すでに盟友マルクスはなく、革命は見果てぬ夢だった。 彼らの思想は古び、破綻してしまったけれど、その志はいまも若い。 歴史学の本としては使えない本だけれど、想いの熱さは決して消えていない。 事実の羅列にみえるこの本を読みながら、胸に熱いものがこみあげてくるのは、マルクス主義へのシンパシーとはまるで無縁な、魂にひびくものがあるからです。 |
なかなかしんどい本に出会ったおかげで、読書が進まなかった。 『オンドル夜話−−現代両班考』(尹学準)がその本です。 著者は朝鮮戦争の頃に日本へ渡航して、苦学して大学の語学講師になった人。 朝鮮の貴族階級、ヤンバン(両班)について、これでもかこれでもかという具合にショッキングなエピソードが続く。 ヤンバンの生態は、愚かしいまでに差別的、党派的で共感する余地がまるでない。 済州島や在日韓国人の人たちを、韓国の国民が差別する心情がなんとなくわかったような気がします。 司馬遼太郎さんは在日の朝鮮籍・韓国籍の友人が大勢居たので半島系の文化を好み、尊敬もしていたとのことですが、エッセイで李氏朝鮮ではユニークな人物が出なかったということを書いていた。 なぜユニークな人材が出ないのか。 この本を読むと理由がよくわかる。毛色の変わった人物がでたら、よってたかって潰すのがヤンバンというものなのです。 同じヤンバン同士でも格つけでいがみあい、これは平民(常民)や被差別民(賤民)となると生涯浮かばれない。 男系しか考慮されない男尊女卑社会なので、母親の血筋は無視される。そのため家を継ぐための養子も母系からは迎えず、かぼそい縁をたよっても男系からもらう。 さらにひどいことには、後妻の連れ子や、後妻が産んだ実子であっても「庶出」とされて、社会の日陰者としてくらさなければならない。 階級的混交が極端に制限された凍りついたような硬い社会でした。 こんなのが、日本でいえば南北朝統一から二十世紀初頭(日韓併合)まで五百年以上続いた。息苦しい徳川時代の三百年に比べたら、その大変さがわかる。 男尊女卑の社会で女性が生きることはつらい。 「女は世界の奴隷」という社会でした。 戦前の日本でさえ、これに比べると大甘です。 尹学準氏のヤンバンに関する懸念は、決して過去の話ではない。 北朝鮮では労働党員というヤンバンをあらたに作り出した。 また韓国でなぜキリスト教が普及したのか。キリスト教徒の韓国民がなぜ強烈な反共主義者なのか。 この謎をとく鍵は、ヤンバンにあることを尹学準氏は教えてくれます。 李氏朝鮮は階級を固定化し、人材をそこなう装置として存在しつづました。 韓国の国民的エネルギーが建設的な方向に向かったのは、ごく最近の事件だったんだなと改めて想いました。 ところでヤンバン文化のいやらしさは、わたしたちの中にもあります。 日本文化のいやな面が、あの国のいやな面と共通していることは認めざるをえません。 ヤンバンの差別的、党派的行動は、日本社会でも共通している。 「そういうやつ、いるよなあ」 「おんなじだ」 と、苦笑しながら、思い当たるいやな連中の顔を思い浮かべずにはいられない。 差別的、党派的行動を良しとするのは、世代をとわずどこにだってある。 これをアジア的とはいいたくないけれど、個人がもう少ししっかりしないといけないなと想います。 「美しく生きる」方法にバリエーションはあまりないかもしれません。 「広い心を持って、大きな目で世界をみる」−−結局、これにつきますね。 |
何かといそがしい師走。 読書もあまり進まず、軽めの本に逃避しています。 そのなかでとにかく面白かったのが、『日常会話なのに辞書にのっていない英語の本』(松本薫+J.ユンカーマン)。 国際結婚したライターの松本氏(女性)と旦那さんの共著です。 すべてが辞書にのっていないわけではないのですが、たしかに唖然とする言葉が多くて笑える。 「プラスチック?」といきなり言われるとたしかにぎょっとする。 これはカード払いにするかという質問だそうです。 「ぅれぎゅらぁ、おぁ、でかふぇ」というのは、普通のコーヒーかカフェインレスにするかという質問。 アメリカで暮した人なら、おなじみなのに、日本で暮らしているとまずお目にかかれない言葉の数々。 「れっつひあいっと」が「さあ、拍手して!」となると、お手上げですね。 この本が楽しめるのは、英語の勉強だけではありません。 イラストレーター(イラ姫というらしい)のイラストが、ヒスパニックの青年と日本の女の子、中年ヒゲでぶの日本おじさんと中年アメリカおばさんの二組のラブストーリーを並行させているのがなんとも可愛い。 とくに不気味かあいい中年おじさんと中年おばさんが秀逸。 ほんとは英語のお勉強が目的じゃなく、イラストが気に入って買ったのでした。 |
すこし手を広げすぎではないかといわれるわたしの物好き。 このあいだ(火曜日)に行った小野リサのクリスマス・コンサートにかぶれたわけじゃないけれど、『使える・話せるポルトガル語』(森下幸子)という本を買ってしまいました。 使う気も話す気もないけれど、ボサ・ノヴァの美しいポルトガル語に魅せられ、ついつい手にとってしまった。 この本によると、ブラジル・ポルトガル語とヨーロッパのポルトガル語はあまり差異がないらしい。 親切なことに差異がある場合には説明が入っているので、ブラジル・ポルトガル語入門にも役立つ−−ということです。 おかげで saudade と書いて「サウダージ」と読む謎が解けました。 これはブラジル・ポルトガル語の特徴でした。 サウダージとは、ボサ・ノヴァの名曲「想いあふれて」の原題にも含まれるブラジル歌謡の最重要語です。 ポルトガル語では郷愁、懐かしさ、想い、悲しい慕情、それらすべてをひっくるめた便利な言葉なのです。 意味は違うけれど、演歌の「別れ」みたいなキーポイントです。 ところで、小野リサのコンサートででてきたポルトガル語のクリスマス・ソングの CD をアマゾンで注文しました。 今年のクリスマスはボサ・ノヴァ・ノエルだ! |
今日はかるめのスナックを。 本日のお題は『英国ファンタジー紀行』(山内史子)と『イギリスは不思議だ』(林望)。 『英国ファンタジー紀行』は、ハリー・ポッターのブームのあやかり本といっていいかもしれません。 ハリー・ポッター(執筆時点では『〜と炎の杯』まで)、『クリスマス・キャロル』、『ピーター・パン』、『クマのプーさん』、『ピーター・ラビット』、アーサー王伝説。 お好きな方はどうぞという絵本のような感じです。 きれいな夢をみたい人のためのイギリス案内というジャンルは永遠に不滅です。 『イギリスは不思議だ』は知的スノップのための、イギリス趣味案内! ハンサムなリンボー先生がカルチャー・マダムを夢の国に誘ってくれます。 しかし−−わたしはこの手の本が大好きな俗物なのです。 オックスフォード大学博物館、その裏にあるピット・リヴァース博物館の写真をみていると、物好きの血が騒ぐ。 イギリス人のフェーク(贋物)趣味はこたえらせません。 どこにも存在しない東洋を夢想したジョージ四世(1762-1830)が皇太子のときにたてた離宮ロイヤル・バヴィリオンのウソっぽさは、気の触れたパバリアの王様のお城に匹敵する面白さがある。 なんとも魅力的なイギリス案内でした。 |
読書時間がとれないのが中年の悩み! 本を読むのはもっぱら電車のなかです。 そうなると、重たい本は持ち歩けないので文庫・新書か英語雑誌ということになる。 通勤に愛読しているのがニューズウィーク英語版です。 なぜか「タイム」ではないかというと、予算の問題ですね。 年間割引が安い。日本版を読めばすむ話だけれど、筆者としては単純に英語が読みたいだけなので、ニューズウィークが気に入っています。 特集記事はいろいろあるけれど、お気に入りはイラクを含めたイスラム関連とロシアです。 イラク、パレスチナから目が離せないのはもちろんですが、イスラム体制を維持しつつ王妃(シェイカ・モザ)がリーダーとなって女性解放、婦人教育を促進しているカタールを紹介するなど(11月10号)などなかなか目配りがきいている。 モザ王妃は麗しき国民のアイドルで、カタール国民から愛される知性あふれる美女でもあります。アラビアンナイトの世界を連想してしまいました。 イスラムは過激派ばかりではないのだと改めて思いました。(もちろん、親米的なイスラム国家をもちあげるのが、ネオコンによるマスコミ支配の一環かもしれないけれど。) ところでロシアでは元秘密警察や情報機関のエリートたちが地方政府の首長にどしどし選出されているそうです。 プーチンが引き上げた同僚や部下たちがさらにその仲間や部下を政治の表舞台にのし上げる。 マフィアと組んで地方の財閥になりあがる oligarch たちを抑えるには、いまのところそれしか手がないらしい。 oligarch は「寡頭政治の政治家」と辞書に載っていますが、経済マフィアのドンですね。かれらも元は情報機関のエージェントで、ロシアの資本主義化をすすめるためにエリツィン体制下で意図的に国家資産を横流しして育成されたそうです。 とはいえ、これは闇の中で行われたため、国民からするある日突然大企業が誕生して、そのトップが大富豪になる構図が繰り返される。 これで健全な資本主義が育つわけがない。 そのつけを延々とロシアは払うことになっているらしい。 12月1日号で面白かったのは、「ロード・オブ・ザ・リング」完結編の特集記事と、パキスタンのイスラム学校(マドラッサ)。 アフガン難民が住むパキスタンでは、コーランの詩句とアメリカへの憎悪、タリバンへの忠誠だけを教えるイスラム学校が続々と誕生している。 公的教育制度の恩恵を大多数の国民が受けられないパキスタンでは、識字教育の機会はそのようなイスラム学校しかありません。 五、六歳から十七、八歳まで、パンと紅茶だけの食事で、石造りの粗末な教室に四十二くらいの各年齢の子どもたち毛布にくるまって雑魚寝している。 親元から離れた子どもたち(男の子だけ)は、周囲と隔絶した世界で、職業教育をうけることもなく日々の礼拝と、コーランの詩句の暗記にはげみ、あいまに反米主義とイスラム原理主義、聖戦への憧れを吹き込まれる。 こうした下部構造をなんとかしないかぎり、イスラム過激派は根絶することは不可能です。しかし−−このような学校はイスラム圏の紛争地域にはかならず存在する。 イスラムの名を借りた憎悪教育の根は、貧困と労働からの疎外なのです。 ニュース・ステーションをみればわかる(笑)ことばかりであっても、英語で読んでいると臨場感があります。 たとえ、それがネオコンに主導された情報であっても、英語サイトをのぞいていろいろすり合わせて考えることはできる。 英語読みはなかなかやめらせません。 |
『佐藤春夫集』(学習研究社現代日本文学13)を読みました。 佐藤春夫が短編の巧者とは今回初めて知りました。 『のんしゃらん記録』は、人間が人口過密の地下都市で暮らすアンチ・ユートピア小説。暗黒の未来を描いた幻想小説です。 植物さえ絶滅して存在しない世界。 生きる希望をなくした人間をだまして、植物に変身させる権力の陰謀に、意外な復讐が待っている。 そんな世界で希望を語り続ける老人が、権力によって刑罰として蘚苔類に変身させられたが、なぜか「かしわ」の大木になる。 絶望的な暗黒のなかで、何事かをなそうとする決意を、この小さなエピソードに感じないわけにはいきません。 『田園の憂鬱』は期待したほどではなかったけれど、日本統治時代の台湾を舞台にした『女誡扇綺譚』はホラー仕立てのミステリーで楽しめた。 ホラー小説かと思えば意外に「文学」している。 詩人は幻想小説の名手だけれど、佐藤春夫も典型です。思わぬ発見で楽しみができました。 ところで、佐藤春夫は和歌山県の出身です。 『熊野路』は江戸時代の先祖が書いた戯文に注釈をつけるかたちで故郷熊野の生活を描いている。 紀州(和歌山県)は津本陽や『枯木灘』の作家を生んだ土地です。 そして南方熊楠のような野性的な天才を育んだ場所でもある。 いつか旅してみたいと、思いました。 『熊野路』に描かれた江戸時代からの鯨漁の町太地、平安時代に参詣が盛んだった熊野、そして高野山。 紀州には魅力的なポイントがいっぱいあります。 |
『武蔵野・春の鳥』(国木田独歩)を読みました。 ほるぷ社より刊行された大活字本の独歩の選集です。 大きな活字が目に嬉しいとは、としなのか。 独歩の作品は小説に限るとすべて読んでいます。 若くして死んだので作品数が多くないからでもあります。 独歩が死んだ歳よりも上になってから読み返すと、いままで気がつかなかったことが見えてきます。 すぐれた芸術家は正確な記録者であるから、本人が意図しなかった事実まで書き込んでいる。だから、文字の背後から透けてみえてくる現実がある。 「源叔父」、「忘れ得ぬ人々」、「木戸の外」「春の鳥」。 哀しい人々の物語の数々に、さらなる物語が隠れている。 逆にいえば、独歩が理解していない現実、描こうとしかなかったもう一つの面が見えすぎるために、若書きという印象があります。 独歩は成熟することなく世を去った。文学が青年のものである限り、それでよかったけれど現在のように平均寿命だけでなく、社会人が知的活動を継続して「知的寿命」が伸びた時代にはつらいものがあります。 昔のように学生時代で本を読むのが終わるどころか、いまや学生が本を読まずに、おじさん・おばさんが本を読む時代ですから。 独歩が描かなかった現実が見えるということは、人の世で生きることの重さにようやく納得できた証しかもしれません。 ただ、今となって感じる不満はそれだけではありません。 独歩は哀しい人々を悲劇として書いた。 しかし、生きてゆくとは悲劇を笑い飛ばすこと。 泣いて笑って、人の世はなりたっている。 独歩はまだ真実の半分しか知らず、そして人生の半分しか描けないうちにに死んだのだと思います。 それはまた明治という時代の若さの証明でもあります。 |
© 工藤龍大