このところ語学に凝っています。 現代ギリシア語はなんとか入門書を読み終えたので、いまは復習中。 この調子で買いためてある現代ギリシア語の本が読めるようになりたいと思っています。 一般的な感想ですが、現代ギリシア語はプラトンの古代ギリシア語にかなり似ている。ただし、文法や統語論がかなり単純化しているうえに近代西洋語の要素を取り入れているので学習は楽でした。 発音そのものの北ヨーロッパのゲルマン系やフランス語よりは、南欧のスペイン語、ポルトガル語に似ている。ということは日本人の苦手とするリエゾンがそれほどきつくない。 これは語学学習者にとって、ほんとうに嬉しいところです。 ギリシアと並んで、目下興味が燃え盛っているのが中国。 良いことも悪いことも、中国は世界の中心になってゆくでしょう。 日本にとってのビジネスだけでなく、安全保障の面でも中国ははずせない。 ぼんやりと読むだけの中国語をもう少しブラッシュアップするつもりです。 日本人なら中国語と韓国語(ハングルとはいいません)は使えないと−−そんな時代がすぐそこまで来ているのです。 でも英語に比べれば、中国語や韓国語は習得が相当らくです。 こつこつやっていれば、あっという間に日常会話の読み書きはできるようになるでしょう。 そのように信じて、ただいま勉強中の日々です。 調べてみると、中国語の入門書は複数持っていました。 白水社エクスプレスの他には、東方書店、日東書院、梧桐書院の入門書。 中国語は文法がとてつもなく簡単なので、あとはひたすら単語を覚えるだけなのです。 こうなると、はてしなき挑戦あるのみ! どこからでも、かかってきなさい。 「どぶの中でも前のめりに死にたい」(@巨人の星)の心境です。 話は変わりますが、愛読している雑誌「大法輪」(大爆笑!)五月号を読みました。 今月の特集は「空海と真言宗」。 「空海と高野山展」の便乗企画でしょうが、なかなかよかったです。 真言宗信者(笑)としては「おつとめのお経とご真言・ご宝号」(小松庸裕)を拝見して背筋を正された思いです。 そういえば葬式のときに、菩提寺の和尚さんがこんなことを唱えていたなあと懐かしくも感じました。 それにしても東北出身のわが家でなぜ真言宗なんだろう。 その回答が「真言宗の歴史」(坂本正仁)にありました。 室町時代以降、近畿地方以外の東国・西国で真言宗の寺院が大量に出現したのです。 それを支えたのは地方の武士や農民層でした。 中世以降の真言宗は貴族宗教ではなかった。それは地侍や農民のものだった。 浄土宗と基盤を同じくする階層です。 「なるほど、それで東北地方にも真言宗が広まったのか」と、やっとわけがわかりました。 浄土真宗が戦国時代の勃興期になぜ北国(越前、越中、加賀)で真言宗とぶつかったのかという、もうひとつ長年かかえていた疑問も氷解しました。 新時代に対応してニッチェ市場に活路をみいだした老舗の中央大企業と、これまた地方展開で成長の機会をとらえた準・老舗の中小企業がシェアをめぐって激突していたわけでした。 |
『はじめての Windows LAN』(岡田庄司著、秀和システム)を読みながら自宅LANの構築に挑戦しました。 結果は惨敗です。 つながっていたネットワーク接続さえ消失してしまって、復旧のほうに時間がかかってしまった。 ME と XP のパソコンを共存するのがこんなに難しいとは思っていもいなかった。 ping コマンドを使っても、どちらの PC からも反応がかえってこない。 「なぜだ!」 (;o;) TCP/IP でルーター経由でインターネットにつながっているのに。 ワイヤレス LAN と有線 LAN を混在させているせいだろうか。 復旧に疲れたので、この件は来週にもちこすことにします。(涙) |
先週はやたら忙しかった。 残業時間の管理がきびしくなったので、自分の残業だけでなく、人の時間も管理しなければならない。 仕方ないからやっているという人を納得させるのが大変です。 労働法もいいけれど、企業はお役所じゃないってのがわからないのは困ったものです。 先週は『法律がわかる事典』(清水英夫編:日本実業出版社)と三省堂新六法平成十六年度版を読んで、法律のにわか勉強をやっていました。 民法の総則や商法を読んでいるとしらないことばかり。よくこんなでこの年までやってこれたなと感心してしまいます。 このごろ娯楽の読書ができないのがつらいですね。 ところで、昨日上野の国立博物館で「空海と高野山」展にいってきました。 連日のつかれか、頭が働かない。 感性もすりきれている感じで何もみてもぴんとこない。 どうしようかと思ったけれど、何にも考えない、感じないでいいんだと腹をくくったら、かえってよかった。 絵の具の退色した仏画や曼荼羅もぼけーっとみていると、シルエットがだんだん浮かび上がってくる。それが面白くて、畳何条分もある巨大な血曼荼羅(平清盛が絵の具に血を混ぜて描かせたという伝承のある両界曼荼羅図。金剛界と胎蔵界の二図からなる)を長いこと眺めていました。 国宝の仏像も気軽にアニメ・キャラをみるつもりで眺めていたので、とにかく楽しかった。無条件に楽しめるとはこのこと。空海さん、ありがとう。 関係ない話ですが、うちの宗旨は真言宗。「南無大師遍照金剛」(=空海さん)とつい唱えてしまいました。 なんだか浮かれて、ぶつぶつと口のなかで光明真言まで唱えてしまった。 気分だけ密教僧です。 わずかばかり知っている梵字の知識でも、曼荼羅に描かれた字の音がわかるのがうれしい。 うひひっと一人悦にいっているのが我ながら不気味です。 ひとはこうやってオカルトにはまるのでした。(汗) さて快慶作の重文・四天王立像を眺めているうちに、ひらめくものがありました。 仏教を守護する四天王なのに、ひとりだけ武器をもっていないのがいる。 それは西方を守る広目天。 ところが勇ましい他の天王たちが踏み抑えている邪鬼たちはそれぞれ首をもたげて、なんとかたてつこうとしているのに、広目天の下の邪鬼だけは観念しきっておとなしくしている。 他の天王たちは力の入った足で邪鬼の頭を踏み砕こうという気配です。 広目天だけは両足をしっかり踏ん張って、邪鬼を制圧している。 いちばん静的なポーズなのに、磐石の力強さを感じます。 この広目天が武器の代わりに持っているのが筆と巻物。 矛や刀よりも強い武器が、筆と巻物であらわされている。 快慶の天才でしょうね。人間世界の実相をみごとにあらわしている。 この筆や巻物があらわすものは詩文じゃない。 法律です。 さらに深読みすれば、広目天が守護する西方は、日本からみると宋にあたる(快慶は鎌倉時代の人なので)。 文化国家・宋をイメージしているのでしょう、きっと。 いずれにせよ法律は、矛や刀よりも強い武器だという認識はしっかりわきまえておかないといけないと思います。 追記: この展覧会では、源頼朝の自筆署名や北条政子の自筆書簡、一休禅師のお父さん・後小松天皇の自筆もありました。 書というのは肖像画以上にひとをあらわすものだと思います。 どこの歴史教科書にもある浅井長政父子、お市の方、武田信玄の肖像画も展示されていましたが、書のほうが人柄をあらわしています。 こういうものが見られるのはありがたいですよ、ほんとうに。 |
先週もめいっぱい忙しかった。 そのなかでなんとか『エクスプレス 現代ギリシア語』(荒木英世)を読了。 現代ギリシア語はこれでなんとかいけそうです。 古代ギリシア語と現代ギリシア語は、万葉語と現代語よりは距離が近い。 ただし、発音はずいぶん違う。古代ギリシア語はアルファベットとおりですが、現代ギリシア語は表記と発音が一致しない。 dはザ行となり、gは e、i のまえではヤ行になる。 規則性があるので簡単といえばいえなくもないが、古代語になれていると思わずとちります。 しかし変化形はずいぶん少なくなっているので、らくちんですね。 手元にあるギリシア語の歌(ブズーキなど)のタイトルあたりか辞書を引き引きしらべてみます。 ただ数百語くらいの語彙でも簡単にわかるものもある。 ギリシア音楽を世界に知らしめた映画『日曜はだめよ』のタイトルがそれ。 英語ではご存知のとおり "Never on Sunday" となっています。これは映画のタイトルでもあります。 ところが歌のギリシア語タイトルは、訳すと「ピレウスの子供たち」でした。 映画の訳詩ではメリナ・メルクーリ演じる気のいい娼婦が、11人も子供を産んでサッカーチームを作りたいと夢を歌っていた。 出だしはギリシア語の数詞の羅列です。つまり、それが子供の数なのです。 そして彼女の住むのが、アテネ近郊の港町ピレウス。 ここでギリシア狂ぶりを発揮すると、プラトーンの『クリトーン』で死刑の執行をまつソークラテースが友人クリトーンに「ピレウスに船は着いたか」とたずねるせりふがあります。 祭礼で他のポリスに出かけた船が寄港したら、ソークラテースの刑が執行されるのでした。 それにしても、この長音のつけ方がわれながらいやみですね。(笑) 今週のもうひとつの収穫は、『12時間でわかるJ2EE実践ガイド』(日本BEAシステムズ株式会社著)を読んだこと。 これでWEBアプリケーションを作れといわれると困るけれど、オブジェクトのデプロイメントとか実装が実際にどういうものなのか具体的にわかったのはうれしい。 もっかの本業、産業翻訳ではこういう知識が大事なんです。 先週は労働法について、少々お勉強いたしました。 三省堂新六法で、労働三法を読んでみました。 これを武器に企業と戦う人が知り合いにいるので、どういうものか知らなくてはいけないと思ったのがきっかけです。 いままで単純に翻訳をこなしていればよかったけれど、これからはそれだけですまないような雲行きです。 ところで、昨日デジカメを買いました。 CANON のQV−R51です。 500万画素で3万円で購入しました。 カラープリンターも買ったので、昨日・今日とセットアップで忙しかった。 今日は新座市の名刹・平林寺まで自転車をとばして行ってみました。 ついでに、試し撮りも。 写真の腕は−−まだまだでした。 |
新選組ブームにうかれたせいか、立て続けに新選組ものを読んでしまいました。 『幕末新選組』(池波正太郎) 『新選組事典』(鈴木亨編) 『新選組全隊士徹底ガイド』(前田政記) 二番組組長永倉新八が主人公の『幕末新選組』はあっさりしたタッチですが、快漢・永倉新八の風貌をよく伝えている。 現在にのこる写真をみても永倉はなかなか魅力ある男だったようです。 それにしても、新選組が現代で愛される理由はなんなのか。 三谷・大河ドラマの面白さはさておき、新選組には熱烈なファンが多い。 やはり土方・沖田という美形の魅力はあるでしょうが、もちろんそれだけではない。 幕末を駆け抜けた彼らには、判官びいきの義経につうじる潔さ、はかなさといった日本人このみのヒーロー性がある。 わたしにとって司馬さんの描く土方歳三(「燃えよ剣」)が少年時代からヒーローだった。 ただ近頃になって、近藤勇の生き方のほうに興味が出てきました。 津本陽がみぬいたように近藤は稀代の剣豪でした。 ただ剣の達人という意味であこがれるのではなく、激動の時代にどう身を投じたかが面白い。 むざんな結末をむかえたとはいえ、三十四年の生涯は果敢で勇気に満ちている。 新選組結成から五年で死を迎える近藤の生涯は、夜明け前の近代日本の縮図にほかならない。 土方人気におされて愚者のイメージで描かれることが多い近藤ですが、いろいろな資料を読んでみると軽くあつかっていい人間ではない。 たとえその人生が失敗に終わったとしても、こころを打つものがあります。 そのようなありかたはひとり近藤に限らない。 佐幕派の会津藩の人々のことを考えると、われしらず涙がこぼれます。 新選組の最初の屯所があった壬生寺にいったことがありますが、それよりも会津藩が駐屯していた金戒光明寺の会津戦没者墓地のほうに心惹かれるものがありました。 それとしりながら幕末にこの国でもっとも大変な貧乏くじをひいた会津藩。 新選組の遊興費も、会津藩士のつましい生活がたくわえた藩費からでていた。 島原の太夫を近藤が身請けした金も、新選組の組長たちが女と酒に費やした金もつましく、つましく暮らした会津藩士たちの家庭があってこそのもの。 いまわたしにとって、新選組隊士よりも、かれらを支えた多摩の人々や、近代日本誕生の踏み石にされた会津藩のほうが重い。 近藤の実父・宮川久次郎は明治十九年になくなっているそうです。 また近藤の兄・宮川音五郎の息子・勇五郎が近藤の娘瓊子(たまこ)の婿となり、刑死した勇の死体を実父・音五郎とひきとった。 このとき勇五郎は十八歳。 やがて天然理心流五代目当主となる音次郎は土中から掘り起こした、首なしで皮膚のむけた岳父でもある伯父の死体をみてどんな思いをしたことか。 「残念だろ、残念だったろう」というその場にいあわせた兄・音五郎の言葉がいまに伝わっています。 情がこわいけれど、純情な多摩人の一面をみた思いがします。 |
このごろ池波正太郎さんのエッセイを読み直しています。 あらためて未読のエッセイを集めてみました。 『小説の散歩道』(池波正太郎) 『食卓のつぶやき』 『私が生まれた日』 『私の仕事』 『私の仕事』 『気ままな絵筆』 『私の歳月』 『映画を見ると得をする』 朝日文庫、講談社文庫、新潮文庫の未読エッセイ集を集めるとこれぐらいありました。 たぶん、これでエッセイはすべて読んだことになります。 『私が生まれた日』から『私の仕事』までは朝日文庫の自選エッセイなので以前読んだものがほとんどでした。 戦前の小学校卒で、13歳から働きはじめた池波さんの人生がこもったエッセイは並みの文学者のものとは断然ちがう。 株屋の丁稚として世の中をわたりはじめたこの人にとって、街の大人たちが師匠でした。他の店の外交員、株仲買人の店主や上司、同僚。そしてローティーンの頃から通った吉原のお女郎さん。 女郎さんは、あどけない少年の池波さんに性の手ほどきだけでなく、酒の飲み方やファッション、大人とのつきあい方まで教えてくれました。 ハイティーンになって徴兵されるまで、この人が池波さんの面倒をみた。 出征の前には、池波さんのお母さんがお礼をいうためにこのお女郎さんに会いにいったそうです。 この時代にであった人々が劇作家として、時代小説家として活躍する池波さんを形づくったのです。 鬼平、剣客商売、仕掛人の人気シリーズの主人公たちばかりでなく、数々の池波作品に登場するキャラクターに少年時代の池波さんがであった人々が投影されている。 そして池波さんを育てたもうひとつのものは映画だった。 戦前、戦後をつうじて池波さんは映画をつうじて外国や人生を学んだ。 戦後教育を受けたわたしたちよりも、13歳から世の中でもまれ続けた人には洋画でみる外国の生活もよほど身に迫ったものとして理解できました。 熱愛したフランス映画は血肉となって、後年の池波作品の骨格となった。 たとえ小説家とならなかったとしても、池波さんの人生には頭がさがる。 この人のエッセイはわたしにとって「宝物」です。 |
© 工藤龍大