今週読んだ本をざっと振り返ります。 『認識と超越 <唯識>』(服部正明・上山春平) 『大乗仏典』(長尾雅人編) 『仏教史入門』(塚本啓祥) 『フロイトとユング』(小此木啓吾・河合隼雄) 『BAR レモンハート酒大事典』(古谷三敏) わけありで、仏教の唯識思想にはまっています。 『認識と超越 <唯識>』は角川文庫の「仏教思想」四巻目。 『大乗仏典』は中公ブックスの世界の名著。 学生時代からの愛読書ですが、また読み直しています。 唯識思想は、日本で言えば法相宗となり、奈良の興福寺と薬師寺が本山です。 この思想は世界を心の現われ(表象)とみなす唯心思想であり、その精緻な分析は深層心理学をはるかに凌駕している。 トランスパーソナル心理学に取り入れられたアラヤ識も唯識思想の産物。(ただし厳密にいうと非仏教のサーンキヤ派とか、小乗仏教の経量部、説一切有部などをもちださなければならないのですが......) 仏教の理論的側面は小乗仏教の倶舎論(アビダルマ)と、大乗仏教の唯識思想(学派としては瑜伽行唯識学派)が基本中の基本。天台宗(およびそれから派生した各宗派)と真言宗は唯識思想を踏まえたうえでの、その超克という立場です。だから、唯識思想を知らなければ話にならない。 あの三蔵法師玄奘がわざわざインドまで出かけたのは、この唯識思想の完全移植を企図したからです。 ただ、唯識思想はアビダルマ思想に対する大乗仏教からの反論という立場なので、倶舎論を知らないと、唯識思想はわからない。 だから、お坊さんになる過程では、アビダルマと唯識思想は必須だそうです。 精密な理論で構築された唯識思想を集大成したのが、五世紀ごろにインドにいたアサンガ(無著)とヴァスバンドゥ(世親)の兄弟。 とくにヴァスバンドゥ(世親)は、倶舎思想の集大成も行っている。 いったい、この人はどういう人だったんだろうと思って、ひもといたのが『仏教史入門』です。 この本のおかげで、十二世紀のインドにおける仏教滅亡までの歴史に見落としがつきました。 『大乗仏典』には、ヴァスバンドの主著『倶舎論』の抄訳が「存在の分析」、『唯識二十論』が「二十詩篇の唯識論」として納められています。 どちらもサンスクリット本からの訳で、当然漢訳も参照し、前者はチベット訳まで参照してある。 こういう本が手軽に読めるのは、とんでもない幸運だと、玄奘の苦労を思わずにいられません。 同書に所載の「中正と両極端の分別」が「中辺分別論」(真諦訳)・「弁中辺論」(玄奘訳)として歴史的に有名な論書であることを改めて確認しました。 この両訳書は日本仏教の本を読んでいると、かならずでくわす書物です。 大学生の頃に読んだときには、なんにもわかっていなかったんだなと苦笑いしてしまいますね。 さらにいえば、「認識と論理」という一編は、仏教最大の哲学者といわれた七世紀のインド僧ダルマキールティ(法称)の思想を他者が整理要約したもの。これに、インドの仏教四大哲学派(説一切有部・経量部・唯識派・中観派)の思想要約を付け加えたので、「一種の仏教知識論概説をなしている」とか。 すごい本だったんだなと改めて驚きました。 これに比べると、『フロイトとユング』はほほえましい。 けっこう入り組んだ深層心理学の治療理論が素朴に思えてほほえましい。 もっとも、高踏な議論にふけっているうちに、インド仏教がヒンドゥーイズムに飲み込まれ、イスラムに破却されたのも当然かなという気にもなります。 少々しんどい読書で疲れたあとは、『BAR レモンハート酒大事典』で骨休め。 うんちくマスターとメガネさん、松ちゃんのかけあいを思い出しながら、世界の酒を眺めています。 それにしても、まだ飲んでいない酒がいっぱいあるなあ。 とうぶん人生に退屈しないなとうれしくなる読書でした。 |
ついにパディントン・シリーズを読了しました。 『パディントンとテレビ』(マイケル・ボンド) 『パディントンと煙突掃除』(マイケル・ボンド) 『パディントン 妙技公開』(マイケル・ボンド) ブラウン一家と暮らすクマのパディントンの物語も『パディントン 妙技公開』で終わり。 イギリス家庭にテレビが入り込む時代を描いた『パディントンとテレビ』から、エネルギー革命以前の暖炉で、パディントンが煙突掃除をする『〜と煙突掃除』。 このあたりになると、ペギー・フォートナムの挿絵がいよいよ可愛くなってきます。 ペルー生まれのパディントンも、近衛兵の軍楽隊のコンサートに紛れ込んだり、マダム・タッソーの蝋人形館を訪問したり、クリケットに出場したり、市民演劇コンクールに出演したりと、家庭外で英国中流階級の楽しみを満喫するようになります。 親切なブラウン一家のおかげで、ペルーの老クマホームにいる育ての親ルーシーおばさんに会うためペルーに里帰りすることもできました。 『パディントン 妙技公開』では株を買ったり、家の改築(怪築?)をやるほどに、英国人化したパディントン。 どんどん英国文化を吸収して、エトランジェとしての魅力がなくなってきました。 こうなると、サザエさんや寅さんのような偉大なるマンネリとなりますね。 パディントンの世界で英国に親しみがわいたせいか、童話が無性に読みたくなりました。 『愛蔵版ピーターラビット全おはなし集』(ビアトリクス・ポター、福音館書店)は、ビアトリクス・ポターの絵本の集大成。 なによりも絵がかわいい。 しかし童話の中身はかなりビターです。 かわいい絵柄の「ピーターラビットのおはなし」「りすのナトキンのおはなし」に描かれているのは、禁忌と倫理の問題、父性が欠損した世界の危険です。 また『「ジンジャーとピクルズや」のおはなし』は、農村共同体に資本主義の論理がもちこまれたときの悲劇として読めるし、ハイイロリスの『カルアシ・チミーのおはなし』は家庭崩壊とその再生の物語でもある。 こんなことを考えるのも妙な話だけれど、イギリス近代史のいろんなエピソードが連想されてただのファンタジーとしては読めない。 ちょうどマルクスやエンゲルスがいた時代でもあり、英国ナショナルトラストが建設された時代でもあります(ポターはもちろんナショナルトラスト運動の推進者のひとりでもある)。 それを考えると、ポターの作品に社会に対する義憤が潜んでいるのは当然ですね。 イギリスは「童話の国」といわれるのは、この国では社会に対する風刺を「童話」という形式で残したからです。 大人同士の不毛な論争よりも、こどもを通じて次世代にメッセージを伝える文学的伝統があったのです。 こういうした発想は、理想に燃えた社会改革論者だった宮沢賢治と通じるところがあります。 賢治童話も、考えてみれば、岩手の住民(農民だけとは限らない)が置かれた悲惨への義憤に満ちている。 童話というのは、倫理をメインテーマとする文学形式です。 すぐれた童話をたくさん生み出す国民性というのは、あなどれません。 イギリスは−−偉い! |
今週と先週読んだ本をざっとみてゆきます。 『パディントンの一周年記念』(マイケル・ボンド) 『パディントン フランスへ』(マイケル・ボンド) 『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(宮崎里司) 『夫・力道山の慟哭』(田中敬子) 『超旅行法』(野口悠紀雄) 最初は、このごろすっかりはまってしまったパディントン・シリーズ。 暗黒の地ペルーから、イギリスへやってきたクマのパディントンが、ブラウンさん一家とレストランで会食するのが「一周年記念」のお祝いです。 テムズ川にピクニックにいったり、映画を観たり、日曜大工・料理・洗濯とブラウンさん夫妻を助ける(?)けなげな若い英国グマ氏の奮闘には、涙をさそわれます。 イギリスで居候するには、ホームメイドなみにがんばらないといけないという教訓がいたいたしい。(笑) ところで、『パディントン フランスへ』ではブラウンさんに日ごろの働きが認められて、バカンスでフランスにつれていってもらったパティディントン。 「いんうつな」ブルターニュに腰をすえて、ツール・ド・フランスにちゃっかり参加したり、ともだちがいっぱいできたりと幸せそうです。 もしかすると、イギリスよりもフランスに密航したほうが幸せだったのか? しかし、パリでは親切な人が密航グマを助けることなんて、まずないだろうから、やっぱりイギリスに行ったのは正確だったかも。 少なくとも、パディントンはブラウンさん一家には愛されている。 だいいち、フランスのパリの駅名がついたら、あんまりかっこわるい。 モンパルナスだの、サンジェルマンなんて名前ではあやしすぎる? 『超旅行法』(野口悠紀雄) 野口先生の「超」シリーズはあまり啓発されません。 本書も例外ではない。 この人の本は、情報革命に乗り遅れた50代後半以上の人向きです。 力道山の未亡人・田中敬子さんが書いた『夫・力道山の慟哭』は、面白かった。 昭和14年に大相撲の関取をめざして、北朝鮮(或鏡南道)から日本へやってきた金信洛少年が、「金村光浩」と改名し、やがて後援者の日本人と養子縁組して「百田光浩」となる。 力道山関が大相撲と決別してプロレスラー「力道山」となるまでの話はざっと触れられているだけで、本書のポイントは敬子未亡人(百田家から席を抜いて旧姓に戻ったとか)が二人の馴れ初めから半年に満たない新婚生活、膨大な借金返済の苦労(これはごく簡単にしか書いてないけれど、行間から苦労がうかがえる)です。 力道山の家族関係は、おそろしく複雑だったらしい。 北朝鮮にも娘がいるらしいし、日本でもうけた子どもも田中さんの産んだ娘(力道山没後に誕生)のほかに、他の人にうませた一女二男がいる。息子たちは、ノアにいった故百田義浩・光雄兄弟。この姉弟を育てた人も別にいた。こちらも愛人らしい。 敬子未亡人の著書は夫の祖国北朝鮮への思いがあふれています。 力道山は民間大使として、韓国の権力者と会談するようなことをやっていたらしい。 早すぎる死で頓挫していたけれど、観光・不動産業を柱にした事業帝国も夢見ていた。 敬子未亡人にすると、力道山のDNAをいちばん濃厚に継承したのは、アントニオ猪木だとか。 平壌で格闘技戦を開催するなんて発想は、力道山のDNAかもしれない。 猪木はいちばん可愛がられたと同時に、いちばん殴られた弟子だった。 あのビンタも、力道山のDNAだったのか。 血縁の子どもはいっぱいいるけれど、力道山のほんとの「継承者」は、いちばん「可愛がられた(=相撲・プロレス界の特殊用語で『殴られた』という意味)」猪木だと、敬子さんはいいたいのだと納得しました。 そういえば、韓国ではあのソル・ギョング主演で「力道山」という映画が撮影されています。 ソル・ギョングといえば、NHKの「聖徳太子」で注目され、「シルミド」で主演した名優。 配役をみると、藤竜也が力道山の後見人・百田己之助、萩原聖人が遠藤幸吉、船木誠勝が木村正彦のようです。 他に中谷美紀が力道山の恋人の芸者役で出演するらしい。 この芸者という人が、百田兄弟の母ということになるのでしょう。 しかし−−あまりにも複雑すぎる力道山の家族関係を、きれいごとにおさめるのは無理なような気がします。 |
東京都立美術館で開かれている「よみがえる四川文明」展に行ってきました。 中国の古代青銅器に、わたしは目がないらしい。 あの三国志の蜀があった四川省で発見された三星堆(さんせいたい)遺跡の展示には、毎回でかけています。 今回は、女子十二楽坊のビデオ案内つきで、ボリュームもかなりのものでした。 三時間歩き回って、すっかり疲れてしまった。 謎の遺跡として有名だった三星堆遺跡ですが、他地域の広範な考古学データとの比較によって、かなりいろいろなことがわかってきたようです。 今回の展示では、三星堆人の宗教生活にもかなり踏み込んでいます。 ここの人々は、鳥をあがめ、神の姿を人面鳥身として描きました。 そして、宇宙観をあらわすのみ、神樹のモチーフを使った。 神樹といえば、北欧のイグドラシルですが、鳥と樹木崇拝をとりあわせると日本の弥生時代の宗教が彷彿とされる。 ただ三星堆遺跡でイネが栽培されていたかどうかは寡聞にして知りません。 日本のイネが長江となんらかのかかわりがあることは確かだけれど、三星堆遺跡との関連は不明です。 すこし気になるのは、この文化には人身供犠の風習があったらしいこと。 どうやら、トラも神と認め、捕虜などを捧げていたらしい。 トラの像や、トラがニンゲンを飲み込む図像があったりするのが証拠です。 歴史時代でも中国南方では、トラの被害が大きくなると、人を捧げたりしたから、殷と同時代の三星堆文化がやっていても不思議はない。 殷は羌人や「テイ人」を神に捧げた民族ですから。 三星堆の神々は、あまり優しくない恐ろしげな存在だったようです。 会場で購入した『三星堆・中国古代文明の謎』(徐朝龍)を読むと、中国古典『山海経』の世界観で三星堆文化を読み解くアプローチが紹介されていました。 怪力乱神の書『山海経』は、失われた古代長江文明の世界観を断片的とはいえ忠実に伝えたものであるらしい。 あまりにも簡略化しすぎるきらいはあるけれど、『山海経』『淮南子』がつたえる世界は道教の源流です。 ついでにいえば、ついに儒教は中途半端な形でしか導入しなかった日本人ではあるけれど、道教の思想(儀礼ではなく)は神道や陰陽道をつうじてずい分日常生活レベルで受け入れている。 日本人であるわたしが、長江文明にしたしみを感じるのは当たり前のことなのです。 |
酒の本についての続きです。 『夏子の酒』が話題になり、和久井映見主演のドラマが放送されたころ、この国では日本酒ブームが起きていました。 新潟産の吟醸酒を中心とした、端麗辛口のすっきりした純米吟醸酒が人気となりました。 各地の酒蔵は、もともと日本酒品評会に出品するだけの、いわば「賞取り」用の秘密兵器にすぎなかった吟醸酒にちからを入れ始めた。 おかげで、日本酒もずい分美味しくなりましたが、ここにきて地酒ブームが終わり、いよいよ日本酒離れがすすんでいます。 端麗辛口の吟醸酒は、米をアルコール添加の本醸造よりも磨いて使うために割高になる。そこへもってきて、ジャンクフードで育った若い世代がアミノ酸の味を楽しむ能力をうしない、さらに「飲みニケーション」することもなくなったので、市場が狭まっている。 業界は芳醇旨口(ほうじゅんうまくち)という切り口で、端麗辛口の冷やで飲む方法のほかに、熱燗をすすめたり、端麗辛口にはあわない濃厚な味の料理ととりあわせて飲む方法をすすめているけれど、その戦略は効果がでていません。 そこで進出したのが、価格が安くて、居酒屋料理から西洋料理・中華料理にまでとりあわせられる焼酎。 蒸留酒が濃い味の料理にあうことは、沖縄の泡盛がその長い歴史で証明している。 焼酎はロックも、冷やも、お湯割りもオッケー。 日本酒が進出しようとしたニッチ(すき間)にはぴったりな酒なんです。 清酒の酒蔵のなかには、酒造りでできる酒粕から粕取り焼酎をつくるところもでてきました。 ただし、焼酎はあまり利益がでない。 地方の焼酎酒蔵はブームののってつぶされることを危惧して、増産にはふみこめない。 だからこそ、「幻の焼酎」ブームが起こる。 ずっと不遇の時代を必死に生き抜いてきた焼酎酒蔵は、自分たちをささえてくれた地元の人たちを優先して、浮気な都会人を信用していない。当然ですね。都会人なんぞに、生産者をささえる信念もパワーもあるわけがない。 いい例が発泡酒。 発泡酒をつくっている大手酒造メーカーは、この都会人が相手だから、いよいよ苦しくなって、発泡酒よりも利益の出ないビール風飲料を開発せざるをえない。 大企業だから値崩れ合戦にも耐えられるけれど、地方の家内制工業にすぎない焼酎酒蔵にそんな体力はありません。 『日本酒ベストセレクション350』(太田和彦監修) 『本格焼酎ベストセレクション350』(猪俣吉貴監修) こんなカタログを眺めていると、アテネ・オリンピックよりも感動します。 なにか大切なものを守るために必死に働く人たちの姿が浮かんでくるからです。 そんなことがわからない人は、メチル・アルコールでも飲んでいればいい。 しかし、焼酎の未来も厳しい。 『本格焼酎を楽しむ』(田崎真也)を読んで、焼酎業界が直面している大問題を知りました。 それは、人気の芋焼酎の原料となる、酒用のサツマイモが不足していること。 焼酎につかうサツマイモは、料理につかうのとは別種の酒用の特別な種類です。 サツマイモ全体が輸入押されて、農家はサツマイモを栽培するよりも、花卉を栽培したほうが儲かる。 原料不足も「幻の焼酎」を生む原因らしい。 「幻の焼酎」のほとんどは芋焼酎です。 「しょうちゅうを世界語に」とがんばっている『本格焼酎〜』の監修者・猪俣吉貴氏もそのことを案じている。 猪俣さんは本の編著者紹介によると、ジャパンリカーサービスというお酒の販売会社の常務取締役とのこと。 このブームが終って、本当に焼酎を愛する人たちが蔵元をささえて、業界が発展することを希望しているという猪俣さんの文章に同感です。 |
© 工藤龍大