あっという間にクリスマスも終わって、心は「仕事納め」! このところ小説づいていて、三冊ほど読み上げました。 『下妻物語』(嶽本野ばら) 『阿弥陀堂だより』(南木佳士) 『地を這う者』(高村薫) 『最後の息子』(吉田修一) 有名どころばかりで、あまり新鮮じゃありませんね。 しかも映画化されたのが二冊ある。 高村薫は見切ったように感じました。 この人は分かっていそうで多分何も分からない人ではないかという気がします。 知性がありすぎて、感情と霊性がわからないタイプだと思います。 だから現代人には合うのかもしれません。 少女趣味かと思っていた嶽本野ばらは意外な収穫でした。 この人は哲学者ですね。 あの文体で、哲学しているところが素敵です。 本職が医師の南木佳士は、あくまでもまっとうな文学の王道を歩いています。 過疎の田舎が自然と霊と人間が共存するユートピアになる。 こうした作品には手が痛くなるほど拍手したい。 吉田修一もまた文学の王道なんでしょうが、南木とは流派が違います。 こちらの方が多数派に受けるように思えますが、なんとなく物足りない。 体育会系の汗の臭いがきつくて、まだ熟成が足りないようでした。 ただおかまのヒモをしている主人公の『最後の息子』と、この本に含まれているのはデビュー作以後の作品だから、この判断は早すぎるかもしれません。 もう少し作品を読んでみる価値は感じます。 そして最後の一冊はルドルフ・シュタイナー。 『魂のこよみ』(ルドルフ・シュタイナー) シュタイナー思想の権威、高橋巌先生の訳業なので、安心して読めます。 短い詩のような文面でドイツ語原文が収録されているのが嬉しい。 四季にあわせて人間の魂がどのように成長し、宇宙と交感するかが美しいイメージで描かれています。 これを「宗教」と切り捨てたり、「電波」と哂う人は気の毒です。 追記: パディントンの原作の数が判明しました。 全10冊で残り3冊が未訳です。 来年、注文して読むつもりです。 |
『CD エクスプレス古典ギリシア語』(荒木英世) 『基礎ギリシア語文法 文法編・読本編』(高津春繁) 今年こそLoeb 叢書で、プラトンとクセノフォンを通読と計画していましたが、また時間切れでした。 することが多すぎて、ギリシア語を読む時間がとれません。残念! 今年は名著の評判が高い高津版の『基礎ギリシア語文法 文法編・読本編』と、ギリシア語朗読CD込みのエクスプレスを買ったことでよしとしておきます。 『Paddington's Storybook』(MIchael Bond)が届きました。 ペルー出身のクマ、パディントンのコンパクト版全集と思いきや、全10冊の長編から一章ずつ抜粋したものと判明。 「こんなのありか!」とちょっとびっくり。 ところで、原作のパディントンは何冊あるのでしょうか。 日本語訳があるのは七冊。原作はもっとあるはずなのですが、タイトルと数がわからない。 http://www.paddingtonbear.co.uk/en/1/home.mxsにオフィシャルサイトがあるけれど、わかりません。 アマゾンで探してもよくわかりません。 困ったものです。 『道草』(夏目漱石) この小説は、漱石の自伝的要素が強いといわれ、じじつ漱石が義絶した養父に金をせびられるだけの話に終始しているようにみえます。 時代を考えると、日本文壇が自然主義に染まっていた時期でもあり、漱石ができる範囲で時代にすりよってみせた「手練の冴え」が光っています。 「職人誇り」の作品で、自然主義作家と新しもの好きの朝日新聞読者を手玉にとったという感じです。 うつ病気分と、心身症の人々(自身と妻がモデル)を描く筆致はいよいよ陰影が濃く、神経症的症状に悩む人はいわくいいがたい親近感をもつのは間違いありません。 漱石にもカルト作家の一面があったという証拠です。 この年になって漱石を読み返してみると、この人は高校生や大学生が理解できるような「たま」じゃないことが分かります。 むしろ子どもにビョーキを移す伝染病キャリアみたいな人です。 しかし、このくらいのウイルスは体内に飼っておいたほうがいい。 むかしの本に「いい女は寄生虫を飼っている」とかなんとかいうのがありました。 花粉症も生活環境から回虫がいなくなったせいで、自己免疫機能が生体構造を自己攻撃しているという説を紹介した本だったと記憶しています。 漱石のウイルスは、自己懐疑(つまり、自分は生きてていいんだろうかという疑い)でこれが発症すると自己否定、自己憎悪の病状が発現します。 これは麻疹と同じで、わかいうちにやっておくのが安全で、中年以降に発症すると青木が原や電車線路がなつかしくなる。 「手遅れにならないうちに漱石を読もうよ、中年」ととりあえず云っておきたい。 青年は救われないので、中年がしっかりするしかないなと漱石を読みながら考えていました。 |
しばらくぶりの読書日記です。 『彼岸過迄』(夏目漱石) 『海鳴り』(藤沢周平) 『日暮れ竹河岸』(藤沢周平) 二週間前の日記に書いた上記はめでたく読了。 藤沢さんの作品は人情ものよりも、歴史ものが好きです。 人情ものは読んでいてつらい。 『海鳴り』は最終章の前までは、きっと主人公たちを殺すつもりだろうなと暗澹としながら読んでいました。 ラストが救いでした。 小説家の筆致は主人公とヒロインを蟻地獄のように、破局へと追い詰めてゆく。 このラストは全体の構成からみると破綻といえる。本来は、江戸の心中ものを書く予定だったのでしょう。 ところが、藤沢さんは心中ものにはしなかった。 ここに高貴な魂の戦いがあったように思います。藤沢さんがこの戦いに勝ったことは言うまでもありません。 魂の位においてステップアップしたからこそのラストで、安易なハッピーエンドではない。 『日暮れ竹河岸』に納められた短編集は、この物語にくらべると優しいけれど、深みにかけている。 わたしは藤沢さんに安定や安心感を求めているのではなく、「狼の目」を期待しているのです。 最近の大学生は読解不可能になったという漱石。 かれらの国語力では無理でしょうね。 漱石が読める大人はなるべく長生き(九十歳以上?)して、1995年以降に生まれた子どもたちに文化遺産を伝える義務と責任があるのではないか。 まだ、その年齢なら言語習得に希望がもてる。 それ以上の年代はすでに手遅れでしょう。 1980年代以降の青少年は文化遺産を継承することなく、消滅する運命が待っているような気がします。気の毒だけど、もうどうしようもない。 それはさておき、再読した『彼岸過迄』は面白かった。 なんといっても、小説家漱石の「小説のたくらみ」が随所にある。 このことは漱石が新しい「人間」の姿、新時代の「理想」を、ニヒリズムと無関心に仮装しながら探求していた証拠です。 文学とは、シャイな作家が皮肉っぽく語る無価値の遊戯性を求めるものではなく、高度に倫理的な作為なのです。 父の不倫の子である自分の存在に懲罰的な懐疑をいだく須永と、自然の申し子としての「女」であること従姉妹の恋愛は、自伝的長編『道草』の健三夫婦の仲にも投影されています。 このごろ、漱石という人がどんどん近しくなっている感じがします。 『英国一〇一話』(林信吾) 『林望のイギリス観察辞典』(林望) 『リンボウ先生ディープ・イングランドを行く』(林望) 『英国で一番美しい村コッツウォルズ』(辻丸純一) 『お茶しませんか、英国で』(小野まり) 以上、ざっとイギリスものを通読しました。 観光旅行前にどれだけイギリス情報を収集できるか−−海外旅行の楽しみはここから始まると考えています。 少なくとも、イギリスがお茶を飲み時間についてはよくわかりました。 朝のモーニングディー、11時のイレブンズ、12時のランチ、3時から4時にはじまるアフタンーンティー。ハイティーはワーキングクラスまたは地方の夕食。 一日中お茶ばかり飲んでいて研究がはかどらなかったというリンボー先生の回想に納得しました。 |
© 工藤龍大