このエッセイは、2000年からほぼ一年更新していない。 理由は、繰り返しになるが、『論語』の中でも名言が詰まっている「第七 述而編」に入ったからだ。 『論語』のこの部分は、一つ一つ含蓄のある言葉ばかりなので、切り込むのが難しい。どうにも手がつけられない。 しかし、いつまでもそんなことを言っていても仕方がない。 自分なりに解釈して、読んでいく他はないと覚悟を決めた。 【第二章】: 「子曰く、黙してこれを識(しる)し、学びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず。我に於いて何事かあらん」 「先生がいわれた。『黙って覚え、学んであきず、他人に教えていやにならない。こんなことは自分にとって何でもないことだ』」(貝塚茂樹・訳) 貝塚先生の注によると、「識(しる)」という言葉は、『注意を集中してこれを記憶するまで頭にたたきこむこと』とある。 孔子という人は「萬世師表」と呼ばれるだけあって、学者・教育者としては超一流。だから、この言葉には重みがある。 学者といっても、記憶と学習は好きだけど、学生に教えるのがひどく苦手な人もいる。頭はいいけれど、人の成長を待つ忍耐力がないからだ。 孔子は「自分にとって何でもないことだ」と言うが、これを出来る人は本当に少ない。こういう教師にめぐり合うことは奇蹟といっていい。 しかも「誨(おし)える」という言葉は、漢字の原義に照らすと「教える」という一般的な概念ではなく、一つ一つの事柄を懇切丁寧に実地に指導する具体的な行為をさしている。つまり個別指導に心を砕くことを、「何でもないことだ」と言っているわけである。 これがどれほど大変かということは、人にものを教えた経験があれば骨身にしみてわかる。そのつらさに耐えられなくなって、職業的教師は手抜きを覚えるのだから。 「我に於いて何事かあらん」という言葉は、そう考えると、ただの述懐ではない。 むしろ己の生き方の覚悟を宣言するマニフェストだ。 この文章を、孔子が自分の人生をさりげなく語ったという解釈もある。 そのような解釈も可能だが、この「我に於いて何事かあらん」という語気の激しさはどうだろう。 孔子は穏やかな相貌の下に激情家を隠している。 世捨て人じみた学者ではない。優しいだけの教師でもない。 やはり、この言葉は孔子の覚悟のほどを吐き出した真情だと思う。 すると、次の第三章の理解が決まってくる。 【第三章】: 「子曰く、徳のおさまらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙(うつ)る能(あた)わざる、不善改ため能わざる、これ吾が憂いなり」 この解釈には異説がある。 孔子本人を対象にしたもの。世間の人々や弟子の至らなさを心配したものとする二説である。 貝塚先生の注では、前の第二章と矛盾するから、これは弟子たちの至らなさを心配したものだとある。 「道徳の修養ができない、学問の勉強が足りない、忠告を受けてしたがうことができず、過ちを知りながら改めることができない、それがわたしの心配ごとである」 (貝塚茂樹・訳) 前の文を「宣言」と読めば、第三章はひたすらな自戒の言葉と考えざるをえない。「学びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず」という人でなければ、こんな科白が口から出るはずがない。 「論語」を繰り返して通読してみると、この書物が漫然と孔子の発言を集めたものとはどうしても考えられなくなる。 誰かは分らないけれど、編集した人のある意思を感じないわけにはいかない。だから、一つの「編」には有機的な関連があり、それぞれの「章」は前後の章の文と切り離すことができない構造にある。 第二章と第三章が、孔子という人間の生き方そのものの現れと解釈せざるえない理由はそこにもある。 ところで、「論語」の編纂者の巧みさは、次の第四章でも発揮される。 【第四章】: 「子の燕居(えんきょ)、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭(ようよう)如たり」 これの意味はこうである。 「先生がくつろいでおられるときは、のびのびとまたにこやかであられる」(貝塚茂樹・訳) 第二章と第三章をみる限り、孔子はすさまじい努力の人である。 決死の眼差しで教育と研究に励む一流の学者・教育者だ。 そういう人を考えるとき、一徹な孤高の人を連想しないわけにはいかない。学者には、そういう人が多いのも事実だ。 しかし、編纂者は「燕居」(えんきょ)の時の孔子の姿は全く別であったと伝えている。 「燕居」とは訳文では「くつろいでおられるとき」とあるが、貝塚先生の注を読むと、「役所から自宅に帰りくつろいでいるとき」というのが本当の意味である。 だが、これは魯国の官僚であった時代に、孔子は役所では謹厳、自宅では「のびのびとしてにこやかだった」という意味ではない。 魯国を捨て、諸国を放浪したのち、故国に帰って無位無官の教育者として生涯を終わった孔子には、役所は無縁だった。 自宅を私塾として、弟子たちの僅かな授業料で生活していた。 だから、むしろこの言葉は私塾や自宅での孔子の姿を現している。 弟子たちの前では、いつでも「のびのびとまたにこやか」だったのである。おそらく、放浪時代の孔子を知らない若い世代の弟子たちは、そのような孔子しか見たことがなかったに違いない。 教え子たちのために常に心胆を砕き、自戒の言葉を胸に刻みながら、孔子は「のびのび」と「にこやかに」弟子たちと接していた。 第四章には、論語編纂者が孔子に寄せた敬愛と賛嘆が詰まっている。 「これほど、自分たちを愛してくれた人がいるだろうか」 この言葉を書きとめた人の眼には、きっと涙がにじんでいたに違いな いと、わたしは勝手に想像している。 追記: このエッセーは、メールマガジン No.23 に執筆したものです。 |
子曰く、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。ひそかに我を老彭に比す。
「第七 述而編」は「論語」のなかでも名文句が詰まっている部分である。 できれば、最初から最後まで手帖にでも書き移して、いつも眺めていたい。 そんな気になる。 その「第七 述而編」の冒頭にある言葉がこれ。 「述べて作らず」とは、 この場合、「周王朝の礼楽を正しく研究して発表するが、新たに自分流の礼楽制度をでっちあげたりはしない」という意味である。 古代とは孔子が理想とする周王朝の政治・宗教制度のことで、「信じて古を好む」とはその価値に疑いを抱かず、飽くことなくそれを研究する決意をあらわしている。 「好き」でなければ、そんなことはできないから、ここはそう解釈したい。 貝塚先生の解説では、「述べて作らず」という言葉には礼楽の制度を新設するというような政治的行為はおこなわないという決意がこめられているとある。
「政治からできるだけ遠ざかって、ひたすら礼つまり古代の文化の真義をあきらかにし、
どうやら、その根拠は「ひそかに我を老彭に比す」という言葉にあるようだ。後人に伝えようという孔子の晩年の学問の傾向があらわれている」 (貝塚茂樹) 老彭(ろうほう)とは、殷の時代の大夫という官位にあった彭祖(ほうそ)という人物である。 西晋の時代に書かれた「神仙伝」(葛洪)という書物によれば、彭祖という人は不老長生を可能にする房中術を完成した仙人だという。 ただし仙人となる前は、殷の王朝に仕えていた。 前漢に書かれたとされる「列仙伝」(実際には後漢の頃に書かれたらしい)では、殷の大夫というところは同じだが、シナモン(肉桂)や霊芝を常食として、気を練る導引行気(どういんぎょうき)の法を修行した人とあって、房中術の記述はない。 のちに仙人となったという部分は同じだ。 すると、孔子はひそかに仙人になりたかったのかという馬鹿な疑問が浮かぶが、そうではあるまい。 彭祖は大夫に任命されながら、病気と称して政治にいっさい参画しなかった。 不老長生術の大家、仙人ということより、政治嫌いという彭祖の一面を暗示していると、貝塚先生は考えたらしい。 ところで、「老彭」という言葉が「老子」と「彭祖」の二人のことだという説もある。 老子という人物は、孔子の先輩だとされているが、むしろ儒教教団が盛んになってから儒教に反対する思想家グループが創作した架空の人物らしい。 この場合は、やはり殷王朝が滅びる時点で800歳だったという彭祖を尊んで、「老彭」と呼んだとみるべきだろう。 解釈はこんなところだが、「述べて作らず、信じて古を好む」という言葉を文字とおりに解しても、わたしのような歴史好きにはぴったりくる。 往時の現実を正確に把握して、その文脈で歴史上の人間や出来事を理解しようとするのでなければ、歴史を読むことは、たちの悪い時間の浪費にすぎない。現代人の勝手気ままな夢想を投影した歴史は、読まないのにかぎる。 大衆受けをねらった珍奇な歴史解釈は、無益をとおりこして有害でさえある。 歴史ばかりではなく、「述べて作らず」という言葉はあらゆる物書きにとっていちばん大切なことだ。 「述べて作った」ところで、やがては化けの皮ははがれる。 長い目でみれば、「述べて作らず」という誠実な態度がいちばん良い。 ――と思うが、どうだろう。 |
夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立たしめ、己れ達せんと欲して人を達せしむ。
前回の二十九章の内容が具体的に展開している部分が、ここである。 この三十章については、孔子の言葉ではなく、後代の付加だという考えもあるらしい。 その説の正否はどうあれ、二十九章と思索的文脈がつながっていると見ることはできる。少なくとも、論理の破綻はない。 わたしは実践的理性である「中庸の徳」を行動に移したものが、上に引用した部分だと考えている。 「自分が行動したいと思えば、人を行動させる。自分が行きたいところへ、人を行かせる」 字面だけでみると、人使いの荒いワンマン経営者の言い草みたいだが、もちろん中味はまったく反対だ。 「己の目指す理想へ人を導き、いっしょに進もうとする」理想的なリーダーを表現している言葉である。 この言葉の前に、弟子の子貢がこんな質問をしている。 「人民に広く恩恵をあたえ、大衆を救済できるような人は、仁者といっていいですかね?」と。 すると、孔子はとんでもないと首をふる。 「そんなことは、尭舜という神に近い存在(=聖人)ですら、できなかったのだ。あくまでも人間でしかない仁者に、できるはずがない」 というのが、孔子の返事だった。 その後に続くのが、冒頭に引用した言葉である。 これに続けて、孔子はいう。 「実践的リーダーというものは、ごく身近なところから一歩一歩仕事を始めるものだ」と。 いきなり大変革を求めたり、社会正義を一挙に実現しようとするのは愚である。 それよりも、身近なところから始めるのが実戦的リーダーというもの。 前回の二十九章とこの章を読むと、「仁者」とは抽象的な道徳完成者というより、「リーダーとしてあるべき人間像」であるということがよくわかる。 |
子曰く、中庸の徳たる、それ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。
「中庸」というのは、ご存知のとおり、孔子にとって究極の目標である。 物事を正確に判断して、行動する実践理性といってもいい。 もちろん、これに優る精神的能力(=徳)はない。 しかし翻っていえば、これほど人の世に稀有な能力もない。 岡目八目という言葉があるように、利害関係のない他人なら、客観的に判断できるけれど、ことわが身になると誰しも物差しが狂ってしまうからだ。 「民に中庸の徳が少なくなって随分経つ」と孔子は云うが、この能力が太古には普遍的であって、時代が下るにしたがって希少価値となった―などというはずがない。 「〜〜して久しい」という孔子の言い方は、むしろ逆説であり、事実をユーモアめかして語っているだけではないか。 そんな疑いがどうも頭を離れないのである。 この言葉は「人間には本来、中庸という素晴らしい精神的能力があるはずだ」という孔子の信念というより願望と、現実との衝突をあらわしているのではないか。 つまり、「『中庸』という能力は本来、人間だれしも備えているんだが、この頃の人にはないようだ。でも、本当はあるんだよ。そうは思わないか」と、相手に問いかけているのである。 もちろん孔子が期待しているのは、「そのとおりですね」という相手(たぶん弟子)の答えだ。 これを踏まえて、次の三十章がある。 |
子、南子(なんし)を見る。子路説(よろこ)ばず。
南子というのは、衛国の支配者・霊公の夫人である。 淫乱で有名な美女だが、衛国の影の実力者でもある。父も宋国の支配者だった。 宋朝という美男子を房事の相手として、故国から呼び寄せたこともある。 夫の霊公が、それを勧めたというから変わっている。 この美女・南子が孔子に会いたいという。 当時、孔子は故郷魯国から衛国へ亡命していた。魯国で政争に敗れてから、13年間にわたる長い亡命生活の始まりだった。 当時56歳の孔子に、女盛りの南子がどういう興味をもったのか。 史書は何も語らない。 ただ一本気がとりえの弟子・子路は面白くなかった。 当然だろう。 尊敬する師匠が淫奔な美女に誘惑されたと、口さがない衛国の民衆に嘲笑われたのだから。 孔子は、なぜか弟子に詫びている。 「お前が考えているようなことは何もない。わしがあんな女と不倫したなら、天がわしを滅ぼすだろう」 浮気を疑われて、妻に平謝りに謝る恐妻家の亭主のような……と云ってはいいすぎだろうか。 孔子は衛国で自分の政治改革を試すチャンスと考えて、南子の招待に応じたのだろう。 だが、南子はどうやらただの有名人を見物するつもりしかなかった。 唐の則天武后のような、見識ある女傑ではなかった。 この出会いは、孔子にとっては高くついた。 おかげで、現代の学者にまで痛くもない腹を探られる。 南子との事件(?)は、孔子の唯いちどきりの女性問題といっていい。 それでいて、子路とのやりとりは、いっきに孔子をわたしたちにとって親しみやすい存在にしている。 思想などという堅苦しいものは別にして、このくだりがどうにも好きだ。 わたしなどは、孔子が南子の誘惑に乗っても、別にかまわないと思うが、どうだろう。 もっとも、女にはひどく物堅い人だったから、そんなことはまずあるまい。 南子だって、若くてぴちぴちしたハンサム君のほうが好いにきまっている。 権力をもつ女が精神世界の住人に、興味をもつことはまずない。 子路も、そのへんがわかっている人なら、つまらぬ怒りを覚えることもなかったろうに。 |
子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
謎めいた言葉だと思う。 知者とは何か。仁者とは何か。 一般的に考えれば、知者はアイデアで仕事する人、仁者は道徳人間だろう。 海や川を愛する知的職業者と、山岳を愛好するエコロジー愛好派とでもいうべきだろうか。 ヨットやトローリングが好きなお金持ちはいっぱいいるが、山登りが好きな大富豪とは聞いたことがない。 そういう意味なのだろうか。 孔子もこうも云う。 知者は動き、仁者は静かなり。 たしかによく動く人にはお金が集まり、静かな人のところにはお金は来ない。 いまのIT業界みたいなものか。 あまりにも現代にとらわれすぎた見方かもしれない。 反省して、孔子の弟子を例にして、考えてみる。 知者といえば、ナンバー1は子貢(しこう)だろう。 外交使節の仕事につけば、ついでに個人貿易までやって一儲けする。抜け目ない人だ。 仁者といえば、顔回。 こんな有名な言葉がある。 「賢なるかな、回や、一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)にあり」 漢文でいえば立派だが、現代にあてはめてみれば、顔回はいちばん安いコンビニ弁当と缶入りウーロン茶くらいの食事にありつくのがやっと。しかも、スラム街に住んでいることになる。 この文だけでは、なぜ顔回を「賢なるかな」と誉めているかわからない。この後には、こんな生活をしていても、少しもへこたれず研究生活を送っているから、顔回は偉いという文章がある。 こういうところをみると、仁者とは金儲けに目を向けずに、学問にいそしむ貧乏学者ということになるだろうか。 再三書いたことだが、「論語」の編纂者は謎めいた文の前後には必ずヒントになる文章を配している。 ここの謎も、そうして読めばわかるかもしれない。 さがしてみると、直前の二十二章に「知とは何か」「仁とは何か」というヒントがあった。 ここでは、弟子に問われて、孔子は知と仁を定義する。 「民の義を務め、鬼神を敬して遠ざく、知と謂うべし」 「仁者はまず難(なや)んで後(のち)に獲(う)、仁と謂うべし」 貝塚茂樹先生の解説では、この時代の都市国家の政治は人民の統治という俗の部分と、都市国家の主神を祭祀する聖(宗教)の部分の、二元的原理から構成されている。 「知」とは、宗教の部分にはあまりかかわらず、現実的な俗の部分の人民統治・富国強兵に力をそそぐ現実主義の政治をさす。 これはわたしの解釈だが、「仁」とは「知」とは反対に都市国家の聖なる部分につらなる領域を活動の場とするものだと思う。 「難(なや)んで後(のち)に獲(う)」というのは、ソクラテスのような正義とは何か、倫理とは何かを追及する行動だ。 孔子一派の活動は、古代ギリシアのソクラテスの活動とオーヴァーラップしてみえる。 生まれた場所こそ中国とギリシアと異なっているが、どちらも、祭政一致の古代都市国家が崩壊する時代に居合わせて、神政政治(テオファニー)とは違う新しい社会原理を探求した。 現実主義的な政治家たちからみれば、ばかばかしいほどの遠回りである。 現に孔子その人よりも、子貢のほうがはるかに才物であるという評判は孔子が生きていた頃から高かった。子貢はむしろやっきになって、その評判を打ち消そうとした。 孔子というカリスマが生きていた頃さえそうなのだ。 いやはや、なんとも大変だ。 しかし、社会行動の共通規範を失った社会が存在そのものの危機にさらされるのは、昨今の日本をみれば明々白々だ。 原理無き社会は、社会そのものが維持できない。 あえて、迂遠ともいえる道を探求する孔子一派の原理主義者たち。それが仁者という人々であろう。 あまりにも見返りが少ないゆえに、「苦難のすえに、やっと目的を手にする」(=難んで後に獲)ということになる。 「仁者は山を楽しむ」 「仁者は静かなり」 という言葉は、遠大な志を抱いて、一歩もひかない静かなる勇気を示している。 あわてず、騒がず、不運にもめげず、世の中に受け入れられなくてもじたばたしない。 いつか理想が実現できると信じて、努力を怠らない。 だから、水のように状況に応じて変転せずに、「仁者」は動かない山を朝夕眺めつつ生きてゆく。 孔子はいう。 知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。 なるほど、そのとおり。 「知」をおこなえば、楽しい生活ができるだろう。 そちらの生活については、誰もが知っている。 ところで、「仁者はいのちながし」とはどういうことだろう。 貝塚先生は「目立たないが健康で長寿をとげる仁者の落ちついた心境」というが、どうだろうか。 わたしは違うと思う。 いっけん社会と迂遠な生活を送る「仁者」が、その志を実現するには長い歳月が要る。 「仁者よ、長生きせよ。そして、志を遂げよ!」と 孔子が云っているように思えてならない。 「第六 雍也編第二十章」には、 「これを知る者はこれを楽しむ者に如(し)かず、これを楽しむ者はこれを好む者に如かず」 という有名な言葉がある。 この言葉は、静かで持続的な勇気を、だれよりも必要とする「仁者」への励ましではないだろうか。 |
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