いつも、この日記を読んでくださっているみなさん。ありがとうございます。 本日は超私信モードです。 ちょっと多忙につき、本日はいつもの読書日記をアップする余裕がなさそうです。 もし、できれば夜にでもアップしたいと思っています。 みなさんも、お仕事やお勉強にがんばってください。 でわでわ。 ついでに、この場を借りて、いつも「日記猿人」で投票していただいている皆さんにお礼申し上げます。 やっぱり票をいただくと、はげみになります。嬉しいものです。ほんとうにありがとうございます。 「論語日記」まで投票していただいている?さん。 この日記が投票数2だったときに、毎日投票してくれた??さん。 (お名前がわからないので、こんな言い方しかできませんが……) ありがとうございます。 おかげで「猿人」から撤退しないで、続けてこれました。 それから、最後になりましたが、この日記に複数回投票をくださっている皆様。 ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。 |
本日は28日に読んだ「望郷のとき」(城山三郎)について書きます。 慶長16年に伊達政宗がメキシコを経由して、イスパニアへ使節を送ったのは、ご存知のひとも多いとおもう。 代表は支倉常長だ。総勢は180人にも及んだ。 ところが、この一行は慣れない船旅に犠牲者を出しながら、メキシコについたところで、足止めを食った。 使節の支倉常長はもちろんイスパニアへ行くのだが、随行を許されたのは宣教師ソテロを含めて20名のみだった。あとの100人ほどの侍・商人たちはメキシコのアカプルコに置き去りになった。 この小説は、その置き去りにされた無名の侍たちの運命を描いたものだ。 支倉がイスパニアへ行ったあいだにも、主君伊達政宗は200人あまりの使節を新たにメキシコに送った。その半数が途中で死に、たどりついたのが約100名あまり。 記録では、この支倉が日本へ帰国した際に、このうちの何人が帰れたかがわからない。 一説では、70数名ともいうし、10数名ともいわれる。 どちらにしろ、行きの航海で死んだものをのぞく200有余名がどうなったかは、記録にない。 「望郷のとき」の第二部は、著者城山氏が現代メキシコにわたって、その日本人の生き残りを探した話だ。 モリという日本風の名前を名乗り、草鞋らしき履物を履く侍の末裔らしい部族がいるという噂があった。その部族では、米を水で炊くという日本独特の料理法もおこなっているらしい。メキシコでは、米は油で揚げて食うのが普通だから、いよいよ噂は本当らしかった。 だが、現地で調べてみると、まるで期待はずれだった。 モリという名前は外国語によくある音韻の偶然の一致にすぎなかった。履物は日本の草鞋とは似ても似つかなかった。 米を水で炊くのも、とくに日本式というわけでなく、油であげるかわりに水で茹でていただけだった。メキシコは高地にあるので、気圧が高いから、ほとんどの場所では沸点の低い水では米を料理することができない。そこで、高温になる油を使うしかない。 だが、低地にすむ場合は、水でも米を煮上げることができる。それだけのことだった。 城山氏は、日本の明治時代の移民さえその子孫を探すことが至難であることを身をもって知った。 慶長の侍どもの末裔などということ自体が、もはや雲をつかむような話にすぎない。 侍どもはメキシコ人の血の中に消えていたのである。 城山三郎氏は日本における経済小説の創始者だ。 この事実に、国際社会で苦闘する経済人の運命を重ね合わせて、いちまつの感慨をいだいて、書き上げたのが「望郷のとき」だ。 しかし、わたしには城山氏が読者に期待したであろう感情を持つことはできなかった。 いまは世界のどの国であっても、多くの異文化を混沌と包含したまま共生せざるをえないようになっている。 侍たちの運命を哀れむよりも、侍たちが異郷でどう生きたかという城山氏が書かなかった現実のほうが、もっと切実であり、避けられない課題としてある。 今すむ社会そのものが異郷と化しつつあるからだ。 例えば、在日の人々に地方参政権を提供することも、痛みをもって引き受けなければならない立場にわたしたちはいる。 べつに韓国や北朝鮮からの政治的圧力に屈するというわけではなく、この国が住みよい国になるために、それは引き受けなければならないリスクだ。 あえていえば、この国はアジアにさきがけて、そうした痛みを引き受けるほどに、先進国なのである。 そう思うと、 「すべてはすでに遠い。いまに生きることをこそと、ドラムはなお打ち鳴らされていた」 という最後の一文が、悲哀とはまったく別の新鮮な感情と意味を持って、立ち現れてくる。 過去は過去として、未来に生きていけと。 |
邪馬台国に古墳があった! 今日は、またまた嬉しい考古学ニュースだ。 奈良県のホケノ山古墳が、三世紀半ばに築造されていたことが判明した。 この古墳のある桜井市は、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓と考えられる「箸墓古墳」もある。ホケノ山古墳と箸墓古墳は、ちょうど向かい合った位置にある。 弥生時代の墳墓の特徴の「木槨」という木棺をおさめる木製の構造があったり、埴輪のルーツらしい二重口縁壺もある。 大塚初重・明治大学名誉教授によれば、これでいよいよ箸墓古墳が卑弥呼の墓だという説が有力になった。 古代史の上田正昭氏は卑弥呼時代の古墳が発見されたので、邪馬台国論争は決着がついたような口ぶりだ。 邪馬台国は、奈良盆地にあった! という結論は、もう出たといってもいいかもしれない。 箸墓古墳のあるあたりには、纒向遺跡(まきむくいせき)というのがあり、邪馬台国畿内説では、ここが本命だった。 なんだか興奮するなぁ。 読売新聞では、ホケノ山古墳が邪馬台国の古墳だと判明したからといって、邪馬台国がそのまますんなり大和朝廷になったことが証明されたわけでもないし、邪馬台国が東遷した可能性が否定されたわけでももないと云っているが、それはそうだろう。 そのあたりのことは、もっと解明を待つべきだ。 ところで、箸塚古墳は、古事記・日本書紀に出てくる倭迹迹日百襲姫命(やまとももそひめのみこと)という神話的女性の墓だとされている。この女性は、蛇神・大物主命の妻となり、夫が蛇神であることを恥じて、陰部を箸でついて自殺した。 死後、墓を人民と神が作った。昼は人民が、夜は神が築いた。 こういう説話も、卑弥呼ら邪馬台国の巫女王がこのあたりにいたという話が具体性をおびてくると、なんだか見過ごしにできない感じがする。 たとえば、邪馬台国とのちに大和朝廷をつくる勢力が対立していて、勝利をおさめた大和朝廷側が邪馬台国の歴史そのものを簒奪したとか。 邪馬台国の場所がきまったおかげで、いよいよロマンが広がる。 ところで、どうもこのごろひそかに「論語」がブームみたいな気がする。 徳間書店から中国ベストセラーの孔子伝「孔子演義」、渡部昇一氏と孔子の子孫・孔健氏の対談「日本人と中国人はどっちが残酷で狡猾か」(副題は、「乱世は論語に学べ」)、さらに明治書院で「論語漫画」(森哲郎)というのもある。 こんなに本が出ているのに、のんびり中公文庫の「論語」だけ読んでいてもいいのだろうかと、ふと不安になる。 このサイトでも<論語を毎日読む「論語日記」>というのをやっているけれど、あんまり読んでくれてるひとはいないみたいだ。 やっぱり、中身が薄いのかもしれない。すなおに反省します。 いちおう、ここをクリックしたら 「論語日記」に飛びます。 トップ・ページに飛ぶのは、カウンターをまわしてもらうためでなくて(もしかして、これが本音かな)、目次ページをつくるのがしんどいからです。(笑) 本文ファイルはしょっちゅう、入れ替わるので、あとあと本日分の日記ファイルのリンク先を変更する手間をはぶくためにも、トップページから入るようにしてもらっています。 ただし、最近忙しいので、お休みしています。 「毎日更新中」っていうのは、うそですね。(笑) ひまがあったら、みてやってください。 それにしても、思わぬニュースがあったので、27日分が飛んでしまいました。 それについては、また明日。 |
昨日、ちょっと触れた「歴史へのいざない」(綱淵謙錠)である。 この人は、中央公論の名編集者として数多くの作家を世に送ったのち、歴史小説作家になった。 作家としては地味だが重厚な作品が多い。 「斬」とか、漢字一字の題名を好むことでも有名だ。 作品のイメージとおり、丹念によく調べた苦労がわかるエッセイである。 おびただしい江戸時代の随筆から、縦横に引用されていて、大変なものだ。 ただそういう人の書くエッセイの常として、身辺エッセイはあまり面白くない。 歴史実話を題材にしたものと比べると、かなり見劣りする。ただ、これは歴史小説家のほとんどのひとに共通する姿勢で、自分のことを面白おかしく書くほどに自己顕示欲が強いと、過去の人々の心のつぶやきが聞こえてこないからだろう。 面白い身辺エッセイを書くひとに、優れた歴史小説家はいない。 ところで、綱淵氏のエッセイを読んでいて、ふと思ったのは、どこか貧乏たらしい感じがする江戸という時代が、骨太な反骨精神にあふれていたのではないかという逆説である。 幕末の勝海舟が札差の大商人からご馳走になった。出たものは、蒲鉾一切れ、青菜のおひたし、吸い物、それに饅頭三個だった。あまりの貧相な献立に海舟は腹を立てた。 ところが、後日ひとづてにきいたところでは、この食事にはとんでもない手間と費用がかかっていた。 蒲鉾は三十羽の鴨をひねってその背肉の良いところばかりを選んで造ったもの。青菜は極上のものを籠二十個分集め、さらにそれから厳選して煮た。饅頭については、何升もの大豆から選り抜きのものを集めてアンをつくり、砂糖はオランダ商館長御用達しの秘蔵のもの、ついでに饅頭に使った水も玉川上水の極上の水を金にあかせて運んできたものだという。 料理人は、海舟がそれを見抜くのを楽しみにしていたそうだが、結局海舟にはそれだけの眼力がなかった。 逆にいえば、大名貸しをする札差などの大商人には、こうした料理人の心意気をずばり見抜く人物がいたわけである。 いまふうにみれば、そんな眼力はよけいなものだという浅薄な合理主義・機能主義のほうがとおりがよい。 でも、こんな無駄を大切にして、理解することこそ、ほんとうの文化だとおもう。 それがわからないうちは、平成日本には、江戸時代ほどの文化も誕生しないはずだ。 江戸のリサイクル文化ばかりをみて、「環境にやさしい江戸文化を評価しよう」というのは、やっぱり浅はかだとおもう。 江戸人の性根はそんなにみみっちいものではない。 ――と、あらためて思いました。 |
やっと元気になったけれど、まだ花粉症の薬でぼーっとしている。 このたび思い立って、鉄人読書家をめざそうとしたというのに、これでは情けない。 花粉のおかげで、春先は散歩という第二の趣味もだめだ。 ここ二日ほど本を読んでいないので、寝込む前に読んだ本について書くことにする。 「小説家 直木賞作家になれるかもしれない秘訣」(高橋克彦)を読む。 この人の大ベストセラー「竜の柩」を読んだときには、感心しなかった。 主人公がとくとくとして語る宇宙人仮説が、すべて有名なその筋の本のパクリだったからだ。 ちょっと詳しい人なら、主人公がやつぎばやに繰り出す仮説の出典を全部言えるだろう。 しかし、NHK大河ドラマ「炎立つ」には素直に感動した。 それで見直した。 高橋克彦氏は「江戸川乱歩賞」でデビューをはたしたのだが、その事前調査がすごい。 傾向と対策を徹底的に分析している。 ここまでやったら、誰でも賞がとれる! もちろん、そんなことはない。 肝腎のストーリーが生きていたから、受賞できたはず。いくら、なんでも審査員はそれほど馬鹿ではないだろう。 ただ、ミステリー賞の一次予選を担当する下読み部隊をクリアーするには、効果があったかもしれない。 といっても、それは受賞作の傾向と対策を練ることで、高橋克彦氏が娯楽小説の書き方を徹底的に身につけたからであって、死人が何人いたほうがいいとか、事件が遠く離れた場所であったほうがいいとかいう枝葉末節の部分ではないとおもう。 この人はそうとうに頭が良いのだが、なんだかへんなひとだ。よくわからない。 でもそれ以外はまっとうで、作家になるには全集を読破した作家を二、三人もてとか、自分の引き出しをいっぱい用意しろ、小説を書こうと思ったら少なくとも本棚の一列くらいは参考書を読破しろというのは正論だ。 少し気分が暗くなったので、「藤村詩集」を開く。 叙情的な青春詩集というべき詩集だ。ざらついた気分が落ち着く。 「まだ上げ初めし前髪の……」で有名な「初恋」を読むと、いい映画を見たような爽快さを感じる。 これはたしか高校時代に授業で読まされた記憶があるが、あのころは照れくさくて馬鹿らしくて理解できなかった。 歳はとってみるものだとおもう。 綱淵謙錠のエッセイ「歴史のいざない」については、また明日。 |
この日記は、25日に書いています。 ちょっとこの二、三週間ほど無理をしすぎたみたいだ。 連日、徹夜みたいなことをして、本もながら読みでずいぶん読んだ。 昨日から花粉症がひどくなったが、今朝(25日)も明け方まで作業した。 鼻水と口内炎が耐えられなくなったので、花粉症の頓服薬を飲んで寝た。目を覚ましたら、もう夕方だ。 まるで気がつかないで寝てしまった。 本日はさすがに本を読むどころではないので、読書日記はお休みします。 それでは、また明日。 |
「私的にかっこいい」という作家はいますか? 「私的」というのは、「わたしてき」と呼んでください。そうでないと感じが出ない。 容姿のいい作家はたしかにいるけれど、そういうのではない。 たとえば古いところでは、志賀直哉・太宰治・三島由紀夫なんかはどうみても美少年・美青年・美中年だった。夭折した二人をのぞけば、志賀などは美老人とさえいえる。 もう亡くなったけれど、吉行淳之介というのも美青年・美中年であった。 しかし、「私的にかっこいい」というのは、こういうホモからも好かれそうな美形ではない。 ステテコをはいている眼鏡親父だったりしても、いいなぁとおもう人である。 わたしにとって、「私的にかっこいい」作家はまず「開高健」。あとは「坂口安吾」「池波正太郎」さん、そして今回とりあげる「壇一雄」である。 司馬遼太郎さんと隆慶一郎さんは別格なので、これには入らない。お二方はわたしにとって神様みたいなものだから。 どこがいいかというと、これが難しい。 全部というと、馬鹿馬鹿しく聞こえるだろうが、じつはそうなのだから、仕方がない。 あいまいに定義してみると、なによりも実践的な知性の持ち主であり、生き方そのものに野趣横溢した野性味があり、異文化が好きで造詣も深く、それでいて日本文化を愛していてへたな学者など跳ね飛ばす一家言を持っていたりする。剛直不羈の魂と、たくまざるユーモアがあり、心情において血液が沸き立つほど熱く、ほんものの優しさが滲み出ている。 こんな人を好きにならずにいられますか? その壇一雄の美味エッセイ「美味放浪記」を読んだ。 「壇流クッキング」という男の料理のバイブルは愛読書なのだが、どういうわけか「美味放浪記」は持っていなかった。 今回読んでみると、どうも昔読んだような気もするが、記憶がさだかでない。 北海道から鹿児島をめぐる国内編。オーストリアでカンガルーを食べ、スペインで超ゴーカなパエリアをつくり、ポルトガルで極上骨付きハム「ハンノ・セラノ」をむさぼり「ダン」という銘酒を飲み干し、イギリスで特製ローストビースをつくる。 ロシア、韓国、中国は、若い頃に放浪しただけあって、ボルシチからキムチ、点心までプロ並みのが作れる人だから、味の探求者としても一流である。 どうして、この人はこんなに料理がわかるんだろう。 「私的にかっこいい」作家は、料理ができて、食い物が好きな人でもある。 なぜ、そうなのかはわかる。 これは、この人たちが自立している男だから……である。 料理ができない男、食い物に執着がない男は、おむつをつけた赤ん坊と同じだ。 なんにもわかっちゃいないから、利口な女には手もなくひねられる。 そんなのって、やっぱりかっこよくないですねぇ。 |
なにはともあれ、 ゴジラ! なのである。 さすがに、昭和29年の「ゴジラ」第一作をリアルタイムで見た世代ではないが、昭和30年代後半からのシリーズはリアルタイムである。 怪獣王ゴジラは不滅のヒーローであった。たとえ、ひとがなんと言おうと。 だから70年代のあまりにも悲しいゴジラは観ていていない。 でも、深夜放送とビデオではきっちり観てしまった。観なければ良かったと思わないでもなかったが。 …… つまらない前振りが長くなりそうだから、そうそうに切り上げて本題に入ろう。 ミレニアム・ゴジラが劇場でやっているのに、いまさらなんなんだけど、ゴジラ本を読んでしまった。 「ゴジラ・デイズ ゴジラ映画クロニクル 1954〜1998」(集英社文庫)である。 充実したデータ・ブックであることだけでも嬉しいのに、歴代特撮監督たちのインタビューがついていて撮影現場の裏話が読める。 けっこう分厚い文庫本なのに、あっというまに隅から隅まで(カバー・ツー・カバーというやつ)読めてしまった。 時の経つのも忘れてしまった。 好きなんだなーっ、われながら。 しかし、低迷時代の旧ゴジラ(観ていないひとはわからんだろうけれど、ヘドラ・ガイガン・メカゴジラと戦った昭和のゴジラです……)を撮った中野招慶監督のインタビューを読むと、雪崩落ちで縮小する観客動員数と苦闘して大変だったんだなと認識をあらためた。 データでみると、第一作が961万人。失敗作とだれもがいう第二作「ゴジラの逆襲」(アンギラスと戦うモノクロ作品)で834万人。最大の観客動員数を誇るのは第三作「ゴジラ対キンゴコング」でなんと1255万人。あとは下がる一方で、作品もどんどんコミカルになった。 エビラの出てくる「南海の大決闘」ではそれまでキープしていた500万人を割って、421万人。 毎年新作が出るたびに動員数は100万人ずつ落ちて、「夢落ち」のストーリーの情けなさにファンが涙した「オール怪獣総進撃」はなんと148万人。以後は178万人という年もあったけれど、最後の「メカゴジラの逆襲」では97万人というゴジラ映画最低の動員数で旧ゴジラは幕をとじた。 映画衰退のあおりをくって、ゴジラも悪戦苦闘の試行錯誤を重ねていたのである。 しかし、面白いのはゴジラの併映作品だ。 いまと違って、あのころの映画は併映がきまりだった。 植木等が主演のクレージー・キャッツ映画とか、加山雄三の若大将や、コント55号のころはまだよかったが、低迷した時代には、帰ってきたウルトラマン、ミラーマン、ウルトラマンタロウの劇場版やTVアニメの劇場版(巨人の星・みなしごハッチ・いなかっぺ大将・天才バカボン・樫の木モック・アルプスの少女ハイジ・侍ジャイアンツ・新造人間キャシャーン・サザエさん・はじめ人間ギャートルズ)がセットになって入れ替わり立ち代りして「東宝チャンピオン祭り」という名前でゴジラ映画といっしょに上映された。 TV生まれのウルトラマン系特撮ヒーローとゴジラが生き残りをかけて戦っていたことになる。すごい話だ。 それにもまして、サザエさんとアルプスの少女ハイジとはじめ人間ギャートルズを、ゴジラ映画といっしょに上映するとは凄まじいセンスだ。はっきりいって、びびる。おじけづく。たじろぐ。 「おれの生きザマを見ろ!」 とけつをまくられた感じだ。おそれいりました。 しかし……みんな好きなアニメだけど、こんなにごちゃまぜにしてしまうと、カレーライスにラーメンと寿司とチョコレートを入れて煮込んだような…… アルプスの少女ハイジやサザエさんと一緒では、ゴジラもやけに愛嬌のある顔にならざるをえなかった。 御存知のように、旧ゴジラはどんどん顔が変っている。 この2作品と併映されたころは、目がまん丸で体格もずんぐりむっくりして、SDガンダムめいて可愛い。ぬいぐるみチックで「ジブリ」のアニメに出てきても似合いそうだ。 ゴジラも苦労したんだ…… なんだか堀尾正明アナウンサーの「スタジオパーク」みたいに、感動的なゴジラの苦労話でした。 時間ができたら、ミレニアム・ゴジラは絶対に観に行こう。 |
村上春樹という作家は、あまり読んだことがない。 <ぼく>と<鼠>が出てくる「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」。そして短編集「中国行きのスローボート」は読んだ。 これは、カート・ヴォネガット・ジュニアとジョン・アービングの物真似だ。 当時、二人のアメリカ作家の熱狂的ファンだったので、そう思って読むのをやめてしまった。 だから、「ノルウェイの森」が大ベストセラーになっても、手に取ることもなかった。 しかし、いっぽうで村上春樹のライフスタイルだけは注目していた。 理由はかんたん。この人がギリシアのアテネ市の向かいにある島に住んでいたからだ。 ギリシアに住んでしまうとは、すごい! 外国へ移住して生計をたてる自信はまったくないので、すなおに感動した。できるものなら、わたしもギリシアに住んでみたい。 いったい、村上春樹はどんな風に暮らしていたんだろう。 「やがて哀しき外国語」(村上春樹)は、そんな謎の一端をすこし解明してくれた。 村上春樹ファンには常識なんだろうけれど、ヨーロッパで三年過ごしたあとで「ノルウェイの森」を書き上げて、春樹氏はアメリカへ行った。プリンストン大学やカリフォルニア州立大学で文学を教えていた。 このエッセイは、そのころの話だ。ヨーロッパ滞在時代を知りたければ、「遠い太鼓」というエッセイ集を読めばいいとわかった。 フツーの見かたでいけば、アメリカがどういうところか、春樹氏の見たまま聞いたままを仄聞する楽しさがいいんだろう。たとえばアメリカが日本よりも相当すごい階級社会で、大学教授であれば、ビールはバドワイザーがだめ、作家はスティーヴン・キングがだめ、音楽はクラシックかジャズの他は御法度だったりする。 また「平和な郊外地」という理想的なアメリカ住宅地が、キングのようなホラー作家を誕生させる皮肉なパラドックスを鋭くみやぶるあたりも、やはり只者ではない感じがする。 湾岸戦争のころや経済戦争のまっただなかに国威意識の高揚がまねいたジャパン・バッシングや、元気いっぱいで偏執狂的に唯我独尊的なアメリカ・フェミニスト、アメリカ・ヨーロッパ・日本の自動車の違い、勝ちつづけるアメリカ文化の奥深い疲弊感を書いたあたりも面白い。 しかし、やっぱり目玉はエッセイ「やがて哀しき外国語」である。 ここに書かれていることは一字一句まるごとぜんぶ大賛成! まるで自分の気持ちを、春樹氏が「いたこ降ろし」してくれたんじゃないかという妄想まで湧いてしまう。 「電池切れ」という現象には笑えた。英語がある程度つかえるひとでも、連続して英語会話に耐えられる時間には限りがある。 春樹氏はパーティで大勢のひととグループで話していると、2時間すぎたあたりから相手の言っていることは理解できるが、英語が自分の口からでなくなるそうだ。 大昔、三日ほどぶっとおしで、にわか通訳として、あるセミナーにかかわった。セミナーの準備、二日間の講演と質疑応答の通訳、講演後のインタビュー、昼夜のビジネスランチとひとりで通訳をやったことがある。 二日目のセミナーが終わって、その夜のビジネスランチのときには、疲れ果てて、まるっきり英語が駄目になった。脳細胞がまったく動かないのである。 「電池切れ」とは、よくいったものだ。 ところで、「やがて哀しき外国語」を読んでしみじみと思ったのは、 「村上春樹さんは、人生のほんとうの知恵をしっかり身につけた苦労人だ」 ということである。 人生のほんとうの知恵とは、たぶんどっかの本を聞きかじりしたのでは絶対にわからないなにものかだ。 ジャズ喫茶をやっていた春樹氏は、店というものが営業を続けるには十人のうち八、九人の人に「悪くない」と思われるよりも、一人か二人の人に「絶対にいい」と思われなければだめだと悟った。 「本当に骨を削るようにして」そのことを覚えたそうである。 こういうことがさらりとでるようになったあたり、処女作「風の歌を聴け」から、春樹氏もずいぶん遠くを旅していたのだなと、新鮮な連帯感のようなものを味わった。 深山で人知れず咲く山桜に出会ったような、懐かしいもあり、嬉しくもあるような気持ちである――当代でもっとも売れている人気作家には、不似合いな表現ではあるが。 今度は「遠い太鼓」を探して読もうとおもう。 |
「哲学!」 と聞くと、血湧き肉踊るひとはいませんか? フツーは、そんな人はいないだろうなぁ。 わたしは「哲学!」と聞いただけで目がらんらんとしてくる。 好きなのである。 ギリシア哲学はもちろんルネサンスのイタリア人文主義者たち、バロックのデカルト、あとはおきまりのカント、ショーペンハウアー、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ベルクソンというところがお気に入りだ。 時代遅れになったけれどサルトルも面白かったし、あんまり体質的には好きではないがウィトゲンシュタインもアフォリズムとしては楽しかった。 「語りえぬ事柄については、沈黙するしかない」……とか。 ところが、大学時代に哲学のゼミをとってみると、さっぱり面白くない。 某T大出身の方々が教鞭をとられた地方国立大学ではあったけれど、ゼミでやっていたのは哲学というよりは文献学だったな、あれは。 哲学科の友人にいわせれば、哲学のゼミなんてあんなもので、他の学科のくせに出席するあんたが物好きだと笑われた。 哲学の先生というのは、品行方正、小心翼々、狂気ゼロ、淡白で、かなり西洋紳士的であり、自閉症的に自己充足している感じがある。 さきに名前のあげた哲学者たちは、それとはぜんぜん反対だと思っていたので、ひどく違和感があった。 アカデミスムの学者と、一般人のあいだには、職業人としてのありかたや知的作業の価値観について、隔絶した乖離があることはもう少し大人になったときに痛いほど思い知らされた。学者の世界は、相撲界とおなじで夢見るロマンチストの棲む世界ではない。 だから、もうアカデミズムの哲学者にはなにも期待しなくなった。 ところが、某T大出身のれっきとした大学の哲学の先生にも同じことを考えている人がいた! それが、今回読んだ「カントの人間学」(中島義道)である。 ここに描かれているカントは偉大な知的作業に苦吟しながら、営々と壮大な知的建造物をつくる偉人ではなく、しみったれで小市民的な「おやじ」だ。 偉大な哲学者というよりは、猜疑心に満ちた金貸しじみた風貌をした貧相な老人である。 あまりにも壮大な知的作業に従事したために、おのれの思考のほかには他者を理解する能力すら失った巨人だ。 だが、このことに悲惨を見るようなことは、中島氏はしていない。 むしろ、それが人間であるということを、微笑をこめて受け入れている。 こういう暖かい目がなければ、哲学なんて有害な鬱病促進剤でしかない。 カントの欠点は、あまりにも貧弱な健康しかもたず、極貧の青少年時代をすごした男が、精一杯に生きた人生の裏返しだ。 これをどうこう云う傲慢さだけは、もちたくない。 この本を買ったのは、ある誤解からだった。 はるか昔、郷里の我が家にイマニュエル・カント著「人間学」という古ぼけた文庫本があった。 高校だか、大学だったかのとき、面白く読んだことを記憶している。 高校時代に「実践理性批判」を脳髄を削る思いで読んだので、カントがこんなに面白い本を書けるのかと驚いた。 この数年間、また「人間学」が読みたくて探しているが、どうもそんな本はないらしい。 何か別の本か、論文を日本の学者さんが編訳したのではないかとおもう。 実家の本はどこかにいってしまって、今はない。 題名にひかれて、中島義道氏の本を買ったのは、まぼろしの「人間学」を探す手がかりを求めたからだ。 とはいえ、思いがけない拾い物ができたのは嬉しい。 それにしても、あの「人間学」というカントの本は、いまどこにあるんだろう。 |
用事があって、京都へでかけた。日帰りである。見物するだけの時間がなかったので、トンボ返りで往復しただけだ。 新幹線に乗っているあいだ、ひさしぶりに英語版 NewsWeekを読む。 忙しいので、ここ二ヶ月ほどかなりの数がツン読になっている。こんなときでもないと、読む気にならない。 忙しいときには、どうしても英語雑誌をこなすペースがくずれる。 仕事がつまっていて読む閑がなかった時期のものは、結局ツン読して、読まずに捨ててしまう。次々と新しいのが来るので、過去のものを読んでいる暇がない。 それでも、半年くらいは取っておくが、それ以上になると中身が陳腐になるので、もう読む気がしない。 何度もこうした目にあっているので、このごろでは諦めてどんどん捨てることにした。 それはそれとして、とにかく仕事抜きで、英語を読むのは楽しいものだ。 ただ、このところ所用でくたびれていたので、居眠りしてしまい、往復で二冊しか読めなかった。 先週来た3月13日号では、小学生射殺事件を特集していた。 これは一言でいえば、アメリカ社会の二極分化、荒廃が生んだ事件だ。 二人の子を置いて蒸発した母親、刑務所で服役中の父親から生まれた犯人は、母親の叔父の家の居間のソファーで寝泊りしていた。 麻薬の売人と付き合いのあるような叔父である。銃と暴力は、犯人の少年には見慣れたものだった。 雑誌では、子どもの友達の親に注意を払うように、読者に呼びかけていたが、まわりにアブナい親があふれているアメリカ社会で、そんなことを云ってもという気がしないでもない。 ただし「子どもを守るのは親しかいないことを自覚せよ」という呼びかけは、切実だ。 2月28日号では、面白い科学記事があった。 思春期の青少年の脳は、成人とは異質なものだという。 簡単にいうと、十代の青少年は判断・思考能力をつかさどる統合的な前頭葉は成人にくらべて未発達である。 そのため、他人の顔色や思考を読む能力がないらしい。 いっぽうで、子ども時代に発達していた灰白質の部分が16歳ごろに激減する。 子ども時代の芸術的創造力が急速に失われるのは、このせいだ。 ただし、そのかわり統合的な思考のための神経回路が、ぐんぐん発達して、成人のそれへと変貌するプロセスが進む。 思春期のころの行動がいざ成人となってみると、本人にさえ説明がつかないのは、こうした理由らしい。 もう一冊、「Locus」というアメリカのSF情報誌を読んだ。 こちらでは、アメリカのSF雑誌の発行部数を比較していた。 代表的な「Analog」「Asimov's Science Fiction」「The Magazine of Fanasy and Science Fiction」の三誌をみてみると、1988年から長期低落傾向にある。 予約購読、書店での売上は88年から99年をみると、ほぼ半減している。 とくに「Asimov's ……」の凋落ぶりがすごい。 編集長アシモフが死んでからあまり面白くなくなったけれど、たぶんそのせいだろう。 ところで、アメリカ出版界は80年代後半からホラー・ブームを仕掛けていた。 おかげで、そのころから、90年代まではホラー小説に勢いがあった。 しかし、95年あたりから、ホラー小説は急速に凋落しつつある。 いっぽうで、SF・ファンタジー・ホラーをあわせた出版点数そのものは、上昇傾向にある。 SFとファンタジーに、読者が戻ってきたのかもしれない。 そうだといいんだが…… |
ずいぶん古い本を見つけた。 「富島松五郎伝」(岩下俊作)である。 岩下氏は明治39年に生まれた。昭和55年に亡くなっている。 あまり有名な小説家ではないが、この作品はきっと知っている人も多いはずだ。 何度も映画化された「無法松の一生」の原作である。 ストーリーは説明するのがもどかしいほどシンプルだ。 人力車夫の松五郎が、軍人の未亡人に恋して、未亡人と幼い男の子に無償の愛を捧げるという現代ばなれした譚である。 ところが、これが泣かせる。 いちど読んでしまうと、血の気が多いばかりで、喧嘩に明け暮れた松五郎が、自分の身内のように親しくおもえてくる。 正確に思い出せないのだが、スペイン語では「黄金の心を持ったひと」という単語があるらしい。 富島松五郎という一介の人力車夫はたしかにそういう人間だった。 作者・岩下俊作という人も、またそうだった。 作家三浦綾子さんが「氷点」ブームのとき、九州へ講演にでかけた。小説を連載した朝日新聞の企画で、全国をまわる講演ツアーの一環だった。 ところが、九州では右翼を名乗る男のいやがらせ電話で、身の危険を感じたので、三浦さんはホテルから一歩も出られなかった。 地方支局の記者が気の毒がって、岩下俊作氏をホテルに招いてくれた。それは三浦さんの希望でもあった。 岩下氏は気さくにやってきて、三浦さんと歓談した。 そのとき、三浦さんが「富島松五郎は岩下先生の分身ですね」と訊いたとき、岩下氏は大きくうなづいたという。 この中公文庫には、「聖・もうれん」、「西域記」という作品もおさめられている。 それぞれ「信貴山縁起絵巻」と中国唐代の採経譚に題材をとった歴史ものだ。ざっと眺めただけだが、豊かな才能が感じられる。 これだけの作家がどうしてそれほど評価されずに終わったのか不思議でならない。 松本清張氏の解説によると、岩下氏は五十代後半から小説の筆をあまりとらなくなったようだ。健康上の理由かもしれない。 松本清張氏は、岩下氏の弟と小学校の同級だったので、親しい間柄だった。 清張氏は、才能をじゅうぶんに開花できなかった友をしきりに惜しんでいる。 |
「つひにゆく道とはかねて聞きしかど在原業平 このことだけは、いつの世も変らない約束事だ。 出会った人とは、別れるのが定めとか…… 知人がなくなって、いわゆる通夜とお葬式へいってきた。 宗派は「天理教」で、はじめてこちらのお葬式に出席した。 天理教では、人が亡くなることを「出なおし」というらしい。 教義では、死者はいつの世にか、ふたたび人としてこの世に生まれ変わるということになっている。 亡くなった知人は、天理教の教会の関係者だったので、出席した人々のあいだには、仏式の葬式でよくあるやりきれない悲哀は希薄だった。 悲しんでいることは間違いないけれど、身も世もない悲嘆というわけではない。 もしかしたら、それは故人の徳だったのかもしれないが。 式に臨んだ人々は、そうした再生を信じて、また生まれ変わり死に変わりして、この世で故人と再会できるとおもっている。 あるいは、自分の子や孫として故人が生まれ変わるとも。 そうした感覚が、いままで出席したことのある仏教やキリスト教の葬儀とは異質なさわやかといっていい雰囲気を醸しだしていた。 わたしは信者ではないが、いつかだれかの胎内を借りて、故人がまたこの世にやってくると思えてならなかった。 死はまぎれもない現実で、肉体はかならず滅ぶ。 サヨナラだけが人生だ でも、それは永遠のサヨナラじゃない―― |
まことに申し訳ありませんが、本日は日記をお休みします。 |
「津軽」(太宰治)を読む。 太宰はほとんど読んだことがない。 この本を手にしたのは、ほとんど「津軽」という名前に引かれたからだ。 さいきん東北それも最北端の地が懐かしくおもえる。 べつに故郷というわけではないが、京都や奈良ではあじわえない懐かしさがある。 むしろ京都や奈良には異国趣味(エキゾチシズム)を感じてしまう。 どうしてと聞かれても、よくわからない。 匂いやたたずまいが……ちがうとしか云えない。 話は飛ぶけれど、作家・三浦綾子さんの小説やエッセイを読んでいると、ふと郷里の家屋の匂いがする。 北海道の住宅の匂いである。 三浦さんが食べている味噌・干し魚といった食品の匂いだけでなく、ストーブの匂い、衣類の匂いまで、まるでその場にいるように、ありありとわかる。 東京生まれの作家や、西国出身の作家では、こういう濃密な感覚の共有はできない。 わが心の師である司馬遼太郎さんの作品でも、住居の匂いまではしない。食品なら、なおのことだ。 関西出身のひとには、司馬さんの作品に匂いを感じられるのだろうか。 いちど聞いてみたいものだ。 太宰の「津軽」には、不思議とそうした懐かしい匂いがする。 津軽でしかないと太宰が豪語する食べ物に、「カヤキ」と「卵味噌」というのがある。 わたしは、両方とも知っている。 この食品は、青森と秋田のものだ。わたしは北海道生まれだが、曽祖父の代に青森から来た。この二つの料理は、我が家の定番である。 太宰が描く故郷・津軽の人々はふだんは含羞に満ちて、優雅でありながら、好意をあらわすときには制御しがたい感情の奔出にわれとわが身をもてあまして、失笑してしまうほどに、とほうもないサービス精神を発揮する。 ところが、そのいっぽうで、後になると、自分のぶざまさに思いいたり、ひどく自己嫌悪にかられる。 無類にひとがよく、繊細なのである。 だが、そういう人間は、青森出身のわが親族にはよくいるし、ふりかえってみても、青森出身の北海道人には多いようだ。 こういう繊細かつ屈折した感覚は、他の県でもあるのだろうか。 青森から北では、頭がよくて、本質的に善良なひとほど、こんな性癖を大量にそなえている。 東京人などは、こうした人々からみれば、どことなく粗野で、がさがさしていて、耐えがたいということは、口にこそ出さないが、東北人たちの公然の秘密だ。 コンプレックスのかたまりであった太宰は、じつは東京人のそんなところに苦を感じていたらしい。 都会的な眉目秀麗な好男子でありながら、太宰の本質は、高貴な東北の田舎人だ。 こういう云い方を信じない人には、ただ笑止な言いぐさだろうが…… いまになってみると、太宰という作家が、田舎のご近所にいる文学好きおじさんみたいに思えてならない。 それにしても、青森とは不思議なところで、肌がコーカソイド人種のように白く、長身で日本人には珍しいくらい彫りの深い顔をしている人がいる。 混血でもないのに、まるで白人種のように、瞳が青い人もいる。 津軽には、謎が多い。 |
「古代史の窓」(森浩一)を読む。 学者という職業には、二種類のタイプがある。 既存の膨大な知識をわがものにして、蓄積はすごいのだが、あまりにも<業界の掟>に忠実なタイプ。 他方は前者よりもさらに膨大な知識・蓄積の持ち主であり、もっと広い視野をもっているタイプ。 もちろん、どちらでもない視野の狭い学者バカというか、知的怠惰の権化みたいなタイプは考えにはいれていない。 <業界の掟>に忠実すぎる学者さんの本を読んでいると、いやになってくる。 風通しがあまりにも悪すぎるので、うんざりする。 分厚い本を書いたあげくに、結論は学習参考書や一行程度のきまり文章で要約できる常識の焼き直しにすぎないことが多い。 調べものをして閉口するのが、このタイプ。でも、結論や論証は役にたたないが、引用された文献はありがたく参考にするけれど。 わたしのような素人には、第二のタイプがありがたい。 こういう学者さんの本を読むと、あたまの中の風通しがよくなって、いままでもやもやしていたものがはっきりみえてくる。 漠然と抱いていた謎が、かえって輪郭をするどくして鮮明になり、ますます興味をかきたてられる。ときには、謎そのものが解答であったという発想の逆転に遭遇したりもする。 ほんとうの「知」というものは、そういうものだ――と、強く信じている。 森浩一さんは、まちがいなく第二のタイプである。 「考古学は地域に勇気を与えると同時に、そこに住む人々の心を豊かにする学問だ」 こうした考えが、森浩一さんの探求の根っこにある。 たぶん、それは考古学だけにかぎらない。 そもそも優れた知性がうみだす「学問」というものは、「ひとに勇気を与え、ひとびとの心を豊かにするもの」なのではないか。 ところで、古代史に感心がある人なら、だれもが知っている「筑紫君磐井」(つくしのきみ いわい)という名前がある。 六世紀半ばの北九州の独立地方政権の王であり、大和朝廷と戦争した。 歴史の教科書では、「磐井の反乱」といわれているが、磐井の支配する領域はりっぱな独立国であり、古事記・日本書紀が「反乱」といっているだけで実態は大和朝廷の征服である。 森さんの本によれば、古代文化において、磐井という名前は政権の主宰者に深いかかわりがあったらしい。 はるか後代の平将門の本拠は「石井」と書いて「いわい」という。 奥州藤原氏の平泉があるのは、「磐井郡」だ。 大和においてはじめて地方勢力が成立した三輪山には「磐井」という泉がある。ここは大和政権にとって、重要な聖なる泉だったという。 さらに、筑紫君磐井の本拠、北九州の久留米にある高良山(こうらさん)には、「岩井」という聖泉がある。 森さんはすべて現地を歩いて、たしかめた。 ところで、「筑紫君磐井」の王国は、裁判官もいた法治国家だった。同じ頃の記紀が伝える大和朝廷では天皇が腹立ち紛れにかんたんに女官を切り殺しているのに比べると、国としての組織はかくだんの開きがあったとみるべきだろう。 もうひとつ、面白かったのは、「筑紫君磐井」が猪を飼っていたらしいと、森さんが推測していることだ。 猪は食肉のためではなく、犠牲獣として祭壇にささげられるため飼われていた。 日本にも、犠牲獣を神前で屠って神にささげる習慣があったことになる。 古代中国大陸や、朝鮮半島の文化が、輸入ではなく、その基層文化がこの国のそれと重なる証拠のようにおもえる。 ぼんやりと東アジア基層文化などということを考えてみた。 やはり、この国の姿を知るには、この国の現地を足でしっかり歩いたうえに、中国大陸や朝鮮半島をみなければ、もはやどうにもならない。 ところで、森さんの話では、邪馬台国論争で名前が通った日本史の権威がまだ対馬へいちども足を踏み入れたことがないという。 このことには、素人でさえあぜんとする。 「知」という営みにあって、怠惰は最大の悪徳だとおもう。 |
やっぱり、本日も帰りが遅くなってしまった。 これから、NHK大河ドラマからはじまってTVタイムだ。 残念ながら、今日もろくな日記ではない。 いつもはどうか……といわれても、あれはわたしの精一杯なので、これ以上はどうしようもない。 あきらめの境地だ。 電車のなかで、買ったばかりの「津軽」(太宰治)と「古代史の窓」(森浩一)を眺める。 雨が降ってすこしは花粉症も楽だったけれど、やはり鼻水がでる。 そうやって、本を読むのも面倒なので、しまいにはラジオを聞きながら、外を眺めた。 FENのニュースはテンポがよくて気持ちがいい。 明日こそは、ここ二日分をきちんと書こう。 それでは、また明日。 |
「生命あるかぎり」(三浦綾子)を読む。 前に読んだ自伝「それでも明日は来る」の続編というかたちになっている。 小説「氷点」でいちやく時のひとになった三浦さんが、いろいろな嫌がらせにめげず、小説「細川ガラシア」を書き上げ、教会堂建設に尽力するあたりまでの物語だ。 それにしても、世の中は嫉妬深い。 「氷点」が松本清張の代作だと週刊誌にインチキ記事を書かれたり、怪しい人物たちに家まで押しかけられたり……。 インチキ記事を書いた男は、のちに非を悔いて、三浦さんに謝罪の電話をかける。 三浦さんは男の家族をおもい、謝罪を優しく受け入れる。 このひとの強さはなんなのだろう。 そのことについては、もう少し考えてから、書く事にしたほうがよさそうだ。 本日は外出したので、あまり時間がとれなかった。 明日も、所用で外出するけれど、もっときちんと書こうとおもいますので、よろしくお願いします。 ところで、「ハリー・ポッターと賢者の石」(J.K.ローリング)の原書を買いました。 それほど厚くないので、すぐに読むことにします。 感想は近日中に書きます。 |
新聞を見ていたら、ディーゼル車の排気ガス規制の特集記事があった。 排気ガスの害毒の原因は、窒素化合物( NOx)よりも、黒鉛・煤といった微粒子(DEP)によるものが大きいということは識者にはわかっていたらしい。 ところが、やっと93年にNOxの排気規制が法律として成立したので、こちらのほうは問題をこじらせないように棚上げにされていた。 国民の健康よりも、自動車・石油・運送業界の言い分を優先したのである。 アメリカでは、88年に微粒子(DEP)規制法が施行されている。さらに、DEPよりももっと小さな超微粒子を規制する法案が97年に施行された。 アメリカでは、微粒子の害がすでに行政側で認識されている。 EUでも、2005年に日本基準の5倍も厳しい規制法が施行される予定だ。 情けないことに、日本は石原東京都知事がディーゼル車の排気ガス規制をいいだすまで、このことを口にしにくい「空気」が支配的だった。 わかってはいるけど、動かない。 日本の組織は女性的で、受身だ。決断は遅い。抜本的な改革を自らの意思で断行する能力は、ないのではないかという気もする。 アラビア石油の利権が時効になることを承知のうえで、本格的な省エネ・脱石油エネルギー対策にとりくまなかった。 石油ショックのときにはじめられた「サンシャイン計画」はすでに中止となっている。 こういう未来をみすえた計画は、根付くこともないし、発展することもないらしい。 技術的・経済的にいきづまった高速増殖炉開発計画だけは健在だが、あれはどういうことだろう。 いずれにしても、いまの埋蔵量では石油はあと80年で枯渇する。 EUの経済大国は、脱石油・脱原発のエネルギー改革を進めているらしい。 俗に「男は度胸、女は愛嬌」というが、わたしは反対ではないかという気がする。 これは「男は度胸があってほしい、女は愛嬌があってほしい」という<無いものねだり>ではないか。 女の本質が過剰なまでの攻撃性、果断さであり、男の本質が小心で、妥協と宥和だとおもう。 原始時代の人類では、筋力のある男が攻撃的であれば、種族としての人類は仲間割れで自滅したに違いない。 日本のように原始母権制社会のなごりを強くとどめた社会は、変革の時代にはついていけないのかもしれない。 この国において、変革のエネルギーは、善い意味での<女のヒステリー>というかたちで噴出する。 幕末という変革期に、民衆レベルで神道系新宗教が続々と生まれたが、その教祖は女が多かったし、教祖が神懸りしない場合には妻や娘がシャーマン的巫女の役割をはたした。 こうした例は、戦後の新宗教においても同じだ。 排気ガス規制も、<女性的ヒステリー>でいっきに潮流が変わるのを待つしかないのではないか。 卑弥呼のころから、この国は女がいなければ、どうにもならぬ。 |
ここ数日、花粉がひどい。 一年分の花粉をここ二、三日で吐き出しているらしい。 杉も必死だが、こちらもたいへん。マスクで口と鼻を防衛しているけれど、眼鏡をしているのに、目がやられて真っ赤だ。 うさぎ目とひとに云われる。 涙がとまらない。もちろん、せつなくもないし、哀しくもない。 目と鼻は連動しているらしくて、目の粘膜についた花粉が鼻から出るのか、外出から帰ってきてしばらくすると、それまで出ていなかった鼻水がやたらと出る。 全身を覆うパワード・スーツ(© 「スターシップ・トルーパー」の原作……「宇宙の戦士」)か、映画「アウトブレーク」に出ていた細菌防護服が欲しいところ。 もともと人類が悪い花粉戦争だけれど、年々エスカレートする一方だ。 杉ももうすこし手心を加えてくれないかな。 しかし、ほんとうに悪いのは花粉ではなく、空気中の微小粒子だ。排気ガスから出るこいつが花粉をくっつけて、巨大化して悪さをしている。 そんなわかりきったことなのに、業界団体をおもんぱかってか、メディアもいまいち報道が少ない。 業界の事情とはいうが、運送業と病院だけに都合のいいこんな状態が続いたのでは…… 「玉人」(宮城谷昌光)を読む。 解説を書いているのが、宮部みゆき氏。しかし、この解説をよんだせいで、あやうく買うのを止めるところだった。 よくある中国ミステリーだと勘違いするような解説は困る。 ここにおさめられているものは、全然そういうものではない。 もしこういう書き方の作品をすべてミステリーというなら、少しでも頭のいい作家が書いた小説は、すべてミステリーである。 ところで、ここに納められた作品は、中国伝奇小説のファンだったら、どこかでなじみのある話ばかりだ。 たとえば、短編「雨」の題材は史実で、その史実をもとにして、ある作家が昭和初期に別の題名で短編を書いている。 短編「風と白猿」の元ネタは、中国志怪(=古典怪奇)小説ファンなら誰でも知っている「白猿伝」だ。 他の短編も、中国伝奇小説から題材をとっている。 しかし、大事なことは材料ではなく、料理人の腕と志である。 これらすべてのストーリーを知っていたとしても、こんな感動的な話はおもいつかない。 短編「歳月」と「桃中図」のオリジナルを読んでいるひとであれば、いっそう宮城谷さんの物語に驚き、感動するのではないか。 ――わざわざ、こんなまわりくどい云い方をしなくてもよかった。 じつは、わたしがそうなんです。 いつものように、くだくだ書くのはやめよう。 こんな短い短編集なのだから、手にとって読んで欲しいとおもう。 |
「お目出たき人」(武者小路実篤)を読む。 つくづくと、不思議な小説だと読み終わって、あらためて思った。 定職についていない二十六歳の青年が、十七歳の女学生に恋をして、結婚しようと決意する。 ところが、この青年はその少女と口をきいたこともない。少女が幼い子供の頃から知っているが、顔みしりというだけである。 「月子」という女性に失恋して、女に餓えていると自覚したとき、少女に恋した。 これだけを聞けば、ただの変質者であろう。 青年の想像のなかで、少女はいよいよ理想化される。 しかし、遠くから見かけるだけで口を利くこともない。 仲立ちになる人を介して、少女の両親に結婚を求めるが、体よく断られる。 青年は、ひとり悶えるわけである。 結局、その少女「鶴」は女学校を卒業すると、将来性のある学士様と結婚する。 しかし、青年は「鶴」が自分を恋しているが、親兄弟に無理強いされて、結婚したと思いこんでいる。 それどころではない。 たとえ、本人と会って、「あなたを一度も想ったことはない」と面とむかって言われたとしても、それは意識の上のことで、本音は自分を恋していると確信している。 この恋愛は、いったいどうなっているんだ!? 「自分は男だ! 勇士だ! 自分の仕事は大きい」 と、青年は自分を鼓舞しながら、日々むなしくすごしている。 よく分からない精神構造だ。 ただ青年の母方は華族であり、父と兄は実業家らしい。食うには困らない上流家庭だ。 母方の叔父として登場する人物は、大変な奇人だった武者小路の実の叔父・勘解由小路資承(かでのこうじ すけとも)らしい。 だとすれば、当然この小説は二十六歳の武者小路実篤の自画像とみていいだろう。 「お目出たき人」が出版されたのも、作者二十六歳のときだった。 あまりにも、一方的な純愛ではあるが、どうしたことか、読んだ後にはつらつとした生命の清々しさを感じた。こういう感覚は、しばらく味わったことがない。 現代の上手い小説家さんたちの巧みな小説には、こうした鮮烈な透明感・エンパシーが決定的に欠けている。 この冴えない失恋青年が、とても懐かしく、いとおしく思えてくるのだから、不思議だ。 生きる力が横溢して、なにか真っ直ぐで、しなやかで剄いものが成長しているのを、時をこえて目の当たりにしている感覚がある。 あるいは、そうした成長をうながすエネルギー・フィールドが、時空をこえてこちらまで包みこんでしまったとでもいえそうな不思議な気分だ。 青春というのは、ひょっとしたら、こういう状態なのかもしれない。
「知性は生命について本来理解できないのが特徴である」
(アンリ・ベルグソン) |
「ドイツの都市と生活文化」(小塩節)を再読する。 この人には、TVのドイツ語講座でずいぶんお世話になった。 実際にお目にかかることはないが、なんだか昔から知っているような気がする。 なにせ、声と顔が記憶に焼き付いている。 大学のドイツ語教師の皆さんは、きれいさっぱり忘れたが、こちらのほうは記憶が鮮明だ。ヴァーチャルとはいえ、接した時間が違うのだから仕方がない。 そのわりには、ドイツ語はさっぱりわからない言語で、簡単なことは言えるが、相手が話し出すとお手上げだ。 ゲルマン系は難しい。これに比べると、スペイン語はもちろん、フランス語だって聞き取るのはずいぶん簡単だ。 ロマンス系の言葉を学ぶのは、楽でいい。 世の中には、外国語を習得する天賦の耳の持ち主がいる。 そういうひとが、わたしのような愚才の費やした時間を例えば英語に用いたなら、英語の名人、大家、神様になれるだろう。 くやしい話だが、仕方がない。 世の中には、生まれつきかけっこが早い人間がいるものだ。 小学校から徒競争で人の背中ばかり見てきたので、あきらめることにはなれている。 わたしのような鈍なものは、必死に人の数倍努力して、はじめて人並みになれる。外国語をやっていると、身にしみて、それがわかる。悲しいなぁ。 ところで、ドイツ人については日本人は大変な誤解をしている。 というのが、小塩氏の意見だ。 第二次大戦で負けたのは、イタリア人のせいだ。今度は日独だけでやろうと、酔っ払った日本人がおだをあげる。ドイツ人もそう考えているとおもうわけだ。 ところが、99パーセントのドイツ人は冷徹なヨーロッパ中心主義者だから、このイエローモンキーが何をいっているということになる。 日本人は、哀れにもヨーロッパに片思いしているわけである。 むこうには、日本は眼中にない。日本に来ているヨーロッパ人はよほどの物好きだとみるべきだ。 それは、ドイツだけでなく、イギリス、フランスを含めたEUの経済大国に共通した態度である。 だからといって、日本人がドイツやフランスを学ぶことが無駄であり、馬鹿げているわけではない。 なんといっても、地球の反対側を牛耳っている連中である。研究しておくことにこしたことはない。 異質であればこそ、いよいよそうしたことをする価値がある。 アジアが異質とはいっても、中欧とは異質の次元が違うとおもうわけである。 ところで、意外なことに、中欧の大都市ウィーンは日本歴史に深いかかわりがある。 ウィーンの宮廷は、江戸時代から日本産陶芸品・漆器のよいお客さんだった。 モーツァルトは自作のオペラ「魔笛」の主役に、日本人の服装をさせたそうだ。 さらに、幕末になると、例のシーボルト父子がウィーンで日本研究をおこなった。 そうした文化的な側面だけでなく、近代日本国家誕生にも、ウィーンは大きくかかわっている。 大日本帝国憲法制定である。 ウィーン大学教授シュタインが、伊藤博文たちに徹底的に叩きこんだ憲法と行政法が帝国憲法の骨格となった。 伊藤がビスマルクに心酔して、いきなりプロシア憲法を翻案して、旧帝国憲法を草したわけではない。 ひさしぶりに読んだこの本で、ずいぶんいろいろなことを教わった。 おかげで、飽きかけていたドイツ語学習にまたやる気がでてきた。 中欧――とくに、ハプスブルク帝国は面白い。 |
「徳一と最澄」(高橋富雄)を読む。 徳一とは天台宗の開祖、最澄と論争をしたことで、歴史に名を残した法相宗の僧侶だ。 この論争は、最澄の一方的勝利で終わったことになっている。 しかし、どうやらそれは天台宗の言い分であり、実際には論争は最澄の死で終わっただけのことだった。 それからほぼ二百年後に天台宗の恵心僧都源信が、この論争の論点を整理して論文を書き上げなければならないほど、天台宗の教学にとって咽喉にささった魚の骨のごときものとして、徳一の議論はありつづけた。 徳一という僧は、恵美押勝と呼ばれた藤原仲麻呂の子とされる。 しかし、どうやらそれはフィクションらしい。 この僧について確実に云えることは、奈良仏教の出身者であり、東国の会津へいって仏教を広めて、生き仏として崇拝されたということだけだ。 奈良仏教において最澄・空海に対抗しうる只ひとりの大学僧・宗教者と目されていたことは間違いない。 謎に満ちた徳一の前半生は、法相宗の大学匠であり、征夷大将軍坂上田村麻呂を帰依者として京都清水寺を建立させた陰の実力者であり、東国への仏教浸透をはかった聖人であったらしい。 最澄・空海ほどに後継者に恵まれなかったが、じつはかれらに匹敵する宗教的天才のひとりだった。 後年、徳一が開祖となった東国の寺は、空海の真言密教の末寺となる。 だが、その前に法相宗から天台密教への改宗があり、南北朝ごろに天台密教から真言密教へ転じたのではないかと著者高橋氏は考える。 というのも、寺に残る儀式などが、真言密教ではなく天台密教の流れを汲むことが明らかだからだ。 天台密教を東国・陸奥で布教することに努力したのは、最澄の弟子・円仁だ。円仁は山形県の出羽立石寺で生涯を終えている。 円仁は入唐して天台宗に密教を伝え、天台座主をつとめたこともある高僧だ。おそらくは、師匠の論敵を宗教的に征服する目的で、円仁は東北へ入ったのではないか。 その後、南北朝時代において、高野聖とよばれる念仏宗と習合した真言密教の徒が、全国的に展開した。円仁が蒔いた密教の種が、そうした空海の末弟子たちに刈り取られた――ということを夢のように考えてみた。 そのような観点からみれば、徳一という存在はただの風狂な田舎坊主と片付けるわけにはいかない。 これほどの巨星がまだ謎の存在として、埋もれたままでいる。 まだまだ、この国には知られざる英雄が発掘されるのを待っているようだ。 |
図書館へいって、「本朝文粋」(日本古典文学大系)を借りる。 この本は、平安時代の漢詩集だとばかり思っていたが、それだけでなく、平安時代の漢文であれば上奏文・官府・エッセイのたぐいまで含まれていることを最近知った。 平安時代の京都を知る第一級資料「池亭記」(慶慈保胤)や、三善清行の「意見封事十二箇条」までも含まれている。 めあては、この二つだったが、日本古典文学大系は抄録なので三善清行のほうはない。 慶慈保胤はあったので、さっそく読む。 すぐに読めた。文章としては短い。読み下し文なので、苦労はない。 内容はいろいろな歴史書で引用されていることばかりなので、驚いた。 ある本などは、原文をほぼまるまる引用していたこともわかった。 歴史資料というものは、こういうものなのだろう。 いぜん「将門記」を読んだことがあるが、これも原文は意外なほど短い。 それにしても、唯一の資料がこれほど僅かなのに、小説家は平将門についてよくも長大な作品が書けるものだと感心する。 要は想像力の問題だ。 平安時代に「倭名類聚抄」という日本初の国語辞典兼百科事典を作った源順(みなもとのしたごう)という学者がいる。 順の書いた漢詩がある。「尾なき牛の歌」というもので、尻尾を狼に噛み取られた牛に仮託して、家格が低くて出世もできず、禄高も少ないわが身をぼやいている。 平安官人のぼやきとしてみると、時代は変っても人は変らないと面白く読んだ。 ところで、「本朝文粋」に面白い伝記がある。 名を「鉄槌伝」という。 この伝記の直前には、三善清行の「道場法師伝」と謂う高僧伝、直後には渤海国への挨拶状があるので、<鉄槌>という高僧の伝記であるらしい。 著者は羅泰という。これも僧だろう。あるいは中国人かもしれない。 前文によれば、羅泰はもと雁門という地方の長官であった。 よほど鉄槌という人物に恩があるのか、こんなことを書いている。 「われを導引するものは鉄槌なり。ああ、わが生のよりて出づる所なり」 だから、見聞を集めて、その行状を書くのだという。 鉄槌は字を「藺笠」(いがさ)という。袴下毛中の人である。先祖は鉄脛(かなはぎ)という人であった。 若いころは袴下というところに棲んでいて、天子の皇女から御召しがあっても、いっこうに出かけることもない。 しかし、ようやく成人するにおよんで、貴族の門へ出入りして、はなはだしく寵愛されて、ぐんぐん抜きん出て目立つようになる。 朝早くから夜遅くまで働いて、切磋して飽きることがない。 このあたりから、どうも変な気がしてきて、読み返してみた。 鉄槌は「身の丈、七寸。大口にして、尖頭、首下に疣のようなものがある」らしい。 身の丈七寸の人間がいるものだろうか。メートル法では21センチではないか。 先に先祖は鉄脛と書いたが、これは原文が「その先は鉄脛より出ず」という言葉であったことによる。 見落としていたが、鉄槌は一名を磨羅(まら)という。この語の意味を素直に受け取ればよかった。 インドから来た西域僧でもあるのかと思ったのが、間違いであった。 さらに先のほうでは、鉄槌には「ふぐり」「磨良(まら)」という別の名前があることがわかった。 もう、おわかりだろうが、「鉄槌伝」とは男根の伝記であった! 鉄脛とは玉茎であり、「その先、鉄脛から出ず」とはなるほど形態的にはそのとおり。 「袴下毛中」とは、袴のした、陰毛のなかという意味であった。 「精兵暁にたち、突騎夜に忙し。長公主を襲い、少年娘を破る。……骨にもあらず肉にもあらず。かの閨房に親しむ」 というのが、鉄槌の行動・人となりである。 これは、伝記をよそおった戯文であった! 作者は、「本朝文粋」を編纂した学者藤原明衡だと云われるが、たしかではない。 |
いまさら、この年でなんなんだけど、漢文を勉強してみようかとおもう。 といって、漢文の参考書などそこらの本屋の文学・語学関係の本棚にはない。 しかし、別の本棚には少しはある。 情けない話だが、高校の受験参考書のコーナーだ。 いくつかめくってみたが、大昔受験勉強した記憶がよみがえって、いまさらという気持ちが先に立つ。 いくら英語を勉強したくなったからといって、受験英文法の問題集を律儀にひもとく気になれないのとおんなじだ。 それでも、要領良くポイントをまとめた「総まとめ:受験にでる漢文:一週間で君も漢文マスター」なんて本を探してみようとおもう。 あとは、漢文読み下し文と和訳を併記した中国古典の原典を図書館から借りて読めば、それで良いとおもう。たとえば、「中国古典文学大系」とか。 こんな面倒なことをやろうと想うのも、「日本史を極めるには、中国史は必須」という単純な事実に気がついたからだ。 日本の人々にとって、歴史に残された中国の偉い人々の生き方は、人生の手本だった。 そのことを考えると、知らないではすまされない。 宮城谷昌光氏の「侠骨記」を読む。 一日一冊を目標にしているわりには遅い。 しかし、わざと遅く読んでいるのである。普段のスピードで読めば、丸一冊読んでも1時間とかからない。 それに一編読むごとに何度も何度も読み返している。 あと「買われた宰相」一編を残すのみだった。 もったいないような気がして、まだ読みだせずにいる。 |
ここ数日、古い漫画を読んでいる。 鄭問の「東周英雄伝」1〜3巻だ。 この人の作品は、「深く美しきアジア」のあと、見たことがない。 いま、どうしているんだろう。 「東周英雄伝」の舞台は、春秋戦国時代だ。 ちょうど宮城谷昌光氏の作品と同じだ。 「三国時代までの中国は、日本人の好みに合う」とは、漢学者安岡正篤氏の言葉である。 それ以後の歴史は、西域や北方の異民族がおびただしく中国文化圏に入りこんで、エグい人間が多くなって、ちょっと日本人の口には合わなくなるそうだ。 少なくとも、春秋戦国時代の話は、中国史においては古風なほど清新な感じがする。 工芸品などをみても、おどろおどろしくはあるが、唐代のものに比べると、ずいぶん親しみがもてる。 中国風という言葉から連想する派手なものは、むしろ唐ぐらいからの文物で、漢や三国時代のころの工芸品はむしろ清楚とさえいえる。 アルカイックな魅力ということであれば、日本人の好みにあう。 人間も、またそのようであるらしい。 鄭問氏が描く人間も、樽の中で澱みながら熟成する醗酵食品であるよりは、新鮮な生鮮食品の趣きがある。 こういう作品は、あたまの中の風通しがよくなる。 ひるがえって、宮城谷氏の作品をみると、こちらも似た風が吹いている。 せいせいする。 |
昨日の日記に書いたのは、雑誌「Newton」4月号の緊急大特集「帰らざる三峡」のことである。 中華人民共和国では、長江(揚子江)の三峡という地区にダムを建設している。 そのダムは、高さ175メートル、長さ2.3キロという途方もない規模だ。 高さでいえば、世界最大のピラミッド・クフ王のそれが146メートルである。 そこに蓄えられる水量は日本中のダムをすべて合わせたよりも遥かに多い。 総経費は約3兆円と予想される。 大変な国家的プロジェクトで、1993年から建設がはじまり、2009年に完成予定だ。 2003年には、貯水がはじまる。 これによって、長江の洪水はおさまり、三峡ダムだけで日本の全水力発電量と等しい電力が生まれ、船舶による河川輸送も格段に進歩する。 文句のつけようがない。 ただし、土木関係の人でなければ、ちょっとだけ余計な心配がある。 水没する市が13市。 住民の移転が約113万人。のちに間違いなくダムの水位があがるので、最終的には170万人から180万人に膨れ上がるという。 水没する歴史的遺産は、1208基。 そのなかには、楚の詩人「屈原」の祠、三国志の「劉備」が死んだ「白帝城」、「張飛」の廟もある。 また絶滅危惧種が6種いる。 スナメリ、ヨウスコウカワイルカ(バンジー)、ヨウスコウワニ、ハシナガチョウザメ、ヨウスコウチョウザメという大型水棲哺乳類、大型爬虫類、大型魚類などだが、もともとほっておいても減少傾向にあるのだから、ダム建設によって国家が種族保存に熱心になったからかえって良かったという意見もある。 こんなとるにたりない問題をのぞけば、中国人民にとっては結構なことだらけである。 水没する地帯に、大都市があり、そこには化学工場がいっぱいあって、水没後に化学物質が浸みだす可能性もあるが、そんなことは「不要緊(ぷーやおちん)」(=問題ない)である。 建設後、70年もすれば、土砂がダムの底にたまったり、下流では土壌の侵食がはじまる。 このダムができても、よほど運用をうまくしなければ、中程度の洪水でも防ぐことはできない。 湖水が富栄養化して水質が悪化したり、ダム誘発地震が起きたり、ダム上流部分で大規模な山崩れがおきたり、ダムの湖水が蒸発して、周囲に深刻な気候変動が発生することはすでに予想されている。 しかし、日中の専門家たちにとっては、「不要緊」(問題ない)なのである。 これほどの愚行が、中国とそれに協力する諸外国の手で行われている。 2003年には、いろいろな詩人が詠った長江・三峡地区の美観は永遠に失われる。 ところで、「Newton」と旅行会社が共同で三峡クルージング・ツアーを開催するらしい。 その広告が掲載されていた。 やるもんだなーっ! その商魂には、素直に感心した。 詳細は、旅行会社のホームページで見ることができる。 |
© 工藤龍大