お気楽読書日記: 2月

作成 工藤龍大

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2月

2月29日

あんまり面白かったので、新聞ネタをひとつ。(2月29日付けの読売新聞)
アメリカ・ニュージャージー州に「米国白人文化研究所」という研究所がある。
2050年頃には、アメリカの人口比率で白人の割合は53%になると予測されている。2100年頃には、白人人口は40%になることは間違いない。最大人口になるのは、ヒスパニック系らしい。
このごろのアメリカ芸能界・スポーツ界で活躍する若者たちが、ラテン系の名前をしているのは、ヒスパニック系の勢いを証明している。
そんなわけで、アメリカでは<白人優位社会>が崩れつつある。
危機感をもった人々が、<白人とは何か>ということをつきつめて、<白人文化の研究>にとりかかっている。
まづは「おのれを知る」というわけだ。
「白人文化研究所」の所長ジェフ・ヒッチコック氏の分析では、アメリカ白人は無意識的に、こんな固定観念に縛られているそうだ。
  • 個人主義を重視し、協力を軽視する
  • 競争に重点を置く
  • 勝者が総取りできる制度を絶賛する
  • 戦争を美化する
  • 時間に厳しい
  • 人間の価値基準は、財力と権力
  • 自分たちの文化がいちばん優れていると考える
  • 先住民族には自分たちの文化を押し付けるべきだと考える
  • 核家族が単位
  • 男が権限を握り、女が服従する家庭が理想
  • 美の基準は、金髪で青い目の女性
<白人文化>とはいうが、米国社会で「黄色い白人」になりたがるアジア系住民は、白人よりもこの種の文化にどっぷりと浸っている。黒人やヒスパニック系に比べると、アジア系はアメリカ白人文化に骨の髄まで同化する傾向がある。
この人々にとっては、白人社会こそが正しいアメリカなのである。

ひいては、戦後に日本を闊歩したアメリカ帰りの人々もまたこうした文化を共有している。むしろ、これが優れたライフ・スタイルだとされた。

しかし、最近ではこうした<白人文化のライフスタイル>は、有害ではないかと考える人々がアメリカにおいてすら現れてきた。
例えば、しばらく前にブームになった「七つの習慣」というビジネス書だ。
ここに書かれていた<成功するための考え方>には、意外なことに<白人文化>とは真っ向から対立するものが多い。少なくとも意識の上では、前記の考え方は、まともなアメリカ人から軽蔑されこそすれ、評価されることはなくなっている。
たぶんビル・ゲーツと、その崇拝者だけは別だろうが……
しかし、連中をまともな人間だとおもう人は、アメリカ人でさえ少ないのではないか?

日本においても、<白人文化>にかぶれた人々がどうにかなってほしいものだ。

ちなみに、この記事の隣に載っていたのが、台湾の李登輝総裁の解説記事だ。
「台湾人の心、日本人的思考、西洋の価値観」を持った政治家と評する人もいるとか。
李総裁は生前、司馬遼太郎さんと対談もしている。
対談集で御二人の対談を読んだことがある。
「この人は中国史でいう英雄の一人かもしれない」とぼんやり考えた。
英雄とは、人民を平和に食わせる能力をもつ政治家である。
少なくとも、司馬さん好みの<英雄>であることだけは間違いない。
英語に堪能であり、勝れた学者であり、敬虔なキリスト教徒である。
このことは、李総裁が西洋文明にとって並外れた良き理解者であることを、深い色合いを滲ませながら鮮明に教えている。
バナナ(黄色い名誉白人)ではない東洋の知性が、日本の政治に現れることなど、ほぼ無理だろうから、このような指導者を持った台湾の徳を素直に認めるしかない。

「中国の歴史上、台湾は最も繁栄して自由な社会を作り上げた」
この言葉は、李総裁の自負ではあるが、言われてみて成る程と思った。
台湾ほど、自由で開放された社会を、いままで中国の人民は一度も持ったことがないのである。
いくら国民党独裁の暗黒時代を引き合いに出しても、中国史ではその程度は当たり前だ。歴史のなかで人民が最も安楽に暮らせた時代であっても、せいぜいあれくらいだったのである。
今の台湾は、歴史上の中国民衆にとっては、天国ではないか。

ところで、本屋にいって今月号の雑誌「Newton」を読んだ。
いま隣の国で、21世紀最大の愚行がおこなわれようとしていることを知った。
怒ると肝臓には良くないそうだが、血液が沸騰して脳天を直撃した。頭のねじが二、三本吹っ飛んだようだ。
それについては、また明日。

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2月28日

昨日は、ただの思いつきを読んでいただいてありがとうございます。
誰も読んでくれないのではないかと、内心びくびくものでした。
昨日のアイデアをもう少し広げれば、天神信仰や御霊信仰(これは後に祇園祭りの起源になります)といった怨霊信仰が、天皇家や藤原摂関家の神聖王権に果たした役割も説明がつくような気がしています。

ところで、本日はふたたび蝦夷の世界へ飛びます。
「みちのく古代 蝦夷の世界」という本を読みました。

シンポジウムの記録で、出席者は大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉という考古学者・歴史学者と、司会者のSF作家豊田有恒氏。
豊田氏はひどく退屈な作品を書くが、頭脳明晰で古代史評論家としてはなかなか鋭いから、シンポジウムの司会者としては良しとする。

これがじつに面白い本だった。
東北は、弥生時代にあってさえも、後進時代ではなかったというのである。
大和王権の象徴である前方後円墳は、山形県まで分布していた。さらに、考古学者岡田茂弘氏の予想では秋田県でも見つかるだろうという。
このことは、東北が大和王権の支配下にあったことをしめすわけではない。
前にも書いたように、大和王権と友好関係にあった地方豪族がその文化を輸入して建設するものだ。
しかも、この時代、東北ではさかんに鉄器が作られていた。
古墳時代にあっても、東北は西日本とタイムラグなしで、同じレベルの文化を築いていたのである。
稲作をおこない、鉄製の鎌まで見つかっている。

面白いのは、稲作は2、3世紀にはすでに津軽平野まで到達していた。
その後、5世紀にいったん衰えた。それでも、宮城県を北限として稲作は続いていた。
本格的に復活するのは、7,8世紀のことだ。

これだけでも、教科書的な歴史しかしらない私はあぜんとした。
しかも、東北では「北の海みち」と呼ばれる大陸との交易ルートがあった。
沿海州あたりにあった渤海・粛慎・靺鞨というツングース系民族・国家と日本海を突っ切って交易していたらしい。
渤海はツングース系民族と朝鮮半島の高句麗貴族が作った国だから、この道はそれ以前から高句麗との交易ルートであったらしい。
大陸との接触は、東シナ海・瀬戸内海ルートばかりでなく、日本海・(北海道)津軽海峡ルートというのもあった!

のちに奈良時代の大和王権がしきりに東北を攻めて、名馬を得ようとする。東北が名馬の産地であるという概念は古くからあり、平安朝を通じて東北の名馬は高値で取引された。源平時代から江戸時代まで、馬が東北の名産品であったことは御承知のとおり。
ところが、東北の名馬の正体はどうやら「北の海みち」を経由して運ばれた高句麗系統の馬の子孫だったらしい。

日本という国は、旧石器時代から、いいかえれば、人がこの国に住むようになってからというもの、閉鎖系の文化というものを造ったことがなかった。
つねに、その文化は開放されたオープンなものだった。

奥州平泉に藤原四代が栄えた頃も、「北の海みち」は健在で、津軽平野には「津軽の蝦夷」と呼ばれる異文化の人々が盛んな勢いをしめしていた。
この人々が中世の東北(津軽の十三湊)に商業王国を築いた「安東氏」の先祖かもしれない。
さらに、その先には稲作文化を決して受け入れない北海道の蝦夷(=渡島の荒狄)がいる。
日本はけっして単一文化・単一民族などではない。

ちなみにアイヌ文化というのは、室町期以降に日本文化と断絶するかたちで北海道において成立したものである。
そのころまでは、北海道の人々は自由に東北にやってきて、狩猟・漁労をしたり、畑作をしていた。
日本人の文化的アイデンティティが独自の色を強めるにつれて、北海道の人々はアイヌ文化を作り出して完全に別の道を歩きはじめたことになる。

ところで、東北人の子孫であるワタシには胸のすく発言があった。
「蝦夷は、いちども大和朝廷の軍には負けたことがない」
これには、拍手・拍手……である。

名将・坂上田村麻呂でさえ蝦夷の猛将アテルイとは双方ともに疲れ果てて引き分け――というより、戦争に勝っていたアテルイが焦土作戦をはじめた田村麻呂と手打ちをしたというのが実状だ。
皇族の末裔である源頼義・義家親子が侵略をしかけた前九年の役・後三年の役も、戦局を決定したのは現地勢力だった。その子孫・源頼朝の征服戦争でも、主体は奥州・関東の武士(つまりは蝦夷の子孫=身内)であった。
関東の武士と、奥州の武士は肉体的にはほぼ同じ遺伝子を持っている。
関東武士が渡来人の末裔であるといっても、その一派が東北に入植して、奥州藤原氏の政権を築き、ささえたのだから。

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2月27日

本日は、ちょっと思いついたことを書く。
身辺雑記兼読書録というよりは、ほんとうの思いつきである。
それは、平安朝の悪霊について――である。

ものの本に寄れば、平安朝は憑霊・怨霊が暴れまわったホラーの時代である。
昨今の平安朝ホラーの流行や安倍晴明ブームをみても、平安期は超能力者がうようよしていたまことに剣呑な時代におもえる。

ところが、先だって「大鏡」と「日本歴史年表」の「天皇系図」と「藤原氏系図」を眺めているうちに、ひょいとある考えが浮かんだ。
というより、悪霊が発生するための、ある種の法則を発見したようにおもう。
つい、黙っていられなくなったので、こんなところで書いてしまう。
閑があったら、見てやってください。長文ですけど……

<悪霊発生のメカニズム>とは――
それはオカルト的なものではなく、むしろ政治学的なものだといっていい。

歴史読み物ではないので、てっとりばやく、結論だけを云う。
  1. 仮説:悪霊に祟られるのは、政治的に敗北した勢力
  2. 仮説:強い悪霊がでた家系は、強大な霊力を秘めていることを誇示
  3. 仮説:霊能力は、政権獲得能力であった!
この政治的悪霊発生の仕組みにかかわるのは、天皇の生母の家系と藤原氏内部の政治力学だ。

怨霊としてあまりにも有名な菅原道真や早良親王を例にだすと、状況説明が長くなりすぎるので、例として藤原氏の覇権が定まった頃に出現した悪霊たちに登場願おう。

名前を順に挙げると、藤原南家の元方民部卿、藤原北家高藤の子孫の中納言藤原朝成、藤原摂関家兼通の息子・左大臣顕光である。

元方民部卿が祟ったのは、ライバル藤原師輔の娘・安子が生んだ冷泉・花山天皇である。この両天皇は狂気によって帝位を捨てさせられる。この狂気が元方の悪霊のせいだとされる。

中納言朝成卿が祟るのは、藤原摂関家の嫡流・太政大臣伊尹の家系である。
伊尹の弟たちが、藤原家の黄金時代をつくる兼通・兼家だ。兼家は道長の父である。

世にいう「悪霊左府」藤原顕光は兼通の長男で、道長とは従兄にあたる。顕光は天皇や皇族の后になった道長の娘たちに祟る。

ここで注目したいのは、祟ったほうではなく、祟られた家系である。
祟られた家系は天皇に娘を差し出すにもかかわらず、男の皇子は誕生しないか、皇太子になれない、即位できないといった政治的悲運に遭遇する。
そのために、祟られた家系はやがて政治的に凋落する。いったん衰えると、いぜんの勢力には返り咲かない。
道長の家系も息子の頼通や教通の時代には皇子が生まれなかったので衰え、院政期に入るとぱっとしなくなる。
また祟られる家系はそれを打倒して後で勝利する家系と比べると、常に政治的・血統的正統性において勝っている。
つまり、冷泉・花山天皇の家系は藤原伊尹・兼通・兼家兄弟にとっては眼の上のコブであり、長兄伊尹の家系は兼通・兼家にとっては邪魔であり、道長の家系は院政期の傍流藤原氏たち(後に書く勧修寺家など)にとっては邪魔だった。

もうひとつ面白いのは、祟った家系である。悪霊とされた人々自身の子孫はあまり出世も活躍もしないが、その傍系が後で大発展する。
たとえば、元方民部卿は清和源氏の頼光・頼信兄弟の外祖父にあたる。また内孫である保昌・保輔は武勇すぐれた軍事貴族となった。
朝成中納言の子孫は、ぱっとしないが、兄弟の家系は「勧修寺家」といい院政時代に道長直系の摂関家を圧倒して、大勢力となる。
悪霊左府・顕光公も、女婿の家系が院政時代にはぶりをきかす。

つまり、悪霊騒ぎとは、現実の政争とは二、三世代ごとにずれた形で、政治闘争をしているようなものである。
悪霊とは、権力が正統性を誇示するために、作り出した政治的神話だと見るのが自然だ。

平安時代にあっては、<霊能力>とは今日のオカルト的な意味ではなく、統治能力そのものだという観念があった。
古来そうした能力は天皇家の独占だったが、藤原氏は二代目不比等が天智天皇の隠れ皇子だということになっていたので、準皇族扱いだった。
したがって、藤原氏であって摂政・関白になる大物たちは、霊威ある天皇と同じくらいの霊能力を持っていたと当時の歴史では記述される。
藤原氏黄金時代を作る忠平、師輔、兼家、道長の直系四代に霊視能力と怪異譚がつきまとうのは、そういうわけである。
悪霊とは、そうしたポジティブな霊能力の裏返しである。
だから、最初に出した仮説を補足すると、こうなる。
  1. 仮説:悪霊に祟られるのは、政治的に敗北した勢力
    • 敗北した勢力には道義的力がない:だから、敗北した!というロジック
  2. 仮説:強い悪霊がでた家系は、強大な霊力を秘めていることを誇示
    • 政権担当能力を誇示する狙い:だから今の繁栄があるというロジック
ところで、この論理で云えば、道長のライバルだった従弟の伊周(これちか)がなぜ悪霊化しなかったかという疑問が残る。
答えは簡単で、もう世は実力本位の武士の世界になっていたから、血統原理による<悪霊発生のメカニズム>は必要なかったのである。

ただし、白河法皇の隠し子であり、武士でありながら政権をとった平清盛が、霊視能力をもっていたり、怪奇現象に遭遇するところに、古代からの呪術王の名残がみられるくらいだろうか。

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2月26日

まだ短編集「侠骨記」(宮城谷昌光)を読み終わっていないのだが、エッセイ集「春秋の名君」(宮城谷昌光)を読み出す。

「目が眩むほどの感動」
といえば、大げさすぎるだろうが、事実はそのとおりだった。
息が止まって、目の前がぐらぐらと揺れた。
本を読んで、そんな体験をすることなど、生涯に幾度もあるものではない。

宮城谷氏は四十代まで無名の作家だった。
立原正秋という作家だけが、若い頃から氏を認めて習作を観てやっていた。
この作家は在日朝鮮人で母子家庭という生い立ちをふくめて、つらい体験をおびただしく抱えながら、背筋を伸ばして生きた人物だ。批判はあるが、一個の男子としてみると、みごとな出来物だ。
そうした男のハートに触れる何物かを、若い宮城谷さんは持っていた。

長い無名時代を過ごした宮城谷氏にとって、心の支えであり、師であったのは、藤沢周平氏と司馬遼太郎氏だった。
「夜に輝く星座」として、この御二人を目標に小説を書きつづけた。
エッセイ集には、司馬遼太郎氏がなくなる40日前に生涯で初めてあったときのことが書かれている。
司馬さんの方から、会いたいと編集者を仲立ちにして声をかけた。
「肝胆相照らす」とは、こういう出会いを云うのだろうか。
この出会いそのものが一編の詩である。

隆慶一郎さんもそうだったが、一流中の一流の作家は長い熟成の時を経なければ誕生しない。
熟成といえば聞こえは云いが、小説が書きたくても書けないし、誰からも認められない暗黒時代である。
おそらく煌くような才能だけでは、隆さんや宮城谷さん、ひいては藤沢さんや司馬さんのような作品は絶対に書けない。
おのれの卑小さと他人の存在の重みを知った人間のみが、為し得ることだ。
それを知ることは、生易しいことではない。

宮城谷さんは中国の歴史小説が専門だが、こんなことを書いている。
中国史をふまえて日本史をふりかえると、みえなかったものがみえてくるはずである。
宮城谷昌光
少し前から、日本の古典を読んだり、歴史専門書を読むたびに、日本を知るには中国の歴史を知らねばと思うことしきり……である。

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2月25日

ここ数日、「漢詩入門」(入谷仙介)を詠んでいる。
ただの閑つぶしみたいだが、昔の本を読んでいると漢詩の知識がないと話にならない。
明治維新前の日本人にとっては、唐時代くらいまでの中国の歴史は常識だった。
およそ、本を読むほどの人間であれば、日本史よりも中国史のほうが詳しかった。
それだけでなく、文学・絵画・芸術の一切が中国をお手本にしていた。
今から見れば、「中国文化のひたすらな模倣」ということになる。だが、よくみると、お隣の朝鮮のように忠実に真似るのではなく、良い所どりの「日本流消化法」で自分たちの好みにあう部分だけをちゃっかり取り入れている。
このしたたかさが、なんともいえない日本人の愛嬌ともいえる。

とにかくも、いまどきの文部大臣がカタカナ英語だらけの答弁をつくって、議員に叱られるようなものだ。
おっちょこちょいのわが国民の癖は、はるかな太古から現代にいたるまで不変である。
むしろ、そのことのほうに感心してしまう。
これこそ、<ヤマト魂>というんじゃなかろうか。

漢詩の入門書を読むのは、平安・鎌倉時代の古典を読むと、やたら漢詩が引用されているからで、生の引用はないにせよ、そこはかとなく漢詩の知識をちりばめている。
だったら、本家本元をみてやろうと好奇心を起こしてしまった。

英文法学者変じて人生評論家の渡部昇一氏は、蘇東坡の『赤壁の賦』を暗誦できるらしいが、そこまではいかなくとも、ある程度は漢詩を知らないといかん――という野心をおこした。

司馬遼太郎さんも、大阪外語大学モンゴル語科出身であって、モンゴル語は片言しか使えなかったが、漢詩や漢文を読むのはなんの苦労もなかった。
同じ大学の先輩の陳舜臣さんにいたっては、北京官語の他にも福建・広東中国語、ロシア語、サンスクリット、ヒンズー諸語までできるそうだが、こんな語学的天才を真似しようとしても無理な話だ。
しかし、少なくとも、日本歴史に興味があるなら、漢文とか漢詩だけは押さえておくのが王道である――とおもう。

中国の漢詩は、13世紀に宋がモンゴルに滅ぼされる前後からすでに内的生命力を失っていたらしい。
本場中国では、1930年代には漢詩を作る人は絶え、これより前に生まれた世代だけが漢詩の作り方を知っているとか……

ところが、日本では、漢詩の全盛時代は江戸時代だった。
プロといっていい作り手は儒学者や学者崩れの文人だったが、意外なことに愛好者は坊さんや横町の御隠居だったりする。
武士だけでなく、庄屋さんや中堅の商人にいたるまで俳句とまではいかないが、広い層に支持された文芸であった。
すこし時代は遡るが、戦国末期から江戸時代の武将・直江兼続も中国の古代詩集「文選」を復刻して自費出版していた。隆慶一郎さんの「一夢庵風流記」で描かれていた文人・直江のエピソードは、フィクションではない。

押韻・平仄というのも、自分で作るのでなければ、それほど厄介でもないようだ。
江戸時代の御隠居になった気分で、「漢詩入門」を読もうとおもう。

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2月24日

NHK教育TVで、作家三浦綾子さんのドキュメンタリーを観る。
三浦さんは昨年10月に亡くなった。
すでに、三年前からパーキンソン病が悪化して執筆ができなくなり、自宅で夫光世さんの献身的な看護を受けていた。
ついに介助してもらっても歩くことができなくなり、病院へ入院して亡くなった。

驚いたことに、三浦さんは五冊目の小説、「塩狩峠」を書いた頃から自分でペンが持てなくなっていた。
三浦さんは生涯で83冊の本を書くが、そのほとんどは三浦さんが口述したものを夫光世さんが口述筆記したものだった。
光世さんはそのために長年勤めていた営林署を辞めた。

その後も、綾子さんは直腸ガンになり、帯状疱疹(ヘルペス)を発病した。
帯状疱疹では顔面だけでなく、角膜にさえ水泡ができて、失明の危機にあった。
三浦さんは起き上がれるようになると、痛みをこらえて、眼をつぶって壁伝いに歩く練習をしたという。
帯状疱疹は死亡する危険はないが、痛みだけは相当我慢強い大人でさえ耐え兼ねるほどの激痛をもたらす。これを和らげる薬もあるが、幻覚・幻聴がすごい。
三浦さんも、家のなかにクマを見たり、居もしない子供を見たりした。
うちの父も、この病気をやったことがあるので、傍で見ていてもつらい病気である。
ましてや、痛みをこらえて、運動なんかできるとは、想像もできない。
そんな生易しい病気ではない。綾子さんの意志の強さが窺われるエピソードである。
さいわいにして、綾子さんは失明だけはしないですんだ。

そんな大変な病気を乗り越えてから、また新しい病気が襲う。
宿痾となったパーキンソン病だ。手足が震え、やがて強張り、肢体の自由がきかなくなって死に至る。
脊椎カリエスで13年間寝たきりになって、37歳で病気がいえて三浦光世さんと結婚。
その5年後に懸賞新聞小説「氷点」でいちやく世に出た。
パーキンソン病が発病したのは、それから10年ほどたってからだ。もちろん、そのあいだも直腸ガン、帯状疱疹を次々とやっている。

三浦さんを支えたのは、もちろんキリスト教信仰だった。
しかし、もっと大きな存在は夫光世さんだ。
三浦作品の大きさ・深さは、綾子自身さんの苦しみとの戦いの産物だが、そのパワーは人間に対する厚い信頼にある。
その力の源は、他でもない夫光世さんだった。
この世には稀れな<大きな魂>がいつもそばにいたおかげで、三浦さんはああした名作を書きつづけられたに違いない。

光世さんの偉さというものは、たぶんこの世の物差しでは計れない。
こうした人間を計る尺度は、人類には持ち合わせがない。
多くの人にとっては、偉大な作家の夫であるにすぎない。
公務員を辞めて、妻の介護と創作を手伝った奇特な人というのが、世間の物差しからすれば、与うる限り最高の評価といえる。

くどくどとは書かないが、この人がそれだけのデクノボウでないことは分かる人にはわかる。
ただこの言葉を一般とは違った用法で、たとえば宮沢賢治が「雨ニモ負ケズ」でなりたいと願いつつ、ついに自分自身はなりきれなかった理想としての<デクノボウ>だとすれば、もしかしたら「デクノボウ」という一見、否定的な表現がいちばん光世さんにはふさわしいかもしれない。
宮沢賢治の愛読者の他には、真意は絶対に伝わらない言葉の用法ではあるけれども。

白雪に包まれた林の小道を黒いコート姿の光世さんが独り歩く姿を映し出して、番組は終わった。
番組を見てから、しばらく涙が止まらなかった。

三浦光世さんの姿は、どんな英雄豪傑よりも、勁い<漢>(おとこ)を感じさせた。
黙して語らない春秋戦国時代の剛毅な勇者。
そうした静かな風格が、ひとつの芸術作品として結晶化して、あたかも一編の見事な漢詩であるかのように、墨痕鮮やかに太々と白壁に大書されているような気さえした。

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2月23日

「侠骨記」(宮城谷昌光)を読み始める。
現代生きている日本の小説家で、読みたいと思う人はほとんどいない。
すばらしい作家さんたちは、ここ十年くらいでぱたぱたと亡くなった。
この三、四年ほどは、それがいよいよ著しい。
宮城谷氏の小説は、最後の隠し玉として読まずにとっておくつもりだったが、いよいよ読みたい作家がいなくなったので遂に手にとってしまった。
宮城谷氏を読み終えたら、あとは彗星のように出現する新進作家を待つしかない。

まだ短編「布衣の人」しか読んでいない。
だが、予想に違わなかった。
宮城谷さんの作品には、司馬遼太郎さんの作品を包んでいた香気がある。

この香気が今の作家にはない。
というより、戦後生まれの作家には、皆無なのだ。
わたしが、戦前生まれの作家さんたちを好む理由はそこにある。人としてのフレーヴァーがあるか、どうか。

教育が悪いのか、社会が悪いのか。
人としての香気と、気韻を感じられる人々がほとんどいない。

前妻の息子に養われながら、後妻とグルになって息子を毒殺しようとする狂気の父。そのバカ鬼父に孝養をつくす息子。
おそらく、現代日本ではもっとも文芸的主題にはなりがたいものが、「布衣の人」のテーマだ。

このことを作品にして、しかも読者に納得させるもの――それが、人としての香気ではないか。
これを作品として結晶させることに比べれば、性的幼児虐待、近親殺人、ニヒリズムを主題とする暗黒小説を書くことなど、なにほどのものでもない。
今の小説家は、太平洋戦争に突入する直前に出現したニヒリスティックな探偵小説作家やエログロ作家たちに驚くほど酷似している。
十中八、九、まちがいなく彼らは、生存中に読まれなくなり忘れられる。

宮城谷さんは、この時代で残る数少ない作家のひとりだ。
長生きして、できるだけ沢山作品を書いてもらいたい。

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2月22日

考古学の発見ラッシュが続きますね。
今度は、飛鳥で斉明天皇の儀式祭場が発見されました。

宇宙考古学という超常現象研究家が言い出した<アホ科学>で、宇宙人が造ったと云っていた<亀石>という奇妙な石がある。
<亀>をかたどった用途不明の石製構造物だが、今回の発見で道教系の儀式に使われた器具だと判明した。
斉明天皇は、道教的色彩の濃い<古道>という神道儀式を熱心に行っていたと日本書紀にあるが、それが実証された。遺跡はまるで、スタジアムみたいなものだった。
女帝・斉明天皇が水で<潔めの儀式>を行う様子を、朝廷の豪族たちが恭しく拝観したらしい。
卑弥呼の時代から続く女巫女のテオクラシー(神政政治)の最後を飾る女帝が斉明天皇ということになる。
その息子、天智・天武天皇からは唐から輸入した律令国家が建設されるから、後の女帝たちはテオクラシー(神政政治)とは無縁だ。
ただひとり、古代最後の女帝・称徳天皇が道鏡を寵愛して、仏教帝国建設を夢見るが、それも藤原氏に粉砕された。

本居宣長がいう<大和こころ>というのは、詳しくみてゆくと、古代においては汎東洋的な共通文化だったらしい。
もっとはっきり云えば、国学者の考えた<純粋大和民族>というのは、かれらの民族主義的幻想だ。
民族主義的幻想は、別の言い方をすればナショナリズムともいうが……

歴史は恐ろしい。
普段はつまらない暇人の時間潰しなのだが、政治的危機に利用されると事実とは違う虚構(ファンタジー)が幅をきかせる。
そうなると、その虚構を否定しようとする人間は<公共の敵>として抹殺してよい。いや、それどころか、抹殺すべしということになる。

そろそろ日本もこんな物騒な温度があがりつつある。
ファンタジーとしての歴史に取り込まれて理性を失うのは、生き方としては楽だ。
結果としてどんな悲惨なことがあっても、日本的な<空気主義>ではなんの問題もない。
旗振り役は負けが決まると、「みんな、いけなかったんだよね」と全国民にいきなり反省を求める。そうなると、国民のほうでも「そうだ、みんながいけない! 誰に責任があるわけでもない」と納得することになっている。

そんな生き方は、「あまりにも情けない」と思いませんか?

歴史を知りたがる人間は、ある意味では正義感が強いと云えなくもない。たとえ、政治的には徹底的に無力だとしても。

だからというわけではないけれど、なるべくたくさんの人が歴史というものに興味をもってくれればいいなと願っている。
「広く知る」ということは、「広い心を持つ」というのと同じことだ。

歴史をいろいろな切り口で楽しんでいるうちに、いつしか思想という一見、畑ちがいのジャンルに入りこむことがよくある。
歴史という過去の事実を集めて関連づける行為そのものが、ひとつの思想に他ならないからだ。
「思想」というあやふやなものも、じつは個々の事実の上で組み立てられている。
そんなことが分かるのも、歴史の楽しさだ。

ところで「論語知らずの論語読み」(阿川弘之)を読む。
こちらも、最近「論語」を読んでいて、しかもweb上でエッセイにしているから、面白いネタがないかと、いじましい心を起こした。

失敗であった!
「論語」をネタに「文壇の大巨匠」阿川センセが池のように狭い「文壇」内部の、極超・私小説風エッセイをお書きになってあらせられるだけだった。
こういうのを、老人ボケというのだろうか。

中身はわざわざ紹介する価値がない。いつものような御託は書きません。

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2月21日

昨日発見された原人は、「秩父原人」と名づけられるようですね。
今回の報道で、以前発見された原人の石器は、宮城県から出土したことがわかりました。
こういうつまらぬ知識をぽつぽつ集めるのが、なにより楽しかったりします。
久しぶりに酒も飲んだし……
(これは余談です)
しばらく新しい本ばかり読んだせいか、昔読んだ本がなつかしくて「伊勢物語」を再読しています。
前回読んだときに比べると、平安時代の政権抗争がよくわかってきたので、岩波文庫版でも歴史小説を読んでいるような気分で読める。

在原業平という人は、平城天皇の親王阿保親王の息子だ。
平城天皇は平安京を造った桓武天皇の息子で、帝位を継いだ後でノイローゼになった。
弟の嵯峨天皇に譲位したが、そのあとで、愛人薬子にそそのかされて、今ひとたび皇位に就くためにクーデターを起こした。
<薬子の乱>というクーデターは失敗に終わり、薬子一味は処刑されたが、平城上皇は一命を救われた。
それからというもの、平城上皇の一族はさっぱり目がでなくなった。
父親の阿保親王も運のないひとで、<承和の変>という藤原氏が他氏排斥のためにでっちあげた陰謀事件のお先棒をかつがされたあげくに若死にした。
臣籍降下して在原の姓をもらった業平には、出世する目などなかったのである。

それでも文徳天皇の皇子、惟喬親王の御守役についた。
親王は文徳天皇の最愛の息子だったから、側近となった業平やその親友の紀有常は親王即位と己の栄華を夢見た。
だが、母が藤原氏ではなかったので、藤原氏の画策にあって親王は帝位につけず、出家した。

そんなこともあって、業平は藤原氏の姫君をいろいろ誑しこんで、傷物にして天皇の后になれないように努力した節がある。
しかし、業平が手をつけようが駆け落ちしようが、藤原氏は業平の恋人だった己の娘や妹を次々と天皇たちに押しつける。
押しつけられた天皇たちのほうでは、自分の妻や母たちの昔の男・業平がうとましく、左遷させて中央から追い払ってしまった。

そんなわけで、業平は武蔵や陸奥くんだりまで左遷させられたり、いつまでも官位があがらない冷や飯食いになってしまった。

恋愛を仕事に持ちこむのは、昔も今も止めたほうがいいようだ。

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2月20日

「古代東国物語」(永岡治)を読了する。

ところで、この日記を書いている当日(21日)、埼玉県で前期旧石器時代の石器と住居跡が見つかったというニュースが流れた。
今から50万年前のもので、石器は今の人類のものではなく、<原人>というタイプだ。
北京原人と同じ時代の人類が、日本列島に住んでいたことが、これでまた証明された!
考古学好きとしては、エイズの特効薬発見と同じくらいのビッグ・ニュースだ!

発見されたのは、秩父にある小鹿谷(おがさか)遺跡。山頂にある斜面にある。
原人たちは、山の峰を道として、狩猟しながら移動して暮らしていた。だから、秩父の山の中のほうが暮らしやすかったのだろう。
つまり、この一ヶ月くらいしぶとく書いていたように、
「日本列島の東側は、旧石器時代から人が住んでいた先進地帯だ」
という事実がいよいよはっきりしてきたわけである。
東北人の子孫である道産子としては、ますますうれしい。
喜べ、埼玉県民!
「ださいたま」でも、「彩の国」でもどうでもいい。ここは、原人時代のシリコン・ヴァレーだ。
(わたし、いまは埼玉県民なんです、ほんとは)
本日(21日)は、これにかこつけて、久しぶりに酒でも飲もう。

さて話は「古代東国物語」に戻る。
古すぎる話でピンとこないだろうが、埼玉県と東京都あたりの人口は、7世紀から8世紀にかけて爆発的に増えた。
子供がとくにたくさん生まれたからではなく、移民のせいである。
ほとんどが、朝鮮系の移民だった。

日本の大和朝廷が大化の改新をへて、律令国家の道を踏み出した頃、朝鮮半島も統一国家を建設しようとしていた。
しかし、国内の勢力は三つのグループに別れて抗争を繰り返していた。
そのうちで北九州・瀬戸内海の通商ルートを押さえた百済連合政権は、大和朝廷と同盟関係にあった。
山陰・北陸から関東へいたる通商ルートを押さえていたのは、高句麗・新羅系の豪族である。しかも、このあたりにいるのは反大和朝廷の現地人だ。山陰・北陸・関東などは、高句麗・新羅の各連合政権と密接に交流していた。
国家統一でいい目を見なかった高句麗系・新羅系の豪族は、日本海経由で関東に入植していった。というのも、すでに彼らの同族が山陰・北陸にはいっぱいいたから、このあたりには入りこむ余地がなかったからだ。
そういう素地があるところへ、7世紀に百済と高句麗がほぼ同時期に滅びた。
負けた方の豪族たちは、一族家来を引き連れて、怒涛のように日本へやってきた。
西日本には当時の貧弱な農業技術では耕作できる場所がなかったから、先にきた集団をのぞいて、そのほとんどが関東へ送られた。
さらに、朝鮮半島を統一した新羅からも移民がきた。
こちらは、おそらく旧高句麗・百済系の地方勢力が新羅の政治に耐え兼ねて、遅れてやって来たのだろう。
かれらも、また関東へ入植させられた。

じつは武蔵の国(埼玉県・東京都)を開発したのは、この高句麗系と新羅系の豪族たちだった。
716年に、大和朝廷は東国(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野)に移住していた高句麗系移民を一箇所に集めて、武蔵国「高麗郡」をつくった。かれらの自治区である。
これは、いまの埼玉県飯能市日高町にあたる。
いっぽうで、758年には新羅系移民を集めて、武蔵国「新羅郡」をつくった。
「新羅郡」はやがて「新座郡」を名を変えた。ここは、埼玉県新座市志木市にあたる。

なぜ、こんなことをしたかというと、移民たちの技術指導センターを作って、関東の開発を促進させるのが狙いだった。

この他にも、東京都狛江市神奈川県高座郡、山梨県北巨摩・南巨摩郡、群馬県多野郡なども、こうした移民たちが開発したとされる。

古代史を知るには、神社を調べるのがベストだ。
埼玉県入間郡日高町にある高麗神社は、関東一円に分社を持っているが、これはここから出た子孫たちがその地を開発した証拠に他ならない。

今では富本銭というもっと古い貨幣が実在したことがわかっているが、それまで日本最古の貨幣とされた和銅開珎ができたのは、708年1月に武蔵国秩父で銅が発見されて、朝廷に献上されたからだ。
これを発見したのは、新羅人・金上元(きんじょうげん)なる人物だった。

さらに下って、天平21(749)年に陸奥で黄金を朝廷に献上したのが、陸奥国司・百済王(くだらおう)敬福(けいふく)であり、その部下となったのは朝鮮系関東移民の子孫だった。
百済王とは、日本へ移住した百済王族の子孫で、朝廷の貴族の一員となっていた。

こうやってみてゆくと、大和朝廷の移民政策は大成功だったことがわかる。

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2月19日

やっと「古代東国物語」(永岡治)に戻れました。
ずいぶん中断していたと、われながら呆れます。

考古学時代の日本歴史にあっては、弥生時代以降の歴史は鉄の歴史に他ならない。
中国地方に成立した豪族たちは、朝鮮系の製鉄技術をもった集団が現地人と共同して作った小さな「クニ」の王たちである。
ところが、国内産の鉄は生産量がまだ少なく、質も悪かった。
そこで、中国産の鉄の地金を手に入れて、それを元手に農具や武具を作ることが主流になった。
すると、中国と行き来して地金を直接輸入する「クニ」と、そこを媒介として地金を入手して鉄器をつくる「クニ」ができるようになる。

岐阜以東の東国においても、三,四世紀から古墳ができるようになったのは、そうした理由だ。
面白いことに、古墳にはいろいろな形があるが、五世紀頃にはもっぱら二つのタイプが作られるようになった。
「前方後円墳」と「前方後方墳」だ。
古墳の形をみれば、大和王朝に服属・同盟しているか敵対しているかがわかる。
というのは、「前方後円墳」は大和朝廷の文化だからだ。
「前方後方墳」はそれに敵対する勢力のシンボルだった。
同じ地域でも、大和朝廷が接触を求めてくる頃は「前方後円墳」で、大和朝廷が侵略の牙を剥いてくる頃になると「前方後方墳」を造ったりする。

この頃、今の群馬県・栃木県・埼玉県北部には「毛野(けぬ)王国」があった。ここは岐阜以東で最大の連合王国だった。
いっぽう今の埼玉県南部・東京都には「武蔵連合政権」とでも呼ぶべき部族連合王国があった。
初期の大和朝廷みたいに、群小部族の首長たちが勢力ある仲間を王にして、みなで回り持ちで支配した国家である。
ここは「毛野王国」と「大和朝廷」の緊張状態を利用して、そのときどきで都合よいほうについて、生き伸びていた。

ただ、大和朝廷を実質的に簒奪した継体天皇の息子、安閑天皇の頃に、「武蔵連合政権」に内紛が起きた。
古事記では「武蔵国造の争乱」と呼んでいるが、実態は連合政権内部の権力闘争である。
一方の当事者は笠原直使主(かさはらのあたえのおみ)といい、他方は小杵(きね)という。
「武蔵連合政権」には、二大派閥があった。
毛野王国文化圏に属する多摩川水系に棲む南武蔵派と、親大和朝廷的な利根川・荒川水系に棲む北武蔵派に分かれていた。
小杵は南武蔵派で、対立する北武蔵派の笠原直使主を、毛野王国の力を借りて滅ぼそうとした。笠原直使主は破れて逃亡して、大和朝廷に助けを求めた。
軍事介入の好機を逃さず、大和朝廷は兵力は派遣して毛野王国と衝突した。
結果的に、南武蔵派の小杵は敗れ、毛野王国は武蔵から撤退した。
勝った大和朝廷は、旧南武蔵派の部族の土地を直轄領にした。

あんまり有名でもないこんな史実を長々と書いたのは、実はこの「武蔵国造の争乱」が以後の東国の運命を位置づけたからだ。
大和朝廷に完全服属した「武蔵連合政権」はもちろん、「毛野王国」もやがて大和朝廷の兵力供給地となる。
その兵力は、最初は吉備王国に向けられた。ここは岡山県・広島県にまたがる広大な王国で製鉄技術でいちはやく国造りをした先進地帯だ。
ここは東国の兵力で完膚なきまでに征服される。

つぎに、東国の兵力は朝鮮半島に向けられる。そして、朝鮮半島の経営に失敗すると、その矛先は「みちのく侵略」に使われた。

伝説のヤマトタケルの軍事行動を、実際に担当していた兵力は関東の民だった。
大和朝廷内部の政権抗争にあっても、関東の兵力がキーポイントとなった。

後年、この地域から「東国武士」という最強の軍事集団が生まれるのは偶然ではない。
関東はその歴史の始まりから、日本の中央政権の軍事力をになう役割を負わされていた。

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