お気楽読書日記: 6月

作成 工藤龍大

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6月

6月30日

昨夜は、ドラマ「夜叉――Yasha」の最終回を観ました。
野球放送のせいか、「ニュースステーション」が40分ほど延長されていたので、夜中まで起きていることになりました。

このドラマは視聴率はあまり良くなかったようですが、主演の若手俳優が良かったのでつい観てしました。
遺伝子改変で誕生した双子の超人というのは、わたし的にはあんまり食指が動く素材ではありません。これでも、昔はSFマニア……なので。陳腐すぎて、どうもいけませんは。(笑)

同じ俳優さんが、対照的な性格の二人を演じ分けるのはとても難しい。というより、はっきり云って、俳優さんに魅力がなければただのオバカ番組になります。

その点、主演の伊藤英明さんは良かったですね。
一回で二度おいしい――なんて、どっかのCMみたいです。

とにかく、伊藤英明さんの身体の動きがなんともいえません。
この頃はモデル出身の美形俳優さんも多いのですが、逆におサルみたいに動きがもさもさしている役者(それともただの芸人?)さんも増えて、画面を観るのがつらかったりします。

個人的な趣味で言うと、役者は男が面白い。
若い女優はそれぞれに良いような感じがします。ということは、翻って云えば、じつは誰でも良い。だから、特にファンにはなりませんね。ぜひ観たいということにはならないのです。
逆に、男性俳優はつまらないと記憶に留めないので、気に入った人は印象が強い。
この作品で、伊藤英明という人は、しっかりと記憶に焼きついてしまいました。

こんなことばかり書いていると、おすぎとピーコ両氏のお仲間みたいで、ちょっとヤですけどね。(笑)

見逃した回もあるので、ビデオで見直そうと思っています。
それにしても、「夜叉」を撮った女性監督は、ガンに対する拘りもなかなかのものと拝察しました。
名前をメモしておかなかったのは、惜しかった。
この人は次回作がとっても楽しみです。
その件も含めて、ビデオ屋さんが頼り。ビデオはもう出ているんでしょうか?

ところで、ちょっと本も読みました。
講談社文庫に「キリストの生涯」という三浦綾子さんの作品が入っています。
イエス・キリストの生涯を、西洋名画でたどるエッセイ集です。
文庫版ですけど、画集としても楽しめます。
そんな人は、いないでしょうけど。(笑)

こういうキリスト教そのもののエッセイでは、三浦さんはさっそうとしています。
信念を真っ向から吐露している。
こういう作品を読むと、こちらも背筋がしゃきっとします。

NHKの教育テレビに「人間大学」という番組があります。
じつは今週、再放送で宮城谷昌光さんが出演しておられました。
小説修行のことや、自作の解説なんかを、インタビュー形式で話していました。

そのとき、とっても、いいことを聞きました。

宮城谷さんは、「勇気ある人が好きだ。自分は勇気ある人しか書く気にならない」そうです。
そして、人間を分けるのは、「勇気」ということだけだと。

なるほどと、思いました。
宮城谷さんの小説に出てくる耐える漢(おとこ)というのは、勇気のかたまりですね。

わたし自身も好きな作家、尊敬する作家は、勇気を感じる人だったと改めて思いました。

五十歳近くまで雌伏して作品を書きつづけた宮城谷さんや、信念の人三浦綾子さんが好きなのは、お二人が勇気を教えてくれるから。
妙なつながりではありますが、人生の本質を教えられた気がします。

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6月29日

いよいよ暑くなってきました。
昨日は、仕事が忙しかったので日記は書けませんでした。
たまには、こんなこともあります。

眼も疲れたので、読書する意欲もわきません。
ところが、このあいだ古本屋で買ってきた本がえらく面白かったので、夜のあいだに一気に読んでしまいました。
それは、三浦綾子さんの「あのポプラの上が空」という小説です。

札幌の一流病院を営む一家が、覚醒剤に蝕まれているというストーリーに、あっという間に飲み込まれて夜更けまで読んでしまいました。
人間の弱さ、戦争の悲惨――それが、一家の麻薬禍の遠因でして、こういう展開は三浦さんの独擅場ですね。

詳しくは書きませんが、若い世代に未来を託すというかたちで、小説は終わっています。
でも、現実にはどうでしょうか。
クスリに手を出すのは、家族のかたちそのものが病んでいる遺伝病みたいなものです。
若者の若さゆえのエネルギーに解決を託すのは、一般ビープルには口あたりが良い回答だけど、現実にはダメでしょうね。
やっぱり、中年期になったら、若い世代もクスリに手を出すような気がします。

それを断ち切るために必要なものは何か。
三浦さんはとっくに解答を出しているのですが、いきなりそれを書くと一般ビープルは頭に草鞋を履いて逃げ出すでしょう。
だから、注意深く、そっと書いている。
こんな手心を加えなければ、話ができないなんて……

三浦さんは勇気ある人なので、ほんものの勇気を持つ人を書きます。
それをオブラートにくるまなければ、飲み込めない。
気骨のない「良い人」って、いったい何なんだろう。

三浦さんの本を読んでいると、三浦さんの歯がゆさを感じるような気持ちになって、ときどき堪らず奇声を洩らしたりします。
人からみれば、こっちのほうが何なんだろう――ということでしょうか。(笑)

話は変わりますが、読売新聞の夕刊に、インターネット・コラムニスト田口ランディさんの写真が載っていました。
もっと若い人かと思ったら、年齢は四十一歳。自称、ボケ老人のわたしとおんなじ歳でした。
嘘だろう……という気分です。

そういえば、40代になりたてというのは、中途半端な年齢で、意外な人が自分とさして違わない年齢であることにびっくりします。
このところ離婚騒ぎでマスコミの注目を集める坂東八十助氏は、四十四歳でした。
頭に白髪があって、老人性の染み(らしきもの)がある八十助氏と、そんなに年齢が違わないとはショックです。
高校時代からの友人でよく会う連中は、あまり年取った感じはしないけれど、そういえば同窓会なんぞで十数年ぶりに会った人たちは、完全にオヤジ化していて顔と名前が一致しなかったっけ。

そんなものですかね。

しかし、八十助氏と離婚した近藤サトさんが三十一歳。
交通事故で久しぶりにブラウン管で見た元Winkの鈴木早智子さんも三十一歳。しかし、鈴木さんはずいぶん老けた……
近藤さんと同じ年齢とは思えません。

大昔、おにゃん子にいた人たちもずいぶん……
童顔で、とっちゃん坊やのわたしからみると、なんだか索莫とした気分です。

美しく歳を重ねるというのは、現代ではとっても難しいようです。
このあいだ、メッシュの金髪にガングロ顔で、十朱幸代さんがTV番組に出ていました。
はっきり云って、その辺にいる太めの中年おばはんと全然同じでした。
実年齢よりは若作りしたために、かえってそんな結果になったようです。
絶世の美女、十朱幸代さんにして、この体たらく……とは。

五十代や六十代で美しくあるためには、健康と知性が絶対条件でしょう。
知的な草笛光子さんや、外国留学までした知的美女・野際陽子さんが皺こそ増えたものの、いまだに魅力的なのは、そんなところに理由があるのだと勝手に結論してしまいます。

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6月28日

本日は、多忙につき、日記を書いている時間がとれません。
仕方がないので、お休みとさせていただきます。

ところで忙しい時ほど、読書はできるというのは、本当ですね。
合間あいまに眺めるせいで、「孔子伝」(孔健)の読書の進むこと。
あれだけ、読めなかったのが、嘘のようです。

そのことについても、また明日書くことにします。
本日はひとまずさようなら。(^^)

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6月27日

どうやらスランプから少しずつ脱出しているようです。
本日は法然の「消息文」を読みました。
あの法然が弟子たちに出した手紙です。

内容は近況を知らせるものというよりは、専修念仏の教義をわかり易く噛み砕いて説いたものです。
弟子に出した手紙は、法然の思想を知る重要な手がかりとなっています。

それにしても、手紙を貰った人には女性が多いですね。
読んだのは岩波書店の「日本思想体系」叢書の一冊「法然・一遍」ですが、「消息文」を貰った相手で名前がわかっているのは約12人。そのうち、6人は女性です。

その中には、頼朝の妻・北条政子、有名な歌人で後白河法皇の娘・式子内親王がいます。また元関白九条兼実の妻もいます。この人が生んだ娘は、後鳥羽天皇の皇后となっています。
こういう身分の高い女性だけではなく、上野国御家人・大胡太郎実秀の妻、法性寺左京大夫の伯母という武士や中流貴族の縁者もいます。
法然の教えを慕った階層の広さがわかりますね。

地方の信者への手紙は、その人だけのためのものではなく、そのまわりにいる信者たちに読み聞かせて教えを説くためのものでもあります。
信者の妻たちに送った手紙は、地方にいる女性たちに念仏の教えを伝える大切な手段でした。

よく知られていることですが、中世以前の仏教では、女性を「悟り」には縁遠い存在として見捨てている部分があります。
女人禁制とか、変成男子(女性が功徳を積んで男に生まれ変わって成仏する)という思想が盛んだったのです。
女がホトケに救われたかったら、まづは功徳を積んで男に生まれ変われ。
話はそれからだ――
古代の坊さんたちの言い分は、こういうことです。
法然の手紙を読むと、そうした固定観念はまったくありません。

ひとつには、法然が九歳くらいの頃に母が若くして亡くなったためです。
母親の菩提を弔うことは、法然にとって生涯の大事となりました。

女人救済ということを打ち出したがゆえに、法然とその弟子たちの教えはニッポン人の暗黙の掟、山本七平氏のいう<日本教>になりえたのです。
宗教は女性を取り込まないとダメですな。

キリスト教が誕生した頃、ローマ帝国にはミトラス教という非常によく似た宗教がありました。
ミトラス教の教義は、原始キリスト教ととても似ていたので、後にその大部分がそっくりキリスト教に吸収されてしまいました。
わかり易い例でいえば、救世主キリストのイメージや、クリスマスの風習などは、もともとはミトラス教のものでした。

ただミトラス教は、男だけの宗教で、ローマ帝国軍内部でのみ広まりました。
帝国軍が崩壊するにつれて、ミトラス教は地盤を失ったのです。

反対に、キリスト教は都市の女性と奴隷層に浸透しました。
気がついたら、キリスト教徒の女性が生んだ子供たちはキリスト教徒になっていた。男の子たちは、成長すると軍隊の兵士になる。そうすると、かれらはミトラス教の教義や儀式を、キリスト教にとりこんでしまう。こういう事態が進行したわけです。
コンスタンティヌス大帝がキリスト教に改宗した頃には、そうしたプロセスが完成していました。

話が西洋に跳んで、申し訳ないけれど、所詮、宗教や魂の問題は男だけじゃダメということです。

法然がある武士のために書いた手紙が残っています。
その武士とは、いまの埼玉県熊谷市にいた熊谷直実です。
この手紙を貰った頃には、直実はすでに70歳近くで出家していました。
その老母が89歳で存命だったので、孝養を尽くすようにと、法然は諭しています。

異説もありますが、熊谷直実は法然から見ると7歳ほど年下なので、熊谷の老母に自分の母を重ねあわせたのかもしれません。

熊谷直実という人には、面白いエピソードがたくさんあります。
ありすぎて困る……それぐらい当時の人気者でした。

岡山県に誕生寺というお寺があります。
ここは法然が生まれた場所にお寺を建てたもので、法然が彫った自分の彫像があります。
法然が作った彫像を、熊谷直実がはるばる京都から背負ってきて、ここに安置したという伝説があります。
強力で有名な武士・熊谷直実らしい逸話なのですが、年代的にはどうも会わないんじゃないかとも云われています。

誕生寺という寺は、非業に死んだ父と母の霊を慰めるために、法然が建てたことになっています。
父は敵の夜襲を受け死ぬ。母も悲嘆のあまり後を追うように死んだのです。
この伝説を伝える誕生寺の「縁起」では、熊谷直実が法然自作の仏像を運んだのは建久四年(1193)で、法然は61歳でした。
父や母が亡くなった年齢をとうに越えた法然が、母や父に寄せる思慕の念がせつないですね。

エピソードの真偽はひとまず置くとして、いかにも法然らしい、また熊谷直実らしい伝説です。
こんな伝説上のことなどは、歴史の研究書をみていると、どうでもいい瑣末なことに思えるのですが、法然の手紙を読んだり、熊谷直実の生涯を調べていくと、あまりにもこの人々の人柄にぴったりなので、印象が鮮明にすぎて、ついついこだわってしまいます。

こういうのは、歴史的事実ではないのでしょうが、「魂の真実」というべきものだと思います。

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6月26日

「王家の風日」(宮城谷昌光)は、なかなかはかどりません。
古代中国の殷王朝が舞台なせいか、いまいち感情移入が難しいところがあります。

中国史について、あれこれと読んできたせいで、殷についてはよほど悪いイメージがあります。中国文学者たちがまとめた小説版「十八史略」とか通俗な本を読みすぎたせいです。近くは安能務氏の「封神演義」とか。(笑)
おかげで、大悪人紂王のイメージが強すぎて、どうもノリが良くありません。

歴史小説が嫌いな人は、わたしが今感じているようなノリの悪さをこのジャンルに感じているんだなと改めて思いましたね。

じっくり読んで認識が変わるのを待つしかない……でしょう。
巨匠・宮城谷さんにして、こういう作品があるというのも発見ですね。

この物語については、読了しない限りは何も言えません。

ところで、「孔子伝」(孔健)のほうは、「論語」や「史記」あたりを上手にまとめただけという印象があります。
はっきり云って、新しい見方はない……のです。

子孫として孔子を顕彰するようでもあり、時には封建制度(大陸中国でいう前近代社会)の擁護者としてけなしているような、どっちつかずの妙な書き方です。

こちらの本もよくわかりません。
全部読まないと、どうも判断がつきません。

ただなんとなく分かるのは、この著者はジャーナリストらしいのですが、歴史家ではないということ。
つまり、当時の社会状況や人々の心性(メンタリティ)を掘り下げないで、孔子の伝記を書いているのですから、全部読んでもやっぱり駄目だろうという予感がします。

孔健氏は孔子思想を日本に広めるということでガンバっているそうです。しかし、孔子のどんな思想を広めるつもりでしょうか?

「長幼の序」だの「老人を敬え」だのは……止めて欲しいです。
いまどきの老人は尊敬を他人に求めるよりも、「道徳」「マナー」を再教育してもらったほうが良い人が多いような気がします。
ガングロ娘を馬鹿にしているけれど、自分はもっとお下劣な「お年寄り」もいますから。

おっとっと、つまらないことを書きました。
昨日、電車とバスで老人たちの無法な振る舞いに、少しかっかとしたせいです。落ち着こう、落ち着かねば……

少し退屈になったので、他の本でも探してみようと思います。

本選びもはずれることがある――読書は釣りに似ているようです。
力んでもダメなときは駄目。どんなに励んでも、ツキがなければボウズに終わる。
鉄人読書家(笑)も、運に見放されているようです。

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6月25日

昨日(25日)、もろもろ選挙の投票にいった帰りに、近所のTsutayaにて噂の大怪獣「プルガサリ」を借りてきました。

2時間少しの上映時間の長かったこと、あやうく失神するところでした。

これは怪獣映画ではありませんね、少なくとも。
何に近いかといえば、ご想像のとおり、赤い方々の宣伝です。革命礼賛映画にたまたま怪獣が出てくるだけです。

怪獣といっても、すこしも凄みがないところが……
悪代官に拷問死させられた鍛冶屋さんが米粒をこねて作った人形に、生命が吹き込まれる。20世紀はじめのドイツ映画「ゴーレム」みたいです。
その掌におさまるほどの人形が鉄を食ってだんだん大きくなって、悪い王朝を打倒するという……

その人形が怪獣プルガサリだそうで、ビデオの宣伝を見ていると販売元ではこの小さい頃の人形を「チビガサリ」としてグッズ販売するつもりだったようです。
いやはや、もう何も申しますまい。

怪獣が鉄を食ったり、巫女の御祓いでダウンしたりするあたり、北朝鮮の産物が鉄鉱石であることや、朝鮮の民間信仰(これは女性中心の祭祀なのです)を封建制度の遺物として弾圧したことが思い出されて、作り手の崇高な製作意図に思わず感動して拍手してしま……うわけはありません。

個人的には、こういうゴミ感覚あふれた作品はけっこう気に入っております。
ユーモア感覚溢れた人にはおすすめですね。
こころがほのぼのします。

ついでに書いておくと、美女が話すといよいよ魅力的になる言葉というのはありますね。
いっちゃ悪いですけど、言葉の響きが美女に向かないんじゃないかという言語はあります。
ハングル語(政治的な理由でこう呼ばないとさしさわりがあるようなので、こう書きます)は、美女向きの言葉だと思いました。
云っていることは全然分かりませんが、響きだけは良いですね。
それは新しい発見でした。(笑)

ところで、ビデオを観たあとで、テレビに変えたら、政治学者日高なにがしさんが北朝鮮の軍事情報をリポートする番組をやっていました。
テレビに切り替えたとたんに、朝鮮半島の軍事情勢です。
脚を高くあげて行進する軍事パレードの映像です。

こういうのをシンクロニシティ(共時性)とでも云うんでしょうか。
宇宙(そら)に彼方にいる誰かさんが、わたしに何かのメッセージを伝えようとしている……カート・ヴォネガットなら、そんなストーリーを書きそうなシチュエーションでした。
ひたすらびっくりです。(^^)

ところで、一夜明けて分かったところでは、選挙は戦後二度目に低い投票率だったとか。
無党派層がだいぶ民主や社民に投票したらしいようですが、それでも投票所に行かない人がずいぶんいたんですね。
汚職議員たちも復権したし……

とにかく、森首相のお言葉に従順な方々もまだ日本にはいたんですね。
おそらく森首相は日本も捨てたものではないと思っているんじゃないでしょうか。(笑)

さて肝腎の読書のほうですが、あいかわらず平行して読んでいます。
ひとつは孔子の子孫である孔健という人の「孔子伝」。
もう一冊は宮城谷昌光氏の「王家の風日」です。
どちらもなかなか読ませます。
そちらについては、後日書くことにします。

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6月24日

本日は無事、選挙へ行ってきました。
住んでいる場所が埼玉県なので、衆院選だけでなく、知事選や市長選挙までありました。

もともと地元じゃないので、知事や市長といわれても全然わからないので、困ります。

浦和とか大宮が合併して「さいたま市」になったって、”So what?”というのが本音。
やっぱり気分は埼玉都民なんですね。
なにせ歩いて五分で東京都ですから。

それと……いつものことですが、最高裁の裁判官を罷免するかどうかの審査。
あれを見るたびに、自分の不勉強がわかります。
日ごろ、この裁判官がどんな判決で、どんなことをしたのか調べておけばいいのでしょうが、職業的に全然関係ない職種なので、さっぱりわかりません。
そんなことを知っているのは、特定の政党関係者か市民団体関係者、法曹関係者だけじゃないでしょうか。
そういったギョーカイ人間だけにしかわからないってのも、すごい話だと思いませんか?

こういうのを「形式的」「形ばかり」っていうんでしょうな。
アメリカみたいに、判事が選挙で選ばれるということになれば、もう少し真剣にアピールせざるをえないでしょうに……なんて思います。

とりあえず全部バツにしておきました。
こういうのはいかんのでしょうが、「一寸の虫にも五分の魂」「蟷螂の斧」と昆虫尽くしの諺でお茶を濁しておきます。m(_ _)m

ところで、話を埼玉に戻しますが、このところ埼玉県の区分地図を眺めて、あれこれ夢想にふけっています。
埼玉県は「彩の国」と最近になってアピールせざるをえないほど、あんまり史跡がないところです。
関東でいえば、神奈川県、東京都が史跡の数と質ではだんとつ。それに、茨城、栃木、群馬が続きます。
埼玉と千葉はやっぱり最下位競争になります。どっちが上かと比べ始めたら、郷土史家の誇りをかけた泥仕合になるから、考えないほうが無難でしょう。
ただこの二県は、江戸時代以降をひとまずおくと、むしろ先史時代に栄えたのです。だから、考古学的遺跡をみると、じつは関東ではトップです。

このことは、埼玉県と千葉県の名誉のために、ぜひ言っておかずばなりますまい。
なにせ、日本最古の原人遺跡まで出たところですから。

といっても、区分地図を眺めて先史時代の遺跡を探しているわけではありません。
埼玉県は東国武士の発祥の地といっていい場所です。
鎌倉幕府を手中におさめた北条氏は、埼玉県全域と、東京都の多摩地区を支配力の根源としていました。鎌倉のある神奈川県と同じくらい大切な拠点だったのです。

鎌倉幕府滅亡のときに、南下する新田義貞軍の合戦が埼玉県内に点在するのは、そうした理由です。
新田義貞は栃木県新田町のあたりから出発して、小手指あたりに出て、東京都府中市で幕府の最終防衛線を突破したのち、神奈川県藤沢周辺で足利軍と合流。そして、鎌倉へ侵入しました。

区分地図を眺めながら、そうしたコースをたどっています。
活字で歴史を読むのも楽しいのですが、地図を読むのも楽しいものです。

いまでは田舎の畑くらいしかない場所の地名が、歴史に名前が残る人々の領地だったりすることはよくあることです。
これはと当たりをつけた場所で、平安末期から鎌倉時代の豪族の名前を見つける!
最近、わたしがはまっている趣味です。

例えば埼玉県に騎西町(きさい ちょう)という町があります。
ここは武蔵国の武士団「私市党」の本拠だったのです。
「私市」は「きさいち」と読むます。「きさいち」から「きさい」となったわけです。

また埼玉県熊谷市は平家物語で有名な熊谷直実の所領。
区分地図を眺めていると、熊谷市のわきに「久下」(くげ)という町名があります。
ここは熊谷直実の叔父で、所領争いを繰り広げた久下直光の所領です。
この人物と源頼朝の前で所領争いの裁判をやったときに、口べたな直実が逆上してその場で髪を切り、出家してしまったという有名な逸話があります。

そんなふうにして、地図を眺めていると、鎌倉時代を彷彿とさせる名前にずいぶん出会います。

南武線の駅に「谷保」というところがあります。
ここには、「城山公園」があり、この城山には「谷保城」または「三田城」という城がありました。ところが、意外なことにここには鎌倉時代には法然上人の有名な弟子で、熊谷直実の親友だった津戸三郎という人物が「館」(たち)をかまえていました。
現代に残る法然の書簡を何通も貰った念仏信者の武士です。

こんなところに住んでいたのかと、驚きました。
小さな発見ですが、こういうのが歴史を調べる楽しさです。

近いうちに、地図でみつけた近くの史蹟を歩いてみるつもりです。
鎌倉からは、鎌倉街道という古街道が出ていて、埼玉県に伸びています。
こっちのほうも、歩いてみたいと思うこの頃です。

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6月23日

明治文学史に残る傑作「滝口入道」(高山樗牛)を読了しました。
時代を感じますね。
少なくとも、平家物語のオリジナルと比べると、なんだか肩すかしを食ったような気分です。

こういう歴史小説は、吉川英治さんの時代で終わりですね。
といって、吉川さんとは比べることもできない。

ひたすら華麗な文章だけで読ませる。才気がある……というのでしょうか。

久しぶりに「賢治の時代」(増子義久)を取り出してみました。
著者は、賢治と同郷で朝日新聞記者です。詩人に対して抱いた複雑な思いを活字にしたような本です。
だから、どうしても読んでいて、奥歯にもののはさまったような、いらだちが気になります。

その正体について、時々思い出しては考えあぐねて、本をひっぱり出すことになります。けっきょくは、また要領をえない気分で本棚へしまいこむのです。

宮沢賢治という人が、わたしはその欠点らしきものを含めて好きなのですが、この著者は賢治とその周辺にあるものについて、ひどく否定的な感じがしました。
もちろん生誕百年の賢治ブームについては、特に辛らつです。
著者は同郷人として、神格化された賢治像や、家族問題・社会問題・環境問題の切り札として安易に賢治を利用する人々が嫌いなのです。
だからこそ、賢治についても、厳しい見方をする。

賢治好きには二つのタイプがあり、あらゆる問題の万能薬みたいに賢治を使うひとと、ブームを冷ややかにみて賢治の限界を厳しく追及するひとがいます。
後者は賢治が大嫌いかというと、事実はまったくの逆で、大好きであるがゆえに独占したい。だから他人が賢治を語るのを許せず、おのれの賢治像をもちだしてくる嫉妬深いマニアです。
前者はどっちかというと、ぱっぱらぱーの人が多いので、嫉妬深い熱愛タイプよりもおめでたくてつまらないことをのほほんと考えていますね。

この著者は間違いなく、後者のほうで、熱く賢治をけなして、おのれの賢治像をいやがうえにも押し出そうとしている。
賢治の苦悩は、おれにしかわからん!
というのが、この派の特徴です。

わたしも、ときどきこっちの病気にかかるので、用心しています。
賢治が苦悩していた。
そんなこたぁ、ちょっと脳ミソがありゃあ、小学生でもわかるんです。
人にはわからんと思うのは、思い上がりで、賢治はそういう風に人の深層意識に刺さりこんでくるタイプの作家です。
賢治を考えることは、自分をつきつめることなんですね。
だから、ぱっぱらぱーの内容だなと人が思っても、賢治論はいいんです。
だれしも、そのひとの生きる心的現実はあるのですから。

宮沢賢治というひとは、心のリトマス試験紙みたいな存在なのだと改めて思いました。

著者・増子さんのコアにあるものは何か?
「賢治の時代」を読むことは、かえってそれを突き止める作業へと変わってしまいました。
どうやら、それは古代東北の歴史にあるようです。

増子さんの反感の基盤は、同郷人である岩手県人と北海道支社時代に交流のあったアイヌの長老(エカシ)です。

「賢治は文学と宗教という二重の衣のなかに東北古代史(触れたくない領域)の暗部を隠し去ることにおいて大きな功績を残したではないか」
(増子義久)


自然保護派いわゆるエコロジー派や癒し派が、「自然との共生」のお手本として、アイヌと宮沢賢治を素朴に結びつける安易さが増子さんにはぴりぴりとつらいようです。
東北人は稲作以前にエミシとして生きていたことを恥じている。
そして、大和朝廷に帰順して、仲間のエミシを裏切り、ときには殺したことをもっと恥じている。
だから、稲作以前の、そして大和朝廷征服以前の、東北古代史は自分たちでも触れたくない。他郷の人々にも触れられたくない痛みとしてある。
そこを覆い隠すのが、「農聖」宮沢賢治の神話ではないか。

そこを増子さんは追求したい。
やっぱり、東北人の哀しみですね。
いちばん大切な心情は、二重三重に屈折しなければ、吐露できない。
こういう人は、気難しそうですが、わたしはいちばん信用できると思います。

ところで、増子さんの本には、岩手県久慈市に住む『琥珀掘り』、上山菊太郎さんという方が紹介されていました。
この人は執筆当時(97年)で72歳。琥珀掘りにとりつかれた人です。
上川菊太郎さんがある本で語ったことを、増子さんは引用しています。

「……
琥珀は軽やかで重圧がない
温もりがあって冷酷さがない
沈静があって不真面目な華麗さがない
土俗の訥弁があって詭弁がない
そして意味のない遊びがない
そして絶望がない
要すれば
安息と平和があって
琥珀には戦争がないのである
……」

地底で琥珀を掘っていると、琥珀はいろんなことを語りかけてくる。これは、それを素直に言葉にしたものだと上川さんは言います。
増子さんは、この琥珀が宮沢賢治の文学世界ではないかと考えました。

琥珀のなかには、恐竜時代の昆虫が閉じ込められ入ることもあります。
もともと樹液が固まったものなので、それを餌にしていた昆虫が樹液に溺れたからです。そして、樹液の塊が鉱物になった。

琥珀は時間を閉じ込めて、過去と現在を直接に結ぶことができる。琥珀のなかには、当時の大気がそのまま閉じ込められていることもあります。

「琥珀はもう宇宙そのものなんですよ」
(上川菊太郎)


増子さんは、この言葉から賢治の本質を喝破しました。

賢治の世界は「人間語を超越した無音の世界の言語の集積体」だと。

もっと平べったくいえば、「琥珀のような鉱物、そして動物や植物といった人間以外の”生きものたち”のつぶやきに、そっと耳を傾け、その言霊(ことだま)を通して『人間とは何か』を自問した」と。

あーあ、増子さん。それじゃあ、他の賢治本の著者たちと言っていることがおんなじですってば。

やっぱり、東北は哀しいですじゃ!
……と、「わたしの青空」の伊東四郎の口真似をしてしまいました。
照れ屋なんです、東北のオドゴだば。
上は贋の津軽弁ですので……東北の方、怒らないでけろ(^^)


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6月22日

やっと「滝口入道」を読み終わりました。
ところで、本日は所用ができたので、日記を書く余裕がありません。
明日、きちんと書くことにいたします。

それにしても……
週刊モーニングで連載していた「デビルマン・レディー」(永井豪)にはがっかりです。
あの名作デビルマンの感動的ラストが泣く!
そのことについても、また明日書くことにします。

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6月21日

静かに「滝口入道」(高山樗牛)を読んでいます。
本日は涼しいので、気分が良いです。
読書もはかどります。
ただ眼を酷使している気がするので、ゆっくり読むことにします。

それにしても、文体ですね。この作品は。
「美文調」という言葉では言い切れませんね。この美意識はなんなのか?
――などと、いきなり腕組をしてしまいます。

解説文には、「平家物語」の影響だと書いてありますが、わたしが読んだ限りでは、「平家物語」はもっと漢文っぽい美意識に裏打ちされています。
書き方も、もっと写実的(リアル)で、流れるように綿々嫋々とセンチメンタルな、湿度が高くて、組成が希薄な文体ではありません。

時代を表現するのに、「男時・女時」(おとこどき・おんなどき)という言葉があります。
勇ましい「男時」の時代だった明治だからこそ、反動としてこうした作品も出てきたようです。
そのせいか、発表当時は坪内逍遥はじめマン・ショービニズム的明治男からはそうとう攻撃されたとか。

この小説は、明治26年に読売新聞が主催した歴史小説・歴史脚本の懸賞に応募した作品で、二等賞をとりました。
一等賞はなかったそうです。

小説は翌年四月から三ヶ月間、読売新聞に掲載されました。
単行本化されたのは、明治29年です。

入賞したとき、高山樗牛は東京帝国大学一年生だったそうです。

昨日はうろ覚えで書きましたが、そうなると樗牛がこの作品を書いたのは18歳か19歳だということになります。
ますます驚きです!
昨日の執筆時の年齢は訂正させていただきます。

ところが、学生の身分であることをおもんぱかって、樗牛は新聞掲載時も、単行本化されても匿名で通して、作者名は「大学生某」としておいたとか。

作者名を公表したのは、樗牛が死んで全集が作られたときだそうです。
こういうところを見ると、少年といっていい年代に書いたこの小説を、本人はあんまり買っていなかったようです。

作品そのものはまだ読み終わっていないので、なんともいえないのですが、歴史的事実という点から考えてはいけない作品とは云えます。
史実に基づいたというよりは、青春のセンチメンタリズムが溢れた抒情詩のようなものとして読んであげないと可哀相という作品です。
早熟の天才にそんなことを言うのは不遜に聞こえますが、それだけのことです。

高山樗牛という人は、東京帝国大学哲学科を卒業したのち、旧制第二高等学校の教授になりました。その後、教員を退職して、出版社・博文館の社員となって評論活動をします。

この時代は、新聞社や出版社が作家・評論家を給料を払って雇うシステムだったのです。
漱石が朝日新聞社員だったことや、正岡子規が「日本」新聞の社員だったことは有名なので、ご存知の人も多いでしょう。

その頃には、樗牛は独哲学者ニーチェに心酔して、「本能を満足させることに、人間の幸福はある」という浪漫主義の旗頭のひとりになっていました。
与謝野晶子の「明星派」にも影響を与えたということです。

明治浪漫主義は明治三十年代に華やかで、そしてあまりにも短命な全盛期を迎えました。
この派の旗振りのひとり北村透谷ははやばやと明治29年に自殺してしまいます。
さらに明治39年には、旗振りのひとり島崎藤村が「破戒」を書いて、自然主義文学に転向するというありさまです。
明治35年に亡くなったおかげで、樗牛は生前の忘却という他の浪漫派作家たちの悲劇を味わわずにすんだのは、早熟の才能と同じく天の恵みといえるかもしれません。

「滝口入道」が本になったのは、明治29年。
教員をやめて、評論家になったのが明治30年。
その後亡くなるまで、樗牛の余命は、わずか五年にすぎません。

つくづく不思議な星のもとに生まれた人だと思います。

こういう人を天才、幸運児と呼ぶ向きもいますが、どうでしょうか。
樗牛のものの考え方は、18歳の頃に書いた「滝口入道」からそんなに変わっていないようです。
少年の頃から、人間のものの考え方は本質的には変わらないとはよく言います。
たしかに、それは事実でしょう。
でも、現実にぶつかってしかわからない人生の法則というものもある。
男であれ女であれ、三十歳過ぎにぶつかる残酷な「人生の現実」に立ち向かうのは、十八歳の思考でははっきりいって無理。
ニーチェによれば、成熟した人間には幼児と同じ大胆不敵なハートがあるそうですが、そこまでの心境にいかないと、なかなか大変です。

やっぱり人間、遅咲きも悪いものじゃない――と思います。

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6月20日

このところ30度を超える日が続いて、汗が出てかないません。
そのせいか、おちおち本を読むのもつらい。
もちろん、ただの言い訳ですが。

暑さに加えて、古文を読んでいるのでさっぱり読書スピードがあがりません。
思考能力が減退しているせい……はっきり云えば、そんなところです。

昨日、駅の近くにある古書店へ立ち寄って、えらく古い本をゲットしました。(^^)

・「海潮音」(新潮文庫)
・「海潮音・牧羊神」(角川文庫)
・「滝口入道」(高山樗牛著・岩波文庫)

新潮文庫はおくとして、あとは新刊書店ではちょっとお目にかかれませんね。
絶版文庫コレクターなら、きっと大喜びするでしょう。

上田敏訳の「海潮音」は、高校生くらいから何度となく読み返した本です。
べつに愛読書というわけではないけれど、日本語がとても綺麗なのと、本が薄いので、ついつい読んでしまったのです。
文語調がしんどくなって、ずいぶんご無沙汰していました。
ひさしぶりに読むと、やっぱり凄いですね。この文語調は。
フランス語の原詩を読んだヴェルレーヌを眺めると、呆然としますね。
辞書を引きながら読んだのでは、こんな名調子は思い浮かばない。
それとも、わたしがえらく散文的なだけかもしれません。

「滝口入道」なんて、文語調の小説を買ったのは、もちろん近頃のマイブーム、平安・鎌倉歴史ツアーのせいです。
本の厚みがものすごく薄いのも魅力でした。

それにしても、これを書いたとき、高山樗牛は22歳(*)だったとか。
* 後日、間違いだと判明しました。
ただしくは数えで19歳です。
よっぽど早熟な天才だったのですね。
31歳で亡くなっています。才子薄命の典型ですな。
こんなことを言い出すと、堂々巡りになりますが、早死にしそうだから、若いときに傑作を書くということもあります。
現代まで名前が伝わっている人には、そんなところがありますね。
早死を予感して、必死に作品を発表するというような。

とにかく、人間は少しばかりボンクラなほうが長生きできそうです。
歴史からみると、人間は長生きした方の勝ちですね。
別に信長・秀吉・家康のことは言いますまい。
生き残ったやつが証言して、それが記録として残るわけです。
歴史学者は証言を積み重ねるだけ。
言いたい放題、言っておくと、先に死んだ人が悪者にされてしまう。
ぞくに、死人に口なしといいます。
歴史なんて、つねにそんなもんだと思っているようがよろしいようです。

つい先だって読んでいて、まだ余韻覚めやらぬ隆慶一郎さんの作品の凄いところは、そんな生き残りの特権を寸毫も認めないこと。
だから、正史ではつまらない扱いしか受けない家康の息子・松平忠輝も、前田慶次郎も、少年と中年の夢と希望の星となってよみがえる。
最近忘れっぽいので、名前を忘れたのですが、想像力の復権を旗印に新しい歴史学を提唱したイタリアの歴史学者がいました。
隆さんの本を読むと、その人のことを思い出します。
アカデミズムの硬直性をとっぱらったえらく刺激的な内容の本だったのです。
手元にないので、題名もでてこないところが残念です。

同じ古本屋で、全編漢字とカタカナばかりの歴史書も購入しました。
受験生なら名前だけは知っている「愚管抄」です。

図書館から借りたこともあるのですが、カタカナばかりなので、読みにくくて、読了する間もなくタイム・アウトで返却してしまいました。
暑いこともあって、はたして読みきれるかどうか心配ですが、気張ってトライしてみることにします。

とりあえず、鉄人読書家復活の日は近い……

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6月19日

昨日(19日)はかの竹下元首相が亡くなりました!
いっちゃなんですが、権力を握った政治家は引退するとぽっくり旅立たれるような気がします。

それを人にいったら、そろそろ気力もなくなってきたから、引退するんじゃないのと逆襲されました。
なるほど、少しでも元気があれば、議員の椅子にしがみつきますね。
それができないくらいヨレヨレになったから、引退する。
そう考えたほうが自然だな。一本取られました!(^^)

元首相はずいぶんダークな雰囲気に包まれた方でした。
松本清張氏の作品に描かれたような、闇の世界と濃厚なお付合いがあったようにお見受けします。
それにしても、宮沢蔵相の言葉がいい。
「あの方ほど多くの人材を育てた方はいない」

そういわれてみると、首相経験者たちや自民党の最大派閥・小渕派だけでなく、保守系の野党・与党政党や、社会党まで、この人のお世話にならなかった有力政治家が何人いることやら……

お師匠の闇将軍よりも、人脈つくりはお上手だったようです。
その割りには、政策やビジョンはなんにもない……ニッポン村社会の長老ですね。

ご自分が辞任された後の歴代政権について、陰から操っていた手腕というのは並々ならないものがあります。
社会党の村山首相や、ついこのあいだの森首相誕生まで、元首相の意向が働いていたなんて、冗談でしょうと云いたいところですが、どうやら本当の話です。

日本の政治なんて、竹下氏の掌のなかで踊っていただけなんですね。
わたしは、ひたすら呆れはてております。

密室政治は形を変えたまま、この国を牛耳っている。こんなんで、国際社会に伍してゆけるのかなと余計なお世話ですが、気になって仕方がありません。

書生っぽのためにする議論みたいだけですけど、わかりやすい開かれた政治の強さは、「信頼感」です。信頼感というと抽象すぎますが、共通の利益のために協力しあえるということで、独裁政治でもこれがないとやがてぼしゃるのは南米、東南アジア、アフリカで証明済み。
アフリカなどでは、権力者が相互不信にまみれているので、内戦がとまらず、やたらと戦争ばかりやっています。
これでは、インフラ整備などできるわけがない。

密室の談合では、既得権益を守ることが優先されるので、すばやい改革ができない。
日本社会がじょじょにIT革命に遅れをとりつつあったのも、産業界と政界、官界を巻き込むネットワークがまだ死んでいなかったからではないかと、素人考えでは思えてきます。

マスコミの論調をみても、どこかほっとしたような気配があるのは、隠然とした力が消滅したことに、雨が上がったような爽快感を感じているからでしょうね。

個人的には、「ふるさとそうせい」みたいな愚しい政策をおこなった政治家に哀悼の意をのべる気はさらさらありません。

この方は、幕末の長州藩主みたいに他人の注進を聞いては「そうせい」と仰せになられた方のようですね。
すべての能力を権力の維持・拡大に費やして、いちばん大切な政策は配下にまかせっきりで「そうせい」と鷹揚にうなづく。
だいたい田中派にいらした時には、勉強会と称して「創政会」をおつくりになった。

もし元首相に明治以前の天皇や摂関家のように<諱(いみな)>をつけるとしたら、「そうせい公」というのはいかがでしょうか。
<諱>というのは、天皇に後醍醐とか後鳥羽という名前をつけるあれです。
摂関家でも関白になると「なんとか公」という名前をつけてもらえます。
このごろ平安時代や鎌倉時代の文献を読んでいるので、ついこんなつまらないことを考えてしまうのです。(苦笑)

(諱には、天皇などの生前の実名という意味もありますが、この場合は死後の称号のことです。
この場合は、「のちのいみな」「おくりな」ともいいます。)

ちょっと心配なのは、田中派から独立したときの派閥の名前が「けいせい会」というところで異論が出るかもしれません。
「けいせい」といえば、国家を傾けるという意味の「傾城」もあるし、形勢をみるという場合の「形勢」というのもあるので、こちらも捨てがたい。
国をわやにして、権力を維持するために政策は風向き次第……というのは言い過ぎかも。

「そうせい公」と「けいせい公」では、どっちがよいでしょう。
個人的にはわかりやすいので、「そうせい公」が一押しです。
いまどきの20、30代に『傾城』という漢字を読めというのは、無理なような……(笑)

ところで、皇太后が亡くなったとき、TVでは「御崩御」となっていますが、読売新聞では「ご逝去」となっていました。
同系列のニッテレ(!)でもアナウンサーは「御崩御」と口にしていたはずです。
どこかに違いがあるのかと調べてみたら、「崩御」は広辞苑によれば<天皇・皇后・皇太后・太皇太后の死去をいう>そうです。
天皇の母親だから皇太后も「御崩御」が使えるはず!

そこで念のために、共同通信社の「記者ハンドブック」も調べてみました。
すると<ご葬儀関係>の項目に、使っていい言葉として
「崩御、ご逝去、お亡くなりなる、ご死去」とあります。

「御」という漢字は当用漢字にはあるが、なるべく「ご」として開いて使うという指示もあります。
さらに皇室だけに使われる特別な敬語や用語はやさしく言い換えること。
そして「敬語が過剰にならないように……」とも。

もう、おわかりでしょう!
活字マスコミのバイブル「記者ハンドブック」にしたがって、新聞では「ご逝去」を使ったのです。
もの知らず(!)なTV関係者は、本来皇室だけの特別な敬語的用語である「崩御」にご丁寧にも「御」をつけた。
マスコミのバイブルの掟をまったく無視して「御」+「崩御」とやってしまったというわけです。
「崩御」といえば、今どきの人にはかえって無礼な感じがするから、「御」をつけたのでしょう。

いやはや、いい勉強になりました。
ちょっと待て!あんたの文章の敬語もずいぶん間違えているぞ。
偉そうなことを云うな!
――というお叱りがすぐ飛んできそうですが……
てへへへへ。ぽりぽりっ。
見逃してやってください。(^^)

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6月18日

土曜・日曜とビデオ(例の怪獣映画)を観るつもりが、地図を眺めているうちに、あっという間に時間がたってついに見損なってしまいました。

どこの地図を眺めていたかというと、ずばり京都です。
観光旅行へいく計画を練っていたわけではなく、ちょっとした調べ物のつもりです。

最近、この読書日記もずいぶん線香臭くなって、法然だの親鸞だのがやたら飛び出すようになっています。

いままで鎌倉以降の仏教については、禅宗などは結構いろんな本を読んで知っていたつもりでした。
しかし、浄土宗や浄土真宗というと表現が悪いけれど「愚民の宗教」というイメージがあって関心がなかったのです。
戦国時代末期の石山合戦がいい例で、室町期を通じて本願寺は巨大な封建君主でした。
その支配階層は婚姻を通じて公家化していて、腐敗した真宗の貴族僧侶たちに食い物にされているような宗教に好感がもてなかったのです。

厳密にいえば、禅宗もそうですけれど、こちらには道元や白隠、良寛といった真面目派のスターがいますし、一休宗純みたいな「傾きもの」系もいる。
個人的に興味がある隠元、鉄眼、高遊外といった隠れ大物もいるというわけで、座禅を組む気はないけれど、多士済々というところがいい。
だから、「90パーセントが堕落していてもいいんじゃないか」というところで興味がありました。

しかし、このところ法然や親鸞の著作に触れてみると、この人たちの思想こそ、昭和時代の日本人が素朴に持っていた神仏観・宗教観そのものだとわかったのです。
平成時代の平均的日本人に「神仏観・宗教観」があるとは、とっても思えないけれど、とにかく昭和まではそうだったのです。
というわけで、法然と親鸞を探る旅は(といっても、本を読むだけですけど……)、わたしにとって「美しき日本のかたち」を探る旅ともなっています。

かつてノーベル賞作家がのたまわった「美しい日本のわたし」が、いまや「五月蝿い日本のわたし」だったり、「無責任な日本のわたし」だったりするご時世ですから、時として「美」を探すのはとっても大切だと思います。
閑静な山寺とか、神社みたいなスポットは、「気学」みたいなオカルト的な意味だけではなく、物理的な面で心身の健康にもいいことは、このごろ良く知られているところ。
例えば、オゾンとか森林浴とか。

地図をみているだけでは、そんな効果はないですが、想像力を働かせることは、人間という生き物にとって必要な運動なのです。
地図を見ながら、法然がすごした場所をあれこれ調べておりました。

法然はもともと今の岡山県の山間部の出身です。九歳のときに比叡山に上りました。
郷里で面倒をみてくれた叔父の僧があまりの神童ぶりに驚いて、つてを頼って、比叡山に送ってくれたのです。
その後、法然がどこで暮らしていたかを地図をみながら追ってみるという空想旅行をしたわけです。

比叡山に上ったとは云うものの、どうやらまだ髪を結っていた少年時代は、京都市内にいたようです。
というのも、比叡山の各寺院は「里坊」(さとぼう)という別荘みたいな施設を京都周辺や滋賀県の大津市坂本町周辺にそれぞれ持っていて、偉い僧侶たちは気候の悪い比叡山の山中よりは下の「里坊」で過ごすひとが多かったのです。
年をとると、寒さが厳しい御山暮らしはきついようです。

少年時代の法然がいたのは、いま京都大学の脇にある「百万遍知恩寺」のあるあたりです。
当時は、比叡山にある功徳院という寺院の「里坊」で、その名も「功徳院」といいました。
元は天台宗「功徳院」が浄土宗「知恩寺」になるのは、法然の没後何十年もあとの話なので省略します。

その後、別の師匠についたので、比叡山の黒谷というところに住みます。
これは比叡山の西塔のエリアにあった念仏聖たちの修行場です。

ところが調べてみると、この時期に法然はこの師匠(叡空)とともに、滋賀県大津市にある青龍寺にもいるんですね。
ここも、比叡山延暦寺の「寺院」ですが、現在では宗派は天台宗のまま、寺の管理だけは浄土宗の知恩院に属しているとか。京都のお寺はなかなかむつかしい!

その後24歳まで法然は12年間は一度も下界には下りずに修行したことになっております。24歳のとき、京都市内の清涼寺に7日間参篭したのち、奈良のいろんな寺で学問を修めて黒谷へ戻ります。

43歳で、専修念仏を行ずるために、比叡山をおりて、最初は「西山の広谷」という現在の京都府乙訓郡粟生にあった土地へゆきます。
ここはすぐに引っ越して、京都市内の相国寺付近にあった「賀茂の河原屋」に移り、つぎに清水寺の近く(現在は東山小松谷正林院がある)に移り、さらに嵯峨の二尊院に移ったと思う間もなく、やっと現在の知恩院がある京都の大谷に落ち着きます。
この間、一年くらいでしょうかね。

これだけ見ると、凄い引っ越し魔と思えるでしょうが、法然は流刑になった他は京都から出た形跡がないので、いまどきの東京近辺のなんとか県民に比べたら、全然大したこと無いです。

いいかげん嫌になったかもしれませんが、いま少し空想ツアーにお付合いください。(笑)

法然は後半生のほとんどを、大谷近辺で過ごすのですが、こまかくみると、いろいろ引っ越ししています。
いちばん最初に住んだのが、現在は金戒光明寺がある場所。このあたりは比叡山の「黒谷」にちなんで、いまでも「黒谷」という地名です。
ちなみに、ここはゲイ関係の人の縁結びの神様(ホトケ様?)でもあります。
そのいわれを書くと長くなるので止めておきます。

つぎは今の安養寺がある場所で、「吉水の草庵」と云われています。親鸞が法然の弟子になったのは、この場所だそうです。

その後は、現在、知恩院の中にある「勢至堂」という建物のあたりに、「吉水の中の房」という庵を建てて住んでいました。
おんなじ名前ばかりなので、ちょっと混乱するのが困りものです。

この地には、他に「東の新房」「西の旧房」という弟子たちが住む建物もあったそうです。

晩年には流刑になって、香川県にゆきます。いま高松市に法然寺という寺があるのですが、厳密にいえば、この寺は法然が住んでいた「生福寺」という寺を江戸時代にここに移したものです。法然が住んでいた場所には、「羽間の西念寺」というお寺があるとか。

残念ながら、こっちの地名はみつかりませんでした。

流刑といっても、京都を出発して、讃岐(香川県)にいくまで船旅で一ヶ月。その後、配流先で過ごしたのは、1年4ヶ月くらいです。
親鸞なんかとは、比べ物にならない優遇ぶりです。
流刑が許されても、京都へ入ることは禁止されたので、大阪府箕面市にある勝尾寺で四年過ごしました。

亡くなる二ヶ月前にくらいにやっと京都へ戻ってよいという許可がおりたので、なつかしい吉水の中の房があった場所に戻り、そこで亡くなりました。

いま挙げたほかにも、法然ゆかりの寺というのは、いっぱいあるのですが、そっちのほうは弟子たちが建てたものです。
やたら「法然……」という名前がありますが、江戸時代に出来たお寺もあります。
そんなわけで、なかなか油断ができません。(笑)
歴史はあてにならんので、用心がたいせつです。

嵯峨にあるお寺で、有名な観光スポットにもなっているところなどは、明治時代に作られたものです。
観光地の歴史には、くれぐれもご用心。

ただし、それを承知の上で、愉しむ。
これがオトナの男や女の生きる道。<観光の大道>であります。

わたしはそういう神社仏閣にいくと、なんか面白いグッズがないかと眼を光らせております。
空想ツアーの弱点は、そういうガジェットに出会えないこと……といえるかもしれませんね。(笑)
以上を持ちまして、法然をめぐる空想観光ツアーを終わらせていただきます。(^^)

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6月17日

ひさしぶりに「パンセ」を読みました。
ただし翻訳ではなく、原書のほうです。
だから辞書を引き引き、数ページほど眺めただけです。
ときどき発作的に外国語の本を読みたくなるのです。
病気みたいなもんです。

それにしても、パスカルという人は、ほんとうによく人間を観察しています。
39歳で死んだのですが、人間というものを徹底的に知り抜いている。

12歳で、ユークリッド幾何学の命題を自力で証明したり、16歳でパスカルの法則を発見した早熟な天才ではありますが、そういう天才だからという訳ではないはず。
異常な数学的天才でありながら、つまらない死に方をした人はいっぱいいましたから。

「パンセ」を読むと、パスカルのシニカルな人間洞察にぐっと考え込んでしまいますね。
人間の悲惨は、暇つぶしにある!
これが、パスカルの有名な洞察です。

思えば、このごろの社会は、暇つぶしのためのツールを提供することをもっぱらの仕事としています。
消費活動をあおらないと、経済成長ができなくなるということなのですが、ほんとうにそんな消費が必要なのかという議論は棚上げにして、とりあえず雇用を確保する。
これが<正しい企業人>の考えということでしょうが、その結果として10代の若者たちの浪費に頼って、スーツ姿の大人たちが生きている。
こういう仕組みは、人類はじまって以来の珍事でしょうね。

時代が違えば、笑い話でしかありませんが、目下のところはこういう次第。笑うに笑えませんね。これじゃあ。

暇つぶしの最たるものが、携帯電話でしょう。
インターネットの情報や、電子メールのやりとりまで、できるようになったのは、とても便利なことですが、それでいいことあるのかなというと、わたしはあんまり無いような気がします。

情報量が増えているようだけど、思考能力はかえって低くなっていると思います。
この分では、けっきょく情報を効率的に集めているつもりで、商業主義の食い物になるのが落ちでしょうね。

でも、そのことは渦中にいる人々にとっては、かなり心地いいはずなので、30代後半くらいになって自分が空虚だということに気づくまで、疑問もなく暮らせるでしょう。

そういうことが、パスカルのいう「人間の悲惨」なわけで、何もいまに始まったことではなく、昔からよくあることでした。
ほんとうに何が必要なのか、ほんとうに何が良いのかということは、考えないようにしようというのが、第一次世界大戦以後のヨーロッパを襲ったニヒリズムでしたが、いまやそれは世界の合言葉になってしまったようです。
おかげで、いよいよ世界はアブナくなってきたので、やっともう一度そのようなことを考え直す風潮がほんのちょっと出てきたと思ってはいるのですが、どうも現代文明の行く先を考えると、そういうことを考え続ける能力を奪うほうへ流されていっているような気がしてなりません。

そんな暗いことを考えたのも、久しぶりに本屋で流行のミステリー小説の棚をのぞいてみて、暗澹としたせいでもあります。
本読みとしては、化石の部類に入っているわたしは、何も申しますまい。(といいながら、しっかり云っている……)
来るところまで来たなという気がします。
こんなのを読んでいれば、バスジャックもやりたくなるだろうし、経験値を高めるために人を殺したり、女性をレイプする必要があると思い込んだりするんでしょうな。

だれがどうと言うこともないでしょう。
そんな作品がほとんどのような気がします。

辞書を繰るのもつかれたので、堀辰雄の「大和路・信濃路」を引っ張り出しました。

「ああ、いいな、せいせいするな」
――というのは、宮沢賢治の詩の一節ではありますが、堀作品を読むときに感じる風通しのよさはこれに尽きますね。

「近代の最も厳粛な文学作品の底にも一条の地下水となって流れているところの、
人々の魂の静安をもたらす、何かレクイエム的な、心にしみ入るようなものが、
一切のよき文学の底には厳としてあるべきだと信じております。」

これは堀辰雄のエッセイの言葉ですが、ほんとうにそのとおりだと思います。

マンガやゲームは駄目。小説じゃなくちゃ――
なんてことは、わたしは信じていません。良き物語は、ジャンルを問わない。
そもそも、数多くの名作マンガと出会わなかった自分の人生なんて、昭和三十年代以降に生まれた世代じゃ信じられないでしょう。

ただ、少なくとも、ありとあらゆるジャンルをこえて、人を感動させてくれた物語には、堀辰雄のいう「人々の魂の静安をもたらす、何かレクイエム的な、心にしみ入るようなもの」が間違いなくあった。
そのことだけは、だれがなんと言おうと、絶対に否定できないと思います。

パスカルからはずいぶん話がずれたようですが、こうしたものに触れることは、いかにお堅いヤンセン派修道士ブレーズ・パスカル氏も「暇つぶし」とはいいますまい。
それさえも否定してしまえば、「人間」という生き物は存在できないはず。

わたしは掘辰雄の理想は、文学というより、あらゆる物語の「生きるちから」そのものだと思います。
おそらく、そのような理想をもたない物語は、生命力を蝕む毒物となるしかない気がします。

わかってはいるんです。毒物に蝕まれるほうが心地良いことは。
でもね、いったん事態が見えてしまうと、もうバカ騒ぎには入れない。
そんなことって、わりとありますよね。

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6月16日

昨日(16日)は、皇太后が午後5時過ぎに逝去されたとか。
日記をアップしてから、ニュースを知りました。

昭和天皇の崩御のときに、官房長官だった人が亡くなった年に、昭和天皇の配偶者が亡くなるのも不思議な縁ですね。
ほんのちょっぴり残っていたかもしれない昭和が終わったような気がします。

新聞で読みましたが、昭和天皇は側室を持たなかったのですね。
てっきり居たのかと、思っていました。

宮中の「女官」というのは、天皇の愛人バンクみたいなもので、明治大帝もいろいろお励みなされていたそうです。
血統を繋げるのがお仕事ということは言い換えれば、高価な繁殖用サラブレッド(褒め言葉です!)と同じなわけで、職業上の必要ともいえるでしょう。
周囲とご本人がそういう意識でいるなら、どうぞどうぞと云うしかありません。

ただ、昭和天皇が子供を生むためだけの側室を断固拒否したというのは、凄いことだと思いました。
最高学府で学問を修めようが、海外留学へいこうが、政府の高官になろうが、大企業の総帥になろうが、戦前のエリートたちは自分たちのタネを複数の愛人の子宮にばらまくことが、立派な甲斐性だと思っていたわけですから。

そんなのばかりが、自分の周囲にいるというのに、二十代の青年が「人倫の道を踏み外したくない」というのは、とてつもなく偉いと思います。
とくに男であれば、いよいよ偉いと思うでしょうな。
色仕掛けでくる女官もいただろうし、皇后になかなか男子が生まれないから、それとなく愛人候補を差し向ける「訳知り」の高官たちもいただろうに。
その一点だけをみても、昭和天皇は歴代天皇の弱点を克服している!

いろいろ思い合わせてみると、昭和天皇は歴代天皇のなかでもベスト・スリーに入る英主だったように思います。
ベスト・スリーといっても、わたしが勝手に考えただけで、人様から認められていないのが痛い!(笑)

他のベストツーは、天皇が国の実権を握っていた古代の人なので、ほんとうは比較するのは無茶なのです。
ちなみに、他の二人は天武天皇と、桓武天皇です。
ただし、順位は未定とさせていただきます。(^^)

あとの方々はもっぱら戦争と謀略に活躍されたので、昭和天皇に比べると人格的にはずいぶん問題があるように思います。

天皇が人並すぐれた才能と体力、精神力をもっていると、民草はえらく苦労することになります。
わたしが勝手にワースト・スリーと思っているお歴々は、個人的な資質においては、歴代天皇のなかでも超人といえる方々なのですが、そう云えば歴史に詳しい人は「ははん」とすぐおわかりでしょう。

昨日はたまたま「花と火の帝」(隆慶一郎)を読んでおりました。
じつは、この小説は隆さんの作品ではあんまり買っていなかったのです。

わたしにとって、隆慶一郎さんの最大傑作は「影武者徳川家康」です。
あれに比べると、なんだかご都合主義のような気がして、つまらなかったのです。

やたら、呪術、超能力が連発されているのも気に食わないところです。
わたしは超常能力と呼ばれるサイキック・パワーは実在すると思っているのですが、最近の娯楽小説やマンガみたいな描き方については笑うしかありません。

しかし、今回読み返してみると、この作品では呪術そのものが大事な骨格になっているので、ストーリーから排除するわけにはいかないことが納得できました。

「花と火の帝」は、隆さんの作品世界の集大成でして、隆さんが書いてきたあらゆる長短編のエピソードがあちこちにちりばめられていて、隆ファンならわずか数行の記述にも思わずにやりとしてしまいます。

それにしても、時代が家康の晩年からはじまるというのに、登場人物がえらく国際なことに、びっくりしました。

主人公は朝鮮の秘密の村で、サイキック・パワーと体術をしこまれる。戦う相手も、柳生忍群はいうに及ばず、「伊賀の影丸」(古すぎ!)みたいな異能の超能力者たち。さらには、インド人の超能力者、朝鮮人の超能力・拳法使い、ベルシア人の幻術師というわけで、ほとんど呆然としますね。

朝鮮半島で武道の修行をしてくるというのは、まんざらただの思いつきではなく、若い格闘ファンのあいだで人気のある某・古武道は、朝鮮半島の拳法と深い関係があるという説もあります。
その流派の中興の祖といわれている人は、幕末・明治に活躍したのですが、どうやら朝鮮半島へ密航して拳法を学んできたと考えられているのです。

たぶん隆さんのことだから、そんなことはとっくにご存知だったでしょうね。

しかし、もっと凄いのは、そんな超能力者よりも凄い超能力者の存在です!
テレポーテーションさえできる超能力者よりも、凄い超能力者。
その人こそ、この小説の陰の主人公・後水尾天皇なのです。

「天皇こそが、日本最大の呪術者である」
というのは、最近の民俗学研究者の共通認識ではありますが、正直にいって、わたしはどうも納得できません。
小松和彦氏なんかの本はよく読むのですが、この一点だけは納得しがたい。
こんなところが、わたしの飲み込みの悪いところです。

ただ、「花と火の帝」も隆慶一郎さんのテーマである「魂の救い」を追求した物語であることは間違いないので、後水尾天皇の強大な霊能力についても、隆さんはきっと大切な意味を持たせようとしていたという感じを強くもちました。
この傑作が未完に終わったことは、返す返すも残念でなりません。

ところが、この後水尾天皇はやたら女官(はっきりいってハーレムの愛人です!)に手を出したお方です。
隆さんは、女官たちは柳生忍群に次々と虐殺されたとしていますが、本当はどうなんでしょうか?

正史では後水尾天皇という方は好き勝手なわがままばかりして一生を送ったことになっています。そういう人をいまさら、尊敬しろといわれても、ちょっと……引いてしまいますね。

こちらに比べれば、昭和天皇ははるかに人間的に好ましく思える――なんていうのは、わたしが戦前・戦中を知らないからかもしれませんが。

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6月15日

一昨日の怪獣の名前は、掲示板 「よい書っ! コラっ書」でも「よんひゃん」さんがご指摘くださいました。
ありがたいですね。ネットというのは。
よんひゃんさん、ありがとうございます。

でも、ビデオは土曜日にでも借りにゆこうかと思います。ワクワクです……(^^)

話は変わりますが、週刊モーニングで連載していて、密かなマイブーム(死語かな?)だった「デビルマン・レディ」は来週で最終回です。
わが友人で、フィギュア愛好家の「ぼこさん」は、永井豪氏のファンですが、今回の出来には泣いております。
ぼこさんは、フィギュアとガジェットの熱烈な愛好家ではありますが、立派な社会人で二児の父だったりします。
結婚しようが、子供を公園に連れていかないと奥さんに怒られようが、フィギュアをせっせと組み立てている信念の人でもあります。
巨匠永井豪さんも、こんな有り難いファンを泣かせちゃいけません。

わたしもコンビニで立ち読みしてきて、涙が出てきました。
感動したわけではありません。(笑)

わたしは、ぼこさんほど巨匠・永井豪氏のファンではないのですが、やっぱりマガジン連載中の「デビルマン」とこれまたマガジン連載中の「バイオレンス・ジャック」で、人生が変わった(?)ような気がします。
思えば、あの頃が巨匠が「あちらの世界」 …… (^^;  ……へいく寸前の、脂の乗り切った時代だったといえるでしょう。
今度の「レディー」も最初のうちは、けっこう良いとこまで行くかなと思っていたのですが、膨らむだけ膨らんだ期待はみごとにぽしゃりました。

なんか空しいなぁ。
ついでに、なかなか居心地良かった読書関係のMLまで、閉鎖されることになったので、ショックが2倍です。

しょんぼりとスポニチのHPを眺めていると、全日本プロレスで分裂騒ぎが起きていることを知りました。

偉大な社長レスラー・馬場ショウヘイ氏が物故されてからというもの、TVでプロレス(もともと数年前から全日しか観ていなかった!)を観る気はしないし、「ゴング」も覗かなかったので、環境の激変についていけません。
三沢が別団体を興すようなので、動向を注目したいと思います。
それにしても、全日の役員には力道山の二人の息子さんがまだいたんですねぇ。
けっこう、いい御年だと思いますけれど。

しぶとく長くやるのが、プロフェッショナルというもの。
プロレス業界の発展のために、若いレスラーにはかっこよく引退してほしくないと改めて思いました。

ところで、昨晩やっと「保元物語」を読み終わりました。
漢文調の古文なのに、やたらすいすいと読めました。
やっぱり、語り物であるだけにノリがいいのです。
昨今の、ビジネスマン向け歴史小説よりも、楽しく読めました。

「保元物語」には、二人のヒーローがいます。
反乱を計画する崇徳上皇と、九州の暴れん坊・源為朝です。
この物語は、この二人を描くために、書かれたような気さえします。

立場が似ているんですよ、この二人は。
崇徳上皇は父・鳥羽上皇に疎まれている。理由はよく知られているとおり、崇徳上皇が父の子ではなく、曽祖父・白河上皇が実の孫である鳥羽上皇の妻に生ませた子供だからです。

鳥羽上皇は父と曽祖父が亡くなると、崇徳上皇をますます憎み、最初は騙すようにして、天皇の位を降りさせて、実の子の近衛天皇を即位させました。
この近衛天皇が病気で早死にすると、それも崇徳上皇の調伏のせいだと思い込んで憎しみをつのらせたのです。
皇位はかねて黙約があったらしい崇徳上皇の息子(重仁親王)へはゆかず、実の子の後白河を即位させたのでした。

度重なる父の仕打ちに腹をたてた崇徳上皇は、摂関家の勢力争いの一方の当事者・藤原頼長と手を結んでクーデター計画を練り始めるのです。

いっぽう、源為朝も父・為義から疎まれて、九州に追いやられます。
こちらは、強すぎる武芸のちからを恐れた父によって、源氏の勢力圏とはいいがたい九州に体よく追い払われたのです。
ところが、そこで為朝は九州を自分の勢力下におさめるような征服戦争をやってのけました。
事態を重くみた朝廷は、為朝を罪に落とすために都へ召還しましたが、もちろん為朝のような豪傑がすんなり言うことをきくはずがない。
ただし、父・為義がそのために官職を剥奪されたことを知らされて、罪に服するために都へ上ってくるのです。

こういう二人が、心ならずも、乱に巻き込まれてしまうのですから、「保元物語」は面白い。

いろいろ有名なエピソードがありますが、「保元の乱」そのものはたった数時間の戦闘で終わります。
立てこもった屋敷に火をかけられたので、崇徳上皇一派はたちまち逃げ出します。
ほんとうにあっけない勝負でした。
為朝ひとりの超人的な合戦ぶりが光りますね。
敵方の平清盛は為朝の弓を怖れてこそこそと逃げ去る。兄・義朝は後白河天皇側についたのですが、攻め寄せた義朝の武者たちを次々と弓矢で倒したり、まるでシュワちゃんですな。

でも、負けは負け。
為朝はうまく逃亡して潜伏したのはよかったのですが、密告されて、風呂に入っているところを追捕の軍勢に捉えられてしまいます。

「保元物語」のラストには、あらゆる面で絶望した崇徳上皇が血で書いたお経を海底に沈めて、生きながら悪霊そのものの姿と化して死ぬ物語と、伊豆大島に流されてから開き直って周辺の島々を征服した源為朝の物語があります。

「平治の乱」や治承三年に清盛が起こした後白河院幽閉事件、清盛の熱病死の原因が、すべて悪霊となった崇徳上皇のせいであるという「保元物語」の記述から、「太平記」や「雨月物語」の日本国に悪をなさんとする大悪霊・崇徳上皇のイメージが生まれました。
悪霊としての崇徳上皇の活躍ぶりは、この頃の人ならよくご存知でしょう。

「皇を民とし民を皇となさん」とは、「源平盛衰記」が伝える崇徳上皇の言葉ですが、よほど朝廷や公家には気味の悪いものと思えたのでしょう。
鎌倉にはじまる武家政治とは、まさに「民」の血が天皇家に入り、天皇家の血筋が民衆に埋没するという京都朝廷からみて、悪夢のような時代でしたから。

京都にある白峰神宮というのは、武家政治が終わった明治になって、明治天皇が崇徳上皇の霊を祭るために作ったものです。
「もう天皇家に祟るのはやめて下さい」という気分だった――といってもいいような気がしますね。

京都には、崇徳天皇廟というのもありますが、こちらは崇徳上皇の愛人だった阿波内侍の屋敷跡だそうです。
建仁寺の隣にあって、いろいろ不気味な話があるとか。
崇徳上皇というのは、近代までオカルト的な闇のヒーローだったのです。

闇というのは、言い換えれば反体制ということで、そんなことをいえば、武家政治や公家の横暴が正義であり体制とすれば、庶民はみんな反体制ではありませんか。

ひょっとしたら、崇徳上皇の悪霊ぶりは、封建制度のもとで打ち続く戦乱や、浮かぶ瀬の無いゼロ成長社会の庶民のうっぷんであったのかもしれない――と思えてなりません。

ひるがえって考えれば、大島から南の島々を征服して、朝廷から派遣された軍勢と戦って、いさぎよく一族を道連れに、腹掻き切って死ぬ超人・為朝も、平凡なる庶民の願望の裏返しだったようにも思えます。

闇のヒーロー・崇徳上皇と、超人・源為朝は、彼らの死後1000年近い封建制度の桎梏を生き抜いた民衆にとって、心の支えでありつづけた。
わたしはそう思います。

この二人の物語を、ラストにもってきた意味は何か。
「保元物語」は、権力とは無縁の日本の人々のために、最初の英雄神話を創造しようとした大いなる企みであった――
ただの直感ではありますが、そのように確信しているのです。

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6月14日

13日は面白いニュースがありました。
ちょっと長くなるので、その話からはじめたいと思います。
かつてシャープから、X68000というパソコンが発売されていました。
「眼のつけどころ、シャープでしょ!」のあのシャープです。
93年には生産中止となっています。

この製品のOS関連ソフトウェアが、ニフティ上で無償公開されることになったのです。

X68000(えっくす・ろくまんはっせん と読みます)は愛称「ぺけろく」ともいいます。
これは和製マッキントッシュとも云われて、まだ本家マッキントッシュがばか高かった頃には、グラフィック、音楽、ゲームをやりたい人に人気がありました。
ボディーは縦長でブラック、ディスプレイもブラックと黒で統一していたので、なかなか姿の良いマシンでした。

なんでも、このマシンはシャープのパソコン部隊が開発したのではなく、テレビ担当のグループが中心になって開発したとか。
どうりで、「センスが家電ぽくて素敵!」のはずです。
iMacみたいに、もう少し女の子よりなデザインだったら、さらに売れたかもしれませんが、当時の男の子たちのハートはがっちりつかんだようです。

わたしも一時は欲しかったのですが、90年代はDOS/Vマシンがどんどん安くなった上に、ゲームでも英語ソフトが豊富に入ってくる。本家マッキントッシュもどんどん安くなるというわけで、X68000は高校生ぐらいのマニアのマシンと化していました。

フリーでプログラムを作って、ニフティなんかで発表するディープな独特のカルチャーがありましたね。

けっきょく、わたしはDOS/Vにいったので、X68000は店頭で触るだけでした。
ただ、その頃でさえマシン・スピードはずいぶん遅いような気がしました。
仕事には使えそうもないし、コスト・パフォーマンスもどうもね、というわけです。

ところが、ファンの人はまだしっかりいたのです。
X68000のOSやソフトウェアをシャープが、ニフティ上でを無償で公開することになったのは、そうした人たちの努力のたまもの!

シャープ社内ではすでに開発チームが解散しているので、サポートはできないから、こういう形をとったということなのですが、社内の理解ある人たちや、かつてのファンで今はコンピュータ業界やパソコン雑誌の業界人になっている人たちが、いろんな面で協力しあったので、今回の快挙が生まれたそうです。

もちろんX68000の本体はすでに中古ショップにもないし、交換部品もシャープにはありません。
ただWindows上でX68000のソフトウェアが動くエミュレーターという仕掛けがあります。
コンピュータに詳しい方なら、とっくにご存知でしょうが、エミュレーターというのは、Mac上でWindowsを動かしたり、Windows上でMacのソフトを動かすという具合に、ハードウェア・オペレーティングシステムの異なる機種で他機種のソフトウェアやオペレーティングシステムを動かせるようにするソフトウェアです。

このエミュレーターがあるおかげで、今回のソフトウェア無償公開も意味あるものとなったのです。

今回の使用許諾には、「プログラムを分析して、自由に改造していい」という条項が入っています。
普通なら、メーカーは絶対にこういうことを認めません。
時間と労力をかけて作ったソフトウェアをユーザーが勝手に解析して、ちょっと改造して商品化して売ることもできてしまうからです。

シャープの決定は、自社で開発した製品を、ユーザーのコミュニティに委ねたという画期的なものでした。

別にマニアでなければ、面白くもない旧式パソコンのことをえんえんと書いてきたのは、懐かしさに誘われて――というわけでもありません。

ユーザーがパソコン会社が生産中止した機種を大事にするという文化は、じつはアメリカやヨーロッパのほうにも先例があって、たとえばデスクトップ・ビデオで有名なアミーガという機種もそうです。
もっと昔には、8ビットのマシンをサポートするユーザー・グループも盛んに活動していました。
アメリカ人のことだから、ひょっとしたら、今も活動しているかもしれませんね。(笑)
CPUが8ビットというと、ファミコンと同じです。スーパー・ファミコンじゃなくて、ただのファミコンです。
ファンというのは、立派だと思います。
アップルがマッキントッシュを作る前に、主力商品としていた「アップル」シリーズなんかもファン・グループがまだしぶとく活動しているようです。

こんな市民感覚というか、「好きなものは誰がなんといってもオレが守る」というスタイルというのは、素敵だと思います。
いままでの日本人は、「廃れたら、はい、それまで」というきわめてビンボくさい、消費志向・使い捨て文化が根強かったように思います。
いや、今だって、そうなんですけど。なにせ、伊勢神宮みたいに神社でさえ20年ごとに立替をやるお国柄ですから。

ただ、一般の愛好者が企業の販売戦略とは別に製品をカルチャアとして育てていくというのは、言葉の本来の意味で「カルチャア」だと思いますね。
知っているひとが多いので、書くのも気恥ずかしいことですが、「カルチャア」の語源は「(畑を)耕す・(植物を)育てる・居住する・崇拝する」という意味のラテン語(= colo)なのです。
今回の出来事と、ぴったりだと思いませんか?

文化という言葉の原義からいえば、「使い捨て文化」なんてのは、形容矛盾ですね。
ちなみに「文化」という言葉は本来中国語ではなく、幕末くらいにカルチャアを翻訳した言葉です。
文化・文政という年号があったではないかという異論もあるでしょうが、あれは「武力や刑罰を用いず、文徳で人民を教化する」(©『新字源』)という意味でして、こういうことを「文化」と呼ぶ人はさすがにいないでしょうね。
だから、「使い捨て」行為を文化なんて、云っちゃいけないんだ!と、ここは強く主張しましょう。(笑)

ちなみに、ソフトウェアの無償公開と配布、管理はニフティの[FSHARP]フォーラムのメンバーの方がおこなうそうです。
アドレスは、(http://www.nifty.ne.jp/forum/fsharp/)です。
ただし、ソフトウェアがダウンロードできるのは、ニフティの会員だけだそうです。

ところで、またひとつお詫びします。
昨日の日記に、北朝鮮初の怪獣映画の名前をうろ覚えで書きました。

あれは間違いです!
すいません!

ほんとは、「プルガサリ」というのでした。
近所のTsutayaで確かめました。

残念ながら、ビデオは先客があって借りられませんでした。
世の中には、物好きがいるなぁと感心しました。
……自分のことを棚にあげて、もうしわけない!(汗)

なんか、ストーリーは大魔神の朝鮮版で、人民を苦しめる悪い封建君主を、大怪獣プルガサリがやっつけるというもの。
そんなら、いっそのこと、キム・ジョンイル氏が黄金の巨神像キム・イルソンに変身して、悪い封建君主を打倒してもよかったような……

ちょっとあぶなくなってきたので、この話題はここで止めておきます。(冷汗)

原題は「不可殺」と漢字で書くようなのですが、これで「プルガサリ」と読むんでしょうか?
手元のハングル入門書を眺めていると、「不」は「プ」、「可」は「カ」、「殺」は「サル」と読むらしいのです。続けて読むと、「プ・カ・サル」のはずなのですが、もちろん独学しただけのわたしの云うことなんで、保証のかぎりではありません。

この大怪獣のぬいぐるみに入っていたのは、なんと日本の「ゴジラ」映画の着ぐるみ俳優・薩摩剣八郎さんでした。

薩摩さんは北朝鮮で、怪獣の演技指導(?)をみっちりしてきたとか。
もしかして、もっと凄い怪獣映画を、北朝鮮は秘匿しているのでしょうか?

薩摩さんのことを調べようとして、「ゴジラ・ディズ」(集英社文庫)のページを繰っていたら、面白いことが書いていました。

ゴジラと戦った怪獣に、ガイガンというのがいるんですけれど、たぶん知らない人がほとんどでしょうね。(苦笑)
それはいいとして、ガイガンというのは、手の先が一本の鈎爪になっています。ツルハシやピッケルを思い浮かべてもらえれば、イメージが湧くかもしれません。

その腕を扱うのは、ただでさえ重たい上に、棒のきっさきを微妙にふりまわすような動きまで要求されて、とっても大変だったそうです。

それで特撮スタッフは頭を抱えていたのですが、ガイガンに入った薩摩剣八郎(当時は中山剣吾)さんは名前のとおり鹿児島出身で、薩摩示現流の達人でもありました。
示現流の立ち木打ちで鍛えた腕で、みごとガイガンを演じきったとか。

それやこれやを考え合わせると、大怪獣プルガサリもなかなかバカにはできません。
首尾よく借りられたら、正座して合掌しながら鑑賞させていただこうかと思っています。

それにしても……このところ、本の話は全然書いていませんね。
一日一冊どころか、いろんな本をつまみ食いしながら、読んでいるので、まとまったことが書けないのです。
明日こそは……と思います。

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© 工藤龍大