お気楽読書日記: 8月

作成 工藤龍大

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8月

8月23日

昨日は、一日じゅう「論語」を読んでおりました。
というより、ぱらぱらめくりながら、ある文章を探していました。
理由は、昨日書いたとおり……です。

どうにも気になって、日記を書くよりもそっちに熱中した次第です。

運良く、目当ての文章は見つかりました。
ほとんど偶然でした!
昨日も書いたとおり、そのページは何度も何度も繰り返し見ていたのですが、探している文章はさっぱり眼に入らなかったのです。
とにかく、見つかってほっとしました。

ちなみに、問題の文章は「第十三 子路編」の二十四章でした。
読み下し文は、ここの掲示板に書いておきました。
興味があれば、みてやってください。

さて、ここの読書日記を読んでくれている大学時代の同級生T君(国家公務員なので特に名を秘す……なんてね……)より、リクエストがありました。(^^)
後輩の吉田燿子さんが書いた「日本初『水車の作り方』の本」を、まだ取り上げないのかと云うのです。

そーいえば、7月17日の日記で取り上げておきながら、まだ本人は読んでいない。
まことに、呆れた先輩であります。(苦笑)

不思議なことに、この本は近所の本屋さんにはないようなのです。
さいきん、近所の本屋さんか、古本屋さんとか、図書館にしか行っていないので、捜索エリアが狭すぎるのでしょう。
これらはすべて歩いて15分以内のエリアであります。
こと、新刊本に関する限り、足で歩く範囲が狭すぎ……です。(笑)

忙しくて、大きな本屋に行っていないので、見つからないのはそのせいでしょうかね。

時間をみつけて、探さなけりゃ……と思います。
T君(霞ヶ関関係に勤務なので特に名を秘す……って、しつこい……)、待っていてね。

――と、ここまでは猛烈な私信モードであります。

さて、「論語」をいい口実にして、さぼっていた「日本の朝鮮文化」を読み出しています。
気分が乗ると、我ながら凄いスピードで読んでしまうのですが、いまいちのらないと亀よりも遅い。
「アキレスが永遠に亀に追いつけない」というゼノンの逆説みたいなものです。
哲学的パラドックスというより、いかに俊足のアキレスでも「やる気」がなければ、亀にも勝てないという意味において……

そういうわけで、こちらはお休み。
「武家の女性」(山川菊栄)という本を読んでしまいました。
薄い本ですけど、あっという間でした。
やっぱり「やる気」ですね、たかが読書といっても。

ところで、山川菊栄の本は、幕末の水戸藩の女性の生活を描いたもの。
登場する人々は、菊栄の母や、叔母、祖母たちといった一族の女性たちです。

水戸藩といえば、天下に名高い貧乏藩。しかも、そこの儒学者の一族ですから、生活はほんとうに大変です。
家の主人から、奥さん、子供にいたるまでみんなで内職しなければ暮らしていけないのです。

ところが、「武家の女性」に描かれた世界の……魅力あること。
山本周五郎・藤沢周平の世界が好きな人なら、じんときますね。
それについては、ずいぶん長くなりそうなので、また明日書くことにします。

この本は山本・藤沢作品に出てくるヒロインのファンには必読です。
うるるるんと来ました、わたしは。

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8月22日

恥ずかしながら……困っております。
じつはここの掲示板に書き込みをして下さった方がいて、ある文章の出典が論語のどこにあたるかという、じつに鋭い質問をされていました。

「政治を司るには何が必要かと問う。善人に好かれ悪人に嫌われなさい。」という意味の文章です。

うーん、確かに、そんな文章がありました。

しかし、思い出せない!
ぱらぱらと「論語」をひっくり返しながら、苦悶しています。

はっきりと記憶にあるのに、思い出せない。
もどかしい気分です。

そんなことって、よくありますよね。
気になって調べだすとかえってわからない。
忘れた頃に、みると何度も見たはずのページに、ひょっこりそれが書いてある。

探しものとおんなじで、意地になればなるほど、どういうわけか見つからない。
たぶん、その場所だけ、無意識的に避けているのでしょう。

どうやら、この論語の文章も、そのドツボにはまってしまったようです。(笑)
なぜか、さっぱり思い出せない。

これを「論語読みの論語知らず」と云うのでしょうか。(泣)

われながら、まったく情けないことであります。(泣)
そんなわけで、このことが気になって、読書日記どころではありません。(笑)
なんとか、探し出したいと思います。

もし、これを読んだ方で、出典がわかった方がいたら、ここに書き込んでくれるとありがたいです。
よろしくお願いします。m(_ _)m

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8月21日

「日本の朝鮮文化」を読んでいます。
なかなか重い……です!

後ろの方から、やっと半分読み終わりました。

ところで、日本の古代史を読んでいると、なにかむずむずと朝鮮語が勉強したくなります。
ハングルとか、韓国語というと政治的な匂いがするので、あえて朝鮮語と表記しています。
気に食わなかったら、あたまのなかで「コリアン」とでも変換しておいてください。

万葉集が朝鮮半島系の人たちの書いた作品を集めたものという基本的スタンスにおいては、座談会に出ている人は誰も異論がありません。
これを読んで、帰化人第一世代がそんな凄いことをやったと感激した大阪の夜学の先生のお手紙があとがきで紹介されていました。
夜学に通う在日の学生たちに、このことを知らせたい……その先生は日本人なのですが、日本人にもなれず、さりとて朝鮮人にもなりきれない在日の若者を思って、そのように発言しているのです。

しかし……そういう発想はもう止めませんか?
善意はわかります。
でも、万葉集であれ、仏教美術であれ、そうしたものは朝鮮半島出身の文化人やその子孫たちの所産であることは間違いないのですが、同時にその人たちはそのあたりをうろうろしている日本人の先祖でもあります。

朝鮮半島の戦乱を嫌って、この国に来て住み着いた人たちと、日本植民地主義のマイナスの遺産を重ね合わせるのは、事実というよりイデオロギーの匂いがします。

アジアのいろんなところから、この土地へやってきた人たちがいろんな遺伝子を混ぜ合わせたのが日本人でしょう。
だから、出身地から持ってきたものも、あれこれごった煮になって、日本文化に融合してしまった。
アメリカはまだ「人種のサラダボール」ですが、日本は「人種のシチュー鍋」になっております。
まあ、現代も「サラダボール化」しておりますけど……。

「万葉集」を表記した漢字の表音的言語システムを「万葉仮名」というのですが、この漢字を使って中国語ならぬ現地語の音を表現するしかけが朝鮮半島で生まれたのは間違いないようです。
しかし、その方法はあまり半島の方では発達せずに、細々と学者たちによって研究が続けられました。

その方法が脚光を浴びるのが、15世紀半ばの李氏朝鮮の英主・世宗王の時代。
これが「ハングル」(訓民正音ともいう)です。

これはアルファベットも参照したらしく、原理は西洋文字とまったく同じ表音文字です。
これは学習するのも簡単で、ローマ字を覚える程度の努力でけっこう使えるようになります。それだけ、世界各国の言語を研究して、システムとして練り上げたおかげでしょうね。

朝鮮半島は、モンゴル民族の元に実質的に支配されたこともあったから、モンゴルのパスパ文字とか、それ以前に中国北部を支配した遊牧民族の王朝の文字(例えば金王朝の女真文字)といった研究材料に事欠かなかったはずです。

世宗王という人は新進の学者グループを身辺に集めて、この大事業をなしとげたのです。
しかし、日本の仮名が平安初期(794年〜)に出来たのを考えると、ずいぶん遅いようですが、そもそも朝鮮半島では官吏システムが出来上がっていたので役人と知識人はすべて漢文が理解できた。
その状態で、支配階層がわざわざ民衆にわかり易い文字体系を使うなんてことは、権力の本質を考えれば、あるはずがない。
愚昧にしておいたほうが、強圧的に支配するのは簡単ですからね。
そのいいお手本が、わたしたちのごく近くに今日もまだあります。

世宗王のせっかくの苦心も、王が亡くなると、もとの木阿弥で、ハングルがふたたび国家に正式に採用されたのは太平洋戦争が終了して日本の植民地支配から解放された後だそうです。

……と考えているうちに、はたっと気がつきました。
そういえば、「じゅんぶんがく」ということを謳う某文学賞の受賞者は在日系の人が大流行。
これって、まるで「万葉時代」みたいなものじゃないですか。

この現象を「在日でも頑張れば、いいことがあるんだ。頑張れ!」と善意の高校教師のように絶叫するなら、それは全然違うと思います。

たぶん、社会と自分との軋轢のなかにしか、いわゆる「ぶんがく」なるものは存在できないってことでしょう。
いまを生きていることの軋轢を具体的に作品として結実しにくい一般日本人よりも、社会との軋みを肌で感じているマイノリティーのほうが「ぶんがく者」としては仕事がしやすい。
そんなわけで、在日の若い世代が「じゅんぶんがく」の旗手となっている。
なに、そんなこたぁ、云われんでもわかっていた!……
どーも、すまんこってす。(笑)

そういうことであれば、万葉の詩人たちが朝鮮半島の文化人やその子孫であることは、なんの不思議もない。
だいいち字が書けるのは、この人たちしかいない……なんて、基本的なことはありますがね。

でも、それ以上に、日本の古代天皇制の誕生という大変な大変革に、好むと好まざるとを問わずに、参画させられていたこの人々の立場を考えると、彼らはその思いを「うた」として烈しく表現するしかなかったと思います。

結論として云いたいのは、ありきたりなことです。
不毛な民族意識を持ち出すのは、お年寄りに任せて、ぼくらは止めておいたほうがいいんじゃないかって。

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8月20日

新人物往来社から「司馬遼太郎全作品大事典」というムック形式の本が出ています。
書誌としてはすごいもので、これを見れば司馬遼太郎さんの全作品が何年にどこから出たかわかります。

わたしは大の司馬ファンではありますが、これを見るとまだまだ読んでいない小説や随筆があるのでがっかり……
ではあるのですが、まだ読むものがあると思って、気を励まして一つ一つとりかかろうとしています。

調べてみると、座談会と対談集が盲点になっていました。
ここまで読むかというと、ちょっと腰が引けていたのです。
しかし、そんなことを云っている場合ではありますまい。

初期の長編も、数冊残っているし、なかなか前途は大変です。
しかも、「街道をゆく」はまだ五冊しか読んでいない。
ほんとうに、司馬ファンといえるのか……自信がなくなりますね。

手始めに買ったのが、対談集「日本の朝鮮文化」。
中公文庫に入っている対談集シリーズの一冊ですが、とにかく中身が濃いうえに、厚い。
ただ問題はそれだけでなく、古代史なんかのファンには割とお馴染みの話題が多い。
つもり、対談者の金達寿(キム・タルス)さんや上田正昭教授の愛読者にはどっかで聞いた話ばかり……という気がしないでもありません。
そのうえ、司馬さんのエッセイの愛好者だったりすると、どっかで読んだ話がまた出てくる。
この三人の方々の愛読者にとっては、ちょっと食傷気味というところがないでもありません。

行列ができるラーメン屋のラーメンでも、一人で五人前はきついというところです。
思い返せば、大学生時代、北海道の小樽で五人前入りの、バケツのごとき陶器に入ったラーメンにチャレンジしたことを思い出します。
メンだけは食べられたのですが、スープは無理でした……

全部食べたら、代金はタダというので頑張ったのですが、結局は御免なさいとしっかりお金を払って、とぼとぼと夜道を引き上げた……のでした。
人によっては、10人前・20人前を平らげたゴーケツもいるそうです。
20人前というと、入れ物は巨大な水甕そのものです。
それだけの水を飲むだけでも、そうとうきつい。
世の中には、すごい人もいるものです。

話が全然それましたが、そういうテンコ盛り状態でも、たぶんしっかり楽しめる人はいるといいたいわけです。

自称、<鉄人読書家>としては、おめおめと引き下がるわけにはいきません。
なんとか、これを平らげてやるつもりです。
そして……司馬遼太郎全作品の完全制覇を目指す!
道は遠いなぁーっ。

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8月19日

「狂言」なんて、TVで観たことがありますか?
本日はしっかり見てしまいました。
またNHK教育TVです。
「葵 徳川三代」の再放送を観てから、ずるずると観てしまいました。
チャンネルは違いますけど。

お題は「佐渡狐」と「蚊相撲」。
どういうわけか、ひどく面白かったです。

ストーリーはひどく簡単で、「佐渡狐」は佐渡のお百姓と越後のお百姓が佐渡に狐がいるかどうかで賭けをすることになる話。二人は都へ年貢を納めにゆくのですが、そこの領主の館の役人に審判してもらうことにしました。
佐渡には狐がいないにもかかわらず、馬鹿にされるのが嫌さにいると言い張ったのが佐渡のお百姓。
役人を買収して、狐の姿形について教えてもらって、賭けに勝つのですが、越後のお百姓の機転に逆襲されるのです。

「蚊相撲」というのは、相撲が見たくなった田舎大名が、相撲取りを召抱えるように家来の太郎冠者に命じます。
ところがお金がないので、一人しか雇えない。太郎冠者は都で相撲取りを雇ってくるように命じられたのに、横着を決め込んで道端に座り込んで、適当なのを相撲取りにしたてて大名のところへ連れていこうとします。
そこへ現れたのが、えらく情けない仮面をつけた貧相な男。
こっそり観衆に自己紹介するのを聞けば、相撲取りに化けて人間の血を吸おうという「蚊」の精だとか。
横着者の太郎冠者はそうとも知らず、大名の屋敷に蚊の精を連れて行きます。

さっそく相撲をとらせようとするが、相撲取りは蚊の精しかいないので、やむをえず家来に相手させようとするが、家来は太郎冠者の他は風呂焚きの老人しかいない。横着者の太郎冠者は相撲は一度もとったことがないと言い出すので、大名は仕方なく自分で一番とることにする……

このところ、どっぷりと鎌倉時代に浸っているせいか、違和感もなく楽しめました。
科白もすらすら聞きとれます。
そりゃあ、そうだ。
「狂言」が出来たのは室町時代。鎌倉時代よりは、よっぽど現代に近い。

リッチでもハイソでもない暮らしなので、「能」「狂言」などというものを舞台で観たのはまだ三回ほどしかありません。
しかし、どういうものか、けっこう気に入っています。

よっぽどレトロなものが好きなのでしょうか?(笑)
ラヂオをつけっぱなしにしていて邦楽の「謡曲」なんかが流れてくると、チャンネルを変えもせずに聞いています。
そのかわりいまどきのJポップだったりすると、すぐにラヂオの電源を切ったりします。

やっぱり……超レトロなだけかもしれません。
人間、得意不得意はどうしようもありませんは。

さて久しぶりに読書のことを書きます。
「目標一日一冊の読書日記」のタイトルが泣きますね、TVの話ばかりじゃ。

集英社文庫の「歴史と小説」(司馬遼太郎)を買いました。
昔読んだ記憶があるのですが、「蔵書目録」を見ると、持っていないことに気づきました。
わたしはうっかりすると気に入った本を何度も買うことがあるので、「蔵書目録」を作っています。
筒井康隆氏お気に入りのコルサコフ症候群という精神病にかかると、以前読んだ本の内容をすっかり忘れて、同じ本を何度でも楽しめるそうです。
わたしの読書も、それに近いところがあります。

一万冊ぐらいの蔵書であれば、人間には記憶することが可能だと立花隆氏がある本で書いていました。
しかし、わたしの経験では3000冊を超えた時点でそろそろ危ない。
このあたりから、気に入った本を二回くらい買うようになりますね。
半年ぶりで本棚の奥から埋もれている本を見つけて、それを数週間前に読んだ記憶があることを思い出す。
もしやと思って、本棚の目に付くところにあるところを探すと……じゃああああん、やっぱりありました。
以前買ったのと同じ本をまた買ってしまったわけです。

しかし、この頃では文庫本ですら、たちまち品切れ絶版になりますから、持っているかどうかわからないときは思い切って買ってしまうことにしています。
缶ビールのロング缶三本飲んだと思えば安い……かどうかは知りませんが、仕方がないですね。いまの流通機構では。

ところで、「歴史と小説」のほうはすっかり内容を覚えていました。
いいもんです、昔読んだ本を読み返すというのは。
わたしは本を読み返す楽しみを味わいたいから、次々と新しい本を読んでいるところがあります。

司馬さんが子供時代に奈良県葛城郡当麻町竹ノ内村という村で育ったのは、ファンならみんな知っています。
この村の人は、神武天皇と戦ったナガスネヒコ(長髄彦)という豪族の子孫だとか。
司馬遼太郎ならぬ本名・福田定一少年の母親がこの村の人でした。

とうぜん福田少年も、自分に古代異族の血が流れていると自覚するようになり、後年小説家になると、そうした作品をけっこう書いています。

村で福田少年が育った家の裏に、小さな丘があります。
文献資料はないのですが、村ではナガスネヒコの古墳だと言い伝えていました。

大阪産経新聞時代からの友人だった浄土宗僧侶で小説家の寺内大吉氏を、司馬さんは案内しながら故郷の村を訪れたことがあったそうです。
その小さい丘をさして、もう小説家となっていた司馬さんは「これがナガスネヒコの古墳だ」と紹介しました。
すると寺内氏は――
「『なんや、しょうむない小山やな』という意味のことを標準語で言った。
『冗談やない』と、わたしの顔はそれなりに気色ばんでいたらしい。『もしお前、ひとつ間違うていたら、このしょうむない丘がエジプトのピラミッドか、堺の仁徳天皇陵ぐらいに有名になっていたところやでぇ』」
「先祖ばなし」より
いつも冷静な語り口の司馬さんが、珍しく大阪弁を吐いているのが面白いです。
さすがに、関西人の司馬さんにすれば、標準語では感情を噴出させるのにはもの足りなかったのでしょうね。

ところで、竹ノ内村の出身者には、伝説の時代に武内宿禰という大政治家(?)がいるだけで、その他にはあまり偉い人はいないそうです。
ひなびた山村だという自己卑下でしょうか。

ただし、昭和になって太平洋戦争中に、「正七位」という最底辺の官位を貰った人がいたとか。
陸軍予備役少尉福田定一という人物で、なんのことはない司馬さん本人でした!

<追記>
同じ本の「京の味」という随筆で、関西人の一見謙譲な言葉がその裏を見抜けないよそ者を一刀両断する例が紹介されている。
その傾向は京都人においていっそうはなはだしいのだが、司馬遼太郎さんの言葉もそう取らないといけない。
わたしみたいな東北経由の北海道人には、よくわからん世界ではあるけれど……

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8月18日

本をそっちのけで、NHK教育テレビを見てしまいました。
午後10時から、0時半までやっていた「四大文明」展のフォーラムです。

10時から11時まで、「四大文明展」名誉総裁の三笠宮殿下が「日本におけるオリエント文明研究史」という講演をなさっていましたが、これはハズレでしたね。
あやうく失神しかけました。
眠くて……

8月6日にNHKホールで収録したらしいのですが、満員の会場は水を打ったように静かで咳払いひとつありません。
よくみると、ところどころで失神している中高年男性の姿がありました。
その点、中高年の女性は目をぱっちり開けています。
危機に弱い男の性の悲しさを実感しますね。

西洋の四大文明研究の歴史を実直にお話されている宮様には、老碩学の威厳と皇族の威厳がそなわっていて、なかなか絵になります。
しかし、老碩学のお話には、強力な睡眠効果があることは皆様もごぞんじでしょう。

わたしも、大学時代の偉い先生たちの講義を思い出しました。

でも、日本のことに話が移ると、なかなか面白かったです。
日本の本格的な中近東古代文明の研究は、旧帝大系の官学ではなく、明治の終わり頃に米国留学から帰ってきた民間の人々から始まったそうです。
アメリカ帰りの弁護士さんが中心になってつくった「バビロニア学会」という学会がそれで、残念なことに関東大震災で蔵書と事務局を失って消滅したとか。

関東大震災は、まだ誕生したばかりで弱々しかったこの国の、民間の知的努力をずいぶん破壊したようです。
そうした勢力が東京に一極集中しかけていたのも、まずかったのでしょうね。

三笠宮殿下は、けっこう固有名詞を気にかけていて、例えばインダス文明の「モヘンジョ・ダロ」は発見当時にイギリス統治下のインド領だったのでこう呼んでいたが、いまはパキスタン領なので現地では「モエンジョ・ダロ」と呼ばれている。ユネスコも、そちらを使っているから、以後は「モエンジョ・ダロ」と呼ぼうとおっしゃっていました。
そのうち、教科書には「モエンジョ・ダロ」と書かれるかもしれません。

もっと傑作な話もあります。
今では「シュメール文明」「シュメール人」というように、南メソボタミアで初めて文明を築いた人々を表記しています。

三笠宮殿下があかしてくれた秘話によると、こうなったのは戦中・戦後に活躍した古代中近東文字の権威・杉勇教授のせいだとか。

なんでも戦前または戦時中には、「天皇を『スメラミコト』と呼ぶのは、<シュメル・ミコト>が訛ったからだ」とか、「高天原はバビロニアだ」とかいう怪説・奇説が流行ったそうです。
これはまずいということで、シュメル語から楔形文字まで中近東のあらゆる古代語に精通していた杉教授がわざと「シュメール」と伸ばすようにしたとか。
おかげで、戦後のほとんどの文献では「シュメール」となったそうです。
三笠宮殿下はこの頃では「シュメル」と表記するように努めているとのことなので、もしかしたらこれも「シュメル」なんて書くようになるかもしれません。

殿下の講演のあとは、吉村作治(エジプト文明)、松本健(メソポタミア文明)、鶴間和幸(中国文明)というそれぞれの分野の権威が出席して、パネル・ディスカッションです。
皆さん、言いたいことはドキュメンタリーのほうでやりつくしたのか、「おっ!」という話はないですが、発掘現場のある国々の状態を聞くと、胸が痛みますね。

ご存知でしょうけれど、エジプトはアスワンハイ・ダムで出来てから洪水は起こらなくなった代わりに、塩が大地が噴出する「塩害」が深刻化して耕地が荒れている。
乾燥した地域で「灌漑農業」をするには、水を流すだけでなく、その農業用水を排水する施設も作らないと、地面の塩分が表土に毛細管現象で噴出してくるのです。
エジプトはナイル川の洪水のおかげで、「灌漑システム」なんてことは考えなくてもよかったのですが、アスワンハイ・ダムのおかげで洪水がなくなり、たまった塩分が表土に残るようになってしまった。

メソポタミアも、中国の黄土高原も、塩害が深刻だそうです。
インダス文明を研究している先生(名前は忘れました!)は、あの辺は昔からひどい乾燥地帯だったと云って、のんびりしていましたが、吉村作治氏から反撃をくらいました。
でも、司会をしていたNHKの偉いさんが、インダス文明の遺跡「モヘンジョ・ダロ」(三笠宮殿下に従うとモエンジョ・ダロ)では地中の塩分が上にあがってきて、遺跡のレンガが崩壊しつつあると、最後に報告していました。
インダスの先生は、悠久の大地で灼熱の太陽に照らされて、すっかりパキスタン・イスラム教徒の「インシャ・アッラー」に染まってしまったのでしょうか?
人間にはどうにもならんのだから、アッラーの意のままに……とでも。

とにかく、古代文明をまじめにやっている学者先生ほど、現代文明に危機を抱いているんだなという気がしました。

パネル・ディスッカションを観て、つくづく凄いと思うのは、吉村作治さんの仕事師ぶり。
ハイテク機器を用意する資金調達力。異分野の人々(例えば工学系・化学系)を巻き込む政治力。
それだけでも大したものなのに、ディスカッションをやれば、うまく話をまとめて、その場をしきる。
パフォーマンスのひとつもできなければ、仕事はできん!
いや、ほんとに勉強になりました。

ヲトコは、かくありたいものです!

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8月17日

学研の「ブックス・エソテリカ」の一冊「天皇の本」を読みました。
べつに終戦の日が終わったから、太平洋戦争と天皇制について考えるというたいしたものではなく、たまたま本屋でみつけて面白そうだから買ったというところ。
たいした主義思想があるわけではありません。

眼をつけた理由は、「自称天皇」という人たちの列伝があったから。
戦後、昭和天皇が人間宣言をした後で、「われこそは南朝天皇の直系子孫である、皇位を返せ!」と名乗り出た一群の人々です。

いちばん有名なのは、「熊沢天皇」という人。
本名は、熊沢寛道。もとは名古屋で雑貨商をしていました。

ただ父親の代から南朝の後胤として承認するよう運動していたそうで、父親が亡くなると熊沢寛道氏は「第118代天皇」として即位しました。
昭和10年には、右翼団体が熊沢氏をかついでクーデター計画を練っていたそうです。
でも、熊沢天皇が活躍するのは、戦後に日本がGHQに占領されてから。
マッカーサーに昭和天皇退位と自分の即位を要請しました!

進駐軍もこれには大喜びで、「ライフ」みたいな大雑誌にも取り上げられるは、日本の新聞にも大々的に報道させるはで、熊沢天皇はいちやく時の人になりました。

すると、全国各地に「われこそは、熊沢天皇家の本家」と自称する人たちが出現。昭和30年代初頭はそんな人たちが大活躍しました。
なかは、警察に検挙された闇ブローカー・熊沢里吉氏が「じつは、わたしは熊沢天皇家の本家です」と取り調べ中の警察官に告白したような例もあります。

ところで、言い出しっぺの熊沢(寛道)天皇は昭和20年に戦災で店舗を焼失。以後は、支持者の自宅を「皇居」として居候をきめこみ、一家ともども住所を転々とする暮らしでした。
最後は、「侍従」として自分が任命した人物のアパートで息を引き取ったそうです。

GHQの支援もなく、しだいにマスコミにも飽きられた後は、昭和26年に「天皇は不適格だ」という裁判を起こしましたが、「天皇は裁判権に服さない」との理由で門前払い。
共産党に、いっしょに天下をとろうとよびかけたり、やけくその行動をとりました。
さすがに、共産党は相手にしなかったそうです。

昭和32年には、「昭和天皇との無用な摩擦を避ける」という名目で、「法皇」に就任したそうで、以後は原水爆禁止運動・平和運動・貧困者救済運動に邁進すると宣言。
やがて昭和41年に、前に書いた「侍従」のアパートで「崩御」ということになりました。

「自称天皇」さんたちには、遺伝子だけでなく、天皇の霊が乗り移ったと称する人もいます。
たとえば、神道家・三浦芳聖(よしまさ)さんは、肉体としては南朝系天皇の末裔、霊的には後醍醐天皇の皇子尊良親王の生まれ変わりだと称したそうです。
「昭和天皇はタヌキにとり憑かれている! 皇居を移転しないと、タヌキの祟りは避けられない」と、この三浦天皇は政府に陳情しつづけたそうです。

もっと凄い話もあります。
明治天皇は替え玉だった!
本物の明治天皇は長州藩に抹殺されて、長州藩がかくまっていた南朝の皇子の末裔が「明治天皇」として即位した――という説が戦前からささやかれていたそうです。

さきの三浦天皇は、田中光顕伯爵(土佐藩士で、坂本竜馬の子分だった志士)にそう聞かされて、自分の即位願望を引っ込めて、現天皇家の支持者となったとか。
支持者になっても、「タヌキに憑かれている」と口走るだけだから、天皇家にはありがたくもなんともなかったでしょうけれど。

この奇説を発表したのも、山口県熊毛郡に住む大室天皇(本名・大室近祐)という天皇さんです!

明治天皇にすり替わったのは、大室近祐の大叔父・寅之祐という人だったとか。

寅之祐が16歳のみぎり、「毛利公のところへ饅頭を作りに行く」といって出かけたのが、王政復古だそうで……その論理にはちょっとついていけません。

ところで、側室が多かった明治天皇には「ご落胤」と称する人たちも多かったようで、炭鉱夫の子として生まれた画家もいるそうです。
しかし、どきっとしたのは――「工藤天皇」という人もいるんですねぇ!
長野県の工藤智久(ともひさ)という人です。
印刷会社勤務で、「ソフト帽に黒のダブル、白い手袋」というなかなかお洒落な格好で会社にいっていたようです。
しかも、その手には「現金とマッチ箱大の金塊を入れたアタッシュケース」を下げていたとか。
マッチ箱というと、お水関係のお店でくれるあの大きさなんでしょうか。
それとも、あのでっかい徳用マッチ箱かな。
想像すると、ちょっと楽しいですね。(笑)

昭和天皇から、「明仁(平成天皇)をよろしく」と云われたが、「朕は即位するつもりはない」と云って安心させてやったといっていたそうです。
何を考えているんだか……。

ところで、炭鉱夫の息子で、画家だった人は、元皇族で首相もつとめた東久邇稔彦氏を信じ込ませて、ついには真言宗国分寺派なる宗教団体から「法親王」の称号までもらったとか。
戦後で、よほど世の中が混乱していたんでしょうかね。
ちなみ、「天皇の本」によると、この称号にはなんの実体もないそうです。

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8月16日

「よみがえるヒーロー! 仮面ライダー大研究」がなかなか止められません。
何度も繰り返して、読んでは笑っています。

ショッカー怪人と、ライダーのサポーターたちのおバカなやりとりのほとんどが、低予算と撮影時間の短さのせいだとはわかってはいるのですが、それでもやっぱり笑ってしまう。
止まりません……どうする、どうするという感じです。

うちにはダビングした「仮面ライダー」のTVビデオがあるのですが、これを機会に改めてみると、ライターさんたちの観察眼の鋭さには関心しますね。

原作者石森章太郎(のちに石ノ森に改名)が初監督した「危うしライダー イソギンジャガーの地獄罠」という回も持っているのですが、この作品はライターの杉田篤彦氏が書いてあるように、石森劇画をそのまま映像化したような作りになっています。
やたら、クレーンで海を上からパンするシーンの連続にはいい加減呆れますが、それも当時の石森劇画が得意とした俯瞰構図だから仕方がない。
しかし、30分の番組を見終わった後には、「ボカンを口をあけた自分がいる」という杉田氏の感想に、首が痛くなるほどうなづくしかない……そういう作品です。

つまるところ、ライダー・シリーズの最大の売りは、「あんた、結局なにしに来たの?」と思わずツっコみたくなる出演者全員の健忘症症候群でしょうな。
そのあたりの大ヒーローといえば、いまは亡き俳優の潮健児さんが演じる「地獄大使」。

潮さんといえば、「地獄大使」か「悪魔くん」のメフィストか。
特撮ファンにはなつかしい人ですね。

おっかない顔なのに、どうも間の抜けた(お人よしの)悪人ばかり演じるので、ひそかにファンになった人も多いはず。
いろんな特撮番組で、お人よしの悪の大幹部ばかりやっていたので、「仮面ライダー」ファンならずとも、この人の顔はみたらわかるはず。
……にしても、実写版の「悪魔くん」をみた人間がインターネットでWEB日記を読んだりするんだろうかという疑いは残ります。(泣)

ところで、潮さんはバッチリご本人と会ったことがあります。
といっても、個人的にではないです。

大昔、日本SF大会というのがあって、潮さんはゲストとして登場されました。
たしか「地獄大使」のコスチュームを着ていらしたような……
いや、たしかに着ていましたね。いま思い出しました。
例のムチをピシピシ鳴らしながらステージに登場されました。

うろ覚えですが、大会の会場は横浜パシフィックだったように思います。
あの通路で、目の前を潮健児さんご一行が歩いていたのは壮観でした。
鳥肌が立つっていうんでしょうか。
(この「鳥肌が立つほど凄い」という日本語は、あまり好きじゃないですが……)

そういえば、あの時はマンガ家寺沢武一氏や内田春菊氏も目の前を歩いていたっけ。
もう遠い思い出であります……

あれからしばらくしてから潮さんはご病気で亡くなったんですよね。
もしかしたら、二、三年あいだがあいていたかもしれませんが。
間が空き過ぎ……って!
すいません、すっかりボケております。

しかし、特撮番組の悪の幹部でありながら、首領や怪人(ついでに)自分自身の計画をまるでライダーたちを助けるかのように、自分自身のヘマで失敗させる……。
これは、簡単なようでなかなかできない。
ただのバカとしか思えませんからね。
だいいち人気が出るはずもない、ただのバカ幹部では。

ところが潮さんは妙にそういうところが似合う人なのです。
どっか、浪花節で人情味がある感じなので、論理的には100パーセントつじつまが合わないのですが、潮さんが演じるとなんかミョーに納得してしまいましたね。

当時の子供たちは、おっかない悪役ばかり演じていた潮さんの優しさを知っていたように思います。
いまでも特撮好きなおぢさんたちが酒を飲みながら、「地獄大使」の話をすると、腹をかかえて笑いながらも、なつかしくて、最後にはシンミリしてしまいます。
おタクと呼ばば呼べ!
おぢさんたちは、世間からあんまり評価してもらえない役柄をいっしょうけんめいに力み返って演じていた「地獄大使」が大好きだったのです。

そういえば、京本政樹が「スカルなんとか」という自作の特撮ヒーロー・ビデオをつくったとき、京本演じるヒーローのサポーターとして潮健児さんが出演していたのを思い出しました。

京本氏は筋金入りの特撮おタクだから、きっと潮健児さんに思い入れがあったんだなと、こちらもしみじみ納得しましたね。
たぶん、これが潮さんの事実上の遺作なんじゃないでしょうか。

今夜は「地獄大使 恐怖の正体?」のビデオを観ながら、酒でも飲むことにします。
元気いっぱいの頃の、潮さんの姿を観ていると、なんだかジンと来るんですよ。

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8月15日

毎度のことですが、おタクな本を読んでしまいました。
「よみがえるヒーロー! 仮面ライダー大研究」(TARAKUS編)という本です。

<TARAKUS>というのは、30代後半のアニメ・変身ヒーロー本のライター集団のようです。
ブックカバーに書いてあるライターさんたちの略歴しかわからないので、詳しいことは不明です。(笑)

それにしても、凄い人たちもいたものだと思います。
仮面ライダー1号・2号が主人公だった初代「仮面ライダー」をこれほど詳しくオタクに解説した本は他にないと思いますね。
全98話を丸ごとダイジェストしているんですから。

「ちょっとアタマ悪いんじゃないの」という気もしないではありません。
オタク本って、中身が詳しくなればなるほど、悲しくもそんな風に思えてしまうものです。
それぐらい、オタク度が濃密な本なのです。

でも、「仮面ライダー」をリアルタイムで観ていた人なら、思わず腹をかかえてのたうちまわるくらい……すんごい話がてんこ盛りです。
主演の藤岡弘(1号ライダー)が一度は大怪我で降板というのは有名だけど、気の毒なことに怪我をしていたのは第一話の放送の日だったとか。
その二週間後には主役の交代が決まっていた……なんて、話は知りませんでした。
その後、藤岡弘がぜんぜん出演しない回があって、いきなり2号ライダー佐々木剛が登場したのは、ご存知のとおり……でもないか。

藤岡弘は人気があったので、2号ライダー・シリーズからゲストとしてたびたび登場。
やがて、藤岡主演の新1号ライダー・シリーズがはじまってそうそうに、NHKドラマに出演できなかったので拗ねて失踪したなんて
……知ってます?

この他にも、藤岡弘主演の1号シリーズのヒロイン緑川ルリ子(なつかしくって涙がちょちょぎれそう……)を演じた女優真樹千恵子という人は、ハリウッド女優(?)島田陽子さんに競り勝って、役をつかんだなんて話もあります。
この人が「アイアンキング」にゲスト出演していたなんて、この本を読むまで知りませんでした。
「Gメン75’」では米兵にレイプされる女子高生を演じたとか。
「仮面ライダー」放映時の1971年に、アダルトな女子大生だった女性が、4年後に女子高生を演じていいのか……というヤボなつっこみはやめましょうね。

しかし、この本を読んでいると、山本リンダが何話から何話まで出演していたとか、林寛子が出演したのは何話だとか、某民主党党首の弟で、自民党に復党した人の奥さんが出演した回数なんてことも詳しくわかるところがスゴい……です。

NHK大河ドラマで、中村梅雀と一緒に寸劇をやっている(覚さん役の)鷲尾真知子さんが、みょーに色っぽい幼稚園の先生を演じていたことも、この本のおかげで思い出してしまいました。(笑)
某アニメで大人気のさくら先生といい、鷲尾さんはオタク心をくすぐるちょっと変わったフェロモンの持ち主のようです。

しかし……この本でいよいよ明らかにされる悪の秘密結社ショッカーのおバカぶりと、怪人たちのせこさ、おバカさ加減はほんとうに凄い。
電車で読みながら、必死で笑いをこらえていました。
うちへ帰って、思う存分笑いながら読ました。
おかげで、じつに気分がソーカイです。

わたしごとになりますが、「ライダー」シリーズは「V3」までですね。
主演の宮内洋さんの「ヴゥアィイすりぃいいーい」という掛け声は今でも懐かしく覚えています。

それ以後はさすがについていけないものがありますね。歳のせいでしょうけれど。

ただ「Black」と「RX」は好きで観ておりました。
あの暗さがなんとなく、好きなんです。(笑)

とにかく、眉間にしわをよせた藤岡弘さんの顔や、ドスの効いた声のくせにベビー・フェイスな佐々木剛さんを覚えている人には、なつかしくも……腹がちぎれそうな一時を恵んでくれる――これは、そういうありがたい本であります。

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8月14日

ついに「ハリー・ポッター」第二巻目を読み終わりました。
最後の100ページは一気に読んでしまいました。
もう夜中でしたが、途中で止めるなんてとっても無理。
けっきょく、2時までかかって読みました。

作者のローリング女史は、物語作者としてはばつぐんです。
いろんな謎が小出しに出てきて、それが重層的に関連しあうので飽きさせない。
はまると絶対に中毒します。
わたしも、三巻目をさっそく開いています。

ところで、前作「ハリー・ポッターと賢者の石」では意地悪な叔父さん夫婦と従兄弟にいじめられる冴えない少年ハリーが、魔法使いの学校へ進んで友達をつくって、大活躍する――というところが、面白かったです。
今度は、ハリーの楽園、魔法使いの学校「ホッグワーツ」に、生き物(ついでに幽霊も)化石にしてしまう怪物が出現。しかも、頼りになる参謀の秀才少女ヘルミオーネまで犠牲者になる始末。
ハリーが怪物を操っているという噂まで飛び出して、さあどうする、どうするという感じです。

これを抜群のストーリー・テリングと、キャラクター造形で描くのだから、たまらんですは。
子供も面白いけれど、大人のほうももっと面白い――それが「ハリー・ポッター」です。
いちおうミステリ仕立てなので、ネタばれになりそうだから、これ以上は言いますまい。
とにかく、お勧めの「ハリー・ポッター」であります。(笑)

ちなみに正確な書名は、<Harry Potter and the Chamber of Secrets>です。
作者は<J.K.Rowling>です。

ところで、本の中表紙には魔法学校「ホッグワーツ」の校章があります。
ちょっとウンチクを垂れると、ここに書いてあるラテン語は「寝ているドラゴンは決してくすぐらないこと」という意味。
なかなか含蓄のある言葉です。(笑)

ところで、14日夜にNHKスペシャルで「学徒動員」の体験者のドキュメントがありました。
その前日は、ベオグラード爆撃下のセルビア人少女(17歳)と、世界の人々がHPの書き込みで交信した記録をもとにしたドキュメンタリーを、同じくNHKが放送していました。
こちらのほうでは、ナチス党員を祖父にもつミュンヘン在住のドイツ人(39歳)が印象に残りました。
ナチスのユダヤ人抹殺計画を、祖父は生涯認めなかったとか。
セルビア人少女も、コソヴォのアルバニア人虐殺を認めることがなかなかできないのです。
孫であるドイツ人は、祖父に感じた反発をセルビア人少女に抱きながらも、対話せずにはおられなかったそうです。

翌日の番組では、学徒動員で集められた日本の大学生たちが、雨の神宮競技場で整列しながら壮行会を行った録画フィルムを再現していました。

セルビア人少女も、日本青年(いまは70代後半の爺さんたち)も、「戦時中は運命なんだと思うしかなかった」と繰り返し言うのです。
17歳のオンナの子は、爆撃で死んだ知人を悼んで泣く事はできても、秘密警察と軍隊に守られたミロシェヴィッチをどうすることもできない。
日本青年たちもそうでした。

それでいて、戦地にいって、古参兵の理不尽なイジメにあい、ヨタヨタ飛ぶのが精一杯の布張りオンボロ旧式機で特攻を命じられると、「国の捨石になると覚悟したはずの青年」たちでさえ憤りを押さえられない。
政治権力であれ、軍の上層部であれ、国民や一般兵士などは代替可能な消耗品としか見ていないことを改めて思い知らされるわけですから。

国家なるものやいわゆる指導者なんかに、こういう不信感があるせいで、わたしには塩野七生さんが描くような大局的な(支配階層と権力者の)視点に立つ歴史物語がつまらないんでしょうね。

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8月13日

本日、2回目のアップです。
一回目は御礼のご挨拶。これが、ほんとの読書日記です。

さて、昨日は「ハリー・ポッター」の二巻目を読み、「ロードス島攻防記」(塩野七生)を再読しました。

このところ「醒酔笑」の下ネタにはまっていましたが、気を取り直して正道へ戻ります。(笑)

「ハリー・ポッター」2巻目は、まだ翻訳がないらしいですね。
わたしは英語で読んでいます。でも、ちょっと英語が出来る人なら、平易で達意の名文なのですらすら読めると思いますよ。
「アマゾン・コム」や「バーンズ・アンド・ノーブル」なんかで買ってもいいし、都内なら池袋や新宿でも簡単に買えます。

ちなみに、わたしは池袋駅前の某S堂書店で買いました。
(後記:名前を出したのはちょっとまずかったかなと思い、訂正しました)

ここの洋書はなかなかスグレモノで、へたをすると、新宿の紀伊国屋より面白いのがあったりします。
玄人好み……といっていいかも。

ただ思い返すと、この本を買ったときはちょっと困りましたね。
30代くらいの女性店員が少し年下の出版流通会社の営業レディと、レジのところで<勝負パンツ>についておしゃべりをしていました。
女性週刊誌が特集するところの、<勝負パンツ>です。
他にもオトコのお客が数人いたので、みんな耳ダンボ状態だったと思います。
セクシーというよりは、あまりにも即物的かつ赤裸々なので、ほんとうに勉強になりました。(笑)

書店の名誉のために書いておくと、他の女性店員さんたちは黙々と棚の整理をしておりました。

そういう場所に「おぢ」がのこのこ近づくのはあまりにも間が悪すぎなので、話題が変わるのを待っていたけれど、いっこうにお喋りを止めてくれません。

そこで、つかつかとレジにいって、「ハリー・ポッター」2巻・3巻をカウンターに載せました。
あのときの女性店員と、営業レディのきまり悪そうな顔はなかなか忘れられません。

意地悪な「おぢ」に、覗き見されたような気分だったのでしょうか。

じつは、このことがあってから、この書店にはしばらく行っていないのです。
女性店員がこっちの顔を忘れてくれるのを祈っています。
無実の罪で、チカンにされた会社員の気分です。

どうも、タガが一旦はずれると、どんどん下ネタ風になりますね。
いかんなぁ。笑っちゃいますね、ホント。

全然「ハリー・ポッター」とは関係ない話に飛んでしまいましたが、第二作もめちゃんこ面白いですよ。
翻訳なんか、待っていないで、アマゾン・コムで買っちゃうことをお勧めします。
アマゾン・コムが(経営危機で)危ないと思ったら、他のショップでも。(笑)
「リンク集」の「オンライン書店リスト」にも洋書リンクがあります。

ところで、塩野七生さんの「ロードス島攻防記」を読み返しながら、不思議な思いにかられました。
これはどういう本なんでしょうか?
ロードス島に立て篭もる聖ヨハネ騎士団に、スレイマン大帝率いるオスマン・トルコの大軍が襲いかかる。
主人公は、貴族の美青年。
仲間のこれまた美青年の騎士とホモだちで、仲良くトルコ軍と戦う。
なんだか「じゅね系」または「やおい系」のお話ですね。

この本を買ったのは、もう10年近く前にロードス島へ行った後でした。
あのときは、現地を見てきた興奮で楽しく読めましたが、いまはなんだか気の抜けたビールでも飲まされたような気分です。

この本が文庫になった頃には、塩野さんはすでに「ローマ人の物語」に筆を染めていたようです。
その頃からイタリア・ルネサンスやバロック期スペインに対するブームが、もはや過去のものになりつつありました。
妙に醒めた感じがしてしまうのです。

あるいは、わたし自身がイタリアやヨーロッパ貴族階級に嫌悪感をもっているせいかもしれません。
ヨーロッパ史を調べていると、あまりに残酷な階級制度にうんざりするとともに、嫌気がさしてきます。
とくに上流階級出身でもなく、学習院大学出身でもないと、そういう反応のほうが普通でしょう。
自分がハイソでゴージャスだと思う人は別ですけど……

わたしとしては、オスマン・トルコ側の視点に立つか、少なくとも騎士団のメンバーではないロードス島住民の立場に立って書いてくれたほうが良かったように思います。
歴史小説でも、一時のブームみたいなものに影響されずにはいられないのだと、つくづく思いました。




いつもお読みくださっている皆さんへ;
ありがとうございます!

ついに、トップページもアクセス数が 5000ヒット を突破しました!

この日記(7月28日に5000 hit 達成!)から、ほぼ2週間遅れで達成しました!

ささやかではありますが、5000ヒットという数字は、このサイトを立ち上げたときからの目標でした。
99年6月末にカウンターをつけてから1年と1ヶ月半。

女人系でもなく、やわらか系でもない活字だけのサイトとしては、成果は上々であると勝手に嬉しく思っております。

重ねて、お礼申し上げます。
ありがとう!

これからも、末永くおつきあいくださいまし。(笑)

今日からまた気合を入れて、サイトを続けます。
さぼっていたエッセイも、(できれば……)毎週一本は書こうかなと思います。
あんまり自信がないのが、なんとも云えませんな、我ながら……(笑)
もっとしっかりしたいものです。(泣)

本日の読書日記は、またいつもの時刻あたりにアップします。
(注:ちょっと遅れました。申し訳ない……です)
どうぞ、よろしく。

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8月12日

「醒酔笑」の著者、安楽庵策伝という人は、なかなか仕事のできる坊さんだったそうです。
京都の禅林寺で修行して、25歳のときから岡山県や広島県にある潰れ寺を次々と再興しました。
15、6年間に六箇所の寺を再興したとか。
すさまじいやり手としか言いようがありません。

策伝という人は、眉目清秀、弁舌さわやかな青年だったようで、村の娘さん・おかみさん・大昔のお娘さんたちに絶大な人気があったとか。
こういう人が笑い話のひとつも入れて説教すれば、娯楽のない時代にはたちまち近隣のスーパー・アイドルになるのです。
それで人と浄財が集まって、寺が再建される。
美形であり、説教が上手いのは、坊さんの出世の早道でした。

もっとも、坊さんは説教だけでなく、お化粧をしたうえに、「和讃」なんていう歌なんかも歌うので、まるでトーク付きのライブです。
「和讃」はもともとホトケ様を称える宗教歌なのですが、浄土宗の開祖法然の時代から娯楽芸能になってしまう傾向がありました。
戦国時代末期ともなれば、人集めの娯楽と化してしまっています。
デーモン小暮という人は、ひょっとしたら、この時代の坊さんの生まれ変わりじゃないでしょうか?

策伝は、しまいには京都にある誓願寺という浄土宗の大寺のトップにまでなりました。

そういう人が話すのであれば、昨日書いた「若道」も面白いと受け取られたのかもしれません。
それとも、こちらは檀家よりは、身内の坊さんたち向けだったのかも。

というのも、「醒酔笑」にはずいぶん隠微な笑い話があるからです。
それは「若道」(にゃくどう)に関係した話で、「若道知らず」という章にあります。
同性愛の実践者でなければ、まず話がわからないものばかり。

パターンとしては、子供を寺に預けた親が久しぶりに会いにゆく。
すると、師匠の老僧や先輩の僧たちが、子供を奇妙な名前で呼ぶ。
親が不思議に思って、子供に聞くと、子供がごまかしてウソを教える。
ウソを教えられた親が、おかげで珍妙な受け答えをしてしまう。
これがパターンです。

老僧たちは、子供を「すばり」「あかすばり」「せうけつ」「にやけ」と呼びます。
その答えを明かすのは、後まわしにして、先に進みます。
親の問いに、子供はそれは順に「下戸」「酒」のことだと答えるのです。

そこで、「すばり」「あかすばり」は「下戸」と「下戸を強調する言葉」と教えられた父親が、寺へ女房と連れ立って出かけます。
そのとき、僧たちから女房に酒を勧められると「女房は下戸だ」というつもりで、「私はご存知のように『すばり』ではないが、女房はまったくの『あかすばり』だ」と答えてしまいます。

「せうけつ」は「小穴」と書きます。
こちらの父親は「下戸を中国風にいうと、『小穴』となる」と教えられます。
そこで、夫婦連れ立って寺に出かけて、振る舞い酒にあうと、こちらの父親は酒が弱いせいか、こう答えます。
「わたしは『せうけつ』ですが、『子持ち女房』(=自分の妻)は『広穴』(くわうけつ)なので、どんどん頂戴させてください(原文では『しひたまえ』となっています)」

この親父さんは、『広穴』(くわうけつ)を「上戸」のつもりで言っています。

もう分かった人もいるでしょうが、謎解きしますと、
「すばり」とは肛門が狭いという意味だそうです。「あかすばり」とは、その状態がはなはだしいこと。

「若道」では、こういうのは「名器」の反対だそうで、つまり後ろの器官が優秀でないとセクハラ(?)しているわけです。
もちろん、「小穴」もそう。

このことを知った上で、さっきの話を読み返してみると……
なかなか味のある話になってしまいました。
(そうわかってみると、「しひたまえ」=「強いてください」という言葉が意味深になりますね……)

ところで、最後の「にやけ」とは「若気」と書いて、「若道」と同じ意味です。
ただし、もうひとつの意味に、誰かの(同性愛の)愛人というのもあります。
この場合は、後者の方ですが、前の意味も忘れないでおいてください。

さて「にやけ」を「酒のことだ」と教わった父親は、そのまま妻に教えます。
あるとき子供が里帰りしていると、寺から迎えがきました。
そこで、母親は使いの僧に「酒」でも振舞うつもりで、子供にこう云うのです。
「せっかくだから、お使いの坊さんに『にやけ』でもご馳走してあげなさい」

なんだか、すごいことになってきましたね。
明日はもう少し真面目な話題を書こうと思います。

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8月11日

「醒酔笑」(安楽庵策伝)という本を読んでいます。
岩波文庫で、上下二巻。なかなか読み応えがあります。

安楽庵策伝という人は、江戸時代はじめにいた浄土宗の坊さんです。
この本は、落語の元祖ともいわれる笑い話集です。
ただ、なにしろ今から400年近くも前なので、ギャグの切れ味はよくわかりません。
たぶん、ボキャブラリーが今と違っているので、解説を読まないと洒落がほとんどわからないからです。
しょーもない駄洒落を連発するおやじギャグが、日本の笑いの王道だということがよくわかりました。

意外なことに、笑い話にはちょっとエッチな艶笑譚がつきものですが、この本には普通の意味のそうした話は数えるほどしかありません。
そのかわり、たっぷりあるのが、小児愛。
いい年をした大人が、ローティーンの稚児を性愛の対象とする「若道」です。
「若道」と書いて「にゃくどう」と読みます。

親としては、お寺に勉強させようとして男の子を送った場合もあるのですが、年とった住職から若い坊さんまで、子供をいじろうとする。
子供にとっては、なかなか恐ろしい場所でした。

家に若い坊さんが法事にきて泊まっても、子供と同衾させると、たちまち餌食にするから凄いものです。
そういう笑い話が、「醒酔笑」にはほんとうにあるのです。

将来、坊さんになるために寺に修行に来た「稚児」たちにとっては、自分の性欲が発動する年齢になるより先に、年上の坊さんたちの性の対象になるのですから、たまったものではない。

そういう小児同性愛を集めた章の冒頭におかれた笑い話を読むと、ほんとうに大変だったんだなと思います。
場所は比叡山延暦寺。
すでに僧たちの性愛の対象になっている(オンナにされたというべきか、オトコにされたというべきか?)稚児たちが、集まって話をしています。
「若道(同性愛)ということは、誰が思いついたんだろう」
と、ひとりの稚児が恨めしそうに言います。

物知りな稚児が「それは、弘法大師空海という人だ。この比叡山の御影堂に、すました顔で座っている像のモデルさ。こいつが、唐までわざわざ留学したあげく、こんな辛い事を日本に伝えたんだ」と憤慨しながら教えてやります。
稚児たちは、「なんて憎たらしい坊主だろう」と怒るのです。

この笑い話の仕掛けは、この稚児が弘法大師空海の像が比叡山の御影堂(みかげどう)にあると勘違いしているところ。
「御影堂」とは宗派の祖師を祀るお堂。
もちろん、比叡山の御影堂に高野山金剛峰寺の開祖の像が置いてあるわけがありません。
比叡山にあるのは、空海のライバル、伝教大師最澄の像です。

ある日のこと、稚児のひとりが伝教大師の像にお供えの飯をもってゆくように、命じられました。
すると、稚児は飯をあげながら、怒鳴ったのです。
「このクソ坊主め、もっとましなことを思いつけ」

現代の歴史小説家には、最澄を同性愛者のような書く人もいますが、少なくとも安楽庵策伝の頃にはまじめな仏教者として尊敬されていました。
いっぽう、弘法大師のほうは司馬遼太郎さんが「空海の風景」を書いた頃から、評価が上がりっぱなしですが、その昔は日本の同性愛者の元祖という芳しくないレッテルで有名でした。
だからこそ、この笑い話も受けたのです。

この小児同性愛でもっぱら使用される器官は、お尻のほうでした。
だから、僧侶の艶笑譚でもっぱら主役となるのは、<ONARA>です。

というのも、男性器官で広げられた少年たちの器官は異様に広げられて、とてつもない音響を発するからです。
「南方熊楠稚児談義」で、そういう話がありました。
眉目秀麗な美少年が、異様に大きな<ONARA>で愛人で庇護者の老僧にベッドインを促すとか。明治時代の高野山では、こんな習俗が生きていたそうです。
さすが、男色の開祖が開いた総本山だと関心した覚えがあります。

ところで、お寺はよほど食い物がないのか、それとも稚児たちが育ち盛りのせいか、腹を減らした稚児の笑い話も多いですね。
坊さんたちは、意中の稚児をゲットするために食い物で釣るのです。
このあたり、現代の刑務所でもそうだとか。

ところが、貧乏な坊さんでは稚児に食わせる飯がおしかったり、粗末な飯しか出せない。
性欲と食欲の相克は、おそろしいほど凄まじいものがあります。

笑い話を読んでいたつもりが、しぱし呆然としてしまいました。

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