お気楽読書日記:11月

作成 工藤龍大

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11月

11月17日

アメリカ大統領選もなかなか終わりませんね。
民主党はなかなかしぶとい。

共和党のロバート・ベネット上院議員にいわせると、ゴア陣営の選対本部長が悪い。
かたくくなに負けを認めないウィリアム・ベネット選対本部長を批判しているわけです。

ただ、それもベネット氏だけに限らない。
このベネット氏の父親は、元シカゴ市長で民主党の大ボスだったひと。
1960年に民主党のケネディが大統領選に勝利したのは、このベネット父がシカゴで組織的な不正選挙をしたおかげとわかっている。

こういう歴史があるだけに、共和党が手作業の集計作業を信用できないのも無理はない。

昨日は、アメリカ大統領関係でいろいろニュースがありました。
午前中にフロリダ州の判事 Terry P. Lewis 氏がハリス州務長官の判断を支持して、ブッシュ陣営をほっとさせたかと思うと、フロリダ州最高裁が手作業集計の続行を認める判決をだした。

共和党からすれば、民主党が支配する郡の集計がこのまま進めば勝利は逆転するという危機感がある。
40年前にベネット元シカゴ市長がやった前例もありますから。

気が気でないから、機械集計にしろといいたくなるのも無理はない。

民主党陣営は、ベネット元市長の故事にならって(笑)、逆転勝利をねらいたい。
この調子でいくと、ブッシュ陣営としては海外からの不在者投票だけが頼みとなります。

不在者投票は海外勤務の軍人が多いからブッシュに有利だそうです。
でも、安心はできませんね。

ブッシュがなぜ州最高裁ではなくて、連邦の最高裁に提訴したかという理由も納得しました。
民主党よりの州最高裁は信用できないというわけです。

こういうときに、アメリカの「猟官制」(spoils system)の弱点が出てきます。
首長がすべての官職を任命するわけですから、役人も今の地位を失いたくなかったら、自分の党派に有利に動くしかない。
そのかわり、官僚制度がむやみと自己目的化して肥大する心配もないわけですが。

ところで、アメリカ国民はこの選挙をどうみているかというアンケート結果が出ました。
いいかげんに呆れているようですが、それでも17日の開票結果までは待ちたいという意見が大勢でした。

法廷闘争で争うことには反対だということだけは、はっきりしています。

しかし、どちらも選べないし、どちらも選びたくないという様子も見て取れます。
ゴア、ブッシュを指示する人々がそれぞれ44パーセント。どっちもいやだという人が10パーセントだそうです。
無理もありません。(笑)

それにフロリダの集計結果が信用できると考える人がかろうじて50パーセントを越えただけ。先週日曜に比べると、59パーセントから10割近く落ちている。
しかも手作業よりも機械集計のほうが信用できると考える人は、過半数を超えている。

これでも、なぜ両者にブーイングが起こらないかといえば、回答者の10人に7人がいまの経済状況に満足しているからだそうです。
どっちでもいい人が、10人中3人はいるということですね。

このへんに、福祉切り捨てを恐れる民主党陣営の必死のねばりが効く要素があるようです。

ひるがえって、日本をみると、週明けの月曜には不信任案提出があります。
来週はたいへんだなぁ。

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11月16日(その二)

昨日は久しぶりに古新聞の整理をしていました。
このあいだの古紙回収のとき、切抜きをしていなかったので出せなかったとお小言を貰ったからです。
日曜日にまた回収があるから頑張ってやっておくことにしました。

二週間分あったけれど、ほんとにいろいろありました。
まだ決着しないアメリカ大統領選というのも大きいし、オーストリアのケーブルカー事故、日本赤軍の重信逮捕、ギリシアのバス・ジャックというのもある。

ただし、わたしはこんなのは切り抜きしません。(笑)
考古学だの、歴史学だのの、あまり有用性のない記事が好きなんです。
こういうのって、新聞記事もバカにならない。
れっきとした年鑑で、考古学関連の新聞記事を集めて本にしたものもあるくらいです。
博物館の考古学展へでかけたとき、そういう年鑑の96年版と97年版を買いました。
でも、98年以降はうちの切り抜きコレクションと中味が同じだとわかったので、購入しませんでした。(笑)

そうしてみると、わたしも「考古学おたく」のお仲間かもしれない。

やっぱり、石器捏造事件の切り抜きが多かったですね。(泣)
ほんとうに大変なことだったんだなぁ。

県民の日に、県の作文コンクールで優勝した中学生くんが自作を朗読することになっていたけれど、捏造された子鹿坂遺跡に触れていたので朗読は中止になったそうです。
作文そのものは会場に掲示されて、入場者は読めたのが救いです。

講談社がせっかく意欲的に始めた日本歴史のシリーズも、捏造が発覚して注意書きをつけなければならなくなった。
文化庁も遺跡の再調査を各自治体に要請している。遺跡で町おこしのつもりが無駄な予算を出さなければいけない地方自治体は大変です。

考古学ファン(?)としては、どうにもやりきれない。
いうべき言葉もみつからない。
悲しいなあ。

ところで、嫌な話は他にあります。
外来動物くんたちです。

アライグマは鎌倉で家の天井裏でタメグソしているだけかと思ったら、北海道ではトウモロコシ(北海道語ではトウキビといいます!)畑を荒らしているらしい。
しかも、被害が多いのは札幌近郊の恵庭市。

たぶん、このアライグマは札幌の飼い主たちが棄てたんでしょうね。
北海道にアライグマを売っているペット・ショップが他にあるとは思えない。
北海道出身のわたしの偏見かもしれませんが。(笑)

成獣になって気が荒くなったので飼いきれなくなったから、畑ばっかりの恵庭まで車を飛ばしてぽいっ……してきたんだろうなぁ。

北海道では野生化したアライグマを撲滅しないと農被害が増えるばかり。
ただでさえ苦しい農家は、アライグマ根絶を進めないと生き残れない。
かわいそうという次元はすでに超えている。

ペットを棄てる飼い主も許せないけれど、もっとひどい連中もいる。
河川や湖にブラックバスやブルーギルを放流する釣りマニアです。

横浜の住宅地の池に、こいつらを放した連中がいるらしい。

繁殖力の強い外来魚ブルーギルは、三鷹市の井の頭公園や文京区の六義園、皇居外苑の堀でも大繁殖している。

ブラックバスが増えると、小魚がいなくなるので、中型の魚が生きられなくなる。それだけじゃない。
食物連鎖を支える生き物が減るから、水鳥さえ生きられない。

――なんて記事に怒っていたのが先々月でした。
ところが、今月16日には埼玉県浦和市の別所沼でピラニアが見つかった。
体長20センチで、人間の指くらい簡単に食いちぎることができる。

こんなものを河川や池や湖沼に放す人間は、食物連鎖とか生態系という言葉は知っていても、どういう意味かはわからんでしょうなぁ。(吐息)

それにしても、人間が水に入るような場所にピラニアを放す神経がわからない。
そういえば、北米の体長50センチ以上になるカミツキガメが、千葉県の沼でみつかったというニュースもあったけ。

でかくなりすぎて飼えなくなった生物を棄てるくらいなら、はじめから飼うな!
と、分別がある人は考えるのでしょうが……

ペットを棄てるやつ、肉食性の外来魚を放流するやつ。
こんな連中は愉快犯みたいな卑劣なやつだから、何をいっても無駄だろうなぁ。

こういう報道があるたびに、日本人の心の問題だとはいうけれど、すでにそういう精神論では問題は片付かない。
世界観の違う人間といっしょに生きていくには、法律というコミュニケーションがいるんじゃないでしょうか?

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11月16日

昨夜、NHK「にんげんドキュメント」を見ました。
全盲のピアニストが、ポーランドのワルシャワで開かれたショパン・コンクールに挑戦するというドキュメントでした。

このピアニスト・梯剛之(かけはし たけし)さんは小児ガンで赤ん坊のときに失明した人で、以前にもNHKのドキュメンタリー番組で紹介されたことがあります。

十二歳のときから母親といっしょにウィーンへ留学して、ピアノの勉強をしている。
お父さんは日本に残って、母子のために仕送りしているという話でした。

渡欧してすぐに小児ガンが再発して、左眼の摘出手術を受けたそうです。
手術しないと、ガンが脳に転移して死んでしまう。小学校を卒業したばかりで、そんな人生の岐路に立たされた。
前回のドキュメンタリーでは、この人がウィーンでささやかなコンサートを開いたというものでした。

しばらく前に、この人がショパン・コンクールでなにかの賞をもらったという記事が新聞で小さく報道されたことがあります。
ろくに記事を読まなかったので記憶が曖昧でしたが、ピアニストとしてやっていけるようになったんだなと、他人事ながらほっとした気持ちになりました。

そのコンクールを取材したのが、昨夜の番組でした。
ところが実際は、そんなに甘いものではなかった!
ただのサクセス・ストーリーかと思ったら、とんでもない間違いでした。

この人は二次予選で落選していたのですね。
一次予選ではミスを連発していたのに、なんとか通過した。
でも、本人が最高の出来だと思った二次予選ではほとんど審査員から認められなかった。

理由は、楽譜とおりに弾かなかった――というです。
ショパンの「スケルツォ」という早い演奏を要求される曲目を、わざとゆっくりと情感をこめて弾いたのが、プロの反発を買ったらしい。

この演奏が一部番組中で放送していましたが、なるほど他の出場者とはまったく違う。
スローテンポで、祈りにも似た静謐さと静かな勁さが感じられる素晴らしい演奏だったけれど、プロの眼にはそういうことは関係がないらしい。

音質の悪いTVだったけれど、聞いていると涙が出てくるほど素晴らしい音だったのに。
正直いって、あぜんとしました。
プロの世界はようわからんものだと思いました。

でも、不思議なことに、たしかにこの人はショパン・コンクールで賞を貰ったはずなのです。
あの報道が間違いであるはずもないし、いったいどういうこと?

だれだって不思議に思いますよね。

ところで、梯さんの演奏に感動したのは、TVの視聴者だけじゃなかったのです。
コンクールを聞きに来ていたワルシャワの一般市民たちも、独特な「スケルツォ」に感動していた。技術じゃなくて、魂の交流を感じ取ったのです。

手を組んで祈るように聞いていた年とった尼さんの映像が、印象的でした。

キリスト教の社会では、魂の交流をコミュニオンというんですね。
もっとも、今じゃカトリックの聖体拝領の儀式や祈りもそう呼びますが、こっちのほうは転義です。
ほんらいは霊と霊の交流を意味して、語源はラテン語か古フランス語の「分かち合う」という意味の言葉らしい。

なんで、そんなことを連想したかというと、ポーランドはヨーロッパでは珍しくキリスト教信仰がまだ生きている国だからです。
近代合理主義が行きゆぎて、霊や魂を忘れた西欧や中欧の国々とは一線を画している。

そういう人たちが、梯さんの音楽を受け止めた。
落選が決まってから、演奏に感動した市民のグループが小さなコンサートを開いてくれた。
梯さんはそこで、本選で弾くはずだった曲を演奏した。

どうやら、これが伏線だったようです。
本選に出場していない梯さんは、なぜかショパン・コンクールの授賞式に招待された。
優勝者も決まり、審査員から各賞受賞者が発表されたなかで、梯さんにある賞が渡された。
それは審査員から送られたものではなくて、ワルシャワ市民から送られた特別賞でした。

本選にも出られなかった梯さんに、大きな贈り物をしたのは、プロじゃなくて、音楽を愛する市民だったのですね。
やっと、梯さんの受賞の真相がわかりました。

梯さんはいつガンが再発するか、わからない状態で「人を暖かくする音楽」を模索している。どうやら、それはプロとしての技量を競う場所にはふさわしくないものかもしれない。
けれど、梯さんの思いを受け止める人たちがいたんですね。

梯さんの音楽も素晴らしかったけれど、ワルシャワ市民の人たちも素晴らしいなぁと思いました。
この惑星(ほし)には、まだこういう人たちもいるんだ……って。

世の中って、いいもんですね。

ポーランドなんて行ったこともないですが、こんな心根の人たちが住むワルシャワはきっと良い町に違いない。
わたしはワルシャワ市民になりたい……なんて思っちゃいました。
少なくとも、東京都民や埼玉都民よりはずっといい。(笑)

それにしても、全盲のピアニスト・梯さんの演奏はすてきです。
必ず世界に通じる日がくると、思いました。

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11月15日(その二)

重たい天台思想につきあったおかげで、あんまり本を読む気がしませんね。
難しい本を読むには、ちょっと一休みがいるみたいです。(^^)

昨日は新潮文庫版の「宮沢賢治詩集」を読みました。
賢治の詩集は、こちらの状態によっていろいろと見え方が違う。

ある気分にひたりたいからというわけで、ページを開くほかの詩人とはそこが違います。

青春の衒いと山っ気が横溢している「春と修羅 第一集」では、今回読むとどういうわけか「風景とオルゴール」や「一本木野」、「冬と銀河ステーション」がいちばんしっくりくる。

いつもなら、お気に入りの「春と修羅」「原体剣舞連」「小岩井農場」がどうもしっくりしない。

むしろ、「春と修羅」の第ニ集後半と第三集のほうがいまの気分にはあっている。
いや、それよりも「詩ノート」や「詩稿補遺」や「疾中」の暗い詩のほうが。

奔放な想像力を自在に発揮した詩才の華やかさよりも、暗く重い現実を凝視する祈りのほうに惹かれています。

いぜんネアカ、ネクラという言葉が流行ったけれど、人間どっちかといえば、ネクラなほうがいいです。
ネアカなんて、はた迷惑なバカでしかない。
おのれの中に、暗部をかかえていない人間が他者に思いやりを持つことなどできないからです。

あの天台思想にも、すごいのがありました。
絶対の超越者である仏にも、「悪」の可能性があるのだというのです。
ただし、仏にあっては「悪」は可能性でとどまり、決して実現することはないのですが。

キリスト教などとはまったく違う「仏の性悪説」は、狭い見方でいうと、仏教の低劣さということになります。
ただ、ほんとうはそういうことではなく、仏教思想の担い手たちがじつに大人(=人間通)だったという証拠なのです。

可能性としてでも「悪の要素」をもたない存在が、自他の「悪」に苦しむ存在(=人間)の苦しみを理解して、救いの手を伸ばそうとするはずがない!
いわれてみれば、病気で苦しんだことがない人は、どうしても病人の気持ちを汲み取ってやることができない。
うそだと思うなら、病院にいってみてはいかが?
いまどきのお医者さんがいい証拠です。

人間には、どうしようもない暗部がある。
そんなことを考えるのを、ネクラという。(笑)

でも、人間に暗部があるのは、ネクラの性格がねじくれているせいじゃない。
一人前の思考能力・反省能力があれば、人間の「ありよう」そのものが暗く重たいとわかる。
これはパスカルの言っていることだけれど、人間の「ありよう」の悲惨さを凝視するのが怖いから、ひとは暇つぶし(娯楽)を求めるわけです。

倫理感覚が鋭すぎるパスカルにいわせれば、所在ない「退屈」こそが人間という「ありよう」の悲惨さを教えるシグナルです。

「これでもう二時間
喉からの血はとまらない」
ではじまる「夜」という詩があります。

これは喀血に苦しみながら、ちかづく死を凝視する賢治の心の震えを描いたもの。

しかし吐血の苦しみこそが、
「こここそ春の道場で、菩薩は億の身をも棄て、諸仏はここに涅槃し住し給ふ」
と賢治は詠う。

「こんやここでもう誰にも見られず、
ひとり死んでもいいのだと」
心を決め、自分に言い聞かせながらも、死に怯える賢治。

読んでいるうちに、奇妙に体が熱くなってきました。
暗いといえばこれほど暗い詩はないだろうに、なぜ心が熱くなるのか。

絶対的な矛盾のなかにあってこそ、生命は輝くという天台思想の結晶が、この詩です。
いや、問題なのは、中国の隋時代に生まれた天台思想ではありますまい。
どうやら、比叡のお山とは無関係に、わたしたちは宮沢賢治を通じて、「生命の思想」を教わっていたらしい。
言葉のちからが、魂を振るわせるパワーとなる。

ネクラであることは、ひょっとして言葉のちからを生命力に代えるための大事な素質なのかもしれない。
暗いと悩むことはないんですよ。
中年になって、そんなことを悩むやつはいないと思うけれど。(笑)

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11月15日

呆れたもんです。
アメリカの大統領選の話です。

予想とおりというか……。
フロリダ州で進められている手作業による開票には、ボランティアが参加している。
民主党では、少しでも疑わしい票はゴアに入れるように、あるいは選挙管理委員会に報告するように指示するマニュアルを作っていた。
こんなことがマスコミにばれても、あいかわらず手作業による見直しを続けるんでしょうかね。

フロリダ州の一郡のわずか300票が、アメリカ大統領選出の決め手になっている。
ほかの州が怒るぞ、きっと。(笑)

ケネディとニクソンの対決のときも、票差は11万。
あのときはニクソンが政治判断で折れた。

今回の結果だと、ゴアは負けた気がしないから、法廷闘争まで持ち込むかもしれない。
これじゃあ、ロシアやユーゴから選挙管理人を送ろうかといわれても仕方がない。

21世紀の大統領は波乱含みのスタートです。
それにしても、日本の首相は退陣を匂わせたり、派閥の子分(小泉純一郎氏)に叱られて続投の決意を記者団に披露したりと情けなさでは米大統領の上をいく。
ほかの国の首脳は陰で笑っているぞ、きっと。

もっとも、弾劾寸前のフィリピンのエストラダ大統領はそれどころじゃない。
マレーシアもインドネシアも大変だ。
アメリカや日本を笑える首脳は、ブルネイにいたAPECにはほとんどいなかったのかも。(笑)

ただし、投票操作なんか得意中の得意のロシア・プーチン大統領だけは別かもしれないけれど。
APEC閉幕をつたえるTV放送をみていると、プーチンだけ余裕の表情を浮かべているように見えました。
不正開票はもっと上手くやんなよ――なんて。
情報機関出身者のゆとり……でしょうか。(笑)

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11月14日(その二)

しばらくハードな読書をしていたので、ちょっと軽めの本に走りました。
でも、中味はちゃんとしている。
なかなか渋い本であります。

「男は切れ味、かくし味」(藤本義一)がそれ。
藤本義一さんのエッセイはちょっといい。
飲み屋にいる素敵なおっさんという感じがなんともいえない。

ものごとを見る目が冴えていて、本質をずばりと突くが嫌味はない。
こういう人が、ほんとの都会人なんだなと納得してしまいます。

それにしても、藤本義一という人は語らせたら、天下一品ですね。
小説ではそれほど実力派という感じがしないのだが、軽めに書いたエッセイの発想には唸らされる。
この人はガキである部分よりも、大人の部分が多いからそういうことになるかもしれない。
創作はたいていの場合、ガキの部分が担当するもんですから。
小説がうまいと、社会人としてはかなりあぶないもんです。

藤本義一独特の発想のひとつに、「十年四季説」というのがある。
十年を四分割して、二年半ごとに四季を割り当てる。
だから、二十代の春夏秋冬は20歳〜22歳半、22歳半〜25歳、25歳〜27歳半、27歳半から30歳ということになる。

秋にあたる25歳〜27歳半が、藤本義一にとっては秋。春に準備して、夏に育ててきたたものを刈り取る時期だった。二十代では、いちばん小説に力を入れた時期だった。
冬の時代は、それを整理する。仕事としては随筆が多い。

他の人にも、こういうことはあるらしい。
27歳転機説というのを、田口ランディ氏が書いていたのを読んだことがある。
きっと同じ気分をそう表現したんだろうなぁ。

27歳が転機というとなんか納得できなかったけれど、藤本説なら自分にも身に覚えがある。
やっぱり、藤本義一さんの勝ち!――でしょうか。(笑)

藤本説にはまだ続きがあります。
20代、30代、40代、50代に名前をつけるのですね。
20代は「花粉の時代」、30代が「鱗の時代」、40代が「苔の時代」、50代が「器の時代」だそうです。

どこへ飛んでゆくかわからない20代。
結婚や子どもや肩書きなんかのしがらみがつく30代。
うまいことをいうなぁと思います。

40代は石や道にぴたりとつく時代。
藤本義一さんは古典に学ぼうとして井原西鶴の研究に励んだそうです。
「古典につく」というのは、王道かもしれないなと同感しました。

さて、50代とは入ってくるものはなんでも引き受けるべき時代。とにかく、こっちへやってくることは器の許す限り、引き受けてみる――ということらしい。

それぞれの10年に、準備(春)・試行錯誤(夏)・収穫(秋)・整理(冬)の二年半がある。
この本を書いたときは、藤本氏は「器の時代の冬」でした!
その後どうなるのか知りたい気もするけれど、ご本人はこの話をすっかり忘れているかもしれない。(笑)

それはいいとして、良い話をもうひとつ。
男のかくし味ということです。

藤本義一の定義する「男のかくし味」とは?
<ノウハウを満載した詳しいマニュアル本からは、何ひとつ学ぶことがないという信念をもつこと>

どうやら、「男のかくし味」とは度量のことらしい。
「度量」とは「度胸」と「器量」がくっついたものだと藤本さんは言うんです。
文明開化が縮まって「文化」になったように。

(ほんとかなと思って広辞苑を調べたら、そのとおりでした。
ただし、それは文化のほうで、度量については藤本さんの『独断と偏見』)

マニュアルに頼る心には、度胸もないし、他者をいれる器もあるはずがない。
器量とは、器の量ですから。

こうやって書いているうちに、なぜ藤本義一さんの書くものが面白いのかわかりました。
この人は、日本の作家にはめずらしく「男とはなんだ?」と少年のようにひたむきに考えつづけている。
もうジジイと呼ばれる年齢になっても、こんなことを考えているなんて――やるもんだなぁ。

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11月14日

日本語のドメイン名でいろいろ騒いでいますけれど、どこか馬鹿馬鹿しいような気がします。
「資生堂.COM」や「国際証券.COM」なんて、やっぱりその会社が使うべきもんでしょう。

「資生堂.COM」で健康食品や化粧品を別の会社が売ったら、詐欺といわれても仕方がない。
勘違いした消費者が悪いという理屈はなりたちますまい。
既存のブランド力を悪用しているわけですから。

それをオークションにかけるのは、間違っているように思います。
一億円で第三者が買っても、商標を持っている相手に売りつけるしかない。
これじゃあ、総会屋よりもっとたちが悪い。
そんなやつは相手にしないという丸三証券の言い分は立派ですね。

ただし、利用者にあきらかに不利益になることは間違いないから、法律改正で規制するか、行政が乗り出してくることになるかもしれない。

こんな調子だと、IT革命が進むのと比例して、法律関係者がもっと必要になるでしょうね。
いま司法改革のために、司法制度改革審議会がいろいろ議論しているけれど、司法試験の年間合格者を現状の3倍にすることは大勢で賛成の方向へ向かっているようです。
法科大学院を新設して、そこの卒業生の70〜80パーセントが合格する資格試験化するとのこと。

現在、日本の弁護士は2万7000人で、国民6300人に対して一人になる。
アメリカは国民300人に一人。イギリスでは700人に一人ということらしい。

アメリカなみになると、競争が激しくなって弁護士で食っていけない人間も出てくるはず。
交通事故が起きたとたんに、どこからともなく数人の弁護士が現れて当事者双方に名刺を配る世界が出現する。

そうなると、行政書士や司法書士なんかの業務はあっというまに売れない弁護士さんたちに食われてしまう……。
「カバチたれ」の世界は、もうすぐ昔話になってしまうかも。(笑)

イギリスでは法廷に出ない法律専門家・事務弁護士(ソリシター)というのがあるから、「街の法律屋さん」の行政・司法書士はそんなふうに変わってゆくでしょうね。
でも、いまみたいに大手企業で脱サラを考えている人が、行政・司法書士の資格習得に殺到しているとますますこっちも大変かもしれません。

法科大学院が設立されて司法試験改革がおこなわれたら、いっそ弁護士になってやれと思う人が激増するのは間違いない。

法律なんて面倒くさいけれど、世界観・人生観が違う人間同士が集団で平和に生きていくためにはどうしても必要になる。
法曹人口を増やす必要に迫られるのも、日本人の社会が法律によらない話し合いでは運営できなくなっている証拠です。

そんなことを考えると、各種専門家が審理にくわわる参審制や、一般国民が裁決に加わる陪審制を導入しないことには社会変化のスピードに法が追いつけない。

参審制や陪審制に全面反対しているのは、民間人の審議委員のなかではお年をめした女流作家だけ。
法律専門家以外の人間に裁かれるなんて、真っ平だそうです。
もちろん裁判官経験者は、どっちも大反対ですけれど。

権威主義や専門家信仰は、どうやら硬直化した頭脳の証拠のようです。
自分に痛みをともなう改革は嫌で、他人が苦労することなら「苦労は身になる」という根性も、そうした人間の特徴。
「正体みたり!」という気がしないでもありません。

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11月13日(そのニ)

「絶対の思想<天台>」(田村芳郎・梅原猛)を読み終わりました。
いちばんてこずった第一部「天台法華の哲理」ですが、読み終わると、急に目の前が開けたような気がします。

この一、二年ほど平安時代から日本の古典を読んできました。
平安時代・鎌倉時代の古典には、仏典からの引用がやたらとある。
引用だけでなく、仏典の言葉も洪水なみに氾濫している。
とくに「平家物語」を頂点とする軍記物は。

そういう単語は注釈に頼らざるをえないのですが、その出所がどうやら天台宗だと見当がつきました。

田村芳郎氏が執筆した「天台法華の哲理」で詳しく解説されたいる単語は、平安鎌倉の古典でおなじみのものばかり。
なるほど、あれはそういう意味だったのかと改めて知りました。

もうひとつわかったことがあります。
天台宗は理論としてはとてもよく出来ていて、貴族出身で汗をかいて現実と格闘したことがないお坊さんならこれでいいと満足しきったはず。
貴族仏教だった天台宗が停滞するのは当然です。

なにせ、宇宙論・認識論から実践論まで一本筋が通って完成されている。

「毒矢に射された人間が、毒の種類や矢を射った犯人を分析している暇はない。
何よりも先に毒矢を抜いて、毒をとりのぞかねばならない。
それが仏教だ!」
と釈迦は言っているのですが、天台宗は毒の種類や犯人探し、ついでに外科手術のやりかたと解毒の処置まで処方箋を書いている。
マニュアルとしては完璧です。(笑)

ところが、ただひとつ穴がある。
穴というよりは、むしろわざと「空き(あそび)」を作っておいたと考えたほうがいい。

それは真摯な探求者には実践を迫るというところ。
マニュアルとして完璧だけれど「さあ、お前さんも自分の頭を使って何かしなさい」と呼びかけている。
ここが建物のフリー・スペースとなって、個々人の努力と発意を発揮する場所となる。

なぜ、そうなるのか?
前日の日記でかいたような「正しく強く生きる」という願いが、創始者天台智(ちぎ)によって思想の中に込められているせいです。

その解答を出したのが、鎌倉仏教の祖師、法然・親鸞・道元・日蓮・一遍ということになる。
そして、近代においてそれを考えたのが、宮沢賢治のような人だった。

天台宗を日本へ持ってきたのは伝教大師最澄ですが、唐時代には天台宗は時代遅れの宗教になっていました。
もちろん当時、最高に流行っていたのは密教です。

空海はその密教を持ち込んだ人ということになっていたけれど、今では密教を大成して壮大な思想的体系を作ったのが、空海本人だとわかっている。
真言宗ほど体系的な密教はついに中国では生まれなかったのです。

ただし、思想面ではあまりにも出来すぎていて、発展の余地はない。
弟子たちは呪術の能力を磨くしかなくなった。
真言宗が停滞するのも無理はない。

最澄という人は、天台宗の発展的要素に目をつけた。
これなら、人材を育てられると信じた。

最澄という人は自分が偉くなることより、真理を求める人をひとりでも育てたかったようです。
そういう人には、即身成仏する密教よりも、他人と一緒に道を求める天台宗のほうが肌にあった。
――そういう最澄の思いが、骨身にしみてよくわかりました。
大袈裟にきこえるかもしれないけれど。

「我が為に仏を作ること勿(なか)れ、我が為に経を写すこと勿(なか)れ、
我が志を述(の)べよ」


これが最澄の遺言です。
この遺言を引用したくだりを読むと、目が水っぽくなってきました。

いまでは鎌倉仏教も線香臭いだけの葬式仏教に成り果てています。
でも、少なくとも祖師たちが登場する背景には、熱い魂の血脈があったんだと胸がいっぱいになりました。

漢(おとこ)だねぇー、みんな。
どうも感動しすぎて、ぶっ飛んでしまいましたん。(^^)

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11月13日

日立製作所と韓国の三星が電話での自動通訳システムを開発したそうです。

日本から電話すると、自動的に韓国語に通訳されて韓国側につながる。
まだ旅行会話程度の語彙しかないそうですが、将来的にもっと増やす計画だとか。
自動通訳システムがいよいよ実用化の段階に入った!
テクノロジーの発達はすごいなぁと驚きました。

そういえば、腕時計ひとつで無線電話ができて、ついでに自動通訳も、エア・カー(空を飛ぶ自動車)の操縦もできるできるなんてSFアニメがありましたね。
そう、SF作家豊田有恒氏が原作を担当した「スーバー・ジェッター」です!

「スーパー・ジェッター」のシナリオは、当時の若手SF作家たちが総登場していたと記憶しています。
ただねぇ、無線電話を使うのがIQ300の天才未来少年じゃなくて、記憶力減退気味のお疲れ少年少女だったとは、いくらSF作家でも予想できなかったでしょう。(笑)

ところで、アメリカのCOMDEXでも「PCの時代が終わって、これからは携帯端末だ!」という雰囲気だそうです。
ビル・ゲーツも「タブレットPC」とかいうA4型ノート版で、ペン入力の携帯PCを講演で披露したそうです。
カラー・ザウルスのお化けじゃないですか、これって。(笑)

ザウルスなら、このあいだ飲みに行ったK君も持っていたな。
メカ嫌いなK君でさえ持っているくらいだから、ザウルスはもう社会人の必需品かもしれない。(笑)

大学で社会学を専攻しながらついでに情報処理教育を受講していたI君は、もうパームのヘビー・ユーザーです。
時代は携帯端末ですねぇ。
ただし、わたしはどっちも持っていませんが。

外回りが少ないので、使う機会がないんです。
やっぱり入力作業やデータ作りの仕事はPCじゃないと出来ません。

携帯で親指入力なんて、はたから見ていると、異様なぐらいの根詰め仕事にしかみえない。
あれだと、大量のデータ操作は無理でしょうね。

ただ、この国のことだから、親指入力でもキーボード入力より速い名人・達人が登場する可能性はある。(笑)
しかし、そんな人は「TVチャンピオン」で優勝するぐらいしか応用がきかないんじゃないでしょうか。

たしか「TVチャンピオン」で寿司部門で名人芸を披露していた寿司職人さんがホームレスになっているというニュース番組を見たことがあります。
寿司なんて伝統の技でも通用しないなら、親指入力みたいな技に明日があるかどうか。

(それにしても、あの寿司職人さん、どうなっただろう。
とんでもなく精巧な細工料理を作る名人なんですが……
商売が下手だって、働き口はないもんですかね。
あんな人がホームレスになるなんて、この国はどっかおかしいなぁ。)

ふたりの友だちはかたや専門職(弁護士)でかたや経営者。
外回りの仕事が多いんですよね。
Macいじりが好きなI君も、経営者として飛び回っているから、のんびりキーボードの前に座っていられないそうです。

どうやら、ITもコンテンツに関しては制作する人・消費する人の二極分化が進んでいるようです。

ところで、例の通訳サービスですが、日本語でもやってくれないかな。
昨日、近所の<TSUTAYA>で本を買ったのですが、若い男性店員が意味不明のことをいう。
「うちのビデオ・レンタル・カードを持っていますか」と聞くので、
「持っている」と答えると、
「今日持っていますか」と聞く。どういうつもりだろうと首をかしげると、最初の質問を繰り返す。
ごていねいに「今日持っていますか」という問答まで再現したのです。

ちょっと無気味になって、呆然と相手の顔をみていると、隣にいた若い女性店員が助け舟を出してくれた。

レンタル・カードがあると、本を買った分をポイント化してデータに貯めることができるというのです。
もしカードがなくても、顧客名を検索してポイントを端末から入力することもできる。

やっと意味がわかりました。
<TSUTAYA>ではそういうサービスが始まっていたのを、わたしが知らなかっただけらしい。
男の子はマニュアルとおりの言葉を繰り返すだけで、事態を説明できなかったのですな。
その点、女の子のほうが言語能力が優れているから、コミュニケーションがとれた。

帰り際にひょいとカウンターを見ると、説明文が貼り付けてあった。
なるほど、経営者もいまどきの店員の能力はわかっているんだなとおかしくなりました。

「お客さん、店員に話しさせないでよ。こっち見ればわかるからさぁ」
なんて、三十くらいの店長に悲鳴が聞こえそう。

いまどきの子には、日本語の自動通訳マシンが絶対必要ですね。
お互いのために――そう、思いませんか?

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11月12日(その二)

昨日に続きで「絶対の思想<天台>」(田村芳郎・梅原猛)を読んでいます。
田村芳郎氏が執筆した第一部「天台法華の哲理」は内容が濃いので、一気に読破するというわけにはいきません。

天台宗というものが宇宙論・存在論に立脚したうえで、実践的倫理の達成をめざしているから、どうしても話が複雑にならざるをえない。
以前読んだ同じシリーズの華厳宗のほうが、理屈の流れはすっきりしている。

ただ天台思想を説明する足がかりとして、田村氏が比較対象として持ち出す華厳思想は、どうにも理論倒れのように見えなくもない。
すくなくとも、天台思想ほどには実生活では応用がきくようにはおもえない。

なぜなら華厳思想は認識論として優れているけれど、それを実生活にどう応用したらいいのかよくわからないのです。

華厳思想をバックボーンにした禅宗のように、瞑想体験の深浅によって相手が正しいかどうかを判別しなければならない。
禅僧の覚りと同じで、その世界にいる人間でなければその価値を評価できないことになります。

一見すると、とても深い宗教的境地にみえるけれど、禅僧が横着な威張り屋なのか聖人なのかは、第三者にはわからない。
印可状という師僧の免状がただ一つの裏付けということにもなります。

こういうのは、情実がからんで、えてして贋物が多くなる。
明治時代に、全国を行脚して寺院の禅僧と法戦を挑み、実力のない僧から印可状を取りあげて住職の地位を追っ払うということを計画したお坊さんがいたそうです。
この坊さんは悟りも深く、教団内の地位もかなり高い人だったけれど、恐慌状態に陥った僧侶たちの運動で、荒っぽい改革運動は中止されました。

それぐらい、プロの宗教家の覚りというのはあやふやなものらしい。(笑)

天台宗も鎌倉仏教の祖たちが出てから発展しているようにはみえません。
ただし僧侶ではない一般人が法華経を読むようになった近代に、かえって面白い人物が出ている。

宮沢賢治もそのひとりです。

賢治は『農民芸術概論綱要』のなかでこんなことを書いているそうです。
(孫引用なので、まちがっていたら、ごめんなさい)。

「正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」

現代人なら、なんとなく意味がわかっちゃう言葉ですね。

「風とゆききし雲からエネルギーをとれ」
「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨(おお)きな力と熱である」

これも賢治の言葉ですが、とっても元気が出るでしょう。
ついでにもうひとつ孫引用します。
「強く正しく生活せよ、苦難を避けず直進せよ」」

田村芳郎氏が賢治の言葉をとりあげているのは、天台思想をこれほど直感的に表現した人が少ないからでしょう。

「大きな勇気を出して、すべてのいきもののほんとうの幸福を探さなければならない」
「われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう」


どうやら天台思想には、こういう願いがもともと秘められていた。
――なぜ天台宗が、日本人の霊性に訴えかける鎌倉仏教の母体となったのか、その理由がわかったような気がします。

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11月12日

アメリカの大統領選はいよいよ泥沼化しているみたいですね。
フロリダの手作業での集計は、全部じゃなくて一つの郡の投票総数の1パーセントなんだとか。

フロリダ州パームビーチ郡というその地区で、サンプル集計される投票数は4500票。
集計の結果、ゴアが33票、ブッシュが14票増やした。差し引きゴアが19票増やしたことになる。

この調子でいくと、フロリダ州全部を手作業でやることになるんでしょうか?
ただ手作業がどこまで信用できるかというと、疑問のような気もする。
ゴアを支持したい内部の人間が手心を加えるかもしれない。上の票差でいけば数人の不心得者がじゅうぶん出来そうですから。
ブッシュ陣営が機械での集計を求める気持ちもわからないではない。(−−;

<Yahoo!USA>によると、ゴア陣営は42万5000票を全部手作業で数えなおせと要求しています。

とにかく、すごいことになりました。
この分だと、どちらが大統領になるにせよ、強い指導力は発揮できないでしょうね。

いっぽうで、日本の加藤元幹事長は派閥のボス・宮沢蔵相の言うことを聞かずに、内閣不信任案にのる構えをみせている。
どうやら山崎派も同調する様子です。
こちらも大変なことになっています。

米ソの冷戦構造がソ連の崩壊というかたちで終わりをつげ、アメリカの一極支配で世界秩序が再構成されようとしていた――というのが、最近の構図だったけれど、それもあやしくなってきた。
だからこそ、加藤元幹事長も賭けに出たのかもしれない。

アメリカの権力の空白が、日本の政界に影響をあたえたといってもいいのかもしれない。
アメリカの忠実な同盟国、日本ですらこんなことが起きている。

世界のほかの地域では、何が起きていても不思議じゃない。
政治というのは、つくづく不思議な生き物だと思いますね。

その火の粉は、もうすぐこっちへも飛んでくるだろうけれど。
何が起こるかわからないだけに、腹をくくっておかないと。(汗)

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11月11日(その二)

「絶対の思想<天台>」(田村芳郎・梅原猛)を読んでいます。
角川文庫から出ている「仏教の思想」シリーズの5巻目です。

日本人が漠然と考えている神や仏という超越者のイメージが、どうやら天台宗に淵源があるらしいということがなんとなく見えてきました。
日本人が神やホトケを語る場合、思いついたり口にする言葉はたいてい比叡山延暦寺を水源とする宗派から出ている。
浄土宗も浄土真宗も、禅宗もそう。

いま日本で禅宗といっても、ほぼ8割9割は江戸時代の白隠の影響を受けています。
白隠という人は禅僧だけれど、浄土教や神道までめくばりしている日本宗教思想の総合者という面もある。
だから、いまどきの禅宗でも、こういう形で天台宗の影響を受けないわけにはいかないらしい。

それだけではありません。
中世・近世の日本思想には、宗教だけでなく、芸術まで天台思想がすっかり浸透している。能狂言・和歌から、茶道・生け花にいたるまで全部そう。
わたしが云っているのじゃなくて、田村・梅原の両先生がそういっている。

日本的に大発展したそのような天台思想が「天台本覚思想」です。
これを延々と語るつもりは、ありません。

なぜなら、ちょっと前まで宗教的なことを書いた小説・映画・マンガ・ドラマで、きいたふうなことをいう坊主(または宗教的なキャラクター)の科白を思い出していただければ、それが書いてある。

親鸞の「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人おや」という悪人正機説。
これを拠り所にして「無頼放蕩に生きなければ人生の真実なんかわかりっこねぇぞ」という文学者・芸術家が昔はよくいた。
これが天台本覚思想ですね。
悪も美。醜悪も美。善悪を超越して、すべて善し。

……なんか、安っぽいドラマの禅坊主がいいそうな科白ではあります。
とにかく現実をすべて肯定してしまうのです。悪いことも、悲惨なことも讃美する。
なんだってありの「大変な立派な覚り」が、これ。

思想としては立派なのですが、こいつが現実とぶつかると、「目的は手段を正当化する」マキャベリストもいいし、快楽殺人者だっていいことになる。
天台本覚思想を実践すると、ちょっとした社会的善にはこだわらない人間になる。

この「ちょっとした」ということの匙加減によっては、米兵の生体解剖事件(遠藤周作!)からオウムまでいっちゃうところが怖い!
もしかすると、日本人のいい加減さの根っこには、この大思想があるのかも。(笑)

戦国時代に、キリシタンが入ってきたとき爆発的に信者が増えたのは、「天台本覚思想」に汚染された日本仏教各派の倫理的頽廃に民衆が嫌気をさしていたからでもあります。

戦国時代末期に、じつは仏教は死にかけていたんですね。
その後キリシタンは禁教となったけれど、檀家制度のおかげで日本仏教は明治まで頽廃の一途をたどったのです。

「天台本覚思想」はあらゆる現実を肯定する哲学思想としては、世界に類をみない高度なものでありながら、実践面においては悪を行っても倫理的に恥じることのない人間を作り出すことに貢献してしまったのです。

だから、この国で少しでも倫理的なものを宗教に求めるひとは、もう既成仏教には戻れない。
せいぜいお葬式と法事くらいですね、お寺と縁があるのは。

悩むと、できるだけまともな新興宗教(神道系)か外来宗教(キリスト教系)へ走らざるをえない。

日本中世のバックボーンだった「天台宗」の思想を知りたくて、この本を読んだのですが、意外なことがみえてきたような気がします。
じつは鎌倉仏教が登場したのは、当時から日本人に浸透していた「天台本覚思想」の温くてべたべたする泥濘を払いのけるためであった――ということもわかりました。

この泥濘を振り払おうという努力が、日本人の宗教性の発露をうながしたのです。
そのような立場で努力しつづけた輝かしい存在が、大正・昭和を生きたあの人らしい。

続きはまた明日。

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11月11日

昨日は読書日記をアップしそびれてしまいました。(笑)
それにしても、いろいろなことがあるなぁと思います。

加藤絋一元幹事長が森首相退陣に決起して、山崎拓元政調会長がそれに同調するなんて、話があったかと思うと、また新展開があった。
森首相をバックアップしようと呼びかけていたはずの、森派代表の小泉純一郎元厚相が青木参院幹事長と組んで、森首相と野中幹事長を対陣させる作戦を練っていたなんて、スクープまで出てきた。
よっぽど、危機意識があるんですね。自民党も。

とにかく森首相をみんなが見捨てていることは確からしい。

アメリカではフロリダ州の郡の集計結果をゴア陣営が手作業でやり直すことを要求したのをうけて、ブッシュ陣営が機械集計を要求。選管はどちらの要求も受けて、せっせと作業中だそうです。
ご苦労さんとしか思えないけれど、アメリカの主要紙もゴアのごねぶり(笑)に批判をはじめています。

ブッシュ陣営が他の地域での手作業による集計やり直しをとめるように提訴したけれど、それにあんまり反対はないみたいです。
そろそろ、こんなことをしていたら、アメリカの好景気が吹っ飛んでしまうと心配になってきたせいだそうです。

本日はついTVの政治討論番組なんかみてしまいました。
やっぱり、年齢相応の行動なんだな、これが。(笑)

しかし、一週間のワイドショーや週刊誌の見出しをざっとみるコーナーというのは、面白いもんですね。
時間がどんどんすぎるから困る。

ところで、いまどきの十代後半から二十代の脳がすごいことになっているそうです。
記憶能力が激減しているらしい。

電話番号、漢字、人名が覚えられないんだそうです。
「若者のど忘れ」と週刊誌の見出しにはあるけれど、どうもそうではなく、記憶を定着させる訓練が「教育」と「生活環境」の場所から失われたことが原因らしい。

漢字はワープロ、電話番号は携帯、車の運転はカーナビ。
同世代のお友達の他には人間に興味がないから、人名なんか覚えられるはずがなり。
――なんだそうです。

久しぶりに中曽根元首相をTVで見ましたが、あいかわらずの自信家ぶりで「いま50代から60代は人材の端境期だ」と言い切っていました。
すっかり老人くさくなって、見ただけだと誰かわからなかったけれど、自信だけはあいかわらだなと感心しました。

いまどきの五十代、六十代は戦後の混乱でろくに教育を受けられないうえに、大学紛争で基礎学問ができなかった。
そういう世代だから、目先の勝負に熱中して中長期の展望をもてないのもやむをえないと中曽根元首相が言っていました。
エリートのこの人がいうと、普通なら反感がわくけれど、森首相の顔を思い出したらミョーに納得してしまった。(笑)

ただ、この分だともっとすごい端境期が待っているような気もします。
記憶力減退のうえに、「読み・書き・算数」が苦手の十代二十代ですからね。

といっても、かれらが五十代・六十代になるころには社会の二極分化が進んでいるから、政治家になろうなんて元気者は今よりレベルは上ですね、きっと。
そんなに悲観することもないかも。

国がおかしくなったら、かならずそれなりの人が出てくると中曽根さんも云っていました。
あまり好きな人じゃないけれど、今日ばかりは中曽根さんの言葉に力づけられました。

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11月10日

甘かった!
といっても、新種の甘味料のはなしじゃない!(笑)

昨日の「不読者」の件ですが、読売新聞に記事が載っていたので読んでみたら、いまでは高校生の7割近くが本を一冊も読まない「不読者」なんだそうです。

そして、大学生が本に書ける出費が一ヶ月で1580円。
ただ、これにはコミックと雑誌は含まれていない。
学生として必要な知的栄養が1580円かぁ。
ちょっと高い定食一回分にもならない。大食いの学生なら回転寿司一回分も無理。

図書館があるじゃないかというご意見もあるだろうけれど、知的情報処理を学ぶ学生には図書館だけじゃはっきりいって駄目ですね。
思考力の核になるほどのパワーがある本は、手元に無ければ駄目ですよ。
若ければ、なおさらそうだ。

この金額だと、厚めの文庫二冊もあやうい。古本屋という手もありますが、それにしたって時間のある学生時代しか読めないほど中味が濃いのはねぇ。

立花隆さんがいっているみたいに、本は心の栄養なんだから借り物だと腹の足しにならない。心も大きく成長しない。だいいち、心の糧となる本はどうしたって手元においておきたいのが人情です。
ときには涙をのんで古本屋に引き取ってもらうこともあるけれど。

いくら大学生に金がないといっても、本代にそれほどお金がかけられないなんて信じられない。だいいち、大学図書館だってアメリカほど充実したシステムがあるところがこの国にあるはずがない。あそこは教科書さえ借りてすませるくらい冊数の面でもきちんとしている。

文化貧国のこの国は、読者の自発的努力がなければどうにもならない。

やっぱり「読み・書き・算数」ができる情報エリート(?)と、それさえ不十分な階層にくっきり分かれているとみるべきなんでしょうね。
しかも情報エリートは学習意欲が高いから、英語の読み書きもマスターしている。
上と下がはっきり分かれていて、中間がいない。

階層社会のアメリカと同じになってしまった。
あの国をめざした<ゆとり教育>の成果がみごとに達成されたわけですね。
初等教育さえマスターしていないうえに、自己主張だけ激しい。そのうえカルトにはまりやすくて、暴力的かつ衝動的。個性という名のもとに、流行に弱い。
まるでアメリカ人じゃないですか!

この調子だと、混迷するアメリカ大統領選挙を笑っている余裕はありませんね。
日本はもっとすごいことになっているかもしれない。

ちょっと悲観的なことを書いてしまいましたが、それも昨日の新聞広告で「バトル・ロワイヤル」や「漂流街」の映画宣伝を見て気分が悪くなったからです。
ハリウッドだって、あんな映画は作らないでしょう。

映画を見ないで批判するのはいけないという建前は、もちろんわかっています。
しかし、原作をとばし読みして、どっちもあかんなぁと思いました。
もちろん買う気にもならない。

人を批判してはいけないという建前は立派だけれど、くだらないと思ったら率直に言ってしまう自由だってある。
見ない自由だって、あるはずだ――と思いませんか。

暴力のせつなさに感動できるなら、カルトにだっていっちゃうことは簡単。
暴力なんて、フランスのフィルム・ノアールや東映ヤクザ映画の昔にさかのぼるまでもなく、せつないもんです。
それに感情移入するのは、しかしダメであります。
そこんところがわからないと、男は大人の男になれない。

でもね、同じ映画広告の「エル・カンターレ」が、やけに輝いてみえた。(笑)
絶望の大渦巻きのなかに、ぼつんとちっぽけな感傷を埋め込むのと、大嘘の嵐が吹き荒れるのとどっちがいいか?

どっちもいかんと思いますね、悪いけれど。
日本映画はとにかく見に行く気がしませんは。
NHKの朝の連ドラ「オードリー」は楽しく見ていますけれど。

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11月 9日(その二)

旺文社が今年限りで模試を止めるそうです。
大学受験を目指していた頃には、結果に憂鬱になっていたのが懐かしい。

少子化と学歴社会崩壊の余波で、こういうものまで無くなるのか!
これからの社会は、わたしなんかが四十年生きてきたのとは全然違う社会になるんでしょうね。
少なくとも今のままの大学では、若者にとってなんのメリットもない。
古いタイプの大学は誰からも次第に見離されつつある。
そういうことなのかなぁと思うしかない。

いっぽうで、マンガですら難しくて読めない「不読者」が若年層の53パーセントに達したとか。
10代から20代の若者のうち、過半数がこの一年間に本を読んだことが無いというのです。
「不読者」とは、こうした若者(または児童)を指す言葉です。

高度情報社会を迎える21世紀に、この数字は凄い。
アメリカでさえ、本を読めることが社会で成り上がる最低条件です。
アメリカの大学は、それまでろくに本を読んでこなかった人間に大量の読書を課すことで、言語的情報処理能力を身につけさせる場所です。
それがアメリカ社会の上層部を構成するメンバーの最低限の必要条件なのです。

日本の大学生では本を読めない「不読者」が過半数。
かれら若者にどんな未来が待っているのか?
考えてみれば恐ろしい話です……(絶句)

東京工業大学で教えている日本史の山室恭子教授が読売新聞で日記を公開していました。
それによると、山室教授は授業の一環として時代小説や時代劇マンガをとりあげている。

生徒たちに時代小説やマンガを教授が持参して読ませているらしいけれど、こういうことを出来るのも東工大に入る頭脳の持ち主だからかもしれません。
東工大といえば、日本国内の優秀な高校生を集めている大学のひとつのはず。

宮本武蔵を主人公にした劇画「バガボンド」を愛読して、受験をのりきったと告白する受講生もいたそうです。

もしかして、今ではマンガでさえ相当頭の良い子でなければ読解できない?
そういやあ、あれが載っている「週刊モーニング」は青年誌だよなぁ
少年誌じゃあ、昔のスポコン並に人生を語り出したら、もうアウトなのかも。

どうなってるんでしょうね、いったい。
携帯の電話料金を払うために、本なんかに金を回す余裕もないという若者もいます。でも、そういうお調子ものは昔だって大勢いた。
問題はそんな皮相なことではなくて、初等教育の完全崩壊という厳しい現実なんですね。

国民の過半数が「読み・書き・算数」を苦手とする国って、そうとうなおバカです。

このままでいったら、必ずそうなってしまう。

自分に何かできることはないのか!
わたしでさえ、そんな気になってしまいました!(泣)

書いているうちに長くなったので、読書日記はまた明日。

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11月 9日

大統領選はまだ決まらない。
アメリカ始まって以来の異常事態だそうです。そりゃあ、そうだ。

どうやらアメリカ大統領選の仕組みの矛盾が露呈したようです。
ニュースで見ると、フロリダ州の集計は来週14日まで。
おそらく海外からの不在者投票もカウントしなければならなくなるから、その締め切りの11月17日までは決まらない。

出馬した候補がアメリカ国民の衆望をになう政治家ではなかったことが証明されたようなものだから、ブッシュとゴアのどちらが大統領になるにせよ、大統領としての威信はひどく傷ついている。

どちらに決まったにしても、大変なことになりました。

昨日はひさしぶりに飲みに出かけました。
こんなにアップが遅れたのも、アルコールが残っているせいかもしれない。(笑)
雑談モードはこんなところで。
また読書日記でお会いしましょう!(^^)

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