お気楽読書日記:11月

作成 工藤龍大

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11月

11月 8日(その二)

大統領選の結果はフロリダ州の結果がまだ出ないら、わかりませんね。
きっと伯仲しているんでしょうね。

それにしてもゴア陣営は、投票用紙にさえケチをつけている。
TVで見たけれど、たしかに間違う可能性はあるかもしれない。
でもねー、こんなので間違えるなんて、字が読めないのかな?
それとも、注意力散漫なのでしょうか?

「結果が出た後で文句をいうのはフェアじゃない」
というフロリダ州知事のブッシュ弟(!)のコメントが泣かせます。

さて、読書日記です。
ついに「心臓を貫かれて」を読み終わりました。

兄ゲイリーが刑死されたあと、有名人となってしまった家族を待っていたのは、予想されるとおり世間の冷たい風でした。
母が死に、長兄フランクは行方不明。
そして著者マイケルはドラッグと反抗とセックスに明け暮れるアメリカのカウンター・カルチャーにどっぷり染まる。
母から教えられたモルモン教(末日聖徒教会)の信仰に救いを見出せなかったかわりに、カウンター・カルチャーに魂の救いを見出した――と、マイケルは信じたのです。

だが、おおくのアメリカ人が後で気づいたように、それは妄想でしかなかった。
解放と信じたものの悲惨な現実に、マイケルは代償を払い続けることになる。

「人生の悲惨はそれがいつまでも続くことだ」という苦い知恵を学ばざるをえなかった。

自分自身にさえゲイリーと同じ自己破壊願望が根深く巣食っていることに気づいたとき、マイケルは家族の物語を清算する必要にかられたのです。

この本はマイケルの自己探求の旅というよりは、宿命に押しつぶされた死者たちの代弁書だったとわかりました。
この死者たちの思いを振り返るとき、アメリカという暴力にみちた社会の現実がかれらの人生に押してきた刻印を見ないわけにはいかない。

種子として蒔かれたものが、ある土壌でどうやって根を張り、芽を出し、花を咲かせるのか。たとえ、それが邪悪な意志であったとしても、その成長を記録することに意味がある。

どういう意味かはよく説明できませんが、自己破壊を目的にした人生にさえ貴重な「意味」があるというような文脈で言い表すしかない「意味」です。
いまのわたしには、どうもうまく云えません。

「存在そのもの」の尊厳というか、天台思想の十界互具説、華厳仏教の三界唯心説などという概念が浮かぶのですが、それらを整理してみれば自分が何を言いたいのか人に説明できるかもしれません。

ただ「死者の代弁者」という言葉を説明することで、その代わりが漠然とではありますが、できそうな気がします。

この言葉を知ったのは、SF作家O・S・カードの「死者の代弁者」という作品です。
この作家もモルモン教の熱心な信者で、若い頃ブラジルで宣教師をしたことがあります。

「死者の代弁者」では、家庭内暴力で家族を虐待した父親が死ぬ。その父の生涯の意味を血縁者ではない主人公エンダーが解き明かす。この行為をする人を「死者の代弁者」というのです。

荒れた生活で周囲の人間を傷つけた人の魂の内奥に触れることで、生き残ったものが死者と和解してその罪を許すというひどく倫理的な儀式です。
モルモン教と関係があるのかどうかは、まだ調べがついていないので、わかりません。

ただ、生きているときには見えなかった故人の魂の遣り切れなさを理解して、わかちあう行為ともいえるでしょう。
人間はこういう行為をしないかぎり、過去を清算できないように出来ている生き物らしい。

フロイト全集を読んだとき、心に残ったのは奇矯な性決定説ではなく、このことでした。

人生が続くものであるかぎり、人はそうやって故人(または他者)を許して生きていかなければならない。
兄フランクと著者マイケルが協力して本を作り上げることで、やったのはまさにこういうことだった。
兄は回想を提供し、弟は著述するというかたちで。

月並みかもしれないけれど、この本でいちばん学んだことは、「人は生きつづけるかぎり人を許しつづけなければならない」ということですね。

ただマイケルはまだ気がついていないようです。
許すべき人のなかには他人ばかりでなく、自分自身も含まれるということを。

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11月 8日

昨日(8日)は疲れました!
いったい、どうなってるんだという感想しかありませんね。

ブッシュ勝利で片がついたと思ったら、フロリダ州の選挙管理委員会が集計をやり直す。
えーっと驚きました。
日本国民でさえ、これだからアメリカ人民はもっとびっくりでしょうね。(笑)

しかしフロリダ州の決定が、フロリダ州の法律に基づくときいて「なるほどな」と思いました。
アメリカは「合州国」だったんだと改めて納得しました。

ジャーナリスト本多勝一さんが<United States of America>をアメリカ合衆国と訳すのは立派な誤訳だと言っていました。
国家(state)が集まっているから<United States>。
衆といえば個人がたくさん集まっているだけですから。

「アメリカ合州国」と訳すべきではないかと本多勝一さんは言っています。

ところで「州」という言葉は、日本の徳川時代以前では「国」に相当します。
この場合の「国」は中央集権的な近代国家ではなく、古代的な匂いを残しつつ、中央政権に従属した「地方」独立国家の名残です。それが律令国家ができてから行政区分となり、ずっと続いた。
埼玉県、東京都あたりを武蔵国というように。

この「国」を「州」といいかえることもある。
例えば武蔵国は武州、相模国は相州。
日本というものは、こういう国(=州)が六十以上も集まっていたから、「六十余州」ともいった。

「県」よりはもっと広範な政治権力をもっていた半独立的な地方政権が「国」=「州」です。

だとすれば<states>を「州」と訳したのは名訳といっていい。

<states>にも独自の憲法もあり、軍隊まである。
アフリカやヨーロッパの小国よりも大きな<states>もある。
だから、アメリカは統一国家連合体というわけです。

そういう事情を考えてみると、国取りゲームみたいな大統領選挙の仕組みもよくわかる。

一日ネットやTVで大統領選挙につきあったおかげで、いろいろ考えさせられました。
アメリカ国民の方々はへとへとでしょうね。
しかも選挙結果はことによると、10日ですまずに不在者投票3000票まで開票して調べることになるらしい。
両候補とも胃に穴があきそうなプレッシャーを感じているはず。

それにしても、こんなに伯仲したのは結局どっちの候補にも魅力がなかったせいなんでしょうね。

ところで、日本のTVでは埒のあかない米大統領選に飽きて、日本赤軍の重信房子逮捕に焦点を変えていましたね。
しかし……なんですか、あの重信というオバサンは。

あの笑顔と、親指立てサインをみているうちに、こっちのほうが恥ずかしくなる。
55歳ですと!あんな指立てサインをして。

ああいう人を支持する元学生運動家(?)たちも、頭軽そうだなーとつくづく嫌になりました。
顔だけ老けて、甘ったれた根性は学生時代からちっとも変わっていないじゃないか。

団塊はだいっ嫌いだ!
――へたな洒落になっちゃった。すいません。(泣)

でも、沈黙の世代(昭和三十年代生まれ)の、これが本音なんですよね。
団塊の被害を受けていない後続世代には、わかりづらい愛憎なんでしょうけど。

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11月 7日(その三)

決まりませんね、大統領選。
こんなにもつれるとは、だれも思わなかったのに。

いまはブッシュ候補のほうがやや優勢。でもフロリダ州が落ちると逆転か。
きびしい。

ゴアの本拠テネシー州でも、ブッシュの本拠テキサス州でも雨が振るなか、支持者たちが選挙のゆくえを広場に集まって見守っている。もう午前1時を回っているそうです。

すごい熱気だなぁと素直に感動します。

ところで、読書日記です。
「心臓を貫かれて」(マイケル・ギルモア)を読んでいます。

原題の<Shot in the Heart>という言葉の意味がやっとわかりました。
著者ギルモアの兄で、ユタ州で処刑された兄ゲイリーは、銃殺刑を要求して心臓を撃ち抜かれたのです。
処刑に立会いを許された只一人のジャーナリストがTVのインタビューでそう語る。
著者ギルモアはニュース番組をみて、兄の死の有様を知る。
五人の射手が兄の心臓を狙い撃ち、その血が胸を流れ、脚を伝い、白いスポンを染めたことを。

仮釈放中だった兄は縁もゆかりもない二人の男を殺して、わずかな金を奪った。
そして、刑務所に面会に来た弟マイケルに、次はお前を殺すつもりだったと微笑みながら告白する。

自分にとってかけがえのないものを破壊して、社会に反逆することにしか、生きるすべを見出せなくなった人間。
死ぬこと以外のすべてを恐れて、死だけが解放だと信じ込んでいる人間。
マイケル・ギルモアは、兄がまさにそういう人間だったことを悟ったのです。

この本は、なぜそのような人間が生まれるにいたったかを、マイケルが解き明かそうという痛ましい探求の記録です。

いぜん書評で読んだことのある「トラウマの連鎖」とか「幼児虐待」というすっきりした言葉で、この本を割り切るのはたぶん詐欺に近い。

この本に描かれているのは、「魂が死ぬ」という現実です。
著者の兄ゲイリーはすぐれた知性と感性を総動員して、自分とその周囲の世界を荒廃させることに一生を捧げた。
なぜそのような人生をゲイリーが選び、また社会がゲイリーの破滅を成就させる環境をどのようにして準備したのか。
マイケル・ギルモアが解き明かそうとしたのは、そういうドラマに他ならない。

そういう探求をつき重ねて行くと、ひとりの人間の過去だけでなく、その両親(それに祖父母)と社会環境までにも突き当たる。
マイケル・ギルモアには、個人もまた歴史の産物に他ならないという事実が見えてしまった。この場合の歴史とは、社会環境や宗教的伝統までも含みます。
つまりは、人間とそれをとりまく時間的・空間的状態の総体というような意味です。

でもギルモアには見えた一家の歴史は、過酷で寒々とした悲惨の連続でしかなかった。
かれらの一家には、愛を信じられずに、アウトローになることを望む遺伝子がある。
結末が破滅と悲惨でしかないのに、そのことから目を背け続けるという性格を共有している一家。

しかし「魂を貫かれて」はまだ終わっていない。
兄の処刑後に、マイケル一家がどうなったかはまだ未読です。
それについては、また明日。

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11月 7日(そのニ)

さっきアップしたばかりでなんなんですけど、最新ニュースをひとつ!
ヒラリー・クリントンが立候補していたニューヨークで上院議員に当選しました!
<Yahoo!USA>で報道していました。

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11月 7日

今朝(8日)はアメリカ大統領選から目が離せません。
開票がはじまった時点では、ブッシュ候補が優勢かなと思いましたが、現時点では大票田のフロリダ州とペンシンヴァニア州を押さえたゴア候補が逆転しました。

いまはTVでも報道しています。
いろいろ見てきたけれど、ネット上では<Yahoo!USA>がいちばん早いようです。
ほとんどリアルタイムですから。

アメリカ大統領選挙なんて、日本人には関係ないように思えるかもしれないけれど、ほんとうは衆院選挙よりも日本人には大切なんですよ!
なにせ、今後4年間にわたって、日本外交の基本方針を決めてくれる方がわかるわけですから。

朝鮮半島情勢や、中国との外交、中東とのつきあい及びエネルギー政策。
こうした大事な問題を決めるのは、日本国の国家元首ではなく、アメリカ合衆国大統領です。(笑)
有事の際に、日本の三軍を実質的にコントロールするのも、日本国総理大臣ではなく、アメリカ大統領なんです。
自衛隊は有事の際にハワイの米第七艦隊の指揮下に入るんでしょう?

日本国の事実上の支配者が選ばれる選挙だから、国政選挙にはいかない人でも興味があるはず。
民放TVがこぞって中継しているのは、だれも口に出しては言わないけれど、腹の中でそう思っているからに違いない。(笑)

しばらくはネットにかじりつきです。(^^)

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11月 6日(その二)

いきなり私ごとではありますが、友人つーさんが結婚したとのメールが入っていました。
暗い話ばかりの昨今、目出度い話にほっこりです。

それに友人貧困さんも奥さんがおめでたとか。
いい話が続いて嬉しいです。(^^)

ところで、アメリカ大統領選の行方はどうなったのか?
見ているとネット上では、<USA Today>が一番熱心に追っかけているみたいです。

投票直前の世論調査では、ブッシュ候補のほうが僅差で優勢だそうですね。
世論調査の表なんかも掲載していました。

ただロイター通信社・MSNBCが月曜日に行った世論調査では、ゴア候補が僅差で優勢だと<Yahoo!USA>では報じています。
ただ<Yahoo!USA>には気になる記事もあります。

アメリカのニューハンプシャー(New Hampshire)州の町ハムレット(Hamlet)の投票では、ブッシュ候補が勝ったのです。
ここは小さな町ですが、全米でいちばん早く投票結果がわかるので有名です。
しかも、ここを制した候補がほとんど勝つ。
ブッシュ陣営は大喜びです。

大統領選にはいよいよ目が離せません。

ところで、読書日記は「心臓を貫かれて」(マイケル・ギルモア)。
以前、読みかけて止まっていた本です。

訳者は村上春樹氏なので、翻訳とはいいながら村上作品と同じ感じがします。
だから文章は読みやすい。だけど、内容があまりにも重いので読めなかったのです。

だから、他の本へ向かっていったというほかはありません。
この本のメッセージを受け取る心の準備が出来ていなかったのです。

本を読むということは、わたしにとっては誰かの心をコンタクトをとる行為に他なりません。
他人を自分の魂に一定期間同居させるようなものだし、ときには一生回路がつながりっぱなしになることもある。

人付き合いと同じで、本も使い捨てにはできない性分なのです。
だから、ものによっては、同居するためのスペースを心のなかに確保するために、数ヶ月もの時間が必要なこともある。
ときには、それが何年になることも。

ひどく消極的に聞こえるかもしれないけれど、魂に他者を受け入れるためには、時が熟するのを待たなければならないと思います。
ようやく、時が満ちて、ギルモア家のゴーストたちを向かいいれる部屋が用意できた――ということですね。

文庫版の上巻をやっと読み終わって、下巻に手が届きました。
まだ物語の舞台ができたばかりで、本当のストーリーはこれからのように思います。
この時点で何かを語ることは、思い上がり以外の何ものでもない。

もう少し、魂のコンタクトをとってから、書くことにします。
続きはまた明日。

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11月 6日

激震の考古学界という報道が続いています。
でも、夢をもってこの道に進みたいと思っている若者たちには頑張ってもらいたいと思います。
世間の眼は厳しいかもしれないけれど、諦めないで。
そういうことをやろうとする意欲が大切なんだから。

捏造された発見よりも素晴らしいものがきっと見つかるに違いない。
かりに大発見がなくたって、研究を積み重ねることで大昔のことがますます分かってくる。
それだけでも、すばらしい。

ところで、秩父では問題を起こした人物を出席させずにフォーラムを開催することにしたそうです。
まづはよかった。
子鹿沢遺跡や長尾根遺跡そのものは捏造ではないと信じたいです。
柱の跡までも掘ることはできないと思うからです。
これまで捏造だとしたら、調査にかかわった人々のほとんどが協力したことになる。
もしそうなったら……
だからこそ、秩父の遺跡は捏造でないことを祈っているのです。

ただし、ここから発見された石器のうち、今年見つかったものについては捏造の可能性は否定できない。

「問題の人物が発見した石器はすべて縄文石器」と非難する学者さんもいるようですが、「あの人の行くところでだけ発見されるのがおかしい」とか「ある種の石器製作技術(押圧剥離法)は縄文時代の技術であるはずだ」という意見は事実判定というより、先入観とやっかみととられても仕方がない。
学説を否定するなら、それを否定できる証拠を提出しなければならない。
それができない以上、こういう意見をいくら吐いても不毛です。

現場の人たちが、辛抱強く検証を積み重ねてほしいものです。

そういえば、富山県でアンキロサウルスという恐竜の足跡が見つかりました。
足跡だって、嬉しいですね。
こんな事件のあとでは。(^^)

ところで、アメリカ大統領選が7日から投票。日本時間では8日午後に大勢が判明するとか。
さて、アメリカ国民はどちらを選ぶのか。
今日はアメリカのネット新聞を覗き見することにします。

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11月 5日(その二)

前の日記に書いた捏造事件は、毎日新聞のスクープだったそうです。
早朝、捏造者が自宅から持参して旧石器(これは本物!)を発掘現場に埋めている姿をビデオでしっかり撮影していた。
昨日、記者会見したのは、新聞報道が事前にわかっていたかららしい。
なぜ急に告白したんだろうと思っていたけれど、これで事情が判明しました。

捏造者が旧石器を「発見した」秩父では、今月11日にドイツから学者を呼んでフォーラムを開くことになっていました。
これはどうなるんでしょう?
ちょっと気になります。

ところで、TVのワイドショーの電話インタビューにエジプト考古学者の吉村作治さんが答えていました。
怒りと悲しみがないまぜになった声でした。

日本人の発掘結果がすべて信用されなくなるかもしれないという心配が大きいようです。
国内だけでなく、中近東や中国を含めて全世界で発掘作業をやっている現場の人々が受けた衝撃はすさまじかった――短いものだけれど、そんなことがわかるインタビューでした。

専門学者であっても、同じ職業人の立場にたって率直に怒る人は信用できる。
吉村さんのコメントを聞いて、そんなふうに思いました。

「そらみたことか。だから言わんこっちゃない!」
「バカに騙される馬鹿学者どもめ、ざまあみやがれ」
「世間のバカどもめ、やっとわしらの賢さに気がついたか、ぐふふふっ」
なんて言わんばかりのコメントに腹がたったので、前の日記にはきついことを書きました。

でも、ちゃんとした学者さんは、魔が差した捏造者の心情を理解しつつも、プロの誇りを傷つけられた怒りを率直に吐き出す。
こうでなくちゃね、人間は。
やっぱり、学問もつまるところは人間性です!

さて、ひさしぶりに読書日記を再開します。(笑)
土日はおちおち読書日記を書いている暇がなかったのです。

前にあげた「面一本」(出久根達郎)を読み終わりました。
ひさしぶりに爽快な読後感のある本でしたよ!
サムライに憧れるヒロインの若苗さんもよかったけれど、セドリ師のシンゴさんもよかった。

セドリ師というのは、古書の仲介業者で古書店や探書マニアに珍本を探しだして提供するのが仕事。自前の店舗は持ちません。
本を扱う仕事のなかでもプロ中のプロです。

でも、あまりにも特殊な稼業なので、現在の日本にはもう数人しかいない。
そういうことを出久根達郎の別のエッセイで読んだ記憶があります。
もちろんシンゴさんの設定もそう。セドリ師の最後のひとりということになっています。

シンゴさんが出てくると、家族小説じみた話がにわかに古書業界の匂いがする物語世界に突入しますね。
バブル紳士と古書店の意外なつながりなんかもわかって、ふーんと唸ってしまう。
やっぱりプロが書くと、いろいろ深くて面白いですは。

題名の「面一本」には、小説の山場にかかわる含みがある。
いくらネタばらしが好きな(?)私でも、そこまで明かすのはルール違反でしょう。
興味があれば、ぜひ読んでみてください。

唐突に話がかわりますが、大人って何ですかね。
人生の傷をかかえるがゆえに、優しくなれた人間のことでしょうか。

「優しい若者なるものを、わたしは信用しない」と某大女流歴史作家(イタリア史・ローマ史が縄張り)がのたまっています。
「若さは優しさと共存できない」のだそうです。

それは若さじゃなくて、「傷」でしょう。
問題なのは。

傷も心の痛みもなければ、そりゃあ優しくはなれんでしょう。絶対に。

出久根さんの本には、そうやって傷を負い、哀しみをかかえて強く生きている大人が出てくる。
こういうのはいいですね。

書物を通じて人間を知ろうと思うなら、ラテン語も、中世イタリア語も読めないかもしれないけれど、早稲田界隈で古書店をやっておられる出久根さんの本を読むほうがいい。
出久根さんの本を読んでいると、人間っていいもんだなとつくづく思うんですよね。

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11月 5日

寝ぼけ眼で新聞を取りにいったら驚いた!
一面のトップで、「旧石器は捏造だった!」

目を疑ったけれど、うなだれている発見者の写真をみて現実だとやっと認識できました。
この発見者は、埼玉県の小鹿坂遺跡で旧石器を発見した人でもあります。
先月の日記(10月24日)に書いた出来事の当事者。

あれが嘘だったんです!
宮城県で発見された上高森遺跡の60万年前の旧石器。
そんなものはなかった!

成果が出ないのに焦った発見者(?)が捏造したのだそうです。

呆然としてしまいました。
考古学者が発見物を捏造するなんて……いまどき、そんなことがあるとは。

考古学といえば、だれもが認める貧乏学問。それをやるには、熱意と仕事に対する誇りしかないと、ただの考古学アマチュアは研究者の方々を尊敬している。研究者だからといって、べつに国立なんとか博物館とか、なんとか大学の先生というわけじゃありません。
ポストにつきたくても、椅子がないから教育委員会や市役所に潜り込んだり、別の仕事につきながら手弁当で発掘している人がおおぜいいる。
そういう分野だけに、まさか捏造なんてと思っていました。

聞けば、今回問題を起こした人は昨年11月まで計測メーカーに勤務していて、アマチュア考古学者として活躍。昨年11月に退職して、発掘調査に専念していたとか。
本人の弁では、今年になってから発見された二件(北海道の新十津川と、宮城県の上高森遺跡)だけだということですが、ここ数年話題になった日本旧石器時代の発見にはすべてこの人がかかわっている。
秩父原人だって、怪しいものだと思わざるをえない。

でも……ことはもっと深刻です。
この人がかかわった発見は全部信用できないということになる。
とすると、この三十年間の日本旧石器時代の発見はすべて信用できなくなる。
いったい、何をしてくれたんだという思いでいっぱいです。

とにかく大ショックでした。
成果が出なくて焦ったという気持ちは、よくわかります。
だから、同情する気持ちがないわけじゃない。

でもねー。
この人が見つけた旧石器を目当てに博物館の特別展へ出かけた人々って、ただの物見遊山だけじゃなかったように思います。
すっかりいいことがないこの国で、すこし良い話が聞きたかった。自分たちに誇れるものを再確認したかった中高年が多かったのでは。
すくなくとも、わたしはそのつもりでした。
お人好しといえば、それまでですけれど。

捏造を告白した人の立場を思うと、憎む気にはなれません。
学問の倫理を踏みにじったわけだから、どれほど良心が痛んだか想像できないわけじゃない。
ただ、どうしようもなく心が空ろなだけです。

たぶん、このニュースを知った大勢の考古学・歴史ファンが同じ気分を味わっていると思います。
捏造者の告白を聞いて、鬼の首をとったように喜んでいる学者先生には、こんな気分はわからないでしょうね。

一文にもならないのに、古いものを調べるのが好き――なんて馬鹿みたいですが、そういうアマチュア・ファンは全国にいっぱいる。
そういう人(全然無関心な人のほうが圧倒的に多いのですが)の税金がめぐりめぐって、大学だの研究機関だのの運営資金になる。
日本国民にそういうものへの興味がなくなったら、国公立大学・研究機関はもちろん私大や民間団体にだって資金はまわらない。

無関心な人にしてみれば、歴史研究・考古学研究なんて税金の無駄使い以外の何ものでもないですから。
独学で研究してきた捏造者を嘲笑い非難する学者先生のコメントだけには、腹が立ちます。いったい、何様のつもり!

どこにも、自分が乗り合わせている船が沈没するのをみて喝采をあげる人はいるもんです。
タイタニック号の一等船客みたいに、自分だけは救命ボートで安全だと錯覚している。

大学教員だから特別というわけはない。そんな根性だと、大学教育から考古学はいらないってことになったらどうするんでしょう。
そんな日は案外早く来るかもしれない。「安心なんかできないんだっ」てことがわからないから、他人事みたいに罵って満足している。

成果をあげたくて道を踏み外した人の姿は、ひょっとして未来の自分の姿かもしれない。

「すこしは人の痛みも考えろよな」と思うのは、アマチュアのひがみでしょうか?

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11月 4日

いって来ましたよ!
横浜美術館で開いている「中国文明展」。

正確にいうと、最寄駅はJR(または京浜急行)桜木町駅でした。
神奈川県に暗いわたしです。事前に調べてから出かけていって良かった。
横浜駅で降りたらどうする……って、おばかな話です。

いってみたら、結構な人でした。
JRの駅前で駅員さんが美術館の券売りをよくしてますよね。
そこに紙が貼ってあって人がいない。
「美術館は非常に混み合っています。待ち時間が30分となっています。
ここでは券は前売りしません」
なんだか、切り口上の文句が手書きでありました。

そんなに人がいるのかなと半信半疑でいってみたら、列はそれほどでもなさそう。
さっそく券を買って並んでみたら驚いた。
列は三重に折れ曲がっていて、外から見えにくい部分まで続いていた!

けっきょく、25分くらい並びました。
まあ、30分でなくて良かった。
事前にトイレにいっておいたのも良かった!(笑)

展示品はすばらしかったですよ。
殷周時代の青銅器がいい。
三星堆遺跡の変わった神の仮面や、秦の始皇帝の兵馬俑の武人像とは、ひさしぶりの再会でした!
兵馬俑の武人は、2メートル近い大きさなんですね。
すっかり、忘れていた。実物大の兵士がこんなに大きかったのだろうか。
だとしたら、巨人兵という他はない。

すごい混みあいでしたけれど、夢中で見ていたらあっという間に時間がすぎてしまいます。
近郊の方はぜひ行ってみてはいかが?

それにしても、歴史ものに慣れていない入館者のひとはちょっと気の毒です。
入り口近くの展示なんかをじっと眺めている。
そんなところで頑張っていたら、体力はもたないよ!
ナメクジがのたくるのよりも遅い速度でしか動きませんからね。
しかも、たいていそこにあるのはつまらないものばかり。
目玉の展示品はそこにはないんだ!

と、大声で教えてあげたいけれど、つまみだされる畏れがあるから止めておきました。

二つ目の展示室が秦の時代のものでしたが、みているとほとんどの人はここまでで力つきています。
休憩場のソファでぐったりしているか、通路脇のてすりにもたれかかって放心状態です。

何をみるか、戦略を練らないと体力がもちますまい。
わたしみたいなマニアックなお馬鹿さんは無限に元気が出てくるのですが。

こんなことをおだおだ書いている場合じゃない。
はやく、この日記をアップしなければ!(笑)
いちおう宣伝のつもりでした!(^^)

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11月 3日(その二)

陳舜臣さんの本は読了しました。
ものがミステリだから、内容は書けません。(笑)
ミステリ好きの読書家が書評という形式に走らざるをえない理由がわかります。
タネをあかせば、どってことない――といえば、ミステリ愛好家が怒るだろうな。

手品と同じで「おもしろうてやがて哀しき」ですね。どんな名作でも。

陳氏の骨太な歴史ものと比べると、なんか気の抜けたビールみたいな感じです。
空海を描いた「曼荼羅の人」や、太平天国を舞台にした一連の大作を書いた作家でも、こんなのも書くのかなというのが正直な感想。
いまや文明史家の風格さえある人にも、こんな時代があった。
すこしほっとするところがないわけでもない!(笑)

陳氏のミステリを読むより、読み残した大作を読んだほうがいいなと覚悟がきまりました。
もう、迷いません。あなたについていきます……って、マリッジ・ブルーか、わたしは!

さて、いま読んでいるのは「面一本」(出久根達郎)。
古本屋を経営している直木賞作家、出久根さん。
この人の古書がらみのエッセイって、好きですね。

本とそれを書く人・愛する人への愛情と尊敬が溢れている。
こういう本好きの人はいいですね。
いきがっているだけの本好きは嫌いです、わたしは。

この本は、その出久根さんが初めて書いた新聞小説だそうです。
いま読んでいるのは講談社文庫なんですが、厚さもすごい。
ただ講談社なんで活字が大きいせいかもしれませんが。(笑)

剣道の達人(!)の女性が、明治に創業した古本屋に嫁に行って、地上げ屋と戦うストーリーなんですが、登場人物の気分がいい。
わたしも古い日本人なんでしょうか、このごろの小説に出てくる人物たちは好きじゃない。
サムライなひと(男女含めて)が好きなんです。
だから、「面一本」(めんいっぽん)のヒロイン・若苗(わかなえ)さんはいいなぁーっと思います。
ちょっと古風ないい人たちと楽しくおつきあいさせていただいている――という感じです。
こういうのがたまりません。
大人の強さがいい感じです。

絶望的な状況で自暴自棄な主人公が野垂れ死ぬのを感動して読める年齢じゃない。
しずかな大人の勇気を描く作家が好きです。
出久根さんはそういう作家さんです。

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11月 3日

アマゾン・コムの日本サイトがダウンしたとか。
開店そうそうダウンというのも、予想外にユーザーが殺到したせいでしょうか。

ダウンしたのは午後らしい。

わたしは午前中にアクセスして登録してきたので、なんの問題もありませんでした。
やっぱりネットは早い者勝ちですね。

アマゾン日本サイトで洋書を買っても、30パーセント引きで今なら送料もゼロらしいです。ただそちらのほうは伝聞なので、未確認。違っていたら、ごめんなさい――です。

洋書の30パーセント引きというのは有難い。こうなると、急ぎの本でも洋書屋で買う気はないですは。
このごろ洋書屋は品揃えがあんまり面白くない。店員さんも不勉強な人が増えた。
だから、パワフルなお客さんがますます減る。英語が読める人だから、海外オンライン書店に注文することが苦にならない。
これじゃあ、将来はまっくらじゃないですか!(泣)

ところで、今日(11月4日)は横浜までNHK主催の中国文明展を見に行く予定です。
うかうかとしているうちに、明日(11月5日)で終了。
こりゃあ、急いでいかないと。

しかし――埼玉からだと横浜は遠い。
出かけるのがおっくうなのは、そのせいです。
気軽に行く気にはなれない。
友よ、ヨコハマは遠い。
――なんて、村上春樹さんの真似をしているときじゃない。
ボートでいくわけじゃあないんだから!

けっきょく出不精なわたしが悪い。(笑)

そんなわけで、朝っぱらから読書日記もアップしておきます。
それについては、次の日記で。

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11月 2日

千葉県でみつかった縄文時代後期の墓の人骨から面白いことがわかったそうです。
縄文時代は母系社会だったというんですね。

ひとつのお墓に入っていた13体の骨のうち8体が同じ母親から生まれたものだったことが、DNA検査でわかった。
――というのが証拠だそうです。

正直にいわせてもらえば、これだけでどうして母系社会だと言い切れるのかよくわかりません。

ただ平安時代くらいまでの婚姻制度をみるかぎり、日本には母系社会の傾向が強いことは一目瞭然。
いまさら縄文時代が母系社会だったと聞いてもびっくりする人は少ないのでは。

縄文時代は狩猟採取経済だったから、とうぜん男が強い父系社会だと思い込んでいた学者さんたちはびっくりかもしれません。(笑)
農耕がはじまってから、女が強い母系社会が誕生したという考えが中近東あたりの考古学では常識ですから。

ただし縄文時代にはすでに農耕があったと現在では考えられているから、そういう考えであったとしても、べつに矛盾はしない。

そうはいっても、狩猟採集経済だからといって、男が強く女が支配されるだけの父系社会だったのかというと、わたしは違うような気がします。
獲物が取れるかどうかわからない狩猟や漁労だけでは生きていけるはずがない。
木の実を拾ったり、海草や貝を集めるほうが効率はいい。

縄文人だって、肉をそのままバーベキューにしているわけではなく、ミンチにしたお肉にクルミなんかの木の実をまぜてハンバーグ状にして食べていたわけですから。
そう考えると、女の発言力が強いのは当然でしょうな。

母系社会と父系社会の違いってなんだろうと、突き詰めるとよくわかんないですね。
女性の権利が高いということが母系社会の特徴といえそうだけど、それは若い娘が好きな相手と自由に結婚できるということを意味しない。

母系社会というのは、若い娘や若い母親がちからを持つ社会じゃなくて、ババアが力をもつ社会です。
だから結婚相手はババアが決める。

ババアという言葉に語弊があるとすれば、カリスマ性のある老婦人の年功序列社会ということです。
わかい娘にしてみれば、そんなに有難くない社会だといえますね。
年寄りに好かれる「ババア殺し」の才能がないと、苛め抜かれますから。

ひょっとすると、縄文時代というのは若い娘や若い母親にとっては受難の時代だったかもしれない。

ひるがえって男を考えてみるとどうでしょうか?
こういう社会だと、思い切ったことをやる気まぐれな冒険野郎よりも、じっと忍耐の男じゃないと評価されないんじゃないだろうか。
それに、なんのかんのといって女が性の主導権を握っていただろうから、容姿が良くないと子孫は残せない。

忍耐の人で、かっちょええ男(おとこ)となると、やっぱり高倉健さんでしょう。

なぜ健さんが日本の男の理想なのか。
その理由は、縄文時代にある!(笑)

縄文時代は紀元前1万1000年にはじまって、問題の人骨が発見されたのは紀元前2000年くらい。
日本の男の理想はひょっとして、1万3000年にさかのぼる?
す、すごい伝統ですね、これは……。(絶句)

「男は辛抱ばい」というお母さんの言葉を、今も心に刻んで生きている高倉健さん。
あなたこそ、縄文以来の日本の男の理想です。

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11月 1日(その二)

読書日記です。
目下二冊の本を平行して読んでいます。

一冊は「ドイツ名詩選」(岩波文庫)。
そして、もう一冊は「虹の舞台」(陳舜臣)。

陳舜臣氏のミステリはずっと前に買ってあったものです。
ただあんまり読む気がしない。
陳氏はミステリの名手だけれど、わたしにとっては中国ものの歴史作家という位置付けなんです。他の本のついでに買ったけれど、ずっと積読でした。
それも、かれこれ5,6年前に買ったものです。
我が家には、10年くらい前に買って積読している本がごろごろしとるんです。(笑)
そういうのは、ミステリ系がほとんどです。

「小説書きとしてミステリを勉強しよう!」とチャレンジするのはいいけれど、はっきりいってこのジャンルは好きじゃない。
つまんないSFは激怒しながら読めるのに。

もしかしたら、わたしは相変わらず筋金入りのSFファンなのかもしれない。
ミステリSFってのは一般SFファンの主流ではあるけれど、わたしには退屈です。
どっちかというと、哲学小説めいたやつが好きなんです。
たとえば、A・C・クラークの「幼年期の終わり」とか。

宇宙の進化とか、人類の運命といった大袈裟なものがいいんです。
カート・ヴォネガットによれば、SF愛好家なんて「一文の徳にもならないのに、人類の未来や宇宙の終末を本気で心配するおせっかい野郎」だそうです。
まったく、そのとおりですね。一言もありません。

ところで、ほったらかしにしていた陳舜臣氏の本を開いたのは「ミステリをお勉強しよう」と思ったからじゃありません。
太平洋戦争中に活躍したインド人革命家チャンドラ・ボースと、かれの死とともに消えた膨大な宝石をめぐる謎――という本作品のまともな筋とも関係なくて、中華料理とインド料理のうんちくが楽しかったからです。
この調子では、わたしにはミステリのお勉強は無理だーっ!

「燈影牛肉」なんて、四川料理の作り方が書いてあるところがにくい。
しかし「この切り方のコツは口でいってもわからないだろう」というのは口惜しいですね!
そのうえ、これを作るには肉屋でばらされたものを買ってきたのでは駄目だそうです。
牛の後脚一本を買ってきて、中華包丁でスライスしなければいけない。

をいをい……。
ライオンでも飼っていないかぎり、こんなの買うわけにはいかんだろう。

こういうところがミステリの好かんところ。
家庭料理として作る方法をきっちり書いて欲しい……って、それじゃあ料理の本を読んだほうが早い。
やっぱり、ウンチク系でもミステリはだめかな。(泣)

わりとアメリカのハードボイルド小説がすきなのは、目玉焼一個でも講釈たれながら、きちんと作り方を説明してたりするからです。
こういうところがきちんとしていると、銃器の扱いやら人の殺し方もマニュアル的に詳しかったりする。

どうも、わたしの読書傾向には根本的な問題があるのかもしれません。(笑)

ところで、もう一冊読んでいる「ドイツ名詩選」ですが、こちらのいいところは左側のページに原文があって、反対側にその訳がついているところ。
辞書をひかずに、原詩を堪能できるところがうれしい。

すらすらわかるというわけにはいきませんが、原詩をくちずさんで日本語訳をみると気の抜けたビールみたいな感じがします。
日本語にすると、ドイツ語の言霊がかなり蒸発してしまう。
日本語訳だと退屈な内容の詩が、ドイツ語でみると楽しい言葉遊びになっていますから。
散文はいざしらず、詩は原語で読むに限る。

ハイネの「ローレライ」やゲーテの「魔王」「ミニヨンの歌」なんかも原文ごと載っているのも嬉しい。
たまには詩人の気分を味わうのもいいもんだ――なんちって。(^^)

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11月 1日

やっぱり、いまどきの人はすごいなぁ!
新聞を見ていたら、面白い記事がありました。

二十二歳の京都大学工学部2年生が、起業家になったというのです。
しかも、通産省の企業支援プロジェクト「未踏ソフトウェア創造事業」から、1200万円の資金提供を受けて。
京大生も大したものだけど、通産省もなかなかやるもんだと、ほっこりしました。

しかし、この京大生の経歴も面白い。
高校二年生で不登校になって中退。
パソコン・ソフト制作の手伝いをしながら、通信制高校で大学受験資格を取得。
それで、京大へ合格したそうです。
全国の不登校児の星ですね、まったく。(笑)

10歳のときに、3万円なりのパソコンを買って、プログラム作りに熱中。
病弱で学校へいけないのを逆手にとって、ますますプログラムの腕を磨き、高校時代になると学校へいくのが馬鹿らしくなった。
そうとう頭の良い子だったんだろーなぁ。

いまの文部省や通産省はこういう子がもっと増えて欲しいんですよね。
頭がよくて、(税金のかかる)学校にいかなくて、お金儲けをしてくれる。
家に引き篭っていて、事件もおこさず、しかしお金は稼いでくれる。
日本政府が「期待する人間像」は、こんな子なんでしょう!

この京大生くんのプロジェクトは、仮想空間の町作りだそうです。
町をぶらつき、お買い物ができるというヴァーチャル・シティだそうです。

いまは京大近くで仲間たちと仮想空間用プログラムの製作に没頭しているとか。
ビジネスとして立ち上げるのは、まだ先のことらしい。

京大生くんは「夢は一攫千金」なんて云っていますから、きっちり仕事しそうです。

だいたい名前がいい。
銭谷(ぜにたに)くんというんです。(笑)

ただ将来はベンチャー起業家ではなく、研究者になりたいといっていますが、たぶんならないでしょうね。こういうタイプは。
学費と生活費をかせぎたいという動機で仕事を始めた人は、たいがい企業家の道を進むもんです。

どうも、この国の創造的人材は制度の欠陥・破綻の隙間から成長してくるようです。
この銭谷くんのケースも、文部省の教育政策が破綻していたおかげですね。

国が教育改革に失敗すればするほど、この国には創造的な人材が増える!
いや、冗談ぬきで。(笑)
そうは思いません?

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