昨日はサイトの模様替えをしようとJAVAスクリプトをいじり倒してしまい、本は読んでいません。 ああ、また鉄人読書家廃業だ! だって、JAVAスクリプトがうまく動いてくれないんだもん! といっても、しょうがない。 テキストの量が多くなってきたので、JAVAスクリプトで検索機能をつけようと悪戦苦闘してわかったのは、<スクリプトで検索をするのはきつい!>ということだけ。 参考書(「Javaスクリプト ハンドブック」宮坂雅輝)を横目にいろいろためしてみたけれど、外部Javaスクリプト・ファイルというデータ・ファイルを使わなければならない。 やってみたけれど、どこかで入力ミスがあるらしく動かない。 それで延々と夜中までかかってしまいました。 WEB上でテキスト検索する上手い方法はないんでしょうかね? うちのプロバイダはCGI禁止なので、そっちは使えないのです。 ところで、うまくいかない最中にIE5.5の外国語セットで繁体字中国語(Big5)をインストールしてしまいました。 なんで中国語なんか入れたかというと、中国語のメール広告が入るようになったからです。 どうやらうちのリンク集にもある「謝小姐の台湾日記」という台湾の新聞記者・謝さんのWEBに読者登録してからのように思います。 もちろん文字セットが入っていない状態では文字化けして読めません。 そのうちIEで読めるようにしようと考えていました。 ただMSから文字セットをダウンロードすると34分間かかるというWindows メッセージが出るでしょう。 貧乏人としては、電話代が怖い。(笑) IE5.5が収録された雑誌を買ったついでに、ブラウザの更新と文字セットのダウンロードをしてしまいました。 我ながら、天下ごめんの怠け者です。(^^) おかげで、謎の中国語E-mailも読めるようになりましたが、化粧品の宣伝でした。 なんだ、つまらない。 がっかりです。 そこで、謝さん関連でジャーナリスト・田中宇さんの中国語サイトを覗いてみました。 中国語が立派に表示されたのは、感動もんですね! Yahoo!で中国語ページを表示しようとするたびに、中国語文字セットをダウンロードせいと脅された経験の持ち主には、この感動がわかってもらえるかな。 なに、そんな人はとっくに文字セットをダウンロードしている――そりゃ、そうだ!(笑) ところで、田中さんの中国語版サイトはその名も「田中宇的國際新聞解説」といういかにも中国テースト濃厚なもの。 ここに日本語で読んだ記事が中国語化されて並んでいる。 活字ばっかりの迫力というやつですかーっ! 活字派のわたしには、それだけで感動ものです。 しかも田中宇さんの日本語サイトにある「田口Randy」ページにもジャンプできるようになっている。 カウンターをみると、わたしが2980番目でした! お客さんはまだそんなにいないようですね。まだ成長段階にある、とみました!(笑) なんだかとっても面白そうなので画面をスクロールしながら何度も眺めました。 いぜん泥縄式にやった中国語なんで、どうもおぼつかないのですが。 間違ったことを口走るかもしれないので、ここには書きません。 そんなことをやりながら、スクリプトの勉強をしているんだ。 昨夜の作業がぜんぜん駄目だったのはしょうがない――ですは。(苦笑) |
知らなかったけれど、ドイツのハノーバーで万博が開かれていたんですね。 しかも、大赤字。 当初から4億マルク(183億円くらい)の赤字をみこんでいたけれど、結局6倍の24億マルク(約1100億円)の大赤字になってしまったそうです。 4000万人を見込んだ入場者は1800万人。しかも入場者の88パーセントはドイツ国内から。これだとまずお金は落ちません。 会場内のお店も、会期半ばからどんどん店じまいしたそうです。 ハノーバー万博のテーマは「人間・技術・自然」。 こんな手垢にまみれたテーマじゃ、お客は行く気にならなかったでしょうね。 そもそも計画自体に無理があったことは、万博事務局でさえ認めていて、当初の「入場者見込み数4000万人」という数は万博を誘致するためにぶちあげた水増し数字だったとほのめかしているそうです。 これでふと思い出したのが、沖縄万博の目玉だった海中都市。 日本のゼネコンが技術の粋を集めた水中建築物も、けっきょく使い道がなくて解体して売り払うことになりました。 たしか入札して、もう買い取り先が現れたという記事を読んだことがあります。 科学技術のデモンストレーションとしての万博というのは、1851年にロンドンで第一回万国博覧会が開かれたのがはじまり。 このときは水晶宮という鉄とガラスだけの建築物で売り物が、恐竜の像がはじめてお目見えしたのでも有名ですね。 パリのエッフェル塔は、1889年のパリ万博の呼び物として作られたものです。 19世紀以降、科学技術の大展示会として君臨してきたわけですが、このところ退潮がいちじるしい。 関係者は頭を抱えているようです。 なにせ、やれば必ず赤字ですから。 150年の歴史をもつ万博で、いちばん入場者数が多いのは、どこだと思います? 1970年の大阪万博だそうです。 そのときの数が6400万人でした。 あとは下がる一方だそうです。 ITのおかげで情報が光速で飛び交う時代に、万博なんていってもねーっ。 みんな、そう思っちゃいますよね。 いってみれば、地球全体が万博のパビリオンみたい。 わざわざタイムラグのある情報を見にゆく必要がどこにある―― わかりきったことじゃありませんか。 万博なんかよりも、ネット上の仮想空間でもっと面白いパビリオンがいくらもできる世の中です。 重厚長大な工業社会の誕生とともに始まった万国博覧会が、軽薄短小なネット型情報社会の誕生とともに終わる。 これは歴史の必然でしょうね、きっと。 2005年の愛知万博は、そうとうな赤字になることは間違いない。 今から5年後でしょう。 PCでインターネットをやる人がいるかどうかという時代ですからね。 19世紀出身の万博にはきつすぎる…… ハノーバー万博の赤字は、ドイツ政府とニーダーザクセン州政府が補填するそうです。 国民と地元自治体の税金を使うしかなかったわけです。 2005年を考えると、愛知県民の人はまっくらじゃないですか? そのころまでに、日本経済が持ち直すことを祈るしかない――なんてね。(−−; |
「河岸に立ちて」(井上靖)を読んでいます。 短いエッセイなんですらすら読めるかと思ったら、かえって集中できない。 妙なものです。 というより、余計なものがなくて情報がどーんとあって、そこはかとなく詩情が漂っている。 辞書を読んでいるときの感じに近い。これだと、さーっと読むわけにはいきませんやね。 こういうテキストを目にすると、読書家としての自分が退潮して、空想家の自分があらわれてくる。 嘘みたいに聞こえるでしょうが、テキストを眺めているうちに、絵が見えてくるんですね。こうなると、すらすら読めない。 じっと浮かんでいる絵にみとめるわけです。 そのうち、風景画のなかの人々が動き出し、がやがや声が聞こえる。 アニメ好きなんかが、マンガの画面を見ているうちに、キャラクターの科白がいつのまにか好きな声優の声に自動変換されるようなものです。 そんなことがテキストだけでできるのは、井上靖の豊穣な言語宇宙にとりこまれているせいでもあります。 短いエッセイがまるで長い詩を読んでいるようなので、こちらもじっくり付き合わざるをえない。 ああ、こうやって、西域への憧れをインプットされたんだなと改めて悟ります。 高校生ぐらいじゃ、この仕掛けがわからなかった。 他の本を読みながら、ぽつりぽつりと読む。 そういう贅沢な読み方しか、この本には出来ない――いっきに読み流しても、つまらない。 良い酒を水みたいに飲むなんて、馬鹿な真似はできないという気分です。 それに、なかなか深いメッセージがあるんですよ、この本には。 たとえば、河南省の開封という街を訪ねた井上靖は、そこから100キロ離れた葵丘(ききゅう)という集落まで足をのばす。 ここでは、紀元前651年に覇者・斉の桓公を中心に、当時の中国諸国の首脳が集まって会議が開かれました。 「葵丘会議」と呼ばれるこの会議で、黄河の水を軍事利用しない条約が結ばれたのです。 黄河の堤防を崩して、他国へその水を流すような真似は絶対にしないと。 黄河は大量の土砂を流しているので、その水が流れ込んだら、都市国家など簡単に泥濘に埋もれてしまう。 げんに開封という都市も二度ほど歴史的大洪水にやられて、地中に埋まってしまいました。 現在の開封の町の下には、そうして埋まった北宋と明の時代の町があるそうです。 戦争ばかりしていた春秋時代だけれど、破滅を回避する叡智もあったんだなと感動しました。 こんな具合に、感動ばかりしているので、ぜんぜん進みません。(笑) |
ついに、ここまで来たか! 昨日の新聞には、目を疑いました。 でも、同時にやっぱりという気もします。 なんの話かというと、日本語の運用能力をはかる「日本語運用能力検定」。 11月から高校生を対象に、3級と4級からスタートするそうです。 毎年二回実施する予定とか。 主宰するのは、学研(学習研究社)と才能開発教育研究財団という団体です。 学研は学習雑誌や参考書が本業だけれど、教育現場からあがってくる声に頭を抱えていたというんですな。 例えば、「しみじみ」という言葉がわからない中学生たちがいる。 「百聞は一見にしかず」と聞いても、「百聞」という文字が読めない子。 それどころか、ことわざというものがあることすら知らない子がおおぜいいる。 高校生でも、翌年という単語がわからない。 世界史の授業で「独立宣言のヨクネン」と教師が言ったら、「ヨクネンって何?」と聞く生徒がいた。 べつにグレて先生に反抗しているわけじゃなくて、「翌年」という単語そのものがわからなかった!――ぜんぜん笑えませんね、これじゃあ。 学研によると、同世代としか話をしないので、語彙が非常に限られているそうです。 こんなのを見ると、外国人と同じじゃないかという気がします。 でも、本音をいうと、外国人のほうが上。 むかし、日本語学校で中国や台湾や韓国人の語学就学生を二年くらい教えていたことがありますけれど、半年も勉強したら、そんなことを言う人はいない。 日本人の中高生の語彙は、漢字文化圏の外国人よりも下かもしれないと暗澹とした気持ちになりました。 最近の四コママンガのバターンを思い出しますね。 会社の上司みたいな偉そうなオヤジがバカなことをいう。 すると「てゆーかオヤジばかじゃん!」と若い女の子がけなして終わり。 これなんか、馬鹿にバカにされるオヤジという結構シニカルな構図のギャグなんだけれど、描いてる漫画家たちはオヤジのほうに共感している節がある。 このごろ物を買いにいっても、若い店員だと話が通じなくて困ることがありませんか。 業界用語はわかっていても、常識が通じない。 ギョーカイ用語といっても芸能関係じゃないですよ。靴や服です。(笑) こっちは服関係には全然詳しくないので、知っている単語を並べてくどくど説明する。 哀しいかな、それをギョーカイ用語でなんというのかわからない。 いまもわからないので、上手い例が出なくて四苦八苦しているぐらいです。(笑) ところが、これが通じないんだな、ぜんぜん。 単語を並べるたびに、「それ、何ですか」とくる。 こちらも必死で国語辞典みたいに説明すると、 「ああ、わかりました」 ひどいのになると、それだけ聞いておいて、 「で、結局なんなんです?」 そういわれた日には、どう答えたらいいんですかね。(笑) 「てゆーかオヤジ馬鹿じゃん」と向こうは腹の中で思っているでしょうけれど。 少なくともサービス産業については、国産若年労働者よりも外国人を入れたほうがいいと思う。(苦笑) 団塊世代から後、日本の大人は若者に媚びすぎましたね。 若者ことばに媚びすぎて、けっきょく日本語そのものがおかしくなった。 わずか五年や十年で死語がこれほど多い国はないです。 ニ、三年前の若者雑誌なんて、もう理解不能ですよ。 若者言葉は身近なグループだけが暗号にようにして使うためのものです。 思春期特有の逸脱行為とみるべきです。それを大人が取り入れようとするから、おかしくなる。 幼稚園児の内緒ゴッコに、ええ大人が本気で混じろうとするなんて。 そりゃあ、無理だわさ。 団塊のアホ!――と、わたしは言いたいですわ。 学研では、この「日本語運用能力検定」を将来は受験や就職にも使える資格にしたいと商売気を出しています。 たぶん、間違いなくそうなるでしょうね。 それも仕方がない。 しかし、この「検定試験」は難しいですよー。 新聞に3級(高校生対象)の出題例が出ていたけれど、ひどく難しかった。なんども繰り返して問題を読んで、かろうじて正解を出せた。 これはきつい。社会人でも苦戦しそうです。 将来的には、スピーキングやヒアリングまでこの検定に入れるそうです。 へたをすると、英検1級なんてメじゃない難問がでてくる可能性がある。 将来的には、特1級なんてのまで作る予定です。 いったい、どんな問題を作るんだ! わたしも思わず呟きたくなりました。 「てゆーかオヤジ馬鹿じゃん」 |
読書日記です。 「細川ガラシャ夫人」(三浦綾子)を読み終わりました。 下巻の後半からいっきに読んでしまいました。 主人公玉子がキリシタンになってから後の話です。 それまでのもたついた感じから、一気呵成にラストまでもっていってくれます。 相撲でいえば「電車道」というところ。 このあたりは、実在の細川ガラシャ(玉子)の伝記というより三浦綾子さんの信仰告白となっている。 だから、迫力が違う。 ただ人によっては、この部分がひどく嫌になることもあるようです。 現代人の感覚では考えられないほどの酷いエピソードが続くからです。 玉子の美貌を覗こうとした植木職人が、夫・細川忠興の怒りに触れて斬首される。 その生首を玉子の食膳においても、玉子は平然と食事を続けたとか。 秀吉の九州征伐に夫が従軍しているあいだに、玉子は洗礼をうける。 帰ってきて、そのことを知った夫は、玉子に棄教させようとして、侍女たちの鼻や耳を次々と削いでいく。玉子は侍女たちがそんな目に会っていても絶対に棄教しようとはしない。 こういうエピソードを知ると、細川ガラシャ夫人の冷たさ・強情さにぞっとする他はない。 まさにそのとおりなので、一言もありません。 さすがに三浦さんも鼻や耳を削がれた侍女たちのその後については触れていません。 優しい人ではなかったと思います、細川ガラシャ(玉子)は。 ただそういう欠点を越えて、三浦さん描くガラシャの魅力は絶対の死地に堂々とふるまう強さ――でしょう。 関が原の合戦が起こる前に、徳川家康は上杉景勝討伐の陽動作戦に出かけます。 そのとき、細川忠興が徳川軍に加わって従軍する。石田三成が、大坂に残る大名の家族を人質にするのを覚悟の上で。 そのとき、細川忠興が願ったことは、妻が人質になる前に死ぬことだった。 このときの前後の事情を考えれば、細川忠興の危機管理が悪かったから、みすみす玉子が死ぬことになっただけで、他のだれも責められないように思います。 客観的にみれば、細川ガラシャの死はあてつけの自殺といえないこともない。 それを殉教にも似た魂のドラマに仕上げたのは、三浦さんの信念ひとつだった――というように感じました。 細川ガラシャに感動したというより、三浦綾子さんの信念に感動したといったほうが正確です。 もうひとつ云えることがあるとすれば、逃げ場がどこにもない絶対の死地におかれた人間にとって、最後にやれることは勇気をしめすことだけしかない。 細川ガラシャとともに死んだ十名に満たない細川家の家臣たちの行動もそうでした。 その場を逃げれば、主人・細川忠興の怒りにあって、自分たちはもちろん家族も処刑される。しかも、細川ガラシャを手にかけた以上、おめおめ生き延びれば、家族は無事にすまない。 家族を守るためには、かれらは立派に死んでみせなければならなかった。 細川忠興は妻ガラシャを知恵を使って救うことなど家臣たちに期待していない。 とにかく、石田三成の部下が人質として捕らえにきたらガラシャを殺して、お前たちも死ねという指示なのですから。 家臣たちにしてみれば、大坂屋敷の留守居を命じられたときから、死は逃れられなかった。 たしかに、それでも逃げ出した男はいます。その男は後に鉄砲の名人として尾張徳川家に召抱えられました。 「芸は身を助く」という見本ですが、まともな人はそいつを相手にしなかったようで、いろいろな人から侮られた逸話が残っています。 わたしとしては、ガラシャ夫人よりも、嫉妬深い主君・忠興の命で死地におもむいた武士たちに感情移入してしまいます。 自己犠牲といえば、むくつけき老臣たちのほうが上なのではないか。 そんなことを考えてしまいました。 |
冬の支度をいろいろとやっているうちに、すっかり遅くなりました。 本日(29日)アップするのは、読書日記だけです。 雨が降っているせいで、本日は一日じゅう家にいます。 こういうときは、年表をひっくり返したり、日本史事典をひっくり返して楽しんでいます。 日頃気になっていても、調べる時間がない。そんなことを参考書を開いて調べてみる。 疑問が氷解することもあれば、いよいよ謎が深まったという感じがすることもある。 調べれば調べるほど、探求したいことが増えてくる。 これが楽しくて、歴史が好きなんです。 「雨の日はミステリを勉強しよう」という植草甚一さんの気分かな。 今日は歴代天皇の法名を調べてみました。 といっても、本格的な仏道修行をした天皇たちです。 あの世に行きそうな頃に、あわてて出家した方々はパスします。 理由は簡単――そういうのは別に面白くなさそうだから。 うちにある歴史事典なんかで調べたかぎり、はじめて出家した天皇は奈良時代の聖武天皇(在位724-749)です。(間違っていたら、ごめんなさい!) ただし、古代の天皇は在位中に仏教の儀式をおこなうどころか、仏事に臨席することさえ出来なかったので、聖武天皇も譲位して上皇になってから出家しました。 聖武天皇がなぜ出家をしたかを考えると、むごい現実が見えてきます。 はっきりいえば、聖武天皇は邪魔になる血族を次々と陰謀で殺していった。 だから、祟りが怖かったのです。 天皇は神と等しい霊力の持ち主だという信仰が古代にはあったのですが、聖武天皇の治世は天災と疫病に祟られていた。 奈良の大仏を建立したのは聖武天皇だけれど、あれは天皇の霊的権威に絶望した結果です。 自分の天皇としての、霊力に限界を感じたと言い換えてもいい。 天照大神に由来する天皇の霊的権威が揺らぐと、天皇は退位して仏教修行に励む傾向があります。 その象徴が、宇多天皇。 律令政治の崩壊を食い止めようとして頑張ったのですが、現実の政治には見切りをつけて、退位して密教の本格的修行に励む。 はたからみれば、ただの道楽ですが、本人は大真面目に空海のような密教の達人になるつもりだったのです。 密教系の修行をする元天皇たちは、現世的欲望が旺盛で、出家してからも愛人をたくさん作る傾向があります。 ただ平安仏教はすべて密教を兼業している。 だから出家した天皇はみんな大いに愛人と異性交遊を楽しんでいたことになります。 でも、それだけじゃあない。 どうやら、在位中の天皇はホモ行為を楽しめないらしいのです。(笑) しかし出家すると、大っぴらに不純同性交遊を楽しめる! 女性好きな元天皇たちは、寺院にいる稚児だけでなく、美形の貴族の子弟をも愛人にしてしまう。 院政をやった白河・鳥羽・後白河・後鳥羽なんて人はみんなそう。 どうやら、この人たちは親戚の摂関家の連中が、貴族の美少年たちを寵愛しているのを、横目で見ながら、在位中はじっと我慢をしていたらしい。 自分の即位の儀式の最中に、女官を犯して楽しんだ花山天皇のような人はいても、男色にふける天皇はいません。 不思議な感じがするけれど、なんらかの宗教的なタブーが働いていたんでしょうね。 同性愛の神さまは「古事記」「日本書紀」にはいませんから。(笑) そういえば、記紀の「天津罪」「国津罪」には獣姦と近親相姦のタブーはあるけれど、男色のタブーはない。聖書にはちゃんとあるんですけど。 ということは、記紀の頃にはそういう行為は考えられなかった証拠ですね。 天皇たちが退位して遊び半分の仏道修行ができるのも、お金があるあいだだけです。 応仁の乱(1467−77)以後の天皇たちには出家どころか、上皇になる経済的余裕もない。 上皇になるには、そのための儀式も必要だし、上皇のために別に御所も作らなければならない。 戦国時代に突入して、天皇家の面倒をみる余裕が貴族にも武家にもなくなったせいです。 仏教修行を趣味として本格的に楽しめるぐらいに、天皇家の懐具合が回復したのは江戸時代に入った後水尾天皇から。 ただそれも後水尾天皇の子どもの霊元天皇までで、あとは貧乏生活にまた逆舞りしてしまう。 だから、中世までの天皇のような(遊びとしての)仏教修行をする余裕はなくなる。 こう見てくると、やんごとなき方々にとって仏教とは「遊びそのもの」だったことがよくわかります。 こうしたやんごとなき方々に、遊びの場所を提供したのが「真言宗」と「天台宗」。 鎌倉時代以後に大衆化路線をつっぱしる真言宗(新義真言宗)はさておき、「天台宗」はつねに朝廷とともにあった。 なんで、瀬戸内寂聴さんのみたいな人が「天台宗」をやっているのか。 どうも解せないのですが…… これも縁というやつですかね。 いつものように、まとまりのない話になりましたね、やっぱり。(笑) もうひとつ最後に書いておきたいことがあります。 江戸時代に作られた(または再建された)寺院(*)に、なぜかやたらとある天皇の揮毫。 その代表が、後奈良天皇。 この方の時代には、まだ織田信長も登場していない。 貧乏のどん底にいた後奈良天皇は、揮毫で食っていた! ――そんなことを考えると、なぜか天皇家に親しみを覚えてしまう。 古い日本人ですね、わたしって。(^^) |
読書日記です。 ここしばらく大げさなことばかり書いてきました。 本人としては大真面目なんですが、ちと疲れたような…… そこで目下のところ「河岸に立ちて ―歴史の川 砂漠の川―」(井上靖)を読んでいます。 こむずかしいことは今回はなし。 悠久の時の流れと、文明のドラマに意識を漂わせながら、井上靖の語りに没入する。 これですね。NHKの「シルクロード」みたいですが。 そういえば、NHKの「シルクロード」なんて、もう何年前でしょうか。 たしか80年代でしたよね。 そのころ生まれていない女の子たちが、グラビア誌に登場している。 時間の流れというやつは…… いま「シルクロード」なんて放送して、視聴者がついてくるだろうか。 あの番組は、西域とか、シルクロードへの過剰な思い入れがないと成立しませんからね。 その思い入れの根底には、西洋文明と東洋文明、仏教とイスラム教、砂漠とオアシスという二項対立がある。この図式が頭に刷り込まれていないと、「シルクロード」タイプの映像美は楽しめないんじゃないでしょうか。 ただのエキゾチックな外国ということなら、今じゃタイとかバリ島でしょう。 そっちなら、気楽にいけるし。 「シルクロード」が楽しかったのは、「敦煌」などの井上作品でたっぷり西域への憧れを予習していたせいだと思います。 この「川岸に立ちて」は中国・中央アジア・インド・中東・ヨーロッパの大河を紀行したエッセイです。 詩人の眼と深い学識が融合した紀行文は、香り高い美酒のようなもの。 歳月と、人を得なければ、こういうものはできっこない。 井上靖氏は五十以上の大河を実際に訪れて、この本を書いた。 いくらユーラシア大陸のほとんどの大河を踏破している。 すごいなぁー。こんなことも出来るんですねぇ。 いくら文豪だからって、そうそうできるものじゃない。(笑) とにかく何にもいわずに、この本の詩情を堪能しています。 いつもの癖で何かいいたくなったとしても、それは明日にします。(笑) |
台湾では原発建設中止をめぐって、えらい騒ぎが起きているようです。 建設中止を決断した張俊雄・行政院長があげた理由は次の三つ。
しかし、張・行政院長があげた理由は日本にだって当てはまる。 いちばんの問題は、「放射性廃棄物の処理に解決策がない」ことと「事故時の対応が困難」だということ。 エネルギー事情だけを考えれば、成長期が終わった1980年以降生まれの人間にはどっちもたいした問題じゃない。 放射性廃棄物で困るのは、未来の世代で、自分たちじゃない。 事故時の対応が困難でも、ガン死する確率がちょっとばかり高くなるだけ。 これだけ環境ホルモンだの、PCBだの、ダイオキシンだのがあふれているなら、放射能の大気中濃度が少しくらい濃くなっても、そんなには変わらないだろう。 20代のにーちゃん、ねーちゃん、心配はないよ。 おじちゃん、おばちゃん、大丈夫。おじいちゃん、おばあちゃん安心してね。 ――ということはいえる。 ただ未来の世代に、とてつもない大借金を負わせることにはなる。 今の子どもたちや、これから生まれてくる子どもたちの背中に時限爆弾をくくりつけているようなものかもしれない。 台湾の政権党の判断は、少なくとも政権担当者が国の未来を考えている証明だと思います。 これに対して、うちでとっている読売新聞なんかは、よっぽど電力会社から広告出稿料をもらっているとみえて、原発賛成の特集記事や電力会社の原発推進広告を載せています。 業界よりの有識者たちばかりの座談会で、「現実をみろ」「リアルになれ」と読者を啓蒙している。 原発撤廃を国策にしたドイツに対しては、「原発推進派のフランスから安く電気を買うつもりだろう」「無責任だ」と批判する。 代替エネルギーについても不熱心な識者ばかり。というより、代替エネルギーそのものを馬鹿にしている口ぶりだったりする。 二十歳を越えれば、放射能の危険性も子どもほどじゃなくなるわけだから、若い世代も年をとればこういう識者に賛成するようになるでしょう。 原子力問題の本当の当事者は未来の子どもであって、今の大人じゃないんですから。 いまのこどもだって、大人になれば、原子力関係の仕事につくかもしれない。 別に理科系の技術者だけじゃありません。 マスコミ、広告代理店なんて仕事だって、電力会社をクライアントにすれば、りっぱな原子力関係の仕事になる。 その一方で、ロシアが外貨獲得のために核燃料再処理ビジネスを展開しようとして、環境保護法改正を議会で協議中しています。 世界中の国から、核廃棄物を輸入して、燃え残りの核燃料を取り出すというのです。 ただし100パーセント回収することはできないので、北極圏に近いノバヤゼムリャ島やコム半島の永久凍土に、残りの高レベル核廃棄物を投棄する計画です。 いってみれば、北極圏を核のゴミ箱にするわけです。 ただでさえ、こっそり放射性廃棄物を投棄して自然に異常が起きているロシアで、おおっぴらに核投棄をはじめたら、どうなるか。 政府はこれで2兆3000億円の外貨が獲得できると見込んでいるから、やめるわけにはいかない。 しかしロシア国内では、国内外の環境団体が署名運動をはじめて250万人の書名を集めました。 200万人の書名があると、ロシアの憲法では2〜4ヶ月以内に国民投票をするか、憲法裁判所の判断を仰ぐことになっているそうです。 「核の問題についてはいちどきっちり議論しましょう」と原発推進派も反原発派もよくいいますが、議論してもかみ合わないでしょうね。 議論した形をとって原発推進にお墨付きをとりたがる推進派と、議論して絶対に原発を無くしたい反原発派では。 原発についての態度は、じつはふたつに一つしかない。
だって、人類という種や地球環境を金儲けのために破壊していいはずがない。 たとえ、人類が最終的に絶滅するとしても、その自殺を幇助するのは嫌です。 陳水扁総統や張俊雄・行政院長は、倒閣・国会議員選挙も覚悟の上で、原発建設中止を決断したなんて、すてきじゃありませんか。 ところで、あなたはどちらを選びます? |
中川長官はとっくに辞任していました。! これぐらいの時間差はしょうがない――と居直ってしまっていいですか?(笑) ところで、本日の読書日記はまだ武者小路実篤の「空想先生」です。 古本屋で買った新潮文庫なんですが、文庫版はもうありません。 この短編集は、一人称の語り手とその友人・山谷五兵衛という人物を軸にして、ユニークなキャラクターを持つかれらの友人たちが入れ替わり立ち代り登場する連作になっています。 売れない画家の馬鹿一(これはあだ名で、本名は下村一といいますが、だれもそうは呼ばない)。 有名画家の白雲子とその弟で書家の泰山。 それに元古書店主で町の思想家・真理先生(”シンリせんせい”と読みます)。 こういった浮世ばなれしたような、それでいて「こんな人が知り合いにいたら良いな」と思わせる人たちが出てくるところがいい。 他には「真理先生」と「馬鹿一」という短編集もあったのですが、最近では本屋にはありませんね。 「真理先生」は古本屋でみつけましたが、「馬鹿一」はまだ。 図書館のお世話になったほうが手っ取り早いようです。 たぶん新潮文庫では再版しないだろうから、図書館へいくしかありません。 武者小路実篤という人をみていると、宮沢賢治を思い出します。 もし宮沢賢治にもう少し柔軟性があって、鋭すぎる代わりに脆い意志のかわりに、粘り強さと楽天性があったら、もしかしたら武者小路のような完成をみたかもしれない。 それじゃあ、宮沢賢治の天才がなくなってしまうといわれそうですが。 宮沢賢治という人は万能の天才というわけではなく、本質的にはたぐいまれな幻視能力と言語感覚をそなえた詩人でした。 そういうタイプの欠点として、鋭さと裏腹の脆さをかかえている。 ひるがえっていえば、武者小路実篤というひとには、幻視能力はない。しかし、意志力ということをみれば、詩人でそういうタイプは日本にはほとんどいない。 本質的には詩人であったふたりは、倫理というものを宇宙論的規模で考えた日本では稀なタイプでもあります。 賢治という人は宇宙論的ヴィジョンに没入して、利己主義と利他主義の深淵で引き裂かれているうちに、人生が終わってしまった。それだからこそ、問題を抱えた人々からカルト的に愛されているところがある。 他人がどうこうというより、わたし自身は少なくともそうです。 なんの問題もなく生活している人が、「ヨダカの星」なんて読むわけない。 ただし、賢治的世界だと美しく自爆するしかない。 それじゃあ、しょうがありません。 賢治も晩年の詩や短歌をみるかぎり、異常な幻視能力者であることを捨てて、鋭すぎる感性を捨てて、「凡なるもの」へシフトしたかった気配があります。 結核が寿命を縮めなければ、そういう形での成熟もありえたかもしれない。 他のひとはどうか知りませんが、わたしはそう思っています。 賢治は密かに武者小路をうらやんでいました。 自分でも武者小路がやったように「新しい村」運動をしてみたかったのです。 ただし、技術者肌の賢治はまじめすぎて、華族あがりの武者小路よりも「仕事師」としてはダメだった。 なんでも自分でやろうとがんばりすぎる東北農民と、他人を説得して仕事させる京都のお公家さんの違い――でしょうか? やっぱり賢治が死んだのは若すぎた。わずか37歳ですからね。 十代・二十代からみれば、そうとうな年寄りだろうけれど、ユングのいう「人生の午後の時間」に突入しかけた年齢です。賢治といえども、人生後半の知恵については、まだこれから修行するところだった! 「五十、六十は洟垂れ小僧。男盛りは、七十、八十」なんて威勢のいい言葉があります。 人として生まれて、宇宙と人間についてそれなりの見当がつくにはそれぐらいかかるそうです。 なんのかんのと書いていますが、二十世紀の日本文学で残す価値がある文学者は、宮沢賢治と武者小路実篤だとわたしは信じています。 あとの人はほっといても、似たようなタイプが後から後から自然に沸いて出るから心配ない。(笑) 最後に、いくつもある珠玉のような武者小路の言葉のひとつを紹介します。 もし書ができたら、色紙に書いて部屋の壁に貼っておきたい。 それほど気に入っている言葉です。 「僕の尊敬するものは、よく働く人です。 よく勉強する人です。親切な人です。心の優しい人です。 僕の嫌いなのは他人を不幸にして平気な人です。 無理な注文をする人です。威張り屋です。自分の馬鹿さに気がつかない人です。 自然の偉大さに気がつかず、人間の方が利口だと思っている人間です」 (武者小路実篤) |
どうも、このごろ新聞を読むのが楽しくてたまらない。 原因は――もちろん、巨人が連勝したからじゃありません。(笑) FA選手を次々と獲ってハッビーな長嶋さんより、単身赴任して博多のラーメン屋でサラリーマンとビールを飲んでいる王さんを応援したいってのが人情でしょう。 巨人ファンに人情はないのか? というのは、まったく関係ない話です。 新聞を読むのを面白くしてくれるのは、政治家さんですね。 今度は中川官房長官です。 この日記をアップする頃には辞任して、元の肩書きがついているかもしれませんが。 写真週刊誌に右翼団体幹部と同席しているところを撮影されたり、昔の愛人の中絶同意書に偽名で署名したり、あげくのはては愛人女性が覚醒剤で取り調べられると、その捜査状況を電話で愛人に教える。 なかなかワルよのーっと感心しますね。 2時間サスペンスドラマの悪役政治家そのまんまじゃありませんか。(笑) しかも愛人に捜査状況を漏らしているテープがTVで放送されたり、テープから起こしたメモを国会で読みあげられたりするなんて。 「ちょーっカッコわるーっ!」と久本雅美(@メレンゲの気持ち)なら言いそうな。 しかし「わたしにも聖人君子でない短い時期があったかもしれない」といって、愛人女性との関係を否定するのには笑えた。 やっぱり橋本龍太郎元首相みたいに、「恋はいっぱいしました」というほうがカッチョええですわ。 札びら切って肉体を玩ぶ「愛人」だから嫌われるんで、不倫でも「あれは純愛でした」とぬけぬけといえば拍手のひとつも送りたくなる――なんてこと云ってると、ダメですか?(笑) しかし聞き捨てできないのは、中川官房長官の次のお言葉です。 「数年前の私事が国会でこんなに取り上げられ、次々と書かれる。 ……(中略) こんな小説みたいなことが世の中にあっていいのか」 新聞でこれを読んで、腹をかかえて笑ってしまいました。 東大出の純文学作家(古井由吉氏)でさえ小説のパワーに懐疑的になっているこの時代。 小説をこれほど評価している人がまだいたとは! 「オレはいま猛烈に感動している」という梶原一騎先生の科白が頭の中をかけめぐっています。 こういうとき団塊世代より古い人なら、マンガみたいなと表現したに違いない。 昭和十年以前に生まれた人には、マンガはつまらない、くだらないものの代名詞ですからね。 しかし劇画マンガで育った団塊世代は、魂のふるさとというべきマンガをそうは考えていない。 だから、ぶざまな自分をマンガと表現してしまうと、手塚治虫先生や星飛雄馬や矢吹丈に失礼だと考えてしまう。 ここに感動したわけです。(ヲイヲイ) べつに、小説みたいなということに感動したわけじゃないんです。 だいたい、「小説みたいなこと」と中川さんはいうけれど、「中川さんのいう小説ってなに」という大疑問があります。 記者会見でこういったとき、中川官房長官の脳裏をよぎったのは、大藪春彦、山村美沙なんかの小説じゃないでしょうかね。 つまり、政治家=悪人のノベルズ小説です。 政治家は必ず愛人をつくって犯罪を犯す。 政治家はヤクザとお友達で、愛人と異常性愛にふけるセックス・アニマル。 ――なんてのが、この種の小説のお約束。 2時間サスペンスの原作本でもあります。 きっと中川さんは国内線や新幹線の移動時間に、セックスと暴力と殺人に満ち満ちたノベルズ小説を読みふけっていたんでしょうね。 だとすると、「小説のようなこと」というのは、逆説的にみても誉め言葉じゃない! フィクションとしての価値は、へたをするとマンガより下だと、団塊世代まっただなかの中川官房長官は感じているに違いない。 星飛雄馬や矢吹丈に涙を流した少年時代と違って、大人になった中川さんはズボンの前を固くしながらセックスだらけの(バイオレンス系)ノベルズ小説を読んでいる。 小説ってのは、へたしたら、エロ劇画より下なのかしら。一般ピーブルにとって。 いったい「小説ってなに?」と、アマチュア作家のわたしは目がうるうるしているんですけど……(ToT) |
日記の目次ページのリンクが間違っていました。 目次の項目(今日の午前中にアップした日記)や、最新の日記をクリックしても、見当はずれの日記へジャンプしてしまいます。 気がついたので、直しておきました。 どうも恥ずかしいこってす。(#^^#) ついでに、以前の日記の間違いも直しておきました。 田中康夫氏が芥川賞をとったって……あとで直木賞・芥川賞のリストを作っておられるサイトで確認したら、そんな事実はない。 どうもヘンだなとは思っていたのですが、チェックしわすれてアップしてしまった。 そそっかしいのが敗因でした! ふっ……と、笑っている場合じゃない。 ところで読書日記です。 いきなり武者小路実篤の小説「空想先生」を読んでいます。 四十代にもなって、武者小路実篤を読んでいるというと、お利口な男女はみな哀れむように「フっ……」という笑みを漏らしますね。 二十代の女の子だと「いやだぁー、工藤さん」なんて。 あのね――べつにセクハラしてるわけじゃないんだけど。(苦笑) すくなくとも、オジさん世代の人が読むものじゃないという暗黙の了解が読書界には蔓延しているようです。世間知らずの餓鬼のもんだと。 しかし……わたしは断然意義申し立てしたい。 武者小路が人生論めいた(ちょっと語弊があるけれど、それについては後で書きます)小説を書いていたのは、六十六歳でした。 「空想先生」「真理先生}(マリじゃなくて、シンリです)で描かれているのは、実篤がこの年齢で開眼した人生哲学です。 「新しい村運動」をやったり、とんでもない悪妻と苦労して離婚したり、最愛の伴侶と再婚したりと、それなりに人生の荒波をくぐって到達した境地なのです。 本を買って読むのは、四捨五入して三十前後の男女と相場は決まっています。 こんなガキどもに、七十歳近い人間が到達した人生哲学がわかるか! ――と、わたしは声を大にしていいたい。 しかも、いまの人間の精神年齢はマイナス七掛けときている。 つまり三十歳の人間の精神年齢は、昔の二十一歳と等しい。五十歳でやっと昔の三十五歳。 これを逆算すれば、六十六歳の武者小路だと、今でいえば九十四歳にあたる。(笑) 精神年齢二十三歳以下の、いまどきの三十代前半で、武者小路を理解するのは無理だわな。 ――というのは冗談だとしても、武者小路実篤の人生哲学にはおおいに共感するところがあります。 中村天風という知るひとぞ知る大哲人がいましたが、武者小路の哲学はそれと同質のものです。 哲学なんていいますが、大学教授が教えているあれはなんですかね。 西洋哲学はずいぶん本も読んだし、某国立大学で文学部哲学科の大学院にまぎれこんで研究生をやったこともありますが、あれはしょうもない。 文献学か、人生を暗く生きるためのトレーニングでしかない。 日本で読むに値する大思想は、中村天風と武者小路実篤だけ。 あとは暇があれば、読めばいい――なんてね。 まあ、パスカルとモンテーニュを読んで、ベルグソンで論文を書いた奴のいうことだからあまり当てにはなりませんが……(笑) 武者小路の小説は、小説としてみると、細部(ディテール)が吹っ飛んで、概念的なあらすじだけなので、小説というジャンルに慣れ親しんでいる人には、馬鹿にされたように思えるというのはわかります。 ただし、中味はある。 それはかなりの深みで、これに比べると夏目漱石や森鴎外なんかはエラぶっているけれど、実質は絶望的に浅い。 実篤の作品は観るほうに鑑賞眼がないとわからない抽象画(アブストラクト)であり、また純な子供の眼をもつ素朴派でもある。 武者小路の小説を読んで共感できるのは、C・G・ユングのいう人生の午後の時間に入った三十代後半以後の人でしょうね。 あとは純粋な子ども。 もしかすると、武者小路の小説は子どもの心をまだ持っているかどうか判別するリトマス試験紙かもしれない。 武者小路の小説を読んで、むかつくようだと――そろそろ頭に血栓ができかけているかも。(笑) 武者小路という人の偉さは、宮沢賢治と違ってわかりにくい。 大人でないとわからないけれど、せこい大人には絶対にわからない。 なんだか床しくて、わたしは武者小路が好きです。 |
まちがって国会中継なんか見てしまいました!(笑) 国会議員というのは「オヤヂ力」のチャンピオンだなーっと感心しますね。 取引先のエラい人を百倍毒々しくして、嫌らしくすると、多分ああなる。 いや、百倍くらいじゃ足りないかもしれない。 森首相と鳩山民主党党首のやりとりをみていると、つくづく「オヤヂ力」の違いを感じます。 森首相の言っていることは、厳密には論理になっていない。 よく聞いていると、鳩山氏の質問にはまともには答えない。言質を取られないように、直接的な言葉では対応せずに、付帯状況の説明でやり返している。 困ったことに、日本語は英語なんかと違って直截な単語・連文レベルで返答しなくても、状況説明でメッセージを発することができる。 同質な文化圏に住むものの特権ですが、これのやりかただと、直接的にイエス・ノーをいわずにすむ。 しかも、本人はイエス・ノーを言ったつもりになれる。 これが困ったところです。 だから、鳩山氏がいくら言い募ったところで、森首相はとっくにイエス・ノーを言ったつもりだから、「ばかなやつだ、何がわからんのだろう」とせせら笑っている。 その肚があるから、野次をとばす野党議員をたしなめて笑いをとるだけの余裕がある。 しかも「言葉の行間や、雰囲気を察する」日本語のコミュニケーションでは、発言を活字に落しても、真意は解釈者によってどうにでもなる。 読売新聞で森首相と鳩山代表のやりとりの要約記事をみましたが、あれだと首相が一方的に理があるようにしかみえない。 国会中継では、とてもそうは見えませんでしたね。 喩えは悪いけれど、品質重視・顧客重視の開発部員が正論を吐きながらつめよる。 ところが営業至上主義のやり手専務はのらくらかわして、両者の話はまったくかみあわない――という構図でしたけれど。(笑) 二人のやりとりを聞いていると、ぴんとひらめいてしまいました。 そうか、「オヤヂ力」の根源は、日本語にあるんだと! わたしが思うに「オヤヂ力」とはこんなものじゃないでしょうか。
わたしが考える「オヤヂ力」の前半部分は日本語の構造に原因がある。 後半部分は日本人特有のムラ社会の掟です。 日本語の構造やコミュニケーション方法が、「オヤヂ力」の発動を可能にしているわけだから、日本語を使っているかぎり「オヤヂ力」が少ないと勝てない。 非常識なことを、倦まずたゆまず、疲れることなく主張しつづける粘着力。 いっさいの羞恥心・道義心をかなぐり捨てたぶ厚い面の皮。 これがオヤヂ力なんですね! あれっ、だとすると「オバさん・パワー」と同じじゃないか。 そういえば、オバさんは「日本語の達人」ですからね。オバさん族とやりあって勝てる男はいませんからね。(笑) もしかすると、「オヤヂ」とは「オバさん・パワー」を身につけた「男のおばさん」かもしれない。(笑) 「オヤヂ力」では森首相の足元にもおよばない鳩山党首。 これじゃあ、政権をとるのは無理。 やっぱり、「オヤジ力」を身に付けないと、日本政界でやっていくのは難しい。 余計なお世話でしょうが、つい真剣に考えてしまいました。(笑) 「オヤヂ」にかなわないなら、オヤヂに勝てる存在に学ぶしかない。 ルーク・スカイウォーカーがヨーダからフォースの使い方を習ったように。 鳩山さん。女装しかないですよ。あなたには! スカートをつけて、口紅をつけて登院したら、森首相の「オヤヂ力」に勝てる――かもしれない。 |
© 工藤龍大