昨日は掲示板に書いたように新宿御苑で花見をしながら弁当を食べました。
桜は綺麗でしたよ♪
さすがは元お大名のお屋敷。ついでエンペラーのお庭だっただけのことはある。
昼前に一雨あったおかげで花粉も飛んでいなかった。
花粉症でマスクが離せない毎日だけど、安心して弁当が食べられた。
ハッピーでした♪
カラスがやってきて、睨めっこする場面もあったけれど、どうやら気合勝ちして、向こうは退散してくれました。
新宿御苑の生態系の王者は、なんといってもカラスですねえ。
ここには他には皇居にしかいない「ムサシノなんとかモグラ」という絶滅危惧種のモグラさんがいるらしいけれど、そういう地味な生き物は目に付かない。
気ままに滑空して見物人の肝を冷やさせ、大樹の枝で勝ち誇った叫びをあげる。
「カッコいいなあ」と感心してしまいます。
御苑の池にはカワセミもいるらしいけれど、わたしは見たことがありません。
オシドリならありますけど。
制空権をカラスに奪われて追い払われたのかもしれない。
どこにでもいるハトは御苑の内部には少ないですね。
あれは、カラスと仲が悪いからうっかり中に入ると殺されて食われるのでしょう。
こそこそと茂みのなかで暮らしていけるスズメはお目こぼししてくれるのでしょうが、ハトぐらいのサイズだと敵とみなされてやられる。
カラスの殺法は、集団で一羽に襲いかかる裏柳生の暗殺剣です。
群れるくせに、集団で活動できないハトが生き延びられるわけがない。
そういう物騒なトリですが、どことなく凄みがある。
禅僧がカラスをよく画題にしたのも分るような気がします。
間近でみれば、まさに猛禽という他はないですから。
さて、ここ数日忙しかったおかげで日記の更新ができませんでした。
また気を取り直して更新します。
それにしても一週間も「読書日記」のタイトルページを修正できなかったのはつらい。
ftpが使えないので仕方ないなあ。
それでも見に来てくれて有り難う。
仕事のあいまや通勤途中で、島崎藤村の随筆集「藤村文明論集」(岩波文庫)を読んでいました。
ころっと忘れていたけれど、藤村は姪と恋愛してスキャンダルを起こしたんですね。
それで、しばらく日本を離れてパリにいた。
この本はそうした時期の前後に書かれたエッセーがほとんどです。
意外なことに大所高所にたった御高説(=演説)はありません。
むしろ日常を細かく観察して、そこから思索をつむぎだしている。
明治の文豪であることだし、「破戒」や「夜明け前」なんて本も書いている。
意外な内容に驚きました。
「千曲川のスケッチ」や「藤村詩抄」なんてのを読んでいたから、ただの浪漫主義者(ロマンチスト)だとばかり思っていたのですが……。
自分の不明を恥じるばかり。(笑)
藤村を少し見直しました。
いままで敬遠していた「夜明け前」を読んでみようかなという気になりました。
「破戒」で辟易していて「夜明け前」は読んでいなかったのです。
こういう考え方をする人なら、日本文学史上に「最重量」とされるこの作品も、きっと読みでがあるに違いない。
近々、挑戦することにします。
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月25日
本日(26日)、トップページがついに一万ヒットを達成しました。
時間はかかったけれど、嬉しいなあ。
いつも読んでくれて有難う!
これからも、よろしく!
さて、今日も「アイヌ語入門」を読んでいます。
ほとんど音韻変化ばっかりだけど、妙に心地よい。
われながら、そーとーきてますね。
アイヌ語の音韻変化には、四種類あるそうです。
1)音韻脱落
2)音韻添加
3)音韻転化
4)音韻顛倒
こまかく見ていくと、アイヌ語中級講座になるけれど(笑)、原理そのものは英語のリスニングと大して変わりません。
同じ口唇・咽喉という発声器官をもっている人間の言葉だから、当然といえば当然だけど。
各国語の文法書で、なぜ冒頭にながながと音韻変化があるかというと、これがわからないと実際の運用ができないからなんです。
日本語にだって、あるんですよ。気がついていないだろうけれど。
いきなり例を出せといわれると困るけれど、日本語教育に手を染めていたことはそんなことを教えていた記憶があります。
――などと、物思いにふけっていても仕方がない。
ところで、土曜日はついついTVを観てしまいました。
掲示板にも書いたけれど「無敵王トライゼノン」の最終回。
これは見なくて正解だったなあ。
大昔のロボット・アニメの焼き直しだからなあ。
それにしても「ZOID」って、あれだけのCGを使ってあんだけ退屈な話にする根性がよくわからない......。
(あれも観たんです、わたし)
実写の「鉄甲機ミカヅキ」はけっこう面白かった。
けっこうな特殊映像を堪能しました。
それと、作り手のおやぢ世代の気分がね……よくわかる。(涙)
理屈っぽくいえば、母性社会日本の病理をイドムという思念具象型モンスターで表現している。
連続婦女殺人犯とか、変質者のストーカーだのを登場させたのは、そんなところでしょう。
太古の巨神像「ミカヅキ」は父性原理の象徴かな。
母性原理の権化「シンゲツ」にいったんは手もなくやられるあたり――いまどきですねぇ。
ラストの魔女神像と化した「シンゲツ」を、月光機6台と「ミカヅキ」が倒すなんて、「もう分った、あんたの言いたいことは!」とうるうるきてしまった。
まあ、ガキと男のおばさんにはわからなん世界だろう。(笑)
女の人にはもっと分らんだろうけれど、絶対に観るはずがないから、「それはいっこーかまわない」。
そうでしょう、雨宮慶太(監督)さん。(笑)
ラストで「ミカヅキ」が異世界に消滅し、主人公の少年が泣くあたり、ジュブナイルSFの王道「通過儀礼」の芸術的表現ってやつですかね。
なんか、ほんとに作り手側のいろんな思いが分っちゃったような気がする。
考えてみれば、いまどきの作り手は同世代なんだよなあ。
特撮とかアニメとかにびびんと来る感性を持った子どもたちに、メッセージを伝えたい。
そうした思いが痛いほどよくわかる。
こういう作り手を笑う大人にだけはなりたくないと思うおじさんです、わたしは。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月24日
「国宝鑑真和上展」も本日(3月25日)まで。
関西の人はいざしらず、関東近郊の人は鑑真さんにお会いになりました?
今度が駄目でも、奈良にはいつもいらっしゃる。
いちどお顔を拝見させていただいてはいかが?
さて、そろそろ京都の一件を総括しないといけませんね。
思わせぶりに書いておきながら、ほったらかしというのも無責任だ。(笑)
本日は、京都の名刹がなぜモミジの名所なのかということを書きたいと思います。
結論から言うと、答えは浄土宗にあります。
今回巡ってきたのは、長岡京市(現代の地名なんですよ、これ!)にある粟野光明寺。それから京都の東山にある知恩院。白河にある永観堂(禅林寺)。黒谷にある真如堂と金戒光明寺。
このつながりはなんなのか?
答えは、法然さんですね。
それと、もう一人。鎌倉時代の有名な武士。
その人は、粟野光明寺と金戒光明寺の開基でもあります。
なぜ、そんなことを調べているかはいつかお話できることもあるでしょう。それまでは、聞かないでおいてやってください。
しかし、永観堂と真如堂にはもうひとつ共通点がある。
それぞれ有名な阿弥陀如来像があることです。
残念ながら真如堂は旧財閥の三井家の菩提寺だそうで、ここの阿弥陀如来像は特別な日でないと開帳しないそうです。
永観堂の阿弥陀如来は有名な「みかえり阿弥陀」。
ほんとに阿弥陀如来像が後ろを振り返っていました。
お寺でも工夫していて、本陣の脇にいって「阿弥陀如来」の御顔を拝顔できるようにしてあります。
ここの阿弥陀如来には伝説があります。
この寺は空海の高弟真紹(787−873)が創建したお寺ですが、有名になったのは
永観(ようかん)という人が現れてからですね。
永観(1033〜1111)は、ちょうと法然さんが生まれる100年前に誕生して、亡くなった年齢もほぼ同じ。法然さんは1133年生まれで、1212年の正月4日に亡くなっていますから。
この人はその時代から念仏を広めようとしていました。いってみれば、法然さんの先駆者といえないこともない。
この人は施療院を作ったり、梅林を作って梅を薬として貧しい病人を癒した社会事業家でもあります。この当時、病人は菰(コモ=藁で織ったむしろ)にくるんで、路傍に捨てられるのが決まりだったのです。
まあ富家の家族はそんなことはありませんが、そこの召使たちや、貧しい家の家族はそういうことになっていました。「ケガレ」を忌む古代思想には、こんな恐ろしい側面もあります。
見捨てられた人々を救おうとしたのが、この永観という人でした。
永観は熱心な念仏行者でもあったので、本尊の阿弥陀如来のまわりを不眠不休で念仏を唱えながらぐるぐる回る「念仏行道」という修行を欠かさずやっていました。
すると、ある日もうろうとした意識で歩いていると、自分の前を阿弥陀如来が歩いている。 さすがに、ぎょっとして立ち止まると、阿弥陀如来が振り向いて「永観おそし」と一喝した――というんですね。
ここ阿弥陀如来はそのときから、後ろを振り向いている――と語り伝えられています。 もちろん仏像そのものは奇蹟譚の産物ではなく、高度な造型感覚を持った無名の仏師の傑作です。技法的にも最高峰のレベルにある仏像だそうです。
おそらく、この「みかえり」というポーズは仏師のアイデアだけではなく、かなり深い境地にある坊さんの思想を体現しているんだろうと思いました。
おそらく永観の思想が顕れているんだろうと。
「永観堂 禅林寺」というお寺で売っているガイドブックを眺めたら、仏像の発注者は永観本人だと書いてありました。
これを書きながら、なにげなく頁を繰ったらぽんと目に飛び込んできた!
ラッキーなのか、阿弥陀如来のお導きなのか。(笑)
著者は「浄土宗西山禅林寺宗務所」とあるから、永観=発注者説は事実そのとおりなんでしょう。
こういう人に縁のあるお寺だから、法然さんが現れるに及んでその弟子(善恵房証空)が住職となり、浄土宗になったのは必然という他はない。
ところで、ここまでの話はモミジの名所とはあんまり関係ないみたいでしょう。
まあ、そう言わないで、もう少しつきあってください。
長岡京市の粟野光明寺。知恩院。永観堂。真如堂と金戒光明寺。
ここは京都の人がモミジ狩りに出かける場所なんです。
タクシーの運転手さんに真如堂と金戒光明寺に行ってきたというとびっくりされました。 あそこは観光客があまり行かないし、京都人もモミジ見物の時期でもない限り行かない場所らしい。
粟野光明寺のほうも、京都人ならみんな知っているモミジの名所です。
モミジの季節はここは人がたくさん来ると、長岡京市のタクシー運転手さんも言ってました。
粟野光明寺はとても清潔な感じの良いお寺です。
ここは管長さんが立派な人だそうで、拝観料はとらずに大勢の人にご本尊をみて貰いたいと考えておられるらしい。
ここのご本尊は、張子の御影といって、法然さんが母からの手紙を張り合わせてつくった自分の像です。
これほど品の良いお寺も珍しい。 中に入れないので、法然さんの本廟に手を合わせてお参りしていたら、若いお坊さんが通りかかりました。
目が合ったら、向こうから黙礼してくれました。
京都のお寺はいろいろ歩いたけれど、こんなことをするお坊さんに初めて会いました。 社会人としては通用しないじゃろうという人がほとんどで……。
きっと立派な指導者がいるんだろうと思いましたね、そのとき。
管長さんの話を聞いたのは帰りのタクシーでして、自分の直感が正しかったと自信を持ちました。
いかん、いかん。話を元に戻しましょう。
ところで、モミジってどういう時間帯に見るものだと思います?
朝っぱらから?
それとも真昼。
まあ人の趣味はよくわかりませんが、北海道の山家育ちのわたしの実感でいくと、あれは夕暮れどきがいちばんですね。
夕日の赤い光線と、赤と黄色のモミジが入り混じると、表現に絶する美しさが現れる。
モミジの名所はとにかく夕日のきれいな場所でなければならない。これが必須条件です。
で、さっきの挙げたお寺に共通するのは、とにかく小高い岡の上にあって夕日を眺めるのに最高のロケーションであること。
これですね。
その理由は「西方極楽浄土じゃないの」と頭の良い人はすぐ思いつくでしょう。
大正解――だけど、それで満足していいの?
もっと理由を知りたくない?
わかったつもりが一番つまらんです。
簡単に思いつく理由なんて、退屈なだけ。 わかったつもりは、人生を退屈にする毒薬みたいなもんです。
とまあ、振るだけ振っておいて、タネ明かし。(笑)
じつは、このあいだ読んだ法然さんの「逆修説法」。
あれに答えが書いてあった。
法然さんが称名念仏を唱える前は、念仏はなによりも瞑想修行だったのです。
「逆修説法」は法然さんの専修念仏・称名念仏の宣言の第二弾ですが、理論的な法然さんは以前の念仏についても総括するつもりで詳しく書いてあります。
専修念仏とは「なむあみだぶつ」とさえ唱えれば、他の修行は不要だという教えです。 しかし、それ以前の念仏は観想念仏といって、とにかく瞑想の達人にならないと話にならない。
「逆修説法」は、念仏修行者が必ずマスターしなければならないとされた瞑想法について書いています。
それが「日想観」というものです。
これは簡単なようでいて、なかなか難しい。
まず夕日を見つめる。
次に目を閉じて、瞼の裏に夕日を思い描く。
これを繰り返すのです。
やがて、目をつぶっただけで夕日を思い描くようにならなければいけない。
それも、いつでもどこでもそう出来なければだめ。
ただ想像するんじゃなくて、ありありとはっきり視覚イメージできないと意味がない。 どうです。なかなか大変そうでしょう。
でも、これが出来ないと極楽往生はできません。
極楽往生できないと、地獄に行くしかありませんからね。
貴族や貴族出身の坊さんたちは必死です。
藤原頼通ぐらいの大権力者は朝夕の日光が入り込むと、まるで極楽浄土そのものが展開するような持仏堂(宇治平等院)を作りました。
あそこの池に面した本堂の仏さまたちは、朝日・夕日に金色の身体を輝かせて、経典そのままのお姿に見えるように建物・仏像が建築・造形されている。
しかし、それは当時の最高権力者だけに許された贅沢です。
他の貴族には無理な話でした。
そこで瞑想するための特別なロケーションを血眼で捜したわけです。
本来真言宗だった禅林寺を阿弥陀信仰の寺に変えたのは永観とその師匠の深観という人でした。 おそらく師弟は、真言宗の禅林寺が瞑想修行に絶好のロケーションにあることを見抜いて、ここの住職になりおおせたのでしょう。
以後、禅林寺は有数の念仏道場として歴史を重ねてゆくことになります。
粟野光明寺は法然さんが比叡山黒谷の青龍寺を下りて、はじめて住んだ場所です。 次に、住んだのが金戒(こんかい)光明寺。後は上京区の相国寺(当時は賀茂の河原屋という)あたり。次に、東山の安養寺。やがて知恩院の御影堂あたりと引越しを続けました。
なぜ、こんなに引越ししたのか。
「逆修説法」を読んだおかげで、その理由がわかったような気がします。
おそらく金戒光明寺にいた頃まで、法然さんは日想観の修行中だったのではないでしょうか。
しかし、その後に日想観を完全にマスターして、次の段階に入ったらしい。
そのヒントは、名水にあります。
相国寺には法然水という井戸があり、安養寺と知恩院のあるあたりは吉水(よしみず)といって良質の水が涌くので有名な場所です。
「逆修説法」では、日想観の後に極楽浄土の水を瞑想する「水想観」というものがあります。 これには、良質の水が必要なのです。
おそらく弟子たちに日想観だけでなく、水想観もマスターさせようと考えた法然さんは、良質の水を求めて引越しをしたのだろうと、わたしは確信しています。
法然さんが史上希な瞑想の達人であったことは、大正時代の中ごろ真言宗の醍醐寺である文書が発見されるまで知られていませんでした。
これは「醍醐寺本『法然上人伝記』」という本で、執筆者は勢観房源智という法然さんの高弟です。
このなかに「三昧発得記」という書物があり、法然さんの神秘体験がつづられています。
法然さんが学問倒れの学者坊主どころか、宗教者として相当な境地にいた人であることが改めてわかったのは、この発見のおかげです。
ついでにいえば「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機説が親鸞さんのオリジナルではなく、法然さんが言い出したことだと証明したのも、同じ「醍醐寺本『法然上人伝記』」です。
ただし浄土真宗系の学者さんは絶対に認めませんけどね。
飯の食い上げになると思っているんでしょう。
悪人正機説が法然さんの教えであろうと、親鸞さんの値打ちが下がるわけじゃないと思うのは素人の浅はかさ。 きっと、ごちゃごちゃとした宿便みたいな教理教学体系がびしっと出来上がっていて、真宗系の大学を出た人でないと僧職につけない仕組みができあがっている。だから、他人(他宗の学者)が余計な口を挟むと困るんでしょうな。
仏教学者という人たちは、99パーセントがどこかの寺の跡取らしい。 それぞれの宗派の事情もあるから、素人はあまり瑣末な議論には首を突っ込まないで理性が正しいと思うほうに従った方が良いように思います。
釈迦という人は何よりも真理を愛する言葉の真の意味でのフィロソファー(愛知者=哲学者の原義)でした。
わたしたちはその潜みにならって、本物の愛知者である学者さんをみつけて教えを請うのが良いようです。
そうじゃない方は、参考資料代わりということで……。
俗に「ナントカと鋏は使いよう」と言いますから。(← 暴言!)
――なんだか、大長編になってしましましたね。
「京都の名刹がモミジの名所である理由」なんて三題噺みたいなことになってしましましたが、納得いただけましたでしょうか?
納得いただけた方は、「合点」ボタンを……なんて訳はない。(笑)
長々とお付き合いいただいて有り難う!
追記1:
永観堂を京都の人は「えいかんどう」と呼んでいるそうです。
「永観」(ようかん)律師を記念しているから、正式には「ようかんどう」というのですが、慣用には勝てないようです。
追記2:
この読書日記では法然さんがいつまでも瞑想に囚われていたように誤解されるかもしれません。 法然さんは「選択本願念仏集」を口述した時点では神秘体験に拘泥するレベルはとっくに卒業していました。
誤解する人はいないと思いますが、念のために書き添えておきます。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月23日
いつのまにか週末かあ。
旅行疲れと仕事が重なって、ウィークデイは更新していませんでした。
しかも昼間はマシンが使えなくて、ネットにアクセスもできなかった。
やっと金曜日に回復しましたが……。
まあ、こうやって個人サイトは忘れられて行くのか――
そうはならないように、またしぶとく続けようと思います。
でも、やっぱり疲れがたまっているのは自覚しています。
なにせ、読んでいる本が本だもの。
目下読んでいるのは「アイヌ語入門」(知里真志保)です。
以前走り読みしたのですが、文法部分はろくろく読んでいません。
この本の愉快なところは、ジョン・バチラー博士のアイヌ語・英語辞書に対する執拗な悪口雑言ですね。それと、永田方正氏の名著「北海道蝦夷語地名解」も徹底的に糾弾している。
「よくもまあ、ここまでこき下ろせるなあ」と、素人はひたすら面白がってしまう。じっさい、この本の初版が出た昭和31年あたりはそういう読まれ方をしていたそうです。 解説の山田秀三さんがそう書いている。
ご存知ない人のために補足をしておくと、山田秀三さんはアイヌ語地名研究の大御所で、「アイヌ語地名の研究 全四巻」とか「東北・アイヌ語地名の研究」という労作があります。
ただし、アイヌ語を英文法の枠組みで捉えた米人宣教師バチラー博士に対する批判はともかく、永田氏への批判はよく読んでみると、永田氏のアイヌ語理解が相当なものだったと思わざるをえません。
永田氏が同書を書いたのは明治24年。明治16年から同23年まで現地で聞き取り調査して書き上げたものだと知里真志保さん自身が書いている。
それを昭和31年の時点で、批判するのはどうかと思いますけど。(笑)
たとえば「石が白い川」という意味のアイヌ語地名を永田氏が「白石川」と訳しているのはいかんと言われても、素人にはどこがいかんのか良くわからない。
たださすがに先駆者だけあって、初歩的な間違いはたしかにあるようです。
「ヨモギのやぶがそこに群生する川」というのを、永田氏は「蓬茅多き川」と訳している。
しかし――ヨモギのやぶと、蓬(ヨモギ)と茅(カヤ)が多いってのは、北海道の田舎育ちのわたしから見れば、そんなにかけ離れたイメージじゃないですがね。
前出の山田秀三さんの解説では、山田さんと知里さんが現地調査をするときにはお二人とも必ず「北海道蝦夷語地名解」を携えていたらしい。
山田さんが呆れていると、知里真志保さんは分る人が読めば名著だとすましていたそうです。
前回読んだときはそういう面白いところだけを読んでいました。今回はそういう面白いところはすっとばして、退屈のきわみの文法解説をしげしげと読んでいます。
以前書いたように、わたしはばててくると、こむずかしい哲学書か退屈な文法書を読む癖があるのです。
さらにばてると、もう本を開くのが嫌になって、英語辞書か国語辞典を読むようになります。(笑)
おかげで、しっかり憶えつつあります。
アイヌ語には母音が五つしかないこと。子音は北海道では十一個。樺太アイヌ語を入れても十二個しかないこと。
――なんてことを憶えてしまいました。
しかも、アイヌ語では清音と濁音の区別がない。
シャ・シュ・ショの音がない。
ということは、日本語よりも音素が少ないのですね。これには驚きです。
中国語はもちろん、お隣の朝鮮語だって日本語よりは母音も子音もずっと多いですからね。
それに、アイヌ語には日本語と妙な共通点がある。
アクセントがいわゆる高低アクセントなんです。
例えば「橋」と「箸」と「端」の違いは、高低アクセントです。
英語は強弱アクセントですね。
こっちは嫌というほど、学校で勉強したからわかるでしょう。(苦笑)
しかし、濁音がないこと(ガ行・ザ行・ダ行・バ行)を除けば、けっこう日本語の五十音表みたいなものが作れてしまいますね。
なんだか、アイヌ語=古代日本語説に傾きつつあります。
決定的な違いは、どうやら「テニヲハ」がないこと。
こっちは朝鮮語と共通する日本語の特徴だから、弥生時代にやってきた半島系移住者の使用言語の特徴でしょうね、きっと。
でも、梅原猛という人は、アイヌ語の文法は助詞(テニヲハ)の概念で組み直せるといっているから、どうなんでしょう。
専門家にしかわからない泥沼は避けて、先に進みます。
アイヌ語が日本語とよほど違って見えるのは、単語の末尾が子音で終わる場合があること。そして、連声ですね。
フランス語でいうリエゾンですね。英語でも会話レベルではばんばん出てきます。
これがあるので、日本語とはよほど違ってみえる。
もしも、これを活字化してみたら、日本語との類似性が見えてくるでしょうね、きっと。
梅原猛氏によると「古事記」に出てくるエカシ・オトカシなんて奈良盆地にいた酋長はアイヌ人名なんだそうですから。
日本古代史が好きな人からすれば、アイヌ語はかなり魅力的な道具です。
まあ日本古代史では朝鮮語は常識になりつつあるらしいから、アイヌ語が今後は穴場になるかもしれない。
ただし、目下(日本)中世史にどっぷり浸っているわたしには、あんまし関係はなかったりします。
なんで、こんなことをやっているのかなといぶかりつつ「アイヌ語入門」を読んでいるワタシって一体なんなんだ?
追記:
明日はきちんとメルマガを出しますよ♪
どうぞ、お楽しみに。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月19日
しばらくお休みしていました。
連休中に京都で法事があり、ついでにお寺めぐりをしてきました。
京都を歩くときはいつもテーマを決めて拝観することにしています。
東山とか嵯峨野とかメジャーなところは何度も行っているので、ただ漫然と歩くのは勿体無い。限られた予算と時間で、調べたい場所を重点的に歩くのです。
今回のテーマは、円光大師法然さんの遺跡です。
回った場所は、長岡京にある粟野光明寺。京都東山の知恩院、永観堂。新黒谷の真如堂、金戒光明寺。
見る人がみれば、どの時代の何を調べたかったのかは一目瞭然。バレバレのコースです。(笑)
詳しい話は後日書くことにします。
まだ旅行疲れが残っているのか、あっというまに一日が過ぎてしまって、もう日付が変わろうとしている。
ところで今日は「逆修説法」という法然さんの浄土宗開教宣言を読了することができました。
これは安楽房遵西(じゅんさい)という弟子の父、葉室行隆なる貴族のために生前供養の法要をしたときの説法です。
安楽房遵西は、ある時期まで法然さんの片腕だった優秀な弟子でした。
「逆修」というのは死後に極楽にいけるように、生前に自分の供養をするという意味です。
かなり費用のかかる儀式ですが、その余得として後世のわたしたちは「選択本願念仏集」に先立つ法然さんの思想を知ることができるのです。
ちなみに法然さんの唯一の著作といっていい「選択本願念仏集」は、三人の弟子によって口述筆記されるのですが、安楽房遵西はそのひとり。
あとのふたりは……ヒントは上にあげたお寺にあります。(笑)
いつも馬鹿みたいな道化たことばかり書いているから「たまには勿体ぶらないとホントに馬鹿だと思われるよ」と忠告してくれた人がいるので、ちょっとふざけてみました。 わたしとしては、別にバカだと思われてもいいんですけどね。
答えは、真観房感西と西山上人証空です。
「逆修説法」についても書きたいことがあるのですが、それもまた後日ということで。 なんだかうやむやになってきましたね、このごろ。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月15日
本日読んだ本。
「論語紀行」(坂田新)。
これはNHK講座のテキストに大幅に加筆して、一冊の本にしたものです。
わたしがこのサイトで「論語を読む」なんてコラムを始めたのは、この人が出ていたNHK講座にじんときたからでもあります。
本当なら詳しい話をたんと書きたいのではありますが、そうもいかない。
じつは、しばらく西の方へ旅に出ます。
荷造りやら、なにやらで時間がない。(笑)
詳しい話は戻ってきてから書きます。
もしかしたら、日本史ネタを仕入れて来ることができるかもしれません。
では、しばしのお別れを。(笑)
チュース!
(ドイツ語の軽い挨拶……であります)。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月14日
のんびりと「ウァ・ファウスト」を読んでいます。
というより、ストーリーを再確認しながら、チェックを入れているといったほうが正確かな?
ここは「ファウスト第一部」のあそこだろうと、おぼつかない記憶をたどりながら読んでいる。
なんだか幸せ……。
どう表現したらいいのか、言葉がみつからないけれど。
さて先週、読むだけ読んでいた本について、ちょっとおしゃべりしたくなったので、書くことにします。
「ライン河紀行」(吾郷慶一)という本を読んだ。
岩波新書の一冊だ。著者は共同通信社の社長さんだった。
いまはドイツでジャーナリストをしているとのことだ。偉いひとは元気だなと感心するほかはない。
ところで、岩波新書では2、30年も前に「ライン河物語」(笹本駿二)という本が出ている。 笹本氏も通信社の記者で今もドイツに在住しているらしい。
吾郷氏は笹本氏の勧めで、ライン河をめぐる歴史と現代のヨーロッパ政治について語ろうとしたそうだ。
ジャーナリストの視点からか、笹本氏の本は第二次世界大戦の傷跡と冷戦下の緊張を伝えるものだったし、吾郷氏はEUの通貨統合や環境問題に関心が深い。
笹本氏のころはドイツ・フランスの歴史的抗争を書いていれば、なんとなくそれで読者も納得したようなところがあったけれど、今はヨーロッパ文明に関心を持つ読者の絶対数が減っている。
仏文学者奥本大三郎氏によれば、いまでは仏文学科の学生ですらフランス語を勉強していない。 笹本氏のようなドイツ文化に思い入れた紀行では、駄目なんだろう。
かつて塩野七生さんを支えたカルチャー小母さんたちももう老いた。
それを考えてみれば、吾郷氏のような本がまだ出るだけ奇蹟に近いのかもしれない。
もっとも吾郷氏は、笹本氏の名著の後日談みたいな気分で書いている。
本人もそう書いているが、読んでいれば、このあたりは笹本氏の記述を意識しているなとわかる仕掛けになっている。
「わかる人だけ、にやりとしなさい」。
ジーさん、なかなかやるじゃないの――敬老精神など薬にしたくもないわたしは、こういう不敵なジさまが大好きである。
しかしすでに斜陽の色濃いヨーロッパを反映して、笹本氏の本を飾ったアグリッピナ(ネロの母)、ハイネ、マルクス、グーテンベルクなんている歴史上の人物のエピソードはほんの数行で片付けられている。
いまどきマルクスだの、ハイネだのといったところで、ごくごく一部の物好きしか興味をもたないことは吾郷氏はよく知っている。
ヨーロッパが繁栄の頂点にたっした頃の、ヒーローなんてもういらない。
思えばライン河が世界史の中心でありえたのは、第一次世界大戦までだろう。
ヨーロッパが世界を支配した時代は、ライン河を挟んでフランスとドイツが対峙した時代でもあった。この河は、アジア・アフリカを武力征服したヨーロッパ近代文明の生みの親だった。
だからこそ、ライン河の歴史を語ることは、ある意味で世界史を語ることでもありえた。
しかし、世界はもう少し複雑になり、ライン河をはさむ両大国にはもはや戦争の気遣いはない。
吾郷氏の本によると、1963年に独仏は歴史的な和解をしたらしい。
もはやライン河の両岸には(軍事的)緊張はなく、それはもうひとつの大河ドナウに移っている。
だからこそ、もはやライン河の歴史を語ることに懐古趣味以外の意味はないといっていい。
ドイツとフランスの世紀は、もう終わったのだ。
吾郷氏の関心も、ライン河とその周辺地域で切迫している環境問題に移っているようだ。 ドイツのシュバルツバルト(黒森)は、東欧の酸性雨だけではなく自然愛好家のマイカーの排ガスで死に瀕している。
地球温暖化のためにボンやケルンといった流域の大都市は毎年のように河川の氾濫に見舞われている。
さしものドイツ人もまだ有効な打開策は見出せていないらしい。
大河の水運と、豊富な水量の農業で栄えた19世紀大河文明(!)も、ほろほろと滅びへ向かっているのだろうか。
笹本氏の本はいまは手元にないが、高校・大学とずっと愛読書だった。
あの本には、どこかにヨーロッパ文明に対する憧れみたいなものがあった。
だが、いまはどうだろう。
少なくとも、憧れという形での視線はワタシみたいな物好きですらなくしている。
むしろヨーロッパといったところで、今の自分を考えるよすがでしかない。
ただ、なんとなく懐かしい感じはある。
20世紀の毒をしこたま食らった身としては、まだ世界がもう少し若かった頃にひかれるのかもしれない。
20世紀は「人間が死んだ」世紀である。
ニーチェが「神は死んだ」といって20世紀の幕は開いたが、1970年代頃から思想界では「人間が死んだ」ことになっている。
(あの懐かしき構造主義!)
これを語り出すと、いつまでも終わらないので、今回はやめておく。
もしかして、わたしは「人間」という概念を懐かしんでいるのかもしれない。
ツァラトゥストラなら、こう云うだろう。
「気の毒に、あの老人はまだ知らぬのか――人間が死んだということを」(笑)
19世紀の発見は、科学技術ばかりでなく、「人間」という概念そのものだった。
ニーチェが無神論のきわみの哲学で「神」を求めたように、わたしも19世紀にひたりながら「人間」という幻影を探しているのかもしれない。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月13日
どういうわけか、オンサイトのマシンがぶっ壊れてインターネットを覗けない。
何がどうしたのかわからないが、代替マシンで作業をしている。
よっぽど日頃の行状が悪いのだろうか?
そんなわけで、いまは掲示板に落書きもできないのです。
一日いっぺんの更新がいまやアナタとワタシを結ぶ唯一の手段なのです。(泣)
ところで、目下ゲーテのドイツ語でゲーテの「ウァ・ファウスト」を読んでいる。
これはあの「ファウスト」の第一稿になる。
難しく云うと、「ふぁうすと・いん・うぁしゅぷりんぎっひゃー・げしゅたると」というのだが、縮めて「ウァファウスト」と呼ばれている。
中身は「ファウスト第一部」のグレートヘンのエピソードである。
ストーリー自体はあまりにも有名だから、知らない人はいないだろう。
悪魔の秘薬で若返った老博士ファウストが純情な町娘グレートヘンを誘惑し、破滅させるというあれである。
ざっと眺めただけだが、第一部のハイライトというべき名場面はない。
「ファウスト」の名場面の第一は、悪魔メフィストファレスが神とファウストの魂を奪う賭けをするところ。
そして、第二は自殺を考えたファウストの書斎に出現する大地の精霊や、魔霊メフィストフェレスの姿。
第三は若返りの秘薬を作る魔女の厨。
第四は、魔女が集うヴァルプルギスの夜。
これでわかるように「ファウスト第一部」の主役は、悪魔メフィストフェレスなのである。
ファウスト第一稿「ウァ・ファウスト」は、メフィストフェレスの魅力を欠いている。 これを読んで、以前読んだ「ファウスト」を思い出すと、このことがはっきりわかる。
これを書いたのは、ゲーテ26歳のときだった。
しかし、この年齢では悪魔メフィストフェレスを魅力的に描くことはできなかった。
ファウスト第一部がはじめて出版されたのは、1308年。ゲーテ59歳の年である。
やっと、このときになって、悪魔メフィストフェレスはゲーテの手の内で動き出した。 だが、「ファウスト」はその後も改訂を続け、第二部が完成した1831年まで手を入れている。
完成した翌年、ゲーテは死んでいる。
「ファウスト」という作品は、ゲーテというヨーロッパ最大の知性が生涯かけて築いたオベリスクだ。
27歳のとき、ゲーテはワイマール公国の宰相となる。無数の小国に分裂していたドイツの諸侯国のひとつを首相として支配したのである。
いってみれば、春秋時代の中国の宰相のような生涯を送ったわけである。
文学・思想的才能の持ち主が、権力の中枢に座った稀有な例だ。
「ファウスト第二部」はそうした経歴を色濃く反映した内容となっている。
悪魔メフィストフェレスは紙幣乱発のインフレ政策を献策して、ファウストを帝国の宰相に仕立てるわけだが、このあたりの消息はほんとに権力の中枢にいた人間でないとわからない。
ゲーテはおのれの人生をすべて「ファウスト」の作品に凝縮している。
いや、それどころかゲーテの人間智そのものを、登場人物に仮託している。
それが他ならぬ悪魔メフィストフェレスだ。
第一部を書き上げるまでの30年間は、ゲーテがメフィストフェレスになるための時間だった。
悪魔メフィストフェレスの魅力と力を、おのれのものとするために、天才でさえ30年の歳月を必要とした。
だが、それでは終わらなかった。
人間的知性の到達点とでもいうべき悪魔メフィストフェレスでさえ、力及ばないもの――魂の救いを描きだすにはさらなる30年が必要だった。
「天才とは忍耐する才能だ」という言葉があるけれど、かれら天才の創作過程を知るにつれて、ますますその言葉が真実だと思えてくる。
一気呵成にたーっと出来上がるものに、たいした作品はない。
後年の完成形態からみえば、若書きでしかない「ウァ・ファウスト」。
だが、他の作家たちのレベルはこの程度でしかない。26歳のゲーテはすでにドイツ文学史上の帝王なのである。
その帝王が生涯をかけた作品だ。「ファウスト」が永遠の名作に数えられるのは当然だろう。
しかも、この精神界の王者は、公国の宰相として国家権力の裏も表も経験した。
権力は人間を絶対的に腐敗させるが、同時にその所有者を稀有な人間智の持ち主にする場合もある。ゲーテはその例外的政治家のひとりだった。
宰相をつとめたのも、一年や二年ではない。
それだけでも、大変な人物だったことがわかる。
当時はフランス革命前後の多難な時代だった。政治家であれば、決して安穏としては暮らせない。
26歳ですでに作家としての名声をかちえていたゲーテだが、その後60年の歳月をへて書きかけの作品を完成するとは思いもよらなかったに違いない。
そんなことを考えながら、このドイツ語の本を読んでいる。
運命は若者を成熟させるために前途に長い路程を用意している。
そして、若者はそのことを知らない。
こういう刹那に出会うのは、歴史を読むものの特権だ。
追伸:
いつも空メールをくれるPさん、
そーか、同じ日に高山良策展に行っていたのですね。
もしかして、肩を並べて見ていたかも。
いや、そんなはずはない。(笑)
みょーに熱心にメモっていた私は明らかに「この男危険につき」という雰囲気で、まわりの人はみんな引いていました。
男はつらいよ、ほんと。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月12日
ちょっとずれていますが、3月10日に練馬区立美術館へ行ってきました。
めあては、高山良策展。
もう亡くなった現代画家だが、別の顔のほうが有名だ。
「ウルトラQ」や「ウルトラマン」の怪獣をデザインした人である。
西武池袋線の車内広告で、カネゴンやレッドキングを配したポスターを見るにつけ、いっとかないとすまないような気がしてならない。
そろそろ会期も終わり(今月20日まで)だから、あんまりのんびりしてもいられない。 土曜日(10日)に草臥れた体で出かけたのは、そんな思いもある。
昼頃に会場へ行ったが、なんだか40代か50代初めくらいの男たちがうろうろしていた。 美術展にこの年代の男がいることは奇蹟にちかい。
ああいうところはジさまとバさまと、オバとどうにも形容しがたい若い女しかいない。
しかし、今回にかぎっていえば、そういう類の人々は見かけなかった。
高山は丁稚奉公から独学でオブジェ作家になった人だ。
主流派の画壇とは無縁だった。
特撮監督だった円谷英ニに見出されたのは、水槽で模型のカメやカバを作ったセンスを買われてのことだったらしい。
会場では、「ガラモン」「レッドキング」「ケムール人」「ペギラ」「ラゴン」「ギエロン星獣」の模型あり、「大魔神」「ウィンダム」の頭部ありとなかなか楽しい。
そういえば、椎名誠がデビューしたころ、エッセーのなかで「ギエロン星獣」と口走っていたのを思い出した。
50代にも、高山ワールドは懐かしいものだろう。
幻想画と称する高山の絵画や幻想的なオブジェも多数展示してある。
その作風は特異な幻想派という他はない。
よくみると、妖怪や怪獣に近い人物たちがうごめく怪奇で不気味な世界だ。
しかし、それだけでなく、なんとなく社会批判・文明批判を感じる。
ベトナム戦争末期に描かれた「イボ猪とヘリコ豚」や「鮫と仙人掌」という作品はあきらかにアメリカ軍の戦闘ヘリコプターやF4ファントムを豚や鮫と合体させたもの。
何が云いたいのかは一目でわかる。
ひとしきり、高山の幻想画をみたあとで、懐かしい怪獣の写真や設計図、制作風景の写真を集めた小部屋に入る。
すると、どしんと腹に飲み込めた。
なぜ自分たちは怪獣が好きだったのかと。
「ウルトラQ」やその続編として作られた「ウルトラマン」は、日の当たらない特撮マンだった円谷や若手脚本家たちの、世間への殴り込みだった。
子ども番組という枠をかせられたのを逆手にとって、円谷たちは痛烈な社会批判を、しかもバカな大人たちにはうかうかと分からないようにしてやろうと腹をくくった。
オブジェ作家の高山を拾ったのも、円谷のそんな狙いがある。
高山はよくその期待にこたえて、いまも40・50代のおっさんたちの心を沸き立たせる怪獣を制作した。
だが、その創作は高山ひとりのものでもなかったという感じが一方にある。
高山の幻想画をみて感じるのは、その幻想が性愛的なものに根ざして、生の漠然とした不安を描くものだということだ。
つまり、画家としてたつには、パワー不足だった。
怪獣作家としても、異彩を放つ初期の頃の脚本家たちが円谷プロから離れた後の作品では、名怪獣(!)ともいうべきフォルムはついになかったように思う。
ファイアーマン、レッドバロン、アイアンキングといった高山怪獣の番組をリアルタイムで全部見ただけにそう思わざるをえない。
高山作品の本来の性格にいちばん近いオブジェは、おそらく「ウルトラセブン」に出ていたポール星人、チブル星人、ガッツ星人といった宇宙からの侵略者たちだったように思う。
宇宙人という相対化の極みであればこそ、現代人のありようを高山はみごとなオブジェに出来た。
しかし、いっぽうでその原動力には、円谷や脚本家たちの「志」があった。それなくしては、高山の豊かな幻想性もひ弱な夢でしかない。
小さな壁の三方に貼られたウルトラ怪獣・セブン宇宙人のモノクロ写真をみていると、熱く時代とかかわったひとりの造形クリエーターの姿が目に浮かぶ。
高山や円谷の写真もあるから、ひとしおそんな気がする。
子どもの目はすごいんだなと改めて思う。
何もわからなかったけれど、怪獣という異形のフォルムのなかに、現代アートの原点みたいなものを感じ取っていたんだ。
少なくとも、美術館までやってきた中年男たちの心底には、それが残っていたんだ。
笑わば笑え。
半端なガキや小娘にはわからん世界もある。(笑)
「ウルトラQ」から「帰ってきたウルトラマン」くらいまで、登場した怪獣・宇宙人はすべて名前を言えた怪獣博士(!)は昔の男の子には結構いた。
そんな一人は、とっくにあの世にいっている。
人生って、はかないなあ。
でも美術館を出たころには、怪獣博士だった頃に少し戻っていた。
ビデオなんか観る必要もない。
ベムラーと戦ったウルトラマン放映第一話だって、すっかり頭の中に刻み込まれている。
なんとなく、幸せな気分になって、美術館を出た。
高山良策や円谷たちが仕事している時代に、子どもだった幸福を噛み締めながら。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月 9日
一週間ぶりの更新かあ。
たまった分を一気に吐き出すぞぉ!
(本日は、面倒だから『です・ます体』はやめときます。)
ネット書店「書虫」に注文した魯迅の本(中国語)が届いた。
注文したのは、次の本。
1)「野草」
2)「故事新編」
3)「彷徨」
4)「朝花夕拾」
これで文庫で手に入る魯迅の文学作品はほとんど入手したことになる。
どれも現代中国語で書かれているが、どういうわけか意味がわかる。
発音はさすがにわからない。しかし、中国語については会話能力の必要はないだろう。 げんに台湾人や中国人と仕事をするときには、英語を使っている。
いまや知的職業に従事する中国人にとって英語は必須だ。
会話なら、英語でいい。
台湾人であっても、北京官語より英語のほうが得意な場合もある。
ひとりの人間が数ヶ国語で読み書き・会話する必然性はじつはあまりない。
あくまでも、ビジネスに限っての話だが。
そういう台湾人でも、本は北京官語で書かれたものを読んでいるから、中華社会では文字とは何よりも世界共通語(コイネー)であったという事情は殷周時代から変わらない。
だとすれば、東夷の子孫であるわたしなどが、発音できない中国語の書物を読めても不思議とはいえない。
こういう状態を、読書しているとはいわないのかもしれないが、外国語を読むときには似たような状況だ。
わたしは英語の本なら、ふつうの人が週刊誌を読む程度のスピードで読める。
このときには、いっさい日本語を頭に浮かべない。
だから、英語は英語のままでなんとなく分かる。
もし分からない単語があれば、まず英々辞書を使う。
英和辞書を使うのは、翻訳の仕事のときだけだ。
なにか偉そうだが、じつはこれが一番効率の良い習得法だ。
こうやっていくと、どしどしボキャブラリィが増える。
もし、このやり方に不便があるとすれば、英検とか大学入試とか国内向けの英語試験には向かないことだけだ。
しかし――英語が使える人間が国内でしか通用しない英検にこだわるなんて、自動車免許があるのに遊園地のゴーカートしか運転しないのと同じじゃないか?
以上は、余談である。
さてこのあいだ読んだばかりの「野草」をぱらぱらと眺めてみた。
記憶に新しいだけあって、すらすらわかる。
こんなに分かっていいんだろうかという具合に。
おそらく中国語は、読むだけならもっとも習得しやすい外国語だろう。
たぶん英語習得にかけるエネルギーの十分の一から、百分の一でかなりのレベルに達するに違いない。
外国語をやりたいという人がいたら、ぜひ勧めたい。
憶える気がないといっておきながら、いい気なものだが。
次に開いたのは、「朝花夕拾」。
これは今は品切れ状態だが、岩波文庫にある。
残念ながら、わたしは持っていない。
この短編集に、魯迅の作品で「故郷」と並んでどうしても読みたかったものが入っている。
仙台医学校時代の恩師を描いた「藤野先生」だ。
中国語のテキストを読み進めていくうちに、どんどん絵(イメージ)が浮かんでくる。 上野公園の桜にはじまって、藤野先生との別れにいたるまで一連の出来事が絵になって見えてくる。
この作品は短いもので(中国語で6頁)、中学か高校の現代国語の教科書に入っていたように記憶している。
日本語を仲介していないせいか、初めて読んだときの感動がそのまま再現された。
魯迅のこころのなかで、藤野先生の言葉はこんな風に聞こえたんだなあ。
そう思うと、どういうわけか涙が浮かんだ。
藤野先生はたった一人の中国人留学生・魯迅を気遣って、授業ノートを添削してくれた。 あまり熱心な生徒ではなかった魯迅にとっては、ありがた迷惑だった。
それに心配もあった。
その不安は的中した。
了見の狭い学生たちが、藤野先生が魯迅に試験問題を教えていると騒いだからだ。
しかし、藤野先生は気にもとめずに、魯迅にしてみれば大きなお世話(?)みたいな添削を続けてくれた。
やがて魯迅は文学を通じた革命運動に心を向けて、学校をやめて仙台を去ることにする。
藤野先生には生物学をやることにしたとウソをついた。
それだけの親切を無駄にはできなかったリップ・サービスである。
先生は「医学のために教えた解剖学だから、生物学には大して役に立たないでしょう」と溜め息まじりに云った。
原文で読むと、ことさらに泣ける場面だ。
藤野先生という人はほんとうに生徒を愛する立派な人だったんだと、改めて思う。
良い教師とは、「てんでわがままでなんにもわかっちゃいないガキ」を、親が我が子を愛するようにひたすら慈しむ。
その努力は現実面ではほとんど徒労に等しい。
ガキは立派な先生の思いなんか、受け止められない。
自分が大人になってはじめて、そのありがたさがわかるように、世の中は仕組まれている。
しかし以下はわたしの妄想だが、こんなことを考えてみた。
魯迅は後年、まさに中国人民を相手に、徒労にも似た啓蒙活動を続ける。
これはペンをとっての教育であり、戦争である。
中国の未来を案じ、「マーマーフーフー」という怠惰で卑怯な時代精神を根絶しようと絶望的な戦いを続けた。
魯迅は今日の中国ではもう読まれないという。
こんなしんどい人は、記念館か図書館の奥で静かに寝ていて欲しいというのが、中華民族全ての願いであろう。
そういう戦いを続けた魯迅だからこそ、仙台という地方都市で貧乏な解剖学者として一生を終えたであろう人物に歳月をへるほどに懐かしみを憶えたに違いない。
言葉にすれば安っぽいが、「人類愛」とでもいうべきもの。教育や啓蒙といった徒労にも似た行為に、しぶとく挑みつづける戦士(もののふ)の魂を感じ取ったのではないか。
魯迅は藤野先生のその後は知らなかった。
昔の作家のエッセイで、この藤野先生の甥について書いたものを読んだことがあるような気がする。
はっきりとは憶えていないが、もしかしたら司馬遼太郎さんだったかもしれない。
それによると、藤野先生は学者としてはあまり出世もせず、世間的にはさほど評価されないまま生涯を終えたらしい。
魯迅が去ってほどなく仙台の医学校から別の学校に移ったと書いてあったような気もする。
あんまり記憶があやふやなのだが、とにかくそういうことであるらしい。
いつもみすぼらしい格好をしていて、市電に乗れば車掌が「この電車にはスリが乗っているから気をつけてください」と車内にアナウンスした藤野先生。
だが、その高貴な魂は偉大な教え子の筆を通して、永遠に生き続けるだろう。
たぶん、その魂に共感する心の持ち主たちがいるかぎり。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月 4日
お待たせしました。
「鑑真和上が日本の恩人である理由(完結編)」をついに書き上げました。
ただ長いので、読書日記ではなく、エッセイ集「歴史の散歩道」に入れました。 ここをクリックすると、飛びます。
ぜひ読んでください。
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月 3日
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月 2日
まずはお礼を。
アニメ版「CAT'S EYE」(北条司)のアダルトなお姉様「泪」の声優さんの声がわかりました。
メールどうもありがとう。
藤田淑子さんですね、たしか。
ご指摘のとおり、「一休さん」の声でもありました。
さて、掲示板にアップした内容をちょっと補足します。
発見!「鉄のクラウス」の故郷
青池保子さんの「エロイカより愛をこめて」って、まだ続いているんですねぇ。
軍縮の時代だってのに「鉄のクラウス」こと、NATOの万年少佐クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ氏はがんばっているみたい。
KGBの子熊のミーシャなんて、とっくにリストラされてるだろうな。
無能な赤い狐なんか特に。(笑)
それともプーチンが昔の部下だったおかげで、シベリアから戻ってこれたとか。 下のURLは、青池保子さんの公式サイトにあるドイツの町「エーベルバッハ」市の観光案内です。
http://www.aoike.gr.jp/fr/fr05.htm
エーバルバッハ家の紋章は、猪でした。
「エーベルバッハ」市の紋章もおなじイノシシ。
ほんとにあったんだ。エーベルバッハって。(笑)
青池さんも実際に訪れているし、ファンが押しかけたそうで、青池さんも同市からなんかの賞をもらったらしいですね。
しかし、青池さんのサイトは過激だ。
ドイツ語版の「NATO公式ページ」にリンクしてある。(笑)
しかし、ふつー、こんなところにリンクを貼るかな。(爆笑)
ちなみにアドレスはここ。
http://www.nato.int/
いくら少佐の勤め先だからって……
ところで、探していた坂田靖子さんの本の名前は「マーガレットと御主人の底抜け珍道中」でした。
全五巻のコミックが絶版になってどこにもない。
それが文庫二冊に合本されていました。
出版したのは、早川書房。
あじなことをしてくれるじゃないの。(泣)
おかげで、堪能しています。
なにせ、10年近く探していた本だから。
坂田靖子って、とてつもなく博学で絵が素敵で、ストーリーがばつぐんに面白い。
わたしは「マーガレットと御主人の底抜け珍道中」の他には、バジル卿シリーズも好きです。
マンガ家であれ作家であれ、女性創作家はどっかで調べてきた内容を下痢便みたいに怒涛のごとく垂れ流す人がほとんどだけど、坂田さんは咀嚼して料理して、ほとんどさりげなくそっと出している。
ガキにはわからないかもしれないけれど、ひねたおっさんやおばはんなら「物凄い蓄積のある人にしかそういう芸当ができない」ことは骨身にしみてわかる。
この人はええですは。
だいいち博物学の薀蓄まで、作品中にさらりと描いて厭味にならないなんて、よっぽど余裕がないとね。
とにかく嬉しい日でした。
先週はほんと忙しかったし、来週はどうかなあ。
とにかく気力の続く限りHPの更新は続けますので、どうぞよろしく。
明日もメルマガがあるぞ!気張らねば。(笑)
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 次の日記
3月 1日
昨日(2月28日)昼間近くの新宿紀伊国屋でドイツ語の洋書を買ってきました。
岩波文庫がお手本にしたレクラム文庫が日本の文庫本よりも安く買えるのです。
ひまくさい話だけど、こんなものを買いました。
1)ニーベルンゲンの歌
2)ゲーテの詩集
3)ハイネの詩集
4)シュトルムの「インメンゼー」
5)ゲーテの「ウアファウスト」
最後のは、あの「ファウスト」のプロトタイプですね。
このごろドイツ語が辞書なしでなんとなく読めるようになりました。
ハイネの詩なんか、理解率は100パーセントかも。
昔読んだから、内容はすぐわかる。
それをいっちゃあ、今日買ったのは、みんなそうだ。(笑)
しかし、なんで「ニーベルンゲンの歌」(Das Nibelungslied)なんて買ったんだろう?
これは、ご存知のとおり英雄ジークフリートを殺されたその妻クリームヒルトの凄まじい復讐劇です。
夫を殺した兄と従兄弟を謀殺する陰惨な話なんです。
……なんで、こんなもん読んでんですかね、わたし?
もしかして、女王さまが好き?(笑)
冗談は抜きにして、わたしは神話・伝説が好きなんですよ。
ジークフリート伝説にはいくつかの形態があります。
いちばん有名なのは、この「ニーベルンゲンの歌」。
ただしアイスランドのエッダでは、ジークフリートはシグルズという名前で登場します。 また「ヴォルスング・サーガ」というサーガでは、シグムンドという名前で陰惨な復讐をする人物が登場します。(ちなみにこのサーガは数あるサーガのなかでも最も暴力的で陰惨だと云われています)。
ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」は「ニーベルンゲンの歌」を参考にしているけれど、アイスランドのエッダとサーガの世界から取材しています。
わたしはアイスランドのエッダとサーガも「ニーベルンゲンの歌」もワグナーの楽劇も好きです。
なんか人格に問題があるのかもしれないと、よく言われます。(笑)
|
先頭に戻る | 目次に戻る | 前の日記 | 次の日記
© 工藤龍大