久しぶりの読書日記です。 昼間の雑談日記の更新もままならない日が続いています。 ちっとばてて雑文書きもきつかった。 英文資料を読んだり翻訳したりしていたので、さすがにくたびれました。 夏休みの旅行疲れがそれに重なっている。 休んで遊んで疲れていちゃあ、仕方がない――。 ところで、へろへろしながらも、『ちいろば先生』(三浦綾子)を読み終わり、上野の国立美術館の『天神さまの美術展』に行ってきました。 上野に出かけたのは、先週の土曜日。体力的にきつかったようです。 それで体力の残金ゼロになりました。 それでもウィークデイには『日本の中の朝鮮文化』(金達寿)を読み、昨日(29日)は『忘れ得ぬ言葉――私の赤い手帖から』(三浦綾子)を読みました。 『日本の中の〜』はかつて講談社文庫から出ていた名著。 今度は講談社学術文庫で衣装を変えて再登場。 でも、読めて嬉しかった。 ただ内容的にはそれほど目新しいことがなくて、もっと詳しい本も今ならたくさんある。 先駆者の宿命というやつですね。 でも、日本人の姓としてありふれている井上、新井、神田、和田、吉川、大野、加藤、小谷野、阿部、金子、中山、武藤といった姓が、13世紀に高句麗の末裔=高麗(こま)氏から分かれたという事実は面白い。 ここにあげた姓は日本中どこにでもわさわさいますからね。 日本人なら、この姓を持つ人たちと全然付き合いがないってことはありえないでしょう。 といっても、この姓の元になった埼玉県日高市にある高麗神社のことなんか、その子孫はご存知ないはず。 これらの姓は神奈川県から東京の多摩地区、埼玉県にかけて興った鎌倉武士たちの家系ということになっていますから。 高麗氏の祖・高麗王若光が神奈川県の大磯にやって来たのが7世紀。 高麗王若光は「こまのコシキ じゃっこう」と呼びます。 大化の改新の後ぐらいじゃあね。 覚えていろというほうが無理です。(笑) 何が言いたいかというと、朝鮮を新羅という国が統一した頃、それを嫌って新羅に滅ぼされた百済や高句麗の王族・貴族が国ごと引っ越してきたみたいに、関東・東海地方へ移住してきたということ。 韓国の歴史教科書に書いてあるのと違って、日本人に朝鮮民族が大陸文化を教えてやったのじゃなくて、「今の朝鮮民族のご先祖を嫌った朝鮮半島生まれの人々」が日本人の祖先だったのです。 もちろん日本に元からいた縄文の人たちと混血して、いまの日本人ができあがった。 それを考えると、日韓(または日朝)の関係は一筋縄ではいかない気がします。 なんとなく親しみがあるけど、だいっ嫌い。 こういう関係は始末におえませんね。 男女の腐れ縁みたいなものです。 かくいう私もまだ韓国鎖国論者にもならずハングルなんか勉強してますしね。 あっ、これは全然関係ないか! 三浦綾子さんの『忘れ得ぬ言葉』には感動しました。 旭川へいって、三浦綾子文学記念館を見学し、神楽見本林を歩いたり、三浦さんの自宅の前をうろうろしたり、遂には三浦さんが光世さんと結婚した六条教会まで押しかけた。 そのせいか、三浦綾子さんがますます近しく思えるようになりました。 文学記念館で流していたビデオや自作朗読テープを聞いているうちに、三浦さんの声が耳の奥にすっかり棲みついたような気さえします。 『道ありき』を再読したり、この『忘れ得ぬ言葉』を読んでいると、まるで三浦さんに耳元で語りかけてもらっているようです。 気がつくと、自然と涙がこぼれていました。 |
このところ爆睡ばかりでろくに読書もできません。 北海道に行っていたときは、飛行機や列車の中でNewsweek英語版を眺めたくらい。 あとは寝床で『新撰組血風録』(司馬遼太郎)や『司馬遼太郎の日本史探訪』を読みました。 三浦綾子さんの『ちいろば先生』もまだ読みかけ。 珍しく本を読まなかったなあ。 親戚の子供たちと遊んでいるから時間がとれなかったのです。 本は読まなかったけれど、旭川の神楽見本林(あの『氷点』の舞台)にある三浦綾子文学記念館に行ってきました。とても素敵なところで、機会があったらまた行くつもりです。 自動車で道東を回ってきたせいか、まだ疲れがとれないのか読書はさっぱりです。 やでやで、人間年はとりたくないもんだ。(笑) 帰りに千歳空港でアイヌの人たちが物産展をやっていました。 婆ちゃんたちが若い男の子たちと一緒に汗をかきながら民族舞踊を披露していました。 年寄りと若いもんが一緒になんかしているのは、いい風景ですね。 そっちの方に感心してしまいました。 いよいよ「おっさん」だなあ、我ながら。 ところで、アイヌの民族楽器にムックリというのがあって、なかなか良い音を出します。 どこの土産物屋にもあるけれど、わたしは昔から音を出せたためしがない。つくづく音楽はだめですねぇ。 その実演をやっている髭のおっさんがいたので、たいしたもんだとアホウのように感心してしまいました。 ただ、その人は民族音楽の人じゃないらしく、アイヌ関係の書籍を並べて売っていました。 ミントの苗を空輸するところだったので、荷物になる本なんか買うつもりはなかったのですが、つい買ってしまいました。我ながら懲りないやつです――。 そんでもって、購入した本の題名は『Akor Itak』(アイヌ語テキスト 1)というアイヌ語の学習書。 北海道各地でアイヌの人たちがやっている「アイヌ語教室」のテキストです。 これがなかなか楽しめます。 今週末には、なんとか読破してやろうと思っています。 とりとめない話ですが、本日はこれにてさようなら。 |
岩波新書の「維新前夜の文学」(杉浦明平)を再読しました。 古本屋でみつけた懐かしくて買ってしまいました。 これと「戦国乱世の文学」というのが、むかし岩波新書にはいっていて、面白く読みました。 維新前夜というと、江戸時代の終わりごろなんですが、杉浦氏にいわせれば創造力が枯渇した時代と一刀両断です。 ルネッサンスの研究家でもある杉浦氏には、日本人の文学がなんとも生ぬるく見えたのかもしれない。 とにかく、いいところなしです。(笑) ただ、いまから見ると、かえって批判されている人々の方が面白そうにみえるから不思議なものです。 「おや、そうかい。なら、読んでみよう」という気になる。 かえってガイドブックになるかもしれない。 ただし、ヘソ曲がりの人専用ですけど。 杉浦氏が大衆文学にすぎないとけなした頼山陽の「日本外史」ですが、わたしはまさにそれだからこそ楽しんで読めました。 杉浦氏がけなすものほど、じつは面白い! ――と思います。 だから戯作なんて、かなり面白く読めるんじゃないでしょうか? ところで、この本にはほんのちょっとだけ幕末の志士たちの和歌が紹介されていた。 ほとんどはつまらないものです。 あの高杉晋作だって、こんなつまらない和歌しか紹介されていない。 「死んだなら釈迦や孔子に追付きて 道の奥義を尋ねんとこそ思へ」 そこへ行くと、坂本竜馬の和歌は良い。 「世の中の人は何ともいはばいへ わがなすことは我のみぞしる」 あれっ、 これに続けて、「♪元気出していこう。ニッポン男児でいこう♪」といけば、故・河島英五歌じゃないの。 そうか、竜馬ファンの英吾は竜馬の和歌を使っていたんだ。 「竜馬がゆく」を読んでから、もううん十年。 そんな和歌があったことなど、とんと忘れていた。 あの歌はこの頃ではとっても気に入っていたのですが、根っこに竜馬がいたとはねぇ。 ひたすら感心するばかりの、読書家です。 追記: このあいだ竜馬の妻・「おりょうさん」の写真が見つかりましたね。 けっこういけてる風じゃありませんか。 「燃えよ剣」のバラガキの歳といい、幕末の美形は現代に通じますなあ。(笑) |
一日遅れが決まりの読書日記なんですが、ちょっと一言。 やっと週末だぁ! 先週からのチョーお忙しモードからやっと解放されました。 ようやく読書日記も復帰できます。 さて、ここからが本日の読書日記。 このクソ忙しい毎日では、さすがの鉄人読書家も本を読むどころじゃない。 といって、活字は捨てられぬこの体! みょうな本にはまっていました。 笑っちゃいけません。 その本の題名は「小学生の漢字早おぼえ字典」(学研)! ところが、これがめっちゃおもしろいんですぅぅ!(笑) たとえば、「悪」という漢字があります。 なぜ「悪」という漢字は、「わるい」という意味を持つのか? この字典を読めば、いっぱつでわかる。(笑) 「悪」の上にある「亜」の字はもともと「建物やお墓をつくるために掘った四角い穴」という意味だそうです。 それが転じて、「上から押さえつけられる」という意味が生まれる。 「悪」という字は、「心」が上から押さえつけられている。 つまり、この漢字の意味は、「こころがおさえつけられて、むかむかする、いやな気持ちのこと」だそうです。 「悪」をこれだけ簡単明瞭に定義する辞書は見たことがない。 ある辞書によれば、「亜」は「お墓」を意味する。「悪」とは、お墓をみて嫌な気持ちになることだったそうです。 すると、お墓参りなんて最大の「悪」になってしまう。 そんなことなら、最初から墓なんか作るな!(笑) というわけで、こっちの説は信用できませんね。あほらしくて。 学研の「小学生の漢字早おぼえ字典」の方が信用できる。 中型漢和辞典をいくつか調べてみたのですが、「小学生の漢字早おぼえ字典」よりも切れる定義はないですね。 で、編者をみると、「藤堂明保」とある。 字典の序文を読むと、この人は「藤堂方式」という漢字分類方法を独自に編み出した人のようです。 文学博士というから、もしかしたら偉い学者さんなんだろうなという気がします。 「読みはじめたら、やめられないほどおもしろい――それは真理(しんり)をふまえたほんものだからです」 ――なんて、子供向きの本に平仮名で堂々と宣言しているあたり、ただものじゃない感じですね。 「ひらがな」というあたりに、めらめらと燃える男の情念を感じませんか? どうも気になって、新宿と池袋の大型書店をはしごして漢和辞典をいろいろ見比べてしまいました。 この藤堂明保という人は、やっぱり有名な大先生でした。 学習研究社(=学研)から漢和大字典という大型辞書を出しています。 それはみつからなかったけれど、そのダイジェスト版らしい「新字源」というのが、同じく学研から出ています。 こっちは藤堂先生のお弟子さんたちがまとめたもの。 藤堂さんはとっくに亡くなっていたのです。 しかし語義の説明や漢字のなりたちは、藤堂先生の「藤堂方式」そのもの。 象形文字から漢字の原型がいかに出来たかを図解して、語義をあきらかにしてゆく。 なんだか宮城谷昌光さんの小説みたいです。 いや、宮城谷さんのほうが、漢学者さんたちのやり方を小説に応用したというべきか。 漢字は象形文字だったんだと、あらためて悟りました。 今度は「新字源」を最初から読んでみるつもりです。 ほんとに、「読みはじめたら、やめられないほどおもしろい」。 それは、藤堂先生の学問が真理を踏まえた本物だからでしょう。 やっぱり、ホンモノにはかなわない。 |
先週はいやに忙しくて、土曜日は休日出勤。 読書どころじゃないって感じです。 おかげで、日曜はクウガに浸りっきり。 いったい、なんなんだ。 といっても、ああいう熱い作品はいいですねぇ。 わたしは日本の小説は年々歳々、読まなくなりつつあるのですが、それもこれもなんか冷やっこい感じが好きくないからです。 どーも「熱い!」ってものじゃないと、読む気がしない。 小説ってメディアは、もはやマンガや特撮ほどにはホットになれない分野なんでしょうね、きっと。 仕事がら一日中、CRT画面を睨んでいると、さすがの「鉄人読書家」もへこたれます。 ネットで、クウガやアギトのサイトを眺めるだけが精一杯。 おかげで、クウガの敵役グロンギ人の言葉はかなり覚えました。(苦笑) それでも電車通勤のつれづれに、ずっと読んでいる本がある。 それは、百人一首! 一番目の天智天皇の歌は思い出せないけれど、その娘の持統天皇の歌が二番目にあって、これが好きです。 「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」 別に王朝風のロマンに浸りたいわけでもないし、正月のカルタ大会で優勝をめざしているわけじゃないですよ。 じつは、この百人一首は野ばら社という書道や図案関係の出版社から出ているものでして、眼目は高塚竹堂という書家の書いている草書体にある。 つまり、古文書読破術を身に付けようという野心を起こして、その手始めに草書で書かれた「百人一首」を読み込もうとしているのですな。 古文書に親しむには、「百人一首」や「古今集」なんかのよく知られたテキストを草書で読むことから始めたら良いとききつけて、こんなことをやっているのです。 でも、なかなか馬鹿にはなりませんね。 古文書が読めるかどうかはわからないけれど、草書体のパターン認識能力がついたような気がします。 「か」と「の」の変体仮名がそれぞれ「う」と「れ」にそっくりなんて知ってました?。 わたしは、四十の手習いではじめて知って、ををっと驚きました。 まだまだ世の中には知らんことがいっぱいあるなあ――なんて。 ご存知のように、「百人一首」は藤原定家の編んだ和歌集で、恋の歌がほとんどだけれど、仕事で疲れた頭で毎日紐解いていると、どうも違うんじゃないかという気がしてくるから妙なものです。 なんといったら、いいか。 どうも、人生の真実を教えてくれるように読めてくる。 いや、むしろ和歌が人生学のテキストのように思えてくるから不思議です。 「山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみじなりけり」 これなんかは恋愛の歌にも思えるし、実社会のしがらみや人間関係のややこしさとも取れる。 たぶん、どっちの読みも正解なんでしょう。 和歌で人生智を身につけた、この国の武将たちの気持ちが少しわかるような気がしてきました。 |
久しぶりの読書日記です。 今回のお題は、高倉健さんのエッセー集「あなたに褒められたくて」です。 あなたって言うのは、他でもない健さんのお母さん。 お母さんに褒めてもらいたかったのが、人生を生き抜いてきた秘密――というわけ。 日本の男ってのは、どーなんでしょうか。 男っぽいようなイメージがある人ほど、なんかフェミニンなところがある。 女性的といってしまえば、あきらかに違う。 でも、「永遠に女性的なるもの」の使徒といえちゃう何かがある。 鬼平が似合う吉衛門さんも、そう。 女性的といえば、ゲイと勘違いされそうだけど、そうじゃない「女性=性」とでもいうべきものの体現者じゃないですか。 それは、田嶋陽子センセとそのお弟子みたいな、解剖学的な female ではあるけれど、実体は限りなく人外魔境(=バケモン)なあの生物群とは違う、あれですね。 わが愛読書の「古事記」のヒーロー、スサノオノ命や、ヤマトタケル命もそうなんですよね。 この国の男っぽいイメージの、男どもはどうも「永遠に女性的なるもの」の分身のような気がする。 高倉健さんも、まさにそのとおりで、映画でみるイメージで読んでいくと「あれ?」というところがある。 どこか違和感があります。 たとえば、大スターだった高倉健が自分にまつわりついてくる大部屋俳優をいじめて楽しむ逸話があり、熱い心で健さんを思いやるファンの心に鈍感な部分を披瀝したり、あれあれと思ってしまう。 いっぽうでは、スターゆえの孤独を痛切に伝える述懐ありで、心の振幅にすごい幅がある。 いったい、どういう人間なのか、よくわからなくなりました。 ひどく暖かいようで、ある面ではひどく冷淡。むしろ意地悪とさえいえる。 こういうあたり、男から見ると、「オンナ」なんですよね。 あの生き物のわけのわからなさ加減に、痛い目にあっているやつには「オンナ」という単語で、わたしが何を言いたいのかわかってもらえると思います。 そうなんですよ。 天下の高倉健のエッセイを拝読してみて感じたのが、女性エッセイストにありがちな「テイスト」なんです。 「そうはいうものの、わたしはそれが嫌いではない」と書くのが、マスコミ業界の物書きの定石だけど、わたしには無理ですね。 わたしは「それ」が嫌いなんです。 なぜだか生理的に受け付けないところがある。 どうしてなんだろう? よくわかりません。 ただ言えるのは、弱い立場の人を苛めて楽しむことや、人を裁くようなところは自分でも絶対にある。 そのことは、自覚しているだけにやりたくない。 自分でもやりそうだから、他人の懺悔話はいっそう面白くない。 一言で言えば、わたし自身が単純かつ退屈なおっさんに過ぎないということでしょう。 ただし、こういう人間的な弱点を持つ人が魅力的なことはわかるし、ダークな面を自覚して反省する部分だけ、良い人であることはじゅうぶん理解できる。 弱いもの苛めの告白は懺悔にもなるし、女性のように思いをめらめらと燃やして生きる姿は美しくある。 物欲に弱くて、デーハなものが好きな部分や、形から入る取り組み方は、万人向けの魅力です。 高倉健さんの魅力はそこに根っこがあるのは、間違いない。 おそらく映画スターや、ヒット歌手になる要素は、案外そんなものかもしれないなと改めて思います。 ただ、なんとなくわたしにはもうピンとこない。 むしろ、健さんがひかれたというポルトガルの貧漁村サンタクルスで村じゅうの人間たちの敬愛の的になった壇一雄のような人のほうが慕わしい。 「むかし、男ありき」という感じがするから。 もちろん、ルックスは健さんの方がずっと上だけど。 わたしは不細工な男の外聞に漏れず、ルックスの良い女の子より心映えの良い女の子が好きという、女の子からはまず好かれないタイプです。 女性というものは、ルックスの良い若い女の子を好む男が好きですからね。 どうも、このごろは男の好みも、そっちの方へ傾きつつある。(笑) いや、それは昔からか。 羽振りの良さそうな男よりも、心映えの良さそうな男の方が良い。 わたしは、たぶん一生金持ちにはなれませんね、きっと。 男っぷりでは日本一の健さんのエッセイを読んで、かえって「男稼業」の難しさを知ってしまった。 男の魅力ってのは、挫折のなかでしか磨かれないのかもしれません。 死ぬほど努力しても報われない。 自殺しても死に損ねた。 そういう男だけが、なんともいえない漢(おとこ)の魅力を漂わせることができる。 ぼんやり考えていたことが確信に変わりました。 敗北を知り、そこから立ち上がることでしか男は磨かれない。 古今東西、わたしが好きな漢(おとこ)とはそうやって生きてきた人々なんだ。 いや、男だけじゃない。女だってそう。 そうやって切羽詰って生きている人が好きだ! そんな人に会いたくて、一年参百六拾五日、本を読んでいるのです。 そんな人たちに褒めてもらいたいというのが、実はわたし自身の切実な願いだけど、健さんの魂の振幅についてゆけないところをみると、道はぜんぜん遠いなあ。 |
© 工藤龍大