お気楽読書日記:11月

作成 工藤龍大

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11月

11月30日

『歴史の活力』(宮城谷昌光)を読みました。
そして、この本で触れていたマキアベリについて、振り返ってみようと『マキアヴェッリ語録』(塩野七生)を読み直しました。

塩野さんの本は、ルネサンス期の思想家の主著から、事例を抜き取って格言みたいに抜粋したもの。
(イタリア語に執着しないで、以後もマキアベリと書きます。)

ただし、本当のマキアベリはこんな生きのいい文章では翻訳されていません。
くどくど事例を引いて、説明するかなりねちっこいタイプの思想家で、刺身と素麺を好む国民にはまず受けないでしょう。

それを口当たり良くまとめた力量はさすがという他はない。

薄い本であっという間に読めたけれど、なんともいえない不思議な気分でした。
最近、ここに書かれていることとそっくりなことを読んだような気がするのです。
だいぶ前に読んだこの本の記憶とは違う。
なぜなら、マキアベリの言っていることはコインの半分で、真実にはもう一つの側面があるとわかるからです。

わたしが考えついたわけではなく、人の書いたものを読んで学んだ――そう思えてならない。

どうにも気になって、塩野版マキアベリ語録を何度も繰り返して読んでいるうちに、はっとひらめきました。
『論語』だ!
あの中で、ここにある言葉を何度も読んだような気がしたのです。

ただし、マキアベリの言葉と同じ内容ではありません。
「今だ未熟!」としりぞける孔子の言葉のなかで、批判の対象としてマキアベリ型思考は登場する。

宮城谷昌光さんは、さすがに良いことをいう。
マキアベリの思考法は、現実にのっとったリアリズム=「覇道」である。
しかし、それを超えた「王道」というものがあるのだと。

マキアベリの「覇道」を論じた思想家、実践した政治家は、中国では数が多すぎて例をあげるどころではない。
いや、むしろ中国でサクセスする人にとって、昔も今もマキアベリの言っていることは常識以外のなにものでもない。

「他者を強力にする原因を作るものは自滅する」(『マキアヴェッリ語録』)
これは、項羽と劉邦の時代から常識ですね。韓信と張良の故事を知らない人はいないでしょう。

「次の二つのことは絶対に軽視してはならない。
第一は、忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども、溶解できるなどと思ってはならない。
第二は、報酬や援助を与えれば、敵対関係すらも好転させうると思ってはならない。」
(『マキアヴェッリ語録』)

少なくとも、中国の方とお付き合いする場合は公私ともに、このことを肝に銘じておかないと、例外なく痛い目にあいます。(笑)
あの方たちは、忘れませんからね。どんな些細なことでも、人が自分に追わせた傷については。
ただし、自分が他人に追わせた傷については、他の民族同様にすさまじい健忘症を発揮するのはもちろんです。

ただし、これだけではダメなのです。
マキアベリ型覇道の泣き所は、「運」です。

こればかりは、どうしようもない。
「運」という不可解なちからが働くときだけ、マキアベリ型戦略は成功する。
ツキがない人間には、不思議なことにマキアベリ型戦略は使おうとすればするほど裏目に出る。

前に言ったことと反対のようですが、中国の人にはそれが良くわかっている。
最後に勝った側の人々は、マキアベリ型戦略の弱点を知り、それを逆手にとっているのです。

宮城谷さんは、マキアベリ型戦略の上を行く戦略を「王道」と呼びます。
孔子が言っているのも、同じこと。ふたりは、マキアベリ型思考の上を行く究極の戦略を語っているのです。

「王道」と「覇道」の違いは何か?
それは、「王道」が「運命」を味方にする道であること。

ツキそのものを良くしてしまうのが、「王道」です。
だから、「運」が悪い人には使用不可能な「覇道」よりも強い。

実例は、中国史にはこちらも多数あるので、例証するのも面倒なくらい。
現代中国だって、同じなんですよ。

「運」を味方にする戦略はすさまじいまでに厳しい。
たとえば、宮城谷さんはこんな例をあげています。

周王朝をたてた武王は、都をどこに置くか考えあぐねて弟の周公旦に相談した。
山の上に要害地はどうかというと、周公旦は天下の物資を都に庶民が運び込むのに、難儀を負わせると反対する。
しかも、こんなことまで言ったそうです。
「周に暴乱のおこないがあれば、天は周を伐とうとしても苦しむでしょう」と。

運命を味方にするとは、厳しい自制心がなければ不可能なのです。

マキアベリの語録を読んで、いやな気分になる人はいないでしょう。
ここには、人間という社会的動物の事実が書かれている。いっしゅ爽やかな魅力がある。

ただし、それは決して人間にちからと元気をくれる知恵ではない。
マキアベリの爽快な思考を楽しめるのは、いま繁栄している側にいる人間だけなのです。
これから――という人や、明日こそと思う人には無縁の思想といっていい。

宮城谷さんの本を読んだおかげで、「王道」という東洋的理想の凄さと、西洋型戦略思考のエッセンスの脆弱さ・あやふやさがよく分りました。

なにもマキアベリなぞを有り難がる必要はどこにもない。
それよりも、もっと良いものがずっと前からあったんだ。

たとえば、『論語』。
『論語』は、いまはツイていないけれど、いつかきっと良くなるという確信を読者に与えてくれる本です。
理由は、これまで書いてきたことで明らかでしょう。

マキアベリの覇道が運命の女神を殴りつけて金をくすねる風俗嬢のヒモみたいな生き方だとすれば、王道は運命の女神のソウルメイトになること。
どっちが良いかは、はっきりしています。

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11月18日

『禁忌の聖書学』(山本七平)を読みました。
もう故人となった山本さんですが、この人ほど圧倒的な思索のちからを持つ人も最近ではみかけませんね。

戦争体験と経営者としての経験が、もともと知性の人であるこの人を徹底的に磨き上げた。リアリストでありながら、理想(=志)を決して捨てていない。

乱世にあらわれる貴重な知性と人間力の持ち主です。

山本さんの『小林秀雄の流儀』と『聖書の常識 聖書の真実』を読んできて、山本聖書学の集大成である『禁忌の聖書学』をついに読めたのは、なんとも嬉しいことでした。

聖書についてはありきたりの知識しかなかったのですが、キリスト教関係の出版物を扱った山本さんだけあって、その著書のおかげで、ずい分いろんなことがわかってきました。

とくに面白かったのは、聖書の作られ方です。
いまわたしたちは図書館や書店で気軽に聖書を手に取れます。そこに含まれている「創世記」から「ヨハネ黙示録」までの各書物は、素人目からすると、年代を追って時系列的に順番に書かれたように思える。
特に「モーセ五書」と呼ばれる「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」はそうです。

しかし、これは本来は「律法」(トーラ)という宗教法の書物だったので、歴史的に順番を追って書かれたわけではない。意外なことに、本としてまとまったのが一番新しいのは「創世記」らしい。

旧約聖書は、いっぺんにできた訳ではなく、紀元前160年くらいまでに最後の書(「ダニエル書」)ができて、テキストが固定したのが紀元後70年くらいから140年くらいまでのあいだ。
奇しくも、キリスト教徒の新約聖書が完成したのと同じ頃なのです。

ユダヤ人がヘブライ語の伝承を本にまとめ始めたのが、バビロン捕囚(紀元前586-538)の頃。
それを考えると、紀元前1250年頃に、パレスチナを侵略してイスラエル国家のもとが出来てから、テキストが出来るまでに700年以上。
それからさらに、700年かけて完成したことになる。
なんとも気の長い民族です。

もちろん、その途中でも生成過程にあった旧約聖書がユダヤ民族に伝わっていました。
ただし、普通の人が読む旧約聖書の言語は、ヘブライ語ではなかった!

紀元前332年にアレクサンドロス大王が中東を征服してから、ここの公用語はギリシア語となっていました。
だから、もっと後の時代もイエスもヘブライ語は話せなかったようです。
ヘブライ語がわかったのは、エリート中のエリートだった祭司階級の一部だけ。

そうでない人は平民から貴族まで、パレスチナの土俗語のアラム語と、俗化したギリシア語を使うようになったのです。
近代ヘブライ語は、旧約聖書原典の研究から作り出された人工言語です。

では、一般のユダヤ人は何語で旧約聖書を読んでいたかというと、ギリシア語です。
紀元前三世紀に、七十二人の学者がヘブライ語の旧約聖書を、ヘレニズム時代のギリシア語に翻訳したとされる「セプタギンタ」(七十人訳)というのがそれ。

すると、ヘレニズム時代に書かれた「旧約聖書」の書物にはギリシア語でのみ書かれたものがあるはずではないかという疑問がでますね。
まさにそのとおりで、「アポクリファ」(旧約聖書外典)と呼ばれる一群の書物がそれです。
これは、カトリックの聖書には入っているけれど、プロテスタントの聖書には入っていません。

なぜかというと、ヘブライ語で書かれたものしか旧約聖書とは認めないというドイツ人文主義者の仕業でして、それを採用したのがマルティン・ルター。
あとのプロテスタント諸派はみんなそれに倣っています。

この時代に書かれたヘブライ語原文ありの旧約聖書の書物は、祭司階級がかれらの資料をもとにして作成したものです。

ただし、上に書いた「七十人訳」の翻訳作業はあくまでも伝説で、紀元前200年ころから紀元前後にかけて長い時間をかけて翻訳したものだそうです。
現代のような情報社会なら、こんな状態で聖典などと認めることはできないのですが、仏教であれ、イスラム教であれ、キリスト教であれ、いま観るかたちに原典が固まるには五、六百年くらいかかるのは当たり前。
驚くことはありません。

以上のことから考えてみると、「聖書」という書物はユダヤ民族の狭い民族主義の産物とはとてもいえませんね。
だいいち最初に出来た「モーセ五書」でさえ、作られ始めたのは、中東の大帝国新バビロニアの首都バビロン。
これにだって、中東文化の影響が色濃く反映されている。

しかも、その後はアケメネス朝ペルシア、ヘレニズムの後継者王国(セレウコス朝)、ローマ帝国の支配に入りつつ編纂作業が行われている。
この期間をつうじてパレスティナあたりの文化的な主要言語はギリシア語だから、東洋化したギリシア文化(=ヘレニズム文化)の圧倒的な影響力と浸透力のなかで、旧約聖書の編纂作業は続けられている。

純粋なユダヤ民族のまっさらな伝統なんて、存続できたとは思えません。
当時の世界文明の潮流にさらされた産物と考えざるをえないでしょう。

ところで、これは山本さんの話とはまるで関係ないのですが、意外なことに気づいてしまいました。

『法華経』といえば、戦後大発展した某宗教団体のおかげで知らない人はいないでしょう。
ところで、あれがいつ出来上がったのかご存知ですか?
どうやら、紀元後100年ころだそうです。

そして、浄土宗・浄土真宗のお経である「阿弥陀経・無量寿経」が北インドで出来たのが紀元後140年ころ。「観無量寿経」が中央アジアで出来たのが、その少しあと。

ご覧のように、大乗仏教の代表的な経典は、ユダヤ教徒による旧約聖書の完成、キリスト教徒の新約聖書の原典完成とほぼ同時期にできている。

これをただの偶然とみるべきか?

旧約聖書、新約聖書、法華経、浄土三部経をそれぞれ何度も通読してみると、どうもそうとは思えない。

わたしはキリスト教徒ではありません。もちろんユダヤ教徒ではますますない。
しかし、どうもこれらの書物には表面的な違いをこえて、何か同じものが底流にあると思えてならない。

文献的な接触や学者の交流があったとはもちろん思いません。
ただし、何か同時代的な理想を感じるのです。
現代において、平和主義・環境保護・人道主義がそうであるような、共通の理想のようなものを。

おそらくユダヤ教も、キリスト教も、大乗仏教も、ヘレニズム文化という初めての世界文明の子供なんじゃないだろうか。
――と、わたしは考えています。

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11月17日

仕事柄、英文ばかり読んでいるせいか、ときどき漢字がなつかしくなります。
もちろん翻訳が仕事なので、日本語も読み書きしますが、これがねぇ。

コンピュータ、IT関係の翻訳では、難しい漢字は使わないのが業界標準です。
「全て」のようなものでさえ「すべて」とするのが普通。なるべく漢字が少ないほうがわかりやすい文章だとされている。
それに、文語調は使わないことになっているので、文章がどうも平易で退屈なんです。

今日は病院で血液検査にでかけたので、朝から待合室で読書をしていました。
読んでいたのは、岩波文庫の『魏史倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』『旧唐書倭国日本伝・宋書日本伝・元史日本伝』。

さすがに中国の国家が作った歴代王朝史だけあって、漢字がいっぱいある。

しかも、漢文読み下し文や現代語訳よりも、影刻された(漢文の)原文や参考原文としてあげられた他の王朝史の白文引用のほうが多い。
すっかり漢字に堪能しました!

よほど漢字に飢えていたのか、白文もじっくり読めました。
高校生用の漢文参考書で復習したおかげで、だいたいの意味をとるのは難しくない。
古代史ファンには有名な『高句麗好太王碑文』が、『魏史倭人伝〜』には半分ほど引用されています。高句麗が百済を征服した倭と戦って、追い払ったなんて部分をしげしげと眺めていました。

これが書かれたのは、もう千数百年も前なんですね。
それを特殊な訓練がなくても、読めるとは凄いもんです。
これも漢字という文化のおかげですね。

しかし、へんなもので千年以上前の漢文は読めるけれど、わずか百数十年前に江戸時代の変体仮名と草書体で書かれた古文書や黄表紙には歯がたたない。
教育システムで、こんなことが起きてしまう。

おとなりの韓国では若い世代はハングル文字になれてしまって、ご先祖さまたちが二千年ほど蓄積してきた漢字文化に接することができるのは、特別な訓練を受けた国史・国文学の専門家だけらしい。
もったいない話だとは思うけれど、あちらの利口な人は自学独習で身に付けているんでしょうね。
とにかく意思的な努力がないと、先祖からの遺産も受け取れない。

「先祖から相続したものを、わがものとするには改めて獲得せよ」
というゲーテの言葉は真実です。

しかし、徳川時代の文献は読めないけれど、古代中国の本は読める。
これは漢字のおかげでしょう。

宮城谷昌光さんがエッセイで書いていたけれど、この国の人は抽象的な話や形而上的な話が苦手で、そういうことをやりたい人は漢文を使っていたという事情もあります。
鎌倉時代の道元がえらく形状学的な思考を和文でつづった『正法眼蔵』という本もあるけれど、ああいうのは例外中の例外。
少しこむずかしい理屈を言う人は、漢文を使わなくてはいけなかった。
漢文で書くということで、「さあ、これから理屈を言うぞ!」という合図を送っていたこともあるでしょう。

そういうことを考えると、漢字というのはありがたい。
眺めているだけで、背筋がぴきーんと伸びてくる。
もっとも、ヒラガナだって漢字から出来ていることは、変体仮名を勉強するようになってからいよいよ実感するようになりました。

原則的にいえば、変体仮名も文部省制定の現代平仮名も、万葉集の漢字による日本語音写システムとおんなじです。
このあいだ読んだ小澤重男氏の『元朝秘史』では、中世モンゴル語で同じ事をしている。

アルファベットみたいに、音標文字にも使えるし、もちろん表意文字でもある。
たいしたもんだなあと、感謝しつつ、漢字の世界にひたっています。

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11月14日

今年は北条時宗が大河ドラマの主人公なので、ついでにモンゴルが面白くなるかなと思っていました。
鎌倉時代はここ何年かのマイブームが続きましたが、どういうわけかモンゴルはいまいち熱が入りません。
そうこうしているうちに、旧約聖書とイスラム(コーラン)にはまってしまった。

しかし、今年もそろそろ終わる頃でもあるから、少しモンゴル関係を読んでおかないともったいないという気もします。
それで本日の読書日記はモンゴル特集です!

月刊「しにか」11月号の特集「モンゴルの衝撃 史上最大の帝国の実情」はなかなか読みでがありました。
この雑誌は中国文化の専門誌ではありますが、朝鮮文化など中国の周辺民族の文化をよくとりあげています。
専門家がときどき鋭いことを書いているので、素人にも面白く、有り難い知識源です。

ことに類書の少ないモンゴルについては、この薄い雑誌だけでずいぶん物知りになったような気がします。

たとえば世界ではじめて紙幣を大々的に使ったのが、元朝だったということ。
おかげで中国本土で不要になった銅銭が、朝鮮・日本・ベトナムなどの国々に輸出され、貨幣経済がそれらの国々で発達したのです。

鎌倉・室町という日本の中世文化が、古代文化と決別したのは貨幣経済の発達ですから、元朝の紙幣が日本の古代を滅ぼし、中世・近世を開幕させたともいえる。

また元朝とその他のモンゴル国家群がアジア大陸に存在したおかげで、人や物が平和に移動することができました。マルコ・ポーロみたいな小物だけじゃなく、イブン・バツータのようなイスラム世界の大思想家が三大陸(アフリカ・インド・中国)を往復できたのも「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)のおかげ。
イスラム文化が中近東の各地で花開いたのも、まさにこの安全な交通路のおかげでした。

そればかりか、仏教の巡礼やキリスト教の伝道師たちがユーラシア大陸を自由に歩いた時代でもあります。
「世界史はモンゴル帝国からはじまる」という学説を唱える学者がいますが、なるほどそう思う他はありません。

中国にしたところで、元朝によって中国文化が弾圧されていたことはなく、むしろ南北に寸断されていた中国の文化を統一し、熟成させた役割の方が大きい。
明代の中国文化の発展は、元朝の時代に芽吹いていたものが開花したというべきなのだそうです。

日本も、元朝から派遣された禅僧によってずい分影響を受けている。
一例をあげると、この国で仏教の通史がはじめて書かれたこと。
これは鎌倉時代の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』という書物なのですが、著者の虎関師錬(こかんしれん)は元の来日僧・一山一寧(いっさいちねい)の弟子でした。
「中国の仏教については何でも知っているのに、自国の仏教の歴史はさっぱり分っていないのはどうしたことか」と、師の諭された虎関師錬が十五年の歳月をかけて書き上げたのが、この書物です。

元と日本は二度の戦争もあって、国交などないように思っていましたが、人や文物の交流は想像以上に盛んでした。

一山一寧についていえば、その弟子たちから五山文学が生まれ、名僧が輩出したのです。
この人々を抜きにして、日本の中世文化はありえない。

こうしてみると、東西の人や文物が交流する大きな舞台を提供し、世界各地でいろんな国の人々(イスラムや日本も含めて)が独自の文化を発達させる苗代みたいな役割をはたしたのが、モンゴル帝国だったといえそうです。

どうやらこの惑星(ほし)の人類は、四回くらい世界文明を経験したようです。
一度目は、マケドニアのアレクサンドロス大王の時代。二度目がモンゴル帝国。三度目が大航海時代。
大航海時代のあと、中近東・アジア圏は文化的に停滞して、事実上国を閉ざすような状態に陥りました。そして、18世紀末から四度目で最後の世界文明に突入している。つまり、現代文明というやつですね。

そう考えると、モンゴルにちょっと興味がわいてきました。

ところで、最後にもう一冊。
岩波新書の『元朝秘史』(小澤重男)。
この著者は、ジンギスカン一代記と初期モンゴル帝国の歴史を描いた『元朝秘史』研究の第一人者だそうです。

新書だけど、中身はスーパーヘピー級です。
というのも、モンゴル語と漢文の『元朝秘史』原文を引用して、小澤氏の学説を次々と披露しているからです。
パスパ文字やウイグル式モンゴル文字まで本文中に引用してある。

この本の書かれた時期や著者。この本のモンゴル語の原題はなにか。そしてこの本がもともとどんな文字で書かれていたかを推理する小澤氏の思考についてゆくのは骨が折れるけれど、楽しい経験でした。

最後のことについて、少しだけ補足すると、いまに残る『元朝秘史』は中世モンゴル語を漢字で音写した本文と、その脇にあるルビみたいな漢文の訳(傍訳という)、さらに本文の段落が終わったところに、少し小さめの字で全体の漢文訳(総訳という)という形で書かれています。

小澤氏はさまざまな漢字音写された単語から推理して、この書物が本来どんな文字で書かれていたかを突き止めました。
従来考えられていたような(チベット文字をもとにした)パスパ文字ではなく、ウイグル式モンゴル文字であることを論証しました。
ウイグル式モンゴル文字とは、NHK大河ドラマ『北条時宗』のオープニングに出てくる文字です。(もちろん、北条時宗という字だけは違いますけど。)

なんといっても、こういう本の楽しさは、著者の熱気が伝わってくることですね。
「序章『元朝秘史』の発見」の章を読むと、七十歳近い著者・小澤氏にいまだに青春の情熱が燃えているのがわかる。
男はこうでなくっちゃ。
燃えない男なんぞ、紙くずほどの値打ちもない。

小澤氏は、学校(いまの東京外国語大学の前身)に入学したとたんに、学徒動員で工場で働かされることになりました。終戦まで学校では勉強ができませんでした。
ところが、小澤氏はこの時期にモンゴル語を独習したのです。
そのことを生涯の宝を手に入れたと、小澤氏は書いている。
これに、じんとしないような男はソッコーで去勢するべきでしょう。

話がへんなところに落ちてしまった。(笑)
でも、情熱ある著者が書いた本って、どんな題材でも読ませるんだよなあと再確認したところ、本日はお終い。

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11月10日

気がついたら、前の更新からもう一週間。
更新ペースが落ちているなあ。(笑)

ところで、昨日モッくん主演の『聖徳太子』を観ました。
モッくんはあいかわらず凄い存在感と演技!
ソル・ギョングという韓国の俳優も良かった。

久しぶりに泣けるドラマでした。

さすがにNHKだけあって、歴史ドキュメンタリーで蓄積した知識を活用していましたね。
王宮や「もがりの宮」のセットには、飛鳥京の考古学データが巧みに活用されているのに感心してしまいました。
まだ中国文化が入ってくる前の、高句麗・新羅・百済の文化が混在している様子をよくも精緻に再現したなあと唸るばかり。

画面で朝鮮語が飛び交っていたのも良かった。
当時の飛鳥京は、朝鮮半島の各方言(高句麗・新羅・百済)と国内の異言語が混在するミニ国際国家でした。
わたしたちの知る日本語が固まってくるのは、天武・持統時代以後のことです。
本居宣長のいうような純粋日本語・純粋日本文化なんて、実際にはなかったのです。

「そうなんだよ」
「こうでなくちゃ!」
TVの前で張子のカメみたいに首を振っていた古代史ファンは、わたしだけじゃないはず。(笑)

一流の専門家の意見をしっかり取り入れているのだから、当たり前といえば、そうですが、民放では「監修にこの人を使っていながら何これ?」というのがほとんどだから、やっぱりNHKのフトコロ(&予算)の広さでしょう!

NHK制作の考古学CGは、旧文部省が協賛している「発掘された日本列島展」でもビデオ上映されているくらいだから、他ではかなわないでしょうね。

そういえば、先週の日曜日にはCGで「天寿国繍帳」を再現する番組も放送していました。
天寿国とは、阿弥陀如来が作った西方極楽浄土なんだそうです。

いま残る「天寿国繍帳」は鎌倉時代に中宮寺の蔵から発見されたもの。
しかも、それが後に風化してぼろぼろになってしまった。残った布の切れ端を、江戸時代に黒い布に縫い付けたのが、現代の教科書などで知っている姿です。
オリジナルの図像を残していなかったので、いまの絵柄の配列は、根拠のないデタラメという他はないとか。

それをモデルになったであろう朝鮮の刺繍や、敦煌の石窟を参考にして復元するという楽しい推理作業でした。
この刺繍を作ったのが、朝鮮半島からやってきた人々の子孫である王宮の官女なので、その推理の筋道は、だれがみても正しい。
おそらく今回の復元は、これからのスタンダードになるでしょう。

ところで、聖徳太子という人は日本の浄土信仰・阿弥陀信仰にとってスーパー・スターですね。
日本人なら阿弥陀信仰と無縁という人はいない。
たとえ、どんな宗教でもこの考えが浸透している。
死んだ人を「ホトケ」と呼ぶ日本の習慣は、東南アジアの小乗仏教徒なら腰を抜かすに違いない。
これは、日本独自の阿弥陀信仰によるものです。

こうなると、日本人にとって、聖徳太子という人が文化の面でスーパー・スターなのは当たり前という他はありませんね。
それだけではない。
「和(やわらぎ)をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」という日本書紀の十七条憲法は、日本人が集団を作るときの基本的な考えです。
ウソだと思うなら、日本書紀を読んでみることをお勧めします。(笑)
あれには、この国で「良い人」といわれる集団型リーダーの心得が書いてある。
建前としての「ニッポン型経営」は、あれのまるまるコピーです。

聖徳太子という人は、日本人の魂の歴史を方向付け、その集団(国家を含めて)の指導原理を明解に打ち出した。
こんな人を世界史的に探すと、ユダヤ民族のモーセとか、ムスリム(イスラム教徒)のムハンマド(マホメット)くらいでしょう。

たぶん、上宮厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子の本名。生前は上宮皇子《うえつみやのみこ》または上宮太子《うえつみやひつぎのみこ》と呼ばれていたらしい)がほんとうにやった事ばかりでなく、後代のこの国の思想界の巨人たちの理想が投影されていることは間違いないと思います。

でも、それをいったら、モーセもムハンマドもそうですって。

だから「聖徳太子」は歴史的に存在した「上宮太子」ではなくて、ニホンという国の理想そのものなんです。
これからの生き方を模索している21世紀人のわたしたちにとって、「聖徳太子」の存在は新しい理想と生き方を真摯に追及するお手本なんですね。

本木雅弘くんの演ずる厩戸皇子が「和をもって貴しとなす」と、ソル・ギョング演じる新羅の武人・伊真に十七条憲法の構想を語るシーンには、おもわずほろりとしてしまった。

これですね、21世紀の日本は。


追記:
ひさしぶりに「論語を読む」を更新しました。
内容は9月30日発行のメルマガに載せたものを一部手直したものです。
読んでみてください。

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11月 4日

NHKで『聖徳太子への旅 信仰をたどる』を観ました。
「聖徳太子はニッポンの仏教のお父さん」という作家・立松和平氏の意見に納得です。
少しでも日本仏教に関心があれば、そう思わないわけには行かないでしょう。

最澄・空海・親鸞・日蓮たちにとって、聖徳太子のあり方は生き方の基本ですから。
およそ日本仏教でそれと知られた人にとって、聖徳太子とは言葉の真の意味でカリスマそのもの。
日本仏教の理想は、「聖徳太子」という人物に具現しているといっても過言ではない。
いや、それどころか、キリスト教を含めて、日本の精神界の理想像といっていい。

「非僧非俗」という大乗仏教の理想を実現したはじめての日本人が「聖徳太子」と呼ばれた上宮厩戸豊聡耳皇子。
一部には聖徳太子非実在説もありますが、日本の思想界の巨人たちがそれぞれの理想を仮託した存在としての「聖徳太子」像は否定できません。

とくに浄土真宗の「聖徳太子」信仰は、それが非差別民のタイシ信仰との癒着を云々されたところで、価値が減るわけじゃない。

歴史時代の日本人が「人間はいかに生きるべきか」と考えたとき、必ず聖徳太子の名前が理想像として引き合いにでる。
聖徳太子とは、日本人の理想像の代名詞なのです。

考えてみれば、それも無理はない。
「日本」という国を設計した最初の設計者がこの人なのですから。

厩戸豊聡耳皇子が出現する前の日本では、朝鮮半島からの移住者・在来の弥生時代以来の土着豪族(その中には縄文にまで遡る連中もいる)が権力を狙って終わりのない闘争を続けていた。
その連中に「和をもって貴しとなす」という理想を提示したのが、厩戸豊聡耳皇子だった。
これは黎明期の大和朝廷を牛耳った朝鮮半島からの移住者も、この国の先住者の末裔だった土着豪族も掲げることができなかった理想です。

その後の日本という国は、この国家的理想に向かって突き進む。
近代の黎明期にいた織田信長や豊臣秀吉の家系はこの国家的理想を理解できずに滅び、これを体得した徳川家康の家系が300年近い繁栄を誇ったのも当然です。

この原理の失敗は、太平洋戦争の敗戦でしょうか。
でも、その後不死鳥のように再生し、思想家イザヤ・ベンダサン(=山本七平氏)にニホン教とからかわれつつも、バブル崩壊の90年代末までみごとに生き延びた。

とにかくニホン国の文化がアジアの他の諸国とよほど変わっているとすれば、その張本人はこの人ではないかとまっさきに疑いをかけたくなる――それが、聖徳太子と諡(おくりな)された厩戸豊聡耳皇子です。

これは誇張でもなんでもなく、この国の古典を読んでいけばどうしてもそう思わざるをえない。

上野の東京都美術館でやっている『聖徳太子展』の復習にもなりますが、聖徳太子という人は日本人が掲げた理想そのものなんですね。

静岡県の三島市でいまも行われている「聖徳太子講」は職人さんたちが、職能集団としての誇りをこのニホン教の聖者に仮託したお祭りです。
70歳を過ぎた大正生まれの人たちが、経済的なデメリットを承知の上で、三十代の若い人たちに技能を伝えようとする心意気――それが、この「聖徳太子講」を支えているエネルギーなんですね。

物つくりというのは、縄文時代に遡る日本人のルーツだけど、そういう流れの中に「聖徳太子信仰」がある。
これは世界に類をみない特異な宗教現象です。

いや、正確にいえば中世ヨーロッパの聖者信仰には類似したエレメントがあったけれど、あちらではそのお祭りはすでに滅びて久しい。
こうしたものを伝承して次代に伝えようという根性は、70歳が下限で、それを受け継ごうという根性も若い世代では30歳代だけしか持っていない。
とにかく、60・50・40歳代はもうダメみたいです。
世界全体まにあわない。その一人――。
なんかこの国の将来も暗いような……。

しかし、あの「たてまつわへいです!」「なんだよね」という方言色いっぱいの作家が北海道の斜里町で聖徳太子堂を建てた話には感動しました。
立松和平氏は斜里町に山荘を建てて仕事場にしている。そして、毎年法隆寺で修行をしているとか。
その縁で、斜里町に聖徳太子を祭るお堂をたてた。

ご本尊は法隆寺から送られたブロンズ像との由。
この映像を見たとき、じーんときましたね。

故・中村元氏の追悼番組で岩波文庫のパーリ語訳仏典に親しんでいると告白したのをみて、「ををっ」と思ったのですが、今度もまた唸ってしまった。
北海道で聖徳太子を祀るとは思いもよらなかった。
脱帽です!(べつに帽子をかぶっているわけじゃないけれど)

聖徳太子の理想が21世紀の日本の目指す方向じゃないかという立松氏の言葉を聞いていると、なんだか嬉しくなってきた。
関係ないかもしれないけれど、「徳は孤ならず」なんて論語の言葉が思い浮かぶ。

聖徳太子はニッポンという理想を知る日本人を判別するリトマス試験紙じゃないんでしょうか。

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11月 3日

読書日記です。
本日は二冊。
『南無阿弥陀仏』(柳宗悦)
『柳宗悦妙好人論集』(柳宗悦)

昨日は一気に二冊読み切りました。
さすがに眼が疲れたけれど。

柳宗悦という人は白樺派のお仲間で、美術評論家。そして民藝運動の創始者でもある。
ただ、そういう教科書的な定義でくくると、もったいないような気がします。こういう評価はまるで役に立たない人です。
こんなたぐいの評価は、カタログ情報でしかない。他にいくらも代替品があるものについては役に立つかもしれませんが、かけがえのない存在についてははゴミ以外のなにものでもない。

この二冊の本に現れた柳宗悦という人は、第一級の思想家です。
思想という言葉が嫌らしいとすれば、人間といいかえてもいい。

人間とはなんだろう。
どんな人間を、この国の人は理想と考えたのだろう。

あまりにも子供っぽい問いではありますが、人の世の現実を煮詰めて行けば、ここに行きつきます。

こういう問いをはぐらかすのは、一見大人風に見えますが、じつはそうではない。
真っ向勝負をうっちゃる大人は信用する値打ちはありません。
人間として認める必要もない。ただのナメクジです。

子供じみた問いに答えを出そうと努める不器用さこそ、信用できる人間の証しです。
柳宗悦は近代化のプロセスで見捨てられた手作り工芸品に、人間の尊厳を見出した人です。それを今風にいいかえるならば、エコロジー・ホーリズム・トランスパーソナルと変換して良いでしょう。
工業化・大量生産の過程で、失われつつある工芸品に、ものとして尊厳をまっとうして「成仏」する引導を渡したといえる。

これがどれほど偉いことなのか。
人間を廃棄物扱いするリストラの恐怖を身をもって味わう現代日本人ならわかるはず。
100年前に工芸品に対して人間がやったことを、いまは企業が人間に対してやろうとしているわけですから。

柳宗悦は手作りの工芸品とそれを生み出す技能に対して、そんなものは要らないと宣告すれば、やがて破滅がこの国を見舞うと予言しました。
現代日本をみる限りみごとその予言は現実化しつつあります。

近代的な効率至上主義とは別な原理を導入しない限り、早晩この国はどうにもならなくなるではないか。
柳の予言はみごと実現してしまいました。
いまニッポン国の人々は、世界経済のなりゆきについてどうにもできない無力さを感じている。何をどう努力してもどうにもならない。世界全体どうにもならない――というのが実感でしょう。

そういう思いについて、歴史時代の日本人はどう答えたか。
柳宗悦は第二次世界大戦前から1950年代にかけて、過去の日本人たちの探求とその成果をレポートしたのです。
それが、この二冊の本です。

ただ柳のみつけた答えは、決して万人向きとはいえないでしょう。
少なくとも分り易いとはいえない。
それを理解するには、「善人なおもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という逆説を理解しなければならない。

しかし一見逆説に見えるこの言葉は、「自力作前のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」(親鸞・『歎異鈔』)という言葉を踏まえれば、アイロニーというより単純明快な事実でしかない。

単純明快な柳の思考は、現代人にはむしろ逆説的なアクロバットとしか思えない。
なかなか難しいものです。

知人にこのことを話してみたのですが、なかなかうまく説明できません。
まるで外国語を話しているように通じない。

「あなたはあなたのままでいい」
「すべてのものは成仏を約束されている」
――という真実と、しかし意志的な努力がない限り向上はないという現実的な事実。
さすがの柳宗悦もそれを理屈で説明することはできなかった。

その答えは、職人の手作り工芸品のなかに見事に実現されているのですが、信仰の弁証法にも似たそのプロセスを言語化=ロゴス化することは難しい。

実はこのことを、かなり頭脳優秀な友人にえんえんと説明し続け、なおかつ異星人のように言語が通じなかったのです。言葉は虚しいものですね。
これはどういうことなのか。

少なくとも、それがわからない限り、わたしには柳宗悦を語る資格はなさそうです。

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