お気楽読書日記:12月

作成 工藤龍大

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12月

12月19日

昨日は読書日記をお休みしました。
忙しかったのと、なんだかばててしまって。

ここ数日の日記を読み返してみると、ばてているのがはっきり分かりますね。(笑)
そのせいでしょうか、何人かの人から励ましのメールをもらいました。
お心遣い、ありがとうございます。(泣)

それにしても、昨日の雑談モードは長かった。
あれじゃあ、自爆しますね。(苦笑)
こっちはさっと切り上げて、読書日記のほうに力を入れないと……。
もともと中味も、体力もないんだから――

そういう反省にたって、今日こそは軽めにするぞって思います。

ところで、最近子育てがいろいろ言われていますよね。
すこし前までは、パチンコ店の自動車駐車場に子どもを置き去りにして衰弱死させる母親というのが結構報道されていました。

このごろは、そういう事件が多すぎるせいか、新聞ダネにならないのかもしれない。
あんまり見なくなりました。

そのかわり、四歳の子どもを餓死させた若夫婦とか、妻の連れ子を虐待死させる若い夫というのが登場してきた。
問題のトレンドは、幼児虐待に移った感があります。

でも、自動車の中に子どもを置き去りにして、熱死させるのも幼児虐待の一種であることは間違いない。
あれを「子育てがわからない・責任感がない」と認識していたのが、大間違いだったんですね。
子どもを置き去りにして、親が遊び呆けるのは「ネグレクト」(無視)という立派な幼児虐待のジャンルだそうです。

困ったことに「ネグレクト」は犯罪として摘発しにくい。
法律は「法律以前の人倫」を前提にしているから、「人倫」に含まれるべき分野はわざとカバーしていない。
そこまで規制すると、「法律」が円滑に動かなくなるからです。

だから「人倫」を無視した行動は、明白に被害者が出ないかぎりは処罰しないのです。

ところが「ネグレクト」行為は、「人倫」に抵触するだけで子どもが異常行動をとるか、死なない限り、法律の問題とはならない。

このごろ深夜のゲームセンターで幼児を連れて遊びまくる若い夫婦というのがいるそうですが、これは「ネグレクト」行為そのものです。
しかし、現行の刑法ではこれをどうすることもできない。

深夜に幼児をゲーセンで連れまわすなんて、どう考えても異常です。
でも、だれがそれを止められるのか?
現代社会の機構では無理でしょう。

いまのような変化の時代がつらいところは、社会のルールであったはずの「人倫」がまず壊れ始めることです。
社会が壊れるはじめているのだから、それを維持するためのルールがもつはずがない。

いまの日本は豊かだから、「ネグレクト」や「幼児虐待」ですんでいるけれど、歴史時代の日本なら「間引き」「嬰児殺し」となっていたはずです。
中絶手術の発達のおかげで、出産直後に殺す「間引き」はしなくてすむようになったけれど、それと似たことをやっているのかもしれません。

小氷河期という寒冷な時代に入った徳川時代中期以降、日本では「間引き」「嬰児殺し」が盛んになりました。
冗談みたいな話ですが、その風習は明治まで続いていたのです。
富国強兵をめざした明治政府がやめさせたのです。

地球温暖化という暗黒の時代を迎えつつあるからこそ、いまの日本では「幼児虐待」がさかんになりつつあるのかもしれない。
物事を大袈裟に考える癖があるので、余計な心配をしてしまいました。

たぶん、「幼児虐待」はこれからもひどくなる一方だろうなあ。
地球がおかしくなりつつあるから、生物としての人間がまともな育児をするのはとっても難しくなるでしょうね。
本能が壊れているくせに、生物体として環境の異常を感じ取る感受性だけはある。
人間の困った性質です。

これを癒すのは、既存の処方箋じゃあ駄目でしょうね。
それに代わる方法がないか、乏しい頭で考えてみたいとは思うのですが。

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12月18日

とても事実とは思えないようなことが現実にあったんですね。
韓国の自殺幇助少年の事件です。

自殺志願者が「殺してくれ」と依頼して、それを引き受ける!
あまりにも陳腐でミジメで馬鹿馬鹿しくて、おそらく日本の優秀な小説家や若手マンガ家みたいなクリエイターなら、まず書く気になれないでしょうね、こんな話。
太田出版や幻冬社なら出すかもしれないけれど。(笑)

おそらく韓国では、経済改革のせいでそうとう社会が疲弊しているのでしょう。
日本の不況よりも深刻な絶望が生んだ事件と思う他はない。
本日(19日)の新聞にも、韓国のスト多発という報道がありました。

この国はサッカー・ワールド・カップで盛り上がりつつあるけれど、韓国はどうやらもっと大変なことになっているのかもしれない。
こういうとき、韓国語(ハングル)が読めればすぐにむこうのHPにアクセスするのですが……

わたしが読めるのは、文字とおりハングル文字だけであります。
意味はわからない。(大笑い)
つまり平仮名が読めるだけなのですね、これが。

たとえば、ストをつづめたような形をしたハングルを「チャ」または「ジャ」と読むことはわかる。これはたまたま「子ども」という意味だと知っています。
しかし、そこどまり。
本文を読んで理解するにはいたりません。

いったいあの国で何が起きているのか?
これは、きっちり取材したジャーナリストの人の文章で読みたいですね。

以下は新聞をもとにした素人考えなので、あんまり信用しないで読んでください。(笑)

韓国はグローバリゼーションのおかげで国の経済が破綻しました。
その後、IMFだったかの改革が行われて国民は相当な窮乏生活を強いられた。
おかげで、自国の政府がまた財政を行うまでに回復しました。

でも、その後は国営企業の民営化・大手銀行の大型合併で、リストラを口実に首切りがはじまっている。
さらに大宇自動車のような財閥系をささえて大企業ですら、再建のために従業員の三割を対象にリストラを断行している。

日本でいえば、中曽根民営化路線と平成大不況と最近のリストラが一緒に起きていることになりますね。
おまけに破綻した金融の救済に国費が湯水のように投入されながら、なおも改善する余地がみえない。
農業も農民が負債救済を求めて、高速道路で座り込みするほどがたがたになっている。

まるで先が見えないどん底ですね。
こうした状況で、韓国で生まれつつあった中間層が大打撃を受けたのでしょう。

将来の不安と、現実の苦境に生よりも死を選びたくなる人が増えても仕方がない。
自殺志願者の集会まであるというのは、よほどのことですね。

日本が長い時間をかけて断行してきたプロセスを一気にやるわけですから、社会全体が悲鳴をあげている。
自殺志願者が増えるのは無理もない。

産みの苦しみというのも生ぬるい。当事者にとっては地獄そのものの状況なんですね。

でも、これがグローバリゼーションとIT革命の実態なのでしょう。
田原総一郎と東大教授の対談集を読みましたが、この教授はIT革命の本質をずばりと言い切っています。
生産体制を100年前に戻すことだと。

つまり20世紀の生産者とマーケティングが追求した数の論理が破綻するというのです。
シェアという考えもそう。

オン・デマンドで必要なものを、必要があるとき必要なだけ買う。しかも、それには購入者の嗜好を反映したものでなければならない。
企業の押し付けは通用しないのです。

ということは、大企業はもういらない。
直接生産、中間取引をふくめて、大きな身体をしている必要はない。
図体が大きい企業は、恐竜のように飢え死にする他ない社会なのです。

いまの日本もじつはそうした変化のプロセスにあります。
50代の自殺が多いのは、そうした波をもろにこの年代がかぶっているからです。

自殺幇助少年の事件がしめすのは、韓国ではそれがもっと若い年代にかぶっているという事実かもしれません。
新聞報道でみる限り、少年に殺しを依頼したのは三十代前後の人らしいですから。

自殺幇助HPが日本でも増えているのは、変化の波がそろそろと各世代に浸透している証拠でしょう。
四十代の男と、二十代の女がHPで知り合って自殺する事件もありましたよね。
変化の時代はつらいですからね。
死んだほうがましってどうしても思ってしまう。

ただ、これがそのまま悪いことではないような気もします。
波をかぶる世代こそが、次の世界で逞しく生き抜けるように思えるからです。

自殺するほど苦しんだ人が出た世代こそが、新しい世の担い手になるはず。
すると――日本の明日を担うのは、50代以降の人かもしれない。

冗談ではなく、そんな気がします。


追記:

死を選ぶほどの苦しみというのは、実際にあると思います。
友人から知り合いが自殺したという話を聞きました。
その友人は亡くなった人の遺体と対面してから、心身に不調を覚えるようになったそうです。

どうにも表現の出来ないつらさが、どっしりと肩から全身にのしかかる。

病院へいっても駄目でした。
診察してみても、身体には異常はありません。
医者は首を捻るばかりでした。

たまたま、そちらの方面に詳しい人がいてみてもらったら、亡くなった人の念が憑いていたといわれたそうです。
お払いをしてもらったそうですが、効き目はあんまりなかったとか。

しかし、律儀に命日にお参りしているうちに、何年かしてすーっと楽になったそうです。
そのとき、だれに言われたわけでもないけれど、あのつらさは亡くなった人のものだったんだと腹の底からわかったそうです。
あんな苦しみがあったら、死にたいだろうなと。

そのつらさを生きている友人が不思議な作用で分かち合ったからこそ、亡くなった人は解放されたのではないかと、友人は考えたそうです。

生きるのもつらいけれど、死んだからといって「苦しみ」から解放されるというのは間違いらしい。
生きていなければ、苦しみからは解放されない。
生きている人間の助けを借りなければ、死者は苦しみから浄化されないというのが、霊の法則らしいのです。

話が別のほうに飛んでしまいましたね。(笑)
生きている人間がいるだけで、死者には救いになるということです。
たとえ、その人が脳死状態だろうと、寝たきりだろうと、死者には生きている人間が必要らしい。

生きている人の肉体そのものが、苦しみを抱えた死者にとって自然の浄化槽のような役割を果たしているといいます。
「だから、貴方も生き抜いて」とは、すべての死者が生きている人に言いたい言葉でしょうね、きっと。

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12月17日

読書日記です。
といっても、あまり書くことがない。(笑)

不幸な事故というか、読みかけの本が二冊とも行方知れずになってしまいました。
そうカズオ・イシグロとハリー・ポッターです。
どういうわけか、見つからない。

そこで、本の整理をかねて家捜しです。
広くもない家ですが、本だけはあります。
わが書斎(というより物置)は、本で出来た廃墟という趣がありますね。

やっとカズオ・イシグロは見つけましたが、ハリー・ポッターはいまだに見つからない。
外に出かけたときに忘れたんだろうか。
記憶がさだかでないところがあやしい。

ときどき我が家では本の神隠しがありますね。
そういうときは、たいていこちらが煮詰まっているので本などは読まないほうがいいようです。
こっちに準備ができていないから、そういうことになると達観しています。

おかげで別の本を読んでしまいました。
それについては明日にでも書こうと思います。

どうも、本というのは生き物のような気がします。
わたしは相当本を読むほうですが、いつのまにかどれでもオーライというわけには行かなくなりました。
手にとってみて、どうも感じが悪い本は読まないことにしています。

じじつ、そういう本は読んでいるうちに、目が疲れてきて読めなくなるのです。
わたしは相当な速読家なんですが、これはあかんと思った本は駄目ですね。
ぜんぜん読めない。

そういう本には断然、小説が多いのはなぜなんだろう。
仕事で本を読むときはできますが、小説はつまらないと思ったら、もう駄目ですね。
字をみるのさえつらい。

考えてみると、小説は理屈じゃないし、情報でもない。
古今の名作でも歴史小説なんて、現代の歴史の知識からみれば、嘘だらけですね。
歴史を知りたかったら、歴史小説を読むより先に歴史の本をみておかないととんでもないことになる。

いまも現役のベストセラー歴史小説家が、とんでもない時代錯誤をやっている例はいくらもあります。

作家や編集者がどう考えているかは知りませんが、小説はおうおうにして事実関係の間違いを土台にしていることがある。
新刊本屋さんに次々と並ぶ小説は、事実とか正しい知識をあんまり大事にしていなくて、思い込みで勝負しているところがあります。

「詩人は嘘つきだ」と哲学者プラトンが言っているように、文芸とは所詮そんなものなのかもしれない。
だとしたら、小説という嘘のかたまりを読む原動力とは、作家に対する共感しかありません。

理屈や事実を知りたいなら、ノン・フィクションか専門書を読むべきです。
小説はあくまでも眉につばをつけて読まなければならない。

それほどのものでしかない小説に感動があるとすれば、作者への信頼に他ならない。
本は手にとって、数ページ眺めるだけで、それを作ったひとの志みたいなものがわかります。

文章がうまくて、ストーリーが面白くて言うことはないはずの小説が読みたくない理由は、作家とそのサポーターである編集者の「志」が感じられないせいだと思います。
信用する気になれないんですね。

会いたくもないゲスな根性につきあわされるのは真っ平だ――へんくつと言われようと、その一線は動かせない。
わたしはそうとうな頑固もんですね。

そういう偏屈者だから、本もときどき拗ねて神隠しに遭うようです。(笑)
本が消えたときには、頑固なわたしも考えますね。
どっか間違っていたから、本はいなくなったんだと。

こんなふうに冷却期間と反省の時間をくれるために、本は失踪するみたいです。(笑)

それにしても、ハリー・ポッターはどこへ行ったんだろう。

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12月17日

昨日は読書日記をさぽってしまいました。(^^)
メルマガを書いていたら、時間がなくなってしまって。

本を読んだりするだけでなく、家のお手伝いをしないと平和な生活は送れません。
身におぼえのある人は、このホームページをどうぞ。(笑)
http://www.117.ne.jp/~kure/waga/yometop.html
(12月14日現在)
友人の「ぼこ」さんに教えてもらいました。

かなり有名なページらしいです。
Mac関係の雑誌にも連載があったようです。
いや、今もあるかもしれない。(笑)

DOSマシンから、パソコン関連業界に入ったわたしにはマックはよくわからんのです。
したがって、詳細は不明です。
調べてないだけですけど。

そんなことより、昨日で終わったNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」。
やはり予想とおりの展開になってしまった。

初回の関ヶ原合戦からとばしていたし、やけにギャラが高そうな役者ばかり使っていた。
そして、津川雅彦がのりまくっていた。

長年大河を見ている人なら、これはヤバいと思ったはず。
こういう前半にパワーを集中してしまうやり方だと、まず後半はもたないのがNHK大河ドラマです。

津川家康が死んだら、西田敏行秀忠はまず駄目じゃろうと予想するのが、通というもの。
西田は以前の大河ドラマ「吉宗」で証明したけれど、基本的には名バイプレーヤー。
自分だけでは光れない。西田に匹敵する役者とからまないと、真価が発揮できない。

案の定、津川家康亡き後に、西田敏行の仕掛けに乗れたのは「すまけい」伊達政宗だけだった。

もうひとつの不安は、歌舞伎の御曹司辰之助でした。
この人のお父さんは、わたし好きなんですよね。

いまの市川団十郎や松本幸四郎なんかと同じ世代で、この二人と違って頭悪そうなハンサムではなかった。
知性と野性味を両方かねそなえていたカッコいい人ですね。
どうみてもお行儀が良さそうな他の二人とは違う匂いもあった。

ただあまりにも早く死んでしまったのが、残念でした。
そういうお父さんの子でもあるし、またお祖父さんの尾上松緑も名優だった。

だから期待していなかったこともないけれど、古典芸能の御曹司はNHK大河ではどうもぱっとしないジンクスがあります。
野村萬斎も「花の乱」では冴えなかったし……。
でも、あれは脚本が悪すぎたのかもしれない。(笑)

けっきょく「葵 徳川三代」の場合もジンクスはくつがえらなかった。
辰之助が演じる家光がちっとも魅力的じゃない。
脚本のジェームズ三木は、辰之助が「吉宗」のときの中村梅雀みたいに大ブレークすることを期待したのでしょうけれど。
ブレークどころか、大ブレーキだったかもしれない。

最終回の前の回まで、秀忠役の西田敏行を生かしておいたのは辰之助じゃ間がもたないからでしょうねえ。
いったい、どこが「徳川三代」なのか。(笑)

西田秀忠と辰之助家光の回は見ていても退屈でしたねえ。
世にも物好きなわたしでさえ退屈なんだから、世のお父さん・お母さんはもっと退屈だったに違いない。

最終回は西田秀忠が前回に死んでいたんで、どうなるんだろうという興味だけで観ました。
いやー、つまらなかった!
辰之助ひとりだとこうもつまらないのかと……。
やはり、徳川二代にしたのは大正解でした。

ところが、午後8時45分からの15分間は凄かった!
説明担当の中村梅雀さんと鷲尾真知子さんの大暴れ。
それまでの45分間の退屈さを忘れさせてくれる大活躍でした。

45分にいったん終わると見せかけられたときには、「なんだーっ、これは!」と思わず叫んでしまいました。
ジェームズ三木にしてやられましたね。(笑)

第四代将軍家綱が生まれるまでを、たった15分間のタイムリミッドで描き出す。
この演出には……なにもいうことはありません。
見事にはまった快感があるだけです。

しかし……今年の大河をみてつくづく思ったのですが、大河も長くなさそうですね。
もう三十代にすぎたはずの役者たちなのに、正座や歩き方が全然さまになっていない。
外国人が侍を演じているような違和感がありました。

時代劇というジャンルで、伝統芸能の継承が行われていない証拠をまざまざと見た気がします。
そういえば、民放で渡部篤郎が出た「剣客商売」でもそう感じましたね。
演技力のある若手が、時代劇の立ち居振舞いができない。
演技派であるだけに、身体技法と感情表現のずれがいっそうちぐはぐに感じられる。

この流れでいくと、もし時代劇をやりたければ伝統芸能の世界から人材を借りる他はないですね。
ただ、その人が役者としての人間的洞察力がないとどうにもならない。

今回の辰之助も立ち居振舞い、身体技法、着物の着方すべてにおいて、同世代の役者たちとは比較にならない。もちろん辰之助が上ってことです。
辰之助の失敗は、家光の人間性を掘り下げなかったことにつきますね。
なにかのインタビューで、家光をいまどきのキレる子どものイメージで演じると言っていました。
それを読んだとき、たぶんろくなことにならないぞと思いましたが、やはり予想とおりでした。

時代劇ファンとしては、身体技法や着物の着方まで身に付けたうえで、役者として素晴らしい人が現れてほしいと痛切に思いました。

来年の大河はどうかなとちょっと考えてみました。
ただのカンですが、あまり期待できないような気がします。

第一に、テーマが大きい。
第二に、戦国時代や江戸時代ではない。

テーマが大きいと、ドラマとしてはまとめきれないでしょう。個々の役者の奮闘だけが光る散漫なものになるはず。

戦国時代や江戸時代でないと、50代以上の年代が興味を持ちませんね。
この年代はただでさえ保守的だから、自分の守備範囲に入らないものには興味をもたない。
この人々にさえそっぽをむかれると、制作側は焦っていろいろ試行錯誤をする。
しかし、筋が入っていないいきあたりばったりの小手先の作では、視聴者が呆れて見なくなる。

来年の大河は、前半の渡辺謙と後半の和泉元彌の人気が頼りだろうなあ。

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12月16日

今週はチェルノヴィリ原発が完全に運転停止したり、アメリカ大統領が決まったりいろいろありました。
読みかけの洋書もたまったし、どーしましょうか?

ひとつひとつマメに読んでいくしかありませんね。
やれやれです。

本日の雑談モードはちょっと軽めにして、久しぶりにエッセイでも書こうかな。
ここは、日曜の昼間にはお客さんがこないし……。(笑)

ゆっくりとカズオ・イシグロを読もうっと。
このごろ、一日一冊主義のペースも崩れ気味です。

今日は読書とエッセイ書きに励みます。
メルマガも、夜に出します。

いまだ創刊準備号ですけれど……ね。
二号も出しておいて、創刊準備というのもなんですが。(笑)
こんどの第三号で創刊準備号は終了して、来週からは創刊号かな!
もしよければ、登録してやってください。
登録はこちらから。

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「カズオ・イシグロを原書で読む会」のお仲間はとっくに<When we were orphans>を読み終わっていました。
途中経過を報告しあいながら読むつもりだったけれど、残念!
がんばって、読むことにします。

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12月15日(その二)

気分がハイになっている読書家です。(笑)
ついにカズオ・イシグロの新作<When we were orphans>を入手しました。

このあいだ悪口を書いたばかりのネット書店<Skysoft>から届きました。
納品書を見ると、1000円近く安くなっている。
しかもハードカバーだ。

前言をひるがえすようですが(笑)いいですね、<Skysoft>は!
また今度も注文するからね。

われながら、現金なもんです。(苦笑)

それにしても、メーリング・リストのお仲間は十日前に第七章までいっていたっけ。
たぶん、もう読み終わったかもしれない。
MLに二人しかいない「カズオ・イシグロを原書で読む会」の片割れは惨敗であります。

さっそく第一章だけ読んだのですが、う、上手い!
文章がじつに洗練されている。
アメリカのベスト・セラー小説の素朴派めいた文体とは段違いです。

イギリスの書き手はなんとなく知性を感じさせるんですよね。

ネタばれをどしどしやる主義の読書家ですが、まだ第一章しか読んでいないので無理。
これから、どうなるんだろうと楽しみながら読んでいます。

心配していたカズオ・イシグロの新作が到着したおかげで、平行して読んでいる原書が4冊になってしまいました。
うれしいパニックだから、気分がハイになるのも無理はない。

大統領選の残念会で一晩中、ビールを飲みながら踊り狂っていたゴア副大統領とはまるで逆ののりのりムードであります。

しかし、これじゃあ年内にどれも読み終わらんぞ、いったいどうする?
すこし、理性を取り戻して、計画を立てましょう。

20世紀最後の洋書をどれにするか?
やっぱり「カズオ・イシグロを原書で読む会」は裏切れないから、これははずせない。
あとは気楽に読めるハリポタ第三巻かな。

ところで、だれも覚えていないだろうけれど、「曽我物語」の購読もあるし……。
「通辞ロドリゲス」はどうした?
「山田長政」はどうなった?

うーん、こちらの勝手でひっぱるだけひっぱったから、これらの本にも20世紀中にけりをつけたい。
いちおうHP運営者の責任ということで……。(笑)

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12月15日

昨夜ワインなんぞを飲んでいると、河島英五がTVに出ているではありませんか!
そーいや、「酒と涙と男と女」を聞くのも久しぶりだったなあ。

これって、カラオケで歌うとまず女の子に嫌われますね。
なんでか、よくわかりません。

そんなことあ、どうでもいい。(笑)

「元気出して行こう」を聞くのも、ひさしぶりでした。
これは直木賞作家・佐藤雅美氏の原作をもとにしたNHK時代劇「物書き同心 居眠り紋蔵」のテーマ曲だったんです。
館ひろし主演なんでどうかなと思ったら、NHK時代劇のなかでもばつぐんの出来でした。
毎週かかさず見てました。

町奉行所のさえない文書係り同心・紋蔵が、サムライなんですよね。

このサムライという言葉は、むしろ現代語かもしれない。
徳川時代の侍とは全然違う。
あの頃の侍にはサムライはいません。
民間企業の人間から見たら、月給泥棒にちかい小役人根性の塊です。
やる気のある同僚の足をひっぱるという特徴も似ています。

いまでいう「サムライ」は、20年くらい前なら「古武士のような(風格がある)人」と表現されていたはず。
「古武士」という言葉は、いまの三十代じゃあ死語でしょうなあ。

ただサムライには、アナクロ志向の匂いがある「古武士」とは違った面もある。
未知の大海にどどーんと乗り出す感じですね。
咸臨丸で太平洋をわたった若き日の勝海舟や、世界の海援隊をやると豪語した坂本竜馬のイメージがありますな。
海舟や竜馬を「古武士」とはいいません。

サムライってのは、「古武士」のたたずまいと、海舟や竜馬のような勇気・行動力をもちたいと思っている人間のことだとおもいます。
ということは、男だけじゃない。
女の人だって、サムライはいる。

「サムライでいこう!」というのは、元気良く暮らしたいと思う人間の合い言葉だ!

しかし英五はいいことを言ってますね。
「我が為すことの我が思いは
我のみぞ知る」

これこそ、サムライ。
サムライは「男のおばさん」と違って、自己弁護や自己正当化は絶対にしない。

信念をもって、どんなことにでもチャレンジして、断固やりぬく。
負け試合でも最後まで捨てない。
敗戦投手をやらされても、誇りを持って立派な仕事をする。

他人はどう思おうと、自分はサムライだって思って生きていこうじゃありませんか。
世間の目なんてね。
気にするほど、大切なもんじゃありません。

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12月14日

世の中ってものは、かれこれ42年ほど生きてますけど、「わっかんないッ」ですねえ。
わたしはハリー・ポッターの第一巻をたいへん面白く読んだんですが、参加しているメーリング・リストではさんざんに酷評されてます。

「期待はずれだった」
「型にはまっていて、退屈!」
「こんなのより、もっと面白い本がある」 なんてことになっている。(笑)

どうやら、ハリー・ポッターが嫌いな人は、10代前半のヤング・アダルトみたいなものや、ハイテイーン好みの暗黒小説好きらしい。

どうやら、読書する人には子ども時代のハートを持ちつづけて、オトナの思考能力を獲得したタイプと、思春期の感情と思考能力から一歩も抜け出せないタイプがいるようです。

そういうものに興味をもたない老成したタイプもいるではないかという意見もあるでしょうが、わたしのみるところはそういうタイプはそもそも本を読まない。(笑)

TVもビデオも映画も好きではない。
ギャンブルと酒やゴルフだけですね、その人たちの趣味は。
もうひとつは風俗かな……。(笑)

ところで、思春期に固着したタイプは、わたしにとって天敵かもしれない。(笑)
話は合わないし、趣味も正反対ですから。

前にニューズウィークの記事で読んだことがありますが(「3月19日の日記」参照)、思春期の脳は子供時代のスーパー天才能力を失い、大人の経験値も獲得できないひどく特殊な状態にある。
ひとことでいえば、残酷で破壊衝動にあふれ、共感能力が子どもよりもない。
子どもの悪いところと、オトナのいけないところだけを集めた状態になっているらしい。

ちょうど、人類の原始社会で殺し合いをする年代が思春期だった名残かもしれません。
平均寿命がニ十数歳くらいだから、ぺーぺーの兵隊は十代ですね。
二十歳まで生き延びたら、大幹部でしょう。(笑)

人類の歴史をカレンダーにたとえてみれば、思春期のテーマが生殖と殺し合いだった時代はいつ終わったのか?
ほぼ12月31日の午後12時59分00秒くらいだったんじゃないでしょうか。
少なくとも、そう信じたい。

ただそれより前に、そういうシナリオが終わっていたとはどうも信じられないのです。
悲しいことながら。
いや、現代においても、このシナリオは生きています。
アフリカや中東がいい例です。

未開社会ならぺーぺーの戦士として戦死したようなタイプが、現代では生き延びているだけなのかもしれない。

しかし、小説本を読むということは、むしろ思春期の人間にふさわしいような気もします。
知能優秀な人なら情報収集と戦略のために幅広く読書はするだろうけれど、小説なんてものはあまり読まない。

成人して小説などを読んでいるってことが、そもそも大間違いかもしれない。(苦笑)

今からみると冗談みたいな話ですが、内村鑑三のような代表的な明治男は「小説なんて読むとバカになるぞ」と弟子に指導したそうです。
男どころじゃない。
明治女もそうだった。

はやく大人になって、天下国家のために働くのが、男(または女)の生きる道と思い定めていたんですね。
いつまでもガキの気分で、40代にもなった男女が恋愛小説などを読んでいるのを見たら、明治男(女)は木刀か薙刀で襲いかかったでしょうね。(笑)

するってえと、天敵さんのほうがまだ明治男(女)には理解しやすいでしょうなあ。
ええ歳こいて、ハリポタを喜んでいるわたしなどは、妖怪子泣きジジイってことかも?

まあ、そんなこたあ、どーでもいい。
楽しく、ハリー・ポッター第三巻を読んでいます。

世間がなんといおうと、面白そうだと思っただけで、あなたもハリーのお仲間。
いっしょに、妖怪になりましょう。(なんのこっちゃ!)

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12月14日

昨日もメールマガジンを発行できました。
ロゴの一部が等幅フォントだと崩れてしまうという指摘も受けました。
半角スペースと空白スペースが入り混じっていたのですね。
さすがは、プログラム屋さんだ。!
指摘してくれた高校の同級生「おちゃま」さん、ありがとう!

次回までには直しておくからね。\(^o^)/

さて、昨日(14日)にやっと終わったアメリカ大統領選挙。
世紀末にふさわしい混迷ぶりでしたね。
ブッシュ政権の明日はどっちだ!
――なんてね。(笑)

ところで、ブッシュとゴアの演説のテキストを読みました。
なんですねぇ、TVの同時通訳というのは凄いけど、よくわかりません。

要旨だけを、なんとか把握する究極のアナログ思考ですから。
論理の脈絡を予測して、通訳する神業だからなあ、あれは。

そんな芸当は、よっぽど弁が立って、器用でないと無理ですね。(笑)

翻訳者も英語の話言葉では、通訳と同じように、<interpreter>ということが多いようです。
<Translater>(翻訳者)という単語には、アカデミックな感じがあるのかもしれない。

翻訳も通訳も同じだと思われているんでしょうが、人間のタイプとしてはまるで違う。

翻訳が好きな人間はまず同時通訳は嫌いですね。
同時通訳ができるほどの人も、翻訳は嫌いみたいです。
作業としては楽らしいですが、自分の恥を文字に落として残したくないとか。

翻訳者は失敗がへたをすると死後まで残る。
恥を掻き捨てられるタイプじゃないとつとまりませんね、通訳者は。
そして精神的にタフでないと。

耳をすませて、英語と同時通訳を聞き比べていると、ときどき予測した論旨と内容がずれていることがある。
同時通訳者はそのずれを、自分の言葉で補いながら巧みに修正していきます。
しかも、それがあたかも発言者が自然にいっているように見せかけなければならない。

こんなこと、よっぽど要領が良くないとできませんは!

それでいて、視聴者が聞き終った時点で発言者の主張を理解するようにもってくる。
だから、融通のきかないバカ正直ではなく、仕事師としての誠実が求められる。

頭も使うし、体力も使う。
すごいもんです。

以前、仕事でアメリカの一流大学を卒業した海外帰国子女と、OL生活を経験したのちアメリカの大学を出たという方の、二人の同時通訳者に会ったことがあります。
二人とも若くて美人でしたが、それ以上に一を聞いて十を知るという感じでした。

こっちが用意した資料を検討して、次の日の公開セミナーが始まる前に疑問点をもういちど訊いただけ。あとは二日間の日程で、完璧な仕事をしていました。

TVの同時通訳をみながら、そんなことを思い出していました。

追記:
ブッシュ新大統領の演説とゴア候補の敗北宣言のアドレスはここです。↓
(2000年12月15日現在)

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12月13日(その二)

やっといつもの読書日記に戻りました。
一日遅れの日記というスタンスがともすれば、くずれがちなこの頃。
いい知恵もわかないので、このままで行きます。
投げやりなよーですけど、時間にまかせる!
これですね。
「インシャ・アッラー!」

本日もメルマガに熱中していたら、どんどん時間が足りなくなりました。
用心しないと、大変ですネェ。(笑)
ほとんど他人事みたいにいうあたり、気分はすっかりイスラム教徒ですな。
イラン人が聞いたら怒るぞ、きっと。

「アッラーフ・アクバル!」
魔よけに、こう唱えておこう。

さて、メルマガにちょっとしたエッセイを連載し始めたので、ほんとに時間が足りません。
本日もあんまり読書はできませんね。

じつは、悪いビョーキが出て日本語の本をあまり読んでいません。
ビョーキといってもHIVでもないし、エボラ出血熱でもない。
インフルエンザみたいに時々かかる英語小説依存症ですな。

「あに、イヤミったらしいことをほざいてるんだよ!」
といわれそう。
でも、商売が翻訳がらみなんで英語は読書の障害にはならんのです。
……ますますイヤミったらしい。(苦笑)

こんなことをうちの奥さんに言うと、殴られるのが落ちですな。
ドメスティック・ヴァイオレンスな家庭であります、我が家は。(笑)

じつは三冊の英語の本をちゃらんぽらんに読んでいます。
一冊はもちろん <East of the mountain>(David Guterson)。
これ、おもしろいですよ。
翻訳が出ていたら、絶対読むことをお薦めします。

お金に余裕があったら、新刊書店で買ってあげてください。
図書館で読んでも、ブック・オフみたいな古本屋で買っても、残念ながら出版社も翻訳者も著者も潤いません。

図書館派が増えたら、こういう翻訳を出す出版社はなくなるでしょう。

本を図書館で読む人が「何気に図書館の棚から本を取り出す」には、まず本がなければならない。
その本を出すには、出版社と翻訳者が食えるだけの儲けが必要です。
まあ、業界人でない消費者の方には「くだらん寝言だ」と一笑されそうですけど。

このあいだ池袋の新刊書店に行きました。
そのとき、ぴぴんときた日本語の本は、すべて海外文学の棚に並ぶ翻訳書でした!
日本作家の新刊では、宮城谷昌光みたいな「感動請負人」(!)のものしか手にとる気にもなれない。
本の虫が反応しないのです。

そういう状況なので、本好きな人には翻訳を仕事とする人のことを、ちょっとだけ心配してほしいなと思います。(泣)

さもないと、出版翻訳業界は絶滅するかも。

ところで、もう一冊は <Dune : House Atreides>(Brian Herbert & Kevin.J.Anderson)ですね。
懐かしのハルコンネン男爵が歩行もできるし、スリムで筋肉マンだったなんて!
映画「砂の惑星」でスティングの伯父さんだったハルコンネン男爵は、重力中和装置がないと歩けないほど肥満している設定でした。
デビット・リンチ監督は重力中和装置で風船みたいにふわふわ浮く超特大デブに描いていましたね。

で、もう一冊はずっと前に買っておいたハリー・ポッターの三巻目です。
もう四巻目が大ベストセラーになっているのに、まだ三巻目を読んでいなかった。
流行に遅れているというか、へそ曲がりというか。
きっと両方なんでしょうね。(笑)

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12月13日(ぱあと2)

本日(14日)ゴア候補は敗北宣言を出しました。
これでアメリカ第43代大統領はジョージ・W・ブッシュに決定しました。

昨日の昼のNHKニュースで連邦最高裁の判決が出たときは、あいかわらずのNHK節でこれからの事態はまだ流動的だということでした。
だが、アメリカでは専門家たちがゴアにはもう打つ手はないと判断していた。

連邦最高裁から差し戻された以上は、フロリダ州最高裁がゴアに有利な判決をくだすとは考えにくい。
もし万が一ゴア候補が法廷闘争を続けた場合、アメリカは深刻な政治混乱に巻き込まれるはず。

連邦最高裁の判決に、民主党からももう法廷闘争をやめようという声があがった。
けっきょく、ゴアが敗北を受け入れるために丸一日要したというですね。

最後の局面だから、ゴア側からのアクションがあるまで米マスコミも事態を静観していたのでしょうか。
そのあたりが日本と比べると、なんとなくオトナの風格があるような……。

ところで、昨日(13日)はメールマガジン創刊で忙しかったなあ。(笑)
ついでに、掲示板の過去ログまで作ったのもしんどかった。

いちおうインフラ(笑)ができたので、これからどしどし発行してみようと思います。
今夜も8時くらいに発行してみようかな。
「予約配信」という機能があるので、あらかじめ登録しておくと設定した時間に配信してくれるのです。

まあ、このHPの更新告知だからつまんないと思われるだろうから、メールマガジン独自の読み物も用意しなければ。

さっそく登録してくれた皆さん、ありがとうございます。
本日も楽しみにしてください。

まだ未登録の皆さんも、どうぞよろしく。

登録はこちらでどうぞ。

無料メールマガジン公式登録サイトはこちら↓
http://www.pubzine.com/detail.asp?id=10834

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12月13日

ついにメルマガを創刊しました。
本日午後8時に最初の配信です。

登録画面にメール・アドレスを書いて、ボタンを押すと購読できます。
無料ですから、ぜひ!(笑)

登録ページはここです。 でも、このサイトのこのページからでも登録できます。
登録しても、管理者のわたしがメールアドレスを知ることはできない仕組みです。

どうか、ご安心ください。
こんなことを書くと、かえって不安かもしれませんけれど。(笑)

週刊で発行する予定ですが、最初のうちはテストをかねて短い間隔で発行します。
午後8時過ぎに申し込まれた方には、本日の創刊準備号は届かないかもしれません。
でも明日も創刊準備号を出す予定なので、だいじょうぶですよ!(^^)





本日はなれないことをやったので、くたびれました。
読書日記はまた明日にします。
持続力ないなあ、われながら。(大笑)

どうぞ、これからもよろしく。

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12月12日

昨日、池袋の洋書屋に行きました。
どうもハードカバーやペーパーバックも含めて、書籍はかなり品薄になったように見えますね。

いまどき洋書を読む人はネット書店を使うからなあ。
ふりで本屋に入るよりも簡単ですからね。
売れているはずの本でさえ、一冊あるくらい。
経営はそうとう厳しそうです。

そのうちここの洋書部門は廃止になるような気がします。
でも、そのうち日本語の本も洋書みたいなことになりそうな気がします。
この書店は洋書と和書を取り扱うのですが、和書でも探していた本は見つからなかった。
そうなると、もうネットですね。
書店から取次ぎ業者を通して注文を出して、ずーと待った挙句に在庫はないなんてことは結構ありますから。
もう書店で本を注文するのは、よっぽど奇特な人でしょうね。

ただ、こうした流れに安易に乗っかるのもどうかということを昨日、経験しました。
参加しているメーリング・リストでカズオ・イシグロの新作<Whe we were orphans>を原書で読もうというプロジェクトがありまして、わたしもさっそく名乗りをあげました。

ネットで検索したら、ネット書店<Skysoft>の割引率がいちばん良かったので、注文しました。
ハードカバー版が500円以上も安くなったので、大成功!
と思いました。
四週間近く前です。

これでめでたしめでたしと思ったのですが、まだ手に入っていません。
<Skysoft>のサポートにメールを出すと、意外なことがわかりました。

このネット書店は国内にいっさい在庫をもたないで、アメリカから出荷するシステムになっています。
どうやらアメリカ側からまだ出荷されていないのですね。

どうりでWEB上の「お届けステータス」で配送状況をチェックしても、入荷待ちのはず。
しかも、アメリカから入荷したあとで、宅配で三日、書店で受け取ることにしたら5日〜1週間待たされる。

こうなると、アメリカのアマゾン・コムやバーンズ・ノーブルに注文して船便で待つのとほとんど同じですね。
これには、驚きました。

そして、もうひとつ最大の痛恨事があります。
さっき言っていたことは反対に、池袋の書店に<Whe we were orphans>のペーパーバック版があったのです!
しかも価格は、35%引きのハードカバーよりも安かった。
よっぽど買ってしまおうかと思いましたが、せっかくハードカバーを注文したのだからとやめました。

それで、<East of the mountain>(David Guterson) や<Dune : House Atreides>(Brian Herbert & Kevin.J.Anderson)を代わりに買ってきたのでした。

<Dune : House Atreides>は、Brian Herbert の父親 Frank Herbert の大河SF「デューン」シリーズの新作です。
フランク・ハーバートが死後に残したメモから、息子ともうひとりの作家が書き上げたのです。
いつかはだれかがやるとは思っていたけれど……
息子だから、まあいいか。(笑)

「デューン」は20世紀最高のSFだとわたしは思っています。
そういう熱狂的なファンが多いのか、今年のSFベーパーバック部門では<Dune : House Atreides>がダントツで売上げ一位だったそうです。

SF作家が宗教や人類学テーマを扱うと、ほとんどの場合出来は絶望的です。
そうならないのは、ル・グインとハーバートしかいないような気がします。
粘り強い持続的な思索力がないと、こういうテーマはまずダメですね。

思考的体力がない日本作家は、この手の作品はまずむかない。ただし、ほとんどの読者にもそういう体力はないから丁度いいのかもしれませんが。(泣)
そういうテーマを好む人は、まず日本SF作家は好みますまい。(←独断と偏見……苦笑)

「デューン」は早川書房から「砂の惑星」として翻訳が出ています。
ただ最近はラストの二作<砂漠の神皇帝>や<Chapterhouse of Dune>(邦題は忘れました)の翻訳を書店では見かけません。
思索的要素がいっそう強くなったこちらのほうは、日本の読者には好まれないのかもしれません。

余談が長くなってしまった。(笑)
話を戻すと、ネット書店で今回注文したのは失敗でした。
まず手近な洋書屋を回ってみる手間を惜しんだのが、敗因なのはわかっています。
手間を惜しむとろくなことがないと痛感しました。

買ったばかりの<East of the Mountains>と<Dune: House Atreides>を読みながら、カズオ・イシグロの新作が入荷するのは気長に待つことにします。
それにしても、年内に手に入るかな?

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12月11日

(午後の更新)
ごめんなさい!
洋書屋さんに寄って帰宅が遅れました。
本文のアップは明日にします。
<East of the mountain>(David Guterson) という本を買ってきました。
もしかして翻訳が出ているかな?

帯に「死よ、光よ」と書いてあったから、これが邦題かもしれません。

この著者は「ヒマラヤ杉に降る雪」を書いた人ですね。
鈴木杏がでていたとかゆー映画にもなりました。
詳しい話はある程度読んでから書くことにします。

それにしても、ひとつ口惜しい発見もありました。
それについてはまた明日。


(午前の更新)
本日は所用で、更新が遅くなりそうです。
では、また後で。(^^)v

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12月10日(その二)

本日の読書日記は「曽我物語」はお休みです。
どうも考えがうまく整理できないので、もう少し時間が要りますね。

「曽我兄弟」の復讐というよりは、頼朝暗殺という大陰謀が隠されているように思うのです。
それと、鎌倉北条氏が関東の正統な支配者であることを正当化しようとする作為がひしひしと感じられます。

都の鬼門を霊的に防衛するために、都では比叡山延暦寺を建立した。
この曽我物語では、鎌倉の霊的防衛をおこなうのは箱根権現であるということを印象づけようとしていますね。

笑ってしまいますが、鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」にある曽我兄弟事件の記述。
これは「曽我物語」のテキストを流用しているのです。!
「吾妻鏡」というのはある意味とんでもないしろもので、その戦争記述や事件の根本資料は「平家物語」や「曽我物語」「承久記」なんて文芸なんです。
公式文書なんてものはどうやらなかったらしい。

「吾妻鏡」を資料と呼ぶなら、「平家物語」のほうがもっと史料価値があると最近の学者さんたちが考えるようになっています。

頼朝が死ぬ前後にかぎって、「吾妻鏡」の本文がないという有名な事実もあります。
たぶん、そこだけ記録が紛失したわけじゃありませんね。
もともとそのあたりの記述は書かれなかったのだと、多くの歴史学者が主張しています。
わたしもそう思います。

そういうことを考え合わせてみると、「曽我物語」にはいろいろな謎があります。
鎌倉武士たちのなかにあった頼朝暗殺計画。
北条氏の政治的正統性。
箱根権現の霊威。
ざっと、こうした流れが一本の線としてみえてきたように思います。
すこし整理しておかないと、わけがわからなくなりますね。(笑)

ところで、昨日もNHKスペシャルを見てしまいました。
「ハイテクが支える私の人生」というタイトルで、ハイテク機器を利用して障害者に就業機会を提供するアメリカ政府の先進的な取り組みを特集したものです。

しかし、アメリカのバリア・フリー社会ぶりはすごかった。
それもレーガン政権やブッシュ政権のころから、努力を積み重ねてそうなったんですね。
アメリカが不況で、労働者がハンマーで日本車をぶちこわすパフォーマンスをしているいっぽうで、こんなこともやってのける。
アメリカの懐の深さには、驚かされます。

ブッシュ大統領の時代に制定されたADA(アメリカ障害者法)というのが、高価なハイテク障害者用機器を無償で障害者に与えることを可能にしたのだそうです。
労災で両腕を失った従業員に3万ドルもするハイテク義手を無償提供する電力会社や、全盲の離婚女性に高価なディスプレー音声読み取り装置や点字ディスプレーを与えて雇用する証券会社もありました。
三十歳をこえた五人の子持ちの全盲女性は、その前に法律関係の職につくためのコミュニティ・カレッジで職業訓練をうけていました。その費用も政府が出している。
日本の現状を考えると「この格差はなに?」と考え込んでしまいますね。

アメリカが障害者福祉にちからを入れざるをえなかった原因はベトナム戦争だったそうです。
国のために戦場へ行った若者たちが障害者となって帰還してきた。
どこかの国と違って、アメリカ政府は見捨てるようなことはしません。
しかし、そのおかげで福祉手当てがどんどん必要になって財政難のおかげで立ち行かなくなりつつあった。
その時点で、障害者が働くことで、福祉予算を減らして、障害者という新しい労働力で社会全体の利益を図る。
アメリカは不況を逆手にとって、ハイテク産業の育成とバリア・フリー社会を実現したということです。

80年代いっぱい続いた不況が、アメリカの好況をささえる土台になっていたとは。
自分を変える勇気があれば、どんな状況だってプラス材料になるんだと、どやされた気がします。
「不況もまた良し!」ということは、正鵠を射ているかもしれませんね。

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12月10日

本日はちょっと変わったアップの仕方をしてしまいました。(^^)
前の日記=12月11日の日記

「アメリカ最高裁の決定で、ゴア陣営は大打撃!」
という大ニュースがあったので、一日遅れの日記を書くポリシーを曲げてしまいました。
今日は、新聞休刊日なので、この日記を読んで頂いている方へのちょっとしたサービスのつもりです。

ここを読んでくれるのは、常連さんばかりなものですから。

さて、昨日は武道・格闘技の日だったんでしょうか。
そっち関係のニュースが多いですねえ。

YARAWAちゃんの福岡国際女子柔道で11連覇するは、アーネスト・ホーストがレイ・セフォーに判定勝ちしてK−1の3連覇を達成するは、連覇ブームなんですかね。(笑)

YARAWAちゃんの後輩で、ウルトラマンのアルカイック・スマイルを思わせる容貌の日下部基栄選手も女子57キロ級に優勝したとか。
こっちも目出度い話です。

ところで、昨日は図書館で読書と調べものに熱中したあと、自宅でちょっと変わったものを見ていました。
全日本空手道選手権です!

フル・コンタクト空手を見慣れていると、どうも一本でポイントを競うタイプの空手には違和感がありますね。
選手には申し訳ないけれど、試合のほうは読書しながらいい加減に観てしまいました。

ただ空手の形を競うほうは面白かった。
名前をメモしておかなかったので忘れたけれど、女子優勝者のスーパーリンペイという型は見ごたえがありました。

スーパーリンペイという名前は、どうも英語っぽく聞こえる。
空手の形では「平安」を「びんあん」と読んだりするから、「りんぺい」という沖縄空手の型があってもからおかしくない。
リンペイという古い型に「スーパー(super)」という英語名をつけて新しい競技型を作ったのか!
――と勝手に呆れていたら、そういう誤解を想定していたのでしょう。
解説者の方が言ってましたね。これは英語っぽく聞こえるけれど、「一脚」を「すーぱー」と読むのだと。
「むはははっ、ばーか」と自分で自分を笑ってやりましたよ。(泣)
(自分のバカさを後で再確認しました。
空手の本をなにげなく見ていたら、「すーぱーりんぺい」とは
「一〇八」という数字のことなんだそうです。
解説者の言葉をうろ覚えにしていたおかげで、
またバカを曝してしまいました。(泣)

この女子選手の動きは、とにかく優美で美しい。
たしか若井敦子という29歳の選手だと思いましたが、記憶がさだかではありませんね。(苦笑)
まちがっていたら、ごめんなさいまし。

ところで、男子の方も優勝した選手の形はみごとでした!
豪快な横蹴りがみごとな力強い演武です。
こちらは優美というより、パワーの美。
形というのはじつに美しくできていると思いますね。

坊主頭で髭をはやしたこの選手はなんといったっけ。

あー、メモしておけばよかった。
記憶力減退がとまらない!
もう老人力かな。(泣)

それにしても、前夜のNHK大河ドラマは西田秀忠の最後の出番でした。
当初からおそれていたとおり、津川(雅彦)家康が死んでから、いっきに退屈になりました。
「吉宗」のときは、前半の大滝修治、後半の中村(梅雀)家重に救われていたけれど、今回は尾上辰之助はあかんかった。(溜息)
期待していたけれど、化けませんでしたね。
徳川家重みたいに本物は人間的面白みのない人が、「吉宗」では梅雀のおかげで人気爆発でした。
今回の辰之助家光は史実とおりのつまらないキャラクターになってしまいました。
これなら、だれがやってもおんなじだーあ。
来週が最終回だけれど、西田敏行も出ないし、もう見るのはやめようかな。
――なんて迷っています。

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